『遠野家の嫁』 <エピローグ>


 ガボッ!
 裏返って虹彩が奥に引っ込んだ。口は、洗剤を入れすぎた洗濯機になっている。痙攣なども全身に及んだ。
「……ちょっと」
 僅かな沈黙の後、秋葉は猛然と立ち上がり、ツカツカと晶の前に立った。
「どうしてそこで白目むいて泡吹いて気絶するのよ!?」
 胸ぐらを掴んでガクガク揺らすが、晶の意識は一向に回復する気配がない。
「すげぇよなぁ遠野。あの状況でそこまで残虐な行為を」
「ねー蒼ちゃん、こういうのを褒め殺しって言うの?」
「ちょっと違うな。でも油断したところに急所を最高のタイミングと極大のパワーで攻撃したってことには変わりない」
「秋葉ちゃんって相変わらず相手が弱くても瀕死でも手加減しないよねー」
 ヘビー級VSフライ級の無制限格闘試合を観戦しているかのような蒼香と羽居の会話に、秋葉は語気を荒げて抗弁する。
「貴方たち、何を勝手なこと言ってるの!? 妙に誤解されそうな発言はするんじゃあない!」
「だってなぁ、事実おまえさんの後輩はそんなだし。恐怖の大魔王とか伝説のドラゴンとかの魔声を聞いたようなものだろ」
「そうよねー。同級生のわたしたちだってそんなこと秋葉ちゃんから言われたら心臓が口から飛び出ちゃうよー」
 ざあっと赤い髪が床に広がるのが志貴には見えた。向かっているのは例の二人へだ。全く凡人の彼女らに見えるはずはないのだが、急激に走る悪寒に本能は危険信号を発した。
「あ、それじゃあわたしたちはこれで失礼するねー」
「お、おう。遠野、またな」
 そそくさと出口に向かうというか逃げる二人の肩に、紅い悪魔の鉤爪がガチリかかった。
「蒼香、羽居、今夜はとことん付き合って貰おうかしら」
「今夜って、まだ午前中だぞ!?」
「今から昼まで食前酒を飲んで午後から軽く飲酒、そして夕食後は本格的にパーティーをするのよ」
「一日中飲みっぱなしじゃないか!」
「それがどうかした?」
「あ、あたしは、その、ああそうそう今夜ライブの予定があったような気が……」
「蒼香……私ね、一度貴方がひいひい言うまで飲ませてみたいなーと昔から思っていたのよ」
「わ、わたしは関係ないよねー。それにお酒なんて飲めないしー」
「羽居、体中の血液が全部アルコールに変わったら解放してあげるわ」
「こ、怖いこと言ってるー。秋葉ちゃんものすっごく怖いこと言ってるよー」
 元々の腕力なのか檻髪で体力を奪ったからなのか、秋葉は独りで二人をズルズル引きずっていく。
 呆気に取られている志貴の横に、今度は白と黒の人外ペアが立っていた。
「志貴ーちょっとこの娘借りるねー」
「なっ! 待てお前らっ!」
「大丈夫ですよ。晶さんにとっても役に立つことを教えてあげちゃうだけですから」
 こちらも片手でひょいと晶をつまみ上げ、軽々掌に乗せている。気絶して抵抗がないので運びやすかろうが、それにしても人間離れしている。……双方とも人間ではないけれど。
 志貴としても信じたくはあるが、一応釘を刺しておく。
「いいか、アキラに妙なコトしたら……」
「しないしない。それより志貴、浮気したくなったらいつでも呼んでね」
「吸血生物の戯言は忘れてくださって結構ですが、確かに害するつもりは毛頭無いですよ」
 邪気の無い……と断定するには確証が足りないが、一目した限りでは志貴には彼女らに悪意は感じられなかった。ここに登場した時に撒き散らしていた加害情動もすっかり退いている。
「まあね。妹が許すって言うんだからわたしもそうしないとね」
「わたしは最初から怒ってなんかいませんでしたよ」
「嘘つくなデカ尻ー」
「存在自体が嘘のような貴方に言われたくありません」
 どうしてアキラを責めないのかと問うたらこのように答えた。一番裁く権利のある秋葉が放棄するのだから、と。言い訳だなと志貴は思った。多分あの時から……自分が突然一人の女性と共に姿を消してからすぐ、この連中のメランコリーは喪を果たし終えていたはずだ。
「ねーねーシエル、わたし、アレをすぐ回復させられる魔法知ってるよ」
「主は『生めよ。ふえよ』と申されました。実はわたしも当たる確率がすごく上がる法術知ってるのです」
 向こうでかなり不穏な会話が聞こえてきているが、とりあえず命に別状は無さそうなので放置しておいた。多少はモルモット或いはおもちゃ扱いされるだろうけどこれからもあの小姑役二名にはちょくちょく会うことになりそうだし慣れておいてくれないとな、と達観し、志貴は被害者に心の中で謝った。
 あれだけ緊張と喧噪に満ちていた部屋にはもう3人だけしか残されていない。秋葉は親友二人を連行して私室に監禁していることだし、アルクェイドとシエルはこの屋敷のどこかの空き部屋で晶に妻の作法らしきを教育していることだしで、この場所の会話が漏れることはないようだ。
「また琥珀さんの筋書き通りかな」
「あら、何のことですか?」
 それで午前中最後のやりとりは始まった。特に感情を込めず確認のためだけに発した質問に、回答者はあの当時と変わらない崩れぬ笑顔で答える。
「ずっと前から俺たちの居場所知ってたんでしょう?」
「ええまぁ」
「でも秋葉には知らせず、冷静を物事を対処できるほど精神的に成長するまで待った」
「ちょっと長く掛かりましたけどね」
「アルクとシエル先輩にも知らせたのは、秋葉が暴走した場合の保険だったのでしょう?」
「万一ってこともありますからね」
「秋葉の同級生も?」
「あの方々は晶さんへのサービスです。秋葉さまにもですけどね」
 まったく……と志貴は今更ながら舌を巻いた。しかし一つだけまだ納得できないことがある。人は全て己の価値観に基づく利益のために行動する。ボランティアであっても“他人に奉仕することが善”との優良な自己愛に支えられてのことだ。
「琥珀さん、今度の目的は何だったの?」
「同じですよ。復讐ってやつです」
 それまで人形のようにしていた翡翠がぎくりと身を震わせた。表情が険しく崩れる。だが琥珀は双子の妹の方は向きもせず、志貴にだけ告白を続けた。
「今回もかなり殺しましたよ、私は」
「へぇ、そうなの。でも俺の見た限りじゃ一人も死んでないけど」
「はい。『昔の遠野家』ですから人ではありません」
 暫く沈黙した後、志貴は、そっか、と呟いて目を閉じた。人が移り変わっても怨嗟や習慣など声無き呪詛は残る。ルサンチマンに近い遺恨だ。彼女は誰も憎んでいなかったとあの時言った。つまりは人でない何かが……化物とか異能力者とか人外とかそういうカタチを持ったものではなく、感覚や思考ですら認識不能な流れが滅ぼすべき最終標的だったのだろう。それだけは直視の魔眼でも殺せないや、と改めて頭を垂れた。
「で、琥珀さんはこれからどうするの?」
「どうするの、と申しますと?」
「目的は終わっちゃったんでしょ」
 そうですねぇ、とはにかみ、珍しく考え込む。志貴としてはこれに対する差し向けは用意済みだ。もう少し長く考え込んでいたのならばそれを提示していたはずだった。しかし明らかに早く、琥珀は先に動いていた。
「とりあえずすることがありました」
 そう言って翡翠の耳を掴んで引く。
「あ、痛っ……ね、姉さん……痛いっ」
「翡翠ちゃん、さっき晶さんにおいたをしたでしょ。若奥様にあんなことしたらメッじゃないの」
 笑みを絶やさないが手も離さない。翡翠は顔を歪めて琥珀の手にいいようにされている。
「あの……琥珀さん、アキラもあまり気にしてないと思うからお手柔らかにしてあげて」
「そうはいきません。妹の粗相は姉の責任ですから」
「……どうして楽しそうに言うんです?」
「それはですねぇ、実は翡翠ちゃんにお説教するなんて初めてなんですよ。やっと姉らしいことが出来るかと思うとウズウズしちゃって」
 あ……そうですか、との志貴の声を背に、琥珀は翡翠を引っ張って退出していった。間際に救援を訴える後生の懇嘆が翡翠の目が有ったが、あんなに生き生き且つ嬉々としている遠野家黒幕の機嫌を損ねたくなかったので気付かない振りをした。勿論心の中では平身低頭しておいたのだが。
 どちらにしろ、自分ごときの力量ではまだまだ及ばないらしい。気に掛けてやるなんて僭越だったようだ。でもこれが遠野家なんだよな……志貴は薄く、だが心底楽しそうに微笑んだ。

 本当に誰もいなくなった部屋で、志貴はかつて妹に見つからないかとびくびくしながら二度寝したソファに、座っている椅子から行儀悪く体ごと飛び込んだ。昨夜は列車の中だったこともあってよく眠れていない。邪魔する脅威は皆無だと思われるので、志貴は思うままに伸びをして感触良いソファに転がる。
 あと足りないのは……猫くらいか。あの黒いのなら中庭に行けば居るだろう。一眠りしたら頭を撫でに行ってやるか。そう考えながら、志貴は昼食までの短い間、速やかに微睡んでいった。


終わり


あとがき

 こんにちは。琥珀さんの戦略能力を平和に使えば……そんな空想は月姫本編クリア直後からあったものです。ギャグは極悪邪悪でもいいとして、シリアスで効果的にそれを使用した作品もあっても良い、いやあるべきだと考えて書いた二次創作小説です。ただし平和的と利他的は違います。キャラに沿ってあくまで利己的で且つ平和的な結果に誘導するのが肝要だと念頭に置いていました。
 大部分の展開は決まっていた時、丁度TV番組ガイド本でとある名前の番組を見つけて参考にさせてもらいました。TVドラマの方は……うーん、もっとネチネチと嫁イビリをすれば面白かったと思うのですけどねぇ。題名のインパクトがあるだけで単なるホームドラマに終始してしまっていました。
 考えていたテーマに視聴した番組のアイデアを加えて完成したのは今回が初めてではなく、ずっと以前書いたときメモのシリアスSSにもNHK特番を見て出来た作品があったりします。まぁ二次創作ですし(笑)。



 正直、元ネタあってのお話です。キャラ単体で読むとどうしても「?」と思ってし
まう部分があったりしますので(アルクとシエルの使い方、翡翠の状態とか)。

 いかにもいかにもな嫁いびりが続く前半パートには、志貴ならずとも何とかしてあ
げたいものがあります。三大妖怪人間アルク、シエル、秋葉と揃う中、退路まで翡翠
によって断たれてしまっているのですから、晶ちんピンチの連続です。
 収入の獲得方法がどうにも志貴らしいセコさがあって、ニヤリとさせられますが、
それ以外はただただ周囲皆敵の状況でしたし。
 そしてうって変わっての後半の空気の変わり様。羽ピンの御姿がちょっとビジュア
ルで見てみたい感じです。凄く間抜けそうな……もとい、場を和ませるだけの状態が
かなり想像すると笑えます。そんな場を和ます羽ピンに、話を統括できる蒼香の元ル
ームメイトコンビのお蔭もあり、最後は目出度く大団円。
 最後の一言がアレですが(爆)。
 そこまで信用されていないと言うか、秋葉らし過ぎるというか、そしてそんな秋葉
を一番知っている晶の正直な反応が楽しかったです。
 今回もやっぱり決め手は琥珀さんという話で、もう少し志貴にも頑張ってもらいた
かったなという前半部分からの感想です。舐められたままじゃいけません。将来苦労
しますし(笑)。
 初心者A様、今回も本当にありがとうございました。

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