《トラウマジャンキー》


「がっ」
 喉の奥で発音が無残にも千切れたような、凄惨で短い悲鳴。
 刃か何かが突き刺さった瞬間に漏れたその声は、瞬時に別の音でかき消される。
 暗い世界が一瞬、白く赤く小さく輝いた。
「――――っ!?」
 爆ぜる。
 重く鈍い音と共に、それは起きた。
 俺の目の前、先ほどまで俺の体に触れていた彼女の左腕。
 その腕を切り裂き、中ほどまで貫いた何かは、その刃によって傷つけた彼女の腕を巻き込むようにして爆発し、四散した。
 呆気なく。
 人の躰が欠けていく。
 穿たれた穴が膨らみ、穴を維持できなくなった肉と皮が引き裂かれる。
 詰められていた血肉は、勢いにまかせて散らばった。
 骨は既にその意味を成さず、吹き飛んだ破片を構成する一部と変わり果てる。
 指が、甲が、骨が、皮が、肉が、思い思いに分裂し、好き勝手に吹き飛んだ。
 砕け散った鉄の破片と等しくなりながら。
 霰のように、花火のように。
 血。血。血。
 赤いものが、赤黒いものが、赤白いものが、粒となる。
 霧のように、粉末のように。
 それが全てかつては彼女の左腕を構成していたものだと理解できた瞬間、悲鳴が飛び込んだ。

「が、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――っ!!」

 人の悲鳴というよりも獣のような絶叫。
 そして俺は正気と時間を取り戻す。
「な――――っ」
 火薬でも仕掛けられていたのか、それとも元々そういう武器だったのかは分からない。
 美綴に投げられて受身も取れず、アスファルトの地面によって叩きつけられた背中の痛みとそれに伴う呼吸困難に陥った俺にわかるのは、左腕の肘から先を吹き飛ばされた美綴と、彼女にかばわなければ吹き飛ばされたのは俺の体そのものだったということぐらいだった。
「うぁ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――っ!」
 俺を投げ飛ばした少女は発声の極限まで叫びながら、失った腕を抱え込むように両膝をついてその場に崩折れた。
「み、美綴っ! がは……っ」
 くそっ、くそっ、くそっ。
 何度も罵りながら起き上がる。

「くはあっ! がはっ、げほっ……ごほごほっ」

 息苦しい?
 知ったことかっ!

 息を止めて、彼女の元に駆け寄った俺が見たのは赤だらけの光景だった。
 破裂した際に肉と共に飛び散った血とは別に、傷口から噴出す血が、彼女の服を、スカートを濡らしながら地面に零れ落ちる。
 その凄惨な光景を前に呆然と立ち尽くす。
 血腥い光景に気圧されたわけじゃない。

「な、なんだよ、これ……」

 なんなんだよ。
 どうしてこんなことになってるんだよ。
 俺じゃなくて、どうしてこいつなんだ。
 血を流しているのは。
 痛みに苦しんでいるのは。

「どうして俺じゃないんだよ……」

 どうしてこれを俺に見せる。
 どうして俺の目の前で。
 どうして俺を差し置いて。
 どうして?
 どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどウしてどうしテどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドうしてどうシてどうしてどうしてどうしてどうしテドうしてどうしてどうしてどウシてどうしてどうシテどうしてどうしてどうしてどうしてドうしてどうしてどうしてどうしテどうしてどうしてどうシテどうしてドうしてどうシてどうしてどうしてどうしてどうしテドうしてどうしてどうしてどウシてどうしてどうシテどうしてどうしてドうしてどうシてどうしてどうしてどうしてどうしテドうしてどうしてどうシてどうしてどうしてどうして――――――――――――

「あ、ああ……」
 何か扉が開く。
「ああ、ああああああっ」
 思い出してはいけないものを思い出す。
「あ、あ、あああ、あああああ、ああああっ」
 忘れようと必死になっていたことを、棄てたくせに枷になってしまったことを思い出す。
 夢なんか見てない。
 あんなことは覚えていない。
 何もない。
 何もないんだ。
「ああああああああ――――っ! うぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!」
 なのにどうして、こんなにも鮮明に、明瞭に、届くのだろう。


―――さあ、審判を始めよう。

 聞いたことがない声。
 聞いてなんかやらない声。
 知らない人。
 知ってなんかやらない人。
 気味が悪い人。
 鏡なんか要らない。
 欲しいのは道。
 前に進む為の一方通行の道。
 振り返らずにただ歩くだけで済み道。
 何も追いかけてこない、誰もついてこない道。
 ずんずんずん。
 とことことこ。
 たったった。
 小走りになる。
 急がなくてもいいのに。
 慌てなくてもいいのに。
 何かが迫ってきてしまう気がして、知らずに足を速めていた。
 急げや急げ。
 進めや進め。
 まだまだ先は遠く先。
 見えたりしない遠い先。
 遥か遠くへ歩けや歩け。
 それなのに、少しも進まない。
 目の前の道をぐるぐると回っている。
 邪魔な建物が遮っていて、周囲は柵に囲まれていて、どこにも行くことなんかできやしない。
 見覚えのある建物。
 近寄ったことなんかないし、柵なんかないのに。
 そこに俺は閉じ込められている。
 坂の上。
 冬木の土地唯一の異界。
 断罪の場。
 冬木教会。
 いつしか俺は教会の中にいた。
 講堂はずっと広く、どこまでも先が見えない。
 聞こえてくるのは教会のパイプオルガン。そして講堂中に響き渡るおおおぉんおおおおぉんという幾多もの怨嗟の声。人の声。死者の声。
 その声は一様に俺を責めていた。
 先を急ごうとする俺を責めていた。
 一様に。
 声を揃えて。
 何故、お前は忘れるのだと。
 逃げるのだと。
 今更我らを救うなんて戯言は止めろと。
 言うのが、死者が。
 ただ認めろと。
 俺は――――――なんだ、と。


 ごうごうと炎で赤焼けた空の下で死人と死人になるための重傷者が転がる荒野ではなく、暗く冷たいアスファルトの上で美綴が蹲っている。
 ここは、どこだ?
 一歩も進んでいないのか、俺は。
 彼女もまた、俺の目の前で死ぬのか。死ぬことを俺は心の中で待つのか。
 嫌だ。
 そんなのは嫌だ。
「どうして繰り返させるんだよっ!」
 こんなのは嫌なのに。
 繰り返さない為に努力してきたのに。
 正義の味方という格好の道を与えられ、縋るようにしてそれを目指してきたのに。
「どうして救われる側なんだよっ!」
 苦しんでいる人を放って逃げ出した俺がただ一人救い上げれた。
 あの時、彷徨う俺に救いを求めた人々は誰一人助からなかったのに、背を向けた俺だけが助かった。
 あのときから、ずっと俺はもう……。

「それなのに―――」
 この期に及んで、救う側になれず救われる側になっている。

「まだ足りないのかよっ。まだ他人を犠牲にして生き延びたいのかよっ!」
 この身を八つ裂きにしたい。
 そんな思いはただの自己満足でしかないとわかっているのに、そうでもしないと許されないような気がして仕方がなかった。

 迫り来る危険も、目の前の事態も、積み上げた記憶も、距離を置いた日常も、全てが頭から飛んでいた。
「うわぁ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――っ」
 悲鳴を上げている。
 救われたいのだ。
 助かりたいのだ。
 あの時、俺はこうしたかった。
 泣き喚いて、人を見るたびに寄りかかりたかった。
 求めるだけでいたかった。
 それができないと、どうすることもできないと、わかっていたからこそ、俺は必死になったのだ。
 もし、ここで泣き喚くのだったらもっと早くしていれば良かったのだ。
 こんなのは退化だ。
 だから俺は泣かない。それに、泣けなかった。
 なけなしの涙はこないだもう使ってしまったから。
 それにどんなにつまらないことや、他愛ないことで涙は使えても、こんなことで使ってはいけない。
 あの時、俺は泣かなかったのだから。

「く、くそっ……」
 俺は何だ。
 俺は何だ。
 俺は何になるのだ。
 俺は何にならないといけないんだ。
 さあ、わかるだろう衛宮士郎。
 何度も深く刻み込んだ筈だ。
 ずっとずっと延々と一番深いところまでその根っこは張っている筈だ。
 だったらわかるだろう。
 俺はどうするべきなのか。

「え――――?」
 美綴の傷の止血をする事すら思い至らずにいた俺の前にすっと、白磁のような仮面の顔が現れた。しゃれこうべを模したその仮面の中の目は俺だけを見ていた。
「――――な」
 俺と美綴の間に割って入ったその存在は、仰け反った俺の顔に向けて、刃を突き立てるべく刃物を持った腕を振る。
 大きく振りかざされた腕が、鞭のように撓って迫る。

 キィィィン

 火花。
 刃が刃によって防がれた金属音がした。

「あっ」
「――――っ」
 自然、剣で防いでいた。
 時間にして瞬きする間もないコンマ以下の判断。
 俺の魔術は、これができる。
 出してみてから気がついた。
 無意識のうちに、無自覚のままに出来ていた。

 剣の精製。
 それは“強化”ではなく“投影”だ。
 強化とは文字通り、物を強化することだ。
 強化はおもに物を硬くする事と思われがちだが、実際は物の効果を強化させる。
 刃物ならより切れやすく、ランプならより明るく、という風に。
 投影はその更に上、無い物を複製するという魔術。
 強化や変化みたいに元からある物に手を加える魔術と違い、無から一から十までを全て自分の魔力によって構成する。
 それ故に、出来たものは脆弱で果敢無い。
 ただの一撃を受け止めただけで、手にしていた剣は粉々に砕け散り、跡形もなく消えてしまった。
「――――」
「うぉぉぉぉ―――っ!」
 俺の武器が砕けたのを見て、すかさず第二撃が振るわれようとした時、今度こそ強化した木刀で刃を防いだ。
 隅々まで魔力を通して強化した木刀は木の重さのまま鉄の塊よりも硬く仕上がっている。
 しかし、どれほどの武器も最初の一回で出せなければ意味が無い。今回はたまたま何とかなったがそうならなかった場合、もう俺は終わっている。
 舌打ちしたくなるほどの猛省を。
 けれども今は、集中を。
「おまえは―――っ!」
 木刀で防いでいるその短刀は見覚えがある。黒く塗られた投擲用の小さな短刀ダーク。離れた敵を鋭く穿つそのナイフはさっき美綴の腕を奪ったものと同じものだ。
「おまえが―――っ!」
 許さない。
 俺は絶対におまえを許さない。


――――俺の考えの邪魔をするおまえを、許さない!


 一瞬にして闘志が噴きあがった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――っ!」
 一閃。
 誰も居ない空気を切り裂いた。
 上段からの振り下ろし。
 その一歩先に身を引かれる。
「くっ……」
 力任せの攻撃など当たる筈が無い。
 感情が昂ぶっただけの動きなど見透かされて当然だ。
 頭でそんなことを理解していても、素直に頷けるはずも無かった。
 見え見えのフェイントを挟んでの、連続した突き。
 一人芝居を演じているような間抜けな動き。
「……っ!」
 そんな俺を一撃で潰すべく振るわれた短刀ダーク
 投げる為の武器を、振り回す為に使ってくる。
 それは俺を嘲笑しているとしか思えなかった。
 頭がカァっとなっていく。
 それでは駄目だと警告するのも自分なら、それを五月蝿いとばかりに無視するのも自分だった。
 木刀と短刀を挟んでの力比べ。
 単純な腕力はこっちの方がやや上か。
 力比べで勝ったとて何の意味も無いのに、その事実が自信をつけてさらに力を込めていた。
 いつ向こうから引かれるか、敵の次の一手に繋げていくか―――そんなことがわからないでもないのに、ただ木刀に力を込め続けていた。
「あっ」
 瞬間、手ごたえが軽くなる。
 が、カウンターはない。
 襲撃者は姿を消していた。
 まるで空気に溶けたかのようにあっという間の出来事だった。
「なっ……」
 慌てて周囲を窺う。
 油断はできない。
 何よりもまだ敵の気配が濃厚に残っていた。
「どこに―――っ!」
 息を呑む。

 すぐ、に―――
 見た。
 あった。
 気づいた。
 居た。
 いや違う。
 違うのが居た。
 直ぐ隣に、さっきまでは存在しなかったものがいる。

「何だよ、おまえ―――」
 それは相変わらずの格好をしていた。
 出会ったときと変わらぬ衣装。
 その服装はそれが、そういうものだと何より証明している。

「ここで何をしている」
 この町で。
 この場所で。
 この俺の目の前で。
 美綴の前で屈み込むようにして。

「何で、ここにいるんだよ……」

 魔術を使う者。
 キャスターの称号を持つことで現界している魔女が居た。

「おまえ―――」

 行き場の無い怒りが出口を求めて俺の中で暴れている。
 さっきの仮面にぶつけ損なった分、この魔女にぶつけようとしている。
 感覚を失っていく体。
 積み重なる死体。
 怨嗟の渦。
 蠢く負傷者。
 チラチラと芽吹く火種。
 崩れ落ちる瓦礫。
 痺れる全身。
 削られていく意識。
 呼び止める声。
 前へ動く視線。
 見えない。
 何も見えない。
 聞こえない。
 何も聞こえない。
 わからない。
 何もわからない。
 知らない。
 何も知らない。
 ■■■■■。
 何も■■■ない。
 煩い。
 煩い煩い煩い。
 聞こえないのに煩い。
 放っておいてくれ。
 どうせ俺なんか何もしないのだ。
 しないのだから。
 おまえなんかに。
 どうせ無理なんだから。
 できっこないのだから。
 だったら。
 せめて。
 そうだろう?


―――俺一人ぐらい、生き残らなくちゃ嘘だろう?


「……うぐっ」
 喉の奥からせり上がってくる嘔吐感。
 吐瀉物が行き場を求めて俺の中をのた打ち回っている。
 何か今、俺は考えてた、か?
 どうして?
 関係ないことなのに。
 全然そんな場面じゃないのに。
 俺は怒っていたんじゃないのか?
 自分の無力感に。
 それを指し示す嫌味な奴らに。
 違うのか?
 違ったのか?
「が……がはっ!」
 耐え切れなくなって、吐き出そうと大口を開ける。
 が、何も出ない。
 くそっ。
 喉元まできているのに出てこない。
 何なんだよ、一体。
 俺はどうしちまったんだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 全身が汗だくになっていた。
 冷たい汗が体中の至るところを濡らし、染み込ませていた。
 有り得ない循環。表層の反芻。
 意識の混濁がそんな錯覚を定義する。
 暑いっ……いや、寒い。歯が鳴りそうだ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 息を荒げているのに落ち着いてきた。
 OK。大丈夫だ。
 もう何も無いから平気だ。大丈夫。



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