『遠野家の嫁』 <後編>


「あーきはちゃーぶごっ!」
 志貴が動くより先に空間が時間も加えて固まった。壊れかけた轆轤を力尽くで回すかのように、屋敷の持ち主が部屋の入り口にゆっくりと首を巡らす。
「にゃ、にゃにこへー」
 そこには、密度の増した檻髪に無防備にもぶつかって顔からずり下がっていく人の姿があった。紅い障壁は本来視覚に捉えられないので、志貴以外にはガラス板のパントマイムでもしているようにしか見えない。
「は、羽居!?」
 驚き立ち上がり、秋葉はすぐさま能力を引っ込めた。志貴の目にあれだけ朱に染まっていた部屋の装飾は一瞬にして正常に戻る。
「ちょっと羽居、大丈夫!?」
「うう〜ん、なんか力が入んないねー」
 秋葉が頭を抱きかかえて無事を確かめる。訪問者は四肢を床に投げ出して動けない。それでもよほど再会が嬉しいのか、顔はにこやかなままだ。
「それに寒いよー」
「ちょ、ちょっと待ってね。すぐに治してあげるから」
 まだ本格的な攻撃態勢に入ってなかったとはいえ略奪の末端に触れたのだ。羽居と呼ばれた女性は生命と体温を奪われて活動不能に陥っていた。体温は略奪の能力を応用すれば回復させることが可能だが、生命力の方は個体自体の快復力を待つしかない。被害に遭った本人は、もう大丈夫だよー、と言ってはいるが元々寝ているのか起きているのか判らない顔つきなのでどうにも信用できない。
「何やらかしたんだ、おまえさん?」
 ポコッ
 介護している秋葉の頭上で、丸めた薄い雑誌が間抜けな音を立てた。普段なら誰かも見極めず反復攻撃に出そうな秋葉が、何の敵意も発せずその声の方を向いた。
「蒼香、あなたまで!?」
 秋葉の言葉が終わらない内に月姫蒼香は、よっこらせっ、と肩を貸して、三澤羽居を側の椅子まで共に運んだ。そして壁に背を付けて「おまえさん家は対暴漢用のスタンガンかC兵器でも仕掛けてるのか?」と呆れたように非難する。
 弁解の方位も見つからずしどろもどろな家主の側を、屋敷で最も裏方の割烹着が通り過ぎる。
「いらっしゃいませ三澤さま、月姫さま」
「こんにちはー」
「ああ。ええと、あんたが琥珀さん? 呼んでくれた」
 二人にそれぞれ挨拶する琥珀に、羽居は動けないので軽く頭だけ、蒼香は愛想無く横目で応えた。
「ちょっと琥珀!」
 既知による追求の視線が逸れたのを幸いと秋葉は長年の従者に気を移した。
「はい、なんでしょう秋葉さま?」
「どうして蒼香や羽居まで呼んだりしたの!?」
「あー秋葉ちゃん冷たいー」
「おまえさん、同窓会にも顔出さないんだからたまに寄るくらいはいいだろ?」
 そして羽居はごそごそとポーチを探ってクラッカーを取り出し、町内運動会優勝おめでとーの声に合わせてパンと鳴らした。降りかかる細かい紙テープを払いもせず、秋葉はじろり琥珀を睨む。注視された当人は、叱罵の目線を「お祝いは多い方がいいではありませんか」とでも言いたげな表情でさらり去なして除ける。加えて、状況の掴めないでいる先客に秋葉の同級生であることを伝えた。
「ふーん、妹の学校の友達なんだー」
「すると秋葉さんと同じくこの簒奪者の先輩ということですか」
 言われて新訪問客は、縮こまっていて目立たなかった晶の存在にやっと気付いた。
「ああーっ晶ちゃん久しぶりー」
「悪ぃ、マジ気付かなかった」
 声をかけられた元後輩は、歯の根の合わない口で何とか普通の挨拶はし返す。浅上女学院卒業生二人がすぐに判別できなかったのも無理はない。最後に会った時に比べて晶はずっと肉体的に成長していたし髪も伸ばしている。ただ精神的にはあまり変わっていなかったので、秋葉を前にして昔通りに怯えている姿を見て同一人物だと確信足り得た。
「で、鬼の元生徒会長様はまた後輩をいびり倒してるのかい?」
「人聞きの悪い! 私は別に……」
 言い訳しようにも状況を見れば一目瞭然だ。哀れなまでの晶の状態に、秋葉には言葉を濁す余地さえ残されていない。苦虫を噛みつぶしてどうにか事態が好転するを待っているしかなかった。
「ん? あれー?」
 ぽやっとしていて健忘のくせに、とかつて秋葉も蒼香も評したように、羽居は何故かこういうことには目敏いようだ。硬直してぎゅっと握っている晶の左手の薬指に注意が向く。
「えー晶ちゃんって結婚してたんだー」
「あああああの、あの……こ、これはぁー」
 右手でさっと隠し、秋葉の表情をちらり伺う。そんな晶の行動を見て蒼香は「ははーん」と得心した。もう一発ぽこんと恐怖政治とブラコンで知られた元ルームメイトの頭を叩いてやる。
「なっ!」
「遠野ー。おまえさんまだ昔のままかい」
「ええ、秋葉さまったら胸の表も中もそのままで、本当に困ります」
「琥珀っ!!」
「うーん、もしかしたら今は晶ちゃんの方がおっきい?」
「おお羽居ナイス。今のは他の意味でも正鵠を射ていたぞ」
 きしし、と本当に愉快そうに笑うROCKER風の来客に、ネタにされた者はわずかながら殺気を放っていたりする。常人ならば本能的に逸らしたりするであろうその視線を、蒼香は平然と正面から見返した。
「慰めは言わないよ。諦めなっ!」
 雲雀が飛ぶ青天に突然の霹靂、涼風がそよぐ長閑な田園に前触れのない烈震、湖畔を望む麓山に不意の落石……それと同様の震撼が瞬時に部屋全体を支配した。違いはパニックに陥らない性質だっただけで、等しく自省を強要している。
 きょとんと羽居だけが状況を掴めずきょろきょろしていた。皆無言だ。駅前で待ち合わせて一緒に来た友達は厳しい目で前を向いている。この家の長男らしい人と元後輩は揃ってじっと下を見ていた。お互いに手を握り合っている。外国人の先客たちは銘々全身をソファに預けて部屋の真ん中付近の空気を凝視している。壁際に控えている給仕さんたちは目を閉じて姿勢を正したままだ。メイド服を着た一人の方は少し手に力が入っているようだった。
 一番上座で浅く腰掛けている長髪の親友だけは顔を背けていた。唇を噛もうとしても力が入らずわなないているだけなのが解る。悲しい顔も悔し紛れの憎まれ口も誤魔化しの高笑いも率直で子供じみた怒りもぶつける場所もなく彷徨う憤りも果てまで流れ去ってしまえばいいのに定量しか進まない時間への不満も自ら律していたはずの感情の反乱に対する驚きも薄弱だった自己の限界も認めざるを得ないある種の歓喜も……全て拮抗して無表情を保つのが精一杯な強張りをしていた。
 だから羽居は……
 パーン!
「あ……」
 また頼りなげな7色の紙テープが空に弾けて部屋の中心にぴるぴると落ちた。皆が放心して同じ人間を見る。
「え? だって目出度い席じゃないの?」
 ……重たい空気に感知せず残っていたクラッカーを何の躊躇もなく鳴らした。耳に残る残響が有る間は気後れして誰も微動だにしなかったが、火薬の煙が消えるほどの空白を費やしてついにこのボケに突っ込んでやる相方役が起動する。
「……羽居、やっぱおまえさん無敵だわ」
「え? え? 蒼ちゃん、その投げやりっぽい台詞は何?」
「いや尊敬してるんだ」
「嘘だー。その顔は哀れみとか呆れてるとかそういうのだよー」
 気配は氷解していない。ただ雑多が混じっただけだ。そこにまた一つ、大きな溜息が入り込む。
「はぁ〜、本当に羽居には怖いモノがないのね」
「そんなことないよー。そういう秋葉ちゃんこそ気が強いじゃないのー」
「そうでもないことが今さっき……解ったわ」
 少し背を丸めて秋葉は自らの顔を手で覆った。刻みにしてほんの十数秒だと誰もが認識している。ただその短い間に十余年分の逡巡と決別があったことを、天然の約一名を除いて感じていた。
「さて……」
 すくっと身を起こして秋葉は前を向き直った。黄昏に向けて少し赤くなった瞳以外は元の冷ややかさを取り戻している。
「もう一度言うわよ瀬尾、別れなさい」
 同時に繋がっていた志貴と晶の手が弾かれた。意識体である紅い衝撃が隙間のない所に無理矢理ねじ込んで分離させたのだ。瞬時に熱を奪われた双方の手が悴かんで動かせなくなる。
「秋葉! お前まだ……」
「何度でも言います! 私は瀬尾に聞いているのです! 兄さんは黙っていてください!」
 くってかかろうとする志貴の周囲に髪の正六面立方体が降ろされた。正に檻のイメージだ。歪むところなく整然と、均等な格子で形成されている。
 志貴は一度上げかけた腰をすぐに下ろした。この絶対的なまでに不利な状況では気を落ち着かせる他に出来ることはない。
 秋葉の視線は全く動いていなかった。今の檻髪も視線の端に形成させたに過ぎない。そして再度圧力を目一杯込めて、脅す。
「さあ、早く答えなさい」
 志貴にはそれが繭のように見えた。秋葉の言葉と共に出現した真紅の球体が異様なまでの厚さをもって被尋問者を取り囲む。浄眼の持ち主以外は不可視といえど、ここまで重厚に張り巡らされた殺気は常人でも強制的に察知させられざるを得ない。これが一気に襲いかかってきた場合、最初の悲鳴を肺から喉に上げる間もなく全身が塵に帰してしまうだろう。
 晶はこれでも多少異能力を持っている。直観でだけとはいえ逃れられざる彼岸の縁が産毛を撫でるほどにまで隣接して取り巻いていることには気付いていた。
「……でも……」
 か細い声が儚げに一つ。
「“でも”何?」
「それでも……っ」
 繭の赤さが発光にまで及んだ。志貴は覚悟を決めてポケットにある七夜の小刀を握る。
「志貴さんとは別れたくありませんっ! 別れませんっ!」
 絞り出す返答が殺意のヴェール越しにはっきり届いた。血と共に吐きだしたかのようだった。それを秋葉は顔色を微塵に変えず受ける。
「そう……なら仕方ないわね」
 二人の会談が決裂した刹那、志貴は檻を薙いだ。続いて繭に刃を滑らせる。幾重にもなった髪は層毎にそれぞれ直死の線は違い、一刀で全てを殺すことは出来ない。それでも秋葉の反射が整うコンマ数秒の間、3回は切れるであろう。あとは自分の手が絡み取られるまで割き、強引に晶を引き抜くしかない。脱出はそれから考えよう。そう決意して第二撃目を加えようとした時、急に志貴の視界から赤みが薄れた。
「早く子供を作りなさい」
「……は?」
 密室状態だった部屋から殺意の赤糸がすっかり消滅する。あとは一人でナイフを振り回している間抜けが立っているだけだ。
「あの、秋葉、今何て?」
「子供がいれば一族の者にも納得させられます。強引にですけどね」
 相変わらず不機嫌そうな態度で淡々と遠野家当主は語る。むくれた表情からは全てに肯定的でないのがあからさまに見て取れる。
 流れが把握できずにぽかんとしていた晶がやっと意味の咀嚼を完了した。まだ全幅に信じられず恐る恐る確認をする。
「あの、えと、それは志貴さんとの仲を認めてくださるってコトですか?」
「そうは言ってない!」
「ひいっ! そ、それじゃあ……」
「子供が出来たら仕方ないけど諦めてやる、と言っているの!」
 ぷいと秋葉はそっぽを向いた。やはり晶は充分理解できなくて混乱している。
 代わりに気持ちが通じ合っているかつてのルームメイト達が進行役の任を負う。
「はあー、秋葉ちゃん相変わらず素直じゃないねー」
「ホント、三つ子の魂ってやつだよな。遠野のそういうところは百を過ぎても治りそうもない」
「……蒼香も羽居もうるさい」
 遠慮無くズカズカ言える立場の者には暴君も無力のようだ。横を向いたままの頬に赤みが差す。それを見て少し吹き出した兄に、気の強い妹はむっとしていつもの調子を取り戻す。いつも、と言ってもそれは数年ぶりの復活ではあったが。
「大体、三年間も一緒にいてどうして子供の一人も作れないんですか兄さんは!?」
「そ、それはだな……」
「志貴、もしかしてタネ無し?」
「アルクェイド、お前なぁっ!」
「そうですよ。志貴くんは益体無しなだけですよね?」
「違いますよ、シエル先輩もっ!」
 それじゃあ何でぇ〜?と六つの瞳が追求してくる。志貴はコホンと咳払いをして俯きながら答えた。
「アキラがそうしたいって」
「……どういうことですか?」
 秋葉が志貴と晶を交互に見やった。不十分な得心には平静でいられない性格は相変わらずらしい。不満そうな顔つきが露わになる。
 志貴は刃を出していたままのナイフをしまい、ゆっくり座り慣れた椅子に身を沈めた。
「『秋葉先輩に許して貰わないうちはダメですっ』ってことでね」
 理解できないと不機嫌になる人間は、考えつきもしなかった意外に出会うと思考が停止するようだ。秋葉は目を開け放ったまま固まった。
 逆にそうでない者たちは能弁になるようだ。
「嘘っ、あの志貴が? ナカダ志貴と呼ばれたケダモノがっ!?」
「避妊する理性があるなんて、世界の不思議が一つ増えてしまいます!」
「アルク、シエル先輩……小一時間ほど問い詰めたいんだけどいいかな」
「いいよー。久々だしー」
 と、にこやかに瞳を金色にするアルクェイド。
「このところザコの死徒ばかりでうんざりしていたところなんですよ」
 シエルは運んできていたケースから物々しい武器を取り出しつつあった。
「……ごめんなさい」
 不死吸血姫と不滅暗殺者の連合には一万回シミュレーションしても太刀打ちできないと素直に志貴は判断していた。ここは退いていた方がいいらしい。


 そこで不意に、時々起こりえることであるが会話が突然途絶えた。学校の休み時間のざわめきが、申し合わせてもいないのに一斉に止んで静寂の数秒を作り出すあの瞬間に似ていた。
 志貴は息を吐き出して壁の隅を見た。アルクェイドとシエルは真顔に戻って志貴の隣の女を見る。琥珀と翡翠はそれぞれの主人・元主人の命を逃さぬため注視し、蒼香と羽居は共通の友達の動向を伺っていた。ここから暫くの時間は全て、二人の発言から成る……そう共通に知覚されていた。
「瀬尾」
 ぼそりと。
「はい……」
 静かな会話から始まった。
「兄さんと居られる時間、そう長くはないわよ」
「はい、志貴さんから聞いてます」
「兄さん多分、急に逝っちゃうわよ」
「はい」
「兄さん薄情だから一言も残さないかもしれないわよ」
「はい」
「兄さんは養子だから遺産分配なんてほとんど無いわよ」
「はい」
「兄さんも私も遠野の眷属は皆普通じゃないわよ」
「はい、わたしも同じようなものですから」
「兄さんってズボラよ」
「はい」
「兄さんを朝起こすのは苦労するわよ」
「はい、そうですね」
「兄さんフェミニストだから浮気するかもしれないわよ」
「それはちょっとイヤです」
「兄さんは持病で発作を起こして大変よ」
「はい」
「兄さん物欲薄いからきっと質素な生活になると思うわ」
「はい」
「兄さんは和菓子好みだからあなたと趣味が合わないわよ」
「はい、頑張ります」
「兄さんは理解力に欠けているから鈍いわよ」
「はい」
「兄さんね……」
「……はい」
「兄さんは狂気の一歩手前を綱渡りしているようなものだから……」
「……」
「あなたを殺すかもしれないわ。衝動的に」
「……いいです」
「いいの?」
「はい。そのときは志貴さんもすぐ来ることになるでしょうから」
 ばふっと意識的に力を込めて、秋葉は背もたれに身を沈めた。いや、ぶつけたと表現する方が厳密だったかもしれない。
 秋葉はそれまで至上だと信じていた能力が最高位から転落するのを感じた。『略奪』が無力になったのではない。勿論『未来視』なんて矮小なチカラが浮上したのでもない。
 ただ別種の能力が全てを飛び越えて一番上に乗っかってしまっただけなのだ。ものすごく悔しいのは正直に気持ちとしてどうしようもない。傷は癒えるのに長い時間掛かるだろうし、もしかしたら一生残るかもしれない。
 それでも秋葉はこう言うしかないと感じていた。
「兄さんを頼むわね……」
 絶対口にすまいと、することになるまいと決めていた単語があった。そうなるくらいなら全てを破壊してやろうと。
 限りなく嫌悪に見舞われるだろうと予想していたそれは、出してみると少しくすぐったい程度だった。
「晶姉さん」


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