「はぁ‥‥」  気がついてみれば、オレは御薗神社に来ていた。  わざわざの休日に、どうしてこんな長い石段を登ってまでやってきたのかは自分で も不思議だ。  朝から天音が訪ねてきて、オレの絵のことを言い出した為に口論になりかけて用事 があるからと逃げるように外に出たわけだけれども、これといって用事なんかない。  暇を持て余したまま、街中をぶらつくことも考えたが、財布を持っていくのを忘れ たことに気付いたのと、万が一天音か天音のお母さんにでも会ったりしたら面倒だと 思って避けるように歩いていたら、自然ここに辿り着いていた。  この町は神社仏閣が比較的多い地域だけれども、その中でも一番知名度が高い。  それでも、休日のこの時間にはオレ以外の人の姿はなかった。 「紅葉を眺めるつもりなら別にここでなくてもいいのにな」  大きな鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れながら、周りの木々を見まわす。  元々、神社という場所はあまり好きではない。  神頼みという行為はするのも見るのも今はもう好きにはなれなかったし、第一今の オレにとって神に頼むようなことは何一つない。 「オレは‥‥諦めているんだろうな」  絵をやめるにしても続けるにしても、このまま無為に過ごしてはいけないことは判 っているのに、どうにかしようという気がない。  改めて、神社を眺める。 「でかいな‥‥」  立派な由来と歴史を持った御薗神社をこうして眺めていると、風格のようなものを 感じる。効き目があるかどうかは判らないけれども、ここを信じている人にとっては ここの建物も信じているのではないだろうか。この建物にさえ、何かを感じているの ではないだろうか。 「オレにとっては、ただの古びた建物なんだけどな」  百合奈先輩に貰ったここのお守りはどこにやったかとぼんやり考える。  人が神仏を信じることを否定する気はない。それを人に押しつけない限りは。  しかし自分が熱心な信者だと吹聴したり信じている人間ほど、そういう傾向がある のだけれども。  オレは神頼みは適わないものだと知ってしまっている。  百合奈先輩は、どういう気持ちでここのお守りを渡してくれたのだろう。 「あら、麻生くんじゃない」  ボーっと立っていたら、背後から声をかけられた。  振り向くと、巫女衣装に身を包み、箒を持った御薗先輩が立っていた。 「御薗先輩‥‥何やってるんだ?」 「見ての通り掃除よ。この季節、落ち葉がすぐに積もっちゃうから細めに履いてあげ ないといけないのよ」 「大変だな」  広い境内を見渡して言う。  これだけの広さを一人で掃き掃除をするのは大変という以前に、無謀な気もする。  掃いた先から落ちてくるのだから。 「昔からやっていることだから、今更ね」 「由緒正しい御薗家の一人娘として‥‥か」 「ええ」 「巫女服で掃除だなんてハマり過ぎるくらいハマってるな」 「これが決まりだからね」 「良かったら手伝おうか」 「あら。どういう風の吹きまわし?」  彼女の凛と澄んだ声。  この声を聞いていると、落ちついてくるのが自分でも判る。  単に耳障りがいいからなのか、それ以外の理由があるのかは判らないが、今のオレ にとってはもう少しこの声を聞いていたいような気分があった。 「下心はないさ。ただ、暇しててね」 「ふうん‥‥じゃあ、キミの好意に甘えようかしら」 「ああ、存分に甘えてくれ」  オレは御薗先輩から箒をもう一本借りて、掃除に励むことにした。  普段、学園での掃除当番などは嫌がっているくせにこういう時だけは真面目に掃除 してしまうのは、我ながら現金だと思う。  気がつくと、一時間以上経っていた。 「お疲れさま。お茶とお菓子用意するから少し休んだら」 「あ、もういいのか?」 「あんまり念入りにやってもキリがないからね」 「そうなのか?」 「ええ。それにいつまでも掃き掃除させるわけにもいかないでしょ?」  ハラハラと落ちるイチョウの葉の軌跡を見ながら、オレは先輩に箒を返した。 「緑茶だけど、麦茶とかの方が良かった?」  敷地を囲むように板張りの縁側があり、適当に腰を下ろす。  そこへお盆を持った御薗先輩がやってきて訊ねる。 「いや、それでいい」 「そう? 熱いから気をつけてね」 「ああ」  湯のみを受け取り、如何にも風な名前も判らない和菓子を摘む。 「キミって変よね」 「いきなりだな」 「こうしてここにいることもそうだけど‥‥それよりもなんで私と会うのかしら?」 「そりゃ‥‥なんでだろうな」  簡単に言いかけて、その答えになるような言葉がないことに気付いて口を噤む。 「今日も私、この時間に掃除なんかしようとは思っていなかったのよ。普段は部活が あったからもっと遅い時間にやっていたし」 「そう言えばこないだ百合奈先輩と会った時、先輩は休日なのに制服だったな」  百合奈先輩がここに来ることを止めるように言っていた時のことだ。  あまりに唐突で馬鹿げたことしかその時は言えなかったのだが、その唐突な理由が その姿だった。 「ええ。部活帰りだったから」 「因みに何の?」 「華道部よ」 「なるほど。そう言われると頷けるような‥‥」  御薗先輩に似合っている。 「それで、キミは一体どうしてこんなところに来たのかしら。私に会いに来たわけじ ゃないでしょうし、君影さんにでも会いに来たの?」  畳みかけるように言われ、オレは少したじろいだ。 「そう決めつけるなよ。言い出しにくくなるじゃないか」 「‥‥あ、ごめんなさい」  はっ、と気づいたように表情を変えて謝る。  どこか急いているようにも見えたが、その理由は判らない。  それでも結局オレは、素直にここに来た理由をポツリポツリと話し出す。  自分の絵のことと併せて。 「そんなことで、悩んでいるの?」  話を聞いてくれた御薗先輩の第一声はそれだった。  まあ予想していなかったと言えば嘘になる。  オレは自分の悩みを頭から馬鹿にされるの嫌い、つい逃げるように付け足した。 「百合奈先輩は呪いって言っていたけどね」 「呪い?」  その言葉に瑠璃子先輩の綺麗に整った眉が歪む。  それに気付かず、更に余計な一言を重ねてしまった。 「オレは呪われているんだそうだ」 「それでキミは絵が描けないっていうわけ? 随分ふざけた理由ね」 「‥‥なっ」  言いきられて今度はこっちがムッとなる。  自分の内心では彼女の言い分の方が正しいと思いつつも、反発してしまう。 「別に事故か何かで手を怪我してしまったとか、精神的ショックを受けて描けなくな ったりしたわけじゃないんでしょう?」 「それはそうだが‥‥」 「キミが特待生の資格を取り消されるかもしれないという事情なら聞いているわ。学 園長から呼び出しを受けているんですって?」 「ああ」 「それで挙句の果てに呪いの一言で逃げるわけ? それは甘えよ」  呪い云々はオレが言ったせりふではないのだけれども、自分の姿勢を甘えだと言わ れると反論したくなる。 「そうかも知れない。第一、オレもそのことが呪いだなんて信じていないし。でも彼 女の言う呪いってのはどんなものかもわからないわけだから、頭ごなしに否定するの もな‥‥」 「キミの特待生という資格は絵で得たものなんでしょ? それで絵を出さないのなら それが剥奪されるのも当たり前じゃない」 「それはわかってる。だからオレはそんな資格なんか要らないと思ってる」 「それならそれは別にいいわよ。でも、それはキミが絵を描かない理由にはならない じゃない」 「‥‥」  その通りだ。  見事に、その通りだ。 「キミがこの学園で特待生でいられるような絵を描かない理由はあっても、キミ自身 がキミの好きだった絵を描かない理由にはならないでしょ?」 「それは理屈だよ。どんなに好きなものでもそれを強要されると嫌になる。それは絵 に限ったことじゃないさ」 「嫌なことと結び付けているのは、周りじゃなくて‥‥キミ自身の方じゃないの?」 「え‥‥」 「キミは周りのせいにしているだけじゃないの?」 「そんなことは‥‥」  オレの弱々しい反論を無視して、御薗先輩はじっとオレのことを見つめていた。  厳しい、怖いぐらいの表情だった。  でもその瞳の奥に言葉には表わせない何か寂しいものを感じてしまって、オレは怒 ることを忘れてしまった。 「先輩はそれができるのかも知れないけど、オレはそんなに割りきれない」  苦しげに、やっとのことでそれだけを言う。 「だったら、ここ最近のキミの評判はどう解釈したら良いのかしら?」 「評判?」 「君影さんに中途半端にちょっかいをかけていたり、毎日を寝て過ごしていたり」 「なっ‥‥」 「別にキミのこと見張っていたり、特に注目しているわけじゃないわよ」  そう断ってから、 「今のキミの状態ななんなの?」  そう重ねて問われる。 「オレは‥‥」  絵を描くことへの抵抗感。  その正体は一体どこにあるのだろう。  疲れてしまったのか。  飽きてしまったのか。  それとも本当に意欲が枯れ果ててしまったのか。  だとしたら、毎日が苦しいのは何故だろう。 「でも、自分の気持ちまでは騙せない。キミ自身には嘘がつけないはずよ」 「うっ‥‥」  絵のことを考えない毎日。  そんな状態の自分に初めはホッとしていたけれども、次第に惨めな気分に陥ってい た。  元々、絵を描くことが好きで始めたことなのに、嫌いにならざるを得なかった環境 と、描くことを止めることで屈してしまった自分に。  そう。  オレは何だかんだ言って屈してしまったのだ。  自分ではそんなことは気づかないでいて、周りに対して反抗している気になってい たのに、実際は自分を曲げることで友人達を心配させることしかできなかった。 「‥‥」 「判っているけど、今更おめおめと引き返したくない‥‥そんな見栄でも邪魔にして いるの? それとも‥‥」 「‥‥」 「どちらにしろ、そんな中途半端な気持ちで来られたら君影さんにだって良いことは ないはずよ」 「それは‥‥」 「余計なお世話かしら?」 「それは‥‥」 「キミが君影さんの絵を描くって噂を聞いた時は、正直驚いたわ。でもキミの話を聞 く限りでは‥‥」  そこで表情が変わる。 「‥‥ごめんなさい。ちょっと喋りすぎたわね」 「いや、先輩の言う通りなんだと思う。それに‥‥」 「‥‥」 「先輩の本心が少し、わかったから」 「なっ‥‥」  何だかんだ言って、一番百合奈先輩のことを理解しているのはこの人なのだろう。  判っているからこそ、我慢できなくて歯がゆかったのだろう。  御薗先輩は彼女なりに、百合奈先輩のことを何とかしたかったのだろう。  一見するとキツイ言い方しか出来ないし、事実優しい言葉なんか思いつきもしない ような態度だったけれども。  不器用な人だと思う。  何とかしてあげたいのに、百合奈先輩は昔よりも引き篭る一方になってしまい、ま すます自分とは距離を置くようになってしまった。  そしてオレが現れた。  自分には他の人間同様に余所余所しく、いやなまじ昔からの付き合いがあって自分 の立場を深く知っているが故に離れていったのと対照的に、オレと親しくするように なったのを見れば彼女でなくても腹が立つ。  オレが彼女と会った後に良く御薗先輩と会ったのは偶然ではないのだろう。  彼女も百合奈先輩を何とかしたいと思っていたからこそ、俺が百合奈先輩に会う時 とぶつかってしまっていたからだろう。  そう考えれば、オレに対する彼女の刺々しい態度も理解できる。  御薗先輩の役目を奪い、更にますます自分を遠ざける状況になってしまうのを恐れ て。 「百合奈先輩に対することを全然知らずにオレ‥‥」 「やめなさい。そんなに良い人じゃないわ、私」 「屋上で百合奈先輩に会うたびに会ったのは‥‥あれはオレが通い出す前から知って いたんだろう? 放課後、百合奈先輩が屋上で花を見続けている習慣を」 「知らないとは言わないわ。たびたび姿を見かけたし」 「そしてずっといつも見ていたんじゃないのか」 「‥‥」 「オレこそ聞きたい。どうして?」 「‥‥」 「‥‥」 「だって、君影さんがああなったのも元はと言えば私のせいだもの」  そこで御薗先輩は重い口を開いた。 「だったら尚更だ。謝りたかったんだろう。話したかったんだろう。一緒に帰りたか ったんだろう」 「そんなわけないでしょ。決めつけないで」  そう言って髪を手で梳く。  苛立つ時の彼女の癖らしい。 「でも、今の彼女を見るのが辛かったんだろう?」 「‥‥腹が立つだけよ」 「見ていられなかったんだろう」 「‥‥」 「違うのか?」 「何かしなくちゃいけないのは彼女の方で、私じゃないわ」 「でも助けてあげられるのなら助けてあげたいんだろ」 「私は今のままの彼女が嫌いなだけよ」 「‥‥」 「キミもしつこいのね。そんなに君影さんが気に入った?」 「御薗先輩と同じ気持ちさ」 「私と?」 「何とかしてあげたい―――それだけさ。今のままの彼女は痛々し過ぎる」 「お節介なのね」 「嫌いか? こういう男?」  そうおどけて見せると、 「残念なことに、そんなに嫌いじゃないわ」  彼女も笑って答えた。  その笑顔に俺もつられるように笑っていた。 「先輩」 「あ‥‥」  翌日の放課後、オレは屋上でいつものように花を眺めて佇んでいた百合奈先輩を呼 びとめた。  昨日、御薗先輩に言われたこと。  神社を後にしてからずっと、自分で思い返してみた。  突き詰めてみた。  幸いなことに今のオレには何もすることがないので、時間はたっぷりとあった。  だから一晩で気がつくことができた。 「いきなりで悪いんだけど、これから家に来てくれないか」 「え?」 「いや、今なら絵を描ける気がするんだ」  その言葉に、百合奈先輩は少し驚いたように顔を上げた。 「貴方の呪いは、祓われたのですか?」 「わからない。けれども、今ならきっと先輩を描ける気がする」  オレの呪い。  絵が描けなくなるスランプ。  押し潰されそうになる気持ちを周囲のせいにして、逃げ出してしまっただけ。  周りが強要するから描けないという思い込みで自分自身を見失っていた。  それがオレの呪いの正体なのだというのなら、今はその正体に気付いている。  そしてそれならばもう、大丈夫だ。  描きたいものがあるから。  沢山、沢山あるから。 「そうなんですか」 「ああ。オレが馬鹿だったよ」 「そんな、貴方が馬鹿なんてことは決してありません」 「いや、馬鹿なんだ。前に先輩を描こうとした時にでも、気付かなければいけなかっ たんだ」  結局オレは絵描きなんだ。  彼女が頼んできた理由が判らずとも、普段オレを避ける事情がどうであっても関係 ないんだ。  彼女がオレに絵を描くことを願い、それに応えようと思ったのなら考えることなん て全くないんだ。  余計な理由をでっち上げることで描けないことへの正統性を繕うことに何の意味が あるというのだ。  オレの目の前に絵のモデルがいるのなら、ただ描けば良いのだ。  こんな当たり前のことさえ気付かなかったなんて、何て錆びついてしまっていたの だろう。  その日、オレは服を脱いでシーツだけを身に纏った彼女を前に絵筆を取った。  以前に一度だけこうして彼女を前にした時は、何も描くことができなかった。  その時の失敗はもう繰り返すつもりはない。  絵そのものから逃げていた自分ではないつもりだから。 「‥‥」  描ききった時にでも、知ることができれば知れば良い。  それだけのことだった。  今のオレにとっては絵を描くことだけが重要で、大事なことだった。  その翌日から、オレが百合奈先輩を描き続ける毎日が続いた。  君影百合奈先輩。  ある日突然、「私を描いてくれませんか?」と教室にやってきて、更には「‥‥貴 方も、呪われていますから」と言った先輩。  確かに彼女はおかしかった。  彼女はオレの絵が好きだと言い、自分をモデルに絵を描いてくれないかとわざわざ 頼みに着た反面、こっちから会いに来ると迷惑が掛るからと避けて回っていた。  明らかにその言動は矛盾していた。  人と関わりあうことを避けつづけていたければ、オレのところにも来なければいい のだ。オレは今まで彼女のことを知らずにいたし、向こうから声をかけてこなければ 彼女が卒業するまで知らないままで終わったに違いないのだから。  そんなところにばかり気がいってしまって彼女の絵を描けないでいたのだから、憶 測で無責任な噂をたてる連中と何ら変わりがない。  オレは気付かなくてはいけなかったんだ。  オレが絵描きであるということを。  一方であれから度々、御薗先輩と昼を一緒にする機会が増えている。  今日も先輩の希望で中庭で食べているのだけれども、どうしてもパン食のオレとお 弁当の先輩とでは食べ終わるまでの早さが違う。  自然、先に食べ終わったオレが、食べている最中の先輩と話すような形になる。 「人物画を描くことを一時期嫌っていたことがあるんだ」 「そう言えば、展示してあるのは風景画の方が多かったわよね」 「先輩、オレの絵を全部見てるのか?」  驚いたように聞くと、 「ううん。でも学長室の前に飾られたキミの絵は全部見ているわよ」  そう答えた。 「物好きだな」 「そうかしら‥‥そう言えばキミ、また君影さんを家に連れ込んだでしょう?」 「知ってたのか。別に変なことしてた訳じゃないぞ。彼女をモデルに絵を描いていた だけだ」 「ふぅん。キミはもう絵のことに関しては吹っ切れたのね」 「お蔭様でな」 「‥‥真顔で言うのもどうかと思うけど」 「いや、ありがとう」 「そんな、お礼を言われるようなことはしていないわ」  素直に言ってみるものだ。  御薗先輩は少し照れていた。  こういう反応は慣れていないらしい。 「ああ。でもありがとう、先輩」 「‥‥だったらもう少し気を使いなさい」 「そうだな」 「あ、話の腰を折って御免なさい。それで?」  もう少し照れた先輩の顔を見ていたかったが、確かに話は逸れた。 「ああ。絵はどうしても自分の考えが出てしまう。そして人物画だとそれがそのモデ ルに対して出てしまう。この人間はこんな感じの人じゃないか。こんな性格をしてい るんじゃないか。それがそのまま絵に出てしまう」 「それがいけないの?」 「悪いわけじゃないと思う。そんなことを否定したら世の全ての人物画を否定するこ とになるだろうし。ただ、オレは嫌なんだ。そんなわかった風なその人への見方が絵 に顕わすのも、それを見せてしまうのも」 「ふうん‥‥」  関心したようなため息。 「だから今まで、できるだけ避けてきた。そしてモデルを人として見ないで静物画で も描いている気持ちで描いてきた。だからだろうな、風景画に比べて人物画の方はオ レの絵に関しては評判がそれほど良くない。賞を入選したことがないわけではないけ ど‥‥」 「それが、キミが君影さんの頼みを断っていた理由?」 「どんな絵を一番描きたくなかったかと聞かれれば、それもあったかも知れない。頭 では描きたいと思うカットとか、あったりするんだ。描いてみたいなと思う人とかも いないわけじゃない。でも‥‥やっぱり今までオレが描いてきたような人物画は描き たくないと思っている。周りやモデルの反応を窺ってしまうような、辺り障りのない 絵を描いてしまうことはもう‥‥たくさんだ」 「だったら、自分の好きに描けばいいじゃない。その方がキミ自身は納得がいくんで しょ?」 「そう割りきれたら簡単だよ。でもそのつもりなんだ」 「そう‥‥」 「それに、そうやって絵筆を握っていると、色々と今まで見えてこなかったものも見 えてきたしね」  それは思い込みなのかも知れないが、オレの絵には関係ない。  オレの絵はオレの価値観が絶対なのだから。  周りの反応は知ったことではない。  そして今は、そこまで強く自分の絵を思える。 「‥‥先輩は卒業後の進路とかは決めていないのか?」  そして放課後は百合奈先輩を迎えて絵を描いていく。  初めはこのことを知った天音は驚いていたようだったけれども、モデルだという話 をしたらあっさりと引き下がった。  少し寂しそうな微笑を浮かべながらも、絵を描くことを始めたことは素直に喜んで くれているようだった。  ここ最近はオレの方が迷惑をかけてばかりいた。  一区切りついたら、アイツにもお礼をした方がいいかも知れない。  でも、この辺でアイツの巣立ちのきっかけにしてもいいのかも知れないとも思う。  いつまでもずっと一緒にいられるわけではないのだから。  そんなことを最近では思っていても、百合奈先輩を前にしては彼女のことしか考え ていなかった。それだけ集中できているのだろう。  絵に関しては幸いにも腕が鈍っていたり、以前の感覚を忘れていたりすることはな かった。  ただ、自分が納得がいくものを描けているかとなるとまた話は別なのだが。 「私は、これ以上の勉強をするつもりはありませんよ」 「そうなんだ。御薗先輩の話では何でも御薗先輩よりできるとか‥‥」 「それは瑠璃子さんの買い被りです。私はそんなんじゃありませんよ」  やんわりと否定する。  この辺が御薗先輩と好対照だ。 「じゃあ、何かしたいことでも?」 「わかりません。身体のこともありますから、お仕事というのもなかなかありません しね」 「いいのかよ、それで」 「一年です。父から、それだけの時間をいただきました。それまでに自分で何をする か決めなさい、と」 「理解のあるお父さんだ」 「はい。感謝しても、し足りないと思っています」  何のことはない。  こうして絵描きとして彼女に接していた方が、よっぽど彼女と親しくなれていた。  勿論、彼女の頼みを引きうけたからと言うこともあるのだろう。  けれども、この今の彼女の信頼を得ているのは絵描きとしてのオレに対するものだ からだと思っている。  決してお節介な一年後輩に向けられているものではない。  そう考えると、彼女がわからないから描けないという以前の言い分が何とも馬鹿げ ていると実感する。  自然、こうしていれば伝わるものは伝わるのだ。 「そういえば最近、瑠璃子さんと親しいみたいですね」 「え? あ、ああ。そうなるのかな?」 「よく、中庭でお昼を一緒にしているのを見ていますから」 「あ、そうなんだ。声かけてくれれば良かったのに」 「いえ、お邪魔になってしまいますから」 「そんなことないって」 「‥‥」  そう言いながらも、百合奈先輩と瑠璃子先輩の関係を考えれば無理な話だと想像は つく。  元々、どうしてこんなにも百合奈先輩は御薗先輩を避けるのだろうか。  御薗先輩がそんな百合奈先輩をもどかしげに見ていることに気付いていないのだろ うか。 「‥‥‥」  無言になってからどれだけの時間が過ぎたことだろうか。  集中していたから気がつかなかったが、窓から差し込む光は夕方の陽の光りに変わ っていた。  彼女も身体が弱いと言いつつも、毎回長時間頑張ってくれていると思う。  モデルに慣れた人でもここまでずっと維持できる人はそんなにはいないのではない だろうか。  そこまで彼女がオレの絵のモデルに拘る理由が判らなかった。  オレに自分の絵を描いてもらう事―――それが彼女にとって大変な決心をしての我 慢だと知るまでは。  だが同時に、その一連の行動も見ようによってはいくらでも違うように見える。  百合奈先輩と御薗先輩。  二人の異なった立場からの話を聞いていくうちに、オレはある予感めいた確信が胸 に沸きあがっていた。

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