《彼女のいない日常》


 その翌日も、前日までと変わりがなかった。
 慌しく朝食をかっこんでいった藤ねえを見送り、いつも通りの時間に家を出て学校につく。学校も相変わらずだが、皆徐々に騒動に慣れてきたのか、一つ一つの問題に対する反応が鈍くなっているようだった。ただ精神の方は蝕まれているらしく、欠席者も常時居て、全員揃う日はなかった。登校している生徒も疲れ気味だと零したり、顔色が優れない者も少なく無い。
 欠席者と言えば、昏倒事件の前の日を境に慎二も学校に来なくなっていた。
 桜に聞いたところ、彼女も良く判らないという。
 彼女の表情は暗い。
 それなのに彼女は俺の心配をする。
 苦笑して見せたが、かつての笑顔を彼女は見せることはなかった。
 一成も不審そうな顔をしていた。
 何でも他にも生徒の行方不明がいるらしいとのことだった。昏倒事件に隠れてそれほど騒がれていないが、事件とも関係がなく家にも病院などにも居ない生徒が少なからずいるとの話だった。
 普段の一成なら俺に対して自分からこんな話をするとは思えないのだが、奴も例外ではなく疲れているようだ。他の生徒に比べても生徒会長としての激務分が蓄積されているのだから当然なのだが。
 愚痴ぐらいで済むなら幾らでもという気持ちの反面、何故か胸の奥が痛んだ。
 疲れが取れないと嘆きながら、おまえも確りするんだぞと励まされる。
 肩を竦めて見せたが、立ち入ったことは聞かないがいつでも相談に乗るぞと気遣いを受ける始末だった。
 心配される自分が物凄く腹立たしくて、惨めに思えた。
 泣きたいぐらいの、悔しさだった。
 理由もわからないのに。
 だからなのかも知れないが。

 今日の授業も教師が黒板に書くことをただ、ノートに写すだけだった。
 そんな授業を行っているのではなく、受けている側がそれしかできないような状態になっていた。ぼんやりしていて、何を聞いたのか覚えていない。それは俺一人ではなく、教室中でそんな空気になっていた。そんな状況に対して声を張り上げてハッパをかける教師も無理が見える。そろそろ気持ちを切り替えないととは誰もが思っているのだが、ままならないのだから仕方が無い。
 授業の無気力ぶりとは対照的に、休み時間や放課後はあるところではわいわいと、また別の場所ではひそひそとそれぞれ情報交換を行うグループが出来ていた。
 他人の動静についてあれこれといい加減な憶測を交えた話をする連中を余所目に、荷物を手早く纏めると、近くに居た知り合い数人に挨拶をして教室を出た。
 廊下でも似たような光景が広まっている。
 男女構わずといったところか。
 時折通行の邪魔になる連中を避けながら、下駄箱に向かう。
 今日はいつもより若干人が多いようだ。
 何か噂だか何かに新ネタが入ったのだろうか。
 どっちにしろ興味はないので、いつも以上に早足で潜り抜けていく。
 ただその際、一際声の大きかったグループ連中の声は俺の心境などお構いなしに耳に届いていた。
「そうそう」
 誰かが言う。
 誰かに対して。


「遠坂、転校したんだってな」


「!?」
 その言葉に、足が止まりそうになるのを必死に堪えた。
 そのまま普通に歩いていたつもりなのに、まるで逃げているように感じた。
「マジ? 急になんでだよ」
「なんでも親の仕事の理由とか、ほんといきなりだよな」
「まあ、こんな状況だし、逃げたくなったのかも知れないぜ」
 耳を塞ぎたくなるのを我慢して、下駄箱の前へと逃げ込んだ。
「―――て、俺別に……」
 遠坂凛。
 直接の知り合いではない。
 会話を交わしたこともあったかないかぐらいで、少なくても向こうは記憶していないぐらいの接点しかない。
 密かに憧れの感情を抱いていて、古臭い言い方をすればマドンナという存在だ。
 それなのに、彼女がいなくなったということがこんなにも強く、誰よりも強烈に俺の心をこれ以上無い喪失感として襲っていた。
「なんでさ」
 何で落ち込むのか分からない。
 だから口に出して、なんてことはないというのを繕ってみるが、全然なっていない。
「はぁ……」
 どうやっても駄目というのなら、何も考えないようにするしかない。
 下を向いて時間が過ぎるのを待つ。
「あ、駄目だ……」
 そんなんじゃ収まらない。
 じわじわと悔悟の念が俺の心に食い込んでくる。
「お、衛宮じゃん」
 沈み込みそうになった思考を救ったのは、聞き慣れた声だった。
 顔を上げると、にこやかな笑顔が視界に飛び込んでくる。
「あ、美綴……」
 いつもならもう着替えて弓道場にいる時間だろうが、部活動は全面的に休止状態に追いやられている。制服姿のままだった。
「そっちももう帰りか?」
「ああ」
 何かいいことでもあったのか妙に上機嫌だ。
 昏倒事件の前、唐突に休んだ際に下級生の一部でいかがわしい噂が流れたらしいが、見た目には影響はないようだった。詳しいことは知らないが、一晩行方が分からなくなったらしいとのことだ。もし、こいつが一連の行方不明事件の被害者の一人だとするなら、唯一の帰還者になるわけだが、そんな素振りを見せていないので違うのだろう。所詮は無責任な噂に過ぎないし、俺も信じていたわけじゃない。
「衛宮は今日、このまま商店街に寄るのか?」
「ああ。一度家に戻ってからでもいいんだけど……」
 そのつもりというわけでもなかったが、何故か話を合わせてしまった。まあどちらでもいいんだけど。
 喩え今日も藤ねえ達が間に合わなくても、その準備だけは出来るように食材は常に揃えておかなくてはならない。実際は別にそういうわけでもないのだが、習慣が身についてしまっているのと、それを変えたくないという思いからだった。
「なら一緒しようぜ」
 こちらの肩をぽんぽんと叩きながら、俺の隣について歩き出した。
 さっき返事をした際に、ちょっとこの展開を期待していなかったと言えば嘘になる。
 今は一人でいたくなかったから。
 桜は慎二の行方不明に伴って彼女がやらなくてはいけないことができたのか、ここのところは間桐の家で何やら忙しいことになっているらしい。家でも会う機会が減ったこともあったが学校で会う機会も何故か減っていた。藤ねえや一成の忙しさは言うまでもなく、他には特に親しい友人はいない。
「じゃあ朝練も中止なんだ」
 気さくに話せる美綴の存在が、今はどうしようもなく恋しい。
 彼女と一緒に帰るのは、弓道部を辞めて以来のころだった。
「そうなのよ。だから、あたしゃ参っちゃってるわけよ」
「だろうなぁ」
 他愛の無いお喋り。
 最近の弓道部の話題から藤ねえの話や桜の話まで出たが、何故か慎二の名前だけは彼女の口からは一度も出なかった。今も行方不明のあいつに対して彼女はどう思っているのか気になったが、敢えて触れるつもりはなく、彼女の話に相槌を打つことに集中する。
「他に弓道場なんてないからほんと、参るよ」
「そうだな」
「お陰で今日も明日も筋トレの日々なのでありました」
 トホホという表情を作って肩を竦めて見せるが、勿論それだけじゃない。
 彼女は武芸一般に通じているから弓道以外の修練は今も続けられる場所で続けているのだろう。けれども弓道に対して必要なのは弓を引くことであって、筋トレなんかじゃない。実際に的目掛けて矢を放つだけが弓道ではないにしろ、射場が使えないのはかなり厳しい。まあその辺は、お互い言うまでも無いと思っているからこそ特に口に出す話ではないが。
「そういえばさ、衛宮」
「ん?」
 急に美綴の雰囲気が変わった。
 そこで、気づいた。
 さっきからの元気は、本物じゃなかったのだなと。
「遠坂のことなんだけど」
「え……」
 さっきの話が思い起こされた。
「あ、ああ」
 内心の動揺を隠すようにして声を落とした。
「そう言えば転校だって?」
 こいつと遠坂は同じクラスだったからきっとその旨は伝えられているんだろう。聞きたくないという気持ちがあったくせに、知りたいという衝動が抑え切れなかった。
 でもそれ以上に願っていたのは、笑い飛ばしてくれて俺の不安を杞憂としてくれることだった。有り得ないことだとわかっていながら、そんな希望に縋っていた。
「ああ。そう言ってたんだけど……本当なのかな」
「え?」
 勿論、そんな都合の良い希望は通らなかった。
 少し暢気にも言えるぐらいにさばさばとして、他人事のように距離を置いた雰囲気で美綴は逆に俺に尋ねてくる。
 その態度に、妙に意外感を覚えていた。
「本当にあいつが黙っていなくなる奴か?」
「……どういうことだ」
 そんな不信感よりも強く、その疑問の発生する根拠が気になって尋ねる。
 もしかして彼女も行方不明者とでも言うのだろうか。
「あたしさあ、あいつと賭けしてたんだ」
 急に話が横に逸れた。
 いや、彼女の中では逸れていないのだろう。
 そのまま話を続ける。
「それが終わるまで逃げるような奴じゃない筈なんだ、あいつは……」
 ああ、やっぱりと少し安堵する。
 少しも安堵するところじゃないのに、美綴が彼女なりに遠坂を気遣っているのだと気づいてホッとしていた。しかし遠坂とこいつが賭けなんてしていたとは知らなかった。こいつはともかくあの遠坂が。
 どこか誰の手にも触れさせないお姫様のようなイメージが遠坂にはあった。
 美綴が無理矢理賭けを持ちかけたなんてところだろうか。
 それを言うと、美綴は可笑しそうに笑った。
「おまえまでそう思ってたんだ」
 む、なんだよ。
 そんな風に言われると面白くない。
「まあ、あいつの猫かぶりは本物だったからな」
 俺の知らない遠坂を知っているかのような口ぶり。
 その口調は俺も知らない事実を知っているという優越感が篭もっていた。
 だが、語られる遠坂の素顔とやらの内容について思ったほどは意外に思っていない自分もいた。
 なんかそんな彼女を俺は知っているような錯覚を覚えていた。
「しかし猫かぶりって……振られた連中のやっかみとかじゃなくてか?」
 ただの錯覚だ。
 そんな筈はない。
 彼女は衛宮士郎のほのかな憧れの対象であって、口を利いたことはあるが親しく話したことは一度も無い。
 その筈だ。
「へえ、意外」
「なんでさ」
「だって遠坂はおまえのこと、結構知ってたみたいなんだけどな」
「はあ?」
 そんな俺の考えを否定するようなことを美綴は言う。
「いや親しいとかは思わなかったけど、実際に話しているところとか見なかったし。あいつの口からおまえの名前が出たことはないし」
「だったらなんでそう思うんだよ」
 少し焦りが混ざって尖ったような言い方になった。
 が、美綴は頓着した様子もなく続ける。
「あいつが良く見てたのは、桜とおまえだったからな」
「は?」
 桜と、俺?
「やっぱりな」
 むっ。
 いかにもやれやれと言った顔を作って肩を竦められるとムカつくぞ。
「なんだよ、その人を哀れむような態度は」
「いやー、別にー」
 そう言いながら、
「慎二なんか自分が見られてもいないくせに、気付かず格好つけてたって言うのに当の衛宮は無自覚か。やれやれ」
 とまで言われては黙ってられない。
「なんなんだよ、言ってみろよ」
「さあな。あたしもよくわからん」
「は?」
「おまえの射の姿に興味を引かれたんじゃないのか」
 決して口を割らなかったけど、絶対あいつも何かやってたし。おまえの姿を見ていて得るものがあったんだろうとは美綴の弁。あいつも、というのが少し気になったが、その後の言葉に吹き飛んでしまう。
「まあ、その後もずっと見てたりしたし……実はこっそり知り合いだったとかないのか?」
「っ!」
 言い当てられたかのようにドキリとする。
 しかし言い当てられてなんか無い。
「―――ない……筈だ」
 心当たりは無い。
 記憶を探しても無い。
 それなのに心臓の鼓動は収まらず、不安じみた感情もどこかしら引っ掛かりを覚えていてすっきりとは言い切れなかった。
 幸い美綴は何かを考えているような顔をしていて、俺の反応に気づいた様子はなかった。隠しているわけではないが、問われても分からないだけに突っ込まれなくて助かった。
「そう言えばさ、あいつと桜が何か訳ありっぽい雰囲気があったのは気づいてたか?」
「え、そうなのか」
 それは全く知らなかった。
 心当たりもなかったので衝撃だ。
「遠坂は自分のことは滅多に口にしないからあたしも良く知らないけど、桜の方も遠坂に妙に引け目というか意識した素振りを見せてたからな」
「それ本当か」
「聞いたわけじゃないからな。聞こうとも思わなかったし」
 訳ありの事情があるなら、と遠慮したのだろう。
 こういう配慮があるからこそ美綴綾子なのだろうと思う。
 そして自分なら口外しないと思われていたからこそ、打ち明けてくれたのだと思うとその信頼を裏切るような行為はできない。
 桜から言わない限りはこの件は胸に秘めておこうと思う。
「しっかし、衛宮は鈍感だよな」
「な、なんでさ」
 いきなり何だって言うんだ。
「桜が苦労するわけだ」
「だから何でだよ」
 最後は笑い話で締めくくりたかったようだった。
 そう気付いたのは彼女と別れた後だったけれど。
 最初の妙に他人事のような態度と重ね合わせる。
 こっちが考えていた以上に、遠坂の存在はあいつにとって大きかったのだろう。
 俺が藪を突付いてしまったのだと思うと、申し訳ないような気持ちになった。
 自分ひとりがすっきりしたくて、嫌な気分から逃れたくて捕まえたのに、その気持ちを相手に負わせる結果となってしまったのだから。
 兎にも角にも、遠坂凛はこの町から姿を消した。
 俺の前にも、彼女の前にも。



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