《幕間/老後の過ごし方》
暗い世界の只中に、それはいた。 見渡す限り一面の闇。窓一つなく湿気だけが篭った空間。 「のどかよの……」 ぽつりと、人が呟く。 それは風情の欠片も感じさせないこの場所で、あたかも雅を体感しているような口調だった。独り言のようなそれは、対面にもう一体存在するものを確認できて初めて会話であったことに気づかせていた。 「……」 だが呟いた人の形をしているだけのモノの前に存在する何かはその言葉に反応することなく、存在をただ続けていた。だからどう喋ろうともこれは一人きりで語っているのと何ら変わることが無い。語る方も語られる方も、そのことなど最初から気づいている。 だからこそ何も変わらない。 「滅びた左腕などに拘るからこうなる。失くしたものは失くしたままが自然なのだ。補おうとすれば他に無理がでるし、取り戻そうとすればその余計なことが付け入られる隙となる。わかるだろうな、■よ。すでにオマエもそうなったものは変えようがなく、変わりようが無いのだ。いや、むしろそうなるべくして望まれたおまえは、それこそが正しい姿と言えようぞ。成すべきことを成すがいい。それだけが、おまえの唯一の道よ」 人モドキはただ喋る。 愉悦を込めて。 怠惰なるものに語る。 誰に語るでもなく誰に向けるでもなく―――誉められることなく称えられることなく、ただ一人詰めるだけで詰めるだけで、詰め続けた末に啓けた道がソレをそうさせる。 何かと何かがぶつかって火花が散る。 乾いた音が、乾いたものにぶつかる。 重なるのは舌打ちの音。 そして声。 「邪魔をするでないわ」 かしゃんという音は下駄が踏み砕いた屋根瓦。 家人が気づいたら自分の家の屋根の悲惨な状況に目をむくことだろう。 だが、それも周りも同様だと知れば、少しは気が紛れるかもしれない。 身に覚えの無い天災が周囲一体の屋根に降りかかったのだと思えば、口々に不幸を語り合い、慰めあい、首を傾げ合えばいいことだ。 平らに等しいというのは悪いことではない。 とある世界では過去の教訓からか突出したものを嫌う傾向にあるという。 一人の天才の指導よりも十余の愚鈍の衆議を好む。 そして天才こそ悪だと忌み嫌う。 独りで裁く者。 これをここまで嫌う世界はそうない。 ヒステリックに全てを否定する。いわば未熟なのだ。 馬鹿は馬鹿なりに、天才は天才なりの使い方がある。 手綱を握ることをせず、足を引っ張って引き摺り下ろすことしか考えない。 馬鹿が万余揃おうとも馬鹿しかいなければ、馬鹿の才以上のものは出ない。 天才は一人居れば事足りる。 天才に支配されることが嫌ならば、天才を使えばいいのだ。 そんな単純なことに気がつかないのがその世界の悪い部分だ。 物事の一面しか見ない。 「―――だからこそ、良いことだ」 自分のようなものには。 どれだけ天才が生まれようとも、馬鹿を並べておけば好きに出来る。 「ふぉ―――っ」 気配が迫る。 避ける。 投げる。 また、カキンという火花と硬い音。 「やるなあ、おい」 手持ちの懐剣は、同じ飛び道具によって封じられる。 実力差は明白。 「しかも本気じゃないときてる」 切り裂かれる皮膚。 紡いだ糸が解けるように細く伸びていく血。 その全ては老人のもの。 老人を構成するものが、足元の瓦礫の上に無造作に零れ落ちる。 「―――――」 彼に対峙するそのモノは何一つ負うことなく、失うことなく、ただ老人に執拗な攻撃を続ける。 近づくことなく、離れることなく。 適度な距離を保ちながら、退いて行く老人を追い続ける。 「くくっくくく」 そんな状況になりながらも、引き攣らせるように喉奥で笑う。 「たまんねえなあ、おい」 虚勢ではない。 過信でもない。 「ぞくぞくしてきやがる」 悦んでいた。 自分が追い詰められているこの状況を。 命を奪われそうになっているのにも関わらず、心から。 「しゃぁ―――っ」 飛ぶ。 がしゃんと直後に嘗ての足場が瓦解する。 「大騒動にはしたくないってことかい」 飛び退き、撥ねるようにして駆ける。 老人の言うようにその攻撃は小さく、細かい。 大きな音と損害を出すことを望んでいない、弱い動き。 にも関わらず老人を執拗に追い詰め、一度たりとも反撃らしい反撃を受けていない。 追う。 物音一つ立てず、滑るように流れるが如く老人の後を追う。 「暗殺者の名前は伊達じゃないってことか」 喋るその皺首に、 赤い筋を作り、また一本体から細い糸を作り出した。 刃に毒がないのが唯一の救いだ。 既に体中あちこちに似たような傷を作っては、細い血の糸を垂らしていた。 「ならば、こいつはどうだ……」 何軒目かの屋根に飛び移り、懐から円盤状の武器を取り出した。 それはインド北部のシーク教徒が用いたとされるチャクラムそのものだったが、装飾もなくただ円形の金属を加工して作った人工的で魅力の無い代物だった。薄く闇に薄白い金属の鈍い光を湛えていた。無論、輪の外側は鋭く刃として削られている。 「しぇいぁっ!」 輪の中心に指を入れて引っ掛けたかと思えば、即座に回転させて追ってくるアサシン目掛けて投擲する。 「たぁっ!」 チャクラムを援護するように、更に両手に抱えた懐剣を二本ずつ、続けて投げることで迎撃に念を押す。 無論、この程度で怯む相手でもなければ、不覚を取る相手でもない。 チャクラムを縦の力で上から潰すように己が目前で叩き落とす―――寸前に、身を躱す。 黒い闇を切り裂くようにしながら、アサシンの反った体の表面を滑るように削っていき、天へと飛んでいった。そのチャクラムは投げたものよりも黒く、小さい。 直後の懐剣は全て手にした黒塗りの短刀で叩き落す。 躱すべく崩れた体勢は既に戻している。 「たいした判断だ。儂の詐術など通用せんということか」 老人は既に場所を移し、コンクリで出来た三階建ての建物の屋上にいた。 アサシンの体はおろか黒い衣装にも傷は無い。 「―――」 「おうよ。影を放った」 追って、その場に降り立った白い髑髏面に老人は答える。 初めて、二人は意識を合わせた。 それまでは戦ってなどいなかった。 アサシンは老人を仕留めることのみ意識を向け、老人のことなど構いもしなかったのだ。 それで事足りる相手とせず、一矢報いたのが今の一撃だった。 「―――ここまで本気で侮られてたのは初めてでな、ちょっと気張ってみたまでよ」 かかかと大口を開けて笑う。 が、状況は変わりは無い。 アサシンには傷一つなく、老人は深手こそ負っていないが、細かな傷は幾つか身に刻まれている。それも実力を出すことなく追っていたアサシンに、全力で逃げていた老人の結果だ。 真っ当な勝負にはなりようがなく、絶体絶命にも見える。 「はは、これで五分か」 それなのに老人はそんなことを口走る。 相手に聞かせるわけではなく、自分に促すように。 「―――さあ行くぞ、顔無しの手練れよ」 「――――――――」 アサシンの思考が戦闘態勢に切り替わる。 それまでが狩猟であったのなら、今は捕殺。 闇に浮かぶその仮面が微かに揺れた。 「ぬう――――」 滑るように、屋上を目いっぱい使い、隅を円を描くようにして今まで立っていたその場から離れる。 が、アサシンは逃げる老人に併走しているかのように同じ動きで追いかける。 「ぬお――――!」 既に遅れていた。 人間の動きにしては迅速過ぎるその足も、アサシンの前には脅威では無いらしい。 しかも追いながら、悠々と手にした 「はンっ」 鼻を鳴らしながら、老人はその短刀を手で止めた。素手ではない。手に填めていたのは、そこまで履いていた筈の下駄だった。屋上に移った際、既に彼の両足は素足になっていた。 腕を振り上げる動作さえ見せず、アサシンの投擲は続くが悉くを下駄の腹で受け止める。 「ははは、どうしてどうして。聊か残念でもある。手前さんが得体の知れないモノだというのなら、その攻撃もそうなのかと思えばこの程度か。期待外れよの」 「――――――――」 老人の哄笑にも関わらず、アサシンは終始無言。 彼にとって戦闘は結果の為の作業でしかない。 逃がさぬように追い詰めたのであれば、後は確実に仕留めるだけ。 ここまで放ってきた 暗殺者は獲物の“能力”を推量し、それに添った必殺の手を放つ。 「―――常に四間」 それは老人も心得ている。徐々に相手に自分の全てが剥かれていくのを感じながら、ギリギリのところを戦っている。 アサシンの既に必殺の それでもアサシンは勝てずにいる。人間相手に驚異的な状況といえる。現に奥の手の一つである爆砕する石を埋め込んだ仕掛けを施した が、それもこれまで。 後は詰めるだけだった。 アサシンは老人の全てを把握し、老人はアサシンをどうすることもできない。 下駄を隠し持っていたのは知っていた。それをどう使うかだけが最後の注意点だったのだが、安易に盾として使用しただけ。その行為はアサシンが想像しうる可能性のうちかなり下に入る部類だった。 故にもう何も無い。 ただ作業として、終えるだけだった。 ――――除くべき敵が、そこに居る老人只一人であるならば。 「都合のいい時だけアテにするんだ?」 少女の声と共に、無造作に放られた術符はアサシンの行く手を遮っていた。 脅威はない。 それは確信であったが、念を入れて身を引いた。 地面に張り付いたその札は端から炎があがり、即座に紙切れを灰に変えていく。 「おうよ」 愉悦交じりの老人の声。 既にアサシンの視界から姿を消していた。 「―――――」 が、関係は無い。 一人が二人に増えてもアサシンに変化は無い。 髑髏を揺らし、溶ける様にして消えた老人の先目掛けて短刀を撃つ。 視界から消えようとも既に老人の全ては把握している。 狙うは眉間。膵臓。そして横隔膜の三点の急所。 まったく同時、一息で放たれた 消えるべく逃げる姿勢の老人には躱しきれぬ追撃の一投だ。 「――――」 放つと共に、背中に背負った黒い闇をはためかせる。 外套に包まれるように隠されていたその右腕を月も星もない天空に掲げた。 人のものとは思えぬ異形の長腕。 天高く翳されたその槍は黒い片翼を生やしながら闇の向こう、 自身の右腕、“ 「―――――」 アサシンは突き出したそれを伸ばしきることなく即座に手繰って戻す。 その手の先には握り潰す為の偽りの心臓ではなく、桐の下駄が握られていた。 その下駄の裏には術符が貼り付けられている。人の姿をしたものが描かれているところから身代わりの符であろうか。その方面の知識のないアサシンには判断がつかない。 ただわかるのは、知らぬ技で知らぬ間に逃げられたということだけだった。 逃がさぬ為の方策から、殺す為の行動に移った時には既に計られていたのだろう。 最初から戦う気などなかったに違いない。 元から、互いに狙い合った戦闘ではなかった。 目障りで邪魔になるから動いたに過ぎない。 だから逃げられたとはいえ、アサシンにしてみれば最初の目的は達したといえる。 誇りがあれば、意地があれば少しは違った反応を示すのかもしれない。 けれどもアサシンは少しも惜しそうな素振りも見せず、符からの火で部分的に焦げていく下駄を放り投げただけで、その場を離れた。 既に老人の全てを見切ったつもりでいる。下駄の仕掛けは裏を掛かれたが、予測外のことではない。次にぶつかる機会があれば即座に殺せる相手だし、ぶつからないのであれば放っておいて構わないだけのことだった。 だからこそアサシンは引く。 主がそうせよとしない限りは、勝手なことをすることはない。 それがアサシン。 本来のアサシンの部分である。 宿主は眠ったまま。彼女の出番は彼がいる時のみだった。 「で、引くつもりはないんでしょ?」 「勿論よ」 それほど離れた場所ではないところに、老人と和田がそれぞれ空気に溶けていったアサシンを見守っていた。 「あんな化け物と戦って何が楽しいんだか」 「ははは。人形風情の汝にはわかるまいよ」 「………」 そんな和田の冷ややかな視線も、老人にとっては嘲笑するものでしかない。 「……奴には会えたか?」 「会った」 「変な技を持つ女が居る」 「知ってる。会ってないけど」 「ひひひ、賢明だな。ありゃあ駄目だ。あれに向き合うには荷が重過ぎる」 「偉そうに」 「おうよ。人間だからな」 「それで……どっちに殺されるつもりなの?」 「今日はたまたまぶつかっただけよ。不運にもな」 さんざん楽しんだくせに、口では不運と言う。和田は冷ややかな視線を向けていた目を瞑った。 「……気狂い」 「人なればよ。従うのみの人形は狂えまい」 「獣でも狂える」 「ならば尚更」 「ふうん」 「問答はこれで終わりか?」 「 「それについては―――葛木の首を土産に謝ることにしよう」 「ありえない」 ありえない。そんなことは不可能だと和田はおろか当の老人さえも知っている。 だから今の言葉に意味はなく、この会話にも意味はない。 「あ、そうだ」 「ん?」 「聞いたけど―――この服、変だって」 自分のゴスロリファッションを指差しながら和田は言う。 「そりゃそうだろうよ。何せ巷で流行云々は戯言だったしな。信じる方が余程どうかして―――んぐっ」 最後まで言う前に、その口に札が貼られる。口だけではない。額、目、鼻、頬、耳、顔のありとあらゆる場所に術符が貼りつき、見る見るうちに老人の体全てを術符で覆ってしまう。まるでミイラ男か紙屑の上に置かれた蓑虫のように術符に全身を絡め取られる。そして発火。ほぼ同時にそれら術符は炎を作り、燃やしていった。 「―――不愉快」 その炎は周囲に延焼することなく、術符だけを燃やし尽くしていった。 とうにそこに老人の姿はない。下駄だけが黒く焦げて転がっている。 故に―――彼女だけが、そこにいた。 |