《衛宮邸の姉弟》
「………」 天井を眺め続けていた。 本当ならとっくに台所で夕飯を作っている頃だ。 こうして寝転がっていていいわけがない。 理解はしているのに体が動かない。 何もする気にならない。 掌に握られているのはこの家の鍵。 桜から返された鍵だ。 軽く放っては掴み、掴み損ねて落としては拾い上げる。 女々しいと思いながらも、まだ割り切れていない。 突然だったというのもある。 こうまでするとは思っていなかったというのもある。 理由を数え上げれば幾らでも挙げられるが、そんなことをする意味は無い。 「はぁ……情けねえ」 格好悪い。 こんな姿、誰にも見られたくない。 「今日は店屋物か外食で済ませようかな……」 どうしても台所に立つ気にはなれない。 台所には思い出が染み付いている。 この家の何処よりも。 彼女の姿が焼きついている。 「……」 何だろう、この気持ち。 それよりもずっと昔、忘れてしまった頃の記憶が近いだろうか。 十年前、根こそぎ棄てていったものが近いだろうか。 けれども棄てたのではなく、奪われた。 目の端から避けるように抜けていったのではなく、目の前で浚われていったのだ。 同じ喪失でも、意味は深かった。 そして、重かった。 「ああ……」 今自分は考えてはいけないことを考えていると、抑制力が働く自分に嫌気がさす。 桜のことを考えている癖に、桜を放って考えてしまいそうになる自分にも。 「違う……」 こんなにも辛いから。 「だから……」 忘れたいんだ。 ガラガラガラッ 「ただいまー」 こんな時に限って、というやつだ。 玄関の引き戸が勢いよく開けられ、年不相応の元気な声が聞こえてきた。 桜がいない今、この家にただいまと言うのは一人しかない。 藤ねえだ。 「久々にこの時間に帰れたよー、士郎、ただいまー……あれ?」 「お帰り、藤ねえ」 流石に寝転がったまま迎えるわけにはいかなかったので、腹筋の要領で上半身を起こして立ち上がる。 「あれ? あれあれあれ? どうしたの?」 電気も付けずにぼんやりしてれば藤ねえでなくても不審に思うのは当然だ。 「ちょっと、ね」 「あ、そうか……桜ちゃん来たんだ」 俺の手にあった鍵を見て察したのだろう。 引っ越すのであれば、学校にも連絡は届いている筈で、藤ねえも知っていて不思議は無い。 「藤ねえは知ってたのか」 「今朝ね、職員室で」 今日の藤ねえは欠席している生徒達の家周りだったので、学校で会う機会はなく、従って俺が知る機会もなかった。だから桜は放課後を待ってあそこで俺を待ち構えていたのだろう。 「急な話だったから驚いちゃったけど……本当だったんだね」 「ああ」 本当に、急だったよ。 「じゃあお夕飯は出来てないのかな?」 「あ、今作るよ」 作る気力はなかったものの、藤ねえが帰ってきたのなら話は別だ。 それにこうしているよりも台所で料理をしていた方が気が紛れるってもんだ。 うん。そうだ。 台所という場所を考えないようにしながら、料理のことだけを考えることにする。 冷蔵庫の中身を思い出しながら、短い時間で作れる料理は――― 「ちょっと待って」 「え」 メニューを幾つか思い浮かべながら台所に向かおうとしていた俺を、藤ねえは呼び止めた。 「今日はあたしが作るから士郎は部屋で待ってて」 「は? ……は? ……はぁぁぁぁぁぁぁ?」 「む。何よ、その反応」 藤ねえお冠。 「藤ねえが、料理?」 「な、何よ。悪い?」 「ああ―――いや、うん。悪くない。ただ驚いた。その、藤ねえが料理するなんて何年ぶりかなって」 「そうねー。士郎がやらない日は桜ちゃんがやってたからねー。いよいよここで真打登場。お姉さんの隠され続けた実力を見よ!」 藤ねえはどーんと勢い良く自分の胸を叩きながら、俺の前を通って台所に向かう。 「へぇ。藤ねえ、もしかして俺たちに内緒で料理の練習をしてたんだ」 だとすれば、少し悪かったかなと思う。 藤ねえだってもういい年なんだし、花嫁修業として料理の一つや二つやらないでいるのは――― 「ううん。特にはしてないよ」 そうだ。ずっとこの家に夕食を集りに来ていた人だった。この人は。 「あ、何よ、その顔は」 「い、いや……ちょっと昔のことを思い出して」 藤ねえが料理と称して作ったものを思い出す。 食べられないとかいうものではなかったが、その料理名ではなさそうな代物であったのと、食欲をそそらない微妙な匂いと、食べられなくは無いけどちょっとという味がした気がする。ただ不味いと切って捨てるようなものではないので、色々と複雑な感想を覚えたような。でも、昔の話だ。今は違うかもしれない。違うといいな。いや多分大丈夫さきっと。俺が信じないでどうする。頑張れ俺。 「むーっ」 やばっ、顔に出ていたか。 「―――き、期待してる」 その一言で解消とはならなかったようだ。 藤ねえはムッとしたまま、肩を怒らせると、 「今の士郎なんかよりもよーっぽど美味しいもの作れるんだからっ」 そう言い捨てて、足音荒く台所に消えていった。 まあ、やっぱり俺が作ると言いたかったのは事実だが。 「できたよー」 それからたっぷり二時間ぐらいかかって、お呼びが掛かった。 部屋にいろとは言われたが心配だったので、ずっと居間にいたのだが見つかって追い払われてしまったのだ。 妙な擬音とか「あ」とか「あれ?」とか聞こえてきていたが大丈夫だっただろうか不安だ。期待ちょっと不安たくさんという割合で、居間に向かった。 「あ、普通だ」 「えへへー。どうだ♪」 パァァと表情が明るくなる。はしゃぐような喜びっぷりだ。 「わたしだってやればできるんだから」 「ああ。藤ねえ、疑って悪かった」 藤ねえの作った謎料理は何故か美味しかった。 しょっぱかったり甘かったり、卵の殻が混ざっていたりしていたのにも関わらずだ。 「うん。美味しいよ、藤ねえ」 最初にそう言えばよかったんだ。少し反省する。 「――――――――」 その言葉を受けて藤ねえは一瞬固まった後、 「士郎にそう言って貰えると嬉しいな」 んなコトを言いやがった。 「……な」 うわ。 その笑顔は反則だ。 すげえ、どきりとした。 「ば、ばかっ。藤ねえぐらいの年なら本当はこのぐらいできるのが当たり前だろっ」 取り繕うようにそんなことを言って、御飯をかっ込んだ。 「あー。それって偏見だー。こういうことに年齢も性別も関係ないんだから」 「理屈はそうでも実際はそうじゃないんだって」 「そんなことないってばー」 「あるの。ないとしても出来ないより出来た方がいいだろ?」 「それって論旨の摩り替えじゃない。士郎ずるい」 「ずるくて結構」 そんな事を言いながら、二人で夕食を進めていく。 「二人だけで食べるのって久しぶりだね」 「ああ」 それも落ち着いて、次第に食器の音しか聞こえなくなっていく。 「桜ちゃんが居るようになってからは、彼女がいる方が当たり前になってたからねー」 「ああ。だからきっと、暫くは慣れそうにない」 「うん。でもわたしもまだ色々とあるから今学期中は不定期だと思う」 「そっか」 「せめてもう一人いたらなぁ……、セイバーちゃんとか戻らないかな」 「え? 藤ねえ、今なんて言った?」 「あ。ごめん。それは士郎にとって禁句だったっけ」 「いいから、今……誰がとか言わなかったか?」 俺の反応に藤ねえは少し慌てたように見えた。 「ああ、セイバーちゃんね」 「あ、うん」 「もうセイバーちゃんについては大丈夫なの?」 「え?」 逆に聞かれたことで、こっちが詰まる番だった。ただそのお陰で下手に追求されることなく、彼女の話をすることが出来た。 セイバーは藤ねえ宛に自分は急な用事ができて帰らなくてはいけなくなったこと。それについて士郎は責任を感じたかもしれないので、自分の話題を彼に触れないで欲しいことなど書き残したメモを残していたそうだ。 そう言えば、記憶の片隅に遠坂とセイバーが会話していたような覚えがある。 俺が遠坂にやられた後のことだろう。 良く分からないが、そこで話をつけて、遠坂だかセイバー自身だかがそんな細工をしたに違いない。どっちの仕業か知らないが有難かった。そんなところにまで気を使ってくれたことに。そして情けなかった。そこまでされないといけない自分に。 夕食が終わって後片付けも買って出た藤ねえに台所は任せて、居間で寛いでいた。 ただ、付けっぱなしのTVを眺めたまま、洗い物が終わるのを待つ。 俺に料理を褒められたせいか、今日は最後までやらせてという意気揚々とした藤ねえの言葉には逆らえなかったというわけだ。 今日はずっと無気力だったことも、藤ねえのするがままに任せてしまった理由だろう。彼女が来なければ、ここでずっとこうしたままだったかも知れない。 時計の音を聞きながら、お茶を用意するでもなく、お風呂を沸かすでもなく、何もせずにぼーっとしていた。 本当にここまで何もしないでいるのは久しぶりだった。 せっつかれるような、追い立てられるような毎日をここのところ送ってきていたこともあって、じっとしていられなかったこともあって、弛緩しきった状態というのはあまり記憶にない。ただ、安らげは少しもしなかったが。 「どうした士郎ちゃん」 そんな俺を見下ろすようにして藤ねえが立っていた。 洗い物は終わったらしい。今頃になって水道の音が聞こえなくなっていたことに気づいた。 そんな藤ねえに言い返そうと思ったが、結局言葉が思いつかなかったので黙ったまま目を藤ねえに向けただけだった。ただ、ちゃんは止めてくれ。 「桜ちゃんがいなくなって寂しいんだ」 そうだと思う。 ただそう口に出して言うことが、情けなさを打ち明けるようで言えなかった。 「いや何か、急だったからさ……」 代わりにそんな言い訳というか強がりというか、黙っていることで肯定だと受け取られることだけを避ける為に言葉を捜す。 「もっと俺、桜に何か出来ることがあったんじゃないかって」 きっとあった。 すべきことが。 彼女だけを見て、彼女だけを気遣って、彼女だけを求めればきっとそれは容易に見えた筈だ。 記憶を失って以降、ずっと俺は自分しか考えられなかったから。 取り戻して以降、俺は振り返ることしかしてこなかったから。 不安と困惑だけを持ちながら、彼女になにもしてやれなかった。 「あのさ、士郎」 この声の調子はなんかマズい。 慌てて立ち上がろうとするが、遅かった。背後を取られた。 中腰のまま、後ろから抱き付かれる。 「わたしがいつまでもいてあげるから」 「いや、嫁に行けよ。俺のせいで行き遅れたとか言われたくないぞ」 「もうそんなこと言って。可愛いんだから」 腕を前に回したまま、ぐりんぐりんと頭を俺に擦り付ける。 ぴったり抱きつかれているので、胸が当たってる。 この鼻に飛び込んでくる匂いは香水だろうか。 普段の藤ねえからして似合わないことこの上ないが、まあこの人も今年で二十五になる大人だ。むしろそれぐらい普通だろう。 ただ、普段から接しているとそれが信じられなくなるのも事実だが。 今やっているこんな仕草の時とか。 「あ」 ピンと何か思いついたような顔をした。 嫌な予感がする。 「そうだ。だったら士郎がお嫁に貰って」 「嫌です」 思わず即答。 え? あれ? 「……」 何も考えず言ってしまったが、これってかなりやばかったりするんじゃなかろうか。 ほら、藤ねえも黙り込んじゃったし。 俺もちょっと何も言えないし思いつかない。 気まずい沈黙が続く。 「ぐすっ」 「え?」 うげっ、藤ねえが拗ねてる。 これはかなりやばい兆候だ。 抱きついた格好のままなので、彼女の全身がプルプルと震えているのが確りと伝わってくる。 「あ、そ、その……」 どうしてこういう時に限って、上手い言葉が出てこないんだ。 ほら、何かその場を取り繕うだけでもいいから。 て、俺はこういう時でなくたって上手い言葉なんか思い浮かばないか。 「士郎ちゃんの……」 「あ……」 そんなことを考えていたら藤ねえの表情は第二段階を迎えていた。 「士郎ちゃんの……士郎ちゃんのばかぁ〜〜〜っ!」 突き飛ばされ、転がったところで、うわーんと声を出し、泣きながら部屋を出て行く彼女の姿が目に入った。 「すまん、藤ねえ。言葉の綾だ!」 手遅れな言葉をその背中にぶつけるが、虎の疾走を止めることは出来なかった。 「トラって言うなぁ〜〜〜っ!」 「言ってねぇ!」 思っただけ。思っただけだ。 慌てて立ち上がって、玄関に向かう。 既に戸は開いていて、履いてきた筈のパンプスもなかった。早っ。 「士郎ちゃんの―――」 「藤ねえ、気をつけてな!」 「……うん! また明日ねーっ!」 勢いそのままにぶんぶんと手が千切れそうな程に手を振って、勢い良く家を出て行った藤ねえを門の外まで見送ってから家に戻る。 「ふう……」 さっきまでの賑やかな空気が嘘のように、静寂が訪れていた居間に一人寛ぎながら息を吐く。 「励ましてくれたんだよな」 随分と変なやり方ではあったのだけれども。 実際、随分と気が晴れたし、さっきまでは忘れていられた。 すぐには慣れなくても、いずれは慣れるだろう。 元々、親父がいなくなってからはずっと二人きりだったのだから。 「ありがとう、藤ねえ」 面と向かっては絶対に言えないからこそ、今こうして口にする。 もし藤ねえもいなかったらきっともっと落ち込んでいた。 愛と勇気だけを友に生きるにはまだちょっと、覚悟が足りない。 「でも……」 いつかはきっと、そうなる時が来る。 誰にも頼らず、構われず、狎れず、慕われず、望まれない身に。 この生き方を貫こうと決めているなら。 もう二度と、あんな後悔したくないと思っているのなら。 「ふぅ……」 またため息。 「どっちにしろ、まだまだ……」 全然駄目だ。 まだ俺は護られるだけでしかない。 遠坂がくれた平穏を甘受するだけの奴でしかない。 「―――ごめんな、遠坂」 おまえに助けられる価値なんかないのに、いっぱい助けてもらった。 だからせめて、 「他の皆は守ってみせる」 人知れず、この町の人々を守ってきたおまえの願いを俺は、継ぎたい。 「……さて、ちょっと遅くなったけど、今日もやるか」 美綴に教わっている途中とは言いながら全然様にならない格好で木刀を振り回し、これまた魔術回路を開けるようになって大分良くなったとは言え教本通りには魔術を使いこなせないでいる今だけれども、 「できることは、やってみせるさ」 楽観ではない。 そう言い聞かせながら。 今日も練習と見回りで一日を締めくくらせた。 夜だけは毎晩、充実していた。 |