《桜と登校》


「先輩、おはようございます」
「あ、桜。おはよう」
 通学路で偶然、桜と会う。
 毎朝俺の家に通うようになってからは、こんな風に途中で会うなんてことは有り得ないし、それ以前の頃は常に桜の前には慎二がいた。こんな風に二人で学校への道を歩くことなんて、もしかしたら初めてだったかも知れない。
「そう言えば、そろそろ部活動も再開するんだって」
「え……あ、そうなんですか」
「ああ。美綴のヤツがそう言ってた」
 一成に藤ねえとそれぞれの立場からの判断を聞いているが、いつまでも今の状態を続けているわけには行かないという点では一致しているようだった。段階を踏んで、まずは朝練は解禁で、放課後も時間制限付きの再開となるらしい。
「それよりも先輩」
「ん?」
「ここ数日、帰りが遅くありませんか?」
「え……あー」
 そう言えば、桜からの電話を最近は取っていなかった。
 美綴が利用しているという新都にあるスポーツジムで稽古をつけて貰っているようになってからは帰宅が遅くなっている。畳のある部屋を都合よく借りられる時間がなかなかとれないこともあって、帰宅するのはもっと遅くなってしまっている。
 アルバイトが長引いた時ぐらいの時間が毎日続いているようなものだ。自分一人の都合しか考えていなかったが、確かに桜や藤ねえに伝えてなかった。
 基本的には自分から話題を振らない桜に、俺は謝りながら、ここ最近に始めたことを話す。
「武道を習う……って、美綴主将にですか?」
「ああ。桜も知ってるだろうけど、あいつの武芸百般ってのは本当に伊達じゃない。関節極められるわ、投げ飛ばされるわ、自分の事ながら呆れるぐらいに翻弄されっぱなしさ」
 実際、美綴は大した豪傑だ。
 あいつが何度か口にする『美人は武道をしていなければならない』とやらは、自身にとっての有言実行に他ならない。ただ、どうもそれは親父さんからの受け売りらしい所もあって、その熱意は自宅を改造して地下の稽古場まで作っているのだそうだ。 確かにそんなものが家にあるのなら、距離を必要とする弓道以外ならやれてしまうだろう。道場を敷地に持っている俺だからその辺は理解できる。ただ場所があれば出来るものでもないのだから、美綴の努力は相当なものなのは言うまでも無い。
「俺としては、女の子に戦って欲しくないと思っているんだけどな」
 まあ、美綴は例外としておく。あれは女の子なんて可愛らしいものじゃない。弓道部を止めたことをまだ根に持っているのか、かなり手荒くやられている。
「でも、どうして……」
「ちょっとな」
 流石にきっかけについては詳しく言うわけにはいかない。恥ずかしいし。
「しかし一通り習ったって、一体どんな子供時代を送ったらあんなになるんだろうな。合気とか空手とか一つを極めたとか言うほうがまだ納得がいくのに。あいつに教えた側もどうなってるんだか……どれも俺に教えられるぐらいの知識を持ってるんだからな。ほんと、凄いよ」
 家でのこと、慎二のこと、そして今の状況のことなど、触れられない。
 並んで歩いているのに、酷く距離を感じた。
 慎二がいなくなったということだけではないだろう。間桐の家の方が忙しくなって俺の家に寄れなくなったということだけでもないだろう。
 でも、それがどういうことかは分からなかった。
「ここのところ体も鈍り気味だったから、いいきっかけになるといいなって」
 共通の会話がなく、桜からは話してこないので一人で喋ることになる。
 寒々しい雰囲気を跳ね除けるように、階段で別れる時まで俺はずっと喋り続けていた。桜の顔は見ることが出来なかった。見たらきっと、心配になるから。
 俺は桜を信じていたかった。
 少ししたら、きっと元通りになれると思っていたかった。
 今はちょっと上手く行っていないだけ。
 そう思い込もうとしていた。
「あ―――」
「ん?」
「いや、何でもない」
 そう言えば、部活動が再開されたらどうするかは決めていなかった。
 中途半端に終わるのもなんだし、土日に集中させるのもいいかもしれない。
 逆に家の道場に招くのも手だ。
 どちらにせよ、機会を見て藤ねえには断わりを入れておいた方がいいだろう。
 何か変なことを言われそうだが、黙っている方が拗ねられて後々大変だ。
 それに、何か言われた方がいい。
 今は無性に、構われたいのかもしれない。



 日課が変わろうと、日は過ぎていく。
 浮ついた空気も、沈んだ雰囲気も次第に流されていくのが分かる。
 時間というものの強みと怖さを実感する。
 あれだけのことがあったというのに、日常は今まで通りに戻ろうとしている。教師は普通の授業を始め、生徒は学生としての生活に戻りつつある。
 戻れないのは、俺のような妙に引き摺ってしまっている人間ぐらいなのだろう。
 一人浮き始めているのがわかった。
 俺の時間はここにはない。
 昼休みに生徒会室で一成と昼飯を食べる時と、放課後に美綴に向かって行って体を苛める時、そして寝る前の土蔵での魔術訓練の時ぐらいしかかつての俺というものを取り戻せないでいる。
 ただ学校はこれでもまだマシだった。家にいる時ほど、不安を感じる時は無いのだから。

「衛宮の弁当は最近手を抜いていないか?」
「そんなことないだろ」
 どれも朝早く起きてあれこれ考えながら作っているのだが、どうもそう思われているらしい。職員室に寄った時に会った藤ねえにも、前みたいな華やかさがないと言われた。ただ「もっとこう、パアァァとしてたもん!」と言われてもよくわからないのだが。
「うむ。そうなのかも知れんが……」
 歯切れが悪い。一成まで擬音で表現されるのではないかと不安になったが、
「考え過ぎかも知れぬな、すまん。忘れてくれ」
「ああ」
 助かったようだ。何が助かったんだかわからないが。
「では食べるとする―――すまん。電話だ」
「え?」
 一成はポケットから携帯電話を取り出すと、その場で通話を始める。
 授業中は勿論、休み時間も電源は切っているというか元々学校に持ち込まないタイプの一成だが、ここ暫くの事件や事故の連絡絡みで外部から連絡が来ることもあるらしく、こうして昼休みなどは電源を入れておいているのだそうだ。教職員よりも生徒会長の方が権限があるわけでも、問題収束力があるとも思えないのだが、悪いが詳しい話は言えないとのことで聞いていない。責任のある立場になったことがないのでわからないが、何かあるのだろう。
「そうですか……はい、はい……それでですが、え? あ、はい……」
 丁寧な受け答えながら、その喋り方は親愛の感のようなものがある。特に相手が誰かということを気にしているわけでもなかったが、こうして目の前で会話されていては意識が向かないわけにはいかない。TVもないし、他の人間もいないのだから当然なのだが。
「ん?」
 何故か、一成は会話中に俺を見た。側に居ることが邪魔なのかとも思ったが、そうではないらしい。すぐに切り上げるような話に戻っていた。
「ふう……」
 会話を終えると軽く一成が息を吐いた。
「一成。いいのか、学校で電話なんかしてて」
 事件のこととかではなかったようなので、軽い気持ちで突っ込みを入れると、一成も気づいているのか笑みを作りながら応じる。が、すぐに表情を引き締めた。
「うむ、それについては後で弁明するとして、衛宮」
「ん?」
「葛木先生がおまえを呼んでいる」
「葛木先生が?」
「ああ。理由は俺にもわからんが、とにかく屋上に来てくれとのことだ」
 こうして俺が一成と共に昼食を生徒会室でとっていることが多いこともあり、生徒会顧問の葛木先生とも会うことも多いが、特に他の生徒に比べて親しいわけではない。
 用事を頼まれたりするような時以外には二人きりで話したことなどこれまで一度もなく、これからもないと思っていたのだが……。
「じゃあ、今の電話は……」
「ああ、しかし校舎内にいるのだったら電話などではなく、直接呼びに来るなりした方が早いと思うのだが」
 もっともな話だ。
 ふと先日の老人を思い出した。複雑な事情があってあの人から逃げているのではないかと俺は思ったが、一成には問い質さなかった。だとしてもあの葛木先生が逃げ回るなんてことは想像できない。彪火とか言っていたが、女性関係とかだろうか。それも想像できないが。
「わからないが、この時間におまえを呼んでいるのは事実だ」
「ああ。待たせるわけにはいかないしな。じゃあどの程度の話かわからないし、先に食べててくれ」
「うむ。そうさせて貰おう」
 食べかけの弁当箱の蓋を閉じ、椅子に腰を下ろした一成と入れ替わるようにして立ち上がった。
 一体何なんだと思いながらも、担任からとかではないことから深刻な話ではあるまいと高を括って生徒会室を出た。まあ藤ねえの代わりにという可能性もあるのだが、ヤバめの話をあの人が喩え忙しくても他人任せにするとは考えにくく、俺相手ということも考えると、更に人任せということはあるまいと高を括れるぐらいの判断はできた。勿論、病院周りや警察巡りなどしている藤ねえなので、ないとは言い切れないのだけれども。
「しかし、何だろうな」
 そして、俺自身には肝心の呼び出される理由にはさっぱり心当たりがなかった。



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