《ばいばい》


 今月が終われば、冬も完全に終わる。
 三月を迎えれば最上級生は卒業し、俺たちはそれからの一年間で進学か就職かという人生の最初の大きな選択を迫られる。
 夢を持とうが、大志を抱こうが、その一年間は目先の問題を一つ一つ片付けていかなくてはならない時期になる。無論、気にせず擲つことも出来るだろう。それは周囲から外れることを選択したというだけのことだ。

 一年後の俺はどうしているのだろう。
 どうやっているのだろう。

「でも今はまだ……」
 二月の末。
 何だか遠い昔の出来事のようなのに、始まって一ヶ月も経っていない。
 こんな時にホームルームで春休み前の期末テストの話題なんかされると、もうそんな時期なんだと、唖然としてしまった。
 この教室に俺なんかがいていいのか、そんな気分にさえなってしまう。
 周囲と空気が合わなくなることはあったのに、ここまで場違いのような気分にさせられることはなかったので、ホームルームが終わると同時に誰よりも真っ先に教室を飛び出していた。
「……先輩」
「よお桜」
 下駄箱前で桜に出会う。なんか久しぶりだ。
 前に話したのは何日前だったか覚えていない。
「今、帰りか?」
「……はい」
「部活の方は出なくていいのか?」
 桜は制服姿だった。
「はい」
「じゃあ、一緒に帰るか」
「はい」
 頷く桜と共に、学校を出た。
「ええと……夕飯は?」
「―――ごめんなさい」
「そっか」
 互いにどこかぎこちない。
 どうして俺は桜と腹の探りあいのような会話をしなくてはならないんだ。
 それこそ一ヶ月前には考えられないことだった。
 いや、聖杯戦争に入ってからも俺たちは変わることはなかった筈だ。
「―――先輩?」
「あ、いや、なんでもない」
「変な先輩」
 クスリと口元を手で隠すように微笑む。
「あ―――」
 なんか、その笑顔が懐かしかった。
 桜がこんな笑顔を見せるようになったのはいつからだったか詳しくは覚えていないが、俺の家に通うようになった前後からなのは間違いない。
 そしてその笑顔は、俺の前以外では見せたことがなく、いずれは誰にでも自然に打ち解けられるようになって欲しいと願っていたし、時間をかければそれは出来ることだと思っていた。
 こんなことになるとは思っていなかった。一時的なものだといい。
 けれども、彼女の笑顔を奪うきっかけになっただろう間桐慎二はもういない。
 教室の中の彼の席は既に存在を無くしかけてしまっているが、家族である彼女はそうはいかない。実際、桜が間桐の家に詰めっきりになる原因はあいつの不在がもたらしたことは間違いないのだから。
「このまま商店街に寄るんですよね」
「ああ」
「じゃあ、ちょっと寄り道していきません?」
「それは、いいけど……」
 彼女の積極性は、いかなる虚勢によるものではない。
 それだけはわかった。
 けれども、彼女の笑顔の理由はわからず、少しうろたえながら俺はついていく。
「ま、いいか」
 一緒に買い物に行くのは珍しくない。
 放課後に共に帰ったことも数知れずだ。
 だから、こんなひと時は特別なことではない。
 その筈だ。
「手、繋いでもいいですか?」
「え―――?」
「ふふふ、冗談ですよ」
「いや、別にいいけど……」
「片手を塞いだら荷物が持てなくなるじゃないですか」
 自分で話を振ったくせに、駄目ですよと桜は笑う。
「いや、これぐらいなら片手で」
「駄目です。卵もあるんですから。万が一ということもあるじゃないですか」
「あ、ああ。そうだな」
「ええ、そうです」
 道中ずっとこんな調子だった。
 浮かれてて、はしゃいでて、終始楽しげだった。
 こんな桜は初めて見る。
「先輩、先輩」
「ん?」
「ふふふっ」
「な、なんだよ……」
 いきなり顔を覗き込んだかと思えば、微笑むだけ。
「なんでもありませーんっ」
「あ、おい」
 かと思えば、いきなり駆け出した。
 一体何だってんだ。
 変だぞ、桜。
 何かあったのか?
「おい、桜。ちょっと落ち着けって―――」
 桜にこんなことを言う日が来るなんてな、そんなことを頭の片隅にちょっとおきながらも、周囲の目も気になったので注意する。
 が、今日の桜には効き目はなかったようだ。
 ムゥゥ、と膨れた。
「え?」
 それも俺に初めて見せた桜の表情だった。だから戸惑う。
「駄目ですよ先輩」
「な、何が?」
 先を駆けるのを止めて、俺の前に戻って来ると爪先立ちをしていかにもわたしは不貞腐れましたというポーズをとる。
「無粋です。前から言いたかったんですが、先輩はその場の空気を読めないで詰まらないことを言うところがあります。直した方がいいです。あと、寛容というものを勘違いしていると思います。先輩の寛容はただの妥協です」
 他人を快く迎え入れるのではなく、自分が場所を譲ることで作る関係は相手にとっても安らげないんですよ、人差し指をピンと立ててそんな意味の説教をする。
「先輩は元々、一度言ったらきかないところがありますから、そんな風になっちゃっているんだと思います」
「――――」
 目眩がする。
 何か違う。こんなの桜じゃない。いや、俺は一体桜にどんな認識を持っていたんだとか内心自分に突っ込むべきところかも知れないが、違和感バリバリだった。
「……ええと、さ、桜?」
「行きましょう、先輩。デートの続きです」
「デート……デートォォォ!?」
 デートだったのか、これ?
 だって学校帰りに商店街によって夕飯の買い物をして帰るだけだぞ。
 こんなの前は何度もやってることで、特別なことじゃないだろうが。
「いいんです。今さっきそう決めました」
 桜はそう言うと、買い物袋を両手に持った俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
「お、おいっ」
 その際、桜のたっぷりとした胸の感触が服の上からも感じられる。
「わたし今、物凄く恥ずかしいことしています」
「何か、あったのか。なあ」
 顔を真っ赤にしながらも、組んだ腕は離そうとはしなかった。
 ここは人目もあるし、何よりも顔見知りに見つかる可能性も少なくない。
 まずいって。
「今日はちょっとおかしいぞ、桜」
「気付いてました? 先輩。わたし、初めから狂っていたんです」
「え?」
 その言葉にギョッとする。
「だからあと少しぐらい壊れてたっていいじゃないですか」
「さく―――」
「それに先輩、見ず知らずの少女を家に引っ張り込んだって話じゃないですか」
「ぶっ!」
 ど、どうしてそれを。
「藤村先生から聞きました」
「な、なんで藤ねえが……」
 そう思ったが、桜も家族の一員なんだから家に誰かを泊めたことは言うべきだったのかもしれないと思い直す。
「そうだな。俺から言っておくべきだったかな」
「いやだ、先輩。まるでいけないことでもしたみたいじゃないですか」
 少し困ったような表情をして桜は笑う。
 よく、笑う。
「あー、別にやましいこととかあったわけじゃないぞ。うん。絶対だ」
「誰もそんなこと思ってませんってば」
 なんか諭されてるし。後輩の女の子にそんなこと言われる俺ってどうよ。
「帰りましょう、先輩」
「え、あ、ああ……」
 言いたいことはいっぱいあった。
 さっきの意味ありげな言葉とか、今日のテンションの高い態度とか、胸を押し付けるように組まれている腕とか、沢山。
 でも嬉しそうに目を細めて、
「―――あと少ししたら、花見の季節になりますね」
 そんなことを言っている桜を見ていると、何も言えなかった。
「そうだな。みんなで花見に行こうな」
 できるだけ、賑やかな方がいい。
 でも、桜が望むのなら藤ねえと三人だけでやってもいい。
 桜の木の下にいる自分たちを想像してみる。
 賑やかなのは勿論、藤ねえ。
 片膝を立てて片手にコップ、もう片手に鶏のもも肉を掴んで食べるか喋るか飲むかどれか一つにしてくれ状態。
 三人しかいないのに敷物の隅に座っているのが桜。
 管を巻く藤ねえや、巻かれる俺を微笑ましく見ながらも、せかせかと重箱をつついている。
 その間を右往左往して落ち着かない自分の姿まで想像したところで、思わず笑ってしまった。
 突然の笑いに首を傾げた桜だったが、つられるように笑ってくれた。
 それから家までの帰り道。
 なんの意味もない話、ありきたりの出来事を、互いに話していた。
 こうして話すのは本当に久しぶりに思えたから。

「ところで先輩」
「ん?」
 家が見えてきたところで、桜が話を変える。
「夜中に出歩いたりしてませんか?」
「へ……いや、そんなことは……」
 無いと言おうとしたが、桜はきっぱりと言い切った。
「お願いですから止めてください」
「いや、だから……」
 それは誤解だと言おうとするが、信じてくれそうにない。
「第一、何で先輩がやらなくちゃいけないんですか」
「桜」
「危険過ぎますよ。今もまた行方不明者が出始めてるじゃないですか」
「え?」
 そんなのは初耳だった。そうなのか。
 だとしたら、誰だ?
 キャスターとバゼット、それに老人の顔が思い浮かぶ。
 もしくはそれ以外に存在するのか。
「そんな時に夜の町を出歩くだなんて……聞いてますか?」
「あ、いや悪い」
 ここのところ、事態が動いていたので町内への関心が薄かったのは否めない。
 こんなことでどうする、そう反省した。


「遠坂先輩がいなくなったからですか」


「!? おい、桜。それは……」
 どういうことなんだと聞こうとする前に桜は俺の前に立った。
「わたしじゃ、いけませんか」
「は?」
 いつの間にか、腕は離れていた。
 彼女の手は自分の胸の前に当てている。
 俺の目の前に立って。
 真剣な瞳をして。
「わたしは先輩を……」
「いや、だから俺はそんなんじゃないって。わざわざ危険を冒すつもりもないし、遠坂が転校したことなんか関係ないというか俺が知りたいぐらいだ」
 慌てて誤魔化しの言葉を口にする。
 桜だけは俺の知る側の世界に踏み入れさせてはいけない。
 いや、桜だけではない。
 皆だ。
 皆を俺のいる側に向かわせてはいけない。
 それはきっと辛い道だから。
「桜……?」
 けれども、桜は悲しそうな目を向けただけだった。
「嘘つき」
「え?」
「いいえ、何でもありません」
 何か呟いたのだが、それは俺には聞こえなかった。本当に小さな声だったから。
「ちょっと心配になったんです。先輩って正義感強いじゃないですか。だからじっとしていられないんじゃないかとか勝手に思ってしまって―――」
 そんなことを桜は口にするが俺は殆ど聞いていなかった。
 何か、決定的な何かを失ってしまったような、唯一のチャンスを逃してしまったかのような絶望感に囚われていた。桜の表情が、声が、遠く離れていく。急に付けっぱなしのTVの画面をただ眺めているような、そんな感覚に陥っていた。
 なんでだ。
「でも、本当に危ないですからね……先輩?」
「え、ああ」
 今、笑顔を向ける桜はいつもの桜だった。なのにひどく悪寒がする。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
「え、ああ。いいんだ。俺の方こそ……」
 それよりも早く家に戻ろう。
 そう言って、足を速める。
 こんな半端なところで立ち止まって何をしているんだ俺は。
 心の中で暴れている得体の知れない何かを振り払うつもりで、足を動かす。
 が、
「……桜?」
 それは、俺一人の行動だった。
 桜はさっきの場所に立ち止まったまま、家に戻ろうとしていた俺を見ていた。
「あ―――」


 何か、わかった。わかってしまった。


 桜は両手を前に組んだまま、動こうとしなかった。
「先輩」
 俺は何度この声を聞いただろう。
 この単語を、この声で聞き続けただろう。
 だからわかる。
「先輩……」
 全然理屈じゃないし、説明にもならないけど。
 俺にはわかる。
 彼女が今、どういう気持ちでその言葉を吐き出しているのか。
 今まで一度だって考えたことがなかったのに。
 感づいたことなんかなかったのに。
「……先輩」
 何も分からないでいた癖に、こんな時だけわかる。


「今まで、ありがとうございました」


 こうして笑顔で深々と頭を下げる桜の姿が、わかってしまっていた。


「……家に、戻るのか?」
「いいえ」
 そうではないと首を横に振る。それは今の状態が続くだけということで、今更改まるものではない。淡い期待はあっさり消える。
「引っ越す、のか?」
「そうですね……そうなるのだと思います」
 未練がましい聞き方に対して、歯切れの悪い答えが返ってきた。
「そうか……」
「はい」
 退学届けはもう出してきましたからと言う。
 ああ、そんなことだろうと思った。
 きっと、今ここにいることが桜にとって一番最後のことなんだろう。
 俺とこの家とこの空気この世界に別れを告げることが彼女にとって一番重要で、一番最後に回しておきたく、一番辛かったことなのだと思う。
 自惚れでは無い。
 わかっている。
 わかっているのだ。

 でも、
 どうして終わってしまった後に気がつくのだろう。
 もっと早く、こうなる前に気づけなかったのか。
 こうならないようにするべく、奔走するだけの時間を得られなかったのか。

「家の事情ってところです、先輩。ほら、兄さんもいなくなってしまって……ちょっとごたごたが続いて……」
「その……なんだったら家に下宿したっていいんだぞ」
「ありがとうございます。でも……」
 白々しい。
 彼女が首を横に振るのをわかっていながら口を開いている。
 精一杯努力したとでも後で言うつもりか。
 これでどうにもならないんだと自分を納得させるつもりなのか。
 こんな時でさえも、桜ではなく俺を守ろうとしているのか。
 違う! 
 違う違う違う。
 俺は、そんなんじゃない。
「桜っ! 家にいろっ!」
「せ、先輩……」
 突然の強い口調に驚いたのか、目を白黒させている。
 桜に叫んだのは、これが初めてかもしれない。
 強い意志を言葉にして彼女にぶつけたことは多々あるが、それらは重い言葉であって強い言葉ではない。怒鳴るようなことは一度も無い。
 そんな必要は一度もなかったから。これまでは。
「おまえ一人ぐらい、幾らでも抱え込める。部屋もあるし、食費だって今まで十分なんとかなってるんだ。大丈夫さ」
 何かにせっつかれたかのように口を開く。言いながら虚しさだけが募っていく。
 ああ、なんなんだよ、これ。
 俺はこんなの、こんなのは―――
「学校の方だって藤ねえが色々段取りしてくれるだろうし、桜の家族だって卒業までは―――」
 桜は困ったような顔をして、首を横に振った。
 くっ……
 何も言えなくなる。
 でも、言わないと。
 言わないと。
「早まるな。もしなんだったら俺がそっちにいって話を―――」
 必死になって言葉を探し更に言い募ろうとしたが、桜が差し出してきた物を見て喋れなくなる。
「返さないと、いけませんよね」
 いらない。
 それは……
「大事なものですから」
 彼女が俺に手渡したのは、一本の古い鍵。
 一昨年の夏、どう断ろうともうちに強情に通い続けた際に、俺が彼女に降参宣言と共に渡したものだった。

『桜には負けた。負けたから、これやる』

 あの時、そんなコトを言って恐縮していた桜の手に強引に鍵を押し付けた鍵は、立場を変えて、彼女の手によって押し付けられるようにして握らされた。
 持っていろと言いたかったのだが、それ以上の抵抗はできなかった。
 触れたその手はとても冷たかった。
 彼女の意思。
 それは戻る気は無いのだということを示している。
「今度来た時はお客さんでお願いしますね」
 何故そんなことを言う。
 反駁したいのに口が動かない。
「お客さん扱いして、いっぱいちやほやしてください。約束ですよ」
 悪戯っぽく言う彼女に俺は何も言えず、ただ自分の手に握らされていた鍵だけを見つめていた。鍵の取っ手の穴の部分には、彼女が自分でつけた鮮やかな赤色の紐が巻かれていた筈だったが外されている。土蔵の中で埃を被っていたままの飾り一つ無い鍵に戻っていた。
「それじゃあ先輩、お元気で」
「……」
 声が出なかった。
 体も動こうとしなかった。
 道端で偶然出会い、そして立ち去っていくようにして桜は歩いていく。
「あ……」
 搾り出すような声は、桜には届かない。

『……はい。ありがとうございます、先輩。大切な人から物を貰ったのは、これで二度目です』

 手の中の鍵と消えていく桜の背中を交互に見ながら、俺はあの日幸せそうに頷いた桜の笑顔を思い出していた。
「………」
 最後まで桜は笑顔だった。
 泣くかなって思っていた俺は、自惚れていたのだろう。
 そして泣かずに済ませられるだけのつきあいだったのかと思うと、かなり寂しかった。
 俺はまた一人家族を失った。
 それが俺一人の思い込みであったとしても、
 寂寥感が漂う。
 桜は、一度も振り返らずに去っていった。



―――死んでしまいたい。

 このまま死んでしまえたらどれだけマシだっただろう。
 こんなことになる前に死ねていたらどんなに良かったことだろう。

「先輩に出会えて、桜は本当に幸せでした」
 あの人からわたしは、今まで、そしてこれからの自分の人生の中でたった一つの安らげるものを貰えた。

「でもどうしてでしょうね。こんなにも幸せだったからこそ、失くしてしまうのも辛過ぎてしまう。わがままだってわかっているのに……涙が止まりません」
 顔がくしゃくしゃに歪んでいる。
 きっととてもとても酷い顔だろう。

 わたしの留守中に何かあったらしい。
 動かなくなったものを見下しながらあの人はただ、先輩を障害だと言った。
 あの人は言ったことは実行する人だ。
 だから止めなくてはいけない。
 どうあってもだ。
 そして止めるということはきっと―――

「もう二度と、会いたくありません」
 会う時はきっと哀しい結末が待ち構えてしまっている時だから。

「もう一度、会いたいです」
 あの最高だった毎日をもう一度迎えたい。

「――――先輩」

 好きでした。
 今も、これからも。
 そして、誰よりも、



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