そこにあなたはいる。
ほんのすぐ側。


すぐ近くにあなたはいる。
目と鼻の先。


そう、楽に近付けそうで、
簡単に重なり合えそうで、
容易に触れ合えそうで、


紙一重。


……僅かなズレ。


きしみだす。
歪みだす。


音を立てて、崩れだす。


触れられない。
溶け込めない。



手を伸ばしても、伸ばしても、


……届かない。





〜prologue〜





あの人は最後まで、優しい人でした。
暖かい、人でした。
底抜けにお人好しと言うわけでもないのに、何故か甘い人でした。


あの人といると私は、優しくなれました。
意識して創る自分を忘れることが出来ました。
解きほぐすことが出来ました。


解放されかけたのです。
私は。


そう、あと一歩の所まで……。


それを阻んだのもやはり、私でした。
あの人は、変わらなかったから。
変わらないでくれたから。


そう、私だけ……私だけが……。








あいつが消えてからあたしが消えたことに気付いたのは、
迂闊にも、かなり経った今だった。
あたしだけじゃなくて、皆が同じだったから……。
皆、消えて無くなっていた。


あたしはあいつと上手くやるつもりでいた。
上手くやれるつもりでいた。

あいつの気持ちは曖昧だったし、
あたしだって、素直じゃなかった。

それでも、変わらない素振りを続けて、これからも続いていけると思っていた。
あいつとの距離を保てるのは爽快だったから。
その距離自体が快感だったから。


あいつがあたしにだけ気を遣わないでくれたのが、誇りであり、勲章だった。
だから、看取れたんだと思う。
あいつの本当の姿を見ることが出来たんだと思う。


それとともに、自分の全てが消えていったことに気付かなかったのは、
浮かれていたのかも知れない。
心の何処かで。
号泣に籠もった優越感に浸りながら。








最悪の事態。
それを避けるために努力してきた。

無くしたくないもの。

それを守るためになら、私はなんでも出来た。
自分を捨て去ることも、躊躇わなかった。

あの人の思いを無視することさえ、出来た。
自分の心を偽ることなど、簡単なことだった。


だから、最悪の事態は起きなかった。
そう、最悪の事態は……。


そんな私に、何が残されたのだろう。


ちっぽけなもの。

私は、何を得たのだろう。
何を守ったのだろう。


無くしたくないものを守ったわけではなかったのか。
どうしても欲しいものを我慢した結果、
失いたくないものを守ろうとした結果が、
この空虚感というのなら随分皮肉なものだ。


空虚感。
そう、私がえたものはたった1つ。
これだけが、私の行為に対する報酬だった。


笑みがこぼれそうになる。
自嘲。








願ったもの。
願い続けたもの。

それを与えてくれた人。
私の願いを叶えてくれた人。


あの人はいない。
私の願いそのものだった、あの人はいない。

願ったのに。
願い続けたのに。


持続性はなかったみたい。
一瞬の魔法。


灰被り姫を思い出さずにはいられない。


夢は醒めるもの。
これは夢だったかな。


だったら、どうして、最初から教えてくれなかったんだろう。
何故、言ってくれなかったんだろう。


消えていった魔法。
いなくなったあの人。


お兄ちゃん……。


大事な、もの。
大事な、ひと。
とても……大事な、こと。


願いは叶えられた。
ちょっとだけ。
一瞬だけ。


嬉しくない。
全然、嬉しくない。








壊れたもの。
壊されたもの。
閉じ籠もるもの。
閉じ籠められたもの。
消えるもの。
消されたもの。
失うもの。
失わされたもの。



ただただ、残された人々。
ただ、消えた人。



笑顔を見せて。
もう一度。

泣くのをやめて。
一度だけ。

怒りを捨てて。
一度きり。



残された痕。
唯一の名残。


何もかにもが消えてしまった今でも、それは続いていた。
薄れながらも。
掠れながらも。



なぜなら―――



彼は確かに存在していたのだ。