「ところで、キミ、彼女の絵は順調?」 「まあな。あと少しっていうところだな」  いつの間にか昼食は御薗先輩とばかりとっているようになっていた。  今日は天気がいいので屋上を選んでいた。 「そう‥‥スランプを脱出した、っていうわけね。君影さんに言わせると、呪いを祓 ったっていうところかしら」 「御薗先輩は、呪いなんてものはないって言っていただろう?」  心理操作に過ぎないのだから呪いというものは存在しないと。 「そうよ。何か間違えていると思う?」  この話題になると御薗先輩は自分でも気づいていないようだが、ややムキになると ころがある。挑むような口調だ。 「いや、もっともな話だと思うぜ。だけど、それは呪いが存在しないって理由にはな らないと思う」 「そうかしら?」 「逆を言えば心理操作を行う行為自体が、呪いや、まじないをかけるということにな るんじゃないのか?」 「まあ、そう取れなくもないと思うけど‥‥」 「そして、彼女の言い方を借りればオレは自分で自分に呪いをかけていたということ なんだろうな。周りがどうなんてただの言い訳で、描きたいものを見失っていた自分 に気づくのが、怖かっただけなんだ」 「それで、君影さんが描きたかったものだっていうわけ? 昼間からのろけ話なんて 聞きたくないわ」 「描けるっていうことは百合奈先輩を描きたいと思っていたからだ、それは認める。 でもちょっと違うんだ‥‥百合奈先輩には悪いけど」 「きっかけさえくれれば誰でも良かったというわけかしら」 「いや違う。百合奈先輩でなくちゃ駄目だったと思う」 「そうかしら」 「ああ」 「彼女が綺麗だから? それとも、言い方は悪いけど同情からかしら?」 「そういうことじゃないんだ」 「じゃあ何よ?」 「御薗先輩のおかげだよ」 「私?」 「御薗先輩がはっきりと言ってくれなかったらオレはまだ気づくことはできなかった と思う」  きっかけは百合奈先輩だった。  オレの今の状況を彼女が呪いという言葉で形にしてくれたのが始まりで、それを御 薗先輩が否定することで、その正体が暴かれたようなものだ。  だからこそ、オレは御薗先輩のおかげだと思っている。 「言い方は悪いけど、オレが百合奈先輩と話すようになったからこそ、今こうして御 薗先輩とも昼飯を食べていられるんだと思う」 「どうしちゃったのよ、急に持ち上げたりして。気持ち悪いわね」 「御薗先輩には迷惑かも知れないけど‥‥」 「迷惑だったら私はここにはいないわ」 「そうかな?」 「ええ」 「それで、キミは君影さんのことをどう思っているのかしら?」 「何とかしてあげたいと思ってる」 「それだけ?」 「今のところはな」  そしてきっとそこまでだろう。  オレにとっての百合奈先輩への思いは、オレのお節介な性格から来ている。  毎日起こしに行っている天音は勿論、初めての授業に緊張する悠姉さんに感じた思 い、部活を頑張っている柚子、そしてオレと同じ境遇だった恋、彼女達への感情と根 っこは一緒だ。  オレは呪いという言葉に囚われている彼女を救ってやりたい。  もっと笑わせてやりたい。  そんな思いが、ここまでオレを動かしている。  その思いは今、目の前にいる御薗先輩にも向けている。  そして、この思いもまた皆と一緒のものなのだろうか。 「うらやましいわね。君影さんはなんだかんだ言って、少なくともキミに気にかけて もらえるんだから」 「だけど、百合奈先輩はみんなに拒絶されてるぜ。御薗先輩のほうがよほど人受けは いいだろう?」 「受け入れるっていうのは、人の良いところ、悪いところ‥‥全てを含めて愛してあ げられるっていうことよ」  愛してあげられるかどうか。  オレは愛しているのだろうか。 「私のことを受け入れてくれる人は、残念ながら、今のところいないわね」 「そんなことはないだろう?」  反射的に答えていた。  感情が僅かに乱れていた。 「あるのよ。全てを受け入れてくれる人なんて、そうそう転がっていないんだから」 「オレじゃ、駄目か?」 「‥‥本気で言ってるの?」  小馬鹿にしたような表情。  彼女にしてみれば、何を言っているんだと言うところだろう。  いや、オレ自身もちょっと驚いていた。  こんなことを言うつもりではなかったのだから。  だが、言ってみてそれが自分の正直な気持ちなのだと妙に納得もした。 「ああ。そのつもりだ」 「‥‥‥」 「‥‥‥」 「君影さんはどうするつもり?」 「御薗先輩が今までどういう目で、オレと百合奈先輩のことを見ていたのかはよく知 らないけれどもオレと先輩は絵描きとモデルだ」 「君影さんも本気でそう思っているとでも思うの?」 「彼女は関係ない。オレの気持ちは変わらない」  彼女はきっとオレに好意を寄せていたと思う。  そしてそれが叶わないことも気づいていたように思える。 「今まで散々ちょっかいを出しておいて、今更また悲しませるつもり?」 「じゃあ御薗先輩は百合奈先輩がオレと出会う前の状態のままの方が良かったのか?」 「‥‥その言い方はちょっとズルいと思うわ」 「だろうな。けど、オレは誰に対しても嘘はついていない。百合奈先輩に対しても、 御薗先輩に対しても」 「‥‥もう一度聞くけど、本気なの?」 「ああ」 「キミって、突然大胆になるわね」 「かも知れない」 「でも私は‥‥」 「答えは後でも構わない。それよりも大事な話があるんだ」 「大事な‥‥って、この話よりも」 「ああ」  即答すると、御薗先輩は呆れた顔をする。 「‥‥キミって凄く変ね」 「たまに言われる」 「それで?」 「百合奈先輩の呪いことだ」 「‥‥」  表情が変わる。 「楽しい話じゃない。それでもいいかな?」 「嫌だって言ってもするつもりでしょう?」 「いや、嫌ならこのまま立ち去っても構わない。その代わり、さっきの言葉は撤回さ せてもらう」 「さっきの言葉って、キミねえ‥‥」  再び呆れたような顔をする。  当然だろう。  オレの方から言い出しておいて撤回もないものだ。  けれども、真剣だった。 「キミって相当変ね」 「そこまでは言われたことはない」 「いいわ。何でも言って頂戴」  御薗先輩は覚悟を決めたように座り直した。 「御薗先輩自身が話してくれた話と、百合奈先輩がポツリポツリと話してくれた話を 重ねてみると、該当する人間は一人しかいないんだ」  御薗先輩の身体が微かに強ばったように感じる。表情は開き直っているように不適 な笑みを作ってはいたけれども。 「単刀直入に聞くけど、小学生の頃、学校に百合奈先輩の呪いの話を広めたのって御 薗先輩だろう?」 「‥‥!」  御薗先輩の顔つきが変わる。  振りかえると、百合奈先輩がドアのところに立っているのが見えた。 「あ‥‥」 「百合奈先輩‥‥」 「わ、私は‥‥その‥‥」 「いいのよ」  動揺するオレ達を余所に、さばけた表情で御薗先輩は声をかけた。  いやさばけたように見えたのは錯覚で、明らかに彼女は怒っていた。 「‥知ってるくせに」 「え?」 「元々の原因は私だってこと知ってるくせに、何で受け入れちゃってるのよ」  もう既に御薗先輩はオレを見ていなかった。  全ての言葉が百合奈先輩に向けられる。 「それは‥‥その通りですから」 「何認めてるのよ! 大体、あなたがそんなんだから‥‥」  御薗先輩がそこで辛そうな顔をして横を見る。  百合奈先輩の顔を見ていられない。  そんな仕草だった。 「そんなんだから、何もできないんじゃない」 「‥‥え」 「あなたがそんなんだから、今更何もできなくなっちゃったじゃない!」  怒っているような、泣いているようなそんな顔だった。 「わざとじゃないかって思いもしたわ。これがあなたの抗議なのかともね」 「そんな、私は‥‥」 「もうそんなのはどうだっていい! 全て悪いのは私よ。ええ、そうよ。今だって自 分から謝っていればいいのにあなたのせいにしてるんだもの。でもね、でも、ずっと そうしているあなたを見て私が喜んでいたとでも思ってるの!? ‥呪詛返し? 私 が呪いなんて話、信じていたとでも思っているの!?」 「瑠璃子さん‥‥」 「ずっとずっと‥‥いい加減にしてよ‥‥」  奥歯を噛み締める音がはっきりと聞こえた。 「私の身にも、なってほしいわ‥‥あなたがいたおかげで、私はずっと‥‥」  苛立たしげに髪を肩に掛った髪を手で払う。  ここまで感情を激しくするのは始めて見る。  相当溜まっていたものがあるのだろう。 「御薗先輩も百合奈先輩もオレも結構似ているのかもしれないな」 「何がよ」  オレがそう言うと、御薗先輩が噛みつくようにこっちを見た。 「弱い自分を認めたくなくて、どうにかして全てを人のせいにしようと、自分の認識 を都合良く書き換えている」  オレが御薗先輩の本心に気づいたのは、彼女がオレの絵のことで本気で言っていた ことからだった。  彼女はオレの絵の描けないという呪いの正体を、自分自身の今の立場と同じだと自 分でも気づかないうちに知ってしまっていたのだろう。  彼女はオレに対して言っていたことを、そのまま彼女自身に向けて言っていたのだ ろう。そのことに目を背けてい続ける自分に対して。 「私は‥‥」 「君影さんと一緒にしないで。私は、そんなに弱くない。全部、努力して勝ち取って きたんだから」 「初めにライバルであるべき人物をおとしめてだろう? そんな勝利になんの意味が ある」  百合奈先輩を指差しながら言う。 「いい加減にして‥‥私は」 「御薗先輩、先輩ももう知ってるんだろ。先輩と百合奈先輩の認識が違うんだと」 「‥‥」  呪いという言葉は、当時の御薗先輩にとっては子供の些細な陰口の一つにしか過ぎ なかったのだろう。  けれども、百合奈先輩にとってはそうではなかった。 「正直、御薗先輩自身どこまで気づいていたかは知らない。人間の脳は自分に都合の 悪い記憶はなくしたり改ざんさせたりすることがあるというから。でも、御薗先輩自 身が負い目を感じていたからこそ、オレに突っかかっていたんだろう?」  子供の頃の自分が原因で今の百合奈先輩がある。  それに彼女は気づきたくなかった。気づいても無視したかった。  自分が悪いと認めたくない以上、悪いのは相手のせいにするしかない。  オレが絵に対してやっていたそんなからくりを御薗先輩は自分にしていたのだ。  あんな言葉だけの呪いなんか信じる百合奈先輩が悪いのだと。 「みじめよね」  ポツリと御薗先輩が言う。  自嘲の籠った一言だった。 「全てはキミの言う通り。君影さんが羨ましかったのよ」 「え‥‥」  百合奈先輩が驚いたような顔をする。 「そう。生まれつき、あまり丈夫な子じゃなかったおかげで、いつもチヤホヤされて」 「そんなもの、羨ましがることじゃない‥‥とは言えないか」 「わかる? 片や私は跡取として余計な‥‥止めましょう。言えば言うだけみじめな だけだわ」 「‥瑠璃子さん」 「どう? 君影さん。更に軽蔑した? それとも可愛そうだと憐れみの目で見る?  私はどっちでも構わないわよ」 「‥‥駄目なんですか?」 「え?」  呟くような百合奈先輩の言葉に、聞き返してしまった。 「私は昔からずっと瑠璃子さんのことが好きです。今でも変わりません」  キッと御薗先輩が百合奈先輩を睨みつける。  彼女はこの百合奈先輩の人を憎まないこの態度が却って苛立たしいのだろう。  そしてそれが八つあたりであり、醜い真似だと気づきたくないからずっと全ての非 を百合奈先輩に押しつけてきたのだろう。  そんな自分を誰よりも憎んでいるのは、きっと彼女自身だ。  百合奈先輩がオレを見て訊ねる。 「大輔さん。瑠璃草の花言葉をご存知ですか?」 「『私を忘れないで』か?」 「‥‥」  御薗先輩の向ける視線が痛いが、そうしている御薗先輩の方がもっと痛いはずだ。 「私は一度だって、瑠璃子さんを憎んだことなんてありませんよ。大輔さんに出会う までは、この学園では瑠璃子さんしか私を見ていませんでしたから」 「それは君影さん、あなたがそうしたことじゃない」 「そうですね。誰にも見つめられないように過ごしながら、誰かに見つめられること を望むなんて、矛盾していますよね」 「それがわかっててどうして‥‥」 「わかっていなかったんです。だから自分でもどうしていいのかわからなかったんだ と思います」 「だからオレに自分の絵を描いて欲しがったのか」  全て、納得した。 「私はいつ消えてしまうか分かりません。誰からも見つめてもらえることなく、この まま消えていくことが辛かった。でも、私は呪われていたから‥‥それだったら絵の 中の私ぐらい、誰かに見つめてもらいたかった。君影百合奈という存在をこの世に残 しておきたかった」 「そうか‥‥」 「でも、今ここにこうしていられるのはやっぱり大輔さんと瑠璃子さんが私を見つめ てくださっているから‥‥だから嬉しいんです。二人がいてくれることが」 「‥‥」 「だから瑠璃子さんはどう思っているのか判りませんが、私は瑠璃子さんに感謝して いるんです。私が呪われているということで、瑠璃子さんの世界に存在していられた のですから」 「馬鹿みたい‥‥」 「ええ。馬鹿なんですよ、私」 「本当に馬鹿だわ」 「はい」 「‥‥」  嬉しそうに頷く百合奈先輩と、苦渋から苦笑いに変わる瑠璃子先輩。  その二人を見てから、百合奈先輩に声をかける。 「その、百合奈先輩。絵の方だけど‥‥明日で良いかな?」 「はい。すみません、大輔さんにまでご迷惑をおかけしてしまって‥‥」 「言いっこなし。オレも先輩たちのおかげで随分立ち直れたし」  百合奈先輩がオレに感謝するのと同じ様に、オレも百合奈先輩に感謝しているのだ から。誰が誰にということはないのだ。  そして御薗先輩の方を向く。  御薗先輩はその視線を逸らすように横を向いた。 「オレのこと、嫌いになったか?」 「それは‥‥私の科白じゃないの?」 「オレは御薗先輩の全てを受け入れられる自信はあるぜ。先輩の良いところも、悪い ところも全て」 「‥‥」 「だからオレの気持ちは変わらない。後は先輩の返事を聞かせてくれ。今日は色々あ ったし、さっきも言ったけど今すぐでなくて構わないから‥‥」  そう言ってから帰ろうとすると、 「待って」  強い口調で御薗先輩から呼びとめられた。 「君影さん」 「はい」  オレが立ち止まると、御薗先輩はずっと横にいた百合奈先輩の方を向く。 「黒百合の話よりいい話、教えてあげるわ」 「え‥‥」 「スズランの花言葉、知ってる?」 「‥‥『幸福が訪れる』ですよね」  百合奈先輩は質問の意図を判りかねた顔をしている。 「そう‥‥それでスズランの別名、知ってるかしら?」 「君影草ですよね。でもそれは‥‥」 「スズランって百合科の花じゃなかったかしら?」 「え‥‥」  虚を付かれた顔をした。  瑠璃子さんの言葉の意味が彼女にははっきり判ったらしい。 「影の百合だから黒百合というのと、どっちが信憑性あると思う?」 「あ‥‥」  遅れてオレも声をあげてしまう。  花言葉の本まで借りて読んだりしたのに、そこには気づかなかった。  実際、詳しい本でも読まない限りは分からないことだったのかもしれないが。 「あなたのお母様はご自分の分まであなたに幸せになって欲しくて、スズランの名前 を付けたんじゃないかしら?」 「わたし‥‥私は‥‥」 「あなたがそのことに気づかないのが、今までずっと謎だったわ」 「知らなかったわけではないのです。君影草の名前は‥‥ですけど、考えもしません でした」 「皆似たもの同士か。‥‥確かにキミの言う通りだったかもね」  自分に都合の悪いものを見ずに、ここまできてしまったオレ達。  でも、全員がそれぞれ気づくことができた。  誰のおかげというわけではない。  皆がいたからこそ、それぞれのことにそれぞれが気づいたのではないだろうか。 「勿論、私は子供の時からずっと知ってたわ。誰から教えられたわけではないけれど ね。‥‥麻生くん、私はこんなに意地悪よ」  挑発的な目でオレを見る。 「それでもキミは私を思ってくれるのかしら?」 「何度でも言ってやろうか」 「‥‥キミも馬鹿ね」 「御薗先輩はどうなんだ?」 「‥‥」  一度俯いてから、ゆっくりと顔を上げる。 「私も、馬鹿かも知れないわね」  照れ笑いを浮かべていた。 「瑠璃子さん、良かったですね」 「な‥‥き、君影さん‥‥私はまだ‥」  顔を赤くしてしどろもどろになる御薗先輩に、百合奈先輩は笑いかける。 「私からも一つだけ、いいですか?」 「な、なによ‥‥」 「麻生さん。瑠璃草にはもう一つ、花言葉があるのをご存知ですか?」 「いや‥‥」 「『真実の愛』です」 「え‥‥」 「あ‥‥」 「私、お二人に出会えて本当に幸せだと思います」  その百合奈先輩の笑顔は、オレが一度は見てみたいと思っていた先輩の本当の笑顔 だった。  百合奈先輩に別れを告げてから、オレは御薗先輩と一緒に帰っていた。  こうして改めて二人きりになってみると、さっきまでのやり取りが嘘のように感じ られる。 「ひとつだけ聞いても良いかしら?」 「ひとつでなくても構わないが」 「今はひとつだけ。キミって神頼みを極端に嫌うんだって」 「ああ。でもどうしてそれを?」 「キミの横にいつもいた子。天音さんって言う子だっけ。彼女から聞いたの」 「え‥‥」 「口止めされていたんだけど、あの子ね。キミが絵を描かなくなってからウチによく お参りに来ていたのよ」 「オレのことで?」 「ええ。ちょっと話を聞いてみたら‥‥ね。それでどうしてなの?」 「昔、願をかけたことがあったんだ」 「‥‥願?」 「ああ。昔、オレにとって凄く大切な人がいて、その人が引っ越すことになって約束 をしたんだ」 「どんな約束なのか、聞いていいかしら」 「オレの絵が入選したら、ずっと一緒にいてくれるって約束だ。子供の頃の話だぜ」 「でも、果せなかった‥‥」 「ああ。頑張ったけどその人は引っ越してしまった。今から考えれば当たり前のこと さ。そんなことで引っ越しを止められるわけがない。でも、オレは必死だったんだ」  御薗先輩に対して、オレは今まで言わなかったことを自然口にしていた。  オレにとって母親替わりだったその人のこと。  その人と交わした約束が果されなかったことへのトラウマ。  でも、彼女は帰ってきてくれたこと。  他にも絵描きになろうと思ったきっかけや、天音との思い出など特に隠していたわ けではないけど、誰かにわざわざ話すようなことでないことをみんな話していた。  御薗先輩は静かに頷くだけで、聞いてくれた。 「なあ、御薗先輩」 「改まって、何?」  彼女の家の御薗神社まではもう少し先だ。 「百合奈先輩の絵が描き終わったら、今度は先輩を描きたいんだけども、いいかな?」 「私を?」 「ああ。もし先輩が良ければだけども」  前に一度この話は彼女の方からしてきたのだけれども、その時とは事情も違うし何 より彼女の気持ちが違うだろう。  だから敢えて聞いてみたのだが、余計な心配だったようだ。 「キミが描いてくれるっていうのなら私は‥‥」  そう答える先輩の手をオレは知らずに強く握っていた。 「‥‥」 「‥‥」 「ねぇ‥‥」  先に声を出したのは先輩の方だった。 「このまま、キミの家に寄っても良い?」 「‥‥」  その言葉にオレはどう答えたのか、覚えていない。

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