しあわせの詩


 闇に沈む柳洞寺では、桜とキャスターの魔術がぶつかり合う。
 聖杯から増大な魔力を受けながらも、ぶつける為の魔術が細く弱いものしか紡ぎ出せないでいいる桜と、魔術師でありながらその力は魔法使いにも匹敵する能力を持つキャスター。桜ほどではないにしろ、他の場所とは違ってキャスターがこの世界で一番魔力を吸い上げることが可能な場所。そして邪魔ももうない。可笑しなぐらいに渡り合えていた。
 既にキャスターは確信している。
 相手に"この世全ての悪アンリマユ"は降りていない。
 彼女自身の精神が残っているのが何よりの証拠だが、それ以上に能力がない。
 "この世全ての悪アンリマユ"という現象が適える奇跡―――彼女が可能とする力を出せていない。ただ圧倒的な量で流れ込む魔力を垂れ流すだけの存在でしかない。
 こんな境内になどうろついていないで、地下に潜ればいいのだ。
 キャスターがきっかけは偶然にしろこの場所を拠点としてからは、この場所に対しては全て知り尽くしている。
 ここからは見えないが、寺中に張り巡らせた彼女の目を通して、境内の裏手にある池に聖杯の門が出現しているのを確認している。けれどもそれは聖杯を求める魔術師の為に用意された門。この小娘は自分が何であるかも忘れている。
 彼女の望みを果たすのであれば、地下に潜らなくてはいけない。
 魂が繋がっているのであれば、こんなおかしな真似はしない。
 キャスターの分の魂が必要なんてことはもうない。
 必要なのは量であって、質ではない。
 溜まってさえいれば、彼女のものである必要などないのだ。
「貴女はただかぶれただけ―――麻疹みたいなものね」
「なにを――――知った風をっ!」
 嘲る。
 負の存在の理想郷を目の前にし、その入り口でその気になって踊っているだけのとんだ道化だ。
「ただアンリマユと己が似ていると―――埋め込まれた欠片を通じてそう感じた程度……この程度でっ」
 生い立ちが似ているというだけで、彼女は選ばれた気になっている。
「いい気にならないで欲しいわね」
 桜が編み出す魔術を悉く無効化し、更に追撃の魔術の矢を放つ。
 それは彼女の体を傷つけることはないものの、彼女の心を引っ掻き回す程度の役にはたった。どっちが勝っているかを知らしめる程度の力には。
「うそ――――そんな、はず」
 表情を変えた桜の周りから、影が浮き立つ。
 それは間桐邸で老人が用意した仕掛けとは比べ物にならない魔力の固まり、サーヴァントの宝具に匹敵する"吸収の魔力"。
 それは一つだけに留まらず、次々と鎌首をもたげていく。
 蔦のように広がり、蛇のように這い寄ってくる。
「―――Μαρδοξ――――!」
 喩えいかなる力であろうとも、魔力で生み出されたものであるのなら、キャスターは太刀打ちが出来る。できないのは物理的攻撃に対するものだけだ。
 水晶で展開されたガラスのような膜は、次々と襲い掛かる黒い触手を遮断する。
「なんで――――っ」
「狂った? 自分しか騙せない嘘はお止めなさいな」
「は? 何を――――あなたがわたしの何を―――」
「別に知りたくもないわ。勝手に見せてるのはあなたじゃない」
「――――っ」
 土壌は桜の支配下にありながら、この力場はキャスターの結界内でもある。
 この場所で記憶と記録を観る魔力を持つキャスターの力を妨げるものは無い。
 桜とアンリマユを結びつけ、動かしている力の魔力マナが彼女の記憶と怨念ならば、この場で力を揮うたびに否応無くキャスターに流れ込む。
「……そんな。そんな、勝手に……!」
「泣き言垂れ流して、同情引こうとする小娘に、この私が屈するとでもお思い? このコルキスの王女メディアを前に、貴女は何を以って不幸とほざくと言うのっ!」
 悪になるべきと定められた存在というのなら、キャスターの方が遥かに勝る。
 自分ひとりに襲う運命だけではない。彼女に向けられた悲劇は実の弟も、我が子さえも手にかけることを定められた身だったのだ。
 ただ悪と定められる為に。魔女という役割を担わせる為に。
 誰一人として彼女を非難しないものは居ない世界に住まわされたこの自分を前に、たかだか十数年苛まれて生きただけの小娘が何を言うと思う。
「ふ、ふざけないで下さい――――! そんなの……そんなのわたしの―――っ!」
 キャスターは自分に襲い来る魔力の渦を、
「―――Ananyzapta――――!」
 はね返す。無論、これも桜の体に当たることはない。
「知ったことじゃない。お互い様よ」
 聖杯を通し、魔法に至る力を持つサーヴァントを得ながら、桜はみすみす魔術師の真似事を続けるのみ。彼女が魔術師である以上、キャスターに負けはない。
 アンリマユという同輩を知り、アンリマユという解放者を得て、アンリマユという存在に逃げ込みながらも、彼女はアンリマユに委ねていない。
 結局は誰も信用していない。
 自分自身でさえも。
 だから、彼女は今も一人ぼっちで泣いている。
 何にもなれずに。
「……彼女が天の杯の奇跡を信じなかったことは、私にとって僥倖」
 少しだけ考える。
 もし"この世全ての悪アンリマユ"に魅入られたのが自分だったのなら―――と。
 詮無い話だ。
「芸が無いわね。これだけのものを得ながら、この程度しかできないのかしら」
 荒くなる呼吸を隠しながら、冷たい視線を桜に向ける。
 全ての攻撃を防ぐことは出来ても、その力の源の差は埋まらない。
 無尽蔵のタンクを抱えている桜に対して、キャスターは自分が存在する為の魔力だけでも常に費やし続けている。この場が彼女の負担を減らし、本来の力量をどれだけ上げていようとも、この都市全ての人間から搾取し続けていようとも、強力な魔術を使い続ければ魔力を汲み取る前に、手持ちが尽きる方が早い。
「どうして――――!? わたしはもう誰にも虐げられないのに……なのに、どうしてただのサーヴァントのあなたが……!」
「もし私が他のクラスであればそうだったでしょうね。セイバーでさえも、この黒い泥からは逃れられない。強力な対魔を備えた力を持とうとも」
 自分の些細な思考にさえ、この目の前の娘は追いつかない。
 溜め息が出る。
「忙しない中だから講義は省かせて貰うわね。アンリマユになれないのなら、あなたはただのアンリマユのマスターでしかない。その気になって力を揮おうとも、あなたという人間の限界が邪魔をするの。しかもアインツベルンの少女のように聖杯そのものとして設えられた存在ですらない。聖杯でもなくアンリマユでもないただの人間の貴女は、無限の貯蔵量に振り回され、放出量の限界の前に翻弄されるしか脳のない小娘に過ぎないわ」
「うああ――――あ、ああああ――――」
「なんどやっても同じよ。狂ったふりをした貴女が手に入れた力なんてその程度。子供の火遊び程度に過ぎないわ。随分と舞い上がっていたようだけど、そろそろ頭も冷えたでしょ」
「ふり、だなんて――――! 何で! どうして……どうしてわたしばかり、こんなコトになるんです。なんで何も……そんなのズルイ。少しぐらい、贔屓してくれたっていいじゃないですか―――!」
 癇癪を爆発させながらも、繰り返されるのは無意味な攻防。
 キャスターには通じない魔術を駆使し、間桐桜は叫び続ける。
「わたしばっかり……わたしばかりこんなコト――せめて狂わせてくれたって……だったらどうしたら良かったって言うんですか! 誰も何もしてくれなかったのに。泣き叫んでも許してくれなかったくせにっ みんな、みんな……」
 運命やら他人の都合やらで好き勝手に人生を弄くられたその姿はかつての自分そのものだ。
 だからこそキャスターは目の前の少女を蔑んでもいたし、哀れんでもいた。
 彼女は所詮、かつての自分ほどの境遇ではない。
 だからこそ選択肢を自分で狭めておいて、その結果に対して八つ当たる彼女を醒めた目で見てしまう。
 自分には誰も味方はいなかった。助けてくれるものも手を差し伸べてくれるものもいなかった。
 誰一人、誰一人としてだ。
 いいように操られ、使われ、口説かれ、そして捨てられた。
 悪行を一身に引き受けさせられ、それを強いた者たちによってその罪を鳴らされた。
 必要な時は頼っておいて、用済みとばかりに。
「……っ」
 その時の恨みを思い出すたびに歯が鳴る。
 奥歯が軋むぐらいに噛み締めていた。
 ただ諦めることだけが救いだった。
 自分はこういうものなのだと受け入れることでしか、保てなかった。
 葛木宗一郎と出会うまでの自分が、今の彼女だ。
 だからこそ、他人事として切り捨てる気にもなれなかった。
 彼女と自分を遇わせた奇跡とやらは、彼女にとって大事な偶然だ。
 このまま何者にもなれず、ただ終わってしまいそうになる彼女の手を取れるのは自分だけだ。
「―――さあ、かつての私。貴女の道は私が拓いてあげる」
 宣言する。
 何故、ということはわからない。
 ただ、感じたことを感じたままに叫んだだけ。
 自然のままの自分。
 こんなにも開放的な気分になれたのは生まれてから初めてではなかろうか。
 今、ここに自分がいる。
 自分が、ここにいる。
「――――」
 キャスターの言葉が理解できなかったらしく、桜は少し怪訝な顔をした。
 今まさに幾多もの欲望と思惑の成れの果ての塊に支配され、利用されている少女に向けてキャスターは懐から一振りのナイフを取り出した。
「新しい寄生虫も速やかに取り除いてあげるわ。ええ、悪い虫の扱いにはこれでも長けているの」
 私も、騙され続けたから―――そう続ける。
「―――そんな玩具みたいな武器で……何ができるっていうんですっ」
 嚇怒。
 桜は馬鹿にされたと思ったのか、表情が一気に険しくなる。
「何もできないわね。貴女を傷つけることも、苦しめることも、死に至らしめることなんかとてもとても」
「だったらっ……これならどうですっ。Es erzählt声は遠くに―――Mein Schatten nimmt Sie私の足は緑を覆う……!」
 その魔術は今の彼女には身に余る。
 恐らくは実現不可で、せいぜい出来損ないを産み出すだけの失敗術。
 キャスターは己の身に纏わせた金羊の衣の守護を信じて飛び込んだ。
 僅かながら、今の彼女は信じることができた。
 駆けるのは得意ではない。けれど、好きにはなれそうだ。
「でも、楽にしてあげることはできるわ。それは結構なことだと思うけれど――――」
 キャスターの破戒すべき全ての符ルール・ブレイカーは正確に桜の心臓の上に突き刺さった。
「あ……は……」
 糸が切れた人形ように倒れる桜。
 そしてそれを見届ける魔術師。
「ガラにもない……」
 あの少年の必死さが感染してしまったのだろうか。
 自分らしくない。
 これではどっちが感化されたかわからない。
 けれど、これで問題は殆ど片付いた。
 結局、今回は上手く行ったのだ。
 今回こそは。
「うふふ。ふふ」
 思わず笑みがこぼれる。
「ふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっ……」
 笑う。
 嘲う。
 口だけで延々と笑い続ける。
 おかしいから。
 とてもおかしいから笑う。
 笑って笑って、笑い続けたその体が、グラリと揺れた。
「いつもそう。そう思うから……私は詰めが甘い」
 涙を浮かばせながら笑うと、その唇から血が流れる。
 勝敗を最初から見透かされていた。どういう決着になるのかさえも。
 そして最高のタイミングで、何の前触れもなく、静かにそのクラスの名の通りに事は行われた。自分の仇は自分で討つ為か、護りたかったものを護るためかはわからない。ただ、行われただけだった。
 キャスターの背中から突き出した幾本もの刃。
 漆黒に色塗られた刃の柄からは、黒水晶のような宝石が埋め込まれて輝いていた。
 アレはいかなる策術が施されていたにしろ、元は執念から生まれたものだ。
 目的を忘れるはずがない。
 忘れていたのは自分ひとりだったとキャスターは自嘲する。
 何せ、人を騙し裏切ることなど、多過ぎたのだから。今更一つのことなど覚えていられる筈がない。
 その全てが真っ赤に光る。
 そして爆発音が、その場で小さく響いた。
「馬鹿ね。もう私は望みを適えたのだから―――」
 ここで満足するべきなのだと、その顔は語っていた。


 その魔女は誰をも騙す存在だった。
 そして何より誰より魔女が騙しているのは彼女自身。
 彼女は自分の悲劇を自分で演じきることで信じている。
 翻弄され続けた可愛そうな身の上だと。
 嘘も通じれば真になるということだ。
 彼女の自作自演の身の上は、サーヴァントとして彼女そのものの象徴として芯になるまでのものになっていた。
「………」
 彼女のマスターである葛木はそれをただ観ていた。
 自分で自分を縛るだけの彼女に対して哀れみを持つことはない。
 同情者ではない。
 自分で災厄を撒き散らして、その災厄に嘆く彼女を見て笑うことをしない。
 嘲笑者でもない。
 だからと言って決して協力者でもなかった。
 彼は結局、彼女を一度も救わなかった。
 彼の言葉で彼女がどれだけ救われたと思っていたとしても。
 彼の態度で彼女がそれほど頼もしく思えていたとしても。
 何の関心もなかった。
 彼は間に合わなかったという理由のみで、その場に背を向ける。
 聖杯戦争は終わっている。
 彼のすべきことはもう何もない。
 ここにはもう。



return