《遭遇》


 気が付けば夕暮れになっていた。
「あちゃー。まずったなあ」
 日が暮れ始める前に全ての部活動は終了させなければならなかった。
 それはいかに学校が力を入れているとはいえ、弓道部も例外ではない。
 この町で起きている物騒な事件の被害者を出し、行方不明者まで出ているだけに寧ろ、率先して終わらせなくてはいけない立場にあった。部活自体は予定時間に終わらせていたのだが、部員を全員帰した後、一人居残っていたらこの時間になっていた。
 手早く着替えと後片付けを終わらせると、部室のカギを掛けて小走り気味に校舎へと向かった。宿直の教師から受ける小言は勿論、説教レベルまでは覚悟しよう。
 何せあたしは部長であり、元被害者でもあるからだ。
「……これというのも衛宮が悪い」
 冗談めかして言ってみたが、口に出してみると案外当たっているような気がした。

 先日の夜に、偶然衛宮と出くわしたことからがきっかけだった。
 あたしから見て衛宮は化け物と呼べる一人だ。
 この学校に来て最初に出会った化け物は、遠坂だった。
 これはもう見ただけでわかる、カタチにはならないぐらいの感覚でそうだとわかってしまった。
 こいつはきっと、今まで同等の立場での敵なんかいなかったに違いない。同世代同学年で誰かと張り合ったりするようなことなんかなければ、必要もなかったのだろうなと思うぐらいに全てに圧倒的だった。
 直感的に全てに於いてこいつには敵わないと思わせるオーラを漂わせていて、彼女にちょっかいを掛けるのは無神経なヤツか自意識過剰な馬鹿ぐらいで、彼女との付き合いは憧れか利用という自分自身を遠坂の下に置いたような形でしかできないようになっている風に感じられた。
 あたしは誰とでも対等でいたいし、それができるだけの努力も怠ったことがなかったせいもあって、遠坂凛というこれまで出会ったことのない化け物に対しても堂々と攻め倒そうと決めていた。生まれながらの負けず嫌いな性格は今更直せないし、元々あたし自身も同世代のライバルというものに飢えていたこともある。ちょっとやそっとじゃ感心したり屈服したり丸め込まれたりなんかしないぞと決めてからのライバル宣言までした。
 けれど、そう決め込んでいたのに雲行きがおかしくなっていったのは、彼女が弓道場の中を遠く眺めている姿を見つけた時だった。
 あいつは家の事情とやらで部活動の勧誘を全て断っていたことを知っていたので、何の冷やかしで来ているのかその意図が全く掴めなかったのだが、彼女が誰を見ていて、どんな表情をしているのかということを見ているうちに、何となく立ち回り方が上手い優等生の素顔の一面が見えてきた。
 それはあたしだったから気づけたのだろうという自信がある。あたしが慧眼の持ち主だったとか自惚れるつもりはない。彼女の本質があまりに似ていたのだ、このあたしに。
 群れることもなく、孤高を貫くでもなく、好かれ過ぎない程度反発を買わない程度の距離を保つことで、無駄を楽しむことにしているポーズを取るあいつの本性はあたしと同じ、いやそれ以上に熱いものだった。強情で負けず嫌い、将来的な損得よりも目の前の一喜一憂に拘るタイプ。つまり損して得とれが出来ない人間だ。
 一番になりたいのではなく、誰にも負けるのが嫌なだけ。その為の努力は少しも惜しまず、苦労も全く厭わないという我が同好の士であり、まだ不器用さが残る部分のあるあいつをあたしはガラにもなく好きになってしまったのだ。
 その瞬間、遠坂はあたしにとって倒すべきライバルではなく、徹底的に競い合うライバルに変化していた。こいつとは拳でも口先でも何でもいい。はっきりとわかるもので白黒つけて、それでもきっと負けた方は諦めずに違う形で勝負を挑んで、譲らないまま最後まで張り合って、互いにどうでもよくなるぐらいに燃焼し尽くしてから思いっきり笑い合おうと決めていた。
 そんな遠坂とは別に、衛宮士郎は今もまだ倒すべきライバルだった。
 あいつは一見するとそれほど凄いヤツには見えなかったが、初めてその射を見た時から、見た目どおりのヤツじゃないぞというのがわかった。
 そのくせどこか退屈げで、真剣でないわけでもないのにこの場所に意識があるようには見えないところがたびたびあった。他に良い方法が思いつかないので仕方なくここでこうしているというニュアンスが正しいのかわからないが、弓に敬意を払いながらも自分の求めるものはそこにはないという雰囲気で、その思いはずっと一緒に弓道をやっていくうちに強くなっていった。だからこそ間桐の下らない言いがかりに対して、抗うことなく部活を止めてしまったのではないかと思う。射場に立つことにとっくに飽きていたのかとも思う。
 矢を射るという事において、今でもあいつはあたしを含めたどの部員よりも格段に巧いだろう。あたしはあいつが外したのを一度しか見たことがなく、全国レベルでも上位は間違いない。
 中てるのが当たり前で、それは弓でなくても何でもよかった。むしろ仕方がないから射場でそれをやっているだけという印象は、あたしを奮起させずにはいられなかった。侮辱されたと思ったのではなく、もっとやりたいことをやりたいようにやりやがれという腹立ちだ。自分が楽しいと思うことを、自分がしたいようにやったらどうなんだという云わば相手にとって大きなお世話のような感情だ。だからこそ遠坂相手のように正面きってぶつかりたい相手とは思わなかったが、そのどこか世を達観したような、あたし達の世界から一歩身を引いているようなすまし顔を崩させてやりたいと思った。気に食わないという以上に、心配になっていたのだろう。同学年の自分を出さないいい子ちゃんに。
 だからこそ、先日のあの涙は衝撃だった。
 あたしはあいつをいつか笑わせてみたいと思っていたが、それはそれが一番手早い方法だと思っていたからだ。別に無表情な奴ではないし、付き合いもそう悪くない。けれども、自分の底は見せないまま、人には頼らないまま、自前の痩せ我慢と自己暗示を武器にどんなことでもこなしてしまうような感のあったあいつが、泣き言を漏らしたことにこれ以上なく動揺したのだった。
 そしてきっと初めて、あいつはあたしを頼ってきた。あいつが何をしていて、何を考えてそうしたのか、そうすることが必要になったのかは何一つ聞いていない。あたしも舞い上がっていたのかもしれない。あいつが自分を出したことに。それをあたしに見せてくれたことに。
「全く……世話女房か、あたしは」
 そう愚痴をもらしながらも、悪い気はしていなかった。
 人一倍頼りない弟の面倒を見てきたせいでか、何かと周囲から頼りにされることが多い。
 まるで周りよりも頭ひとつ年上のように思えてきてそのことは少し不満ではあったのだが、隙を見せず決して懐いてこようとしなかった相手が、向こう側の事情の結果であれ頼ってきてくれることはあたしが何かしたわけではないとはいえ、気分は良かった。
 やはりこういうのが性に合っているのかも知れない。
「あとは、本人の問題と……」
 昼休みにその衛宮相手に時間を使うことで、ここ最近の無気力状態からの脱却にもはっぱがかかった。それまでの遅れを取り戻すべくと励んだ結果がこんなことになったとも言える。あいつのせいにして問題はない。

「あれは―――囮? 無策で? ―――変なヤツ……あれ? 誰?」
「ん」
 途中、前方に何か小声でブツブツ言いながら歩いている危ないヤツがいた。
 真っ黒な服を着ているのと、相手が後ろを向いていたこともあって気が付くのが遅れた。
 それにしても凄い服装だな。
 ゴスロリとか言うんだっけ?
 こういうのは年嵩のおばさんとか体型的にアレな人とか精神的にアレな人とか着るものかと思っていたが、一番最後だろうか。けれども驚いたことに案外似合ってる。少なくても日本人向けの服ではないなと思っていたのだが、訂正しよう。
「な、何だ?」
 気が付くとすぐ側で、じっと値踏みするような目で下から見つめられる。
 視線を受けて、落ち着かない。
「随分と深く這入られているようだけど、取込まれてはいないんだ」
「は?」
 ボソッとそう呟いたのは聞こえた。聞こえがよしにも思えるが、悪意は感じられない。
「珍しかっただけ。気にしないで」
「あ、おい」
 それはあたしを見ての感想だったのだろうが、意味は不明だ。
「時が経てば、消える」
「あ、お、おいっ」
 言いたいことを言って、去っていく。
 追いかけようとしたが、止めてしまった。
 気にはなったが、気にしても仕方がないとも思ったその躊躇が足を止めていた。
「変なヤツ」
 消えると呟いて、真っ黒な服を着た少女はあたしの前から去っていった。
 微かに聞こえた足音が闇に溶け、またあたしは一人になった。
 事件のことがなくても、夜道は怖い。
 それは変わらないのだけど、どう怖いのかわからないでいた。
 わからないことが怖い。
 事件の記憶がないことで、先が見えないことの恐れこそがそうだったと知った。
 きっと未来が怖い。将来が怖い。そんな得体の知れないものに対しての怯えがそうさせているのだろう。自分の未来はわからないし、将来に関しても特に決めているわけでもないが、幸いにしてその手の自分に対するわからないことへの不安はそれまでなかった。脅えるよりもわからないからこそ楽しみじゃないかという救いを見出していたのだろう。家族の影響か、自分の中に芽生えたものかはわからないが、そんな美綴綾子の宗教が、その手の不安を打ち消してきていた。過去に起こってしまったことはまた別だが、済んでしまったから仕方がないと思える宗教を作ればいいのだ。この二つの宗教は似通った教典なので何とかなるだろう。これまでも何とかしてきた。
 ただ、もう一つの不安。
 見えないことの恐怖ではなく、一人である恐怖。これは少し堪えていた。
 自分でも気づかなかったが、あたしはそれなりに寂しがりやだったのだろう。
 遠坂がいなくなったことで、初めて自分の中のそういう性質に気づいた。
 一人きりの弓道場で矢を射ることは平気なのに、こうして人のいない夜道を歩くことが怖くなっていた。この世界に一人きりしかいないのではないかというありもしない妄想に囚われてしまうような不安。知らない誰かがいる方がよっぽど危険だとわかっているのに、一人きりでいることの怖さが身についてしまった。
 きっとこの二つの怖さを消化なり、妥協なりして乗り越えれば、一人で立っていけるのだろう。
 自分と他人以外の区別しか必要のない人生。誰にも頼らず、縋らず、求めずにやっていくのだろう一人きりで。最後まで、ただ一人で。
 あたしは御免だ。そんなんだったらこうして不安に震え続けられた方がいい。寂しいことを寂しいと知らないまま、気づかないまま生きていくことはあまりに寂し過ぎる。
 同時に思う。衛宮士郎はそうなりたかったのではないかろうか。
 彼はそんな生き方を目指し、道を歩いているのではないだろうか。
 だとすればあたしの彼に対する感情は、嫉妬なのかも知れない。
 少しも羨ましくなんかないくせに、自分のできないことをやっているというだけで。
「あたしも……」
 まだまだ未熟者というわけだ。
 ずっと悩めばいい。考えればいい。思えばいい。
 そう思えることは辛く苦しかろうが、結局は楽しい人生といえるのだから。
 きっと遠坂はあたしの考えに頷くだろう。似た者同士だ。無駄だろうが、余計なことだろうが、もがいたり暴れたりして色々なことを体験できればいい。一直線はつまらない。きっとあたしとあんたがつるんでいたのも、こんな蛇行を続けたかったからなんだろう。なあ。
「だからさ」
 遠坂、あたしはこう思うんだ。
 あいつは放っておけない。
 一度きりでも偶然でも何でも、あいつがあたしを頼った以上、あいつをあんな風にしてはおかない。
 馬鹿みたいに大笑いさせて、少しは人生の愉しみ方を教えてやらなくちゃいけない。
 あたしたちのように。
「ん?」
 気のせいか、誰か遠くにいる。
 いや、違う。
 誰かがこっちに近づいてくる。
「さっきのは……」
 真っ黒い洋服を着た少女が後ろを振り向いていたのはこの気配の主を見ていたのではないかと思った時、急に怖気が走った。
「……っ!」
 何ぼんやりしているんだ、あたしは。
 未解決の事件続きのこの町で、時間はまだ遅くないとはいえ仮にも暗い夜道で、ぼんやりと歩いているなんて危険もいいところだろうに。本当に何を考えているんだ。
 二度も襲われたとあっては流石に笑い者だ。
 一度目は覚えていないので、二度目かどうかとかはわからないのだが。
「これも衛宮のせいだ」
 そう決めてから、とっさに引き返すか隠れるかと考える。
 が、先はL字の一方通行。
 この見通しのいい直線道ではどちらも選びようがなかった。
 ええいままよ。
 開き直って歩き続けることにした。
 鬼が出るか蛇が出るか、一度は生還したのだ。何とかなる。
 ムキになって大股であたしは近づいていく。
 気配がぐっと近くなる。
「あ―――」
 曲がり角を曲がった向こう側、視界が拓けた先に見えたのは、まさに鬼に殺されようとしている蛇だった。



「暗くなるのが早いよな」
 ぼやきながら、夕飯の買出しを持ちながら帰路を急ぐ。
「ふぅ……」
 今日は朝から悩みっぱなしだった。
 キャスターは自分達に任せておけと言った。
 俺がでしゃばることを邪魔だとまで言った。
 きっとそうなのだろう。
 彼女達は聖杯戦争の勝者だ。実力を出し切れない状況だとしても俺とは比べ物にならない相当の魔術の使い手で、葛木も信じられなかったが戦える人のようだった。
 俺のようなどの分野にも半人前な存在では、彼女らの手助けどころか足を引っ張るのが精々といったところだろう。
 もっとも、それも彼女らが信じられる相手かという部分もある。バゼット達が動くまで俺に対して何もしてこなかったことやあの場で害されなかったというだけで信じるのは危険だ。ただ毎日平然と学校に来ている葛木を見ていると、警戒心が薄れてしまうのは否定しない。神父に対して話を通しているというのもある。油断するのは危険かもしれないが、警戒の優先度が低くなってしまっていた。
 それに、俺にも出来ることがある筈だ。
 そう思っているからこそ、何かしようと思っている。
 夜間の巡回や、来るべき時に備えて稽古だけでは全然足りない。
 何かやらなくてはと思いながら、その何かが思い当たらない。
「はぁ……」
 この間にもキャスター達が、全て終わらせてしまうのかもしれない。
 気ばかり急くが、こればっかりはどうしようもない。
「ん?」
 背中がチリチリとする。
 が、振り返っても何もなく誰もいない。
「意識過剰になってるな」
 まあ、無理もない。
 焦っているのだ。
 どうしようもないと思いながらも、諦めたくないという感情だけが俺を躍起にさせている。
「だって―――」
 俺しかもう、残っていないから。
 遠坂もいない。
 セイバーもいない。
 あのイリヤという少女も、いけ好かなかったアーチャーも、バーサーカーやランサーでさえも今はもう見ることができない。会うことができない。
「誰も、いない」
 胸の傷を両手で無理矢理広げられたような、痛みが走る。
 引き裂かれる何かが、失ったものに対する悔悟だと分かった時にはもう何もかにも手遅れだった。
 俺は、十年前から何ひとつ代わっていなかったのだ。
「空の色がぼんやりと―――」

 くすんで濁って朽ち果てる。
 がらがらぼろぼろ崩れ落ち、
 真っ黒染めの何かが残る。
 何もないというその何か。
 きっと変わらず黒いまま。
 触れず見れず近寄れず、
 あるのか否かもわからない。

「あはは」
 何でこんな古い歌を思い出す。
 こんな歌詞じゃなかったのに、こんな節じゃない筈なのに。
「何もないというその何か」
 きっと歌の中のその空は、今日のような空に違いない。
 星一つなく、月一つ見えない墨で染めたような闇夜は、俺が世界にただ一人取り残されたかのような実感を否応なく感じさせた。
「遠坂も、こんな夜を感じていたのかな」
 それはないだろう。
 彼女の歩く空は必ず星がある。月がある。光がある。ネオンでも飛行機の灯でも何でも必ず彼女と彼女の道を照らす何かがあった筈だ。
「俺なんかとは、全然違うから……」
 俺は遠坂のことは憧れだった
 きっと人を好きになるのって、ああいうものだと思った。
 でも違う。
 遠坂みたいになりたかったんだ。
 だから、遠坂の横に俺がいる未来は一度も、想像できなかった。
 眺めて、見ていた。
 いつか、ああなりたいって。
「ちっくしょう……」
 俺はあいつにならないといけない。
 あいつが俺を生かしたのだから。
 なのに、そうなれないと諦める自分がいる。
 なれないことを怯える自分がいる。
 一度挫けてしまった心は脆弱だと言うが本当だ。
 今の俺は、諦めは悪い癖にめげてばかりいるのだから。
「えっ……」
 今度こそ感じた人の気配。
 背中に違和感を感じて何度か振り返った後、今度は前の方から確かな気配がした。
 誰かが近づいてくる。
 暗い割に時間はそう遅いわけではないので、別に珍しいことではない。
 直ぐ先の折り返した道の向こうから誰かが近づいてくる。
 敵ではない。
 悪意は感じない。
 ただの、ひとだ。
 それが分かっていても、何故か予感がする。
 嫌な、予感を。 
 が、足は止まらない。
 魔に憑かれたように、そのまま曲がり角へと足を向けた。
「―――え?」
 飛び出してきた人影。
 目入った人物。
「あ―――」
 そこには美綴綾子がいた。
 何故か、怒った顔をして。



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