『遠野家の嫁』<前編>


2001/11/15

【注意】この作品はTVドラマ『本家の嫁』に触発されて書いたものです。


「あのっ、これを見てください!」
 玄関のドアを開けると同時に一枚の紙が差し出された。この電子情報化時代において、役目はとっくに終わっているのではないかと思われる通信形態だ。形式として冠婚葬祭にのみもっぱら使用されるそれを、男は怪訝に受け取った。
「えっと……何ぃ!?」
 紙の端が指の形に歪む。初めて眼にする『電報』なる連絡手段は次のことを伝えていた。
「“アキハ シッソウ スグカエレ”だって!? 一体どうして……」
「わ、わたしもよく解らないんです。電話を掛けても繋がらないし……」
 玄関口で一組の男女が困惑している。疲れた顔をしてバイト先から帰ってきた遠野志貴と、今にも泣き出しそうに顔を歪ませるまだ若い女性だ。
 二人はとりあえず身の回りのモノを一つの大きな旅行鞄に詰め、その日の内に夜行列車に乗って故郷を目指した。次の朝着いた町は、3年前と変わらぬただ中途半端に都会なだけだった。


【月姫SS】『遠野家の嫁



「お帰りなさいませ志貴さま」
「あ、志貴さんお帰りなさ〜い」
 途中、歩く速度にいたたまれなくなった二人は小走りで駆けだしていた。それで呼吸が乱れ、出迎えのこの言葉にも即時返答できなかった。
「ハァ……ハァ……」
「だいぶお疲れのようですね。少しお休みになりますか? 志貴さんの部屋はあのままですよ」
「ひ、翡翠、琥珀さん、それはいいから秋葉は!?」
「秋葉さまですか……」
 途端に悲痛な面持ちが使用人二人に浮かぶ。特に割烹着を纏っている女性のうつむきは、事態が悪い方へ向かっているコトを無言で示していた。
 重い雰囲気に硬直している3人の後ろから、心労で青ざめたままの女性が震えながら尋ねた。
「あの、秋葉先輩はどうして失踪なんて……?」
「ああ、あなたが晶さまですね」
 表情を戻し、それでも幾分か厳しい顔つきで琥珀が頭を下げた。続いて無表情で翡翠がそれに倣う。こんな情景を見ると不謹慎ながら志貴には、帰宅したのだなとの実感が湧いてくる。もう戻ることもないだろうと充分に覚悟して出たはずなのに、どうしても郷愁感が不随意の部分を支配する。いやもうここは異郷でないのだから懐かしく思うのは本末転倒なのであるが。
 翡翠が無言で志貴の持っていた鞄に手を添える。失礼します、と短く言ってそれを受け取り、居間の方向へ進んでいく。それに続き、琥珀はいつもの明るい笑みを浮かべて屋敷の中央へと誘った。そこはかつて志貴とメイド二人と妹の4人で、時には神経を削り合い、時には何でもない会話をなだらかに漂わりした、家族のあった場所だ。血のつながりも無制限の信頼もなかったが、それでも普通の安心感は欠かさずあった。もしかしたら平均的な親子兄弟関係よりもずっと心安らぐ環境だったかもしれない。前代当主が気に入っていたらしい樫で出来た居間の扉が開かれ、他人なら気付かないほどの微香が奥から漂ってきた時、志貴はこの得難い空間に戻ってきたのだなと実感した。
 自分がいつも座っていた椅子が記憶と寸分も変わらぬ位置にまだあった。あの頃囲んでいたテーブルも、その周りにある都合4つの腰掛けも、昼寝で多用したソファも、急な訪問客のため用意された壁際の二つの椅子も……窓から入る光さえ永劫に繰り返すあの日々と同じのように志貴には思えた。
 そして4つの内の奥、洋式にそれがあるのならば上座と言って良い位置にはいつもと同じティーカップで喫茶を嗜む……




















「あら兄さん、意外と早かったですね」
「秋葉ぁ〜!?」
 ……が座っていた。久々に戻ってきた遠野家長男とは対照的に、驚くことも乱すこともなく綽々の余裕で白い陶器から昇る薫りを楽しんでいる。
「どうしたのですか兄さん、そんなところに立ってないで、こちらに来て座ったら如何です」
「ちょっ、ちょっと待てっ! お前、確か……」
「あら、何か手違いでもあったのかしらね、琥珀」
 秋葉はさわりと髪をかき上げ志貴の背後に目配せした。そこから脳天気なまでに明るい声が返る。
「いいえ〜。わたしはちゃんと、“アキハ シッソウ”って電報打ちました」
「だから俺は急いで帰ってきたんだよ! なのにどうして居ないはずの秋葉がここに!?」
「志貴さんこそ何をおっしゃっているのですか?」
 そう言って透明な黄金色をした瞳の女性は側をすり抜け居間の中へと入った。そして奥の棚から何かを取り出すと、この館の女主人の前にトンと置く。
「これがその時のトロフィーです」
「はぁ?」
 志貴には間の抜けた声しか出せない。そこに権謀に秀でた二人が語る。
「この前の運動会での秋葉さまのご活躍、それはもうすごかったんですよ」
「100m走は得意なのよ」
 志貴は考える、“秋葉、シッソウ”……“疾走”? まさかな、と一縷の望みを託すようにそれを尋ねた。
「はい。その意味で電報を打たせていただきました。この快挙を一刻も早く是非志貴さんに伝え、頑張った秋葉さまを褒めていただきたいと」
 だ〜ま〜さ〜れ〜た〜〜!! 志貴は心中で大音響の慟哭をした。わざわざ双方向性の無い通信方法を採ったのもこのためか、と改めて気付いた時には全てが遅すぎる。今になって落ち着いて考えてみれば、誰も知らない街に身を潜めていたにもかかわらず居住先に連絡が来た時点で疑うべきだったのだ。
「さて、兄さんの早とちりはこのくらいにして……」
 にこやかにしていた秋葉の瞳が一転して三白になる。視線は志貴の方向へ真っ直ぐ進んでいる。しかし焦点を合わせているのはそのすぐ後ろだ。それを察知したのか、いつの間にか志貴の背にぴったりとくっついていた小さな体がビクリと震える。
「瀬尾!!」
「はいぃぃぃぃぃ!」
「あなた、良い度胸ね。中学卒業と同時に兄さんと駆け落ちなんて」
 志貴の腕を掴んでいた指が一層強く握られる。返事の声は裏返り、絞り出すそれは絶叫に近いとさえ思えた。鋭くドリルのように捻り込まれる秋葉の声に、獲物である女性は電動あんま機でも抱えているかのように全身を振動させていた。
「待て秋葉! 落ち着け!」
「ええ私は落ち着いていますよ。ですから今以下に冷めるなんて出来そうにも無いんです」
 志貴の眼には部屋中を隈無く覆い尽くした赤い髪が見えていた。先程琥珀の詐欺に自失していた瞬間にでも張り巡らせたのであろう。檻髪は晶と部屋の出入り口の間にも既に伸び退路を塞いでいる。こうなってしまうともう手立てがないことはよく解っていた。
「さて兄さん、ここに座ってください」
 秋葉が自分の正面の椅子を指し示す。かつて志貴の定位置だった場所だ。被脅迫者は選択肢がないのでそこに腰を下ろした。
「ああああああの、わたしは、わたしは……」
「バケツを持って一晩中立っているのと屋敷の外周300周とどちらが良いかしら?」
「……翡翠、アキラに椅子を用意してくれないか」
 志貴がメイドの片方に命ずると、彼専用だった使用人は無言で木製の腰掛けを一つ持ち、二人並ぶ位置に置いた。
 恐怖が足に来て固まっている晶を手を取って座らせ、志貴はこほんと咳払いをして義妹と向かい合った。
「さて秋葉、どんな用かな?」
「白々しい!」
 バキョ!なんて音が部屋のどこかで起こった。振り向くと調度品の一つが自然にはありえない形で壊れている。
「あらごめんなさい。久しぶりなんでチカラのコントロールが上手くできなくて」
 どっちが白々しいやら。志貴は口の中だけで呟いた。部屋を包む朱の糸は見事な格子をしており、量だけに依存した麻の乱れるがごとき以前の『略奪』とは洗練度が違う。あれからこの能力をどれだけ使いこなせるようになったかは一目瞭然だ。
 志貴は考える。まぁ秋葉の言いたいことは大体解っている。自分はどうしても晶との関係を賛成してくれそうにもない秋葉の説得を諦め、3年前に二人だけでこの町を出たのだ。それは正解だったと思う。何せ……
「改めて聞くけど、瀬尾……」
「ひ、ひゃぁいぃ」
 戦慄で脂汗を垂れ流している。アオダイショウに睨まれたガマ蛙ならまだマシな喩えだ。巨大アナコンダに発見された小兎、が実情だと志貴は思った。3日もしない内に精神的な負荷で衰弱死してしまいそうだ。それに彼女には、この場合などに諸刃の剣となる特殊能力を有している。目視した人間の過去を解析し、無意識のうちに未来予測を立て心象風景化するという実に特異な脳の使い方だ。
 正しく使えば実に有益な能力である。実例を挙げると……
「あなたと兄さん、今までどうやって暮らしてきたの? 貯金も定収入もなかったはずよ」
「それは俺が説明するよ。俺のバイト代とアキラの……その……臨時収入だ」
 会話に割って入った志貴が同伴の女性を呼び捨てにしたところで、彼の妹は眉の角度を数度ずつ吊り上げていた。不可解な収入源の箇所では腕組みを始める。
 彼の言った臨時収入とは年2〜3回ほどの自費出版での利益だ。晶は即売会場にいる買い手の未来予測をし、次回に向けこれからどんなジャンルが流行るのか傾向と対策を立てるのだ。勿論これは外れた試しが無く、実は志貴のバイト代年間総収入より彼女の稼ぎの方がずっと多かったりする。何せ、一度最大手サークルの作家がわざわざ出向いてきてブース合体を持ちかけたりしたくらいだ。その人を未来視した結果から断ったところ、ふみゅふみゅ言って泣きながら帰っていった。とにかくそのくらい晶の名声は高まっていた。ただし志貴としては守るべき女性に、掛け算で表される非生産的恋愛漫画を描かせ続けるのに心苦しいモノがあった。作者本人は結構楽しんでいたのであまり問題にはならなかったが。
 チラリと元浅女先輩を仰ぎ見た晶は一瞬虹彩を収縮させた。遅れて小さな悲鳴を上げ、反対側を向いて椅子の上に正座し、頭を背もたれに埋めて懇願する。
「わ、わたし、そんなことに耐えられませぇぇん。許してくださいぃぃ〜」
「……まだ何も言ってないわよ」
 突然こちらに臀部を向け怯える晶に、秋葉が少し呆れたように言った。これが能力の自滅部分だ。今のはおそらく、これから行われるであろう秋葉の折檻を実に具体的且つ子細までイメージ像として視たからであろう。破局的な現状において最後の救いは、未来視はあくまで予測であり変更可能なことである。
「でも予め覚悟が出来ているなら構わないわよね。予測したってコトは瀬尾自身も望んでいるのでしょうから」
「ちちちち、違いますぅう〜」
 この場合の変更決定権は全て加害者に握られているのであまり期待は出来ないらしい。流れに逆らっても蟷螂の斧は大蛇の表皮に傷一つ付けられそうにもない。ここは自分しか、と志貴は悪化していく空気の浄化にかかる。
「待てよ秋葉!」
「……兄さんは黙っていてください」
 最後にあった時と代わり映えのしないジト目つきが志貴の視線を跳ね返す。また私を放ったらかしにしておいて!と責める態度だ。
「家長である私に一言も許しを得ず、勝手に入籍して、そのまま行方をくらますなんてね。……ああ思い出しました。兄さんの大学学籍はそのままで休学扱いにしてあります」
「そ、そうかサンキュー」
「復学したら私の後輩ってコトになりますけど」
 志貴にはもう充分解っていた。この妹はあらゆる角度から不満を訴え、苛めたいらしい。文脈の飛躍具合など正に気分次第だ。だが感知したところで何が出来るでもなく、再び責めの攻勢は強まっていく。
「あれから一族の者に言い訳するのにどれだけ苦労したと思っているのですか!?」
「それは……」
 それは、許しを下す者が同時に志貴たち二人を滅殺しかねないからだ。この地からの脱出が後一歩遅ければ地下牢での生活を余儀なくされていたかもしれない。
「とにかく結婚は俺とアキラ、当事者間の了承が有ればいいんだよ!」
「そうですね」
「だから何の問題も……って、あれ?」
 あっさりと秋葉は肯定した。激戦というか泥沼を覚悟していた志貴は気を抜かれて放心する。それに関せず秋葉は椅子で丸まっている泥棒猫の尻尾をぎゅぅっと掴んだ。
「では聞きましょう。瀬尾!!」
「ひいっ!」
「あなた、本気ではないわよね」
「え?」
「今なら許してあげる、と言っているのよ」
 質問や意思確認ではなく脅迫だった。「ほ、ほんの出来心だったんですぅ〜」と言えば半と四分の一殺し程度で解放してやる、との取引でもある。
「秋葉、今のは公正じゃないぞ!」
「あら、私は兄さんと瀬尾の意志をこんなにも尊重してあげているのですよ?」
「お前なぁ、あれから何年も経っているのに相変わらず胸が狭……」
 度量が狭い、という意味で使ったつもりであった。志貴の台詞はそこで中断される。前後左右上下の檻から赤い針線が伸び、全てが皮膚の手前で停止していた。
「……なかなか力の使い方が上手になったじゃないか」
「ええ御陰様で忍耐の訓練は充分させていただきましたから」
「ダメですよ志貴さん。秋葉さまはそこだけは未だ昔のままなのですから」
「琥珀っ!」
 があっと食いつきかねない態度を取る秋葉だったが、琥珀に対しては檻髪が全く動かなかったのが志貴には解る。確かに精神的にも成長したようだ。逆に言えば以前のような力任せの脱出は不可能であると示されている。

「やっほー志貴ー! 久しぶりー!」
 突然後方から伸びてきた腕が志貴の頭を抱きしめた。刹那『?』と発し、瞬後『!』に変わる。
「アルクェイド!?」
「あー志貴痩せたねー。やっぱ世話してくれる人が良くないんだねー」
 また横の椅子にいる人間饅頭がビクッと震えた。敵が、それも秋葉と同等かそれ以上に危険な奴が無自覚的に威嚇しているのだ。晶の身がさらに固く丸くなるのも無理なからぬことである。
 しかし同時に展望も開けた。アルクと秋葉、この一つと一人は決して相容れることはなかったはずだ。放っておけば必然的なまでに喧噪に発展する。その隙をついて脱出すれば……。
「そうですねー。比べて瀬尾さんは太ったみたいですね。よほどゴロゴロしてたんでしょうか」
 鬼妹以上に毒舌を持つ女性がゆっくりと入室してきた。そして晶の椅子の脚をガンと一回蹴り、少しずれていた眼鏡をかけ直して慣れた足取りでソファに身を沈める。物理的な威圧を受けた晶は可能な限りまで奥に頭を突っ込もうと懸命であった。
「シエル先輩も? 両方とも国に帰ったんじゃあ……」
「秋葉さんにご連絡いただいて急いで来たんですよ」
「わたしもー。妹、ありがとねー」
 いえどういたしまして、などと慇懃に秋葉は来客に挨拶をする。志貴は確信した。これは完全に計画的である。海外からの渡航日程まで計算に入っているほどなのだから。
「お、お前らいつの間にそんな共同戦線を張るほどにまで仲良くなったんだよ!?」
「私たちもあれから兄さんのコトについて話し合ったのですよ」
「そーそー。それでね、よく考えたらもうわたしたちが喧嘩する理由がないんだよね」
「秋葉さんとアルクェイドは志貴くんが居なければ争う理由がないですし、秋葉さんは吸血衝動をかなり抑え込むことが出来ていますから埋葬機関としては目くじら立てて狙う必要はありません。それからロアが消滅してしまえばわたしがアルクェイドを害する目的も終わります」
 それに彼女とのことはほとんど私怨でしたし、わたしたちが水に流せばそれで……とかつて復讐の鬼だったエクスキューターは感触良く微笑んだ。
「あれからみなさん、志貴さんの話題をなさるためによくここに来られるようになったのですよね」
 琥珀の言葉を聞いた志貴は、振り向いてかつての自分専用使用人に眼で問うた。壁際にいた翡翠は無言でコクリと頷く。入り口にもびっしり巡られていた秋葉の攻撃意志で形成される朱色のそれが、アルクェイトとシエルに不干渉だったのが関係修繕の証拠でもある。……よほど不在の男の悪口で盛り上がったのだろう。
「さて、早速私たちからの忠告ですが……」
「別れろー」
「離婚してください」
「認めません……ということです」
 日本領内の、少なくとも遠野家屋敷内で最強トップ3が共同をなして圧力を掛けてきていた。日清戦争終了後の遼東半島領有返還とかと同様の要求だ。
「お前らなぁっ! これはアキラと俺の問題だと何度も……」
「ですから瀬尾に真意を聞いているのです」
 敢えて旧姓で呼ぶ秋葉の髪が現実視覚でも赤みを帯びていく。
「志貴をかすめ取っておいて無事で済むと思ってたんだーこいつめー」
 可愛く無邪気な声で、戦闘用に変化させた爪を晶の背中にプスプス刺すアルクェイド。
「フランスって拷問の本場なんですよ。わたしは実体験も豊富ですし、色々と晶さんに教えてあげられちゃいます」
 と満面の笑顔で再度椅子を蹴り付けるシエルの手には、既に黒い長剣が装填済みであった。
 かつていかな真祖・死徒でも体験し得なかったであろう厳酷なる鉄条網、それが極東の果ての地で形成されていた。しかし行動制限の対象は怯える雌兎一匹のみである。
「あ、あ、あの……」
 緊迫が分水嶺に差し掛かろうとしているこの時、か細い声と共に志貴の腕が小さな手に捕まれた。
「どうした?」
「ト、トイレに……」
 あらゆる意味で限界だったのだろう。未だ頭を隠したポーズのままで晶は戸籍上の夫にしがみつくように助けを求めた。
「部屋を出て左に曲がってすぐの所だよ」
 用足しくらいいいだろう?と血に飢えた猛獣3匹に目で牽制すると、志貴は妻にした女性をそっと立ち上がらせた。おぼつかない足取りで心許なかったが、同伴するわけにもいかなかったので一人で歩かせる。
 さて勝負は数分後だ。志貴はそう考えた。晶が御手洗いから出てきた直後が最大最後のチャンスであろう。部屋を飛び出してアキラをかっさらいそのまま屋敷の門を切断し逃走する、それが出来る全てである。この部屋の檻から脱出するには自分一人ですら難しい。況や常人の晶を伴ってをやである。しかも相手だってそのくらいは承知しており、志貴の一挙手一投足に神経を集中させている。限りなく無駄に近い抵抗ではあるがこれしか打つ手は無さそうだ。
 ガツッ
「はうっ!」
 高ぶっていた志貴の耳に気の抜ける声が届いた。振り向くと出口付近で晶が蹲っている。
「どうしたんだ?」
「申し訳ありません。手を滑らせてしまいました」
 代わりに何故か翡翠が答えた。よく見ると晶の足元には彼らが持ってきた旅行鞄が有る。どうやら晶は翡翠が落とした鞄で足の小指を痛打したようだが……。
「翡翠、お前まさか……」
 メイドは何も答えず目を閉じた。かつて、無断で深夜に外出した場合に向けられた表情が浮かんでいる。そしてまた能面に戻ると、丁寧に、だが無理矢理っぽく晶を抱き起こした。
「“瀬尾”さま、体調がお悪いのでしたら暫く椅子に座ってお休みください」
 そう無感情に言って翡翠は晶を正面に向かせて腰を下ろさせた。元主人の危機的状況を察知しながらも、その伴侶には手心を加えるつもりは毛頭無いらしい。
 Arcueid・微乳・Ciel・翡翠(jaDe)によるABCD包囲網の完成であった。満州国即時返還と同じく婚姻をなきものにしようとする列強の彼女らに対し、志貴には全面降伏か開戦かの選択しか残されていない。
「あのですね兄さん」
 秋葉が脈絡もなくそう切り出した。昼に差し掛かった部屋の温度は上がりも下がりもせず平衡を保っている。紅に覆われた密室なのにエントロピーに変化がないのは、もう完全に勝ち誇った余裕の証なのだろうか。
「私は……いえ私たちは別に兄さんを責めているのではありません」
 ねぇ、と向ける視線の先でアルクェイドとシエルがそれぞれの表現で肯定する。
「志貴が本妻を取ってもわたしとしては少しくらいしか気にしないよー」
「アーパー吸血鬼のインモラルには賛成しませんけど、わたしも志貴くんの意志は最大限尊重すべきだと思ってます」
 やけに物わかりの良い発言を並べた。同じく薄笑いまで3つ揃っている。
「それならどうして別れろなんて言うんだよ」
「あら、私は兄さんそれと瀬尾のためを思って言ってるのですよ」
「だから、俺は別れる気なんて……」
「そう言うと思ってました。ですが……瀬尾!!」
 ビクゥッ
 晶は椅子が振動するほどガチンと身を縮め、根の合わない歯を必至に噛み締めている。翡翠によって正面を向かされたのだが、真っ直ぐ見られなくて微妙に視線と顔を逸らせていた。
「私は貴方のことを考えて言ってあげているのよ」
「そーそー。志貴の本妻になるとナニかと大変だと思うよ」
「生きているのが辛くなるようなナニか、ですよ」
 再び、小さいのに地響きに似た胡盧が3カ所から起こっている。おそらく譏笑とか呼ばれる類の意志表現だろう。この3人にかかればただ窓の桟に埃が残っているとか味噌汁の味付けが濃いとかのレベルでは終わりそうもない。精神的にも肉体的にも死んだ方がマシかと思わせるような地獄絵図が待ち受けていそうだ。
「あぅ……あぅ……あうぅぅ……」
 晶の能力が何かを捉えたようだ。意味にならない言葉を洩らして視線を空に漂わせている。よく見ると尻に敷いているスカートの色が微妙に変わってきている。どうやら音声の他にも漏らしたモノがあるらしい。よほど壮絶な戦慄だったのであろう。
「くっ」
 志貴は舌打ちしてポケットのモノを握りしめる。妻の心身状態から鑑みてもはや一刻の猶予もない。このままでは本番の地獄が始まる前に精神的な生ける屍に成りかねない。もう数年間使ってはいなかったが、歴戦のソレはやはりしっくり来る。まずはやっかいな紅い略奪を、一時的にでも無力化するのが第一だ。額に手を当て悩むフリをして眼鏡をずらす。
 <空間を殺す>
 前代未聞の奇襲しかこの頑強な威圧ラインを崩す戦法は無さそうだ。ここしばらく病んだことの無かった頭痛に久方ぶりの再会をする。視覚に依存する檻髪・直接打撃と空想具現による物理支配・間接距離からの呪術狙撃、この3つに同時対応するには“自分にすらどうなるか判らない状況”を作り出し、出来た隙に乗じるしかないだろう。『何が起こったのか』理解しなければならない彼女らに対し『その対処法』だけを考えればよい自分の方が一段階だけ有利だ、志貴はその刹那の攻防に最後の望みを繋ぐ。
 ざわりと空気が変わる。さすがに慣れたもので、戦闘担当三女性は志貴の玉砕覚悟を直観で捕らえていた。椅子に腰を下ろしたまま互いに見えない場所で戦闘態勢を整える。
 あの懐かしく二度としたくなかった痛みが頭蓋骨の中を暴れ回る。あの当時の志貴は、切れかかっていたゼンマイを無理に軋ませていた状態だった。だが今は長い静養によりバネは充分に捲かれている。この一回で全てが瓦解してしまうかもしれないが……志貴は数年の蓄積を次の一撃に賭けた。


続く


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