《奔れ、美綴/綾子》


 駆けていた。
 何も考えられず、判断すらつかなかったのに。
 足が動いていた。
 一瞬の出来事だった筈だ。
 それなのに時間の流れが遅い。
 こんなにもあたしは思い出している。
 余計なことばかりを。
「―――なんでさ」
 それが彼の口癖だとあたしが知ったのは、知り合って結構早い時期だった。
 誰か相手に向けて言うよりもどちらかと言えば、自分に向けて呟くことで使う口癖。
 恐らくは声に出さない時の方が多用しているのだろう。
 そんな貴重な癖を見つけて悦に入るのがあたし、美綴綾子という女だった。
 ここぞという時にぶつけて反応を楽しむ為に、気づいていても気づかない振りを続ける。
 自分では意地が悪いとは思っていないのだから、始末が悪い。
 だが、今はそんな場合ではなかった。
 不用意に口癖を出していた彼にとっても。
 それを聞きとったあたしにとっても。
「――――っ」
 数歩離れていた距離が、ゼロに縮まる。
 二歩? 三歩?
 いや、一歩で詰めた気がする。
 それにしては、こんな時間はゆっくりしていたけれど。
 空気が重い。
 周りが遅い。
 走っているのか、泳いでいるのか、歩いているのかすらわからない。
 ただ、狭まった。
 あたしの望み通りに。
「美綴。どうしてここに……」
 口の動きで、そう言っているのだと判断した。
 違うのかも知れない。
 ただそう読み取った時には、躰が動いていた。
 何も、耳に入らない。
 ただ、彼の背後から何か飛んでくるのが見えた。
 こっちを向いている衛宮の背中。
 その背中の方を目掛けて射られた凶器。
「衛宮!」
 叫ぶ。
 最初に姿を見た時に口を開いたのか、その体に触れた瞬間に叫んだのか分からない。
 ただ、口がそう開いていると気がついただけだ。
 ごうごうと空気が喉にぶつかっていた。
 叫びは、警告。
 見たものに関してか、感じたものに関してかは分からない。
 けれど、その二つは等しい。
 故に、違いを考える理由はなかった。
 呼びかけは、喚起。
 が、間に合わないと同時に理解していた。
 彼が振り返って自分に襲い掛かる脅威に気づき、尚且つそれを避けるなり防ぐなりするまでには。
 ああ、そうか。
 漸く理解した。
 自分の体の動きに。
 駆け寄った真意に。
 自分が慌てている事実に。
「―――っ!」
 理解した瞬間、目の前の男の肩を指で引っ掛けるようにして掴んでいた。
 即座に足を絡ませ、体重のバランスを崩し、下手で投げ飛ばすように彼の体を転ばせた。手際よく、迅速に。
 その直後、飛び込んできた脅威。
 それは咄嗟に出した自分の左腕を射抜く。


「あ」


 絡み合ったものが解けるように、時間が緩くなっていく。
 徐々に知覚のスピードと実際のスピードが合わさっていく。
 見る。
 ざくりと、持って行かれた。
 この肉が。
 がきりと、砕かれた。
 この骨が。


「ああ―――」


 ただ、これで良かったんだなと―――最後に思った。
 だって、二人揃って助かったのだから。



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