幕間/ひとりぼっち


 嫌な夜だった。
 けれど少女はそれを夜のせいにはしなかった。
 嫌な気分は自分の心。
 嫌な事情は自分の都合。
 決して自分ひとりに夜が訪れるのではないのに等しく、夜は一人一人に特別を向けたりはしない。

 毎晩夜になるのが嫌だった。
 早く朝になってくれと願った。
 夜になるまでが嫌だった。
 朝を迎えるまでの僅かな時間、苛まされ続けるのが彼女に与えられた時間だった。
 朝を迎えればまた彼女は、解放される。
 夜になるまでの間……他人から、自分から解放される。

 少女は常に一人だった。
 ひとりきりだった。
 側に誰がいようとも、何があろうとも少女を一人きりではないとするものはなかった。
 それは夜のとばりのように遠く彼女を傍観するだけの、厭らしいだけの存在だった。
 いつも一人でいつだってひとりで、ひとりきりでずっと一人で彼女はそこにいた。

 何度震えていただろう。
 幾度泣き続けただろう。
 それでも夜は何も彼女に与えてくれず、ただ闇であるように暗く黒く彼女を塗りつぶしてきた。
 彼女は夜に与えられる仕打ちの全てが嫌いだった。
 自分がたったひとりなのだと諭される夜の空気が嫌いだった。
 ただ染めていくだけの夜の色が嫌いだった。

 嫌いだった。
 ずっと、ずっと。



「右脚を持っていかれた……」
 飛び退くのが遅れたから、という理由で。
 実際は遅れてなどいない。
 ただ大きく飛び退くという行動上、力を込める軸足が必要だった為で、彼女にとってその右脚がそうだったに過ぎない。
 遅かったのではない。
 相手が異常だった。
「あれは、なんなのだろう」
 自然、口に出ていた。

 自分から動くことのなかった葛木が珍しく動いた。
 それに気付いた彼女は、決着の日が今日だという事を知る。
 葛木が老人を討ち果たすつもりになれば、老人は間違いなく負ける。
 彪火あやかの側で彼の動きを見ていた者として、普段から老人を良く知るものとしてその判断は揺ぎ無い。
 自分の役目は亡骸を見守ることになる。
 もしかしたら殺すまでは至らないかもしれない。
 だとしてもあの老人が死を選ばないとは思えない。
 結局は看取ることになるだろうと思う。

 だからこそ少女も行動を始めた。
 せめて最後の言葉ぐらい聞いて置かなければ、何の為にわざわざここまで来たのかわからないから。
 彪火あやかの為に老人は存在した。その役目を誇りに思っていたようには思えなかったけれど、老人はずっと努め続けた。
 外敵が現れても、困難に直面しても、老人はその役目を怠ることはなかったしそれは生涯続くと思われた。
 葛木宗一郎という男が現れるまでは。

 彼はただの通りすがりだった。
 自分たちとは何の縁もなく、関わりもない者だった。
 たまたま彼の通り道に自分たちの住む場所があっただけで、たまたま彼がいた時に騒ぎが起きただけで。
 彪火あやかが彼を欲した。
 その一事が全ての原因だ。
 幾ら襲われようとも、何人死のうとも、どんな不利益を蒙ろうとも、そのひとつ以上の大事は自分たちにはない。
 彪火あやかは絶対だ。
 アレがそう言ったのなら、自分らは従うしかない。
 従うことが自分たちの存在する理由なのだから。
 彼女もまた“和田”であったから。

 自分たちではない葛木宗一郎は、彪火あやかの求めに応じなかった。
 物語は本当に、ただそれだけの話だ。
 彪火あやかは欲した。
 けれど、彼は彪火あやかを欲しなかった。
 それだけだ。
 葛木はただ去り、彪火あやかはそんな彼をそれ以上引き止めなかった。
 それは別段おかしなことではない。
 葛木は自分たちではないのだから。

 老人が葛木を追ったのは独断だ。
 彪火あやかの意に添わなかった葛木という存在にどういう感情を持っていたのかは自分にはわからない。
 自分は老人の行動を知った彪火あやかから彼を見届けるように言われただけだ。
 彪火あやかとは存在。
 人ではなく、者ではなく、存在だった。
 存在ゆえに、自分たちにとっては絶対だった。
 人に五体があるように、自分たちには彪火あやかがいる。


 結局、葛木は老人を見つけられなかった。
 葛木が熱心に探さなかったこともある。
 彼は早々と散策を切り上げて、どこぞへと立ち去った。
 自分は先回りをしたつもりになった。
 老人ならそうしていると思ったから。
 自分は葛木が逗留している寺に向かい―――


 そこで闇に染められた。


 周囲の空気は既に凍っていた。
 それがよくないモノだとは理解できた。
 体が動いたのは、そういうモノに対して耐性があったのか適性があったのか、理由はわからない。
 ただ、飛び退いていた。
 なのに、右脚が奪われた。
 出会ったわけではない。
 ぶつかったわけでもない。
「――――」
 今頃になって体が震え出す。
 全てに於いて希薄な心よりも体が恐怖というものに反応しているようだった。


“影”


 そう表現していいのかどうかわからない。
 だがアレはそういうものだろうとは理解できた。
 何をしたわけではない。
 ただアレが寺の石段を這い上がっていくのを目にしただけ。
 目の端に、僅かに知覚しただけでこの始末だった。
「――――――――」
 今かなり離れた場所にいても空間が歪んでいるのがわかる。
 アレがこの近くに存在したという証だろう。
 それともあの場所からここまで汚染されてきているのかもしれない。
 濃厚過ぎて掴めなかった。
 存在感など皆無に等しいアレが、この空間全てを支配している。
「……あれは、何?」
 答えるものなどない。ただ疑問を口にしていた。
 アレは知性もなく理性もなく、おそらく生物でさえあり得まい。
 けれどもその黒い“影”は石段を這い上がっていった。
 その姿を見た彼女に反応など全く見せなかった。
 なのに彼女は侵されていた。
 右脚が重い。
 姿形は何一つ変わらないのに、付け根から先は丸太がぶらさがっているようにただ重いだけの存在になっていた。
 立つ事がやっとで、動かすことなど思いも寄らない。
 術符を使おうにも、どう治療していいのか思いつかない。
 普段から医の者として人体に与えるいかなる異質な力の作用さえも治す彼女であっても、対処の仕様がなかった。
 もしかしたら時間が経てば治るかも知れないと思うだけだ。
「……あれは、何?」
 もう一度だけ、口に出した。
 アレは葛木がいて、老人がいて、その他にも幾らか異質が存在していたこの街でもトビキリの存在だ。
 彼女にとってアレはどうでもいい存在だ。
 少なくても今のところは関わりあう必要が全くない。
 なのに、そう呟かざるを得ないだけの圧倒的なものがあった。


 だからこそ今もその場に立ち止まり、自分が逃げ去った先―――柳洞寺の方を見つめ続けた。
「あ――――」


 その柳洞寺に異変が起きた。
 何かが、動いた。



―――でもやっぱり夜は嫌いです、先輩。



 その時、何故か和田にはそんな声が右脚から聞こえた気がした。



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