Epilogue...



 男は目を覚ました。あたりはひたすら静かだった。男の身体は冷え切っていた。全身の傷から
かなり血が失われているのは間違いない。古き森の王を殺そうとした挑戦者によってつけられた
傷が疼く。いずれ避けられぬ死が男に訪れるだろう。男にもそれは分かっていた。
 横たわったまま男は目の前に視線を凝らした。そこにあるのは湖面だった。ディアナの鏡と呼
ばれる美しい湖が、夜の静寂の中で静かにたゆたっていた。湖畔に生える木々と、その向こうに
見える山並みが逆さまに湖面に映っている。
 そして、その真ん中にディアナがいた。ディアナが自らの姿を鏡に映していた。銀色に輝く円
盤は、水面の上でゆらゆらとゆらめきながら輝いていた。それは月の女神。かつて男の妻であっ
たもの。男が祭司として仕えた存在。
 男はうめいた。心の中で叫んだ。ディアナよ、俺に力をくれ。俺は死にたくない。まだ森の王
でいたい。お前に仕える祭司として、お前と聖婚する王として、生きていたいんだ。だから力を
貸せ。たのむ、俺を助けてくれ。
 湖面は静かだった。そこに映る銀盤もまた、沈黙を守っていた。男はもう一度叫んだ。声には
ならなかったが最後の力を振り絞って呼びかけた。助けてくれ。頼む、俺を助けてくれ。死にた
くない、死にたくないんだ。湖面は何も答えなかった。男は動かぬ身体を無理やり動かして救い
を求めた。返事はなかった。月はただ静かに己の姿を水に映していた。

 疲労困憊した男は、やがてぐったりとなって首を落とした。男の眼から涙が溢れる。そうだ。
やはりそうだったんだ。女神などいない。あそこにあるのはただの水溜りだ。その周りにあるの
は役立たずのオークだし、おまけに空には無意味に月が浮かんでいやがる。こんなものに何の意
味がある。こんなものを崇めてどうする。
 男は自嘲していた。他でもない。そんなものを崇めていたのは男自身だ。男自身がここに女神
がいると信じて行動していた。いや、本当は信じていなかったのだが、信じているように見せて
いた。周りの人間たちもそのような態度を取った。皆が自分を騙していた。この森の女神を崇め
れば、豊かな実りが得られると思い込もうとしていた。
 幻想だ。そんなのは偽りに過ぎない。女神などいない。いや、いたとしてもその女神は我々の
声になど耳を傾けることのない存在だ。誰が月まで声を届かせられるだろう。姿の見えない森の
女神とまぐわえるだろう。我々のやってきたことは、一人相撲に過ぎない。女神はあくまで人間
たちとは関係のない世界に存在し、人間たちとは違う空間で生きているのだ。矮小な存在である
自分たちには決して理解できない存在。絶対に隔たった場所にいるもの。それが女神だ。
 男は地面に突っ伏しながら苦笑いを浮かべた。今更気づいてどうする。そんなことが何の役に
立つ。俺はもう森の王ではない。いや、そもそも森の王なる存在こそが幻なのだ。森の王は女神
の祭司であり、その夫である。そう思っているのは森の王だけだ。女神はその哀れな男など一顧
だにしない。その存在にすら気づいていない。
 男の意識が遠ざかっていく。そうだ、俺はもう死ぬ。ここでただ無意味に死んでいく。それは
仕方ない。俺の生涯そのものが無意味だったのだから、死ぬときもまた無意味なのは当然だ。だ
が、最後に。せめて最後にもう一度、自分が崇め奉ってきた無意味なものを眺めたい。己がやっ
てきたことを振り返ってみたい。男はゆっくりと顔を上げた。湖面が男の視界に映る。そして、
静かに映る真円の月。

 男は眼を見開いた。目の前の景色をただ愕然と見守る。物寂しい山々が見下ろす、オークが繁
る森の中、月光が照らす静寂の世界。

 その姿は、とても…美しかった。

 男の心がざわめく。その心臓が激しく鼓動する。そう、美しかった。無意味な月が無意味な森
の中にある無意味な湖を照らす。ただそれだけの光景が、死にそうなほど美しかった。
 男はもがいた。そうだ。これが女神なんだ。俺がずっと崇めているつもりで、実はまったく見
ていなかった女神がここにいる。この森と、この湖と、この山と、この空と、この月と、その全
てが女神だったのだ。人間などと言うちっぽけなものには見ることすら適わなかった存在。世界
に遍くあるもの。いや、無慈悲で剥き出しの世界そのもの。それこそが女神だった。
 欲しい。男は叫んだ。俺は欲しい。この女神が欲しい。男の心にかつて抱いたことのない身を
切るような欲望が宿る。死に至る羨望。死してもなお消えぬ憧憬。届かぬものだからこそ、己の
手に入れたい。決して人間など振り向きはしないこの女神を、何としてでも俺のものにしたい。
今度こそ本当に俺のものに。そして、そして俺は…。

「俺の…」

 俺は、真の『森の王』になりたい。

「ディアナ…よ」



 こうして森の王は死んだ。



                                天空の王妃 完



 当サイトのお仲間さんであるR/D様より拝領致しました。
 圧巻。そして圧倒。
 正直、月姫SSとしての括りが正しいものかとも思います。
 でも、このSSはロアという男がいなくては存在せず、その意味ではここまで月姫SSらしいものはないでしょう。
 どちらかと言えば長編が苦手な私ですが、後半は止まらなくなりました。

 よく古典や古書の延々とした引用をするSSで嫌気を覚えたことはないでしょうか。
 作者の知識をひけらかすだけの材料に思えて鼻についたりすることがないでしょうか。
 そんなものとは違う「本物」がここにあります。
 これを読みながらこの話の根幹部分になる『金枝篇』を知る必要も、これで教えられる必要も、理解しようとする必要もありません。
 私はそう思います。勿論、知っていると知らない人よりも数倍もの面白さを感じることができますが。
(因みに私は大まかな有名なとこの話の簡略化されたものをいくつか知るだけの知識です)

 月姫SSではあるけれど、月姫SSを読む人が求めるものの範疇を越えたSSではないでしょうか。
 率直な感想としては最初の事件が起きるまで読んで引き込まれるか、それより前で敬遠するかのどっちかだと思います。
『吸血大殲』のような活劇もいいですが、宜しければこういう吸血鬼SSも好きになってみては如何でしょうか。
 時間を忘れます、思わず。
 こういうのが苦手な方は仕方ありませんが、そうでない方には是非読んでもらいたい一作だと思いました。

 R/D様、本当にありがとうございました。


R/D様のHP



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