《幕間/堕ちるだけ》


 離脱したバゼットは、家々の屋根を飛び移るようにして駈けて行く。
「偉そうなことは言えないな。またしても私も謀られたのだから……」
 歯噛みをしようとして……しきれない。
 思考が固まらない。
 固まろうとしない。
「は、ははっ……」
 気がついた。
 憤りを感じない。
 苛立ちを覚えない。
 感情が膨れ上がってこない。
 さっきまでの一瞬の昂ぶりはまるで他人事だったのかと思うぐらいに瞬時に醒めていた。
 これが魔術師としての思考の切り替えなら立派だが、そうでないことに自分で気づいていた。
 殊更聡明ではないが、特別愚鈍ではない。
「そうか、そういうことか……」
 鏡に映った自分の姿を見て、初めて自分に気付いた。
 それは手遅れではあったが、気付かないままよりは良かった。
「ふぅ……」
 僅か前のこと、この国にやってきた時のことを思い出す。


 聊か季節外れの豪雨。
 身一つで逃れるのがやっとだった窮地。
 斬り落とされた左腕の付け根の傷すら塞げていない。
 そんな余裕もなく、必死になって駆け続けていた。
 手持ちの奴隷サーヴァントを出すことは叶わなかった。
 それを奪う為だけの一撃を喰らっていたから。

 そう、自分はそれだけの為に招かれたのだ。

 彼は奴隷サーヴァントと、奴隷サーヴァントを従える令呪だけを欲していた。
 私という存在にはそれ以外何の価値も見出していなかった。
 きっとこんなに必死になって逃げたところで意味はない。
 追ってくる気配はない。
 当然かも知れない。
 彼は、もうこの身になんの関心も抱いていないのだから。

 体温が危険な域まで落ちているのを感じていた。
 血が流れすぎていることもわかっていた。
 けれど行動を起こす気にはなれない。
 本当は駆けることすら必要ない。
 ただ、一度動いたからそうし続けているだけだ。
 惰性で。

 相手に腹は立たなかった。
 自分の愚かさを笑うことは出来ても、相手を憎むことも恨むことも出来なかった。
 とうにわかっていたのだ。自分の心の中では。
 相手を憎んだり怒ったりするような感情が私の中に芽生えられたならば、こんな事態に陥っていないのだと。彼に隙を与えたりしなかったのだと。
「……はぁ」
 吐く息が白い。
 脚を動かしながら、雨に打たれながら、もう一度初めから記憶を掘り返す。
 向こうから近づいてきた時、私はどう思いどう感じたのか。
 浮かれていた? 有頂天になっていた?
 疑っていた? 疑心暗鬼になっていた?

 違う。
 彼の狙いを予想していた。目論見を嗅ぎ取っていた。
 それほど甘い世界を生きてきたわけではない。
 ならばなぜ、わざわざのこのこと―――

「はっ」
 自嘲する。愚かだ。本当に私は愚かだ。


――――彼の力になりたいと少しでも考えてしまっていたのなら。


「そうか、私は……こうなりたかったのか」
 自分の為にではなく、人の為に動く。
 それしかできない私だから、せめて彼の為に働きたかった。
 自分でも気がつかないでいた、己の願望。
 自分の求めるものすら、受けることで賄おうとしていた。
 依存と言うよりも、投げ出していたに過ぎない。
 私は探求者でも求道者でもなく、与えられたものをこなすだけの受動者でしかなかった。そう生きることを躾けられ、植えつけられてきた。
「ああ、そうか……」
 それはヒトではない。
 己が身に制約を設け、他者に全てを委ねていたこの身はヒトではない。
 そんなことは最初から見抜かれていたのだ。
 どうして彼が関心を持とう。
 冷徹な観察者である彼が、この矮小な存在を見抜かぬ筈がない。
 興味など持たれる可能性などないのだ。
「それでも……」
 それでも協力してくれという言葉をこの身に受けて、私は動きたかった。
 言ってみれば彼の道具に成り下がりたかっただけなのだ。
 反発していたのにどこかで屈服し、従属したがっていた。
 今まで築き上げてきた誇り、自負、何もかにもが彼の前には意味を成さなかった。
 もしかしたら、長い付き合いの間に揺さぶり、崩され続けてきたのかもしれない。
 それは彼らしい流儀でもある。
 そうあって欲しいと思う。
 ならば少しは自分も慰められる。
 あまりにもみっともなく、惨めで情けない、自虐するしかない己に対して。
「認めねばならないな」
 自分が彼に向けていた感情を。
 そうさせるべく誘導されていたのか、一人勝手に舞い上がっていたのを見抜かれていたのか、どちらにしろ上手に利用された。
 そして利用されてもいいと思っていた自分がいた。
 その結果がこうなっただけのこと。
 意外でもなく、当然ともいえる結果だった。
 そしてきっとこうなることを強く感じながらも、止められなかった自分を哀れに思うことにした。
 長い修練と研鑽は、心を磨耗することはあっても失くす事などできない。
 削られれば削られるほど剥き出しになっていくしかない。


 聖杯戦争。
 私の望みは、聖杯などで適えられる類ではない癖に、聖杯のような有り得ない力に頼らなければ適えられない無茶苦茶な望みだったのかも知れない。
 全てを失くして、何もない自分を拾ったモノは勿論善ではない。
 こんな抜け殻でさえも利用できると踏んだだけのこと。
 私はそれに抗うこともしなかった。
 あのまま朽ち果てていくのだから好きにすればいい。
 とっくに私などなくしていたのだから。
 使い捨てであろうと、使ってくれるのならむしろ嬉しい。
 ただ一つだけ、不満があるとすれば、
「仮初の希望を持たせようとしたことか」
 私が求めたものを勝手に探った挙句、まさぐって忘れさせ、また私に求めさせようとしたことだ。
 それはあのモノにとって自分がより便利に動いてくれる為の小細工だったのだろう。実際何もかも失くしていた私は何もする気など起きなかったのだから。
 間違ってはいない。
 けれども、一言ぐらい言わなければなるまい。
 隅々まで穢しきってくれた相手に。

 嫌なことを忘れさせてくれて有難う、と。
 大切なものを奪ってくれてこん畜生、と。

「しかし……答えはすぐ目の前にあったわけだ」
 疾走しながら、彼女は己の右手で左腕を撫でる。
 善人など聖杯戦争には存在しない。それは彼女の側にも言える事情だ。
「狙いはキャスターの霊力か。確かに、一体分あるとないとでは豪い違いだからな」
 目的地はさっきの場所からはすぐ近くにある。
 昼間だというのにどこか陰気な屋敷に向かって、彼女は無造作に飛び込んでいった。
 制圧戦は慣れている。
 黒い闇に飲み込まれるようにして、彼女の姿は敷地内に消えていった。


 生き死になど、頓着はない。
 最初から、彼女は気にしてなどいなかったのだから。
 ただ、一つだけ未練がましく残したものがある。
 彼を希望にするつもりはない。哀れんだだけだ。そこにいた自分自身を。
 だからこそ敢えて解かない。


「宿題だ、衛宮士郎。聞き分けのない頑固者を説くのに適するのは一体誰だ? 覚えてたら、考えてみろ。自分自身で」



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