《凛の施術、キャスターの解術》


 ギィィと重い鉄の扉を開く。
 寒風吹きすさむこの季節、好き好んで屋上に来る奴なんかそういない。
 我慢すればできない寒さではないが、わざわざ我慢してまで居たい場所でもなかった。だからなのか、一応生徒にも解放されている場所だから立ち入り禁止というわけではないものの、それなりの広さを持ったこの場所には呼ばれた俺と、呼んだ葛木宗一郎しか存在しなかった。
「失礼します。葛木先生、一成から聞いてきたのですが」
「うむ」
 ドアを開けた音で気づかれたことはわかっているのに、雰囲気としてはやってくる前からこの瞬間に俺が屋上に来ることを知っていたかのような素振りに見える。その逆に俺が呼び出しをすっぽかしたとしても少しも痛痒に感じず微動だにしなさそうな相反した趣で佇んでいるように思える。でもそれは別段この人にとっては変わった事でもなくて、職員室で用事を頼む時でもこんな感じだったりする。
 一言で言えば良く分からない人なのだ。
 融通が利かず、無愛想で自他共に律する厳しめの教師でありながら、嫌われてはいない。積極的に親身になってくれることは決して無いものの、教師という立場の範囲内での相談役としてはこれ以上の適任者はいない。余計な気を回すことなく、必要なことだけを対処してくれる。
 取り合えずは俺も苦手意識はあるものの、教師として尊敬できる人の一人だった。
「急に呼び立てて済まなかったな」
「いえ。それで一体俺に……」
「それは私から説明するわね」
「―――っ!?」
 慌てて声をした方を向く。
 見ると、時代錯誤というかフードを被った古めかしいローブを着た女性が俺たちのすぐ脇に歩み寄るようにしてやってきた。
「……え、え?」
 女性を見、葛木を見、出入り口を見て、また女性を見た。
 そんなのは、あり得ない。
 この屋上の出入り口は俺が今入ってきた階段が一つあるだけで、身を隠すような遮蔽物は給水塔が一つあるだけだが、そこから現れたにしては距離がある。少なくても俺が入ってきた時に見えない位置にいて現れることが出来る筈が無い。
「な―――んで?」
「極めて常人の反応のようだが、本当に彼がそうなのか、キャスター」
 葛木は俺の動揺っぷりを見て、その女性に尋ねる。
「ええ、間違いはありませんわ、宗一郎様。この坊やからは魔術師としての魔力を感じますもの。そして恐らくは聖杯戦争の敗退者」
「―――っ!」
 知らない。
 けど、覚えが無いわけではない。
 既視感デジャビュというものなのか、俺の中では新鮮ではなかった。
「な、なんだ……って?」
 自分で、その自分の感覚に面食らう。
 巣食っていた連日の違和感がその一言で一気に内部で増してきたのが分かる。
「そうか。ならばそうなのだろう」
 あっさりと女の言い分を鵜呑みにする葛木。
「ちょ……」
「そのまま大人しくしていたのであれば見逃してあげたけれど、まだ未練があるのであれば容赦はしないわ」
 戸惑う俺に対して、その女魔術師は掌を掲げた。
 その先から魔力の塊が球体になって浮き上がっていく。
 ざっと見ただけでも俺なんかとは比べ物にならない桁違いの魔力だった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何なんだ、一体!?」
「さあ、とっとと奪ったサーヴァントをお出しなさいな。最後に残ったもの同士で、この聖杯戦争の決着をつけましょう」
「は? おまえ一体何を……」
「ここにはいないことはわかってる。呼び出さないのであれば、生きて―――」
「待てってば! だから俺は知らないって」
「何を今更……アサシンを奪ったのは貴方でしょうに」
「何を言ってるんだ? 俺は……」
 ここで言いよどむことで不審がられると思ったが、否定しながら自分でもわからなくなる。
 全く身に覚えの無いことと、覚えてはいないが微かに引っ掛かりを覚えることが混在してぶつけられた為に混乱していた。
「だからちょっと待てって……」
 とにかくとばかり、必死になって両手を前に掲げて振り回す。
 この女魔術師の魔力は到底太刀打ちできるものではない。
「……」
 必死の形相をしているだろう俺の顔を、葛木と女魔術師は感情のない表情でそれぞれ見つめていた。
 暫くの間があって、
「キャスター」
「ええ、宗一郎様」
 葛木の呼びかけに頷きながら、魔術師は構えを解いた。
「ふ、ふぅ……」
 体の力が抜けるのがわかる。その場に座り込みたくなるぐらいに緊張していた。
 みっともないので、必死に膝に力を入れて耐える。
「演技が出来るようにも見えないし、どうも本当に知らないみたいね」
 う、何か失礼なこと言ってるし。
 一方の葛木は全く微動だにしていない。
 そもそも一体どうしてこの人がここにいるんだ。
 宗一郎様とか呼ばれてたところを見ると、この魔術師の上役とか。
 いや、でもなんかちょっとイメージ違うような。
 困惑する中、二人は俺を無視して話し合っていた。
「だが、何も知らないっていうのはおかしな話ではないのか」
「どうも、記憶封鎖されているようですわ。まずはそれを解除することから始めなくては」
「ふむ……」
 何か物騒な話をしている。
 しかし、何で葛木なんだ。
 こんな状況によりにもよって一番相応しくないような人間じゃないか。
 葛木先生は確かに他の先生よりは凡俗ではない風があるものの、少なくても魔術師とかそういう方面の人からは一番縁遠いと思っていたのに。
 それなのにいかにも魔術師魔術師した女とつるんでいるのは一体何なんだ。
「待たせたわね、坊や」
「いや待ってないし」
 咄嗟に反応する口。
 何か自分で言ってて反抗期の子供みたいに思えた。
「害意は加えないから、袖を捲くって両腕を見せてくれないかしら」
「はあ?」
「あ、上着は脱いでね」
「え?」
 いきなりの支持に戸惑い、助けを求めるように葛木の顔を見る。
「……」
 が、無関心を貫いているようで、瞑想しているかのように目を閉じていた。
「ほら、ぐずぐずしない」
「あ、ああ……」
 叱咤に対して少し自棄になって、ブレザーの上着を脱ぎ、シャツのボタンを外して両袖を捲くった。
 季節柄肌寒かったが、我慢できないほどではない。
「これでいいのか」
 突き出していた両腕を彼女は目を細めて眺めると、
「ええ、もういいわよ」
 と、関心を無くしたように顔を上げた。
「それで、貴方は何も覚えていないのかしら」
「何もって何だ?」
 上着を羽織りなおしながら、女魔術師の問いに反応する。
「貴方が参加していた聖杯戦争のことよ」
「っ……」
 その単語は絶対に俺に関わりのあることだと理解していた。
 そのくせ、どれがどういうものなのかというのはもやがかかったようになっていて思い出せなかった。
「なかなか強力な魔術を使われているようね」
 これだけの術を使うより殺した方が早いでしょうに、と物騒なことを呟いている。
「一体、どういうことなんだ。何か知っているのか」
「知りたいのはこっちよ。でも、貴方は違ったみたいね」
 失望からなのか、少し苛立ちを含んだ声で応じてくる。
「お邪魔したわね。もう戻っていいわよ」
「なっ……おいっ!」
 散々振り回しておいて、それかよ。
「勝手に―――」
「知りたいかもしれないけど……貴方は今の生活を選んだのでしょう?」
「は?」
 それは違う。
 今の状態は俺が選んだわけじゃない。
 だって、もし、そうなら……
「……違う」
「……そう?」
「ああ。だって、もしそうなら……」
 もし、選んだのであれば、こんなに胸が苦しい筈が無い。
「毎日が……辛い訳が無い」
 違和感に振り回されて、
「選んだ上の後悔の筈が無い」
 焦燥感に苛立つ筈が無い。
「頼む、教えてくれ!」
「……」
「俺は……一体……どうなっているんだ!」
 どう言っていいのかわからないが、このままではいけないことだけはわかる。
 そしてこれまでは手がかりすらなく、どうしていいのか全くわからなかった。
 そして今、曲りなりにも光明が見えている。
 縋らずにはいられなかった。
「俺はっ……」
「お黙りなさい」
 冷たい声。
 キャスターが冷え切った目で俺を見ていた。
 どうしてそこまでの目を向けられるのかがわからないが、つい怯んでしまう。
「な、なんだよ……」
「知りたいのでしょう?」
「……あ、ああ」
「だったらじっとしてなさい。今、解呪するから」
 あっさりと言ってのけたキャスター、そして俺たちのやり取りを遠い世界の出来事とでもしているかのように、無関心を貫いている葛木を交互に見る。
 どちらも、俺を見ていなかった。
「……」
 口を開きかけるが、またキャスターに冷たい言葉を受けるだけの気がしてやめる。
 一体何だって言うんだ。
 俺はただ、自分の失っている記憶を取り戻したいだけなのに。
 それでどうしてこんな扱いを受けなくちゃいけないんだ。
「やっぱりこれを使うのが一番手っ取り早いかしら」
 そりゃあ、こいつらからすれば俺の頼み事なんて厄介事にしか過ぎないのかもしれない。でも俺は、どんな事をしてでも―――
「えっ」
 キャスターがマントを翻して伸ばした手の先には奇妙な形をした短剣が握られていた。その先端が俺の胸を浅く突いた。その動きに反応して身を引いたのだが、間に合わなかったらしい。軽く痛みが走る。
「ちょっと待て、一体……」
破戒すべき全ての符ルール・ブレイカー。これで破戒できない魔術は存在しないわ」
 俺の抗議を一言の元で封殺する。
 刺された箇所が痛い。
 玩具のナイフにも見えなくないので、刺さってはいなくて尖っている部分を押し付けられているだけなのかも知れない。どちらにしろそれほどの痛みではなかった。
 それなのに、痛みという形は俺の中を一つにして揺さぶっていた。
 バラバラに砕かれてあちこちに捨てられたものが一つに纏まっていくような感覚。
 何度も上塗りされて元のものがわからなくなっていたものが浮き上がっていくような感覚。
 埋められたものが掘り起こされ、隠されたものが見つけ出され、飛び散ったものが組み直され、俺の中で形を失っていたものがその形を取り戻していく。
「え……」
 見覚えの無い出来事が、記憶に無いやり取りが、次々に浮かんでは鮮明になっていく。
「あ、ああ、あああ………」


―――始まりは、夜の校庭。


 赤と青。学生。必殺の危機。背を向ける。走る。殺意。槍。暗黒と赤。目覚め。残された宝石。家に来る敵。自衛隊ポスター。中庭。土蔵。二度目の出来事。割って入る剣。金髪の少女。剣舞。逃走。疾走。正面口。討たれ掛ける。爆発。制止。驚愕と絶句。まさか。見覚え。歪んだ顔。呆れた顔。困った顔。怒った顔。戸惑いと諦め。観念と足掻き。運命とか希望とか。夢の実現。俺じゃないのはどうして。神父。望んでないんかない。凍る背筋。雨合羽。嫌味な顔。猫被り。白い少女。巨漢の襲撃。追い立てられ、逃げ惑うザマ。外人墓地。粉砕と爆発。火花と轟音。討つ。討たれる。狙いは誰。敵。相容れない相手。邪魔者。理想像。共感。指摘。助言。親切。融通が利かない。怪我がなくて安心。痛いけど満足。嬉しいけど不満。俺がしたい。君にさせたくない。誰にもさせたくない。俺の義務。俺の役目。俺の運命。俺がやるから。俺の為に。かつてのものの為に。見たくない。考えたくない。一目見て嫌い。可愛い。間違ってる。俺は間違ってない。素敵だけど嫌。まだ何も変わってない。そんな筈は無い。安全。葛木。日常。美綴綾子。重い空気。不在。変化。有り得ない。夕焼け。質問。階段。見上げる相手。敵。嘘。非日常。違う。油断。違う。仲間。信頼。殺気立つのはおかしい。こんなのは違う。待て。おまえはおかしい。俺は違う。違う。誰。誰だ。違う。違う。撃ち出されるもの。のしかかるもの。悪寒。声。断ち切られる何か。赤い何か。消えていく何か。誰か。とお―――

「遠さ―――か――――」

『え? なに、私のこと知ってるんだ。なんだ、なら話は早いわよね。とりあえず今晩こんばん、衛宮くん』
 全てが繋がっていく。
 鮮明な形になる。

「遠坂」

『そうよ。だからこれは私の失点。貴方よりわたしの方が強いから生じた油断かな。ま、言うなれば心の贅肉ぜいにくね』
 そう、だ。
 そうだった。
 遠坂が、いた。
 遠坂がしたのだ。

「遠坂……」

『―――先に謝っておくわ。これからする事は、命を取るのと同じぐらい酷いから』
 俺をこうしたのは、日常に引き戻したのは、彼女が―――

「遠坂……」

『―――さよなら。貴方は知らなかっただろうけど。わたし、けっこう前から貴方のコト知ってたんだ』

 遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂。遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠坂遠さかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさかとおさか―――

「ああ、ああああ……」
 次々と浮かんでくる。
 魔術師だった彼女。
 何もわからない俺を教会まで導いてくれた彼女。
 共闘しようと言ってくれた彼女。


 そして―――俺を倒した彼女。



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