《違和感のある日常》


「最近は知っての通り物騒だからな。言うまでもないが皆もくれぐれも注意するように」
 今日最後の授業の教師は、終業のチャイムが鳴るとチョークを置いて、最近では聞き飽きた注意事項を述べてから教室を後にした。
 帰り道が同じ者はなるべく一緒に帰るようにとも付け加えたが、流石に小中学生相手ではないので集団下校とまでは言えなかったらしい。
 冬木市は今、原因不明の災厄に見舞われていた。
 頻発する殺人事件に、行方不明者の増加、原因不明の連続集団昏倒事件に、集中力低下からくる小さな事故の多発と、ありとあらゆるトラブルが重なってきている。
 警察はもちろん行政に携わる面々も、頭を悩ませている事態に陥っていた。

 冬木市深山町にあるこの穂群原学園も例外ではない。
 各地で多発していた昏倒事件が学校内でも発生したのは、つい先日のことだった。
 全校生徒と教職員を襲ったそれは、幸いにして症状は軽かったものの最上階の三年生らを中心に学校を休むものも増えてきている。
 ウチの担任の藤ねえらも今も入院している生徒の見舞いに追われ、今日も学校には出られないようでホームルームをさっきの教師が代行していた。
 行方不明者も僅かではあるが、存在していた。
「……」
 身近過ぎる事件に皆の表情も重く、軽口を叩くことも殆どなくそれぞれ帰り支度をして教室を後にしていく。こんな重苦しい状況も一日二日と建っていけば風化して、いつもの光景に戻っていくのかもしれないが、まだ生々しさの残る今ではそう切り替えはきかないようだった。
 部活動も休止されているせいで、殆どの生徒が足早に帰宅していく。
 生徒会長の一成は、真っ先に教室を後にしていた。彼の場合は、ここ連日行われている緊急会議の為であって帰宅のためではないが。
 そんな物静かで重い空気の詰まった教室には殆ど生徒がいなくなる。
 何もせず、机に顔を伏せるようにして座ったままの生徒は一人ぐらいしかいなかった。
 衛宮士郎。
 自分自身のことである。

 こんな物騒な状況なのにも関わらず、ずっと身が入っていなかった。
 理由は二つある。
 一つは、ここ最近ずっと続いている焦燥感である。
 理由もわからなければ、原因もわからない。
 ただ、何かを失くしてしまったような、忘れているような収まりの悪い気分がずっと続いていた。
 そしてもう一つは、先日の事件を俺が経験していないことだった。
 その日、いつも通りに学校に向かおうとした時、一本の電話が鳴った。
 既に藤ねえと桜は学校に向かっていて、家には俺一人しかいなかったので一度履いた靴を脱いで慌てて引き返し、受話器をとったところで記憶がない。
 電話機の前で目覚めた時には日付を跨いでいて、人づてでその日に学校で起きた事件を知ったのだった。
 偶然、事件を避けたようには思えず、かといって俺が助かる理由もわからず、これまた気分の悪い思いを抱えることになってしまっていた。
「よしっ……」
 暫くしてから、無理に自分自身に気合を入れて立ち上がる。
 悩んだところで解決するわけでもなく、だらけたところで事態が好転するわけでもない。
 自分にそう言い聞かせて無理矢理、自分を奮い立たせる。
 ここ最近はずっとこんな調子なので慣れてしまったのか、俺の行動にも残っていたクラスメートは軽く目を向けただけで、それほど驚いた様子を見せなかった。
「じゃ」
「ああ」
 鞄に筆記用具を詰め込むと、まだ残っている級友に軽く声をかけて、教室を後にした。
 そのままいつも通り一度家に戻ってから、商店街で夕飯の買い物をする。
 最近は桜や藤ねえが不在の日も増えてきているので、食材の量がなかなか難しい。
 手早く、買い物を済ませると夕飯の支度をするまで道場に向かう。
 ここ最近の日課になっている。
 理由はと問われると答えに窮する。
 無性に体を動かしたかったとしか言えない。
 それもただ動かすのではなく、今よりももっと早くもっと大きくもっと沢山動けるようになりたかった。
 理由はなかったが、それが必要だと何故か思えて仕方がなかった。
 そしてそうすることしかできなかった。
「もう二度と……」
 二度と、何なのかはわからなかった。
 ただ、悩んでいたくなかった。
 もどかしい思いをするのに疲れたとも言える。
 今、町内では何か得体の知れないことが起こっている。
 しかしそれに対して、このままではどうすることもできないと思っていた。
 夜中、意味もなく歩き回ったこともある。
 誰彼構わず捕まえて話を聞きまわったこともある。
 何もなかった。
 何も得られなかった。
 そしてそんなことをするよりも、自分を鍛え上げた方がいいとさえ思った。
 だからこそ、一時期は一切止めていた道場での稽古を再開した。
 本当なら藤ねえに頼んでも良かったが、忙しそうにしている今こんなことを頼むのは申し訳ないと思い、一人で鍛錬を積んできた。
 一人で続けるには限界があったが、それでも構わずに動かし続けた。
 桜が以前のように連日来なくなったことも幸いした。
 本来ならそっちに気を向けるべきことなのに、それすら気づかずにただ必死になっていた。
 止める者はいない。切嗣 ( オヤジ ) がいなくなってからはずっとこうだった。昔に戻っただけなのだろう。
 体が壊れそうになろうと、構わずに続けた。
 そこまでしなくてはいけない理由が、どうしてだかわからない。
 けれども、そうすることで少しは気が紛れるという一面に縋るように続けた。
 土蔵での魔術の訓練を終えた後も再開して、道場で目が覚めたこともある。
 自分でも狂ってしまったのかと思うぐらいに、躍起になっていた。
 体の中に巣食った何かを追い払う為に、常に苛む何かを忘れる為に、限界が来るまで延々と続けていた。


「ああ……うん、うん、わかった」
 家に来ることが出来ないという桜からの電話にも慣れてきた。
 別にわざわざ電話を貰う必要もないのだが、電話越しで彼女の本当に申し訳なさそうな声を聴くとホッとするのも否定できない。
「いいって。そんなの気にするな。色々と家の方でも大変なんだろ。うん、じゃあ」
 別に食材の問題とかそんな問題じゃなくて、まだ桜は俺とこの家を棄てていないんだなって電話の度に確認できるから。
 別に誰からも棄てられた覚えはないのだが、もうそんな思いは懲り懲りだという気持ちがある。
「もしかしたら……あの時以前の記憶なのかも知れないな」
 切嗣 ( オヤジ ) に引き取られる前の自分の記憶。
 それまでどういう子供で、どういう環境で育った等は一切覚えていない。
 もしかしたら引き取る際に切嗣 ( オヤジ ) はある程度知っていたのかもしれないが、一度も聞くこともなく、話してくれることもなかった。その事については気にしていない。大事なのは今の自分であって、無くしてしまった頃の自分を知ったところでどうなるものでもない。
 忘れてしまったということは棄ててしまったことだ。その必要がなければ拾い上げることも探すことも必要は無い。そう、棄てたのは俺であって棄てられたわけではない筈なのだ。棄てられることを怯える必要はない筈なのだ。
「料理、また余っちゃったな」
 藤ねえも桜も人一倍食べる方なので、普通の三人分よりも多くいつも作る。桜は食事時に御飯はあまり食べないが、おかずにはよく手を伸ばすし、藤ねえはあればあるだけ食べるのではないかというぐらいに良く食べる。見ていても気持ちがいいし、作った側としては作り甲斐がある。
 だからだったのだろう。毎日の料理が楽しいと思えたのは。
 今はあまり楽しくない。
 切嗣 ( オヤジ ) が死んでからは前以上に藤ねえが入り浸るようになったので、こうして一人きりの食事というのはあまり記憶が無い。いつまでも一緒にいるわけではないし、いずれは一人立ちしなくてはならないのだから、来るべき日に備えての予行演習と思えば辛くは無い。カチャカチャと食器の音が耳障りに感じたり、つけるTVがどのチャンネルも面白くなかったり、味付けが濃かったり、独り言が増えたりする程度だ。別に辛くは無い。
「ごちそうさまでした」
 いつも以上に丁寧に両手を合わせてから立ち上がる。
 後で藤ねえがやってきて漁ることを期待して、食べ終わった後の余りものを冷蔵庫に入れておく。いつの間にかなくなっていることもあるし、丸々残っていて朝食になることもある。最近は朝食になることの方が多い。
 今日も遅くまで対策会議やら見舞い行脚やらあるのだろう。比較的暇な立場にある筈の藤ねえですらそんな有様なので、校長や教頭らは大忙しだろうかと思えば、先日は二人してぼんやりと校長室に佇んでいることもあった。その時はドアも開けっ放しで何をしているのだろうと思ったが、相当疲れているのかもしれない。
「ふぅ……」
 土蔵に篭もる前に道場でもう一汗流す。
 こうしている間に誰か帰ってくるんじゃないかという期待は最近はしていない。
 いや、もし帰ってきても気づかないだろう。
 この時間はいつも真っ白になるために続けている。
 柔軟から基本の動き。そして四肢が引き千切れるぐらいに、無闇矢鱈に暴れるように体を動かす。
 そうしてから精神を集中させ、魔術訓練の瞑想時のように気持ちを透過させる。
 効率が悪いが、普段以下の精神状態の今の俺では、これが精一杯だった。
 落ち着くことなんかできない。
 何を焦っているのかわからないまま、苛立ちだけが増していく。
 忘れることだと思う。
 それなのにこの気持ちは棄てられないようだった。
 脳裏にこびりつき、心の隅々にまでへばりついて離れようとしなかった。
 癇癪持ちの子供のような自分。
 わかっているのに、どうにもならなかった。



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