VII 夜が明けた。窓の外に広がる森は今日も鮮やかな緑に染め上げられている。まるで世界を覆う かのように繁る森と、彼方に広がる山脈。ここには自然が溢れている。自然の表象たる女神は、 この土地を深く愛しているのだろうか。それとも、この地にひそんでいる禍々しい存在を緑で覆 い隠そうとしているのか。 青い空が広がると、昨晩聞いた話も何やら夢のように思えてくる。死と再生を繰り返す吸血鬼 の話も、教皇庁から送り込まれた埋葬機関の活動も、白日の光の下では全てただの妄想としか考 えられない。そうだ。あれは単なる夢なのかもしれない。あんな悪夢のような話が、現実にある 筈がないじゃないか。 ベッドから起き上がり、食堂へ向かう。階段を下りる時、ロビーが視界に入った。昨日の朝は ここでロドリゴに話しかけたのだ。ソフィアを休ませるように依頼したのがあそこの玄関のあた りだったか。 ソフィアの寝顔が思い浮かぶ。首筋につけられていた二つの傷痕。心臓が跳ね上がる。僅か二 ヶ所の傷痕しかつけずに、全身の血を抜き取るなんてことができると思いますか。あれは吸血鬼 の仕業です。吸血鬼がこの屋敷にいるんです。 頭を思い切り振った。もうやめよう。考えてどうする。別に犯人が吸血鬼だろうと何だろうと 私には関係なくなるのだ。私は今日、この屋敷を去る。この森を後にする。館の主人から最後通 告を受けたから。エンリコから頼まれたから。私自身が疲れきってしまったから。矛盾した感情 の中でもつれていた決断の糸は、昨晩のエンリコの話で完全に断ち切られた。私はもうここにと どまるつもりを失っていた。あの吸血鬼の話が質の悪い冗談だったとしても、その決意が変わる ことはないだろう。 食堂へ行くと、そこにはすでにロドリゴがいた。彼は私を見ると、短く言った。 「お早いお目覚めですな。昨晩はよくお休みになれましたかな」 「おかげさまで」 「それはよかった」 そう彼が答えた直後、食堂のドアを叩く音がした。見るとマルコが入ってきた。悄然とした様 子だが、この数日間に見せた落ち着きのない態度はなくなっている。さらにカルロが後に続いて 入ってくる。彼は私を見ると軽く頷き、父親に視線を戻して言った。 「…これで全員です」 「そうか」 父親はゆっくり頷き、再び私を見た。 「こちらで確認いたしました。全員無事です」 全員無事。昨晩この館に泊まった者が全て生きて朝を迎えることができたという意味だろう。 私はもう一度食堂内を見渡して、エンリコが見当たらないがと問うた。 「…彼は一足先に出発しました。森の調査を今日中に終わらせるために早くから出かけるといっ てましたかな」 森の調査か。昨晩、彼の言ったことが事実ならば、それは口実だろう。彼が本当に調査すべき なのは、この館にいる人間たちのはずだ。どうやって調べるつもりなのかは分からない。だが、 彼が森の奥ではなく、この館の近くにひそんでいる可能性は高い。 私はそんなことを思いながら席についた。マルコとカルロも椅子に座った。すぐに料理人が簡 単な食事を持ってやってきた。明らかに寝不足の表情だったが、彼は淡々と料理を配った。とり あえず一晩生き延びた。それだけで少しは安心できたのだろう。昨日見せた憔悴しきった様子に 比べれば、はるかに落ち着いていた。 「マルコ、昨日話しておいたことは分かっているな」 「…はい」 「ならいい。さて、お客人」 ロドリゴが立ち上がりながら私に言う。見ると、すでに食堂の入り口には荷物を持ったアント ニオが待ち構えていた。 「残念ながら私はもう出かけなければなりません。貴方を町までお送りする役目はマルコに任せ てあります。朝食が終わった後できちんと送り届けさせますので、どうかご心配なく」 「ありがとうございます」 「本当なら私自身がお見送りすべきなのでしょうが、それはかないません。どうか今後ともこの 国でのご滞在を楽しまれますよう」 最後まで慇懃無礼に話をした彼は、わざとらしい礼をして歩み去った。廊下を立ち去る靴音が 響く中、私と二人の兄弟は無言のまま食事を摂る。カルロは静かに、マルコは力なく、そして私 は、ただ機械的に食事を詰め込んだ。 食事はあっさりと終わった。カルロは最後に私の顔を見て言った。 「…もう少し、森の王について話をしたかったですね」 「ああ、そうだな。また別の機会があったらゆっくり話すとしようか」 「そうですね。別の機会に」 彼はそう答え、小さく頷いた。席を立ち、いったん部屋へ戻る。まとめておいた荷物を持つと この数日間を過ごした部屋をぼんやりと眺めた。おそらく、もう戻ってくることはないだろう。 私は森が見える窓に背を向け、部屋を出た。 玄関へ向かうと、マルコとカルロの二人が私を待っていた。マルコは視線を逸らし、カルロは 静かに佇む。私は無言で彼らに頷くと、先に立って玄関を開けた。穏やかな陽射しが我々を照ら し出す。もしかしたら、この中の誰かが太陽の苦手な吸血鬼なのかもしれない。そう思って私は 苦笑した。太陽の下では、そういう話がいかにも馬鹿げているように思える。エンリコによれば 今回の吸血鬼は太陽の下でもある程度の活動はできるそうだが。 マルコが私と視線を合わせないようにしながら自動車へ向かう。私も黙ったまま荷物をぶら下 げて移動する。カルロは玄関のところで見送っている。自動車のエンジンがかけられた。私は車 に乗り込み、改めて屋敷を振り返った。森の中に聳える館は、初めてここに来た時と同じように 静かなたたずまいを見せていた。 自動車が動き出す。屋敷はあっという間に森の陰に隠れ、見えなくなった。私は椅子に座り直 し、目を閉じた。自動車の振動に身を任せる。結局、私はここで何をしたのだろう。楽しい思い 出を作った訳ではない。思い出としては楽しめないものばかりだった。謎を解いた訳でもない。 事件の真相は分からなかった。ただやって来て去る。私がやったのはそれだけだった。 マルコは時折私の表情を盗み見るようにしながら運転している。初めて出会った時に見た賑や かで人懐こい人間はそこにはいなかった。彼はまるで怯える小動物のように、明らかに私を警戒 していた。 「…長い間、世話になったね」 「……いえ」 返事は短く、表情は硬かった。いったい何を恐れているんだろう。私は不思議に思いながらマ ルコを見た。車が砂利を跳ね、車体が大きく揺れる。バランスを崩した私の身体が傾く。マルコ の顔が接近する私に気づき恐怖で歪んだ。体勢を戻す。マルコの青褪めた顔色はそれでも変わら なかった。 そうか、彼は疑っているんだ。連続殺人事件の犯人がこの私かもしれないと。だからこれほど 怯えているに違いない。いや、正確には私だけでなくあの屋敷の住人大半を疑っているのであろ う。昨日から部屋にこもりっぱなしだったのだから、そう考えた方が筋が通る。 それにしてもなぜそんなマルコが私を送る気になったのだろう。朝食の席での様子を見る限り では、父親に言われてやむなくこの役目を引き受けたように思える。奇妙な話だ。彼は父親とは 対立関係にあったのではなかったのか。どうしてその父親の命令でこんな気の進まないことをし ているのだろうか。 兄は甘えているだけです。カルロの言葉が思い出される。あるいは、精神的に追い詰められた マルコが最後に見出した心の拠り所が父親だったのかもしれない。これまで見せていた父親に反 抗するような態度は、あくまで格好だけだった。本当に事態が緊迫してくると、彼の心の奥底に あった父親への依存症が表に出てきた。そういうことなのだろうか。そうだとしたら、彼が私を 送るのに同意したのは、最後の砦である父親への信頼を守りたかったからかもしれない。父親が 言うのだから間違いない。父親が自分を殺人鬼と二人きりにする筈がない。彼はただひたすらそ う信じて、自分に言い聞かせているのだろう。 再び彼の顔を見る。顔色はさらに悪くなっている。こんな調子で無事に町までたどり着けるの だろうか。私はため息をついて、視線を前に戻した。まるでマルコの内心を表しているかのよう に自動車は小刻みに揺れる。 最初にこの道路を通った時も自動車は派手に揺れた。あの時、マルコはその振動を楽しんでい るかのようだった。後部座席では乱暴な運転をする兄をカルロが恨みがましい眼で見ていたが、 マルコは全く気にせずに速度を上げた。あの時は平和だった。まだアマーテも生きていた。彼の 死体が発見されたのはあの翌日だった。 翌日? 私の脳裏に疑問が浮かぶ。そうだ、確かにアマーテが死んだのはあの翌日だ。という ことは、連続殺人の最初の犠牲者である日雇い労働者が殺されたのは、あの時から一週間近く前 になる。その時、私はまだローマにいた。そして…。 私の口元に皮肉な笑みが浮かんだ。そうだ、あの屋敷の人間たちの中には、連続殺人犯になり 得ない人物がいる。私とマルコだ。我々には確固としたアリバイがある。この町から遠く離れた ローマにいたというアリバイが。もしこの事件がエンリコの言う通り吸血鬼によって引き起こさ れているのなら、その吸血鬼候補から外れることができるのがこの二人なのだ。現在この自動車 に乗っている二人ほど、犯人たり得ない人物はいない。マルコの父親がそのことに気づいていた のかどうかは分からないが、屋敷から町へ脱出するに当たってこの二人ほど安全な組み合わせは なかったのだ。 「偶然だろうが、よくできている」 「え?」 思わず考えていることが口に出ていた。マルコが青い顔のままこちらを見る。私は愛想笑いを 浮かべ、ちょっとお願いがあるんだがと言った。 「な、何ですか」 マルコの表情がさらに硬くなる。 「駅に行くまえに警察署に寄ってくれないかな」 「警察? どうしてですか」 「昨日の事件の後で私が何も言わずに屋敷から消えたら、彼らはどう思うかな。あいつは犯人だ から逃げ出した。そんな風に思われたら嫌なんだよ」 「そ、それはまあ」 「警察に、とりあえず町からは出るが居場所はきちんと連絡すると伝えておけば、そういう疑惑 を招くことはないだろう。私には後ろ暗いところはないのだから、きちんと警察に連絡しておい た方がいい。そう思うだろ」 「そう…ですね」 マルコは渋々といった様子で頷いた。町が近づいてきた。 警察署を覗くと、中は大騒ぎになっていた。受け付けにはずらりと人が並び、大声で叫びなが ら訴え言を述べている。対応をしている若い警官は疲労しきった表情だ。嫌というほど大勢の人 を相手にしてきたに違いない。 署内にいるべき警官の姿が極めて少なかった。明らかに異常事態が生じていることが分かる。 騒いでいる市民の言葉を聞いていると、どうやら行方不明者を探してほしいという要望が大半を 占めているようだった。私の家族が昨晩から見当たらない。使用人がやってこないんだ。これじ ゃ仕事ができない。警察は何をやっているんだ。 これはかなり拙い。ニコロは用事があったら直接署に来てくれと言っていたが、現状を見る限 りではこの混乱の中から彼を探し出すことすら難しく思える。私は受け付けに並んでいる人々は 無視して署内に入っていった。忙しそうに駆け回っている警官たちは、この侵入者に対して目も くれなかった。私はしばし目的があるかのように堂々と歩きながら、横目でニコロを探した。 建物の中を一通り歩いてみたが、彼はいない。いや、彼だけでなくほとんどの警官がいなかっ た。大騒ぎになっているのは受け付け周辺だけで、中に入り込むと薄気味悪いほど人の気配がき れいに消えた。警官の中にも行方不明者が出ている。確か彼はそう言っていた。すると、この異 様な静かさはいるべき人間が消え去ったためだということになる。 向こうから若い警官が走るようにやってきた。私は横柄な態度を見せながら彼を呼び止めた。 軍隊時代の経験から、こういう組織の人間は偉そうな人間を前にすると反射的に従うのではない かと判断したためだ。私のやり方は間違っていなかったようだ。若い警官は背筋を伸ばして私の 前で直立不動の姿勢を取った。 ニコロの居場所を聞く。今日は見かけておりません、というのが返事だった。休みなのかと聞 くとそうではない。なぜか出勤してきていないのだという。嫌な予感が内心で広がる。まさか、 彼までが行方不明者になってしまったのだろうか。私が少し戸惑っている間に、若い警官は自分 は急ぎますのでと言って走り去った。がらんとした廊下に私だけが取り残された。 もし彼が行方不明になっているとしたら、由々しき問題である。どうなっているのかを確認し なければ。私は急いで署を出た。受け付け付近で揉みあう人々を押しのけて、外で待っていたマ ルコに近づいた。町中に入って彼の顔色はかなり良くなっている。彼は自動車に寄りかかり、ぼ んやりと空を眺めていた。 「マルコ」 呼びかけた私の声に振り返る。私の顔に真剣な表情が浮かんでいることに気づいたのだろう、 彼は訝しげにこちらの様子を窺った。 「…悪いがまだこの町を去ることはできない。用事ができた」 「どういう意味なんですか」 「昨日、屋敷の方に捜査に来た警官がいない」 「そんなの、別の誰かに言づてすればいいじゃないですか。とにかく警察の誰かに町を出ると言 っておけば大丈夫なんでしょう」 マルコは不審な表情で話した。私は一瞬黙り込んだ。私とニコロの間にあった約束を彼は知ら ない。他の警官に伝言すればすむようなものではないのだが、マルコにそんなことは分からない のだ。 とはいえ、ここでマルコと押し問答している場合ではないのもまた事実だ。ニコロが本当に行 方不明なのかどうか、それだけは何とか確認しなくてはならない。彼の自宅を知っている訳では ないが、一ヶ所だけ当てになりそうな場所がある。そこに行って、ニコロの家を聞きだし、調べ ておきたい。嫌な予感がする。 そう、予感だ。彼は単に仕事で出ているだけかもしれない。もしかしたら独自に捜査している 最中かもしれない。あの若い警官は偶然彼の顔を見かけなかっただけかもしれない。行方不明と 決めつける材料はないのだ。なのに、私の内心では嫌な予感が急速に膨れ上がっている。エンリ コの話を聞いた時から、いやその前から感じていた不安感が一段と広まっている。 「何だったら、俺の方から後で警察に話してもいいです。とにかく、もう駅へ行きましょう」 マルコがそう言って自動車のドアにかけた手を、私は掴んで止めた。マルコが驚いてこちらを 見る。 「言った筈だ。用事ができたと。それが終わるまで、この町を離れる訳にはいかない」 「ですから、その用事なら俺が」 「自分で確認したい。あの警官に何としても会わなければならないんだ」 「なぜですか。別に警官なら誰だって」 「そうはいかない。とにかく私は彼を探してみる」 「馬鹿なことを言わないでください。俺は親父から貴方を駅まで送るよう言われているんです。 頼むから大人しくしてくださいよ」 「駄目だ。今は町を出ることはできない」 「なんでそんなにそいつにこだわるんですか」 「捜査の関連で、彼にきちんと伝えなければならないことがあるんだ」 「そいつは何か他の仕事をやっているんですよ。でなけりゃ今日は体調が悪くて休んでいるんで しょう。他のヤツで十分じゃないですか」 「そうはいかない。別に君の協力を求めている訳ではないんだ。君はこのまま帰って、私を駅ま で送り届けたと父上に報告すればいい。私は私で勝手に調べさせてもらうから」 「そんなことができる訳がない」 マルコの声はほとんど悲鳴だった。おそらく、父親から私が町を去る最後の瞬間まで確認しろ と命じられているのだろう。だが、こちらも妥協する気はなかった。身体の中で、何かが蠢きだ していたのだ。それが心の奥底から私に命じる。ニコロを探せ。急いで見つけ出せ。私はその言 葉に従うつもりだった。 「俺はこのまま帰る訳には…」 「じゃあな。元気で」 「ちょ、ちょっと。どこ行くんですかっ」 「勝手にやると言っただろう。気にするな。別に君に迷惑をかけるつもりはない」 私はそう言い捨てて歩き出した。背後でマルコの慌てた声がする。気にせず足を進める。目的 地はニコロに案内された店だ。外からは小汚い家にしか見えなかったあの店の主人は彼とかなり 親しげに話していた。個人的なつき合いがあった可能性は高い。あの店の主なら、ニコロの自宅 なり連絡先なりを知っているのではないだろうか。 自動車が私の横を通り過ぎ、すぐに止まった。運転席から顔を出してこちらを見たのはマルコ だった。彼は拗ねたような表情で私を睨んでいる。私は足を止めていった。 「君が何と言おうと、私はやるべきことをやらせてもらうよ」 「そうみたいですね」 口を尖らせながらマルコは内側からドアを開けた。 「…目的地はどこですか。こうなりゃとことんつき合いますよ」 「大丈夫だ。歩いて行ける。君の世話にならずとも」 「いいから乗ってください」 マルコが強い口調で言った。彼はこちらを真っ直ぐ見ている。それまでのどこか怯えた表情と は違い、その瞳には僅かながら自分自身の意思が感じられた。 「どうせ、駅まで行くところを見届けないといけないんです。それまでの寄り道も全部見届けさ せてもらいますよ。何より、貴方を連れてきたのは俺ですからね。最後まで面倒見させてもらう のが筋でしょう」 マルコはそう言って少し笑った。この数日、彼が笑ったのを見たことがなかった。驚いたこと にマルコは屋敷にいる時よりリラックスしているようだった。父親の支配下にないと思えるせい なのか。周囲に人が大勢いるので、それだけ自分の身も安全だと感じられるのか。私はしばらく 考えたうえで彼の好意に甘えることにした。そう、彼の言う通り、私はマルコによってこの町へ 連れてこられたのだ。互いに気まずい思いをしたまま別れるのは、私とて望むところではない。 私が乗り込むとマルコはアクセルを踏んだ。目指す場所を私が指示し、彼がゆっくりとハンド ルを切る。自動車はゆっくりと街路を抜けていく。 店へ向かう道筋をきちんと憶えていなかったため、しばらく道に迷うはめになった。どうにか 見つけ出した店は、相変わらず小汚く、人の気配も感じられない。マルコはその家を見て、不思 議そうに私を見た。こんな場所に何の用事なのか。いかにもそう言いたそうだった。私は黙って ドアを開けた。 店の中には主人がいた。彼は一度だけここに来た異邦人を憶えていたようだ。私の顔を見ると にやりと笑ってみせた。私が今日は食事に来たのではない。聞きたいことがあるのだ、というと わざとらしく首を振って言った。 「生憎だが調理法は秘密だ。ライバルを作る訳にはいかんのでな」 「そちらの質問はまたの機会にとっておこう。私が知りたいのは別のことだ」 そう言って、ニコロがどこに住んでいるかを聞いた。主人はなぜそんなことを聞くのかといっ た表情を見せたが、すぐに待っていろと言って店の奥へ引っ込んだ。やがて出てきた彼は店と同 様に小汚いメモ帳を引っくり返し、ニコロの住所を探し出した。私は礼を言って店を出ようと背 を向けた。 「…あいつの家に借金の請求にでも行くのかい」 主人の声が私の背中にかけられた。私は足を止めて答えた。 「いや。むしろ借りを返しに行くと言った方が正しいな」 私の台詞だけが聞こえたのだろう。自動車の傍で待っていたマルコが、また妙な顔でこちらを 見る。私は何も言わずに車に乗り込み、目的地を伝えた。マルコは小さくため息をついてハンド ルを握る。次に行く場所もまた、小さい家屋が集まった分かりにくい場所だった。マルコは通行 人に道を聞きながら進んだ。ようやく、小さなアパートの一角に目的地を見つけた。 再び車を降りてアパートの入り口に立つ。マルコが私の様子を見守っている。このアパートに あの中年の警官は住んでいたのだ。彼がどんな思いでこのドアを日々くぐっていたのかは分から ない。ただ、私は彼が途中で仕事を投げ出すタイプの人間でないことだけは信じていた。だから こそ、彼もまた行方不明になったのではないかとの疑惑が心に浮かんだのだ。無事であればニコ ロが警察署に顔を出さないことなど有り得ない。 ドアをノックした。しばらくして、内側から扉が僅かに開かれた。隙間から眼がこちらの様子 を覗き見る。不安感と猜疑心に満ちた視線が、私の全身を舐めまわすように走った。私はその眼 の持ち主に話しかけた。ニコロさんの件でこちらまで来たと説明した瞬間、ドアが勢いよく開か れた。 扉の中から飛び出してきたのは中年の小柄な女性だった。彼女は怯えた顔で私を正面から見な がら悲鳴のような声を上げた。 「あの人が、あの人がどうしたんですか。み、見つかったんですか。それとも、それとも。まさ か、ああ、まさかそんな」 目の前にある壁を叩く。自分の中で感情が吹き荒れているのが分かる。こんな思いに囚われた のはいつ以来だろうか。戦争で初めて戦友を失った時。あるいはもっと前だったか。一つの感情 が全身を支配し、私を駆りたてる。理性も計算も論理もなく、ただ内心で荒れ狂う衝動だけで動 く。そんな行動を取るのは、本当にいつ以来だったのか。 私の内部で私を煽り立てているのは、怒りだった。やり場のない憤怒で自分の表情が変わり、 拳が白くなるほど強く握られる。頭の片隅にある理性が、そんな自分をまるで第三者のように見 つめている。だが、その理性は全身のコントロールを握ってはいない。この国に来て初めて、い や、戦争で精神が壊されて以来初めて、私は自分自身を揺り動かす感情を自覚し、なおかつその 感情に身を任せていた。 怒り。どうしようもない怒り。誰に対するものか。自分自身に対する怒り。もっと他にやりよ うはなかったのか。この数日、私は何をしていたんだ。ただ周囲で立て続けに起こる事件に振り 回されていただけじゃないか。ニコロと協力を約束しておきながら、本当に役に立つ情報を彼に 提供できたのか。 怒り。ニコロに対する怒り。昨日、彼は屋敷を引き上げる際に私に向かって言った。気をつけ ろ。本当に気をつけるべきだったのは私じゃない。彼自身だった。何て迂闊な。大量の行方不明 者が発生している。警察自体が行方不明者のせいで機能麻痺を起こしている。そう言ったのは彼 自身だった。なのになぜ。 怒り。犯人に対する怒り。複数の奇怪な死体を残し、さらに多くの人間を行方不明にしている 犯人への怒り。まるで遊んでいるかのように人間の血を抜き、町の住人を恐慌状態に陥れ、それ でいて自分自身は尻尾すら掴ませていない犯人。私はその犯人捜査に協力しようとした。どちら かと言えば、軽薄な理由から。真剣に犯人を憎んでいたから、あの仕事中毒の中年警官と手を結 んだのではない。内心に浮かんだ疑問が解決できればいい。それだけの理由だった。 今や私ははっきりと自分の感情を自覚した。塹壕を這いずり回った時以来、まともな感情を持 つことも感じることもできないと思い込んでいた自分が、これほど圧倒的な情念を抱くことがで きるとは。それは怒り。そして憎しみ。私は自覚した。犯人を許すわけにはいかない。たとえ何 があろうとも、この犯人だけは突き止めなければならない。 もう一度、壁を叩く。道路に面したその建物に入っている雑貨店は店を閉めている。単に定休 日なのか、それとも行方不明者が出て営業できないのか。私の隣では、感情のまま建物の壁を叩 き続ける私を見ながらおろおろとするマルコの姿があった。 あの中年女性は、ニコロの妻だった。彼女は我々を警察の人間だと思い、最悪の結果を予想し てパニックに陥ったのだった。そのため、どうにか彼女を落ち着かせ何が起きたのかを問い質す にはかなりの時間を要した。 ニコロは、昨日から帰宅していなかった。町中で行方不明者が続出し、吸血鬼の噂まで流れて いる状態で、妻は一晩まんじりともせずに過ごした。夜が明け、どうにも我慢できなくなった彼 女は、すぐに警察署に向かった。ようやく探し出した夫の同僚は、彼が昨晩は間違いなく自宅へ 向かったと証言した。もう随分と遅い時間だったが、着替えをしたいと言って署を引き上げた。 てっきり帰宅したのだと思っていたが、いったいどうしたんだ。その話を聞いて彼女は衝撃のあ まり崩れ落ちそうになった。 捜索願を受け付けたのはその同僚だったという。彼は同僚の妻を必死に慰めた。大丈夫だ、あ いつがそう簡単にくたばることはない。きっと、何か気になることがあって急遽その調査に向か ったんだろう。いずれ戻ってくるさ。その話は単なる気休めにしか聞こえなかった。警察を去る 時に、彼は言った。最悪の場合はこちらから連絡をする。そう言われて自宅に引き上げた彼女の 元に、やがて我々がやって来たのだ。 私は彼女に説明した。貴方のご主人と捜査協力していた者です。是非ともお伝えしたい情報が あった。彼女は恐縮したように何度も頭を下げた。だが、虚ろなその眼は、自分が何をしている かもほとんど理解していないことを示していた。彼女はほとんど反射的に行動しているだけだろ う。そんな彼女の姿を見ているうちに、私の中にあった感情が膨れ上がった。私は早々にその家 を去り、しばらく歩いた後で、遂に我慢できずに目の前の壁を叩いたのだ。 伝えておきたかった。エンリコから聞いた、あの異常な物語を。私にはあの話をどう判断すれ ばいいのか分からない。ニコロなら、プロである彼だったら、何か適切な判断が下せたのかもし れない。それが今起きている一連の事件を解決する糸口になるかもしれないのに。犯人を探し出 す重要なヒントになったかもしれないのに。 さらにもう一度、壁を叩いた。マルコが思わず声を上げた。 「もうやめてくださいよ。何でそんなに怒っているんですか」 「何で? 何で、だと? これが怒らずにいられるか。怒るのが当たり前だろう。お前こそ、ど うしてそんなに平静でいられるんだ」 思わず怒鳴り上げる。マルコが身体を竦めるように一歩退く。駄目だ。彼を怯えさせて何の意 味がある。頭の中にいる冷静な私がそう忠告する。二つ、三つ深呼吸をした。頭の中を駆け巡っ ていた血の気が少しずつ引いていくのが分かる。最後に大きく息を吐き出すと、口調を抑えてマ ルコに言った。 「…いや、すまない。興奮してしまった」 「いえ」 マルコの瞳に、再び怯えが戻る。彼の脳裏に、屋敷で起きた惨劇が再び浮かんだのかもしれな い。ここは町中であり、他人の目もある。だが、殺人犯かもしれない人間と正面から向き合うの はいい気分ではあるまい。まして、これまでほとんど感情を窺わせなかった人物が、いきなり憤 怒に囚われた様子を見せれば、警戒して当たり前だ。私は自分の感情を抑えこみながら、マルコ に微笑んでみせた。 「大丈夫だ。もう落ち着いた。心配ない」 「そ、そうですか」 野良犬が近づいてくる人間の様子を疑わしげに窺う。そんな感じの眼でこちらを見ながら、マ ルコはおずおずと言った。 「じゃ、じゃあもう駅へ行きましょうか。これで十分でしょう」 「…いや。残念だが、駅へ行くつもりはない」 「何ですって」 私の返事にマルコが大声を出す。私はできるだけ理性を働かせながら言葉をつないだ。意識し て自分を抑えこまないと、すぐに感情が噴き出しそうだった。 「この町を出て行くつもりだった。けど、できなくなった。私はここから逃げる訳にはいかなく なったんだ」 「どういう意味なんですか」 「言った通りの意味だ。町を出るのはやめる。ここに残って調べなければならないことがある」 「調べるって、いったい何を」 「あの警官が調べていたことさ。つまり、今回の連続殺人事件の犯人を」 「待ってください。どうして貴方がそんなものを調べなくちゃならないんですかっ」 「どうして、か。自分でも理屈はつけられない。ただ、そうするべきだということだけは分かっ ている。殺された人々のためにも、あの警官のためにも、私がやらなければならない」 「そんなことはないでしょう。犯人を調べるのは警察の役目じゃないですか。貴方がどうしてそ んなことにこだわるんですか」 「そうしないと自分を納得させられないからだ。せめて、やりかけていたことだけは終わらせな いと」 「やりかけていたことって何ですか」 私は沈黙した。やりかけていたこと。それはマルコの父親について調べることだ。せめて彼の アリバイだけでも確認したい。そう思って私は行動してきた。だが、完全に調べ上げた訳ではな い。日雇い労働者とアマーテの事件が起きたときに彼が外泊していたことは分かった。だが、彼 が外でどのような行動をしていたかまでは不明なのだ。それを調べること。私がやろうとしてい るのはそういうことだ。 しかし、それをこの若者に話していいのだろうか。彼の父親を調べていると。私が彼の父親に 疑いを抱いていると。私は迷った。マルコに対して嘘をつきたくはない。彼は基本的に好人物な のだ。そんな若者を騙すようなことをしたくない。しかし、正直なところを言えば彼がショック を受ける可能性も高い。 「…答えてください。いったい何をしようとしていたんですか」 マルコが詰め寄る。私は小さく息を吐いた。肚をくくるしかない。そして言った。 「君の父上について調べていた」 「え?」 「憶えているか。我々がこの町についた当日のことを。たしか父上はあの夜、屋敷に帰ってこな かったな」 「…ええ、そうでしたけど」 「アマーテが殺されたのは、その夜のことだった」 マルコが息を呑んだ。私はできるだけ感情を込めずに言葉を紡いだ。 「…ソフィアが殺された晩、あの閉ざされた屋敷の中にいたのは君たち親子と使用人二人、それ に私とエンリコだった。連続殺人の犯人が、この限られた人間のうちの誰かである可能性は極め て高い。そのうち君とカルロ、私、そしてアントニオと料理人の五人はアマーテが殺された晩に は屋敷にいた。アマーテが殺されたのは屋敷からかなり離れた町の工場の裏手だ。この五人にア マーテを殺すのは無理だ」 「で、でも」 「アマーテの次に殺されたのはテレサだった。彼女が殺されたのは日中だったが、あの時に町に 出かけていたのは私と君の父上の二人だけ。後は全員、屋敷かその周辺にいた」 「それは」 「もう一つ、教えておこう。アマーテが殺される一週間前に、日雇い労働者が同じように殺され ていたという話はしておいたな。その晩、君の父上はやはり外泊していた。ソフィアがはっきり と憶えていたよ」 「…………」 「分かるだろう。ソフィアが殺されたのも含めた四つの殺人事件全てにおいて、アリバイが存在 しないのが…」 「そんな馬鹿なっ」 マルコの声は悲鳴のように聞こえた。 「…そんなことはあり得ないっ。どうして、どうしてそんな」 「証拠はない。動機も分からない。ただ、事件が起きた際の行動が最も不明なのが君の父上であ るのは間違いない」 「そんなことはないと言ってるだろうっ。親父が、親父が人を殺すなんてっ」 「ないかもしれない。だが、ないと断言することはできない。だから調べるんだ。アマーテが殺 された晩に、日雇い労働者が殺された時に、彼がどこで何をしていたのか」 「そ、そんな必要はない。絶対にないっ」 「必要はある。私はそう判断しているし…」 私は一呼吸置いて、静かに宣言した。 「君が何と言おうと、私はこの件を調べる」 「…………」 マルコの顔は歪んでいた。彼は泣きそうな顔をしながら首を横に振っている。私はその顔を見 かねて視線を逸らした。そのまま、小さく告げる。 「もう、君に同行してもらう必要はない。これからは私が自分で行動する。ここまで送ってもら って助かったよ。それじゃあ」 私はそう言って踵を返した。背後からすすり泣きが聞こえてきた。振り返らずに歩く。この国 に来て初めて友情を示してくれた人物に対し、私は恩を仇で返すような真似をした。一人の友人 を失った。心の中に喪失感を抱えたまま、私は力なく足を進めた。 工場の門は閉ざされていた。数日前まで門の前に集まり気勢を上げていた労働者たちの姿は、 全く見当たらなかった。敷地内に人がいる様子もない。遠くに見える事務棟の中がどうなってい るかまでは分からないが、この工場が稼動していないことは一目で理解できた。 しばらく門の前に佇んだ私は、続いて工場の周囲を巡ってみた。せめて守衛の姿だけでも見つ けられれば。そう思いながら歩いているうちに、工場の前の通り沿いにある新聞の売店が目に入 った。売り子が退屈そうに座り込んでいる。私はそちらにゆっくりと近づいた。 新聞を一部購入し、話を聞く。売り子によるとストライキは終わったそうだ。雇用側と労働者 の間で合意が成立したからではない。ほとんど成り行きの結果だという。吸血鬼事件が広がり、 行方不明者が続出するに至って、ピケットを張っていた労働者たちの間に動揺が走った。彼らの 一部は夜もずっと門の前に座り込んでいたのだが、恐怖に駆られた者たちは自宅へ逃げ出すこと を選んだ。やがてピケ要員はいなくなり、ストライキは終息した。 しかし、工場は再開しなかった。できなかったというのが正しい。会社側のメンバーがストラ イキから脱落した労働者たちの家を回って日中の操業に出てくるよう説得したのだが、うまく行 かなかった。既に行方不明になっている労働者が出ていたのだ。残る者たちはその大半が仕事の ためであっても外へ出るのを嫌がった。たとえ残った者を工場に集めても、人数不足で工場は動 かせなかった。 「経営陣は新しく労働者を雇うつもりらしいけど、うまく行くかね。この町の連中はみんな怯え ちまって、ひたすら家の中に閉じこもっているしな」 そう話を締めくくって、売り子は肩を竦めた。私は礼を言った。エンリコの言う吸血鬼の影響 はこんなところにまで出ているらしい。とすると、ロドリゴが今やっているのは、工場の仕事で はなく人集めということになるのだろう。しかし、あの警察署の状況を見る限りでは、売り子の 言う悲観論の方が正しく思える。 立ち去り際に私は売り子に訊ねた。他のヤツは外出を嫌がっているのに、どうしてあんたは店 に出ているんだ。俺はなくすものがないからな。彼は静かにそう答えた。私は黙ってそこを去っ た。 裏口の側に回りこむ。そこの道路は相変わらず人気がなかった。ここはかつてアマーテの死体 が見つかった場所である。私がエレナと最初に顔を合わせたのもここだった。今はこの道には誰 もいない。いや、ここだけでなく町中で少し物寂しい場所にはほとんど人影がなくなっている。 誰もが怯えている。恐怖感に立ち竦んでいる。 さらに歩く。工場の周囲を何回か窺うように見て回る。何度目だっただろうか、工場の裏口か ら人が出てくるのを見た。頭に包帯を巻いた男が肩を竦めて道路を歩いている。時折、不安そう に顔を上げて周囲を見渡している。その顔を見て思い出した。あれは確か、黒シャツたちがピケ 破りをやった時に、頭から血を流して逃げてきた労働者だ。私は思わず近づいて声をかけた。 「…誰だ、あんた」 こちらを振り返った男が胡散臭そうな視線で私を見る。私は怪我は大丈夫なのかと聞いた。男 は妙な顔をした。少し笑って見せながら言う。 「あのピケ破りの騒ぎには私も巻き込まれてたんだよ。君が怪我していたようだったので、気に なっていたんだ」 「ああ、そうかい」 男は納得したように頷き、包帯を触りながら答えた。なに、大したことはない。ファシストの 連中に押し倒されてぶつけた時に傷を負ったみたいなんだが、傷口は浅かった。医者も心配する ことはないと言ってたしな。そりゃ良かった。私がそう言ったのに対して、男はにやりと笑って みせた。 「この程度でおかしくなるほどやわな身体はしちゃいねえよ。まあ、いい運動になった程度のも んさ」 「なかなか豪胆だな。ファシストどもには簡単には負けないってことか」 「俺にはそういう政治的な話は分からんよ。ストライキに参加したのは、そうすれば給料が増え るって言われたからさ。実際はそううまく行かなかったけどな」 男は苦笑しながら言った。 「…にしても、黒シャツどもも偉そうなことを言っておいて、案外情けないもんさ。吸血鬼の噂 が出たら、いきなり綺麗に姿を消しやがった。ま、ピケ支援にやってきた党の運動家連中も同様 だから、他人のこた言えねえけどな」 「姿を消したって」 「大方逃げたんだろうよ。中にはあいつらも行方不明者の中に入っているんだなんてことを言う ヤツもいるけどな」 まさか、あの黒シャツたちまでが行方不明になっているのか。確かに、彼らの大半はよそ者だ ろうから、単に町を引き上げた可能性はある。だが、もしそうでなかったら。エンリコの言葉が 脳裏に浮かぶ。被害者は数百人に及んでいるかもしれない。私はその言葉を頭から追い払った。 今は別のことを考えるべきだ。そう自分に言い聞かせながら口を開く。 「それにしても、今日はあの工場に何の用事だったんだ」 「ははは。決まってんだろ。また仕事をしたいって言いに行ったんだ。どうも黒シャツどもを相 手に大立ち回りを演じたせいで、過激派だと思われたみたいなんでな。俺にとっては単なる運動 のつもりだったんだけどな」 「へえ。それで、どうだった」 「さあね。今日は社長がいないとかで追い返されたよ。また明日来いとさ」 「社長がいない? なぜだろう」 「仕事が忙しいんだろ…って、んな訳ねえか。工場は止まってんだしな。まあ何か用事でもある んだろうよ」 「そう、か」 私はしばし黙り込んだ。男はぼんやりとこちらを見ている。私は慎重に問いを発した。 「社長は結構忙しいのか」 「ああ。いつも飛び回っていたようだけどな」 「時には会社に泊まり込むこともあったのかな」 「さて。そういう話は聞いたことはないけどな。日中はともかく、夜は帰っていたんじゃないの か」 「会社に泊り込んだことはないんだな」 「いや、絶対にないかと言われると俺も断言はできねえけどさ」 「誰に聞いたら分かるかな」 「そりゃ、あれだ。秘書なんかだったら知ってるんじゃないのか」 「秘書か」 秘書。エレナの毅然とした表情が思い浮かぶ。正直、彼女は苦手だった。相手を真っ直ぐ見て 正論をどんどんぶつけてくる女性。こういう事態になっていなければ、彼女と会うのは避けよう としていただろう。だが、そうも言ってられない。彼女に何と言われようと、どれほど疑われよ うと、あの女性を問い質すしかない。 私は目の前の男に礼を言って踵を返した。工場の正門へ向かう。堂々と正面から入り、彼女に 会う。そして正面から聞くのだ。君の雇い主は、アマーテ氏が殺された晩にどこへ行っていたの か。その一週間前は。一ヶ月ほど前から、決まった曜日には彼は外泊していたという。いったい どこで何をしていたのか。 正門の前には車が止まっていた。私は思わず歩調を緩めた。ゆっくりと近づくと、正門に寄り かかっていた人物が身を起こした。彼はじっとこちらを見る。私は表情を引き締めて彼に真っ直 ぐ近づいた。マルコは表情を殺したまま私を見ている。距離が近づき、私は足を止めた。 マルコの表情からは先程まであった何かが削げ落ちていた。彼の瞳は陰鬱さを湛えており、口 元は強張っていた。彼はその仮面のような顔のまま、私に向かって言葉を押し出した。 「…調べてみましたよ、親父が外泊した晩に何をしていたのか」 眼の中にある翳が力を増した。マルコの声から抑揚が失われていた。私は無言のまま彼に話の 続きを促す。 「エレナに話を聞こうと思って行ったんですが、留守でした。親父と一緒に出かけて、今日はも う戻らないそうです。だから、秘書課の別の者に聞いてみました。この一ヶ月ほどの親父のスケ ジュールはきちんと知っていましたよ」 「…そうか」 「アマーテさんが殺された日は、親父は普段と同じ時間に退社して自宅へ帰ったことになってい ました。会社の記録ではね。それだけじゃない。その一週間前もまた、普段と同様に帰宅したら しい。その前の週も、その前も。この一ヶ月間で親父が会社に残り、深夜になって近くのホテル に投宿した事例はただ一回だけ」 「あのピケ破りがあった日だけ、か」 「ええ。あの大騒ぎの後始末があって仕事が遅くなり、そのまま近くのホテルに宿を取った。あ の時だけは間違いなく親父は外泊したことになっています。けど、それ以前は違う」 「ソフィアの証言とはっきり食い違っているんだな」 「そうですよ。親父は会社では自宅に帰ると言い、屋敷の方へは外泊すると伝えていた。あの日 雇い労働者が殺された日も、アマーテさんが殺された日も、親父はそうやって行方をくらまして いた」 マルコは抑えた口調で淡々と話す。私は大きくため息をつくと、結論を出した。 「つまり、君の父上のアリバイはない。彼は嘘をついて帰宅しなかった」 「そう、なります」 マルコは感情を表に出さぬまま答える。私は門の向こうに見える事務棟に視線をやりながら言 った。 「…できれば確実なところが知りたいな。本当はあの運転手に聞けば確実なんだ。君の父上がど こにいたのか。日雇い労働者が殺された夜に、アマーテ氏が死んだ晩に。それに、テレサさんが 殺された時に、なぜその近くにいたのかも分かるだろうに」 「近くに? どういう意味ですか」 マルコが低い声で問う。彼は私をこれまでにないほど真剣な眼で見ていた。そういえば、私が 彼の父親をあの現場の近くで目撃したことについては、これまで捜査協力をしていたニコロにし か話していなかった。私はしばらく口を閉ざした後で言った。 「見かけたんだよ。テレサさんの死体を見つけた時にね。死体があった路地の近くの町角で、ち ょうど自動車に乗り込もうとしている父上を。彼があそこで何をしていたのか、あの運転手なら 知っていたに相違ない。今となっては知ることもかなわないかもしれないが」 マルコの顔に消えていた感情が激しく浮かぶ。それは激情。握った拳がわなわなと震える。だ が、彼はその感情を爆発させることはなかった。私に背中を向け、激しく肩で息をしながら自分 を抑えようとしていた。今までのマルコには考えられないような行動だった。私は彼の心から一 つの楽園が失われつつあるのを知った。父親という絶対的庇護者。どんなことがあっても最後に は守ってくれる存在。究極の信頼の対象。それが今、マルコの中で音もなく崩れ去っていく。荒 涼とした現実が彼の視界を覆っていく。 マルコが大きく息を吐いた。振り返った彼の顔は、再び仮面を取り戻したような無表情になっ ていた。私は何も言わずにそれを見た。マルコはゆっくりと口を開いた。 「…運転手に聞くのが無理なら、誰に聞くべきでしょうか」 「それ以外というと、エレナかな」 「エレナですか」 「ああ。彼女は君の父上担当の秘書なのだろう。他の連中より詳しいことを知っている可能性は ある。もっとも、もう社に戻ってこないとなるとここで話を聞くのは無理だろうが」 「彼女の家がどこにあるか聞いてきます」 マルコは短く言い捨てると、すぐに正門の隙間を通って工場の敷地へ入った。 「自宅に行けば会えるでしょう。今日中に話を聞いた方がいい。しばらく待っていてください」 そう言って事務棟へ向かうマルコを私は黙って見送った。若者はまるで何かに怒っているかの ように真っ直ぐ、勢いよく前進していく。その後姿を見ながら、私はなぜか戦場で塹壕から飛び 出し敵陣へ向かって進んでいった戦友たちの姿を思い出していた。 マルコが運転する自動車が町中を走る。人影の少ない町中には、速度を上げて駆け抜ける車を 邪魔するものはいない。時間の経過は早い。既に日は没しようとしていた。私は暗くなりかけた 町を見ながら、ぐるぐると回る思考に身を任せていた。夜が来る。人々が怯える吸血鬼の跋扈す る夜が。行方不明者が続出し、時には血を抜かれた死体が転がる夜が。 吸血鬼。エンリコはそう言っていた。これは吸血鬼の仕業だ。何百年も昔から殺されては生き 返るおぞましい存在が起こした事件なのだ。人間をはるかに上回る運動能力を持ち、人間の血を 啜って人々を消したり殺したり自在に操ったり。そんな化け物によって、既に数百人の犠牲者が 出ている。吸血鬼。エンリコはそう話していた。 どこまで本当なのだろうか。私には分からない。彼の話は荒唐無稽だ。だが、町中では吸血鬼 の仕業だと思っている人が多い。そうとでも考えないと理解できないような現象が起きている。 次々に姿を消していく人々。大量の行方不明者発生はいったい誰のせいなのか。その事件まで、 ロドリゴのせいにできるのだろうか。 自動車がカーブを切ってスラム街のような地域へ入る。夕日に照らされた古いアパート群は血 に染まったように真っ赤だ。町から消えてなくなった人々の血が、いっせいに浴びせかけられた かのよう。眼が痛くなるような赤が、視界を覆う。戦場で砲弾に吹き飛ばされ、バラバラになっ た人間たちの赤い血が脳裏に浮かぶ。眼を閉じ、赤を視界から追い払う。マルコが自動車を停車 させた。 「このあたりの筈ですけど」 眼を開く。周囲には影が広がって町並みを暗く覆っていた。赤はほとんど見えない。私は影に 眼がなれるまでしばらくあたりをゆっくりと見回した。記憶が刺激される。ドアを開けて路上に 出た。ここは、ここは確か。 「どうしました」 同じく自動車から出たマルコが周囲を見回す私に声をかける。マルコに振り向いた自分の顔は おそらく影の中でもはっきり分かるほど強張っていたに相違ない。私は唇を湿らせ、ゆっくりと 言った。 「…ここは、現場の近くだ」 「現場?」 「ああ。テレサさんが殺された現場が、ここのすぐ近傍だ」 「え?」 マルコの顔に翳が射す。私は改めて視線を一巡りさせた。間違いない。今でもはっきりと思い 出せる。この場所から私はあの自動車を見かけたのだ。お仕着せの運転手がドアを開けて主人が 乗車できるようにしていた。口髭の紳士がゆっくりと自動車に乗り込み、やがて自動車がエンジ ン音とともに去っていったのまで思い出せる。 そして、その後に見つけた死体。ぐったりと力なく路地の奥に横たわっていた。ひっくり返す のにとても苦労したのを思い出す。あれは、もはや人間ではなかった。単に取り扱いの面倒な物 体に過ぎなかった。首筋に見えた小さな二つの傷痕、そこから僅かに見える血の痕跡。血液の大 半は消えていた。死体の中からどこか別の場所へ。もしかしたら、吸血鬼の腹の中へ。 私は深呼吸をした。夜が近づくにつれて、自分の感情が昂ぶっているのが分かる。怒りに塗り 込められていた内心に、別の感情がじわじわと湧きあがる。それは恐怖。閉ざされた屋敷の中で 死体が見つかった時に覚えた、言い知れない怯え。落ち着け。ここは町中だ。大勢の人間が暮ら しているところなのだ。それに、吸血鬼などいる訳がないじゃないか。そんな化け物が現実に存 在する筈など。私はマルコを向いて言った。 「…エレナの住所は、このあたりかい」 「はい。おそらくあのアパートじゃないかと」 「分かった」 私はアパートに近づいた。呼吸を整え、ゆっくりとドアをノックする。私のすぐ横にはマルコ が立っていた。正面から問い質すんだ。私は改めて自分にそう言い聞かせる。中から返事がして やがてドアが開かれた。そこに立っていたのは、これまで何度か見たあの女性だった。彼女は物 怖じしない視線で私とマルコを見た。しばらく何か考えるようにこちらを窺っていたエレナは、 やがて薄く笑みを浮かべて言葉を発した。 「…とうとうここまで来たんですか、探偵さん」 「ええ。来ました」 「じゃあ、既に色々と調べているんでしょうね」 「調べました」 「そうですか」 彼女はゆっくりと頷くと、再びマルコを見た。その視線に憐憫の情が含まれているのが分かっ た。なぜ分かったのだろう。他人の感情が読めなかった私が、彼女の僅かな瞳の動きだけでその 内心を読み取ってしまった。自分が戦争の後遺症からほぼ立ち直っていることが分かった。自分 の感情が復活したのと同時に、他人の感情も読めるようになったのだ。私の前にいるのはもはや 人形たちではなかった。生身の肉体を持ち、豊かな感情を抱く人間たちだった。 エレナが再び私を見る。その顔には何かを決心した者だけが示す表情が浮かんでいた。彼女は 胸を張り、はっきりと言った。 「分かりました。でしたら隠しても仕方ないでしょう。何でも聞いてください」 「私が聞きたいのは、貴方の雇い主のことです」 「やっぱりそうですか」 「はい。彼の行動について、お聞かせいただきたい。アマーテさんが殺された晩のことです。彼 は工場の人々には自宅に帰ると言い、一方で自宅には仕事で忙しくなるから外泊すると伝えてい ました。いったい彼はどこで何をしていたんですか」 エレナは少し黙っていたが、やがてしっかりとした声で答えた。 「社長はこちらの家に泊まっていました」 「そうですか…って、ええっ」 私は思わず大声を上げていた。隣ではマルコが愕然とした表情で彼女を見ている。一方のエレ ナも、我々の驚きようを見て逆に戸惑ったような顔をしている。 「ちょ、ちょっと待ってください。あの晩、彼はこちらにいたんですか? 一晩ずっと?」 「そ、そうですけど」 「それって、つまり…」 私は続きの言葉を飲み込んだ。つまり、貴方は彼の愛人ということですか。別に不思議ではな い。あれだけの金持ちなら、愛人の一人や二人いても不思議ではないだろう。いや、そもそも彼 の妻はとうの昔に亡くなっているのだから、これは浮気とも言いづらい。独り身の男と、未婚の 女性との関係など、他人が口出しするべきものではないのだ。とはいえ、これは予想外の結果だ った。唖然としている私を見て、エレナが不審そうな顔で聞く。 「あの、もしかして貴方は、私のことを調べていたのではないんですか」 「え? 貴方のことを」 「はい。私と社長との関係を、マルコさんに言われて調べていたんでしょう」 「い、いや。別にそういうことを調べていた訳ではないんですが」 「それじゃあ、いったい何を」 「ま、待ってくれっ」 頓珍漢な問答を繰り広げる我々の間にマルコが割って入った。彼は引きつった表情でエレナを 見ながら問い詰める。 「どういうことなんだっ。親父といつからそんな関係になっていたんだ」 「そ、そんな関係って」 「そういう関係なんだろっ。男と女の。いつなんだ。いったいいつの間に」 「な、何を言っているんですかマルコさんっ。変なことを言わないでください」 「変なことって、どうして変なんだ。親父が一晩泊まるって言ったら、そういう意味以外に」 「違いますっ。あの、何かとんでもない勘違いをしてませんか」 「どう勘違いするっていうんだ。男と女が一つ屋根の下で」 「待ってくださいっ」 大声を上げてマルコを黙らせたエレナは、私とマルコを交互に見ながら言った。 「…もしかして、本当に私と社長の関係をご存知ないんですか」 マルコは何か言いたそうだったが、私は彼を制して言った。 「君がロドリゴさんの秘書であるということは知っている。時には仕事に連れて行くほど彼が君 を信頼していることもね。だから、君なら彼の行動を知っていると思った。そういう理由で私た ちはここへ来たんだよ」 エレナは大きく息を吐いた。全身から力が抜けたようだった。何だ、勘違いしていたのね。馬 鹿みたい。小さくそう呟く。そして首を振った彼女は顔を上げて言った。 「…変な思い違いをされるよりはましだから、本当のところを話します」 エレナの視線は再び正面を真っ直ぐ捉えるものになっていた。彼女は堂々と私とマルコを見な がら言った。 「私は社長の娘です。つまり、隠し子なんです」 「なっ」 今度こそマルコの驚きは本物だった。彼は顎が外れたのではないかと思われるような顔でエレ ナを凝視している。私の顔も似たようなものだっただろう。しばらく脳内が撹拌されたかのよう な気分がした。考えがまとまらないまま、私は問いを発した。 「それはその、つまり、君の母上とロドリゴさんがその」 「はい。昔、そういう関係にあったようです」 「そ、そのころは、彼の奥さんは」 「生きていましたよ。つまり母は、正妻ではなく愛人だったということになります」 「そう、だったんですか」 「ええ」 エレナはもう普段通りだった。彼女の対応には全く翳りがなかった。彼女は淡々と事実を明か していく。 「では、彼はずっと君の存在を自分の家族に隠していたんですか」 「いいえ、違います」 「というと」 「よくは知りませんが、私を生む時になってあの人と母の間で揉め事があったようです。結局、 母はこの町を出て別のところで生活を始めました。女手一つで私を育てることにしたんです。で すから、私もしばらくは自分の父親があの人だとは知りませんでした」 彼女の落ち着いた言葉がゆっくりと日没の空気に吸い込まれていく。私は黙ってその告白を聞 いていた。 「あの人も母と私の居場所は知らなかったようです。だから私はずっと母と二人だけで生きてき ました。数年前にいきなりあの人が現れるまでは」 「なぜ現れたんだね」 「今になればその理由は想像がつくんですけど、当時は分かりませんでした。いきなり知らない 男性が訪ねてきてお前の父だと言われても、こちらも困るばかりでした。正直言って母も迷惑そ うでしたし。けど、あの人はかなり強引でした」 「…………」 「あの人は私たちが生活に苦労しているのを知って、私を自分の工場で雇おうと言ったんです。 母も私も迷いました。今更世話になんかなりたくない。そういう思いがあったのは事実です。で も、私は途中で考えを改めました。どうせ仕事を探さなくてはいけないのなら、別にあの工場で 働いてもいいじゃないか。あの人が父親らしいことをしなかった事実と、私がその工場で働くこ ととの間には何の関係もない。私が労働をして、その対価として給料を貰うだけのことです。そ う割り切って、この町に戻ったんです」 エレナはそう言ってくすりと笑った。 「ただ、面白かったのは母とあの人の縒りが戻ってしまったことですか。男女の関係って分から ないもんですね。色々あって別れたのだろうに、今では妙に仲良く話したりしているんですよ。 まあ、縒りが戻ったというより、改めて友人になったということかもしれませんけど」 「それで、それでエレナは納得しているのか」 マルコが空気を押し出すように声を出す。しわがれた老人のような声だった。エレナは彼を、 自分の兄の顔を見て静かに言った。 「納得してますよ。母は私とは違う人間です。母の客人が宿泊したいというのを、私が断る理由 はありませんしね。それに、私にとってあの人はあくまで雇い主です。貰っている給料分の仕事 はするつもりです」 「そんなに、そんなに簡単に割り切れるものかっ」 「割り切れなくても、割り切るしかないこともあるんですよ、マルコさん。今になって、子供の 頃に父親が傍にいてくれなかったことを恨んでも仕方ないじゃないですか。それより、これから のことを考えた方がいい。あの人が仕事を提供してくれるならありがたくその仕事をしますし、 その仕事で得た給料を使って何かをした方が前向きでしょう」 「何かをって、何をするんだい」 私の問いにエレナはにっこりと笑って答えた。 「今は外国語の勉強をしています。手に職をつければ、どんなことになっても困らずにすむと思 っていますから。将来は通訳の仕事でもできればいいと思っていますけど」 「そう、か。そんなことを考えているのか」 「はい。私にできることはそんなことくらいですから」 エレナは最後まで我々を真っ直ぐに見ていた。私は圧倒される思いだった。どうしてこの女性 はここまで前向きになれるのだろう。決して恵まれた境遇ではなかっただろうに、なぜ自信に溢 れた視線を他人に向けることができるのか。黙り込んだ私に代わって、マルコが震える声で言っ た。 「…エレナ、君は親父を許しているのか」 「許す、というと?」 「子供を放り出した親を許せるのかってことだ。自分を放っておいて、別の家族と一緒の時間だ け過ごしてきた父親の行動を、どうしてあっさりと納得できるのかってことだ」 「親がいない子供なら大勢いますよ。親に捨てられた子だけでなく、親が死んだ子もね。みんな 苦労してきたでしょうね。でも、過去をいくら恨んでも得られるものはありません。人間は、結 局今いるところで頑張るしかないんです。本当は別の場所にいられたかもしれないのに、ここに いる自分ではなく別の自分があったかもしれないのに。そんなことをいくら考えても、何の足し にもなりません」 「で、でも」 「マルコさん、もう貴方も大人になったらいかがですか。貴方が社長にどういう感情を抱いてい るのかは知りませんけど、過去にどんなわだかまりがあったのか分かりませんけれど、そんなこ とにこだわっても仕方ないじゃありませんか。どうやっても、社長は貴方の父親ですし、そして また社長と貴方は別の人間なんです。そのことを認めて、そのうえで自分に何ができるかを考え た方が」 「無理だ、そんなの、そんなの俺には無理だっ」 マルコが悲鳴を上げた。その顔は悲嘆に塗り込められていた。 「つまり、つまりあいつは俺や母さんを裏切って外に女を作っていたってことじゃないかっ。し かもそれをずっと隠してきたんだ。酷いじゃないか、酷すぎるじゃないか」 「マルコさん」 「俺は、俺は親父が殺人犯かもしれないと思って、だからこの人と一緒に調べていたんだ。もし それが事実だったとしても、多分俺にできることはない。できることはないけど、でも事実を知 りたいとは思った。せめてそこからは逃げたくないと思って、それで調べていたんだ。なのに」 「マルコさん、私の話を」 「なのに何だよこれはっ。いったい何なんだよ。どうしていきなりこんな話になるんだっ。これ なら、これならまだ殺人犯の方がマシじゃないかっ」 「何を言っているんだ、マルコ」 私は思わず叫んだ。マルコは泣きながら私に向かって喚いた。 「だってそうじゃないかっ。親父が人を殺したのは、もしかしたら俺を守ってくれるためかもし れない。俺の周辺にいる連中が俺を傷つけようとするから、だから親父が先にそいつらを始末し てくれたって。俺はそう考えていたんだ。そう考えれば、それなら、それならまだ」 「よせ、マルコ。お前、自分が何を言っているのか分かっているのか」 「なのに現実はどうだ。これはいったいどういうことなんだよっ。親父が、父さんが俺を裏切っ たなんて。俺を、母さんを捨てて、他の女に産ませた子供を大切にしていたなんてっ」 「マルコっ」 「マルコさん」 「畜生、畜生畜生畜生畜生畜生っ。ふざけやがって、ふざけやがってっ」 マルコは大声で叫ぶと自動車へ向かって駆けだした。私は慌てて後を追う。だが、マルコの方 が動きは速かった。彼はすぐにアクセルを踏み込んで走り出した。町中を激しい音を立てて走り 去る自動車を私は呆然と見送るしかなかった。 「…あの」 背後からかけられた声に振り返る。エレナが真剣な顔で私を見ていた。 「今、マルコさんが言っていたのはどういうことですか」 「え? 今って」 「殺人犯がどうこうという話です。社長が、誰かを殺したんですか」 「い、いや。君の言うことが正しいなら、彼は殺していない。というより殺せない」 「どういう意味ですか」 「私は、彼のアリバイを調べていたんだ。アマーテが殺された夜、彼がどこにいたのかを。もし 君の言う通り彼が君の家に泊まったのなら、彼にアマーテは殺せなくなる」 「間違いなく、うちに宿泊しました。母も証人になる筈です」 「そ、そうか」 私は混乱した頭を必死に整理しながら、さらに聞いた。 「もしかしたら、彼はこの一ヶ月ほど決まった曜日に君の家に宿泊していたんじゃないのか」 「ええ。そうです」 「アマーテが殺された一週間前の晩も、やっぱりそうだね」 「はい」 これで日雇い労働者殺しの時にもアリバイが成立した。彼は犯人たり得ない。 「だが、それならどうしてテレサはこの近くで殺されていたんだろう」 「テレサさん? ああ、あの方ですか」 エレナはそう言うと軽く頷いた。 「あの方は、母の昔の知り合いなんだそうです」 「な。それは本当か」 「はい。母と社長の昔の関係についても色々と知っていたようですわ」 「では、テレサはこちらに」 「よく来てました。町に用事があって出てきた時には、ほとんど毎回のように。母と昔話をした り、時には一緒に買い物をしていたようです」 「殺された日にも来ていたのかい」 「いえ、あの日は見かけませんでした。あの日、この家に来たのは社長だけですわ。少し時間が 空いたからお茶でも飲みたいって」 そうか。だからあの時にロドリゴをこの近くで見かけたのだ。彼はこの家で休んで帰る途中だ ったのだろう。私は頷くと、さらに彼女に聞いた。 「どうして、最近になって彼は君の家に泊まるようになったんだろうか」 「母と縒りが戻ったというのが表立っての理由ですけど、本当は違うんでしょう」 「違う、というと」 「多分、あの人は寂しかったんだと思います」 「寂しい?」 「はい。あの人が母と私を探し出して私を雇いたいと言い出したのは、ちょうどマルコさんが家 を出て大学へ行くことが決まった時です。自分の子供が親元を離れる時に、代わりの子供が手元 に欲しくなったんでしょう」 「そ、それは本当なのか」 「私が想像しているだけですけど、おそらく間違いはないと」 「それじゃ、君の家に行くようになったのも」 「その延長でしょうね。家族的な雰囲気の場所に帰りたかったんだと思います」 「待ってくれ、彼にはきちんとした家があったじゃないか。豪勢過ぎるほどの家が」 エレナは少し翳りのある表情で言った。 「ええ、ありました。でも、あの屋敷に帰って、あの人はくつろげたんでしょうか。奥さんはも う随分昔に亡くなられたそうですよね。それに、あの人が一番気に入っていたマルコさんは屋敷 にはいない。残っているのは使用人とカルロさんだけです」 「それでも、それでもカルロがいた。自分の息子が」 「貴方はカルロさんをどういう人だと思いますか」 エレナの質問に私はたじろいだ。カルロの皮肉っぽい笑顔が脳裏に浮かぶ。何があっても絶え ず冷静に観察する傍観者のような表情が。彼は何が起きてもほとんど動じることはない。いつで も沈着に事態に対処する。その代わり、愛想は悪い。他人の感情を逆なでするような行為や発言 もしばしばある。同じ兄弟でも、マルコとはまるで正反対の性格を持っている。 「お分かりだと思いますが、社長はカルロさんのことはあまり気に入っていません。お兄さんに 比べて、あまりにも可愛げがないからでしょう。だから、マルコさんが大学に行くようになって から私をあの工場に呼んだんだと思います」 「いやまあ、確かに可愛げはないな。しかし、それでも自分の子なのだから嫌っていた訳ではな いだろう」 「確かに、嫌っていた訳ではないでしょう。でも、マルコさんに対するほどの愛情は持てないよ うでした」 それは私も気づいていた。あの紳士は私やカルロを前にした時は完全に礼儀正しい作法を遵守 できる人物だった。その紳士が、マルコを前にした時だけはしばしば感情を剥き出しにした。私 にも分かるほど、動揺したり怒ったりすることがあったのだ。彼にとって、自分の感情を伝える べき相手はマルコだけだったのだ。他者である我々は彼にとって感情を隠すべき相手だった。そ して、自分の息子であるカルロに対しても、彼は同じ行動を採っていた。 「前に、あの人が話していたことがあります」 エレナの低い声が私の耳朶を打つ。 「時々、カルロが自分の知らない人間に見えることがある。間違いなく自分の子供なのに、見た 目も話の中身もまるで遠い国の異邦人みたいに思えるんだって。訪れたことのない国に住む言葉 の通じない住人。そんな人物が息子の中にいて話しているみたいだって」 異邦人か。それなら私と同じだ。だが、中にはマルコのように異邦人であっても魅了できる性 格の持ち主もいる。あの紳士が自分の息子であるカルロに感じたものは、よほど何か特殊なもの だったのだろう。それにしても、父親にそんな眼で見られる子供は、果たしてどう思うのだろう か。息子の方は父をどんな眼で見ていたのだろう。いつまで父と兄の茶番につきあうつもりです か。カルロの言葉が思い浮かぶ。彼は家族の中で疎外されていたのかもしれない。 私は一つ深呼吸をして言った。 「いずれにせよ、今はカルロよりマルコの方が問題か」 「ええ、そうですね」 エレナはカルロの自動車が走り去った方角を見ながら呟くように言った。 「本当は、一番かわいそうなのはマルコさんです」 「え?」 「あの人は親離れしたくない訳じゃないと思います。マルコさんは何とか親から一人立ちしよう と悪戦苦闘していたんじゃないでしょうか。親元を離れて大学へ行ったのも、少しでも自立した いという思いがあったからではないかと」 「そう、なのかな」 「はい。本当は、社長の方が子離れができていないんです。いつまでも子供を自分の元に置きた がっているのは、あの人の方ですわ」 彼女はきっぱりと言うと、私に向き直った。 「マルコさんに伝えていただけますか」 「…何を」 「父親が何をしたかを気にするより、ご自分のしたいこと、やるべきことを見つけることの方が 大切だと。それが分かれば、貴方は今いる場所から始めることができる筈だと」 エレナは澄んだ瞳で私を見た。私は黙って頷いた。彼女は強い。色々と辛いこともあった筈だ が、それでも彼女は自分が立っている場所を決して見失わなかった。私のように戦場で足場を失 うこともなく、マルコのように全てを父親に依存するのでもなく、彼女は静かに今いる場所を踏 みしめている。 そして、私はようやく自分があの戦場から帰還したことを実感した。人間の世界を離れ、壊れ やすい人形に囲まれていた自分。狂気に陥り、感情を失い、ただ人間の真似事だけをして過ごし てきた時間。だが、もう大丈夫だ。これ以上、あの意味を失った世界にとどまることはない。私 は世界の意味を取り戻した。自分の足場を定めて強くしなやかに生きるこの女性を見て、意味の 世界に生きる術を見出したのだ。 エレナはゆっくりと笑みを浮かべた。そして、柔らかい声を出す。 「…私が言うと、マルコさんも反発するかもしれません。貴方から伝えていただけたら、マルコ さんも納得してくださるかもしれませんから」 「そうかもしれませんね。分かりました、伝えます。何より、私がこの調査に彼をつき合わせて しまった張本人なんですから、その後始末くらいは自分でつけます」 そうだ。それにマルコに礼も言わねばならない。彼と会うことがなければ、エレナと話す機会 もなかっただろう。私は未だに遺跡の前で苦悶しつづけていたかもしれない。戦場から帰還しよ うと苦闘を続けていたかもしれない。いや、そんなことは小さいことだ。友人が苦しんでいるの なら手を差し伸べる。それが普通の人間のすることだ。そして、私は普通のことがしたい。誰も がやるようなことを、自らの手でやってみたいのだ。 「では、お邪魔しました。すぐにマルコ君を追いかけますので、これで」 「え? 何で追いかけるんですか」 「何って…」 答えようとして、私は口ごもった。マルコは自動車を飛ばして行った。そして、私に残された のはこの二本の足だけだった。 「…あの、自転車か何かお持ちではありませんか」 「うちにはありませんが、待っていてください。すぐに借りてきます」 エレナはそう言うとアパートへ向かって駆け出した。彼女の姿は既に町を覆い始めている夜の 闇に溶け込んでいく。私は空を見上げた。蒼はほとんど消え、黒が天蓋を制圧しつつある。そし て、東の空には銀色の円盤がゆっくりと浮かび上がっていた。今夜は満月だった。 月明かりだけを頼りに砂利道を走るのは無謀だった。私は何度もハンドルを取られ、時には自 転車から地面に放り出された。それでもすぐにハンドルを掴みなおすと、再びペダルをこいだ。 息が荒くなり、身体の節々が痛む。だが、ペダルをこぐ速度は下げなかった。 エレナの元を辞した時にはそれほど焦ってもいなかった。だが、屋敷への砂利道に入ったあた りから、心の中で嫌な感じが広がってきた。自転車をこぎながら、ふと脳裏に浮かんだ疑問が私 の心を焦りに陥れたのだ。 エレナの発言により、ロドリゴが犯人でないことは判明した。彼女が嘘をつくとは思えない。 自分が彼の隠し子であることまで明らかにしたのに、そんなつまらない点で虚偽の証言をする理 由がないからだ。血を抜いて殺されていた死体を作り出したのはロドリゴではない。 では誰が犯人なのだろうか。問題はもう一度、ソフィアが殺された時に遡る。彼女が殺された 時、屋敷は内側から密閉されている状態だった。つまり、あの時屋敷の中にいた人物のうち誰か が犯人となる。あの時にいたのは、マルコ、カルロ、ロドリゴ、使用人二人、そして私とエンリ コだ。 このうち、館の主は犯人でなくなった。私とマルコは、一連の殺人事件のうち最初のものであ る日雇い労働者殺害が物理的に不可能だ。従って連続殺人の容疑者から外してもいいだろう。そ してエンリコはその私たちよりさらに後になって屋敷に到着した。普通に考えれば彼もまた犯人 たり得ない。 残るのはたった三人。カルロ、そして料理人と下男。だが、ここで重要な問題が生じる。この 三人のうち、テレサが町で殺された時に町に出かけていたものは一人もいないのだ。つまり、こ こで連続殺人の犯人になり得る人間が消えてなくなってしまう。 そんなことはない。犯人もいないのに人間が血を抜かれて殺されることなどない。従って、私 の推理のどこかが間違っていることになる。どこがおかしいのか。これまで上げた一連のアリバ イの中で、穴が存在するのはどこなのか。 アリバイを確認していない例をあげるのなら、まずエンリコがある。私が彼を見たのは、アマ ーテが殺された翌日のことだった。彼はそれ以前にはこの町にいなかったと主張している。それ が正しいのなら、彼は犯人ではない。だが、彼が意図的に嘘をついているとしたら。この証言が 全くのデタラメで、実は彼はずっと前からこの町に来ていたとしたら。 可能性はある。そもそも、エンリコの言うことは怪しい。吸血鬼が犯人だという説は彼が私に 吹き込んだものだ。それもかなり特殊な吸血鬼の存在まで話していた。あれが全て嘘だとすれば 彼には創作の才能があるのだろう。だが、よく考えてみれば吸血鬼が現実に存在するという話は いかにもおかしい。疑わしいと言えば彼が一番疑わしいのだ。 他にアリバイを調べていない事例はあっただろうか。ある。テレサが殺された時だ。あの時に ついて言えば、私はマルコの父親を目撃したことに心を奪われていて他の人間のアリバイは調べ ていない。だが、調査はしていなくても推測はできる。私が死体を発見した直後に警察が来て、 それからまず工場に連絡が入った。工場からはおそらくあの運転手が車を飛ばして屋敷へ向かっ た。ソフィアたちがやって来たのはその後だ。 もし、屋敷にいると思われていた誰かが犯人だったとする。ならば、彼はテレサを殺した後で 屋敷へ急ぎ戻った筈だ。どうやって? 自動車を使ったケースは考えにくいだろう。目立ちすぎ る。自転車か、あるいは徒歩で帰ったとしか思えない。問題は、私が死体を発見してから、運転 手が屋敷にたどり着くまではそれほど時間がかかっていないという点にある。自転車でもぎりぎ り帰り着けるかどうか、徒歩なら絶対に間に合うまい。それに、屋敷を出入りする時を誰かに見 られていれば、後から疑われる可能性もある。 色々考えると、あの時屋敷にいた人間には町に出てテレサを殺すのは不可能に思えてくる。だ が、これも無実の証拠とまでは言えない。絶対に不可能と断言するのも難しいからだ。カルロ、 アントニオ、料理人。このいずれかが犯人である可能性はゼロではない。 問題なのは、彼らのうちの誰かが犯人だったとして、彼らが今もなお屋敷に残っているという 点にある。そして、屋敷には犯人以外の人間もまだいるのだ。放っておくと、さらなる犠牲者が 出る可能性もある。先程エレナの家から急いで飛び出したマルコもまたそれに巻き込まれるかも しれない。 派手な音とともに自転車が跳ねた。私はまたも無様にひっくり返った。肘に痛みが走る。しば らく地面に転がったまま唸っていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。自転車を片手で掴み、 持ち上げる。疲労した身体を無理やりサドルに乗せ、ペダルを踏み込んだ。月明かりに照らされ た砂利道は薄ぼんやりと伸びている。 情けない話だ。私にもっと運動神経があったら、今ごろはもう屋敷に到着しているかもしれな い。いや、それこそ私が羽根でも生やしていれば、一瞬のうちにたどり着くことだって。 『吸血鬼の運動能力は凄まじいものがあります』 エンリコの言葉が思い浮かんだ。凄まじい運動能力とは何か。もしかしたら、長い距離をごく 短時間で移動できる能力も含まれているのではないだろうか。町と屋敷の間の移動など、簡単に こなせる程度の力を吸血鬼が持っているとしたら。 ペダルを踏み込む力が増す。まさか、まさかそんな。だが、ヤツが正しかったら。あの飄々と した考古学者が、本当に教皇庁から送り込まれた人間なら。だとしたら。 だとしたら、アリバイなどほとんど何の意味ももたない。 背筋を脂汗がつたう。激しい運動で全身に汗をかいているのに、身体のあちこちに寒気が襲っ てくる。気づかないうちに歯ががたがたと鳴っている。怖い。恐ろしい。もし本当に、本当にヤ ツの言うことが正しいのなら。 だが、私の足はそんな恐怖感にはお構いなしにペダルをこぎつづけている。屋敷がどんどん近 づいている。もしかしたら吸血鬼の本拠地になっているかもしれないあの館が。自転車のサドル が軋み、スポークに跳ねた石が当たり甲高い音を立てる。まるで地獄へ向かって一直線に駆け下 る馬車のように、自転車は止まらない。 そうだ。アリバイに何の意味もないのなら、誰が犯人でもおかしくない。いや、そもそもアリ バイを証言した人間だって信用できない。エンリコは言っていた。吸血鬼は人間の血を吸ってそ いつを思い通りに操る能力を持っていると。自分のアリバイを証言させるなど序の口だろう。 そんなことはない。私の中で誰かの声がする。エレナが吸血鬼の傀儡だなどということがある 筈がない。あれが吸血鬼に魂を抜かれた人間に見えたか。単なる操り人形だと思えたのか。違う だろう。あれこそ人間だ。この世界の中では弱い存在に過ぎなくても、一所懸命に生き延びよう と苦闘している。あれが人間でなくて、いったい何だというのだ。 頭の中が混乱していく。感情が混濁していく。日中、私の胸中を支配していた怒りが、別の感 情に巻き込まれ散乱していく。自分が何をしているのかすら分からない。ただ、空に浮かぶ月が 私を見ている。周囲を通り過ぎていく木々の梢が音を立てている。まるで永遠の悪夢の中でもが いているかのような、そんな空気が私を包む。その中で私はひたすら足掻いている。ハンドルを 握り、ペダルを踏み込んで、少しでも前に進もうと。 だが、夢が永遠に続くことはない。やがて前方には屋敷が見えてきた。月明かりに浮かび上が った建物が私の視界で次第に大きくなっていく。激しい息が自分の耳に聞こえてくる。転倒した 際に負った傷や長時間続けた運動に伴う筋肉痛が全身に痛みをもたらす。敷地が目の前だ。門は 開いている。私はブレーキをかけて自転車を乗り捨てると痛む身体に鞭打って玄関へと走った。 建物は普通に見えた。ところどころの窓から明かりが漏れている。外壁にも変わったところは ない。だが、中から伝わってくる空気は尋常ではなかった。私の背筋は先程から悪寒に震えっぱ なしだった。異常さがこの館から周囲へと波になって伝わっているようだった。 悪夢は終わっていなかった。 玄関をゆっくりと開ける。ロビーはいつものように明かりに照らされていた。だが、人の気配 は感じられない。奇妙なほどの静けさだけが残っている。私はしばし佇んで周囲を窺った。玄関 のドアが開閉すれば、必ず誰かが応対に出る。私がこの屋敷にいた時、住人たちはいつもそうし ていた。今は誰もいない。下男も誰もロビーにやって来ない。私は自分を落ち着かせるために、 ゆっくりと深呼吸をした。 悲鳴がした。慌ててその方角を見る。食堂のようだ。私はすぐに走り出した。頭の中で危険信 号が激しく点滅を繰り返している。戦友の声が聞こえる。伏せろ、頭を伏せろ。そこの塹壕に飛 び込むんだ。死にたくなければ俺の言うことを聞け。私は聞かなかった。まっすぐ悲鳴の方へと 走った。その悲鳴はマルコのものだった。 食堂の扉に手をかけた瞬間、銃声がした。私の動きが一瞬止まる。すぐに扉を思いっきり開い て身体を前に投げ出した。フローリングの床に腹ばいになりながら室内の様子を確認する。右手 に若い男の背中が見えた。マルコだ。その向こうに何かが見える。私はすぐに動けるよう膝を立 ててその何かに視線を定めた。 息が止まった。ゆっくりと足を進めるその影を見て、私の理性が悲鳴を上げた。あれは、あれ はいったい何だ。 「や、やめてくれっ。やめてくれよおおおっ」 マルコが再び悲鳴を上げる。その手に握られていた拳銃が数度、火を噴いた。その度に彼の前 にある影が揺らめく。銃弾を受け、その衝撃に身体が弾かれているのだ。だが、影は倒れなかっ た。それは銃声が止むと同時に、再び足を進める。 人間のような形をしている。だが、その姿はとても人間とは思えない。全身が赤い血に塗れ、 口元は耳まで裂けていた。眼は紅に染まり、髪の毛は乱雑に四方を向いている。口の周囲にある 髭だけが、かろうじてかつての姿を髣髴とさせるものだった。そいつは一方の腕に何かを持って いた。それが根元からちぎられた人間の脚であることに気づき、私の全身は凍りついた。 「い、いやだ。やめてよ。やめてくれよ、父さん」 マルコの声はまるで子供の泣き声だった。彼はかぶりを振りながら拳銃の引き金をさらに引い た。二発、三発。銃弾が目の前の影に食い込む。だが、影は気にかけた様子もなくゆっくりとマ ルコに近づいた。マルコはさらに喚きながら何度も引き金を引いた。だが、もう弾丸は尽きてい た。影は大きく手を伸ばし、マルコを掴んだ。 「やだ、やだよおっ。父さん、やだあああっ、やめてよおおおおおっ」 マルコの声を気にもとめず、その影はゆっくりとマルコの拳銃を握った右腕を根元から抜き取 るように引きちぎった。絶叫が食堂の中を満たす。飛び散った血液が壁にかけられた絵を赤く染 めていく。私は声も出せずにその場にへたり込んだ。何だ。これはいったい何なんだ。 影はさらにマルコに覆い被さるようにして首筋に噛みついた。舌なめずりするような不気味な 音が悲鳴の合間に聞こえてくる。何かを噛み切る音、頚動脈が切れて血液が噴出す音。そんな音 までがはっきりと知覚できる。私はただ呆然と目の前の惨劇を見ていた。影がマルコの首筋から 血を啜る音が響く。マルコが単なる肉の塊となっていく瞬間を、私は何もできずに見ていた。 いつの間にかマルコの悲鳴は止んでいた。かつてマルコであった物は、もはやぴくりとも動か なかった。死体に覆い被さっていた化け物がゆっくりと顔を上げる。その口元から血が滴るのが 見える。化け物の視線が私を捕えた時、私は悲鳴を上げた。化け物が身体を起こす。それがゆっ くりとこちらに近づいてくる。私は悲鳴を上げながら逃げようとした。強張った全身を無理やり 叱咤し、震えの止まらない膝を死に物狂いで立てる。次の瞬間、化け物が跳躍した。その影が私 の頭上から被さってくるのを見た私はほとんど無意識のうちに身体を捻っていた。 衝撃。自分の身体がどこかに叩きつけられるのが分かる。目を開けると、無残に切り裂かれた 服がまず視界に入ってきた。顔を上げる。化け物が少し離れた所に立っている。それはこちらを 紅の眼で見ていた。化け物の口元には、どうしようもないほど長期の絶食で駆りたてられたよう な飢餓が浮かんでいた。化け物は渇えていた。私の血に。人間の血に。 初めて化け物の着ている服装が目に入った。今朝方、ロドリゴがこの食堂から出て行く時に着 ていたものと同じ服装だった。化け物に睨まれながら、私の脳裏には奇妙な感想が浮かんだ。そ うか、だからマルコは父さんと呼んでいたんだ。化け物が私に正面から向き直る。そうか、マル コは父親に殺されたのか。あれだけ信頼し、依存しきっていた父親に。 崩れそうになる身体を両手で支える。右手が何か細長いものを掴んだ。次の瞬間、化け物が再 び跳躍した。真っ直ぐ私の方へ。私は何も考えずに手に握ったものを突き出した。衝撃。またし ても私の身体は弾き飛ばされた。背中に何かが当たり、それと一緒に床に身体が落ちる。目の前 で火花が散り、視界が一瞬だけ真っ暗になる。 「ギアオオオオオオオオオオオオオオオオ」 この世のものとは思えないような絶叫が館の中に響き渡った。私は全身の痛みを堪えながら首 を上げて叫びの聞こえる方角を見た。あの化け物が左胸を掴んで大声を上げていた。いや、正確 にはその胸に突き刺さっているものを握り締めていた。それは細い棒のようなものだった。化け 物はその格好のまま天井を仰ぐように仰け反り、絶叫を上げ続けた。 私は痛む身体を必死に動かして体勢を整えようとした。どうにか肘をついて上半身を起こす。 さらに両手で壁に手をつくと、下半身に力をこめて立ち上がろうとした。いける。大丈夫だ。私 はまだ動ける。そう言い聞かせながらゆっくりと身体を持ち上げる。どうにか立った。そして、 化け物の絶叫が小さくなっているのに気づいた。 私が立ち上がったちょうどその時、化け物の身体が仰向けに床へ崩れ落ちた。その喉から噴き 出されていた叫びはもう聞こえない。化け物は胸の棒を両手で抱え込むようにしたまま動きを止 めていた。いつの間にか廊下に弾き出されていた私は、そのまま飛ばされた食堂のドア越しに動 かなくなった化け物の姿を呆然と見ていた。 一歩、化け物に近づく。それは微動だにしない。いや、それどころか次第にその輪郭があやふ やになっている。もう一歩。化け物の外見はもうはっきりと判別のつかないものになっていた。 その身体が次第に崩れていく。さらに一歩。まるで溶けていく雪のように、化け物の姿は目の前 で次第に薄れていった。私は為す術もなくそれを見つめていた。やがて化け物は消え、その胸に 刺さっていた棒だけが残された。 あの宿り木だった。お守りとしてポケットに入れておいたその枝だった。先程、化け物に服を 切り裂かれた時にポケットから飛び出したのだろう。私はそれを無意識のうちに掴んで突き出し ていたのだ。魔法から人間を守る力を持つと言われる宿り木の枝を。金枝を。 「...Le roi est mort, vive le roi」 背後から声が聞こえた。私は慌てて振り返った。廊下の影から誰かが顔を出した。奇妙に人間 離れした印象を持つ人影だった。 「かくて森の王は死に、新たなる王が生まれる。黄金の枝を折り取った挑戦者が、女神の夫たる 地位を継ぐ」 「…カルロ」 その人物はカルロだった。彼は私を見ながら、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。それは私が 今まで見たことのない表情だった。いつものカルロの笑顔ではない。何が違うのだろうか。私が その疑問の答えを見出すより前にカルロが言葉を継いだ。 「本来なら古き王を殺す役目は兄さんのものだったんでしょうね。でも兄さんには無理だった。 まあ、仕方ないかな。兄さんは父さんがいないと何もできない人間だったからね。そんな兄さん が父さんを殺して新たなる王になるなんて、到底無理だったんだ。逆に、あっさりと殺されちゃ った」 「…カルロ」 カルロは私の言葉を無視して話し続けた。 「けど、これでよかったのかもね。父さんも兄さんも、所詮本物の『森の王』になれる人間じゃ なかったのさ。いや、本物の『森の王』なんてこれまで一度も存在しなかったのかもしれない。 かつてネミの森で他人を殺して王の地位を奪った連中だって、本物にはなれなかった筈さ。奴隷 の立場が嫌で殺人を犯したような連中が、本当の『森の王』がどういうものであるかということ に気づいた筈がない。彼らは全部、偽者さ」 「何を…言っている」 それは自分の声ではないようだった。しわがれ、低く、まるで血を吐くようなその声が、自分 の声帯から出てきたことに私は奇妙な感じを覚えた。カルロは親しげな調子で答えた。 「もちろん、金枝篇の話ですよ。今朝方、別れ際に言ったじゃないですか。もう少し『森の王』 について話をしたかった、と」 「あ、ああ。そうだな」 「お話したかったんですよ。気づいてしまった『森の王』はどうなったのか。是非とも貴方の考 えを聞いてみたかったんです」 「い、今はそんな話をしている場合じゃないだろう」 「そうですか。僕はそうは思いませんね。今ほどふさわしい時はないでしょう。古き王が、麗し き神バルデルが金枝によって倒された今こそ、この話をするべき時じゃないですか」 「やめろっ」 私は悲鳴を上げていた。目の前の少年は、明らかに自分が知っている少年とは異なる。ここに いるのは、何か異常でおぞましい存在だ。人間社会にいてはならないもの。決して触れてはなら ない禁忌の存在。 「…やめるんだ。そ、それより他に生存者がいないかどうか確認しなくては」 私の声にカルロは無反応だった。私の全身を襲う恐怖感が強まる。私は必死の思いで声を絞り 出した。 「アントニオはどうした」 「…さあ」 「それじゃあの料理人は。彼はどこで何をしている」 カルロは黙って肩を竦める。 「ならエンリコだっ。あいつを呼んでくれ。私はあいつと話したいことが」 「ああ、エンリコさんですか」 カルロは満面の笑みを浮かべた。古代ギリシャの仮面劇に出てくるようなアルカイックな笑い を。 「…彼ならここに」 そしてカルロは手を振って何かを投げて寄越した。大きなものが私の胸元に飛び込んでくる。 慌てて両手でそれを掴んだ私は、手の中にあるそれを見て悲鳴を上げた。仰け反った私の手から 落ちたそれが重い音とともに床に落ちる。 それは切断されたエンリコの首だった。 「教皇庁もどうせ送り込むならもっと有能な人間を送り込むべきですよ。面白そうだから泳がせ ていたんですけど、ここまで役立たずだとは思いませんでした。僕のやっていることを止められ ないようでは、埋葬機関のメンバーとして失格でしょう。そうは思いませんか」 私はカルロの声も聞かず悲鳴を上げ続けた。ひょろ長い顔の男は、虚ろな眼で私を見ている。 その顔には恐怖がありありと刻印されていた。吸血鬼の仕業です。犯人は私が探します。そう言 っていた男は、今では物言わぬ骸となって化け物に弄ばれていたのだ。 そう、化け物だ。私はやっと理解した。目の前にいるこの少年は化け物なのだ。エンリコが話 していた吸血鬼。それこそがこのカルロという少年の正体なのだ。人間離れした運動能力。他人 の血を吸って生きる存在。そして、殺されても生まれ変わる永遠の亡者。私の悲鳴は止まらなか った。止められなかった。 「落ち着いてくださいよ。首が何だっていうんですか。フレイザー卿が金枝篇の中で紹介してい たじゃないですか。首を狩るのは豊饒を祈る儀式の一種だって。穀物の穂先を収穫するのと同じ ように、人間の首を切り取れば豊作をもたらすことができる。『類感呪術』ですよ」 「あ、あああ、ああ」 「もっとも、この男の首を取ってもあまりご利益はなさそうですけどね。それに、僕にとっては 別に豊饒も豊作もどうでもいい話ですしね」 「あ、か、かる…ろ」 「何ですか」 「お前…お前、自分が、何をして、いるのか、分かって」 「ご安心を。別に未開人のように豊作を祈る儀式をしている訳ではありませんよ。未開人が抱い ていた間違った観念連想など、僕は持っていません。そんな思い込みを持っている訳じゃないで すから」 「そ、そうじゃ、なくて」 「では何でしょう」 「ひ、人を、人を殺して」 「何だ。そんなことですか」 カルロはつまらなさそうに鼻で笑った。 「僕がこの下等な動物どもを殺したことが、そんなに気になるんですか」 「か、カルロ…」 「確かに、僕はエンリコさんを殺しましたよ。僕の周りを何やら嗅ぎまわっていたのでね。こん な役立たずですから無視しても良かったんですけど、僕の忍耐にも限界があるってことです。あ っけなかったですよ。何やら十字架を見せていたようですけど、しょせん法力に欠ける存在では さしたることはありません。僕を止めることなど不可能ですよ」 「な、なにを」 「エンリコさんだけじゃありませんよ。貴方が必死に調べていたあの日雇い労働者。あれも僕が やったんです。何、簡単でしたよ。それまでも何人かやっていたんで。ただ、困ったのは死体が 消えなかったことでね。まあ面倒だからそのまま放っておきましたけど、後で警察がかなり頭を 悩ませたみたいですね」 「なん、だとっ」 「アマーテさんもそうです。夜遅くに町に出たらいきなり話しかけられましてね。知り合いにあ んなところで会うとは思っていなかったので焦りましたよ。で、後で変なことを証言されるのも 困るのでそのまま殺りました。もっと困ったのはテレサおばさんです。僕が夜の散歩から帰って きたのを見られたみたいでねえ。坊ちゃん、昨晩はどこへ行っていたんですかなんて言われたも んですから、本当に吃驚しました。お蔭で昼間っから後を追って人影のない路地でとどめを刺さ なければならなくなりましたけど」 「お、お前。何てことを」 「あれも娘と同じでお喋りですからね。早いとこ黙らせる必要があったんです。目撃者を殺した のはそれだけじゃありません。運転手にも見られましたよ。こいつは死体が消えてくれたんで助 かりましたけどね」 「あ、あ」 「ちょうど、あの煩い署長を黙らせるために町へ出かける時でしたよ。まさかボタンが宿り木に 引っかかるとは思ってもみませんでしたけど。署長の方はさらに幸運でしたね。あの禿げが死徒 になってくれたのは本当にラッキーでした。お蔭で余計な捜査を差し止めることができました。 まあ、その後でヤツが町で大量の人間を襲って行方不明にしたのはいささか余分だったかもしれ ませんけど」 「ど、どういう意味だ」 「署長が私の代わりに血を集めてくれたんですよ。手加減が効かなくて多くの人間を消したみた いですけどね。しょせんは傀儡ですから、細かい心配りは無理なんです。でも、彼のお蔭でその 後はあまり無理に血を吸う必要がなくなったのは良かったですよ。楽でしたし。僕にしつこく言 い寄ってきたソフィアだけは、自分でとどめを刺しましたけど」 「や、やめ」 「で、最後は父さんです。父さんは死徒になりそこねましたね。もう少しだったんですけど。結 局は僕に血を吸われて化け物になって、次々と残った使用人を殺していきました。父さんが最後 に殺したのが兄さんですよ。皮肉ですね。父さんは一番愛していた息子を自分の手で殺めること になってしまったんです」 「やめろっ、やめてくれえっ」 私は叫んでいた。胸の奥が軋みを上げていた。これ以上、目の前の化け物を見ることはできな い。もうここにとどまるだけの余力はない。私の心が壊れる前に、またあの人形の国に連れて行 かれる前に、逃げる。逃げ出す。何としてでも逃げ出す。 気がつくと悲鳴を上げながらその場から走り出していた。後ろも見ずにロビーへ向かい、玄関 のドアを叩くように開ける。館の外は月明かりではっきりと照らされていた。私は走った。庭の 真ん中に自動車がある。おそらくマルコのものだ。運転はできないが、そんなことを言っている 場合ではない。あれに乗って逃げるのだ。この地獄からあの町へ。この国の外へ。私の故郷へ。 背中が殺気を感じた。私はほとんど反射的に身を投げていた。まるで戦場にいた時のように、 自分の身体が死を避けるべく適切に動く。背中の後ろを何かが凄まじい速度で通り抜けるのを感 じた。続いて前方で激しい音がする。首を上げて見ると、車の燃料が火を噴く瞬間だった。ボデ ィに長い槍が突き刺さっている。ロビーに飾ってあった武具の一つだろう。 震えながら身を起こし、振り返る。玄関に小柄な人影が立っていた。カルロだった。彼は両手 を広げ、天を仰ぐようにしていた。その瞳が大きく見開かれ、上空に視線を飛ばしている。彼は 全身を月の光に晒すように身を反らせている。私は痛む全身を無理やり動かして立ち上がった。 カルロが顔をこちらに向けた。その瞳が月光を反射して銀色に光る。 私は背中を向けて走り出した。門を出て、森へ。逃げるんだ。あの化け物から一歩でも遠く。 月が私の影を長く伸ばしていた。 森の中の道は起伏が多かった。あちこちに飛び出している木の根が私の足を取り、しばしば転 倒させた。全身が擦り傷まみれになっていた。服はあちこちが破れている。それでも私は足を止 めなかった。止める訳にはいかなかった。足を止める時は、殺される時だった。だから私は走り 続けた。 月の光も木々に遮られて森の中まではほとんど届かない。自分が何処を走っているかも分から ない。それでも私はよろめく足を踏みしめながら逃げた。息はとうの昔に上がっており、筋肉は すでに限界をこえてまともに動かなかった。にもかかわらず、意思の力だけで私は前へ進んだ。 森の中は静かだった。いや、何かの音がしたかもしれないが、私には分からなかった。心臓の 鼓動と激しい呼吸だけが、私に聞こえる全ての音だった。私に見えるのは、木々の隙間から僅か に漏れてくる銀色の光だけだった。私はただ逃げた。悪夢は終わらなかった。 背後に何かの気配がした。気のせいかもしれない。あるいはあの化け物が私の背中を見ながら 笑っているのかもしれない。いずれにせよ、私のやることは一つだった。私は悲鳴を上げながら 足を動かした。もう自分がどこで何をしているのかも判然としなくなった。ただ、はるか前方に 見える明かりに向かってまるで泥の海を泳ぐような思いをしながら進んだ。 唐突に視界が開けた。私は足を止め、崩れるようにその場にへたり込んだ。私の目の前には銀 色に輝く水面があった。それは湖だった。あの森の中にある小さな湖。エンリコと初めて出会っ たところ。カルロがディアナの鏡と名付けた場。その水面には、今綺麗な満月が逆さまに映し出 されている。 静謐とした空気がその場を満たしていた。ただ私の呼吸と心臓の音だけが、その空気を乱す異 分子だった。私は顔を上げて、湖面から視線を上方へ移動した。オークの森が黒く対岸にわだか まっている。そしてその向こうには遠景となっている山並み。薄明るいそのシルエットが星空と の境界をくっきりと描いていた。それは寂しい景色だった。それはどこか崇高な景色だった。 「その祭司が仕え、結婚した女神は、天空の神のまことの妻『天空の王妃』にほかならない。そ の王妃もまた、人里離れたアリチアの森ともの寂しい山々を愛し、晴れわたった夜空に銀色の月 の姿で浮かび、かの『ディアナの鏡』と呼ばれた湖の磨いたような静かな水面に映る自分の美し い姿を喜ばしげに見下ろしていたのである」 囁くような声が背後からした。私はゆっくりと立ち上がり、振り返った。カルロがいた。その 表情はとても穏やかだった。金枝篇の一節を語った彼は、私から少し離れた場所で足を止め、月 を見上げた。私は黙って彼を見ていた。沈黙の時が過ぎる。 やがてカルロが月を見たまま口を開いた。 「…ディアナは森の女神であり、そして月の女神でもあります。それは豊饒をもたらす母性の女 神であり、そして天空に輝いて下界を見下ろしている存在でもあるんです。それは自然の全てを 表象する存在。いや、人間が住むこの世界全体を表すものと言っても過言ではないでしょう」 そこにいるのは、カルロであってカルロではないように思えた。深い学識を持ち、穏やかな性 格を持って語る今はなき古き時代の学者。そんな人間が、カルロの姿を借りて私の前に現れたか のようだった。 「人々はディアナを通じて世界を見ていたのです。世界を理解するため、ディアナという存在を 作り上げたと言ってもいい。未開人たちは、ディアナという女神に自分たちを取り囲む全てのも のを託し、その永続を祈った。ディアナが生き続けることは、世界が生き続けることだった。未 開人にとってはそれが何より大切なことだったんです」 カルロは視線を下ろした。その眼には穏やかな光が漂っていた。彼は私を正面から見ながら言 った。 「貴方はあの教皇庁が送り込んできた男から、私の正体を聞いているのでしょう」 私は頷いて言った。 「…殺され、そして生まれ変わる吸血鬼」 「そうです。私は永遠を手に入れた存在です。多くの人間が追い求めた『嘆きの一撃』から逃げ 出した者。いえ、逃げ出した訳ではない。私は『嘆きの一撃』を受け入れたのです。受け入れ、 しかる後に復活をする。自らを傷つける聖槍と、その傷を癒す聖杯を同時に持つ者。死と再生の 螺旋を果てしなく描く存在。それがこの私です」 嘆きの一撃とは時間だ。カルロが言っていた言葉が思い出される。避けることのできない老衰 や病による死をもたらす時間。どんな権力者であっても、どれほどの生命力を誇る者でも、時間 の前には無力となる。人間には限られた時間しか存在しない。全ての人は時間という嘆きの一撃 によって、最後は死の床に横たわる。傷ついた漁夫王のように。 だが、あの吸血鬼は違う。エンリコはそう言った。吸血鬼は殺されて甦る。生まれた子供の魂 に潜り込み、やがて再び吸血鬼としての活動を始める。そう、彼はまさに殺されることによって 生き返る存在。聖杯に癒される漁夫王であり、ネミの森を永遠に支配し続ける森の王。 彼は再び月を見上げた。その瞳が月光を反射して銀色に煌く。彼の表情に、苦悶の色が浮かん だ。それは渇望。満たされない羨望。届かぬ願望。永遠の存在となったその男の顔に浮かぶ切な い感情に私は驚いた。彼ははるかな月を望みながら口を開いた。 「そう、私こそが本当の『森の王』なのです。だが、それは永遠を手に入れたからではない。死 んでも再生できるようになったからではない。…気づいてしまったから。『森の王』というのが 本当はどんな存在であるか。女神とはいったい何なのか。そうしたことを知ってしまったから。 そして、知ってしまった以上、もはや引き返すことはかなわない」 彼はそう言って私を見た。私は凍りついたようにその場にとどまった。 「もう戻れないのです。真の『森の王』となった私にできることは、ただ求めることだけ。それ 以上のことはおそらく望むべくもないでしょう。ですが、私にも希望がない訳ではない」 彼の視線が強さを増した。それは私の身体を縛り付けるかのようだった。 「ネミの森で抜き身の剣をぶら下げて徘徊していた人間たち。彼らは自らをディアナの夫だと信 じていました。もちろん、それは滑稽な勘違いに過ぎない。本当は彼らはディアナの夫ではない し、森の王でもない。単に抜き身の剣で殺し合いを演じただけのピエロです」 「…………」 「彼らが何をしようと、世界で起きていることとは何の関係もないんです。だが、彼らはそうは 思わなかった。昔の人間は自然の向こうにディアナという女神を見出した。豊饒をもたらすのが 女神だと思った。だから、未開人たちは女神の夫となるべき人間を選び出し、彼と女神の聖なる 婚姻を祝った。男と女がまぐわえば子供が生まれる。それと同様に、女神とそれを祭る祭司がま ぐわえば、自然は豊かな恵みをもたらす。それこそがフレイザー卿の見出した未開人の発想法で す。それが森の王のレゾン・デートルです」 「…………」 「しかし、事実は違う。若い生命力のある男が自らをディアナの夫だと信じたとしても、それで 作物が豊かに実ることはない。家畜が多くの仔を生む訳でもない。木々が生い茂り、季節がきち んと巡ることもない。彼らは単に思い込んでいるだけです。事実でなく、己の信念だけで自らの 行動に意味を見出す。それが人間です」 「…………」 「昔も今も人間とはそういう存在です。自分の周囲に存在する事実をそのまま見るのではなく、 自分が納得できる理屈をつけて理解しようとする。季節が巡るのはなぜか、穀物が豊かに実るの は、家畜が仔を沢山生むのは。人間は理由を求めるんです。意味を求めるんですよ。だから、人 間はディアナを生み出した。豊饒の女神が豊かさをもたらすのだ。そうやって理由をつけ、自分 を納得させる」 「…………」 「挙句の果てには、そのディアナの夫となった人間にも同じ力があると思い込んだ。自分が世界 を支配していると思い、自分の生命力が世界を動かしていると信じ込んだ。そして、そんな人間 が衰えて死ぬのを避けるために、殺し合いの風習を作り上げた。それが森の王です。それが人間 です。己の奇妙な思い込みを真実だと勘違いして、その捻じ曲がった信念を周囲に押し付けなが ら生きている。そう、歴史に残らない昔から今現在に至るまで、人間はそうやって生きてきたん です」 「…………」 「人間は意味を求めてきた。世界に存在する剥き出しの現実でなく、そこにある理由を。因果関 係をきちんと位置付け、自分の周囲にあるものをあるべき場所へ整理してくれる『意味』を。フ レイザー卿は言っています。ギリシア人は、自然のもろもろの力を擬人化し、冷たい抽象的な自 然を想像力の暖かい色で染め上げ、自然が突きつける剥き出しの現実に神秘的な幻想の絢爛たる 衣をまとわせた。そう、現実を暖かい色で染め上げる。それが人間のしてきたことです。それが 絶えざる人殺しの歴史となった『森の王』が生まれた理由です」 「…………」 「貴方だってそう思っているんでしょう。人間の愚かさに気づいている筈です。過去の、だけで はなく、今の人間の愚かさにも。確かに、現代の人間は女神に祈ることはない。豊饒をもたらす のは女神でなく、様々な気象条件や地質条件であることを知っています。でもね、人間の抱いて いた奇妙な思い込みが消えてなくなった訳じゃないですよ。未開人の発想法と似たようなものは 今でもある。人間が事実を見るのではなく、意味を求めて生きていることは貴方だってご存知の 筈です。身をもって思い知った筈です」 私は彼の言いたいことに気づいた。そうか、そういうことか。 「現代の女神。それは国家だったり、主義主張だったりします。ファシストたちは何と言ってい ますか? 偉大なる国家のために。共産主義者は? 革命のために。なぜか。意味が欲しいから です。自分たちの活動や発言や、時には命をかけた行動が、何か重要なもののためであると思い 込みたいからです。でも、彼らが求めているものは果たして豊饒の女神ほど実体のあるものなの でしょうか。国家や革命のために命をかけて、それが果たして現実にどのような影響を及ぼすの でしょうか。人間の死は単なる死でしかない。人が死んだからと言って国家や革命が生きるとい う訳でもない。国家も革命も所詮、人間の頭の中だけにあるものです。もし世界中の人間がその 存在を否定すれば雲散霧消してしまう。その程度のものです。なのに人間は国家や革命を求めた がる。そうしないと意味が失われてしまうからです。世界から意味が消えてしまうからです」 彼は淡々と言葉を紡ぐ。私は何も言えないまま立ち尽くしていた。そうだ。彼の言う通りなの だ。私はそれを思い知った。あの塹壕を這いずり回った戦場での日々において。国のためにと思 って軍に志願した我々を待っていたのは、ただ無意味に人が死んでいく場所だった。そこで私た ちの思い込みは散々に打ち砕かれた。何より、私たちの死が国家の栄光と戦争の勝利に全くつな がらないことが、私たちを打ちのめしたのだ。戦争は、ただの大量死でしかなかった。そこには 何の意味も価値もなかった。ただ惨い現実だけが存在した。剥き出しの現実が、私の心を打ち壊 した。 私は彼を見た。彼は静かに頷き、言葉を発した。 「もし未開人たちが、自分たちの儀式が世界の豊かさと何の関連もないことに気づいたら。豊饒 を得るために他人を殺し、王を殺し、首を取り、そうまでしてきたことが全く無意味だと思い知 らされたら。彼らはどう思ったでしょうか」 それこそ私が現実に陥れられた状態だ。塹壕の中で私が見たもの。世界から意味が失われ、自 分のしていることが、自分を取り巻く現実が、全ての土台から離れてしまった状態。愛国心や勇 気といった神秘的な幻想の絢爛たる衣が消えて、なまの死体だけが転がった状態。 私は彼を見た。彼は黙ってこちらを見ている。唇が震える。そうだ、確かに意味はない。この 世界は人間の意味を拒絶したところに存在する。彼の言う通りだ。だが。 微かに風が吹いた。私の脳裏にこの国で出会った人々の姿が浮かんだ。酒場で賑やかに酒を飲 んでいたマルコ。掃除をしながら忙しく口を動かしていたソフィア。悠然とした態度で礼儀正し く乾杯の音頭を取ったロドリゴ。現場を調べながら鋭い目でこちらを見ていたニコロ。そして、 真っ直ぐな瞳で私を見て、胸を張って生きていたエレナ。 人間は今いるところで頑張るしかない。彼女の声がした。そうだ。確かに人間は剥き出しの事 実を見たくないがために必死で意味を探している。理由を求めている。だが、それはつまり意味 のある世界こそが人間の今いる場所だということでもある。生まれてきた赤ん坊には大人たちが 言葉をはじめ様々なことを教える。それは赤ん坊に意味を与えるためだ。そして赤ん坊は人間に なる。意味のある世界で自らの生命を生き始める。今いるところ。それは決して意味が消え去っ た人形の国ではない。感情を持った人間が生きる場所こそ、それこそが私のいるところだ。私が 再び歩き始める起点となるべきところだ。 私はゆっくりと口を開いた。 「そう、自分がしていることの無意味さに気づいた未開人もいたかもしれない。だが、そいつは その無意味さに耐えられなかっただろう。彼にできることはない。ただ、森の王であることをや めるしかない。森の王をやめ、新しい意味を見つけるのが、彼にできる唯一のことだ」 男が眼を見開いた。その口元が震える。私は黙ってその姿を見た。これが私の結論だ。戦場で 血に塗れて這いまわり、狂気の世界で苦しみながら、最後に得た結論。この答えに悔いはない。 男は再び視線を上げた。彼の目が月を捉える。その瞳に浮かぶのは絶望の思い。男の口がわな なき、言葉を紡ぐ。 「…そうか」 男は視線を月に据えたままゆっくりと両手を上げていく。 「そうか、貴方も理解してくれなかったのか」 男の両手が真っ直ぐこちらに向けられる。その眼は以前として月だけを見ている。 「…ならば、やむを得ない」 男が視線を戻した。その眼は銀色に輝いていた。その顔はもはや人間の顔ではなかった。そこ には化け物が存在した。吸血鬼という名で呼ばれる化け物が。 「お前も殺すまでだ」 男が瞬時に動いた。反射的に身体を飛ばす。衝撃が私を襲った。激しい音が響く。私は必死に 体勢を立て直そうともがいた。足が何かを踏みしめた。そのまま立ち上がる。水音がして自分の 身体が湖面から出た。いつの間にか湖に落ちていた。腰まで水につかりながら私は男の影を求め て周囲に視線を走らせた。 そして、私の身体は凍りついた。 「お…」 湖畔を何かが歩いていた。金色に輝く長い髪をなびかせ、真っ白いドレスに身を包んだそれは まるで宮殿を歩いているかのように優雅に足を進めていた。湖面を渡る風が髪を舞い上げる。ド レスの裾が踊るようにそれの周囲を回る。ゆっくりと、ゆっくりと、それはこちらへ近づいてき た。 「お…お」 それの肌の色は月明かりの下で真っ白に見えた。まるで誰も触れていない処女雪のように。銀 色の月光を浴びてその肌はこの世のものとは思えないような光を放っていた。それが動くたびに 肌合いが微妙な光を反射し、私の眼を射た。それは現実に存在してはいけないかのように思える 光だった。 「おお…お」 軽やかな動きだった。重力を感じさせないかのような足の運びに私の眼はそれから引き離せな くなった。動きにくそうな服装にもかかわらず、それは足元の不安定な湖畔の地面をとどまるこ となく進んでいた。背後の森がざわめく。遠くに見える山並みが揺らいで見える。それはただ真 っ直ぐに近づいてくる。 「お、おおおお」 唸り声のような音が気になったが、私の視線はそれから離れなかった。長い髪を揺らしながら 近づくそれは、次第に輪郭がはっきりしてきた。女に見える。だが、それはあくまで形が女に見 えるというだけだ。私にはそれが女とは思えなかった。それはまったく別の何者かだった。そも そも人間だとは思えなかった。そんなものとは遠く隔絶していた。決して手の届かぬ、求めても 得られぬもの。人間とは異質すぎて、人間など視界に入れることすらないような存在。 「おおおお…おお、よくぞ」 柔らかな身体のラインを見せるそのドレスが、再び風に舞った。それが一歩一歩こちらへ近づ いてくる。真っ直ぐこちらへ。いや、違う。こちらではない。それは私の方に向かってきてはい ない。それの視線はずれている。こちらではなく、少し離れた場所を向いている。誰かの声が聞 こえる方角に向かって、それは音もなく進む。まるで現実の光景だとは思えない。夢の中にいる かのような。 「よく、よくぞ来た」 それの姿が私の眼にもはっきりと分かる。真っ白い肌、真っ白いドレス、金色の髪。それはひ たすら音もなく進む。その表情を捉えられるようになって、私の心は何かに縛られたようになっ た。そこに浮かんでいたのは人間の感情ではなかった。何か別のものがあった。人間の理解など 及ばぬものがあった。それはあまりにも我々とはかけ離れていた。遠すぎて手を伸ばすことすら 適わないような場所にある何か。意味の世界を遠く置き去りにしたもの。 「よく来てくれた、真祖の姫よ」 それが立ち止まった。それの目の前にはあの男がいた。男は真っ直ぐそれを見ていた。その顔 を見て、私はただ呆然とするしかなかった。男は歓喜の表情を浮かべていた。いや、そのような 生易しい言葉では表しきれない。男の顔に浮かんでいたのは、永遠にも及ぶ長い時間待ち焦がれ たものと出会った時に浮かぶような法悦。あるいは死に臨んで人が浮かべる喜悦か。男の前で止 まったそれが、ゆっくりと手を振り上げる。 「…我が、天空の王妃よ」 手が振り下ろされた。その手が男の胴体に吸い込まれた。鈍い音がした。男が顔を仰け反らせ た。男の両手が大きく広げられた。まるで愛しい人を迎えるかのように。何かが宙を舞った。手 を振り下ろしたそれの顔とドレスに、いくつかの飛沫が飛んだ。その飛沫は白い肌と白い服に黒 々とした点描を記した。男の背中から何かが突き出していた。それの手だった。それは男の胸を 自らの手で貫いていた。 「私の…」 男は遠く月を見ていた。その瞳に浮かんでいる思いが私の心を突き刺す。羨望。憧憬。歓喜。 尽きることのない願い。消えぬ想い。届かぬ望み。適わぬ憧れ。決して満たされることのないそ の感情が吹き荒れる。男の手が天空に向けて伸ばされる。男は求めていた。ただひたすらに求め ていた。絶対に手に入れることが適わないものを。乗り越えられない深い溝の向こうにある何か を。男が最期の力をこめて、言葉を発した。 「…ディアナよっ」 風が吹いた。男の身体がその風に伴われるようにさらさらと崩れていった。銀色の光の下、男 はまるで空気に溶けるように消えていった。風が止んだ。何も残らなかった。白いドレスをまと ったそれが突き出していた手を下ろす。私はただ立ち尽くす。それがゆっくりと頭を巡らせた。 その視線が私を捉えた。 血のように赤い瞳が私を見た。 どれほどの時間がたったのだろう。それはやがて私に背中を向けて歩き出した。白い姿と金色 の髪がゆっくりと視界から消えていく。物寂しい山々が見下ろす地へ、オークが繁る森の中へ、 月光が照らす静寂の世界へ。 その姿は、とても…