《胎に還る/綾子》
「―――くっ」 暗闇は苦手だ。 記憶のない出来事、自覚のない現象の根源のような気がしているからだ。 それでも必要になれば人は暗闇も歩かなければならない。 光を作り、道を照らすことで闇を追い払い、飲み込もうとする。 ただ、己が為に。 人の為に世界はあるのだと、嘯く。 神がバベルの塔を壊したのであれば、次の神の裁きはいつ頃やってくるのだろう。 まだ先なのだとしたら随分とのんびりとした存在らしい。 まあ寛大かつ鈍重でなければやってられないだろうが。 人は目まぐるし過ぎるから。 「さて……」 馬鹿なことを考えて、恐怖を追い払う。 否。 本当は恐怖はない。 震えていない。 怖がっていない。 自分に身に覚えのない時間があり、事故に遭ったということは薄気味悪く気分の良いものではなかったが、痛い目にあったわけでも苦しい目にあったわけでもない。薬でも打たれたのかと注射痕を調べられ、尿検査まで受けたが何もなかった。外傷も目立ったものはなく、貧血で倒れて道端で転んで気を失いましたという以上の痕跡は見当たらなかったらしい。自分でも調べたが新発見は見当たらなかった。過度の疲労でも溜まっていたのではないかと無理矢理納得するしかないぐらいに何もわからなかった。沢山聞かれたが、何も覚えていなかった。本当に覚えていなかった。初めは疑われていたようだが、他の検査結果も出揃った時点で、虚言を弄しているとの嫌疑は晴れたらしい。そしてここ最近の昏倒事件の被害者の末端として名を連ねるに至って取調べから開放されて、今までの自分という身分を取り戻すに至った。 まあ学校の方が変な噂が流れていて、心底嫌だったが。 幸い知人は殆どそんな噂に取り合うこともないでくれていたことが、僅かな救いか。 こうして、美綴綾子は日常に復帰したのだった。 時間が遅くなったという流れで闇夜を歩くことが当然だというぐらいの日常に。 ただ一人の友人を除いて。 行方不明ではない。 転校とのことだった。 けれども、腑に落ちない。 あの女がそんな理由で、急に自分たちの前から姿を消すとは思えないのだ。 自分が彼女にとって特別だったと自惚れる気は無い。 彼女自身のプライドがそんな逃げるような真似をするとは思えなかったのだ。 一度彼女の家の前まで行った事があるが、中の様子は窺えなかった。 呼び鈴を鳴らす気にはなれず、ただ立ち尽くしたままだった。 何もかにもわからないまま、終わろうとしていた。 不在がちな両親に代わって保護者のような立場にいるという神父にも会いに行ったが、こちらも不在だった。しかもその教会では補修工事の真っ最中で、引き継いだばかりらしい新任の神父しかいなかった。こんなことならもっと事情を聞いておけばよかったと後悔する反面、そうしてきたからこそ自分からこの程度の話はしてくれたのだろうと思う。恐らくは学校で一番彼女のことを知っているのはあたしだろう。誰も知らないし、気づいてもいないだろうが。 「いまさら、自慢にもならないけどな」 その一言で、考えを中断した。 今、このような状況で考えながら夜道を歩くことは流石に危険過ぎる。 あんなことがあったので、遅くなると家族に心配をかけてしまう。 先ほど携帯電話で家に連絡を入れたとはいえ、早く戻らないと不安がられることだろう。共稼ぎで週明けからはすぐにまた両親とも長く家を開けなければいけない二人にこれ以上余計な負担はかけられない。 自然、足が速まった。 近道だったので新都と旧市街を結ぶ橋に行くには近道だったので、公園を横断することにした。 この時間ともなると人気のない場所なので、正直お勧めはできかねるコースだが、構わずに足を踏み入れていた。 何事もなく、あるわけもなく公園を走りきる。 あと少しでというところで、何か叫んでいる人影に気づいた。 「―――――――――ぅっ!」 「なっ!」 身が竦む。 恐怖がないなんて嘘だ。 怖がることを必死に頭から追い払い、笑い飛ばすことで精一杯の自分を演出してきたのだ。身に覚えのない時間が長々とあり、原因が未だに不明というのは不気味以外何物でもない。震えない方がどうかしている。ただ、虚勢を張るのが人よりも多少上手いだけだ。 かといってここで逃げる気にもなれない。引くよりも押してかかる性格なのだ。一度や二度の失敗では懲りそうもない。 「あ、あいつは……」 それでも怯みがあったせいで、半ば早歩きぐらいに速度が落ちながら近づいていくと、人影の意外な正体に気づく。 驚きと共に、安堵が広がる。 あれは害を与える者ではない。 他者に対する絶対的な信頼感。 それほどの対象だった。 自分にとって彼の存在は。 だが、彼はどうしてこんなところにいるのだろう。 「衛宮……」 街灯の頼りない光が彼を照らす。 こんな場所で何をしているのだろう。 この公園はとかく、空気が悪い。 開発著しい新都でも未だに手付かずなのは、あの大火災の鎮魂の意を表していると言われていて、そのせいか場所の割には昼夜ともに人がそう多くないらしい。 そう言えば、こいつは確か……。 「衛宮……」 今度は彼に届くように名前を呼んだ。 でもあたしの声は彼の耳には届かなかったのか、俯きがちになったまま一言呟いた。 「もう、許してくれ……」 「……え?」 彼は今、何て言ったのだ。 弱音を、吐いた? こいつが。 まさか? しかし、全身を震わせている彼の背中は許しを請う者だった。 「え、衛宮……」 もう一度呼びかける。 反応はない。 「衛宮っ!」 躊躇なく駆け寄り、その肩をつかんだ。 「っ!」 泣きそうな顔だった。 泣かせるべきだ。 そう思った。 瞬時に。 わからないが、そう思った。 「お、俺……は……」 「いいから。今は、いいから」 何がいいんだ。 内心で自分にそうツッコミを入れながら、彼の肩を抱きしめた。 どうしてだか、そうしたかった。 「う、ううっ……」 呻くような声。 抱きしめる手に力が入る。 「うぁ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」 直後、彼は号泣した。 あたしの胸の中で。 「……」 体を押し付けた部分が熱い。 熱い涙を注がれているのだから当然だ。 ―――胎で男を泣かせるようになったら女は一人前よ。 昔、男友達から借りた漫画雑誌か何かで見た台詞を思い出す。 女は母親たるべしという意味合いでも込められているのだろうかとか思いながら、ページを捲っただけなので、こうして今思い出したことにびっくりした。 「えぐっ、えぐっ」 顔は俯き、肩を震わせたまま、堪えようとしながら堪えきれない嗚咽。 服の袖で乱暴に目尻を拭うから目許が真っ赤になっている。 満足感よりも、何故だか先を越されたような気分になっていた。 悔しい反面、ちょっと嬉しかったことも否定しないが。 そのくせ、どうして嬉しいのかはわからない。 たまたま出会っただけだ。ここにいただけだ。 それなのに、嬉しいと思えるだけの時間がここにあった。 「衛宮は少し、張り詰めすぎだったからな……」 偶然とはいえ、初めて衛宮から心を見せてくれた。 あたしは、それを嬉しがっている。 きっと、他の誰にも見せたことの無いものだろうから。 たっぷりと五分近く、ずっとそのままの状態であたし達はいた。 人気のまるで無い夜の自然公園の中で。 |