『オタクのクズ』

       〜A mid summer event〜





 真夏の太陽に照らされ、アスファルトの地面が揺らいでいた。
 コンクリートと電磁波に覆われた街の何処かで蝉が泣き喚き、それに高架を
走り抜ける電車の音が重なる。
 高い湿度に、道行く人々は溜息を漏らしながら流れ出る汗を拭く。

 新世紀を間近に控えた2000年の夏、やはり日本は暑かった――。

 日本列島の中央からやや東、東京は千代田区に《電気街》と呼ばれる街があ
る。
 昔は、電子部品や家電製品の安売りで栄えた街だったが、今ではパソコン、
ゲーム、そしてグッズに同人誌と、いわゆる《オタク》と呼ばれる者達向けの
商品で賑わっている街だ。
 それ故、関東地方のオタク達は必然的にこの街に集まる。
 まるで、聖地を目指して旅する殉教者の如く――。
 特に、教育機関が長期の夏期休暇に突入したこの時期などは、その傾向が寄
り濃く出ていた。





 太陽が、空の頂点に差し掛かろうとする少し前――。

 それは、夏の暑さが作り出した幻覚なのだろうか?
 蒸発した水蒸気がレンズとなって、この場に無いものを蜃気楼として映し出
しているのだろうか?

 電気街の駅前広場に、一人の清楚な薫り漂う少女がいた。
 年の頃なら20歳前後。
 おろしたばかりのような純白のワンピースを着て、足にお揃いの色をした可
愛らしいサンダルを履いている。
 頭には日除けの麦わら帽子。
 帽子の下から覗く長い綺麗な黒髪は、途中を黄色いリボンでくるみ、肩の辺
りから前に垂らしていた。
 何処か儚さすら漂わせる、この街には似つかわしくない線の細い少女だ。

 ほう、と切なげな溜息が少女の可憐な唇から漏れる。

「暑い…です…」

 少女の名前は、長谷部彩――といった。

「ふみゅ〜ん…暑いよ〜…溶けちゃうよ〜…」

 その少女の隣に、もう一人少女がいた。
 彩よりも少し若い感じに見える少女だ。
 黒のタンクトップに赤いスリムタイプのズボン、足には履き慣れたスニーカ
ー。
 タンクトップの上には、若草色した薄手の半袖シャツをワザと崩して着込ん
でいた。
 少し癖のあるショートヘアと、子猫のようにキョロキョロ動く大きな瞳が印
象的な少女だ。

 少女は広場を囲む金網に身を預ける。
 かしゃん、と小さく鳴る金網。

「しおしおしお〜…」

 少女の名前は、大庭詠美――といった。

「詠美〜! 彩〜!」

 その時、電気街の改札口から二人を呼ぶ声がした。
 振り返る二人。
 視線の先には、手を振り上げ、小走りでこちらに向かってきている少女の姿
があった。

 背こそ低いが、年齢は恐らく二人と同年代。
 夏用のオーバーオールの下にオレンジのノースリーブ。足には少し大きめな
バッシュを履いている。
 背中まで伸びた髪を途中で二つに分け、それぞれの先に小さなリボンを付け
ていた。
 顔には丸いレンズの眼鏡が掛けられ、その下では人懐っこい笑顔が向日葵の
ように咲いていた。

「悪い悪い! ちょっと遅れてもうた」

 西の“匂い”がする言葉で話すその少女の名前は、猪名川由宇――といった。



「遅いわよ! 温泉パンダ!! あたしらなんか、もう20分近く待ってるん
だからね!」

 今まで、ひなびた草のように金網に寄り掛かっていた詠美が由宇に噛みつく。

「大体、今回の言い出しっぺがなんで遅刻するのよ〜!」
「いや〜、電車の中がえらい混んでてな」

 はっはっはっ、と笑いながら遅刻の理由を話す由宇。
 しかし、電車内が混んでいてもダイヤの運行にはさほど影響はない。

「う…。な、なら仕方ないわね…」

 だが、何故か納得してしまう詠美。
 この辺が実に詠美らしい。

 ――車内が混んでても、運転のスピードは変わらないはずでは…。

 と、彩は心の中で思ったが、それは黙っておくことにした。
 思ったことを、なんでも口にするのはよろしくない。
 時には言いたい衝動を抑えることも必要だ。
 その方が男の人にはウケが良い。
「今時珍しい奥ゆかしい女の子」と良い方に解釈されるからだ。

 ――与えられた役をこなす…難しいです…。

 彩は、なかなかしたたかな女の子だった。



「ま、遅れたお詫びに…ホレ!」

 由宇はオーバーオールのポケットからなにかを取り出すと、それを二人に放
ってよこした。

「な、なに?」
「……?」

 由宇が放り投げた物を両手で受け取る二人。
 それは良く冷えた炭酸飲料の缶だった。

「駅のホームで買っておいたんや。…どや? キンキンに冷えてるやろ」

 由宇は言いながら自分の分を取り出し、「パキョッ!」と栓を開けて缶を口
に運ぶ。

「ふーん、パンダにしては気が利くじゃない。それじゃ、遠慮なく……」

 彼女と同じように、詠美も缶ジュースの栓を開けた。
 その直後!

 ぷしゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!

 物凄い勢いで缶の中身が吹き出し、詠美に命中する。

「き、きゃあぁぁぁぁぁぁっ! な、なによ〜、これぇ〜」

 予想もしていなかった事に、軽いパニック状態に陥る詠美。
 それを見ていた由宇が、腹を抱えて笑い始めた。

「あははははははは! ま、まさかこんな簡単に引っかかるなんて…。く、苦
しい〜、は、腹痛いわ…」
「うにゅ〜ん…びしょびしょぉ〜…」
「あははは、ホ、ホントお笑いに関しては、相変わらず人の期待を裏切らんヤ
ツやな、詠美って」

 ずぶ濡れとなった詠美の傍らで、彩は、じっと自分の手の中にあるジュース
の缶を見つめていた。

 ――開けないで…良かった…。

 由宇からジュースを投げ渡された時、なんとなく、そんな事になるんじゃな
いかと彩は感じていた。
 他の人はどうだか知らないが、少なくとも彩が知っている猪名川由宇とは、
そういう人間だったから。





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