Orange Ending




 全てが終わる。


 焼きすぎた肉の、焦げた匂いが漂っている。
 死屍累々という言葉がこれほど似合うというのも、そうは無いだろう。
 店内には銃の乱射で穿たれた穴がいくつもあった。魔術の爆炎によって爛れた天井は、
今にも崩れそうだった。ぷすぷすと音を立てて黒こげになった店員同士の、自分達の生存
を喜び合う姿までが見えた。だがなによりも印象的なのは、食い散らかされた焼肉の名残
だけが、ただゆらゆらと煙をあげている景色だった。
 もう焼肉屋には見えない。これでは単なる廃墟だ。いくらなんでもこのような使い方を
されるなどとは、地下にこんな会場を拵えた店のオーナー達も思わなかったに違いない。
まるで大怪獣二匹が争った痕跡のよう。
 それらは全て、この勝負の残した爪痕だった。

 しかし積み上げられた肉の量を表す皿の数は、同数。
 最後の皿が置かれた瞬間すらも、同時だった。

 ルールに拠れば、これは引き分けです――ッ!と店員の誰かが呻き、呟く声。

 いつも、こうなるんだ。
 そんな言葉を思い浮かべながら、橙子はごっそりと気力を使い果たした、といった顔の
ままテーブルに突っ伏していた。
 美味しいやら苦しいやら入り交じった感覚に突き動かされ、逆サイドにいるはずの青子
の姿を見た。普段の不敵な笑みはなりを潜め、目が虚ろだった。
 ぼんやりと思い返せば、姉妹として相手の存在を認識した瞬間から争い続けてきたもの
だった。ことあるごとに反発しあってきた。子供じみた意地の張り合いであり、また妄執
のごとく焼け付く宿命だった。致命的に仲違いしたのは、遺産相続の頃だっただろうか。
 以降、直接の勝負ごととなると、橙子と青子はどんな勝負であれ、どんな状況であれ、
引き分けにしかならなかった。勝敗が決まらないのである。それも絶対に。
 魔術で争ったときも、過去の焼肉勝負のときも、決して勝てないし、必ず負けない。何
度、何十回とやってもそうだった。
 なのに、なぜか青子だけが得をするのだ。
 同じことをやっても、なぜか青子だけが何かを得てしまう。魔術の才能であれ、家に伝
わる遺産の奪い合いでさえ。家に伝わる遺産を青子は持ち逃げし、独り占めしたのである。
どんなときも、青子だけが上手くやる。魔術師としてはヘボな腕前くせに、魔法使いにな
ったことなど、橙子には到底許せることではなかった。だから、今回も引き分けになると
いう予感はしていた。
 だが、今回の勝負は、そう簡単に青子の利にさせてなるものか。
 青子に焼肉勝負を吹っ掛けられ、すると決まった瞬間から、ずっと考えていた計画が橙
子にはあった。周囲の状況に気を配り、ゆっくりと突っ伏していた顔を上げ、込み上げて
くる笑みを抑えた。

 食い逃げである。

 橙子はそのタイミングを計りながら、もう大量の焼肉を食べた幸福感に浸りつつ、声も
なく嘯いた。
(ふふふ、黒桐の給料をもう一年分滞納してるのに、払えるわけがなかろう。だが会場を
借りたのは馬鹿な妹だ。ここで食い逃げしてしまえば、青子にその代金を全額押しつけら
れるからな)
 勝負は引き分けだが、最後に笑うのは自分だ、と。


 おっぱい。
 都古の頭のなかは、なにはともあれそれでいっぱいだった。
 胸である。
 古来より、そのゆるやかな曲線を描き形作られる美しくも精緻なる神秘の器官は男子に
愛でられ、誰しもに好かれ、それはかけがえのない宝であった。ときには女子であっても
それを愛する者もいた。
 穏やかな艶を持ったおっぱい。麗しい陶磁にも似たおっぱい。幼さゆえの妖艶なるおっ
ぱい。荒れ狂う海のおっぱい。炎に燃えさかるおっぱい。風に揺れ動くおっぱい。偉大な
る山の如く君臨するおっぱい。それらすべてが、かけがえのない、個性豊かな胸だった。
 おっぱいは大きい者もいれば、小さい者もいる。美しい者もいれば、薄い者もいる。豊
かであることも、貧しいこともある。
 手のひらに収まりきるサイズにも、すっぽり埋まる形も、あらゆるおっぱいがある。そ
れを否定することは人間の一人一人の個性を、一個人としてのアイデンティティを、そし
て芸術にも似た唯一性までもを否定することに他ならない。AにはAの、GにはGなりの
苦労もあり、それゆえに美徳も兼ね備えているのである。そこには愛がある。おっぱいこ
そが愛なのだ。
 誰もが口を揃えて言うことだろう。
 おっぱいこそ、天より人々に与えられた救いであり、祝福でもあるのだと。遥かな過去
より、おっぱいを愛する者はおっぱいに愛されてきたのである。
 そんな悟りを開いたかどうかはさておき、ちょっと成長途中の都古のぺったんこでピン
ク色の胸は、ほとんど大きさが変わるということはなかった。つるぺたである。薄い胸は、
小さく上下している。だがそれは貧乳と呼ぶのではなく、幼さという無垢による淫靡さを
醸し出し得る完璧にろりぃな体躯と知るべきなのだ。
 古代の文献を紐解いてみるがいい。いつの時代にも、このような胸こそが至宝であった
と記されているであろうから。おっぱいとは母性の体現にして、存在自体が芸術である。
おっぱいはおっぱいというだけで肯定すべきなのだ。
 しかし、おっぱいぶるじょあを嗜好する者が多いのもまた、事実であった。
 都古は悩んだ。
(おっぱいって、いったいなんなんだろう)
 肉の食べ過ぎで目が回っている。ぐるぐるまわる視界に何人ものおっぱいが映った。そ
れは大きかったり、小さかったりした。
 結局のところ、志貴は小さいほうが好きなのか、大きいほうが好きなのか。都古は恋す
る乙女なので、恥ずかしくて直接なんて絶対に訊けないのだった。
 だから悩むのである。
 おっぱい。
 みんな大好きな、おっぱい。
 そこに顔を埋められれば良いのか。それとも見たときに可愛いければ良いのか。多くの
世の研究家達が挑んで来て、だが未だに明確な答案が出ない問いを、都古は必死に考えて
いた。大きさも形も色つやもやわらかさも。なにもかも、様々なおっぱいが都古の頭のな
かを通り抜けていった。これでは足りないのだと。自分にあるそれは、まだまだ未熟だっ
たことに後悔したりもして、だけど、ようやく答えが見つかった気がした。
(ただ大きなおっぱいだけじゃ、だめなんだ……)
 完全なおっぱいなどないのだ。
 だが、都古が持つ輝かしいその薄い胸は、ある種の人間には栄誉のおっぱいと呼ばれる
ものだった。
(ちっちゃくても、使い方しだいでなんでもできる)
 それこそが、都古なりのおっぱいに対する100%の答えだった。
 不意に、青子の言葉が思い起こされた。するとイメージは明確に、そして急速に形にな
っていった。ちっちゃい胸のぱぅわぁは、都古そのものだった。
 それが分かったいま、薄い胸こそが都古だった。
 勇気が欲しい。遠野家の面々をくぐり抜けて夜這いしちゃうくらいの勇気が。
 都古に必要なのは、あとは、たったひとつだけだった。
 もう、怖いものなどなにもない。都古は誰かが言っていたのを思い出したからだ。欲し
い物は実力でうばう物だって。

 よし、きせい事実だ!
 かんがえるのにがてだけど、あたしのこんふーならうまくいくはず。もしダメでもほか
のトシマとちがって、若いし。
 あ、かえったら幼稚園のときの服をさがさなくっちゃ。

 こうして日々、人間は成長していく。
 とりあえず都古にとっては、勝負の結果<おっぱい事情であった。


 美沙夜は至福の表情でぐったりしていた。
 口のなかに残った焼肉の余韻を無意識に味わっていた。涙まで流して呆然と天井を見上
げている。
 彼女の意識はとっくに朦朧としていたのだ。なぜなら他の規格外とは違い、美沙夜は基
本的に、ちょっと高飛車で家が大金持ちなだけのお嬢様。顔良し器量よし。立てば芍薬、
座れば牡丹、歩く姿は百合の花。加えて秀才なのだからもう人生勝ったも同然だった。で
も、もう、それらはすべて過去形なのだけれど。
 夢に入り込む寸前の彼女の思考は、この焼肉の記憶をどうやって残そうか、ということ
だった。
 黄路の他の養子たちに、美沙夜は同情を禁じ得ない。だって彼らはこれから一生のあい
だ、あの家にいる限り焼肉を食べることはないのだ。それはなんという不幸だろう。
 よし、自慢話を書き綴り、彼らが嫉妬するように、後でポストに投函しておくことにし
よう。これも全てケチなお父様がいけないのよ、と書き添えて。食べ物の恨みはおそろし
いのである。復讐するは我にあり。
 ぼぅっとした頭で、意識の糸が切れる瞬間まで、美沙夜はずっとそんなことを考えてい
た。まあ、どうなるのか楽しみではある。争い合った養子同士ですら、幾たびも焼肉を食
べる夢を語り合った日々を思い出す。あの情熱が全て焼肉を食べた美沙夜への嫉妬に形を
変え、黄路の養子は皆、反旗を翻すかもしれないのだ。もう一度言おう。食べ物の恨みは
恐ろしい。
 すぅすぅと寝息を漏らし、遠い過去の記憶に思いを馳せる。
 …………。

 夢。  夢を見ている。  幼いころからずっと、毎日見ていた夢。  叶うときまで、消えることのなかった夢。  赤い肉。  漂う煙。  赤く燃えさかる静かな炎。  炭が爆ぜる音。  肉汁がしたたる音。  目の前でパチパチ鳴る備長炭が赤々と、風流な色で輝いていた。  焼けるまで、どうすることもできずに、  ただじゅぅっという肉のとろけるような音を聞いてることしかできなかった。  だから、せめて……  辛口のタレをご飯に乗せたかった。  だけど、箸は動かなくて……  肉から溢れた汁は落ちて、炭に吸い込まれて……  見ていることしかできなくて……  美味しそうで……  待ち遠しくて……  大丈夫だから……  だから、食べさせて……  言葉にならない声。  手の届かない食べ物。 「焼肉はおだいじんの食べる物だから……」  それは誰の言葉だっただろう……  肉が、焼肉へと変わっていく…… 「いただきます」  叫んで、  よく焼けた肉をさっそく口に入れて、 「――あちちちちっ!」  こんなに熱いものだなんて知らなかった。  でも、  食べまくった。  つらかったり、苦しかったりしたけど。  美味しかったから。  やっと食べられたから。  やっと、夢が叶ったから。  だから、  だからね、  もう、ごちそうさまするね。  もーおーかーえれーなーいー……  やきにくの味ー知らなかった日々ー……
 …………。 「……あ」  美沙夜はそこで目覚めた。  空になった皿を前にして、苦しい腹のことも気にせず、ただひっそりと呟く。 「こんな幸せな気持ちが、焼肉だというのかしら……」  そして美沙夜はふと考え、それを口に出した。 「次からは藤乃さんに奢ってもらうことにしましょう。週三……いえ週四くらいで」  半分魂抜けてる藤乃の頭を無理矢理動かし、うんうんと頷かせてみる。 「契約完了。使い魔ひとりゲットね」 「だーれーがーでーすーかー」  ふじのん復活。だが美沙夜はニヤリと笑って、 「藤乃さん、もう契約は完了したのよ。あなたはこれから一生私の手足となって――」 「えい」  そして回転しながらひとり地獄車で転がっていく美沙夜。  もはや、捻りのプロと呼んでも差し支えはあるまい。いつの間にやらスナップの利いた 捻りまで使えるようになっていた。この先しばらくは、まだ美沙夜に部屋を占領されるら しかった。  まあいいか、とも藤乃は思う。  多少歪んではいるが、こういう友情もアリかもしれない。こう、なんというか、美沙夜 たちからは学ぶべきことがいっぱいあったわけだ。反面教師だったり、生きてるって実感 だったり、そういったもろもろ。もはや藤乃の気分としては、子供の面倒を見る母親みた いなものだった。こういうふうに手のかかる相手に耐えるのっていうのも、慣れるとだん だん気持ちよくなってこないでもなかった。だって痛くないし。  ふと見ると、勝負の結果が見える。すぐ分かった。 「引き分けですか……」  それはそれでよかった。  藤乃は、さっきから体の調子がすごいことになっている気がしないでもなかった。とい うかもう限界だった。痛くも苦しくもないけれど、なんか気分が変なのだ。  込み上げてくる。  ああ、これは。  この酸っぱいものは―― 「かあさま……これは新しい恋の予感なんでしょうか……?」  違います。  と、いった内容をエーテライトで読みとり、ふむ、とシオンは考え込んだ。  闘っている最中は人形遣いがしっかりと目を光らせていて、手を出すことはできなかっ たわけだが、終わってしまった以上彼女たちはどうでもいいらしい。早めに目を覚ました シオンはちょちょい、っと繋げてみたのである。  大した情報があるわけでもない。歪曲の能力には興味が無いわけではないが、自分の研 究にも終わった試合にも関係ないので、とりあえず保留。  まあ、結局のところ。  勝負は蒼崎姉妹同士のものであって、他の人間は皆巻き込まれただけなのである。目的 を果たし、死闘が終わってしまえば、後に遺恨など残りようはずもない。  そういう意味で、もう闘いは終わっているも同然だった。  目的。  はて、シオンは記憶を探った。  目的は、精力増強のタレ開発とかなんとかそんな感じだったわけで。それだって真祖液 の入手のためだ。  まあ、これに関しては、真祖にメイド服だの裸エプロンだのビキニだの、その手の服を 説明書付きで送り付ければ、志貴が勝手に動くだろう。最適なのは裸ワイシャツだが、そ ろそろ志貴もふとももには慣れているかもしれない。なら、やはり胸を強調すべきだろう か――  都古に目をやる。  体積からして、焼肉がどこに消えたのか分からない。ザ・人体の不可思議だった。とも かく、彼女はこれから苦難の道を歩くのだろう。想い人はこれから巨乳好きになるかもし れない。すまないと思いつつ、都古には堪え忍んでもらうことにした。  今日の間、シオンが何度も気づかされた、ひとつの真実。それは所詮、違うもの同士で は分かり合えないのだということ。  シオンはつまるところ、都古が認識している通りの存在。  すなわち、おっぱいのぶるじょあじー、なのである。  おっぱいぶるじょあ。  都古の当面の敵は、何人もこの先立ちふさがることだろう。だが、がんばれ都古。負け るな都古。  君は、どんな強敵が相手であれ、若さでは最強なのだから!  シオンの目の前で無い胸張って含み笑いをし始めた都古のバックに、そんな幻聴じみた ナレーションが聞こえた気がした――  ちなみに、ふよふよ浮いてるお気楽幽霊が一名、天井から楽しげにあたりを見ていた。 彼女こそ、そのナレーションを予告風に叫んでいた当人である。生きていたころの性格の 面影は残っていないあたりに、哀愁すら感じさせる人生であったのだな、と思わなくもな い。霧絵の現状を見たなら、誰もそんなこと思ってくれないけど。  とはいえ、彼女ときたら、美少女から美男子までなんでもござれである。  生前から望みは強くはあっても、多くは無かった。そんな彼女の死後、もう欲しいもの はほとんどなかった。あるとすればそれは愛だ。  愛。  言い換えるとラヴ。進化するとラヴァーズに名前を変えるその衝撃。  こう、胸を貫いたあの感覚にしてしまった恋のおかげで、いまの霧絵の人生は非常にハ ッピーである。満たされている。生きてて良かった。霧絵は真実、そう思わずにはいられ なかった。死んでるけど。  そしてあと彼女に必要なのは、愛だけであった。  これまでの人生、もらえなかったもの。欲しかったもの。飢えていたもの。それは結局 のところ、愛なのである。  それが無かったから世界を嫌いになって、空に探してもみたけれど。  やはり愛こそ人生の糧である。  霧絵は、微笑んだ。  ようやく気づいたのだ。そう、もう相手の決まっている黒桐幹也やら両儀式やら、そこ を狙うから失敗するのだ。  相手がいない人間をターゲットにすればいい。最低条件は自分が見えること。触れれば より一層良い。そして今、この場には、嫁の貰い手も婿に来てくれる相手もいそうにない 格好の人物がいる。  そこで、愛である。  愛こそすべて。愛があればなんでも許されるのだ、と霧絵にとっての足長坊主おじさん も、言っていたような気がする。たぶん。思い返せばいぶし銀な渋いオジサマだった。案 外に落ち着いた風なのが霧絵の好みである。黒桐幹也などその典型だし、また年上も守備 範囲であった。  そして霧絵には、言ってみたい言葉がある。なってみたい関係がある。試すだけの価値 があるなら、死ぬ気でやってみるだけだった。生きてないけど。  天井から近づき、出口に向かってこそこそ歩く彼女の前に立ちふさがった。正面からじ っとその冷徹な眼差しに睨まれ、霧絵はうるんだ瞳で告白した。 『――橙子お姉さまっ!』  最低でも牛一頭分以上の肉を喰らった自らの体を、青子は気力だけで復活させた。皿を 確認すると同量だ。おそらく同着だったはずだ。  またか、と思った。  勝負内容の是非、結果はともかく勝負自体は必ず引き分けになる。いい加減、打開はし たいのだが、何度やってもこうなる以上、妙な抑止力でも働いていそうなので半分諦めて いた。だからもう、青子としては。  あの馬鹿姉をぎゃふんと言わせられれば、それで満足なのである。  テーブルからぐいっと顔を上げ、店員を指で呼び寄せる。 「いくらかしら」 「……合計で480万になります。……それであの、お支払いはどちら様が?」 「そうねえ、負けた方が払うって話だったから」 「払っていただけるんですよね!?」  店員さん目が血走ってます。これを食い逃げされたら店が潰れるのは間違いないので、 必死になるのも分かるというものだが。 「それはもちろん。割り勘にするから、ちょっと待ってちょうだいね」 「はあ」 「ってあら? そっち側にいた年増は?」 「あのお客様なら――ん?」  年増と言って通じるあたりが悲惨だった。  店員は、ぐるりと店内を目で探して、霧絵の告白によって食い逃げを阻止された橙子の 姿を発見した。 「どうやら食い逃げしようとしてたみたいね」  その言葉を背に受けながら、スタスタと店員は橙子に向かって近寄った。 「お客様、お支払いがまだでございます」 「いや待て、話せば」 「お客様、お支払いがまだでございます」 「わ、な、なにをするんだっ。離せ。こらっ。どっから沸いてきたっ」 「お客様、お支払いがまだでございます」 「うぎゃー」  すごい声が聞こえた。 「ああん、お姉さまを連れていかないでー」  黄色い声が後に続いた。 「……さて」  青子が小さくつぶやいて、 「半分は私が払うわ。はいこれ」  恭しく頭を下げた店員に、トランクの中からポンと札束を渡した。  それをレジに持っていくのを横目に、シオンが立ち上がり青子の横に来た。不可解そう な顔で彼女は質問をしてきた。 「ミス・ブルー、もしかして始めからこうなると?」 「ええ。なんでか知らないけど、いっつもこうなのよねえ。大体、家に伝わる秘法だのな んだのを蒼崎の名前ごと奪った、とかあの馬鹿姉は叫んでるけど、あの浪費癖が祟って家 が傾いてね……財産もなにもあったもんじゃないわよ。ったく」  しみじみとした、苦労人の声だった。 「うわ。それはまた悲惨な」 「でしょう?」 「はい。しかし、なぜ引き分けになる勝負を?」 「借金まみれの人間と、そこそこ蓄えがある人間。大金を同じだけ請求されたとき、果た してどちらがより深刻なダメージを受けるかしらね」  まあ、勝てるなら勝ったほうがもっとキツイ打撃だったんだけど、と軽く続けた。あん がい悔しかったらしい。 「……なるほど」  シオンが頷く。流石、壊し専門の魔女だ、といった感嘆のニュアンスを込めて。 「さてと。そこの店員、ちょっと来てくれない?」  また店員を呼び寄せた。来ると手早く、ひそひそと言葉を交わしながら、姉の住所と氏 名を書いた紙を渡した。ご丁寧に結界破りの方法までそれとなく記してある。 「これでよし。後は保護者の黒桐君に連絡すれば完璧と」 「逃げ道を徹底的に消しましたね」 「当たり前よ」  ふふん、と青子は楽しそうに笑んだ。 「まあ、逃げるのはまず無理ね」 「流石、男に首輪をつけて飼っていた経験は伊達じゃないというコトですか」 「都古にもやり方は伝授したわよ?」 「……」 「……」 「ではそろそろ、屋敷に戻るコトにします。私としても、いつまでも時間を浪費するわけ にもいきませんから」 「ええ。今回は助かったわ。ありがとう、アトラスの錬金術師」 「こちらこそ感謝します、青色の魔法使い。楽しめました」 「そう?」 「もちろんです」  にやり、と不敵に笑った青子が背中を向けた。 「いつかまた出逢うことがあるかもしれないけれど」 「はい」 「貴女の研究が成功するコトを期待しとく。じゃあね」  階段に向かい、足音が消える。  そして蒼崎青子は、地下焼肉闘技場から去っていった。  他の者たちもぞろぞろと帰り支度を始めていた。いつの間にやら、残りを全部払うのは 橙子ひとりといった認識ができていたりする。 「ごちそうさまでした」 「焼肉って胸きゅん?」  ぺこり、と礼儀正しく頭を下げた藤乃と、引きずられながらまたもや焼肉の夢に取り憑 かれている美沙夜。なかなか頑丈に出来ているものだ。  遅れて都古が近くまで走ってくる。食べ過ぎたから運動して消化しよう、といった感じ だ。シオンに気づくと息を呑んでじっと一箇所を凝視した。  ――お、おおきくなってる……?  がくり、と肩を落とした都古。ひどい落ち込みように、シオンは慰める言葉も思い浮か ばず、その小さな肩を叩いてやることしかできなかった。  共に出口へと続く階段を昇っていく途中、ふと思いついた。 「大丈夫です。今の時点でも都古のそれは、秋葉より大きい」  ひどい慰めの言葉もあったものである。  そして、橙子は虚ろな目で請求書を覗き込んだ。  びく、と体が震えた。  請求額、240万円(税込み)也。 「に、にひゃくよんじゅうまんえん……国内のタバコなら一万箱分だと……」 「お客様」 「くっ、青子に嵌められたか。まあ、謀略に頼るようなのはまず性格ブスだから男も寄り つかんだろう。やれやれ」  肩をすくめてみたり。  ちなみに自分が食い逃げして青子に全額負担させようとしたことなど、とっくに忘れた。 都合の悪いことはすっぱり忘れるのが一流の魔術師の条件である。 「お客様!」 「ああ、ちゃんと払うさ。払ってやるとも。……黒桐の給料をあと五年はカットするしか ないが、まあ黒桐だからいいんだが。一万年ローンとかにならないか?」 「なりませんので早いうちにご用意くださいますよう。それと、青子様より伝言を承って おりますので、まず先にお伝えしておきます」 「……なに?」 「ええと、読み上げます。『影絵の怪物とかミミックっぽいのとかメンバーに入れてれば 楽勝だったのに。そんなことも思いつかないなんて、これだから年は取りたくないものね。 同情するわ』だそうです」 「……ほう」  その言葉に押し込められた渦巻く感情を敏感に感じ取り、店員は身構えた。  殺されるかも知れない、という不安に体を震わせながら。  だが橙子は、拳を握りしめて、もうぼろぼろの天井を見上げるだけに留めた。同情する なら金をくれ、と叫びたいのを自制し、呑み込んだ。  まあ、死ぬつもりになれば金くらいいくらでも都合できるだろう。死ぬつもり。もう後 がないためか、思考が急激に加速し、反転した。 「……そうだ……生命保険なら」  ぼそりと橙子は独り言をつぶやいた。  不穏な響きに、店員は怖くなってかちょっと離れる。 「運良く行けば一億はくだらんな……ふ、ふふふ。実際に自分を使えばまさしく完璧だ。 バレる可能性はまず無いと思っていい……」  それ、生命保険詐欺って言います。  目がイっちゃってる橙子の背後から、影が近寄った。 「これなら借金がヤバイかと躊躇してた数千万の魔鏡も買える! しかし黒桐の給料はど うするか……式とのまにあっくなぷれいをエサに誤魔化せばなんとかなぐえ」  そして昏倒する橙子。  やってきた保護者代わりの黒桐幹也は、いつもとは違い無言で橙子の襟首をひっつかむ と、周囲で怯えている店員に頭を下げながら歩き出した。 「すみません。コレ、さっさと持ってかえります。代金の方はマグロ漁船に乗せてでも、 ちゃんと支払わせますから」 「……はあ」  その展開に呆然とうなずく店員一同。  階段を上っていく幹也と、段差でごすごすごすごすと痛そうな音を立てる橙子の頭。つ いでといってはなんだが、現住所の藤乃の部屋から、橙子の事務所へと住処を移す気まん まんでついていく霧絵の姿が、霊感の持った店員数名に目撃されていた。  もう、ここには誰も残っていない。  そう、即ち。  蒼崎大殲は終結した。  かくして、ハタ迷惑窮まりない姉妹によって引き起こされた闘いは、各方面に様々な種 類の心の傷を残しつつ、あっけなくその幕を閉じた。  敗者はただ一名。  物的被害といえば、蒼崎橙子の借金の額が、今回の出費でまた一桁跳ね上がったくらい である。それも自業自得のため、誰も同情してくれなかったのは当然だった。  これだけの騒ぎのわりに、被害者もほぼ一名で済んだのだから、三咲町も幸運な町であ ると言えよう。

 蒼 崎 大 殲  


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