幕間/尊厳死


 ただ生きてきた。
 自分の父も母も、一族全てが狭いところで縮こまって生きていた。
 いつからそうなったのか、どうしてそうなったのか、何一つ分からない。
 誰も知らないくせに、それを絶対とするものが彼は嫌いだった。
 ただ、嫌いなだけだった。
 嫌いだけで、彼も何もしてこなかった。
 何かできたはずだった。何かやるべきだった。
 地道なことでも、奇想天外なことでも、できることでも、できないことでも、何でもいい。何か、やるべきだったのだ。
 でも彼はしなかった。
 嫌いなだけだった。
 彼が無力だからではない。彼が無能だからではない。
 彼は、そこに生まれていただけだった。
 そこに居るものしか知らず、血肉の一片さえもそこの中のものでしかなかった彼は分からないものの中でしか、存在し得なかった。
 嫌いという感情。
 以って生まれたその一つだけを拠り所にしていた彼は、持て余しながら切り離すこともできず延々と抱え込んだまま生き続けた。
 嫌い嫌い嫌い。
 それだけを繰り返し、積み重ね、塗り固めて生きてきた。
 分からないものだけで作られた彼は、他に分からないものを拒絶する術を知らなかったから。
 異なるものが生まれるはずのない土壌で、異なるものとして生まれたのであればこうも問題は複雑にはならなかっただろう。
 彼は異ならない。ただ嫌いなだけ。
 その感情は簡単に裏返せる程度の、ものであった。
 嫌い嫌い嫌い。
 ただ裏返すことがなかっただけで。機会もなく可能性もなく、きっかけも何一つないまま彼は育ち続けた。生き続けた。
 ただただ長年代々受け継がれてきたものを唯々諾々と続けてきた世界の中で、彼という存在は埋没する筈であった。彼は異端ではなかったから。
 そんな時、現れたのが異界の男だった。
 彼は意味もなく、理由もなく、事情もなく、ただ単に気紛れで彼の前に、彼の世界に現れた。それまで彼の世界を否定するものはあっても異なるものが現れることはなかった。周りは彼でしかなかったから。彼が嫌うものでしかなかったから。
 その異界の男は彼に刺激を与え、そのくせ何一つ関わることなくまた消えていった。
 残されたのは異界の男を吐き出して、再び何もない分からない狭い世界を作り上げていく彼の棲む世界。
 彼は慌てた。
 彼の知る全ての範疇から外れたその異界の男と、異界そのものが彼の前から消えていく。失ったら最後、もう二度と彼が抜け出すことはできない。
 代々与えられたものを受け継ぐだけの、何一つ分からない世界で生き続ける。
 ただ生きるのは、もう、厭だった。


「―――生きてる?」
 片脚を引き摺るようにしながら近寄り、彼を覗き込んでいる者がいる。
 減らず口を返そうとして、口が思うように動かないことに気づいた。
 どうやら自分の知らない間に時間が経過していたようだ。
 口どころか体一つ動きそうにない。
「知ってる。それでだけど……治りたい?」
 軽い口調。
 一応聞いているというポーズだろう。
 相変わらずだ。
 自分も相変わらずなら、こいつも相変わらずだと思う。
 開いたままの目に、残った力を込める。
 端役は端役らしく―――、そう伝えたつもりだが正しく伝わっただろうか。
 何しろ、この少女は自分の知る限り誰よりも……
「余計なことはいい」
 無駄口を封じたつもりなのか、大仰に一枚の札を取り出した。
 もしかしたら最初から持っていたのかもしれない。
 大分目も霞んできていた。
「宗一郎はどっちでも良かったみたいだけど……爺。気は、済んだ?」
 胸の上に彼女の手が触れた。恐らく術符を貼ったのだろう。彼女はそういう役割で存在している。
 ああ―――もう、十分。
 ここに来てからの短い日々は楽しかった。だから十分だった。
「……じゃあね、爺」
 体が熱い。
 そして眠くなった。



「―――お疲れ様」
 その言葉は、全てが終わった後にかけた。
 彼にではなく、彼の存在に向けた言葉だったから。
 彼はようやく“和田”から解放されたのだ。
 労いの言葉を手向けるのは、“和田”である自分としても当然のことだろう。
 別に血の繋がりなど関係はない。
 自分たちは“和田”であることで既に、繋がっているのだから。
「………」
 遠く、柳洞寺を見上げる。
 右脚は感覚こそ相変わらずだが、動くことは出来た。
 動けば歩くことは出来る。
 そしてもう、後は帰るだけだった。
 ここには何の用もない。


 老人の言う通り確かに自分達は端役だ―――と和田は思った。
 月の光にも照らされぬこんな場所にいて、このまま去っていくのだから。



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