「くそぉ!!!!」
その声を聞いたのは、きっと最後まで残っていた私だけだったと思う。
直後に力任せに何かを叩きつける音。
そしてアルミ缶が転がるような乾いた金属音が、一度はその場から離れた私の足をその騒音の元へと戻らせていた。
第一校舎の、その場所に戻った私の足元に、季節外れの卒業生たちによって使い回されていた筈のマジックがへし曲がって転がって落ちていた。
そして視界に入ってきたのは同じように地面に転がっているへしゃげたスプレー缶。さっきの音はこれの音だったのだと理解する。
「……ああ」
それだけでも既に理解できていたが、確認するように顔を上げると、おざなりの美辞麗句が並べられていた寄せ書きを赤い文字で塗りつぶした壁と、その前で崩れ落ちている少女の背が見えた。
「……」
微かに震えているその背中を一瞥して、私はすぐにそこから立ち去った。
気づかれたくなかっただろうし、気づいて欲しくなかった。
何も掛ける言葉もないし、何も聞きたくなかったから。
彼女ほど気持ちが強くは無かったにしろ、表には出さなかったにしろ、その思いは同じだった。内心では怒りとかやり切れなさとか、悔しさとか情けなさとか、様々なものが渦巻いていてなかなか処理しきれないでいた。
南の国のリゾート施設を改造し、鳴り物入りで開校した新設校『獅子ヶ崎学園』。
最新技術の粋を集めただけじゃなくて、学園内の活動の殆どをそこに在籍する生徒自身に委ねるという特殊な試みは、当時から革新的と言うより無謀とも言われていたみたい。表向きはいい事ずくめ、煩い大人を極力排除した気ままなパラダイス。けれどもその実情は、誰が責任を取るのか、誰が面倒を見るのか、誰が道筋を作るのか、誰が、誰が、誰が……そんな確執と責任の押し付け合いの教育界、地元の経済発展と人材派遣に伴う様々な利権と、頓挫した大型リゾート施設の有効利用を目論む経済界、そして政治とそれを利用しようとする多くの人間の思惑の上に立つ非常に危なっかしい代物だったの。
なのに教員の一人として招かれたという母は楽観してて、その母の楽観視にそれなりの裏づけがあると知ったのは、こっちでその時はまだ学園生じゃなかった手鞠ちゃんに会った時だったわ。父親の手伝いをしていた彼女からこの学園を作った人達のことを聞いて、初めて彼らがこの学園をどうしたものにしたいのか、学園生の私達に何を期待していたのかがわかってくるにつれて、その上で獅子ヶ崎学園というものを見て考えて、私はこの学園を誇れる母校にしようと密かに決意するようになっていった。お母さん……母に上手く誘導された部分もあったでしょうけどね。
その決意が早々に躓いたのが初年度の生徒役員選挙。どうしても生徒会長の座が必要だった私は、関係各所を駆けずり回り資料をかき集めて、練りに練って書き上げたマニフェストを掲げて立候補したのだけれども、一乃の前に敢え無く落選。大部分の生徒にしてみれば、地元からの生徒や一部の生徒を除けばリゾート気分でこの学園にやってきていたのだから小難しい現状を語る人間よりも、大雑把な学園の未来図を謳う人間の方が興味を引く。考えてみれば当たり前の話。空回ってて見えていなかったのよね、その時はそんな単純な事さえも。
結局、立候補すらなかった副会長に納まる形で生徒会入りをした私は、今すぐ出来る事と、出来ないこと、将来的に目指すことと、取りあえず試してみることなどから何一つ区別をつけずに、思いつく先から始めていく一乃のやり方に、真っ向から対立していくことしかできなかった。初めから選挙戦でしこりがあったのに、もう途中からはお互い頭ごなしに否定し合ったわ。それでもずっと二人とも自分がこの学園を盛り立てていこう、と思っていたのだから随分と間抜けな話よね。
そしてこの実験的過ぎる異常な学園に対して私達がそれまで注いできたもの全てが、たった一夜の台風が奪っていった。それは生徒会長として先頭に立っていた一乃も、それに対抗して激しくぶつかっていた私も等しく、負けたことだった。想定外の規模の台風と、それを前にして項垂れるだけの大勢の生徒達によって。本気の闘争の日々が、終わった瞬間だった。ハリケーンブラックが襲った災厄は、私の心もへし折った。
その後、事実上の廃校が決定付けられて、いち早く転校の手続きを済ませた一部の生徒を見送ったあの日、校舎の寄せ書きの前で膝を突いていた彼女を見て―――
「心の中で嘲っていたの」
「え?」
普段と違う姿勢だからだろうか、正対する鷲塚くんの顔が、いつもと違ってみせる。
「そんな、まさか……」
理解と共に驚愕する彼の顔を見て、話したことを満足している自分がいる。
実のところ私は思ってしまっていた。
結局、あれだけ騒いでいた彼女も、無力だったのだと。
暗い悦びを覚えてしまった。自分のことを棚にあげて。
「彼女じゃなくて自分だったら何とかなったと自惚れていたわけじゃないのよ」
この状況を避ける手段はなかった。天災であるハリケーンブラックに対しても、学園を離れようとする生徒達に対しても、休校から廃校へ傾いていく流れに対しても何一つ。私は何も思いつかなかったし、思いつこうとする気力も無かった。悔しがるどころか、どう自分の中でも諦めるか折り合いをつけようとさえ思っていたぐらいだった。それなのに、打ちひしがれている彼女に対して、彼女の行為が無駄になったのだと思うと嘲笑いたくなるような気持ちになった。
「そんなこと……嘘、ですよね。だってまさかいくらなんでも……」
鷲塚くんはそんな酷いことはしない筈だと言ってくれている。トライオンの中で知った通り、真っ直ぐで素直な少年だと思う。父親と共にあちこちを巡り渡って暮らしていたという割には、人の持つ汚さ、弱さに対して鈍感な気がする。むしろ一所に留まらなかったからこそなのかも知れない。
確かに追い討ちをかけたりもしなかったり、影で馬鹿にしたわけじゃない。心の中で思っただけだ。そしてその思いも、悔しさや不甲斐無さ、諦観の中に紛れていたちょっとした八つ当たりのような感情だった。それでも、わずか一瞬だったけれど、心の奥底に残ってしまった。ただ諦めるのではなく、その諦めに彼女も含めたことで処理をしてしまおうとしていた。
けれども一乃は違った。天災を嘆き、逃げ出す生徒にため息をつくだけの私とは違った。足掻きに足掻いた。一度は崩折れたのに決して諦めなかった。馬鹿げたことばかり考える頭と、持ち上げられると応えずにいられない性格、やれそうなことはやってみないと気がすまない行動力が、この学校の為のアイディアを沢山生み出した。今、獅子ヶ崎学園があるのは彼女のお陰よ、間違いなく。彼女だけが、誰もが諦めかけていたこの学園を諦めなかったのだから。
「無理かどうかはやってみなくちゃ分からない。それを確かめるから力を貸せ」
「それは……」
「一乃が、私に向かって言って来た言葉よ」
確執を引き摺って渋る私に頭を下げてまで協力を要請した一乃。
無理だ無理だを押し切って案を出し、無茶だ無茶だを遮ってやり遂げた一乃。
もう二度と私はそんな黒い感情を彼女に抱くことはなかった。
それからの話は不要だろう。
私はそんな彼女と共に、この二年間を過ごしてきた。
「長い話になったわね」
彼女は「どう?」と少し挑むような口ぶりで、息をついた。
一度に聞く話ではない。けれども二度三度と聞ける話ではもっとない。
「一乃のことは掛け値なく尊敬しているわ。無茶をやる彼女も、馬鹿をやる彼女も含めて今は皆好きよ。だからと言って当時感じて思ってしまった記憶は消せない。自分の心だけは誤魔化せないものね。だから隠したかったの」
それを俺は一方的に暴こうとしていたのか。ただ気になったというだけで、受け止める覚悟もなく。
「違うわ、鷲塚くん。私からトライオンを拒否しようと思えばできたのだから、謝るのは私の方よ。自分の都合で負担かけて御免なさいね」
俺の顔色を読んだのか、反応を最初から予想していたのか、先回りして謝られた。
「いえ、そんなっ」
あと今にして思えばやっぱりなんだろうが、あの最初の眠気についての話も嘘だったらしい。俺の意識を追いやろうとしていて起きていたことだったようだ。
「さっきも言ったけど……鷲塚くんとのトライオン、鷲塚くんの気持ちが伝わってきて、すごく素直で気持ち良かったわ。ええ、皆が誰一人抵抗感を抱かなかったのがわかる」
「は、はあ……」
褒められているようだが、酷く気恥ずかしい。
「同時にそんな素直な気持ちが羨ましくて、妬ましさもあった。だからなんでしょうね、私の中の負の感情を、その素直な気持ちにぶつけてみたい誘惑があったの」
そしてそれを見苦しい、恥ずかしいと思う意思が同時に働くことで意識を断絶する。だからいつもトライオンの途中で彼女の感情はぐちゃぐちゃになる。それに巻き込まれる格好で俺は彼女の意識から追放されるのだろうと、彼女は言う。だから俺が見たがっているのではなく、俺に見せようとして、突き放しているのを繰り返しているだけだと。
普段は後悔や反省を経てから切り捨てて片付けているつもりの嫌な気持ちも、結局は自分の中で押さえ込んで仕舞っているだけだった。だから見せられない。けれども、羨ましい。そして気持ちがいい。
「鷲塚くんに甘えていたのね。そして鷲塚くんを苦しめた」
「いや、ちょっと待ってください! そんな……そんなことないです!」
なにがどうあれ、彼女を侵害したのは俺だ。知らず招かれていたのだとしても。
「俺はっ」
「私はね、このトライオンでは本当に知られたくない部分は相手に知られないように出来ると思うの」
でなければこのシステムは危険過ぎて成立しないとまで言い切る。
「人間の本質は自分の全てを開放することとは真逆のものだと思うから」
だから少しでも知りたくて、繋がりたくて、人は手を繋ぐ。
その行為こそが互いを尊重し、通じ合い伝え合う信頼の証なんだろうと。
「だから鷲塚くんが私とのトライオンを断ったのは、正しい判断だったわ。鷲塚くん自身の都合もあるでしょうけど、私にとっても」
そう言い切ると、彼女は寄り掛かっていた手摺から身を起こす。彼女からの話はこれで終わりということだ。
「あ……」
そしてきっとその他のものも終わりにしようとしている。
「じゃあ私はこれで失礼するわね。あ、この事はもちろんだけど一乃には内緒ね」
いつも通り、背筋をしゃんと伸ばしたまま彼女は俺の横を通り過ぎようとして、
「鷲塚くん?」
その腕を掴んでいた。
「俺のただ知りたいっていうだけのわがままに付き合ってくれてありがとうございました。ただもう一つだけ、図々しいですが我侭を言わせてください」
このまま終わらせることができなかった。いや、許せなかった。だから思いつくがまま、頭に浮かぶ先から口に出していく。
「これからも、芹菜さんの手を握らせてください」
「それってどういうことかしら?」
俺の思い。俺の気持ち。俺自身がトライオンの時に彼女に伝えていかなかったのなら、改めて今伝えたい。
「トライオンはトライオンです。正しいとか正しくないとか、じゃないんです」
「え、ええ。そうだけど……」
「それは芹菜さんにとって、嫌なことだったわけじゃないんですよね」
誤解というよりは身勝手な思い込み。けれどもそれが解けたのだから、俺はもっと素直になるべきだ。
「俺は嬉しいんです」
「え?」
「負でもなんでもどんな思いであれ、芹菜さんは俺を知ってくれて、そう思ったのでしょう。それが素直に嬉しい。芹菜さんはどうでもいい人間や嫌いな人間にそういうことを見せる人とは思わないから。だから俺は嬉しいんです」
何を言っているのか自分でもわからない。整理されていない。けれども間違いなくこれは俺の気持ち。
「そして俺は、そんな芹菜さんの手をこれからも握りたい!」
握りたい。
握らせて欲しい。
だから俺は訴える。
彼女に強く訴える。
「俺と、トライオンしてください!」
手のひらを差し出す。
この場所にトライオンポイントがあるわけじゃない。
何の意味もない行為。
それでも、俺は彼女と……
「……ふぅ」
暫くの後、漏れる小さなため息。
何にも重ならない、今の彼女の息が漏れた。
「鷲塚くんは、大胆ね」
「はい。素直だけが取り柄ですから!」
差し出したままの手のひらも夕焼けに染まっている。俺も、彼女も。
「別にもったいぶる程のものじゃないから、構わないわよ」
あくまで大したことではないかのように言ってから彼女はその腕を伸ばして、俺の手のひらに自分の手のひらを重ね合わせた。
俺はその手を軽く握り、首筋のスイッチに手を伸ばした。学園に何も起きなくても、俺たちには必要な儀式だった。
「トライ……オン!」
飛び込むのは白い世界。
そして拓かれるのは赤い世界。
会長の書いたスプレーの赤。
それがきっと芹菜さんが自己嫌悪に陥る切っ掛けになった想いの象徴なのだろう。
それが白に侵食されてぼやけていく。
決して消えていくことはない。けれども、努めて顕れることもない。
彼女の中で最初から片付いていた記憶。
俺が不用意に抉じ開けてしまった気持ち。
けれどもそれは、今こうして俺と彼女の中で交じり合って溶けていった。
彼女の期待に応えられただろうか。
彼女の気持ちに伝えられただろうか。
「少し、このままでいいかしら」
随分と久しぶりに無事にトライオンが済むと、彼女がそう言ってきた。
握られたままの彼女の手が、少し震えていた。
本当に、僅かだけ。
そして手が離される。
「じゃあ改めて、またね。鷲塚くん」
「はい。今後とも、改めてよろしくお願いします」
「ふふ、考えておくわ」
そう言って今度こそ去っていく彼女。
いつも通り、背筋を伸ばして。
それでも初めての日から少しづつ、俺たちは変わっていった。
その変化が俺は、とても嬉しかった。
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