その穏やかな日差しの中で
このSSは『訣別』の設定に基づいております。

「たまには自分の身も可愛がりなさい」
 昨日の夕餉時、藤ねえがいかに普段から俺が体を酷使しているかという話を延々と
して、そう締めくくったことがきっかけになって、今日は一日大人しくする事になっ
ていた。
 藤ねえ共々ほぼ毎日のように来ていたイリヤも何故か今日はやって来ない。桜はこ
の連休は用事があるらしく、金曜日から出かけていた。
 朝食を済ませ、食後の一服をはさんで食器洗いと洗濯を片付けると、道場に行って
セイバーと竹刀を交える。それから昼食を終えると、夕方まで暇な時間ができる。
「ふぅ」
 大概は誰かと何かしている時間が多いので、こうして何もしないというのは実に手
持ち無沙汰だった。
 忙しなく生きているというわけでもないのだが、一人で何もしないで時間を過ごす
という事に何だか慣れていない。
 暇さえあれば体を動かし、魔術の制御など精神修養に時間を割いていた。
 それは自分を可愛がるのとは正反対の行為だろう。
 藤ねえもそう思っていたからこそ、昨晩あんなことを言っていたのだ。
 言葉自体は別段、珍しいことではない。
 昔から家に通っていた藤ねえは俺のことを良く知っている。
 そしてその言葉を聞くことのない俺を良く知っていたはずだったが、今の俺に対し
てはその言葉で従わせることができることも良く知っていた。
 俺の同居人がそれに賛同する限り、俺は彼女に逆らえない。
 こういうところは何故か譲ってくれないし、また俺も無理を押し通す気力もない。
 だから仕方なく、唯々諾々と従っている。
 けれどもそうすることで一つ、深刻な問題があった。

「暇だ」
 文庫本か漫画でも読んでいる習性があればいいのだが、生憎とそれまでそういう時
間を使ってこなかったし、そもそもその物がない。学園では誰かが読んでいる漫画雑
誌を借りて読んだりもするが、自分で買って読むということがない。
 別に読書に興味がないわけではないが、趣味にするには程遠いぐらいのところであ
った。人から言わせると俺の淡白な部分だそうだが、自分ではよく判らない。
 教科書を開いて予習に励むというのも何か違う気がするし、一時期読み漁ってた料
理雑誌などはもう買わなくなっていた。細かい作り方を教えられなくても、見ただけ
で大体どう作るかわかるようになったのと、桜が加わってレパートリーの使いまわし
に幅が効くようになったのが一因だ。今では買い物のついでに本屋で立ち読みをして、
気に入ったものをざっと記憶する程度でわざわざ購入するまでもなくなっていた。
 元々、節約気質な部分から物を買わないようになっているのも影響している。

「うーん」
 午後も道場で汗を流すか、時間は早いが土蔵でまだ直していないものを修繕するか
したいと思ったが、セイバーの目が光っている。
 藤ねえの言葉に強く賛同した彼女も、日頃の俺に対して同意見らしかった。
 午前中の稽古だけは何とか今日も続けたが、それ以上は認めてくれなかった。
「別に無理してるわけじゃないのになぁ」
 最早これは習慣だ。
 スポーツ選手が日々の練習を休まないようなものだし、健康維持の為に毎日体操を
するようなものだ。いや、ちょっと我ながら無理のあるところか。
「うー」
 ごろごろごろ。
 意味もなく部屋を転げまわる。
 この部屋には殆ど何もない。
 特に必要とするものは数少なかったし、こうした時間を無駄に費やすようなものは
全くといっていいほどなかった。
「参ったなぁ」
 自然、独り言の回数ばかりが増える。
 暇だ。

「……」
 静かだった。
 この屋敷に人の声が絶える事は自分の記憶の中でも、遥か昔のことだった。
 まだ切嗣 ( オヤジ ) がいて、藤ねえが今のように通い詰めになっていない頃。
 二人きりでぼんやりとしている頃以来だろう。
 会話を必要としない時間。
 あの頃はまだそんなものがあって、それはかなり嫌いじゃなかった。
 あれこれと喋っている時よりも、切嗣 ( オヤジ ) の気持ちに近づいていけるような気がしてい
たのだ。
 無論、それはただの俺の錯覚だっただろうが。
 暇だ。

「無為な時間……無為……無為……」
 一日一日の今を大切に生きなさい。
 そんなことを俺に言ってくれたのは誰だっただろう。
 死んだ両親だったか、気紛れに知り合った見知らぬ誰かだったか。
 それは視界の先を思うのではなく、自分の胸の奥を思う―――自分というフィルタ
を通して物事を捉えるということなのだと、漠然と思ってきた。
 思ってきただけで、本当に何も判ってはいなかったが。
 そして判った処でそれは意味を成さない。
 理解することが大事なのではなく、そうすることが大事というものなのだから。
 頭で考えるものではない。
 気がつけばそうできていたとか、そんなものでいいのだろう。
 それが望ましいのだろう。
「むむ」
 そんなことを考えても五分程度。
 暇だ。

「遠坂ー、暇だー」
 かつて憧れだったアイツも今や、俺の中では面白キャラの仲間入りだ。
 まあ、俺なんかよりもずっと立派で、ずっと格好良くて、やっぱり改めて最高な部
分を存分に見せ付けてくれているのではあるが、あの性格は全てをぶち壊す。
 猫被りもいいところ、詐欺そのものだ。
 そんな彼女も何を思ったか急に留学をするとか言い出して、今もまだ帰国していな
い。卒業後には本格的に向こうで勉強をするとのことだが、今も色々とやっているら
しい。留年したらどうするんだとか思うが、まあアイツのことだから何とかするのだ
ろう。そつはないはずだ。
 そして今、遠い空の下にいるだろう遠坂に念波を送る。
 暇だという心の叫び。
 名付けてヒマヒマ電波。
 カンの鋭いアイツならばきっと今頃、この俺の心の訴えを察知して何とかしてくれ
るはずだ。
 さあ遠坂、今すぐ俺にコールミー。
「……」
 ああ、時差とかあったっけ。
 ええと、向こうだと今の時間は……。
「まあ、いいけど」
 特に話すことないし。
 それに流石に本気で届くとは思ってないし。
 うーん。
 暇だ。

「こうなったら寝るか。でも眠くないしなぁ」
 そう言えば最近、夢を見ない。
 特に過去の記憶を掘り起こすような類いの夢は一切見なくなった。
 まるで見る必要がなくなったといわんばかりに。
 もう振り返らずに、未来に向かえとでもいうのだろうか。
 今までもそうしてきたつもりだったが、枷として、いつでも自分に突きつける刃と
しての思いが、夢という形でプレッシャーをかけてきていたとか。
 だとすれば随分都合がいい話だ。
 気持ちの切り替えが出来ていないのに、深層意識では新たなる誓いに向けてかつて
の自分を吹っ切ったとでもいうことになる。
 過ぎ去ったものにも、歩んできたことにも未練も後悔もない。
 新しく誓ったことを誇らしく思うのと同じぐらいに。
 だから、何もそんなあれこれと変わったところをどうこうというのはない筈だ。
 うん。
 きっと本当のところは、単に熟睡することが増えてきたということだろう。
 それだけ安心しているということだ。
 心穏やかになっているというだけのことだ。
 ああ、そうか。
 それだけだったんだ。
 今の俺にとっては。
「うんうん……」
 よし、満足。
「……」
 でも、暇だ。

「ふぅ……」
 時計を見る。
 部屋に戻って三十分を過ぎたところだろうか。
 もう限界だった。
 怪我や体調不良でもないのに、何もしないというのは逆にストレスが溜まる。
 体をしっかり休めるのも大事なことですとは言われたが、このままでは余計に疲れ
るような気がする。
 それに元々、特に昨日激しい運動をしたとかいうわけではない。
 急に設けられた休養日など、持て余すだけでしかなかった。
「俺が休まないといけないのであれば、その責任に一旦はアイツにもある」
 藤ねえの言葉ではなく、彼女の言葉に従ったのだから。
 うんうん。
 立派な詭弁だ。
 これならば遠坂道場のスタンプも一つぐらいは埋まるだろう。
「それにまあ、本当に僅かばかりでも疲れがあるなら―――だし」
 えーと、まあ、大人の階段二人で上ったりとか。
「……コホン」
 う、思い出すな思い出すな。
「あー、あー、あー、うん。なんでもないですよ」
 誰もいないのに自己弁護。
 ちょっと恥ずかしい。
 それでも数分とはかからない。
 やっぱり一人では、暇を解消することはできそうにない。
「よしっ」
 意を決めて立ち上がる。
 せめて話をするか、そうでなければ散歩ぐらいしよう。
 幾らなんでもこう逆にじっとしていると却って体に悪い気がする。
 何よりこう落ち着かないのは、気分が良くない。

 何故かおずおずと部屋を出て、そろそろと廊下を歩く。
 妙に後ろめたいような気分になっていてなんだか知らないが、堂々と出来なかった。
 しかし俺って本当に―――
「本当に、なんだ?」
 ふと、何か本来ここに当て嵌まる単語があった気がするのだが思いつかない。
 それまで当たり前のように使ってきていた言葉、心に留めておいた単語だった気が
するのだが急に霧散してしまっていた。
「まあいいや」
 今は持て余した暇をどうするかが一番大事だ。
 俺をこうした責任はそうさせた相手にとって貰おう。
「さて……」
 出かけた様子もないので道場か、居間にでもいるのだろう。
 話相手でなくても二人でいればぼんやりしていても格好がつくかも知れない。
 じゃあ三時のおやつの時間に―――と別れたのだが、このままだと退屈のあまり死
んでしまいそうだし、大目に見てもらおう。
 まあ、アイツが普段どうやってこの時間を費やしているのかも知りたいし。


 目指す相手はすぐに見つかった。
「セイ―――」
 声をかけようとして、思いとどまる。
 セイバーは居間に残っていた。
 部屋の隅、壁に背中を預けながら目を閉じている。
 片手には、桜あたりに借りたらしき綺麗な紙カバーのついた文庫本が栞に挟んで手
元に閉じられている。


 食後の一休み―――昼寝をしていた。


「おー」
 ちょっと何か感激してしまった。
 何て言うのだろう。
 彼女がここでこうして無防備な寝顔を晒して寝ているということが凄く嬉しい。
 安らかに眠っている。

「ぁ―――」
 そのまま彼女に近づこうと居間に入りかけて、廊下に留まった。
 柱に体重を預けながら、距離を置いたまま彼女を見つめる。
 もうちょっと側で彼女の寝顔を覗き込みたかったし、寝息も聞いてみたい。
 その柔らかそうな頬も突付いてみたいし、手に手を重ねてみたい。
 良ければ肩を寄せ合って添い寝もしてみたかった。
 けれども、足は動かない。
 近づけばきっと、気配を察して彼女は目覚めてしまう。
 そんな心配もあったけれども、それ以上に
「………」
 彼女の作っている空気を壊したくなかった。
 それに、差し込んでくる陽に白い素足を晒しながら、静かに眠っている彼女を眺め
るのはこの場所で十分だった。

 穏やかな午後。
 安らかな時間。
 温かい場所がここにはあった。

 柱に寄りかかりながら、ただ眺める。
 近づきがたいのではなくて、近づくのが勿体無い。
 微かに上下する小さな胸。
 力なく投げ出された手足。
 彼女を知っている者の誰がこんな彼女の姿を想像できようか。
 筋肉がつきすぎて女の子らしくないと自分では思っているようだけれども、今の彼
女はどこからどうみても年相応の少女だった。
 無防備な寝姿。
 それは何よりも彼女がここを安らぎの場としてくれていて、安らげる気持ちを持っ
てくれている証拠だろう。
 セイバーが衛宮家の一人として、そんな彼女の居場所として衛宮家の居間で居眠り
をしているということが堪らなく嬉しい。
 楽しくて、気持ちがいい。
 この気持ちがどういうものかはわからないけれども、そう思えることはとても心地
がいいと思った。
 だからもう少しこうして、眺めていよう。
 気の向くままに、気が済むまでは。



「……シロウ?」
「あ」
 外から吹く風の向きが変わったなぁと思ってから少しして、セイバーはゆっくりと
目を開いていた。
「そこにいたのですか」
「あ、ああ」
 まだ起きたばかりで、意識がはっきりしていないのだろう。
 それでも彼女は笑顔で、廊下にいる俺を迎えてくれた。
「ええと、そのさあ……」
 取り合えず本来の目的を思い出して口を開くと、セイバーの表情が更に嬉しげに変
わった。
「そう言えば、もうそろそろおやつの時間ですね」
「え?」
 何を惚けたことを仰っているのか、このお嬢さんは。
 幾ら何でも早過ぎるだろうに。
 食欲旺盛とはいえ、食べて寝て起きてまたすぐ食べるというのは――――あれ?
「うわ、もう二時半!?」
 時計を見て驚いた。
 二時間近くずっと俺、こうしてたのか。
 あ、そう言えばちょっと体が痛い。
 変な姿勢をとり続けたからだろう。
 やれやれ。
 惚けているのは、どっちだったのか。
「シロウ?」
「あ、いや……」
 内心の動揺を悟られないようにと慌てて取り繕うとするが、どうやら彼女は察した
らしい。
「むっ……」
 彼女の顔がちょっと怒ったように変わる。
「シロウはどうやら誤解をしているようですが、別に私は朝食の後ずっと寝ていたわ
けでは―――」
 訂正。察していなかったようだ。
 少しホッとする。
「ああ、わかってるわかってる」
 俺が来た時には既に寝ていたわけだから―――まあ、本当の事を言うと膨れるから
止めておこう。
 それにずっと眺めていたというのも知られたくはない。
 気恥ずかしいし、多分言うと怒ると思うから。
「お菓子用に林檎が冷蔵庫にあったっけ……これで何か作れないかな―――」
 ご機嫌取りも兼ねて、まだ少し時間もあるから何か作ろうと頭の中でレシピを幾つ
か検索する。
「アップル・クランブルなんかどうだろ?」
 あれならせいぜい40分ぐらいで焼きあがる。
「シロウにお任せします」
 エプロンを手に取り、アップルパイでも作ろうかと買っておいた酸味の強い林檎を
並べると、早速準備に取り掛かる。
「シロウ。何か手伝えることがあれば」
「いや、いいよ。直ぐ済むから。そしたら焼きあがるまで今度は二人で色々のんびり
しよう」
 そう言えば彼女の頃はアフタヌーンティーなんて習慣は当然なかったかなとか思い
ながら、ボウルの中に材料を入れると指先で擦りあわせるように混ぜていく。
 眺めていた時間はさっきで終了。あとは行動あるのみだ。
「色々? シロウ。それはどういう事をですか?」
「ふにふにとか」
「ふ、ふに……ふに?」
 特にどうと聞かれても困るので、適当に返事をする。
 振り返る必要もなく、ステンレス越しには首をかしげるセイバーが写る。
 不明瞭かつ歪んで見えるのにも関わらず困惑の様が見て取れる。
「シロウ。その、わかる言葉で……」
「すりすりとか」
「す……で、ですから!」
 林檎をスライスし終わると、耐熱皿に敷き詰めていく。
 あとはレモン汁とシナモンをふりかけ、生地をその上に敷いてオーブンに入れるだ
けだ。初めて作ってみるのだが多分大丈夫だろう。
「シロウ!」
 いい加減にあしらわれていると思ったのだろう。
 支度を終わらせるのと同時に、セイバーが俺の目の前に割り込んでくる。
「おっと」
 オーブンに入れようとしていた耐熱皿を慌てて持ち直す。
 丁度その腕の下。くっつき合うぐらいの距離にちょっと機嫌を損ねたセイバーの顔
があった。
「う」
 思わず、照れた。
「……会話とはお互いの顔を見てするものです」
 セイバーの顔も赤いのは自分でも近づきすぎたと思ったからだろう。
 けれども動揺を隠して、努めて固い口調で抗議してくる。
「セイバー」
「何ですか、シロウ」
「ふにふにもすりすりもぺたぺたももみもみもぬぷぬぷも教えてやる。少し待て」
「ちょ……ちょっと待ってください、シロウ! その後半の不穏な言葉は一体っ」
「一緒一緒」
 どれもこれもべたべたのついでだし。
「シロウっ」
 昨晩よりは全然ソフトだし。
「つまりさあ」
 耐熱皿をオーブンに入れると扉を閉めてタイマーをセットすると、そのままセイバ
ーの体を抱き寄せた。
「っ!」
 俺の名前を呼びながら、軽く抵抗するセイバーを抱きかかえつつ客間へと向かう。
 彼女が本気で抗うのならとっくに振り解かれている。
 事態が把握できずに戸惑っているというところだろう。
「だらだらでもごろごろでもいいさ。一緒に居たいだけで」
「シロウ?」
 腕の中のセイバーの動きが止まる。
 彼女はこんな時、本当に素直だと思う。
 俺にはとてもとても勿体無い。
「焼きあがるまでの時間、することがないんだ」
 情けないが、たった少しのことで気づかされた。


「だから、うりゃうりゃうりゃ」
「な、シ、シロウッ!?」



―――俺はまだ、一人じゃ暇さえ潰せない。



                           <完>