支えられて、ここまで
何故か葛木が口を開いた。 俺の心を見通したように。 「な―――っ 宗一郎様、それは一体……」 「ああ。そうだな」 俺も答える。自然と口が開いていた。 「な―――それは、どういう……」 奔流に押し流されていく。 記憶が、過去が、思い出が次々と頭の中に流れ込む。 俺の中で、奥底で沈澱していたものが追いやられる。 考えること。 自分で、自分の頭で、自分の考えで。 考えることを避けてきた部分がなかったとは言わない。 都合の良い部分に置き換えようとしたことは否定しない。 けれど、そう思うこととそうしてしまうことは違う。 何より、それは俺の生き方ではない。 俺が、考えたものでも目指した道でもない。 「お前の言ったこと、確かに違っちゃいないさ。キャスター。俺は自分だけ助かりたがった。他の人を助ける余裕なんかなかった。それを悔やんださ、後悔したさ。何度も何度も後ろめたい気持ちになったさ。あったことを忘れてしまいたいと思ったさ」 あからさまに曲げられたのであれば、もっと早く異物に気づいただろう。 逆方向を目指したのであれば、異常に感づけただろう。 「――――っ」 「お前は確かに嘘は何一つ言わなかったかもしれない。それは俺の気持ちを読み取っていたんだから当然だろう。こんな俺を裁くのは俺の役目だ。それも間違ってなんかいない。けどな、それは俺のすべきことであって、お前に教わることじゃない」 常に、何度も、しつこいように攻め立てられた。 俺の姿をしたものに。 そしてほんの僅かに目的地をずさられていた。 ナビゲートされていた。 俺の記憶を利用した何かに。 「な、何を言って……」 言いながらうろたえるキャスター。 「俺が自分を責め立てる時、いつもお前がいた」 「何を……」 「バゼットが教えてくれたよ、お前の手口を。美綴が言ってくれたよ、俺のお前の用意したその考えのおかしさを。そして……あいつが今、助けてくれた。お前の甘言から」 胸を擦った。 思えはあいつは俺と接触しながら、一度たりとも俺を殺さなかった。 俺が頑張ったからかも知れない。 マスターが望まず、その必要が薄かったからかもしれない。 第一、その可能性は有り得ない。人間ができることじゃない。 それでも、それ以外に考え難い。 どうやったかはわからない。 けど、恐らく間違いはない。 あいつは、きっと……。 もう一度胸を擦る。 破裂した滓が服の中に飛び散っている感触がわかった。裁縫針ぐらいのもので肌に縫い付けられていたのだろうか。気付かないぐらいの大きさであったことは間違いない。これは暗殺者でしかないアサシンが本来できる術ではない。こんな宝石など扱えない。 「屋上で別れてから、お前にとって都合の悪い部分は全て切り離されていた」 「……」 路上で出会った時、バゼットは言っていた。 「考えてる、か。こんなところで暢気に過ごしているようだからてっきり何も考えないで動いているかと思ったが、そうではなかったのだな」 「くっ……」 相手は非日常に身を置いていることを揶揄っている。 落ち着け。 所詮、詰まらない挑発だ。 大方話好きの奴でロクな奴などいない。 「私よりもあいつの方が油断ならない敵だろうに」 何せ聖杯戦争の勝者なのだからなと、付け加える。 「それは……」 「言ってたな。確か、サーヴァント同士が都合良く互いが互いを潰し合っただ? よく言う。あいつと関わっていないのはそれこそ坊や只一人じゃないか」 「……な、に……じゃあキャスターが俺に説明したのは嘘だと言うのか」 「全部が全部本当だと信じたのか。お目出度いな。あれがどんな存在か知らないでの発言なら見る目がないし、知っててなら救いようがない」 「ぐっ……」 「マスターの前でいい娘ぶりたかったのか? それとも坊やに悪感情を抱かれたくなかったのか?」 その上に、何故お前程度の魔術師が大事にされるのかはわからないがなと、余計な事を付け加えた。 「何を……」 何を言っているこの魔術師は。 「そうだろうな。あの女の基準はいつも人を利用するかされるかの二つしかない」 「……っ」 「力を蓄えつつ隠れようとしていたライダーのマスターを騙したのは何処の誰だ? 邪魔な神父を殺そうとしてギルガメッシュに殺されかけたのは何処の誰だ? アーチャーのマスターとの関係を利用して相打ちを図ったのは? そりゃあ、アーチャーも恨み言を残して消えるわな。まるきり手を汚していない顔をしてそこまでやってのけたのだからな」 「馬鹿なことを……皆が皆、あいつの策謀に引っかかったとでも言うのか? そんなにあいつの頭が優秀だとでも?」 「まあせいぜい小賢しい真似を幾つかした程度だろうな。だからこそ今もあんな無様な姿を晒している」 「……」 「まるで全てを見抜いていたような口ぶりだが、実際はそんなじゃない。考えの外ではなかった程度だ。よくいるだろう、答えが出てから自分もそうだと思っていたと言う輩が。あれもそのクチだ。むしろ消え行くアーチャーの方が感づいていたっぽい」 「まてよ、オマエこそそんな全てを見てきたような口を利いて……」 話の都合上、どうしてもキャスターの弁護に回る格好になる。自分が騙されていたと認めたくないだけかも知れない。 「そろそろアイツも認めたらどうだろうな。あの女が悲劇の主人公ではなくただの目先の利益に飢えた痩せ犬だということを」 魔術師は言う。 「神が、運命がそうさせた? 嘘だね。あいつは最初っから自分のことしか考えていない。馬鹿な男に引っかかった自分が許せなかっただけだ。認められなかっただけだ。他人のせいにさえしておけば、自分は悪くないと言いのけられる。それがあの女の生き様じゃないか。何度繰り返しても懲りず、反省もせず、浅はかな行動ばかりなのは自分が被害者だと思うことで、我が身を可愛いと思っているだけだ。運が悪い? 巫山戯るな。あれは誰よりも運がいいんだ。そんな性根の女がこんなにもチャンスを与えられ続けているんだからな。そして勝ち続けている。裏切られた後のあの女はどうした? 不幸になったか? 適当な男を捕まえて王妃になったことはもう忘れたのか? いい男を見つけて囲ったことは? 一つコケた程度でその後の人生全てが悲劇に包まれていたとでも言うのか? 台無しにしたこと自体にあいつの責任は全くないとでも? 弟を殺したのも子供を殺したのもあいつ自身なのだぞ? この聖杯戦争だってそうだ。低脳のマスターに引っかかったとは言え、見切ったのは自分の身勝手さからだろうが! それで消滅するところを救われたその運の良さはなんだ? 自分の生存の為に多くの人間の精力を奪い、魔力を蓄えたのは嫌々か? 渋々か? 喜々としてやっていたんじゃないのか? ただ精力を奪うだけでなく嫉妬深い詰まらない小細工をして回っていたことを知っているか? まさに性悪女の所業だぞ、あれは。あいつの魔力を稼ぐために設えられた結界の為の人柱の存在をおまえは知るまい。確かに数は少ない。手に掛けた数はな。だがあいつが勝ち抜きたいという欲求がなければ決して出なかった数字だ。その結界によって奪われていく一人一人の分の力は確かに少ないが、被害者と呼べる人間は大勢いる。この町の住人全体があいつの餌にされている状況だ。それを知ってて、私だけを敵視するのか、少年」 嘘だ。騙されている。 矛先を自分から背けるためにこいつは……。 「まあ聞け。あいつは聖杯戦争中確かに小賢しく動き回った。そのつまらない小細工に引っかかったのはせいぜいライダーのマスター一人だったようだが、でもそれがどうだ。ギルガメッシュに討たれるべきところをバーサーカーの邪魔で救われ、アーチャーのマスターが敵の正体に気付かないまま飛び込んできたという展開に恵まれ即興で稚拙な罠をはれば偶然で成功する。あの女はろくなことを考えず、大したことも出来ず、人の迷惑ばかり積み重ねてきながら生き長らえている。誰よりも不幸だ可哀想な存在だと喚きながら。見ていてうんざりする。醜悪にもほどがある。神話の存在であって欲しいと願っていたよ。まさか現物をお目にかかる機会があろうとはな。できれば殺してやりたいな。塵一つ残さず消し去ってやりたいさ!」 「おまえっ……」 思わず飛び掛っていた。けれど、勿論相手はそんな俺の稚拙な動きなど読みきったようにあっさりとかわした。糞っ。 「あははは。考えているといったな、衛宮士郎」 悪意ある笑い。その表情に恐怖と憤りが交じり合う。 「おまえは自分で言うよりも相当利用価値のある駒らしい。本当に自覚はないのか?」 「くっ……」 改めて木刀を構えたが、彼女には何の反応も与えられなかった。 「もう一度言う。考えてると言ったな、衛宮士郎。ならば聞こう。何故お前は私が敵で、キャスターを敵でないと決め付けた?」 「決め付けてなんかいないっ。俺はキャスターだって信用なんかしていないっ」 「ほう……それにしては、態度が裏切っているようだが?」 「くっ」 馬鹿にしている。 何故か自分でも感情が抑え切れない。挑発されていることは分かっているのに、自分でもこらえ切れない。 「そりゃ、そうだろう。ヒステリーが仕掛けたものだ。感染ってるのもある意味道理だ」 「はぁ?」 何を知った風な口を。 「まあ、人のことは言えないがな。まあ、これも八つ当たりだ。わかってはいるのだがな……」 「何を……」 「手を組まないか、衛宮士郎」 「嫌だ」 「まあ聞け」 「聞くことなんか――――うわぁぁぁっ!?」 一瞬。 その一瞬で額に手の平をぶつけられた。 何たる油断。 こんなんでは俺の……。 「うわぁぁぁっ!?」 「使えそうなものは生かして使う。道具として使われる身の上は私も良く知っている。むしろ使われる側のエキスパートだからな、私は」 そんな自嘲めいた言葉を聞きながら、俺の意識は暗転した。 何たるミスだ――そう悔やむ俺の心。激しい舌打ち。何たる役立たずだ。 衛宮士郎はなんて役立たずなのだ。強く罵る。 くそっ、こんなんで……。 「あ、れ……」 意識は一瞬で回復した。すうと何かが引く。 既にバゼットの姿はなかった。 それは、キャスターにとって都合の悪い記憶。 バゼットの言葉を必死に遮っている俺の思考。 その思考は毎晩俺を攻め立てていた思考。 何かあるたびに、己を苛めていた思考。 「本当にどうして俺なんかに固執したのかはわからない。俺一人信用させてどうしようとしたのか。でもな、お前がやっていることはただのペテンだということぐらいはわかる」 手駒にされていた。バゼットはそれを示唆していたのだろう。彼女がどこまで気付いていたのかはわからないが。 「おまえは誰も信用していない」 だからこんな真似をする。 俺を追い詰めて、そんな俺に救いの手を差し伸べる。 自分だけが味方だと錯覚させる。 俺は軽率かもしれないが、自分でも頑固だとは思う。 だからこそ自分で考えて、自分で決める。言われて動くものではない。 それに気付いたからこそ、キャスターは俺自身で俺を追い込ませるというまどろっこしい手間を使ったのだろう。寧ろ策謀好きだから、そんな真似をしたのかもしれない。小細工に走る性質の人間は癖になると言うし。 けど、裏目だ。やり過ぎた。 俺はキャスターではない。 彼女の立場では有り得ないことが、俺の周りには当然のようにあった。 「キャスター、俺は一人じゃないんだ。ようやくわかったよ。こんな俺だけど、皆がいてくれた。桜がいてくれた。藤ねえがいてくれた。美綴や一成だってそうだ。……そして、遠坂。あいつらは俺を心配してくれたし、支えてくれた」 「何を言って……」 「お前は俺を一人に追い込もうとしたけど、そのせいで逆に皆の気遣いがわかった」 一成が学校で矢鱈構ってくれたことも、藤ねえが無理をして俺の家に夕食を集りに来てたのも、美綴が幾度となく言ってくれたのも皆追い詰められた俺を心配してだ。 「俺は、皆と生きていた。今までずっとそうだった」 騙す騙される、利用する利用されるの関係ではない。利害や打算で結びついたものではない。照れくさいけど、深い信頼と絆、友情を俺は知っている。そして改めてその強靭さを思い知った。 「俺は皆のおかげでここにいる」 セイバーが、遠坂が、桜が、藤ねえが、最近では美綴が、そして誰よりも俺を導いてくれた 「実の弟一人信用できずに、擲ったオマエなんかの考えに染まるものか」 毒を注がれ続けた。その毒に染まりかけた。けど、最後の一線で踏み止まった。確かに自力ではどうしようもなかったかも知れない。けれど、この助けてもらったものは運ではない。衛宮士郎として生きてきたものが、こうなった。 「知った風な口を利くわね……オマエに何がわかると言うの」 「わからないね。誰も知らない。オマエなんか、知らない」 持ち前の性格か生まれ育った環境のせいか、そんなのは知らない。 目の前のコイツは人を信頼し、理解することを怠った。 利用する方がずっと楽だからだ。 踏み込もうとする努力を怠った臆病者で、正直になれない卑怯者でしかない。 「俺は、俺の道を進む。オマエの身勝手な都合には、従わない」 コイツの目から見た俺の記憶と傷は格好の餌場に見えただろう。 あの押し付けてきた考えは、俺を誘導する事以外に単純にコイツの考えであったのかも知れない。コイツは自分を被害者と呼んだぐらいなのだから。 けど、もう迷わない。 美綴にあれだけのことを言われた。 あれは彼女一人の言葉ではない。 これまで衛宮士郎として生きてきた分、見守られてきただけのカタチがそうなっている。 今ならわかる。 だって、アイツはこんなにしてまで俺を助けてくれたのだから。 二度ならず三度も。 「もしかしてお前……俺をマスターにするつもりだったのか」 「……」 「追い詰め弱らせ、判断力を歪ませた挙句自分のアピール。例の結界を口にしたのも、それを交換条件にするつもりだったな」 「くっ……」 「住人を解放する代わりに、と」 「う、自惚れないで」 「そうだな、自惚れてる。俺がお前の操り人形に簡単にならないなんてな」 「っ……」 葛木は魔術師ではない。 そして葛木がこの町に留まり続けるという確証もない。 聖杯戦争が終われば、どうなる。 聖杯による解放も受けず、この町に縛られたままの彼女では打つべき手は少ない。 ならば都合よく、供給源と足を手に入れなければならない。 協会からは未登録で、人間的に未熟な俺という存在に興味を抱かない筈はない。 魔術師として二流で、俺一人分の力でサーヴァントを留めることは不可能だろう。 けれど、魔術師ですらない葛木に縛られたままの状態に比べれば幾らでもどうともできる。 騙しやすい俺を出し抜くことなど簡単だろう。 けれど、そんな俺にも取り得というか欠点がある。 キャスターの作業はそれを突き崩すものだったと解釈すれば一応の筋は立つ。 これは憶測だ。そして自惚れだ。 でも俺は原因や理由よりも、目の前の出来事を信じる。 支えてくれた皆を信じる。 俺を見てくれていた人たちの為にも、俺はもうこいつの思う通りにはならない。 「でも俺のことはどうでもいいんだ。実を言うと」 逆に感謝したいぐらいだ。 俺にとって大事なことを幾つも気づかせてくれたのだから。 「でもな、これだけは許せない」 正義の味方を貶めようとしたこと。 憧れを踏み躙ったことが許せない。 「だから俺は……」 「いつも……いつも……」 俺の声が彼女の呟きに遮られた。 彼女の声が、そして俺の肩が震えている。 いや、肩を掴んでいる手が震えている。 指先が食い込むほどに、強く、強く。 俺の目の前で、キャスターが、泣いていた。 「おい、そんなの……」 言いたい。 さっきとは違って今度はいっぱいいっぱい言葉が浮かんでくる。 それなのにやっぱり口に出ない。 「くっ……どうしていつもいつも私だけ……」 憎しみ。 憎悪の篭った目で彼女は俺を見た。 やばい。 このままだと俺が――― 「もう、いいか」 「な―――」 まるで他人事のように、葛木が口を挟んだ。 「衛宮士郎」 「な、なんだよ……」 最初の一言以外、それまで俺とキャスターのやり取りには一切の無関心を貫いてきた癖に、こんな時に初めて割って入ってきた。 「 「……は?」 何を言った、 「おまえ―――」 葛木宗一郎。 先日まで俺は彼を現代社会と倫理を受け持つ教師としか知らなかったが、普通の人ではなかったらしい。 こいつは俺と同じで聖杯など欲していない。 なのに聖杯戦争に参加しているのはどうしてだかわからない。 わかるのは、その異常な程の消極性だ。 キャスターがこれまで何をしようとも、今の今までやってきていたように、ただ無関心を貫いていた。 自分の生死に関わるようなことでも、ほぼキャスターの好きにさせている。 そのくせ、決してこいつはキャスターに操られている訳じゃない。 間違いなく自分の意志でキャスターのマスターになっている。 そして確実に言えるのは、彼はキャスターの目的の為にその拳を振るっていた。 それだけの彼が、口を挟む。 「どういう意味だ」 「言葉通りだ。振り上げた拳の下ろしどころを求めて 警告、だろう。 しかし、何で今頃、今更。 第一、今まで何度と無く俺とキャスターがやりあっていた横でお前は…… 「おまえが今、 「……なっ」 それは無関心を貫いていた男の言葉ではない。 そんな馬鹿な。 そんなことを言うなら、本当にお前は――― 「……そ、宗一郎様」 キャスターも呆然と葛木を見ていた。 彼女にとってもこいつの介入は全く想像していなかったのだろうか。 無防備。 彼女は葛木しか見ていない。 体が動く。 とっくの昔に俺の拘束は解けていた。 いや、そんな気まで回っていなかったに違いない。 必死だったのか。 今の、この瞬間に対して。 「………」 ああ、なんだかな―――。 体の力が抜ける。 振り上げた拳は、誰の上にも落とせなくなった。 キャスターが全て悪いのに。 彼女のしたことは、許せることではないのに。 し続けると言ったことも何一つ、黙認できないことなのに。 俺はもう、彼女にぶつける気持ちが消え去ってしまった。 さっきの顔から、今の葛木だけを見続ける顔。 いいなって、思ってしまった。 ―――幸せになるって、いいな。 ガラにもなく、そんな資格さえ持たない俺なのに、そんなことを思ってしまった。 「―――宗一郎……さま……」 キャスターは舌の上で転がすように、口元で噛み締めるようにその名前を呼んだ。 葛木はそんなキャスターにただ、一瞥を向けるだけで何も言葉は発しない。 それは意味が無いから。 意味の無いことは彼はまず、しない。 「宗一郎……さま……」 彼女は繰り返す。 答えて欲しいのではなく、今という現実を確かめる為。 そして葛木もキャスターから一度たりとも視線は外さなかった。 ただキャスターに付き合っていただけのこの男が、いつの間にこんな積極的になったのかは知らない。何かあったのだろう。 キャスターは何かをしたのだろう。 一つの行動がそうなったのか、ずっと続けてきたことが功を奏したのか。 何にせよ、通じたのだ。 報われたのだ。 それはきっと、幸せなこと。 「―――私は、一番欲しかったものが……手に入ったかも知れない……」 誰に聞かせるでもないキャスターの呟きが、俺の耳に届いていた。 憎むべき敵。 狡猾な相手。 そんな思いを払拭できるほどのことではない。 それとは別だ。 けど、強く感じるのだ。 ―――幸せになるって、いいな。 もう一度、強く思った。 そして幸せについて俺に強く迫ったあいつのことを思い出した。 資格云々で言うのなら、キャスターに幸せになる資格はない。 権利云々で言うのなら、キャスターはその権利を放棄してしまっていた。 なのに、彼女は幸せになる。 それは酷いことのようで、すごく眩しかった。 『おまえは、絶対に一人になるな』 あいつは俺が自分一人では楽しいことを見つけられないと知っている。 『懲りなければ、何度だって言ってやるからな。覚悟しておけよ』 馬鹿。 おまえこそ、人の世話焼いてないで、自分の楽しいことを突き進みやがれ。 でないと俺はおまえを頼―――― ドクン 「――――なっ!」 「―――っ!?」 どこかで、何かが、動いた。 慌てて、俺とキャスターはそれぞれ距離を取る。 葛木には感じなかったのか、その場に立ったままで俺とキャスターの動きを目で追っただけだった。 揺れたかのような感覚。 この場所じゃない。 けれども、この地のどこかで――― 「地脈が動いている……何故? あ……ああっ!」 「ど、どうした。キャスター!?」 口元を手で覆い隠すような仕草。 それはもう魔女の動きじゃない。 「やられた! そういうことだったのね、マキリ臓硯!」 「キャスター。だから一体……」 よっぽど悔しかったのかローブのフードを毟るようにして剥ぎ取ると、外気に晒すことのなかった髪を靡かせて、素顔を歪める。 「今、柳洞寺に敷いた私の術が侵入者に破られたわ」 「え? じゃああいつ……」 「ここに私たちが集まった事自体が既に罠だったのね。ええそう……聖杯の力を少しでも用いるのならあの地を制することは当然なのに……不覚だったわ」 手の中で何かを丸めながら悔しがるキャスターには悪いが、俺は詳しい事情がわからないこともあって、その素顔に見惚れていた。 綺麗だったからじゃない。第一素顔自体は既に見ていた。 今の表情。 言い方はおかしいが、悔しがる彼女の表情が本当に生きていると感じたから。 本当に、彼女は、生きていた。 「何て無様な……でもまだ猶予はある。こうしちゃいられないわ。士郎、打ち合わせましょう。宗一郎様もお願いします」 「わかった」 「えっ」 急に顔を上げてこちらを向いたキャスターに一瞬虚を突かれた。 そしていきなり俺の背後で返事をした、葛木は相変わらずだ。 「こう事態が動いた以上、一刻の猶予も無いわ」 「あ、ああ」 敵は柳洞寺にあり。 確かにもう全面対決は避けられない。 さっきの底なし沼のような“黒い影”をあの老人が出せるのであれば、危険だ。 サーヴァントでさえも容易に飲み込むあれは、人だろうとなんだろうと全てを等しく憑き陥とす。 「じゃあすぐに―――」 「でも、そうはいかないらしいわね」 そりゃそうだ。 キャスターをここで倒すことに失敗した以上、柳洞寺に戻らせない為の足止めが必要になる。 葛木の言葉通り、間桐邸に奴らがやってくる。 気配を隠そうともしない。 奴らが、来る。 「キャスター」 「何?」 「おまえ、一人ならすぐに柳洞寺に行けるよな?」 「―――っ」 その一言で俺の意図を察したらしい。 「……行けるわ」 「じゃあ、あっちを頼む」 転移ができない俺たちはキャスターの足手まといになる。 瞬時に寺に戻れるのはキャスター一人だ。 なら、頼むしかない。 「士郎」 「な、なんだよ。喩え何を言ったからって無駄だからな」 「でも……」 「衛宮。あの魔術師を。私はあのアサシンを引き離す」 「わかった」 葛木が俺に声をかけたことで、キャスターは口をつぐんだ。 そしてすぐに、表情を戻した。 いつも通りの魔女の笑み。なのに苛立ちはもう感じない。 「坊や。また会えることを祈ってるわ」 「言ってろ」 「ふふ」 笑って、キャスターは手にしていた何かを投げ捨てた。 それははらりと風に乗り、空に舞い上がっていく。 「くれぐれも気をつけることだ」 「あんたもな」 遠足前の注意のような物言いの葛木を見て妙に可笑しくなる。 何も変わらない。 こんなになってもこの人は変わらないのだと思うと無性に可笑しくなった。 日常の直ぐ裏側に非日常があるとするのならその逆もまた然り。 こんな非日常な状況でも、日常は顔を出している。 失ったものは戻らないけれども、失くさなかったものはまた元通りにできる。 「だから―――」 だからこそ。 「行くぞ」 「ええ」 もう何も、失わない。 |