Story on Lunar



 始まった。

 会場中央に備え付けられた舞台には、怯える牛たちがひしめき合っている。
 もー。
 私が引っぱってくると、それまで大人しくしていた牛は、突然に興奮した。
「え」
 牛は赤に興奮するものである。その現場を見る機会は流石に無かったが、それくらいは
常識で、私でも知っていることだ。だがこの場に赤いものなんて――あった。
 目の前では赤色が揺れていた。それこそ挑発するように。
「ミス・ブルー、牛がそっち行きます。避けてください」
「ん? って」
 火花を散らして睨み合いをしながら、格好付けて赤っぽい髪をなびかせていたミス・ブ
ルーに向かって、ドドドドド、と砂煙をあげ真っ直ぐに突進してくる。鼻息荒く、肉付き
も良く、元気いっぱいでやたら高そうな黒毛和牛。
 慌てて避けるミス・ブルー。いったん行きすぎたが、勢いを殺さずに戻ってくる牛。攻
撃もせず、彼女はなんとか紙一重で避ける。

 荒れ狂う店内は、阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈していた。

 そんなこんなを繰り返していると、嘲笑う声が聞こえてきた。
「へえ、あおあおは牛の世界じゃモテモテか。良かったな。婿も取れないようなジャジャ
馬でも、嫁に貰ってくれそうないい雄牛じゃないか。末永くお幸せに」
「ふっ、ふふふ……。赤っぽくても見向きもされない中途半端が良く言うわねー。負け犬
の遠吠えってこんなに面白いんだ」
「ほう?」
「ところで、そっちはもう更年期障害なんじゃないの?」
 紫電が空中を闊歩していった。ビリビリと肌が痛くなるこの空気。雰囲気はおどろおど
ろしく、常軌を逸しているのは間違いなかった。勝敗の決着が焼肉で良かった。私は安堵
せずにはいられなかった。そもそも戦う目的が真祖液のためという微妙な理由であること
はこの際気にしないことにする。なんでこんなことになってしまったんだろう。気にした
ら負けだ。逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ。
 戦ったらまず無事ですまないであろう、魔法使いに人形遣い。青と橙。共に最高位の魔
術師でなければ対抗し得ない実力者たち。
 そこで、ミス・ブルーは足を止めた。牛に追われていた彼女は、背後から怒濤の勢いで
突撃をしかけてくる牛を見据え、颯爽と立ち向かった。
 ゆらゆらと赤がかった黒髪がまたなびいた。牛はまた興奮して速度を上げた。
 シン、と音が消えた。私は彼女が魔術を使うのかと息を潜め、その言を待った。
 ミス・ブルーは振り返り、
「シオン、そこの包丁取って」
「……ミス・ブルー。魔法使いがいきなりそんな現実的な……」
「ご託はいいからさっさと食べて勝つのよ。で、早く包丁ちょうだい」
 大量に転がっている屠殺用の刃物から一本、妖しげな雰囲気を醸し出しているのを渡し
た。蛇剣に九鈎刀、大斧に日本刀といった凶器は言うに及ばず、刺身包丁から果物ナイフ
まで取りそろえていた。よく見ると鎖鎌から銃まで……屠殺用? とりあえず見なかった
ことにしつつ、
「どうぞ」
「ありがと」
 ミス・ブルーの手で、走ってきた一頭目が美しい肉片へと姿を変える。

 刺し、
 切り、
 通し、
 走らせ、
 ざっくざっくに切断し。
 完膚なきまでに、屠殺しきるという、
 芸術的な、包丁捌きだった。

 ――とたん、遅れて一閃の残像が肩を通り、肩ロース、前ずね、内もも、しんたま、レ
バー、ハツ、ミノ、ハラミ、かたばら、ともばら、外もも、ヒレ、サーロイン、ランプ、
リブロース、タン、ともずねに至るまで――

 真実 瞬く間に ことごとく。
 彼女(雌牛・名前はジェーン)を、十七個の肉片に『解体』した。

 十七個の食肉に分断された牛は血を吹き出すこともなく、その役目と命を終えた体を横
たえた。凶悪なまでの早業である。見れば誰もがこの鮮やかな切り口から見える肉の新鮮
さを窺い知ることが可能だった。真実、そうして切り離された部位の全ては今にも食欲を
誘わんばかりに輝いているとすら見えた。
 牛が、最後の息で叫んだ。

 もー。(ぐっじょぶ!)

 ミス・ブルーは慣れた手つきだった。達人の域である。匠の業である。いったいどこの
部族に紛れてか奥地だかで修行してきたのか。そんな疑問を憶えずにはいられない恐ろし
いまでの腕。完璧な分割。完全な破壊。何ひとつとして無駄な部分の無い牛、その隅々ま
で牛が牛として生涯を終えたという満足に値せんばかりに魂に満たされたままの体。
 血が、思い出したかのように、流れ出した。
 だがそれは肉にしたたる真っ赤な、命の証だ。
 この業にぱち、ぱちと会場から拍手が断続してわき起こる。初めは小さかったそれはだ
んだんと大きく鳴り響き、いつしか会場を揺るがすほどの大拍手へと変わっていった。び
りびりと肌が震えるほどの感動。ありがとう。ありがとうあおあお!
 その言葉が響いた瞬間、会場には静寂が震えた。
 それまでざわめいていたはずの声が消えた。
 ぴちゃん、と包丁から血が落ちる音。
 恐慌がぞわりと背中を駆ける。
 視線が発言の主に向いた。
 ひどく透明な笑顔が、
 じっと見ていて、
 にっこりと、
 声が、

『――今、あおあおって言った奴、ぶっコロス』

 あとはもう、終わりゆく一瞬の出来事でしかない。
 ミス・ブルーは微笑んでいた。ぎしりと何かを潰す音。包丁を持ったまま、拍手してい
た焼き肉屋の群れに飛び込んだ。スタッフに襲いかかった。繰り広げられる魔女の宴。け
ははははという哄笑。ざしゅざしゅと切り刻む影。民衆は怯えている。店員達は凍り付い
たように動けない。哀れ司会者は隅っこでがたがたひざを抱えて泣いていた。こんな戦い
おかしいよう。誰だようルール変えたやつう。もちろん敵対してる魔女二名だったが、そ
んなことは大帝都のスタッフは自分の知らないうちに決まっていたことだ。そう教えられ
ているから誰も知らない。不幸にも疑問すらおぼえなかった。無論、彼らは皆、コトが終
わったら記憶を消される運命である。スタッフが一名、泣きながらパンツを抑えて地上へ
と逃げていった。ふふふふふとミス・ブルーは嗤っている。
 そのうちに、相手にしなくなったためか、知らぬ間に人形遣いも自陣へと戻っていた。
低レベルな争いはここで止めてもらえるらしかった。良かった。私は安堵の息を吐きだし
た。
 ところで都古はどこにいったのだろう? 周囲を見回す。私の計算によれば牛五頭を奪
い合って皿に乗せ食い尽くすには早めに勝負を掛けなければならず、そのためには人員は
減らせない。そしてその上で鍵となるのは、如何に相手に食べさせないかであろう。なぜ
ならこちらの戦力は、(本編その他では攻略対象にできない可哀想な)小さな子供と、(
まだうら若く可憐な美少女天才)錬金術師と、(そろそろ本当に嫁の貰い手探した方がい
いんじゃないだろうか)魔法使いだけなのだから。更に敵対行為ゆえの妨害の点で有利な
相手側を止めるためには――

 ――ピカッ!

 屈折し、光ごと空間がねじ曲げられたのだと分かった。そして一匹の牛が綺麗に解体さ
れていった。
 驚いた私がその方向に目をやると、藤乃と美沙夜が言い争っていた。
『ですから、ビームなんて出せないんです』
『うそおっしゃい! 私には解っているんです。隠さなくてもいいのよ? この前見たテ
レビにちゃんと出てたんだから。ね?』
『……そんな力はもってないです』
『いいえ、貴女が気づいてないだけ。私は貴女のお手伝いをしたいの。貴女はそう、あの
目からビームを出し、世界一の大女優を目指す猫耳宇宙人のように、深夜番組の一コーナ
ー枠からとうとう三十分枠へと躍り出る人気者にならなければならない人材なんです。恋
は奪うもの。恋のために自分を磨くもの。さあ、ですから語尾に《にょ》ってお付けなさ
いな!』
『え……』
『殿方は猫耳と語尾が大好きなんですって。あの鮮花さんのお兄様とやらもきっとそうに
違いありません』
『そ……そうですかにょ?』
『そう。それでよろしいですわ。さあこの黄路美沙夜のためにそのビームで馬車馬の如く
きりきり肉をお焼きなさいっ!』
『――そういうことですか』
 ぴか。(空間がぐるりと回転して美沙夜ちんひとりトルネード)
『あーれー』
 くるくるくる。ひゅどーん。(遠くで見守ってた不運な店員さん一名脱落)
 べしゃ。(顔面から焼き肉屋のタイル床に突入した音)
『じゃあ、橙子さん、肉を食べましょうか』
『藤乃……さん……ヒドイ……ほんの冗談でしたのに……』
 どうやらいきなり仲間割れらしい。
 しくしくと涙を流しながら床で転がっている美沙夜を完全に無視して、藤乃が肉を焼き
だした。人形遣いは助けてやろうという目をして一瞬だけ床を見たが、しだいに流れてく
るかぐわしい香りに耐えられなくなって見捨てた。
 他のことなどどうでもいいと言いたげだった。
 彼女はほかほかと湯気のあがる白いごはんの茶碗を手に持っていた。そして一瞬のうち
に箸が現れた。
 その顔にあるのは、肉が焼けるのを一心不乱に待つ満面の笑みだった。
 よほど飢えていたらしい。彼女が哀れだ。
 おそらくあの喜色から察するに、吸血衝動にも負けぬほどの渇望を生み出す貧困だった
のだろう。そう考えると、多少罪悪感が生まれなくもない。なにせ、こちらが勝利するの
は確定事項なのだ。牛五頭の代金を払うつもりなど毛頭無い以上、あちら側がすべて負担
することになる。
 可哀想に。
 かたわらにいたミス・ブルー(常識人のフリした状態に復活したらしい)に対して、こ
ちらも焼けてきた肉を指し示し、私は提案する。
「さて、まず精力増強のためにはナニから試しましょうか」
「その前に、シオン、それ見えてる?」
「それ?」
「ほら、そこにいる幽霊」
「……幽霊、ですか」
「妨害工作するつもりで来たみたいね」

『――タレはいただいていきます』

 姿は見えない。だが私にも、その声が聞こえた。
「……え」
「待ちなさい!」
 取り出したるは黒光りするたくましい手榴弾。ていっ、とかけ声とピンを外し、秒を数
えながら天上付近へ投げようとする彼女を私は必死に押さえて止めた。
「ってミス・ブルー! 会場を壊す気ですか!」
 彼女は、何気なくその爆発物を懐にしまった。いつの間にかピンが戻っている。
「……ふっ」
 忘れてたと言わんばかりに目を逸らした。
 というか本気で忘れてましたね? 声に出さず目で牽制する。また顔を背けたところで
私はやめておいた。
「しかし面倒ね。やっぱり、いっそあっち側全部消し飛ばさない?」
「……勝負の意味ないじゃないですか」
「そうかな。ちっ」
 舌打ちを聞こえるようにやらないでください。
「とりあえず、まずはタレを取り返さなければなりませんが」
「塩で良ければあるわよ」
「取り返してきます」
「じゃあ、私は食べてるからタレ奪還は任せたわね」


 ぷすぷす。
 床との摩擦で燃え上がっている美沙夜を見つめる、一対の幼い瞳。
 じー。
「こ、この黄路美沙夜、焼けても焦げても立ち直ってみせますからね……」
 都古はじっと見ている。その一挙一動をすべて。あらゆる動きを。
 胸の揺れを。

 ……おっぱいぶるじょあだ!

 仰向けに倒れたことで高い双丘がその存在を誇示していた。都古の目には自分にはない
山がふたつ、越えられないほどの大きな壁としてあった。

 びっぐまうんてん! だぶるすぺしゃる!
 こいつ、二人目のおっぱいぶるじょあだ!

 しかも日本人で、あきはと同じふんいきだ。こはくみたいな黒まくがいたらすぐにあや
つられる三りゅうあくやくみたいな顔つきだし、これならたおせそうだけど、なんでこん
なにこいつもむねが大きいんだろう。ずるい!おっぱいせいじんめ!おっぱいぶるじょあ
のばか!ばかおっぱいー!

 都古は心のなかで悲痛な叫びをしながら、頭がぱちぱちと燃えている美沙夜をじっと見
つめ続けた。大きさを目に焼き付けている。そろそろ焼肉の美味しい匂いが漂ってくるこ
ろだった。どちらの陣営にも。もう戻らないとならない。そしていっぱい食べておっぱい
を大きくするんだ。
 都古の目標はおっぱいぶるじょあに追いつけるくらいなのだから。
 どうにかして起き上がった美沙夜は、勝利は目前とでも言いたげな微笑みを浮かべた。
都古はびくっと震えた。こういう顔は見たことがある。

 ――こいつ、あくのおんなかんぶだったんだ! きっとこはくの手しただ!

「や、焼肉を食べるまでは……そうよ! 肉が呼ぶ、タレが呼ぶ、匂いが呼ぶ。――焼肉
喰えと私を呼ぶ! とうっ!」
 立ち上がって胸を張る。顔についた煤が悪役っぽさを増していた。
 頬に手をやり、高らかに声をあげて笑う美沙夜。

 そして都古は見た。
 ふわふわと飛ぶ瓶。
 ゆっくりとこの敵地へと移動してくる、その焼肉のタレを。


 青子は喰らっていた。
 肉を。
 ただひたすらに、肉を。
 何種類もの焼肉を一万光年の速さで口から胃へと運んでいく。塩しかないというのに、
その速度は衰えるということを知らなかった。
 ときおり、敵陣で何年ぶりかの焼肉に興奮し、みっともなく恍惚とした表情になってい
る自らの姉を鼻で嘲笑うのも忘れない。
 そうして食べているうちに、青子はふと、悟った。
 これは松阪牛ではなかろうか、と。さきほど切り裂いた感触からして良い肉であるのは
間違いなく、さらに毛並みの整ったメスの黒毛和牛である。もしそうなら、一頭につき最
低でも百万以上するんじゃなかろうか、と。だとすれば、負けた場合は五百万は払わねば
ならないのだ。ああ、貧乏な姉はそんなコトになってしまったらどうするのだろう。
 食べるのは止めず、青子は見た。大量に口に運びつつ、しっかりと余韻まで味わってい
る橙子の姿を視認した。その動きのせいか、こちらの肉の減少速度よりも微妙に遅い。
 青子は食べながらつぶやいた。
「もぐもぐ――」(貴女はとても軽率なコトをしてるわ。ニヤリ)
 もうすぐ青子は一頭目を食い尽くすし、戦力が戻ってくる。そうなれば自然、勝つのは
自分である、と口元を歪めた。
 それは、まんま悪役の笑みであった。


 都古は泣きながら「お、おばかー! おばかが出たあーっ」と叫び、こっちに向かって
走ってきた。おそらくお化けが出た、と言いたかったのではないか。まあ、どうでもいい
ことではあるのだが。
「では、奪還作戦を開始します――」
 ひとりごち、私はその方向にあるものを認識した。
 中空で『私を見て! あん、もっと!』とばかりに燦然と存在を誇示し浮遊しているタ
レの瓶まで、距離は9メートル35ミリ弱の位置。その先にキムチを無表情に味わってい
る姿があり、よだれを垂らして肉を見つめている姿がある。とりあえず無視する。目的は
タレの奪還なのであって、他事に関わっている余裕はないのだ。
 行動は迅速に行わなければならない。まず自己が行わねばならない事項を選択する。
 射出用意、思考を分割し、敵対者に対しての最適手段は――
 自らの筋力と距離、更に妨害や回避の可能性を考慮した。タレの形状から床に墜落し破
壊される危険性を計算に含む。誤差の範囲に未確認浮遊物体、俗称幽霊とされる神秘存在
を加算する。有効武器の利用をリスト化、抽出中、逆算、最も効果的な対処は何か。攻撃
行為の影響力に疑問がある。空間に質量は存在せず。過去の事例に物理的攻撃以外で威力
を確認された行動。威嚇も無為。そもそも視認不可でなく接触すら無効化される場合は。
認識完了。また敵集団の会話より同存在の属性及び性質、特質の確認完了。対抗策設定。
現状からタレを奪還する原作戦の成功確率は――、結論。相手は少し性格のねじくれた茶
目っ気あふれる趣味人と判明。
 さあ、これより行動を開始しよう。
 走りより、私は最も効果的であると判断したその言葉を口に出した。
「――会話したいのですが、そこの美しい幽霊の方」
 見えないですけど。という言葉は飲み込む。
 所謂、ごく普通の意味においての説得である。
 姿が見えないが声が聞こえた以上は、話が通じるのだ。ならば私はその方向から平和的
にタレの奪還という目的を果たすことができる。
 僥倖なことに、何故か手元には数日前、琥珀に渡された『人付き合いが苦手なひとに教
える、10のアドバイス@まじかる☆アンバー著』というベストセラーがあった。つい面
白くて徹夜で何度も読み返してしまったのだが、これを読めば志貴と更に仲良くなれるら
しい。私は他人の思考から知識を求めるため、書物に頼ることもなかった。だが、だがし
かし! これほど具体的な方法論の書かれた本があるとは、と驚いたのだ。
 そしていま、その知識を有用に活用出来る場がある。
 せいぜい試させてもらうことにしよう。そして上手く行けば、わざわざ精力増強タレを
開発しなくても目的が果たせる。それも平和的に。なにも試しに秋葉と共同購入したガラ
ナエキスを目的の部屋、その天井裏に潜んで寝入っている志貴の口に垂らさなくてもすむ
のだ。だいたい秋葉が言い出したこの方法には致命的な欠陥がある。そうそう狙い通りに
は行かないはずなのだ。ヘタをすれば翡翠とくっついてしまう可能性も高い。やはり従順
なメイドは愛されるという運命が統計学的に日本を含めた諸外国では証明されているのだ
し。
 ふむ。真祖との交渉にはメイド服を着させる、というのも懸案として追加、と。
 思考が逸れたが……秋葉は友人だ。志貴に対する配慮としてその辺りが迂闊だと明日に
でも進言しておこう。秋葉の体型であればスク水を着ることにより既成事実など一発で作
成できるだろうから。それも白が良い。透けるようなものなら尚良し。
 まあ、それはともかく。
「なーに?」
 無視されなかったのは幸いだった。しかし気力の無い声だ。いっそのこと根性を入れ直
してあげるべきだろうか。声の方向を睨み、私は語気を強めた。ちなみに当然だがエーテ
ライトは繋がりそうに無い。
「貴女の名前を教えてください」
「あ…巫条霧絵っていうの。でも私、死後の冥福のために勤労中ー」
「ええ、分かりますとも。暴虐と貧困の魔女に苦しめられているのですね? 無理矢理サ
ービス残業を押しつけられているのですね? しかも社会という名の一個人の私利私欲の
ため、歯車になれと言われ、必死に働き、最後はポイっと捨てられる。ですが不条理には
対抗するべきです。人間とはこのような場合、立ち向かっていかなければならない生き物
です。許せないじゃないでしょう!? ええ、まったくです。そうやって働いても結局搾
り取られていくだけ。理不尽です。そのような間違っている人間は粛正するべきです。い
え、修正してやらなければ。そう、修正。ふふ、修正ですよ修正。間違いは正さねばなり
ません。立て、立つんだ霧絵ーっ!!」
 いけないいけない。少し前に琥珀に借りた漫画のせいで、私としたことが熱くなりすぎ
てしまったかもしれない。軌道修正しなければ。
「ううん。……私はただ、静かに美少女や美少年を十人くらいはべらせて、死後の世界を
満喫できればそれでいいのに」
 がしっ。
 見えないけれど、手を握ったような気分。いまこそ彼女と心が重なったのだという確信
があった。
 そして正直な霧絵に敬意を表し、私も本音を話すことにした。
「気が合いますね霧絵。私は美少年だけで充分ですが」
 がしゃん。
 見えないが、なんだか心が離れていく音がした。
 本音で話してはいけなかったらしい。
「美少年も美少女も差別しちゃいけないと思うわ。だって、みんなしておもしろおかしく
冥福な気分になれるって素敵でしょう?」
「残念です。良い友人になれると思ったのですが、ここで決裂です」
「そうね」
「ところで冥福な気分って言葉はおかしいと思います」
「……ああ、時が見える……」
「いきなりヘンなもの見ないでください。いや、見えるのかもしれませんが!」
「美少年に目が眩んでしまったあなたには、見えないのよ」
「……そういうものでしょうか」
「ええ。性別なんて飾りです。エロいひとにはそれが分からないんだから」
「美少女は、それほどに素晴らしいものでしょうか」
「あの柔らかい質感! ぷにっとしたほっぺた! 少し拗ねた笑顔! そういったものは
最高なのよー。女子高生にラブよ! チェキっ! ああ、たまらないわ」
 浮いた声だった。
「ってことで一緒にトんでくれる彼氏彼女募集中なのようー」
 言外に込められた意図、熱の篭もった視線、荒い鼻息、それら全てが意味する明確な意
志を私は正確に理解した。すなわち、私を狙っている、という事実を。
 目が。
 私には見えないはずの彼女の目が、うへへ、と笑っているのが解る。
「うふふふふ。――カ・イ・カ・ン」
 危機を察知した私は、吸血種に近づいていた自らの躯を限界まで酷使し、全力で逃亡し
なければならなかった。未だ丁寧に抱えられたタレの瓶が律儀に背後からピッタリと追っ
てきていた。カチャカチャとガラスがぶつかる響きが真後ろに。
「さあ、行きましょうゆーとぴあへ。ぱらいそぱらいそー。さあご一緒に」
「ぱ、ぱらいそ?」
 耳元の声につい反応してしまった。なんか吐息が。ああっ、私の耳が! そこは弱いん
ですやめてくださいやめて――ううっ、そこは志貴専用にとっておいたのに。
「ちなみにゆーとぴあはとある作家が造った言葉で、元々はウトポスだったのを英語風に
なおしたもの。本来の意味は何処にも無いなのよ」
「で、何が言いたいんですかっ」
「一緒に天国にいきましょー」
 絶対に成仏して云々ではない気がする。
「まったく、初めて知りました。幽霊がここまでタチ悪いとは」
「えー? 幽霊らしく振る舞おうってがんばってるのに。霧絵かなピー」
 ――霧絵、貴女はいったい何歳ですか。


 そのころの、ほのぼのとした日本人的食事風景、あるいは教育現場の縮図。
 ちなみに基本的に魔術師というのは学者的な性質を備えているのが一般的なので、だい
たいの場合、教官、先生等の真似事も出来るのである。
 なので、二頭目をスパッと切り分けている最中、青子が教師のような口調で諭す。
「都古、いっぱい食べて大きくなりなさいねー」
「……?」
 都古は、どうして、と目で問うた。
 とりあえず大きくはしたい。最優先事項は、むねむね。
「魔法と少女っていうのは、とても相性が良いものよ」
 意味が解らない、と焼肉をパクつきながら都古は大人しく聴いている。
 青子は子供向けの優しい笑顔で、
「どこかの誰かが、世界中のひとをみんな幸せにすることが最後の魔法だ、なんて言った
らしいわ。そしていま、貴女がこの肉を全部食べきれば、色々なひとが幸せになれるの。
そう、貴女は魔法使いにだってなれるのよ」
 にっこり。
 都古はほえー、と肉を焼きながらその純真そうな、とても良いひとっぽい青子の笑顔を
見ている。
「ちなみに志貴は魔法使いで大人の女性に憧れを抱いているらしいわ」
 にこにこ。
「貴女が食べれば食べるほど、志貴が喜ぶのよ」
 にこにこ。
「胸が小ささに悲しみを感じるなら、貴女はいまこそ努力するときね」
 にこにこ。
「志貴はちっちゃくて神秘的な少女に目がないらしいわ」
 にこにこ。
「さあ、いっぱいお食べなさい。貴女にはそれができるんだから」
 言うまでもないことであろうが、巧妙な誘導であった。一個目の台詞は自分のコトだと
言わず、二個目は青子が幸せになる→志貴も喜ぶという理屈であり、三個目に至っては現
状の否定=肉を食べろ、という心理につけ込んでいる。四個目は志貴とレンの関係に対し
て拡大解釈しているに過ぎない。
 そして都古はそのロリィな体躯ゆえに言葉の誘惑に抗うという選択肢を放棄してしまっ
ていた。だって――肉食べればおっぱいぼいんっ。
 会話は終了し、あとはただ食べる時間だ。
 青子はそろそろ塩だけという現状に飽きているため、主戦力を都古に切り替えた。黙々
と口に運び続けるその姿は、強く、雄々しく輝いていた。
 また、はらはらと周囲を取り囲みこの闘いを見守る歴戦の店員たち。彼らの想いはひと
つだった。みな、敬虔にも南アフリカあたりにいそうな焼肉の神に祈った。
 このちっちゃい娘が肥え太るなんてことのありませんように、と。
 きっと、誰も見たくないはずだから。
 マッシヴな都古の姿など。


 ふと振り返る。私の背後ではスゴイ勢いでミス・ブルーが肉を焼き、都古が豪快な食べ
っぷりで魅せていた。向き直った眼前では、何十人もの人形遣いが一斉に同じ動きでひた
すら腹一杯になるようにと――え? 私は目を疑った。視認情報は確実であることを知り、
ぽかんと間抜けな顔を周囲に見せてしまった。
 ひたすら焼肉を食べる百人単位の同一人物の姿。101匹橙子ちゃん。微妙にパチもん
くさいが、規律の整ったスピードで食べ尽くしていくため異様過ぎる光景だった。
 それは、俗に食いだめと呼ばれる行為だ。
 一体何を。
 バタバタと満腹の適量を腹に入れると満足した様子で出口に消えていく人形遣いのクロ
ーンっぽい者たち。
 私は、それが真実であることに一瞬だけ絶望した。魔術に連なる者として、また錬金術
師としての知識から、なんとかヒトガタの概念は解らなくもない。だが、こんな風に自ら
の同型を(ただ食べるため、それも自分の腹の中に治めるためだけに魂も内包していない
殻を)扱って、このような行動をするとは。一人、また一人と満足した笑顔で帰っていく
魔術師の姿はある意味壮観だった。これだけの技術を持ちながら、なんという。
 ヤツらは一斉にこっちを見た。
『驚いたかね? ミス・シオン』
 当然ながら、私は即刻目を背けた。
 勿論、恥ずかしかったからに決まっていた。それは高価な高機能演算器を買った揚げ句
にごく一部の嗜好品のみにしか利用しないひと昔前の中年男性のようなものだ。(意訳・
高性能のPC組んでエロゲーしかプレイしないようなものだ)
 変態集団から目を逸らし、瓶のみに意識を集中させた。放置プレイされ、さみしそうに
焼肉をつっついている人形遣いはもう視界に入らなかった。
 照準を合わせた。当たらないだろう。効かないだろう。だがそれがどうした。
 貞操の危機に何もせず、後悔するような愚か者にはなりたくはなかった――懐から近接
戦闘用の銃を取り出し、威嚇するように瓶の辺りを狙う。
「うーらーめーしーやー。ところでホンモノの幽霊ってこんな言葉はいわないと思うわ。
だって意味が無いもの」
「ええ。そうかもしれません」
 鋼の音が前方、後方共に焼肉の煙と匂いで埋め尽くされた店内を埋め尽くす。
「ああ、なんでそんな剣呑なことを」
「いい加減タレは力ずくで奪還します。できなくてもします。どうやら手を取り合うこと
は出来ないようですし、なにもこのような回りくどい手段など使うべきではありませんで
した。よく考えれば瓶自体は質量が存在しているわけですから本体に触れられなくとも奪
回できますね。ええ、もうっ。今更気付くなど自分の思考速度を疑ってしまいそうな失態
です」
「くすくす」
 ああ、なにもくすくすと台詞で言わなくてもいいのに。なんて分かりやすい笑い方だろ
うか。
「なにムキになってるのかしら」
 挑発され、カチン、と来た。ああ、やはり相容れない存在なのだ。美少年だけを嗜好す
る者と、両方を慈しみ愛でる者との差。きっと、私たちはどこまでも分かり合えない。
「誰がムキになってると?」
「ほら、ムキムキになってるじゃない」
「誰がムキムキに――って私は筋肉少女ですかっ。というか二回言うな」
「ふふり」
「ヤな笑い方しますね霧絵」
「だって、楽しいんだもの」
 もう、ここまでだった。これ以上時間をかけるとご飯が冷めてしまう。だから私は思考
を戦闘用に切り替えた。
 相手の動きを予測し、自己の肉体の限界値を使い制圧するのだ。
 射角と死角を計算する。円状に派生する間合いを数百の線と空白に分割し、攻撃速度の
最適化、威力と精度により敵対者への桎梏とする波状連撃を予定する。
 腕の筋肉への信号伝達速度をより高速に、より精緻に、しかし破壊しないよう細心の注
意を込める。自分にはそれを円滑にできる技術があり、能力があり、そしてそれを使うた
めの情報があった。他人の知識からでなく、自分がその映像を鑑賞し分析――経験したの
だ。
 超近接格闘に特化した武術にして派生せし、銃術の型。感情を完膚無きまでに抑制し、
あらゆる攻守を計算し尽くした冷徹なる絶技。それは私の領域だった。なら、それを使い
こなしてみせよう。
 凍りついていく私の精神は、その殺気を察知した。
 霧絵は数本の瓶をでたらめな、だが確かに攻撃の意思を以て繰り出してくる。
 問題は、タレをどうやって奪うか。霧絵を倒すのでもなく瓶を破壊するのでもなく、た
だ奪取する。それこそが課せられた問いだ。
 人間ではあり得ない高さより振り下ろされる、あるいは唐突に低位置から伸びる、目に
見えない幽霊の手は速度を増していく。私は無骨な漆黒の、だがその意匠が鈍く輝く愛銃
を手に対抗する。鉄の意思を銃に込め拮抗する。だが決してタレの瓶を壊してはならない。
卵を握りしめるようなやわらかな動きこそが必要だった。
 空気の動きに反応し腕が跳ねた。瓶が振り下ろされるのを薄紙ほどを滑らせる如く打ち
返し、一歩分の場所を入れ替える。霧絵の吐息が聞こえてきそうな近距離、横殴りの颶風
が抜けていった。一閃が私の前髪を切り離す。その顔の前を髪がはらりと落ちるのを視界
に留めながら裏拳の要領で瓶を受け止め、後方へと下がる。
 恐るべきは、透明な中に黒や赤茶色の液体を満たした瓶の鋭さだ。瓶の口から時折その
液体の数滴が空中を跳躍していった。
 伸ばした手に絡みつく失敗の気配を分散させる。感嘆の思考をする余裕などない。刹那
の連打が正面にあった。引き金に指をかけ、一撃目の交差に瓶を二個左へ弾き、二撃目に
銃を右へ弾かれ、結果三合目に間合いを取った。遅れて硝子の高音がキンと響き渡る。振
り返り足を踏み出し、直進で更にまた一度すれ違う。流れのまま隙を崩そうという私の攻
撃の意思は透明な空間に反射し、連撃を交わすうちに威力を殺される。
 疾く斬りかかる勢いで銃を薙ぐ。空気が爆ぜ、舞う。銃口を向ければ気配が離れ、瞬時
に逆の位置に現れる。焼肉の白い煙に包まれるなか硝子と鉄の擦る。その速さに眼前で火
花が散った。
 タレの飛沫が弾け、中空をうねり、私へと襲いかかってくる。だが、その死角に回り込
むのは不可能ではなかった。視えたなら。あるいは感じ取れればそれで良い。そこから来
ると解っているのだ。ならば、この私に避けられないはずがなかった。歩行と体捌きによ
り、錬成にも似た圏の精製を描き出す。
 その一滴一滴がひどくゆっくりと見えた。鮮明にタレの濃さ、弾けて数を増やし分裂す
る微動、空気の流れに揺れ軌道を変えるまで。その動きから生まれうる全ての軌跡が感覚
できた。私は空白となる場所に躊躇無く踏み込む。刹那ごとに消え失せる安全という名の
余裕、そしてまた油断を潰しながら、打ち払い、削り、相手の攻撃と同調し、共振し、雨
粒のごとく降り注いだそれを回避し続けた。不意に、自分が消えていく感覚と動作の影響
だけが残った。その動きは獣じみてはいたが――獣ではありえない完璧な計算でもあるの
だ。狙い澄ましたかのように突如頭上から降下した最後の一滴。無言で腕を振りかざせば、
赤褐色に輝く液体の散弾は鮮やかに砕け散った。射程の圏内に常に留め続けながら。
 そして不意に背面に生まれる殺気、いつの間に移動したのか。上下左右、自在に打ち払
う瓶に銃を合わせ威力を相殺し続ける。ただの一瞬でも気を抜けば相克は崩れ瓶を割るこ
とになる。地面を蹴り前へ。姿無きその場所へ。音無く歩みを止めず私はただ突き進む。
迅雷の速さで、さらに一歩。
 これこそが答えだった。秩序ある動きで創り上げ、確率を絶対化した結晶。自らも敵も
同じく支配する完全。すなわち、未来を確定するということ。
 堅固にも水平を保った足の運びは計算され尽くした練金の業に通じ、滑らかさよりも機
械のそれを思わせた。思考を加速する。打ち合うたびに動作すらも加速する。音だけが遅
れて辺りを満たす。右、水平、射角三十より一点、自己の思考と全く違わぬ速度で反射し
連動する腕は回転しながら瓶を弾き飛ばしていった。
 思考は揺るがない。焦る気配が理解出来る。肌が感覚する。目的の瓶を一個ずつ捕獲し
ていく。そのとき、私には、全てが視えていたのだろう。
 描き出した未来と現実が瞬間、ピタリと一致した。
 ――、――――、――、――――――、
 完全な思考に同化し、何一つとして誤差の無い予測。
 そして私は、強く踏み込んだ。
 最後の一個、辛口のタレを鞭で絡め取り、引き寄せる。
「これで終わり、と」
 ぴしゃん、と濃い液体が一滴、床を汚した。あとはただ静寂だけがあった。このとき私
は知覚した。もう、ここに敵は無いことを。

 ふん、あの幽霊はいいかげんこんな妨害に飽きたというコトか。

「さあ、私もさっさと焼肉を食べることにしましょうか」
 私は独白し、かなりの量が減っているであろう自陣の肉の元へと戻ることにした。


 食い散らかされた山。積み上がった骨(二頭目の名前はメリッサだった)に埋もれ、ミ
ス・ブルーたちは待ちかまえていたかのように、血走った目で私を凝視した。二頭を胃の
中に収めたのだ。それは人類が成しえる偉業としては最高峰のものであろう。
 ミス・ブルーは親指をくいっ、と下に向け、肉を指し示した。いたいけな瞳を濡らして、
都古まで同じようにした。あとはお前の仕事だ、と言いたげな動きだった。
 なんということだ。
 苦心のすえ、ようやくタレの奪取を終えてきたというのに。

 ここにもまた、死闘があった。

 醤油風味のタレを小皿もとい肉の尽きた大皿にどばどばと注ぎ込み、また別の皿には味
噌風味のタレ、適当にコチュジャンやニンニクも――いやニンニクは排除して、レモン汁
を適量垂らし最も食欲を誘う分量に配合したオリジナルタレなども作ってしまう。
 食べているうちに悟ってくる。
 だが果たしてこれは禅で言う魔境なのか。私には解らない。ただ気持ちいい。それだけ
だった。食べれば食べるほど、その心地よさにハマりこんでしまいそうな、快楽。悦楽。
食べるという行為のために食べる。溶けてしまいそうな。それは、いわゆるランナーズハ
イと呼ばれるものと同じなのかもしれなかった。しかし私は受け流した。必死に肉を焼い
て食べ続けた。
 いつしかミス・ブルーも都古も私の隣で食べるのを再開していた。通常の人間が食すこ
との出来る限界などとうに越え、もはや苦痛だけしかないはずなのに。
 しかし、食べる。
 ミス・ブルーの横顔が、声も無く語る。都古のうつろな目が音もなく叫ぶ。食べなけれ
ばならない。目的を果たすためには諦めてはならないのだ、と。
 なんという凛々しい目つき、どこまで純粋な瞳なのか。私は彼女たちを誇りに思う。い
まこそ、このふたりは私の戦友となったのだと、胸に刻みつけた。
 彼女たちは目的のために、真っ直ぐに前を見ているのだ。
 二人の視線の先を私も同じように見据えた。そこには、勝ち誇ったようにくくくと笑っ
ている人形遣いの顔と、席にもたれかかった黄路美沙夜のムダに目立つ胸があった。
 もう一度振り返ってみてみる。
 よく見ると、濁った感じの欲まみれなふたりだった。
 都古はぶつぶつと呟くのが耳に届く。
『おっぱい大きくしなきゃおっぱい大きくしなきゃおっぱい大きくしなきゃお兄ちゃんは
わたしのものなんだからお兄ちゃんはわたしの犬になるお兄ちゃんにはわたしが首輪を』

 ――怖っ。

 都古は、もはや食べ過ぎで八割くらい意識失っているようだった。それでも口に運ぶの
だから、人間の欲望というのは凄いものだと感心させられる。
 ミス・ブルーのほうと言えば、こちらは意識は失っていないが。
 怖気が走るような素晴らしく透明な笑みを浮かべ、不気味なほど楽しげに嗤っていた。
 ……。
 見ないことにして焼肉に立ち向かうことにした。
 周囲数キロメートル範囲内には私しか常識人はいないのか。呆れるしかない。店内にい
る店員には全員、エーテライトを繋げておいて思考を覗いてはみたが、基本的にロリコン
ばかりだった。やれやれ、と肩をすくめながら肉を食べ続ける。焼けるまえに微妙に時間
がかかるのはウェルダンだからだ。好みというか、レアだとしたたる血が少々危ないとい
う判断である。
 焼肉食べ放題という場には、こんな名言があるという。赤いまま食べるヤツは有利なの
だ。その言葉は、きっと正しいのだろう。焼いてタレにつけて食べるという単調な諸動作
では、小さな差異、微かな有利が勝負を分ける。相手側の一名は、そういった意味では強
敵だった。
 だが、食べるのを諦めるわけにはいかない。私はシオン・エルトナム・アトラシア。不
可能を可能にする、アトラスの名を継ぐ錬金術師なのだから。
 ゆえに食べる。そして勝利する。
 普段食べる何十倍もの量。
 苦しい。
 考えることまでも苦痛で。手を伸ばすことにすら嫌悪の情が苛んだ。
 いつか来る終わりを探し求めながら、長い長い闇のなか、真っ直ぐに、そして平坦に伸
びている道を進んでいくのだ。食べては皿に乗せタレを付けまた食べる。繰り返し、繰り
返し、暗夜に広がる雲、その隙間から不意に降り注ぐ月光を頼りに、太陽を探し求める旅
路だった。私の隣を、共に歩き続ける者達も沈黙したまま、箸を動かした。丹念に、丁寧
に、ときに獰猛に、ときに繊細に、強く激しく優しく軽く、一切合切を徹底的に、口へと
胃へと放り込んでいく。
 苦しい。
 苦しくて苦しくて今にも破裂してしまいそう。
 肉の量が減っていた。三頭目の半分までもうすぐ辿り着く。もう相手の量以上を奪う気
力などどちらも残ってはいまい。奪い合った肉の量は結局、同量だった。最後の決着は、
どちらが先にいま手元にある分を食い尽くすかだ。もう味など分からない。それでも皿に
乗ったこの肉を。灼熱に汁の跳ねる肉を。肉を。何十枚もの肉たちを。
 もう何度、胃が悲鳴を上げたことだろう。意識が朦朧としてきた。都古は皿に突っ伏し
てぐったりしているし、ミス・ブルーは口のなかに詰め込んだものを呑み込む体力も残っ
ていないようだ。
 私も同様。
 目に見えて鈍っている食べる速度。救いは、あちらも同じようだったコトか。
 手を伸ばす。
 届いた。
 そして闇に、一筋の光明が差し込んだ気がした。
 自らの現在も知らず、なのに私は思考する。
 どこにあるのだろう、

 空の、境界は――

 この肉を私が口に入れた瞬間だろうか。
 それとも、こうして手にした皿をテーブルに置いた瞬間だろうか。

 かたん、と皿は硬質な音を立て、
 同時に。
 虚無を乗せたもう一枚の同じ音が、敵の手から置かれ、重なった。

 それが、この戦いの終焉を告げる引き金で。
 耳にした途端、不覚にも、私の意識は奈落へと落ちていくのが解った。そのまま思考が
停止する寸前、私はひどく素直な気持ちで天井を見つめていた。薄れていく視界に呑み込
まれていく。だけど、いまはただ、この休息に身を任せたかった。
 そう。
 ――私は、やり遂げたのだから。




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