VI 目が覚めた。壁にしつらえられた時計を見る。この館に来て以来、こんなに早く起きたのは初 めてだ。昨日はほぼ一日中森を徘徊していたため、自分で思っているより身体が疲れていたのだ ろう。ソフィアの部屋から戻ってベッドに横たわるとすぐに眠りに落ちた。夢は見たかもしれな い。だが、何も憶えていない。 部屋を出て階下へ向かう。ロビーにはロドリゴのものらしい荷物を持ったアントニオがいた。 彼は私の顔を見ると黙って会釈した。食堂の方角からすでに身支度を終えた彼の雇い主が歩いて くる。私は声をかけた。 「もうお出かけですか。早いですね」 「これはおはようございます。生憎と本日も外せない仕事があるもので、残念ながらお相手はで きないかと思いますが」 「構いませんとも。それよりソフィアの件なのですが」 「彼女がどうしましたか」 ロドリゴは玄関のところで足を止めてそう言った。今日も運転手役を務めるアントニオは、既 に扉に手をかけている。私は彼らに近づきながら話した。 「随分と疲れている様子でしたから、今日は休ませてはいかがでしょうか。我々の世話について は気になさらずとも結構ですから」 「これは申し訳ない。そうしていただければ大変にありがたいですな。本来ならいなくなった使 用人の穴を埋めるために早急に誰かを雇うべきなのですが、なかなかすぐにというのは難しいも のですから」 「構いませんよ。お忙しいところを引き止めて申し訳ありませんでした。どうか、お気をつけて 行ってらっしゃい」 「ありがとうございます。それでは」 紳士は完璧な礼を返すと、ドアの外へ出て行った。アントニオを引き連れて歩く彼の歩調は、 初めて見た時と同様に悠々としている。朝の爽やかな空気の中、アントニオの運転する自動車は エンジンの音を響かせて門の外へと走り去っていった。 とりあえずこれでソフィアとの約束は果たした。私はそう思いながら館の中へと戻った。彼女 から得た情報の分くらいは返せただろう。これであと話を聞くべき使用人はあの料理人だけとな る。私は厨房へ向かった。 途中でばったりと出会ったのはカルロだった。彼は私の顔を見て、今日は早いですね。食堂へ 行くんですかと聞いてきた。厨房に行くと事実を言っても良かったのだが、何をしに行くのかと 問われると答えるのが面倒になる。曖昧に頷いてごまかそうとしたが、カルロはそれなら一緒に 行きましょうといって並んで歩き始めた。 食堂には既にエンリコがいた。彼も今朝は早くに目が覚めたようだ。ちょうど彼のための朝食 を配っていた料理人は、入ってきた私たちを見てしばらくお待ちください。すぐにお二方の分も 用意しますので、と言って厨房へ向かった。話しかける暇もなかったし、カルロとエンリコの前 で変なことも聞けない。成り行きのまま、私はテーブルにつくことになった。 「いい機会なので申し上げますが」 カルロが私とエンリコを見て話しだした。トーストを口に突っ込んだ格好のエンリコがカルロ に視線を向ける。 「できましたら、今日は外出を控えていただけますか」 カルロの声はいつものように平静で、単調だった。その顔には特段の表情も浮かんでいない。 有能な事務員が帳簿を読み上げるような、そんな雰囲気だった。私は感情の読めない彼を見なが ら聞いた。 「どうしてかな」 「運転手が行方不明になった件について、父が今日警察に話をする筈です。場合によっては警官 がこの屋敷に捜査に来るでしょう。その際に、ボタンの発見者であるお二方に居ていただいた方 が、警察にとってもいいと思うからです」 カルロはそこまで話して、口元に愛想笑いらしきものを浮かべた。それは実に下手な愛想笑い だった。 「…善意の市民として、警察へのご協力をお願いします。運転手の身に何が起きたかを早急に知 るうえで、お二方の証言が役立つこともあるでしょうし」 「それは君の父上のお考えですか」 トーストの欠片を飲み込んだエンリコがそう問う。カルロは頷いて答えた。 「父の考えであり、私の考えでもあります。お客さんにこのような無礼なお願いをするのは気が 進まないのですが、どうかご協力をいただけませんでしょうか」 「そういうことでしたら、やむを得ませんかね」 エンリコが呟くように答えた。私も黙って頷いた。内心では舌打ちしたい気分だった。本心を 言えば、料理人の話を聞いたらすぐに町へ行ってニコロと情報交換をしたかった。だが、カルロ の言うことも筋が通っている。もし警察がこの屋敷に来た際に、ボタンの発見者である私が不在 であれば、いらぬ疑惑を招く可能性すらある。ここはとどまるしかないか。私は内心でため息を ついた。 料理が運ばれてきた。苛立ちが表に出ないよう敢えてゆっくりと食事を摂る。三人は黙って料 理を片づけた。交わされた会話はただ一つ。マルコはどうしたんだろう。多分、まだ寝ているの でしょう。 食事が終わるとエンリコは調べ物があると言って部屋に戻った。カルロは私が食べ終えるのを 待っていたように口を開いた。 「それにしても、ボタンが引っかかっていたのが宿り木とは驚きましたね」 「…ああ、金枝か」 私は彼が何を言いたいのかに気づき、そう答えた。カルロは頷き、言葉を継いだ。 「麗しき神バルデルを殺せるただ一つのもの。オークの神ユピテルの魂が宿る存在。そして、挑 戦者が森の王を殺すために、必ず手折らねばならなかったもの」 「宿り木には魔力がある。聖ヨハネの日、つまり夏至の前夜に採取した宿り木は魔除けの効果を 持つ。フレイザー卿はそんな話を紹介していたな」 ネミの森にいる祭司、つまり森の王を殺すためには、まずその森にある聖なる木の「金枝」を 折り取る必要があった。それを折り取ることで、初めて挑戦者は王に挑戦する資格を得る。フレ イザー卿は著作の中で、その金枝とは宿り木のことではないかと推察している。特にオークの木 に寄生した宿り木こそが「金枝」なのだという。オークに宿り木が寄生するのは珍しい。だから こそ、昔からヨーロッパではこの木が迷信的な崇拝の対象になってきた。 「その魔力を持つ宿り木に、行方不明になった男のボタンだけが残されていた。何とも意味あり げな話ですね」 「そうだな。もし彼が殺されたとして、その死体が既に始末されていたとしても、宿り木に残さ れたボタンが犯人の罪を告発しているって訳だ。犯人にとっては嫌な話だろうな」 「さあ、どうでしょう。確かにボタンは見つかりましたが、それで犯人が分かるとは限りません し」 「まあな。彼が殺されたという確証だってない。君は彼がどうなったと思う?」 「分かりませんよ。ただ、何も言わずにどこかへ行った可能性は小さいと思います。彼が仕事に 満足していたかどうかは分かりませんが、結構長い間、父に雇われていましたから、それなりに 信頼に値する人物ではないでしょうか。黙って立ち去るような人ではないと思います」 「それは君の父上の評価だろう。君自身はどうなのかな」 「彼はほとんどいつでも父と一緒に行動していたんです。僕はあまり親しくしていた訳でもない ですしね。どういう人物かと聞かれても答えようがないですよ」 カルロの答えは相変わらずだった。彼にとっては運転手より宿り木の方が関心の対象であるよ うだった。 「…宿り木を折って」 「え?」 「宿り木を折って、森の王を倒した挑戦者は、何を求めたんでしょうね」 「何を、とは」 「新たな森の王になることに、どんな意味があったのかということです。称号こそ王ですが、実 際は小さな森の祭司に過ぎません。しかも、いずれは新たな挑戦者によって殺されるのが分かっ ているんです。それでも王になることに、どんな意味があるんでしょうか」 「さあ、私は森の王になったことはないから、よくは分からないがね」 そう言って笑ってみせたが、カルロは生真面目な顔でこちらを見ているだけだった。私は咳払 いをして話を続けた。 「…確か『祭祀からロマンスへ』には、それについてのウェストンの説明が載っていたな。フレ イザー卿がどこかの雑誌に書いた、王の地位についた七年後には必ず殺されるアフリカの王の話 を紹介していたと記憶しているよ。その地位に対して住民から沢山の奉納物が送られることにな っているため、王の志願者はいつでも大勢いたんだそうだ。森の王は決して不人気な役職ではな い。ウェストンはそう結論づけていた」 「ええ、そうでしたね。それにネミの森の王になるのは奴隷の立場にある人間だった。奴隷とし て生きるのと、限られた命とはいえ王の立場に座るのと、どちらがいいかという選択ですか」 「奴隷としての生活が、死んだほうがましだと思えるようなものだったら、森の王になるのを選 ぶ者もいただろうな。耐え切れない現状からの脱出。それが森の王になることが持つ意味だった のかもしれない」 「個人的な理由、ということですか」 「彼を森の王に祭り上げた人間にとってはそうではないだろう。それこそフレイザー卿の言う通 り、森の王が持つ生命力が世界の豊饒と直結していたのだろうから。まあ、建前と本音が食い違 うのはいつの時代も同じってことかな」 「そうですね。でも中には本当に自分が森の女神の夫であると思っていた者もいるかもしれませ んよ」 「それはそうかもしれない。あるいは森の王になった後でそういう風に思い込むようになった者 だっていた可能性はある。自分の生命はいわば世界すべてを内包したミクロコスモスだ。自分自 身の健康状態が、世界の運命と直結している。そう考えていた森の王がいないとは言えない。も っとも、それは単なる思い込みに過ぎないのだけどな」 私はそう言って椅子を立った。金枝篇論議も悪くないが、目の前で起きている殺人事件を解決 するうえで役に立つことはない。そろそろカルロとの会話を切り上げ、あの料理人に話を聞いて みたかったのだ。食堂を出ようとする私に向かって、カルロが声をかけてきた。 「…思い込みに過ぎないと森の王自身が気づいていたら、どうなったでしょうね」 「何だって」 「自分は森の王でも何でもない。自然は人間がやっていることとは何の関係もないところで動い ている。その事実に気づいた森の王は、果たしてどう思ったんでしょうか」 「さてね。気づいたところでどうしようもないと思うがね」 私はそれだけ答えると廊下に出た。気づいた森の王はどう思ったか。当然、自分のやっている ことのバカバカしさを思い知った筈だ。だが、人間はたとえ自分の行為の愚かさに気づいても、 簡単にはその行為をやめられない存在なのだ。愚行はいつの時代にもある。つい最近まで私自身 がその愚行に巻き込まれていたのだ。戦争という名の愚行に。 厨房の扉を開けると、中からうわあっという叫び声が聞こえた。見ると小太りの料理人が悪魔 でも見るかのようにこちらに眼を向けている。部屋の片隅でしゃがみ込んだ格好で、背中をこち らに向け首だけ振り向いて。肉厚な背中に隠れているが、彼が何かを手に持っているのはすぐに 分かった。片手にあるのはコップ。液体がその中で揺れている。 私は黙って彼の方に近づいた。慌てて料理人は立ち上がってこちらを向いた。両手に持ってい た物を背中に回す。本人は必死にばれないようにしているつもりだが、その行為は全くの無駄だ った。彼の周囲から立ち上るアルコールの臭いが動かぬ証拠だ。手に持っているのは調理用の酒 だろう。 料理人は丸い顔に愛想笑いを浮かべて私の表情を窺っていた。その瞳は酒精のせいで霞がかか ったようになっている。どうやら、彼が調理場にあるアルコールをきこしめしていたのは今回だ けではなさそうだ。私は無表情で彼を見つめる。男の表情に不安感が十分に広がるのを見定めた うえで、にやりと笑ってみせた。 「なかなか楽しそうにやっているじゃないか。結構なことだ」 「へ、へへ。まあぼちぼちってとこです」 「なるほど。館の主人は朝食を終えるとすぐに出て行ってしまう。彼の息子たちも基本的に厨房 に立ち寄ることはない。そして、現時点では使用人も行方不明だったり休んでいたりして屋敷内 にはいない。一人で宴を開くにはちょうどいいタイミングだな」 「ま、待ってくださいよ。こりゃその、今度届いたこの料理酒をちょっと味見していただけで、 その、どんな料理に使ったら合うだろうかってのを」 「それを食事が終わった後に確認していたのか。味見なら料理の前でもできるだろう。何よりそ のコップに入っている量は味見に必要な分量をかなり超えているようだが」 「いやいや、こういうのはできるだけ沢山チェックしておいた方がよくて」 男の言葉を無視して私は彼に近づくと、抵抗する男からあっさりと酒の入った瓶を奪った。そ れを彼の目の前に突きつけて言う。 「半分もなくなっている。味見にしちゃ多すぎるだろう」 「だ、だからどうしたって言うんですか。お客さんにゃ関係ないことでしょうが」 誤魔化しきれないと思ったのか、男は不貞腐れてそう答えた。私は無表情のままその瓶をため つすがめつする。男は目の前で左右に動く瓶を眼の動きだけで追いかけた。男の表情に渇えが浮 かぶまで焦らす。戦場にはアル中が大勢いた。彼らが見せた行動と、目の前にいる料理人の態度 とは相通じるものがあった。男の関心が私から揺れる瓶へ十分に移ったところで、私は言った。 「…確かに、私には何の関係もないな。と同時に、私が屋敷の主人と使用人についてどんな話を するかも、君とは何の関係もない。さて、今夜あたり色々と積もる話でもするか」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ」 立ち去ろうとした私を慌てて男が押しとどめる。私は相変わらずアルコールの入った瓶を動か しながら言った。 「君の雇い主とではなく、君と話をする手もあるな」 「話? どんな話ですかい」 「べつにしたくないなら話さなくてもいい。その場合は」 「分かりやした、話します。何でも話しますって」 「そうこなくてはな」 私はそう言うと、勿体つけて瓶を男に返した。男はだらしない笑みを浮かべてそれを懐に抱え 込む。彼は先程まで座り込んでいた部屋の隅へ戻ると、床に置いていたコップを掴んで瓶の中身 を流し込んだ。再びアルコールの臭いが広がる。コップを一口舐めると、彼は振り返った。 「…んで、どんな話をするんですかい」 「そうだな。たとえば君がいつからここで雇われているか、なんて話はどうだい」 「今の旦那がこの屋敷を買った時からですよ。もう二十年くらいになるのかな」 「ほお。この屋敷の主人は生まれた時からここに住んでいる訳じゃないのか」 「そりゃそうです。ロドリゴの旦那の生まれは別に貴族でも何でもねえですからね。ここは元は この地域に古くからいた貴族が建てた館らしいんですが、没落して屋敷を売るはめになったそう ですよ。で、それを買ったのが今の旦那って訳でさ」 「ロドリゴさんは元はどこに住んでいたのかな」 「さあね。あたしゃそこまで詮索したことはねえもんで」 「しかし、これだけの館になるとかなりの金がかかるだろう。元から金持ちだったんじゃないの か」 「金を持っていたのは間違いないですけどね、その金をどこで手に入れたかになるとあまりいい 噂は聞きませんぜ」 「ほう。どういうことだ」 「犯罪すれすれのことをやった。まあそんなことが言われてますけどね。一代でのし上がった人 物だけど、昔何をしていたのかよく分からない。だからそんな噂が立つんでさあ。地道な仕事だ けじゃ、この館やあの工場を手に入れるのは難しいでしょうが」 「それはあくまで噂なのだろう。それとも証拠でもあるのか」 「ありませんよ。少なくとも証拠があるという話を聞いたことはありません。ただね、今の旦那 がそういうことをやったとしてもあたしゃ驚きませんぜ」 「なぜだね」 「威張って紳士面してますがね、ありゃ中身はかなり卑しい男でさ。何より金に汚い。とにかく がめついヤツです」 「そうなのか。その割には私のような異国人を無料で泊めたりしてくれているが」 「子供にゃ甘いんですよ。腹の中じゃ相当苛立ってますけどね、自慢の長男が連れてきた客とな ると断れない。昔っからそうでさ」 「エンリコはどうなんだ。彼自身が連れてきた客じゃないか」 「誰に頼まれたのか知りませんが、必ず見返りをもらっているはずでさ。断言してもいい。ヤツ 自身は見返りがなければ決して動かない男でね。その代わり、少しでも得になると判断したら猛 烈に走り出すんですよ」 男は得々と語った。私は彼を見ながら疑問をぶつけた。 「どうもお前の話は証拠がないことばかりだな。もう少し確信できる話はないのか」 「まあまあ。落ち着いてくださいやお客さん」 料理人はそう言って再びコップになみなみと酒を注ぐ。瓶の方はもう全体の四分の一も残って いない。コップを呷り、うめえと呟いた彼は再び私を見て言った。 「証拠って言うんなら、このあたしが証拠ですぜ」 「どういう意味だ」 「自慢じゃねえですが、あたしはそれなりに腕に自信がある。その気になればこんな田舎のしけ た屋敷じゃなくて、でっかい街の一流レストランで仕事をやれるだけの腕はあるんでさ」 「それは自慢にしか聞こえないな」 「あ、信じてませんね。信じてないでしょ」 どうやら明らかに酔いが回りつつあるようだ。こいつの脳がアルコール漬けになる前に話を終 わらせなければ。 「分かった分かった。それは信じよう」 「信じてないですな。言っときますけどね、これまでお客さんに出した料理はあたしの腕があっ たればこそどうにか食えるもんになったんですぜ。ここの旦那が使う食費じゃろくな食材は揃わ ない。それを何とかしていたのがこのあたしだ。いいですか」 「分かった。お前の言う通りだろう。確かに食い物は美味かった」 「でしょうが。なのに、吝嗇旦那のロドリゴはね、あたしの給料をまったく上げようとしない。 料理以外の力仕事までやらせて、しかも低い給料で働かせているんですぜ。いや、他の使用人も 同じだ。アントニオの野郎だってそうだし、ソフィアなんかもこき使われている割に貰っている のは僅かなもんだ。酷いもんです。そうでしょうが」 そんなに給料が安いならとっとと辞めて自分の腕を生かせるところへ行ったらどうだ。そう言 いたくなったが、私はどうにか思いとどまった。この男の身の上話などどうでもいいのだ。聞き たいことは別にある。 「おい」 「…しかもこいつがケチの癖に見栄っ張りとくる。ロビーに飾ってあった絵や色々なガラクタを 見たでしょうが。あれは全部あのケチが買ったんですよ。怪しげな由来のものを二束三文でね。 そんなのに使う金があるのなら、それでもう少し使用人を増やせばいいんだ。今の人数じゃね、 この広い館を維持しきれませんて。そのくらいのことはちょっと考えれば分かるだろうに」 料理人は私の反応を気にせず、一方的に話しつづけている。目つきもかなり据わってきた。こ れはまずい。私はもう一度強く呼びかけた。 「おい、聞こえるか」 「…へ、何ですかい」 「私がこの屋敷に来た日のことは憶えているか」 「へえへえ。憶えていますぜ。あれは、えっと、いつだっけ…まとにかく憶えてます。憶えてい ますとも」 「では、その日からちょうど一週間前のことはどうだ」 「一週間、前?」 「そうだ。その日、もしかしたらロドリゴさんは外泊したんじゃないのか」 「外泊。…はて、どうだったかな」 小太りの男は低い声で呟くと、コップのアルコールを呷ろうとした。中身が既に空になってい ることに気づき、瓶から注ぎ足そうとする。だが、瓶もほとんど空になっていた。男はふらふら と首を振ると、瓶の口から中を覗き込む。 「おい、返事をしろ。一週間前はどうだったんだ」 「ああ、うん。確かにそうだ。外泊したよ。うん。間違いねえよ」 「…………」 「畜生、もう無いのかよ。えーと、他にあったよな。うん、どこだっけ」 男は空の瓶を放り出すと。虚ろな眼を周囲に向けた。私はため息をついて言った。 「そういや私が到着した晩に出た料理はなかなか良かったな。ロドリゴさんも夕食の席で優秀な 料理人を自慢していたよ」 「そう。そりゃそうさ。あたしの腕はね、一流なんだからね。ああ。そういや、あたしゃ何を探 していたんだっけ」 「…じゃあな」 床に座り込んで頭をふらふらさせている料理人を置き去りに厨房を去った。私が到着した日、 ロドリゴは外泊して夕食の席には出なかった。当然、このアル中の料理を自慢することなどでき はしない。どうやら彼の脳はかなり酒にやられているようだ。アルコールが入っていない時はま だそこそこ働いているようだが、こうなっては話にならない。これ以上ここにいても実りはない だろう。 ただ、彼の指摘の中で頷かざるを得ない部分は確かにあった。これだけ大きな屋敷の割には、 明らかに使用人の数が少なすぎる。彼の言う通り館の主の吝嗇が原因なのか、それとも他に理由 があるのか。もしかしたら、ロドリゴ当人は必死に見栄を張っているが、内実はかなり苦しいの かもしれない。そうでなくても、今は労働争議のために工場は止まっている。彼が財政難に陥っ ている可能性は考えておいた方がいいだろう。 そんなことを思いながら食堂の前に来た時、中から声がした。覗いてみると、エンリコとカル ロ、それにいつの間に起きたのかマルコもいた。エンリコが立ち上がって長々と話をしており、 カルロは落ち着いた様子で彼の言葉を聞いている。マルコの顔色は青い。 「…だから、念のため様子を見るべきでしょう。もう昼なのですから」 「おっしゃることは分かります。しかし、いきなり部屋に入るべきだというのはいかがなものか と」 「万が一のためです。単に休んでいるだけならそれに越したことはありません。だが、万が一の 場合は早急な対応が必要でしょう」 「何の話ですかね」 私の問いかけに一同が振り返った。カルロは表情を変えずに説明する。 「ソフィアがまだ起きてきません」 「もう昼なんですよ。いくら疲れていると言ってもそろそろ起きてきていい時間でしょう。無事 かどうか確認すべきです」 力強く主張するエンリコ。マルコはそちらを不安そうな様子で見ている。私はカルロに視線を 戻した。カルロは少し首を傾げて言った。 「エンリコさんの言うことも分かるのですが、何しろ若い女性の部屋に男たちが大挙して押しか けることになりますからね」 「それでも無事が確認できればいいではないですか」 「まあ、そうなんですけど」 「待ってくれないか」 私は二人の会話に割って入った。 「…実は昨晩、私は彼女に薬を渡したんだ。よく眠れるようにってね。もしかしたらそれを飲ん でつい寝過ごしているんじゃないだろうか」 「ああ、その可能性はありますね」 カルロが頷く。エンリコは妙な顔をして言った。どうしてあなたがそんな薬を持っているんで すか。昔、不眠症だったことがあるのでね。私はそんな風に誤魔化した。エンリコは腕を組んで 考え込んだ。落ち着きのない表情で我々のやり取りを見ていたマルコが、おずおずと口を開く。 「…その、本当に寝過ごしているだけでしょうね」 「いや、それは断言できないけどな」 「まさか、まさかと思うけど、まさかまた殺されたりしているんじゃ」 「兄さん」 カルロが強い調子で兄の言葉を遮る。だが、その言葉は食堂の空気を一気に重くした。なるほ ど、エンリコが気にかけていたのはその可能性か。これまでの死者はすべてこの屋敷ではなく、 町で発見されている。だが、昨日行方不明になった運転手は、この館の近くで何らかの事故なり 事件なりに遭遇した可能性があるのだ。現場は次第にこの館へと近づいている。となると…。 「やはり、確認はすべきです」 腕を解いたエンリコが断言した。私もそれに頷いた。 「そうだな。万が一を考えるならその方がいいかもしれない。どうだろうか、カルロ」 一同の視線がカルロに向けられた。この場の決定権は、事実上彼の手にあった。私とエンリコ は結局のところよそ者であり、マルコは明らかに怯えていて適切な判断を下す能力がありそうに は見えなかった。というより、彼自身がそういう立場から逃げたと言ってもいいだろう。彼は長 男であり、父親のいない現状では自らの判断で行動を決めてもいい筈だった。だが、彼がやった のは不安そうな眼で弟の決断を待つことだけだった。 全員の視線を平然と受け止めたカルロは、やがて静かに頷いた。 「分かりました。では行きましょう」 決めてしまうと彼の行動は素早かった。カルロを先頭に全員がソフィアの部屋へ移動する。彼 がまず扉を叩いてソフィアを呼んだ。返事はなかった。ノックが数回繰り返され、その度に彼女 を呼ぶカルロの声が大きくなった。部屋の中からは沈黙しか戻ってこない。やがて大きく息を吐 いたカルロが我々に振り返った。 「やむを得ません。扉を開けます」 我々の返事も待たず、彼は扉を押し開けた。ドアはあっさりと開き、質素な室内の様子が目に 飛び込んでる。私は視線を慌しく動かした。いた。ベッドの上だ。目を閉じ、静かに横たわって いる。少女は一同の闖入にも動じることなく眠り続けているように見えた。 穏やかな表情に私が気を緩めた瞬間、エンリコがカルロを押しのけるようにしてベッドに近づ いた。彼はそのひょろ長い身体でのしかかるようにしてソフィアの姿を見た。おい、何をしてい るんだ。そう問い質そうとした瞬間、エンリコの口から罵りの言葉が漏れた。飄々としたこの男 が、そんな汚い言葉を使うのを見たのは初めてだった。私が愕然と立ち尽くしていると、エンリ コはゆっくりと振り返ってこちらを見た。表情を殺した彼は、低い声で私に言った。 「…ここをご覧なさい」 エンリコが指差していたのはソフィアの首筋だった。私の心臓が跳ね上がった。まさか、いく ら何でもまさかそんなことが。足を無理やり前に出し、ベッドに横たわる少女に近づく。首筋が 視界の中で大きく広がる。白く、つややかなその肌の上にある二つの醜い傷痕。 「…吸血鬼、だ」 マルコのかすれた声が部屋に響いた。 太陽は地上を穏やかに照らしていた。その太陽の恵みで地上の植物は豊かに生い繁っている。 今年の天候は極めて順調なのだそうだ。季節がきちんと巡り、雨と日光がもたらされている。こ れなら作物も豊かに実るだろう。豊富な食糧のおかげで家畜だって大いに繁殖できる環境だ。豊 饒の女神は自らの仕事を誠心誠意やり遂げようとしているのだった。 だが、地上を這いまわる人間たちにとって、順調に推移している自然の運行はまるで運命の皮 肉のように思えた。自然とは対照的に私の周囲には死が充満していた。ただの死ではない、おぞ ましい死が大きな顎を開いて私を呑み込もうとしているようだった。生命に満ち溢れた自然と、 死に襲われて恐慌をきたしている人間たち。何という差だろう。 私は屋敷の庭にいた。屋敷を囲む森は風のざわめきを遠く送る。空には鳥の囀りが響く。自然 に囲まれたこの地で私が待っているのは警察だった。この館には電話が引いていない。従って急 な要件であっても誰かが町まで行くしかないのだ。緊急事態だっただけに、自動車で行く必要が あった。だが、マルコは使えなかった。 ソフィアが殺されていることに気づいた一瞬後、マルコはパニックに陥った。誰だ。誰がやっ たんだ。畜生。俺は殺されないぞ。そう簡単に殺られてたまるもんか。彼はそう叫びながらじり じりと後ろに下がった。まるでその場にいた我々の誰かが犯人であるかのように。カルロが慌て て諌めようとしたが、全く耳を貸さなかった。いいか、俺は殺されないぞ。絶対に生き延びてや るんだ。くそっ。近寄るな。俺に近づくんじゃないっ。そんな風に叫びながら彼はソフィアの部 屋を飛び出した。 そうやってマルコが自分の部屋に立てこもってしまったため、町に行く役目は自動的にエンリ コのものとなった。私もカルロも自動車の運転ができない。あの料理人に任せるのも拙い。他に いないのだからと言われたエンリコは、しばし迷っていたようだったがやがて意を決するとすぐ に戻りますと言ってマルコの自動車に乗り込み、町へ向かった。 走り去った自動車の巻き上げた砂埃が収まると、そこは豊かな自然に囲まれたいつもの館が残 された。敷地を取り囲むオークの森は普段のように緑で、遠くに見える山並みも昨日と変わりな いスカイラインを描いている。私はそこにとどまってエンリコの帰宅を待つことにした。死体が 横たわる屋敷の中にいたくなかった。恐怖は、戦争のために神経が麻痺していた私にすらじわじ わと迫っていた。 玄関を開く音がした。振り返ると、カルロがゆっくりと出てくるところだった。 「来ましたか」 「いや、まだ見えない」 「そうですか」 私の答えに静かに頷くと、カルロは玄関脇の石段に腰を下ろした。そのまま小さく息を吐いて 空を見上げる。つられるように私も空を見た。上空を一羽の鳥がくるくると飛んでいる。ただそ れだけ。死体も行方不明者も関係なく、鳥は空を舞う。 「…マルコ君の様子はどうだった」 「ずっとあの調子ですよ。何を言っても誰も入るな。誰も入れるもんかの一点張りで」 「そうか」 会話は長続きしない。続けようがないだろう。マルコは自分の部屋で震えている。事件を知っ た料理人は度を失って厨房へ逃げ込んだ。マルコと同様にそこに立てこもろうという考えだろう か。それとも単にアルコールに逃げたいと思っただけなのか。いずれにせよ、今この館の中には 恐怖に怯える男二人と物言わぬ少女の死体が一つあるだけだ。とても入る気分にはならない。 「警察、いつ来るんでしょうか」 「もうそろそろじゃないのか。エンリコの運転の腕次第だろうが」 「父にも伝えた方がいいんでしょうね」 「だろうね。彼にもそれは分かっているだろう」 「でしょうね」 私はこの国に何をしに来たのだろうか。最初は単に遺跡を見ていただけだ。だが、もしかした ら遺跡だけ見て帰るつもりはなかったのかもしれない。異国で異邦人に囲まれていれば、その中 で感じる孤独がかえって私を正常に戻してくれるのではないかと、そう思っていた。石の壁と床 を通して人間を求めたように、聞きなれぬ言葉を使って他人の心を読み取ろうとした。迂遠で間 接的なやり方。だが、そうすることによって失った感情を取り戻せるのではないかとそう思った のだ。 だから、マルコと出会った後で、彼に言われるままこの町へ来た。どこかで人間と接点を作る ことを求めていたから。ここで出会った人々と、色々な会話を交わし、彼らの表情を見て、そう しているうちに昔の自分に帰れると思ったから。 しかし、現実はどうだ。私が出会った人間のうち、すでに三人は冷たい物体になり、一人は姿 を消した。陽気だったマルコは恐怖に怯える子供のようになっており、私の心の中にすら底知れ ぬ不安が膨らんでいる。何が起きているのだろう。誰がこんなことをしているのだろう。そして 私はこれからどうなるのだろう。 「…嘆きの一撃」 「え?」 カルロの呟きが聞こえた。振り返った私を見て、彼は説明した。 「いえ、何となく思い出したんですよ。アーサー王伝説の中の、聖杯探索の物語を。漁夫王が傷 を負って、彼の領土が荒れ野と化した理由についてね」 私はぼんやりと彼を見た。この非常時にいったいこの少年は何を言っているのだろうか。今が 聖杯伝説について話すべき時だと考えているのか。私の脳裏に浮かんだ疑問など気にもかけず、 カルロは言葉を続けた。妙に熱中した様子で。 「『嘆きの一撃』とか『災いの一撃』と呼ばれているものです。騎士ベイリンによって与えられ たこの打撃によって漁夫王は癒えない傷を負い、彼が支配する土地も荒廃国と呼ばれるようにな った。アーサー王伝説ではそう伝えていますよね」 私の方を見るでもなくそう話続けるカルロの表情は、どこか思いつめた感じがした。もしかし たら、これは恐怖を克服する彼なりのやり方なのかもしれない。連続殺人という異常事態に対し て、できるだけ関係のない話題を持ち出すことで嫌な現実から眼を逸らす。単なる逃避でしかな い。しかし人間という弱い存在にとって、他にできることなどあまりないのだ。 「ウェストンによれば、聖杯伝説でもっとも重要な存在は漁夫王です。傷つき年老いて衰えた姿 を晒している王と、その王が支配する荒廃した土地。水は流れず、作物は育たず、家畜も仔を生 まない国。そんな荒廃をもたらしたのが、王を傷つけた嘆きの一撃です」 「そうだ」 私は彼の言葉に相槌を打った。私にとっても、嫌な現実から意識を逸らすことのできる話題は 大歓迎だったのだ。 「もちろん、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』で分析の中心となっているのは、嘆きの一撃 の方ではなく、傷ついた漁夫王が聖杯探索の騎士によって癒される方の話です。でも、英雄によ って傷ついた王が癒されるためには、その前段階として王が傷つけられなければならないのもま た間違いないでしょう」 「確かにそうだな。しかし、古い聖杯伝説の中では何の説明もないまま傷ついた王が騎士の前に 登場するようだ。まあ、フレイザー卿の説を念頭に置くのなら、傷つけられた理由の部分が省略 されるのも分かる気がするけどな」 「なぜですか」 「要するに聖杯伝説とは、英雄の手によって衰えた王が再生し、それに伴って王の支配する自然 もまた豊饒を取り戻すという話だ。ウェストンはこれが昔から存在した儀式に基づいた物語では ないかと推察しているし、そうした儀式はフレイザー卿の言う共感呪術を信じていた未開人の間 で広く行われていたと考えている」 「ええ、そうです」 「つまり、元々の聖杯伝説に王が傷つけられる場面がないのは、未開人たちが王の再生を演じる 儀式のみ行って、王の衰えを再現する儀式はしなかったからだろう。未開人たちにとって重要な のは自然が豊饒を取り戻すことだ。衰える場面を演じる必要はない。そういう儀式がなかったか ら、王を傷つける物語もなかったんじゃないか」 「そうかもしれませんね。では、あなたは『嘆きの一撃』というものをどう解釈しますか」 「さてね。もしかしたら聖杯伝説がアーサー王伝説に組み込まれていく過程で辻褄合わせのため に作り出された話かもしれない。いや、これはただの思いつきだけどな」 カルロはしばらく黙って私を見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。 「…僕には、一つの考えがあります。これもまた思いつきでしかないんですけど」 「どんなものだい」 「漁夫王と同様に自然の豊饒との間に密接な関係を持っていたネミの『森の王』ですけど、彼が その地位を失うのは挑戦者に敗北した時ですよね」 「そうだな」 「なぜそんな慣習が残っていたのかというと、それは森の王が病気なり寿命なりで死んでしまう のを避けるためでしたね。どんな人でも、長い時間が経過すればやがて身体は衰え、死んでいき ます。王が衰えると王の支配する自然もまた衰える。まるで漁夫王が支配する荒廃国のように。 つまり…」 「つまり?」 「『嘆きの一撃』とは、誰も避けることができない衰弱や死をもたらす『時間』のことではない でしょうか」 「『時間』、だって」 私はカルロの顔を見た。カルロは何かに憑かれたかのような表情でこちらを見ている。 「そうです。時間こそが漁夫王の癒えない傷をもたらした『嘆きの一撃』だったんです。時間が たてば、人間は否応なく衰弱していく。時間の前にはどんなに裕福な者も、どれほどの権力を持 つ者であっても、抵抗はできません。いずれは時の流れに押しつぶされていく。やがては年老い て老衰で死ぬか、あるいは病に倒れる」 「そうだな。確かに昔から不老不死を求める権力者は大勢いたが、誰もそれを得ることはできな かった。それがつまり避けることのできない『嘆きの一撃』という訳か」 私の慨嘆に対し、カルロは歌うように話す。 「様々な時代、様々な場所に漁夫王はいたんです。彼は聖槍によってつけられた傷口から、決し て止まることのない血を流し続け、やむことのない苦痛に嘆いていた。時間という枷を逃れよう としながら、でもその目的を達成できなかった数多くの人間たちこそが漁夫王だったと、そう考 えることもできますね」 カルロは目を閉じ、遠くへ思いを馳せるように静かに息をついた。だが、私は彼の言葉の別の 部分が気にかかっていた。 「止まることのない血…」 流れ続ける血。開いた傷口からどんどん流出し、やがて全身から血が失われていく。物語の漁 夫王はそれでも死ななかった。だが、普通の人間なら死ぬ。いずれは体内にある限られた量の血 が全てなくなる。そして、全身の血を抜かれた死体が残される。 考えたくはない。考えたくなかったが、考えてしまった。ソフィアの首筋にあった二つの傷痕 は、彼女の母親やアマーテの首筋にあったものと同じだ。ならば彼女の血も全て抜かれているの だろうか。彼女もまた、吸血鬼と呼ばれる殺人犯によって殺されたのだろうか。あの若さと生命 力に溢れていたような少女が。 「…どうしたんですか」 青い顔をしている私の様子に気づいたのだろう。カルロがこちらの顔を覗き込むようにしてい る。私は大丈夫だと答えた。何かの音が聞こえる。その方角を見た。門のはるか向こうに砂埃が 舞い上がっている。 「やっと警察が到着したみたいだな」 私はそう言って門へと歩き出した。 車から降りてきた警官を見て私は唖然とした。その中にニコロがいたからではない。全部でた った三人しか来なかったからだ。どうやらニコロが現場の指揮を担うらしく、彼は私の方を振り 向きもせずに館へ進んだ。マルコの車から降りてきたエンリコを捕まえて私は聞いた。 「どういうことなんだ。なぜ三人しか来ない」 「もっと大勢寄越すように頼みましたよ。でもね、これだけしか出せないって言うんだから仕方 ないじゃないですか」 「なぜこれだけしか出せないんだ」 「知りませんよ。何でも人手が全然足りないとか言って喚いてましたけどね」 「足りないことはないだろう。殺人事件なんだぞ。あんな少ない人数でどうするって言うんだ」 「警察に聞いてください」 エンリコは苦虫を噛み潰したような顔で言った。私は頭をかきむしりたくなった。たった三人 の警官を見た時に、自分がいかに警察の到着を心待ちにしていたのか理解したのだ。警察が到着 すれば、心の中にある不安感が少しは治まるかもしれない。そう考えていた。それだけ恐怖に怯 えていた。だが、まさか三人とは。これでは却って不安感が募るばかりだ。 「…何か他に人手を取られているんだろうか。他に変な事件が起きたとか」 「かもしれませんね。じっくり観察する余裕はなかったんですが、町の様子はどこか変でした」 「どこらへんが変だったんだ」 「恐怖感ですね。皆どこか怯えた顔をしていた。なぜかは知りませんが…」 警官たちが屋敷内に入ったのを見て、我々も後に続いた。カルロの案内でソフィアの部屋にた どり着いた彼らは、とりあえず室内の様子を写真に収めている。ニコロが捜査陣を代表して発見 の経緯をカルロに聞いているようだ。警官の一人は彼らの様子を見ている我々に向かってどこか で待機しておくようにと述べた。私とエンリコは顔を合わせ、いったん食堂へ戻った。 やがて食堂には料理人もやってきた。カルロに言われて来たそうだ。足元が定まらないのは、 大量のアルコールを摂取したためだろう。にもかかわらず顔色は青かった。酔うことができない 様子だった。やがて、兄を連れたカルロも到着した。マルコはむしろ落ち着いた表情を見せてい た。警察の到着と聞いて少し安心したに違いない。 エンリコは町に行った際にロドリゴが経営する工場にも行ったそうだ。だが、彼は取引先のと ころへ出かけていたという。エンリコは伝言だけ残して先に警察を連れて戻ってきた。それほど 時間はかからずに工場へ戻ってくると言っていたから、いずれ彼も屋敷に帰ってくるだろう。エ ンリコはそう語って、食堂のドアを見た。 扉を見るのは彼だけではなかった。全員がそちらを気にしていた。正確に言えば扉を出て廊下 を進んだ先にあるソフィアの部屋で作業している警察のことを気にかけていた。やがて、疲れき った表情のニコロがゆっくりとそのドアを開けた。 「…ご苦労様です」 カルロが短く言葉をかけた。無精髭を生やしたニコロは黙って頷くと、空いた椅子に腰を下ろ して煙草に火をつけた。煙がゆっくりと天井に舞い上がる。目を細めてその動きを追っていた彼 は、やがて我々に向き直って口を開いた。 「これから皆さんの昨晩からの行動について話を聞かせてもらいます。よろしいでしょうか」 全員が無言で頷く。事情聴取が始まった。大まかな流れはカルロが系統立てて説明した。運転 手が行方不明になったところからスタートして、ボタンの発見、昨晩になってソフィアが貧血を 起こしたことと進む。他のメンバーは基本的に黙って聞いているだけだった。 「…で、貴方とそちらのエンリコさんとで被害者を部屋へ運んだと」 「はい。その後、エンリコさんは部屋に戻りました。私はしばらく彼女と話をしていましたが、 一時間ちょっとしたところで私もそこを去りました」 「それから後、彼女と会った人はいるんですか」 「ええ」 カルロが答えて私を見る。私は話を引き取って説明した。睡眠薬代わりになる薬を持ち歩いて いるので、それをあげようとしたと。その時の被害者の様子を聞かれ、私は一瞬戸惑った。私が ソフィアを訪ねたのは、彼女から情報を得ようとしたためだ。だが、そんなことをここで言う訳 にはいかない。とりあえず、かなりショックを受けていたようだから明日は休んだ方がいいと話 しかけておいた、とだけ述べた。中年の警官は無表情のままこちらを見ている。 「…被害者の部屋を引き上げたのはどのくらいですか」 「三十分もいなかったと思いますが」 「貴方が出て行く時には、彼女は生きていたんですね」 「はい」 「それ以後、彼女を見かけた人はいますか」 沈黙が下りる。全員が互いに目を合わせないようにしながら黙り込んでいる。私は、ようやく 自分の置かれている立場に気づいた。そう、生きていた彼女と最後に出会ったのは、この私なの だ。迂闊だった。これでは警察に疑われるのは間違いあるまい。後でニコロにはもっときちんと 事情を説明しなければなるまい。 黙って手帳を眺めていたニコロは、やがて大きく息をついて言った。被害者は全身の血を抜き 取られているようです。殺人事件に間違いありません。遺体はこちらの方で引き取って、解剖に 回します。よろしいですね。誰も何も答えなかった。カルロが無言で頷いただけだった。 あのくるくると忙しそうに仕事をしていた少女はもういない。速射砲のようにお喋りし、賑や かに動き回っていたソフィアという人間は、この世界から消えてなくなった。残されたのは何も 言わず、まったく動かない死体だけ。警察に引き取られ、解剖されて調べられるだけの存在。私 は目を閉じて、彼女の冥福を祈った。 最後にニコロが遺体の運び出しを手伝ってほしいと言った。すぐにカルロとエンリコが立ち上 がった。マルコは黙って食堂の椅子に座り、料理人は気分の悪そうな顔で俯いていた。私もニコ ロの後について行った。ソフィアの部屋では残る二人の警官がいまだに作業中だった。その一人 が立ち上がり、カルロとエンリコを招いて毛布にくるまれたソフィアの遺体を三人がかりで持ち 上げた。担架すら使わずに死体を運び出そうとしている。警官の数が少ないとはいえ、異常な事 態だった。 私がそれを手伝おうと足を踏み出すと、ニコロが私の肩を押さえた。もう少し聞きたいことが あるんですが。カルロとエンリコは我々の方を見ないようにしながら死体を運んで部屋から出て 行った。警官たちも消えた。中年男と私だけが残された。 「…どういうことだ」 それまで淡々とした表情を保っていたニコロが、露骨に不愉快そうな顔をした。私はようやく 得られた機会を逃さずに説明を始めた。ソフィアと昨晩会ったのは、彼女から情報を得たいと思 ったからだ。もちろん、マルコの父親に関する情報を得るためである。私がそう説明すると、ニ コロの表情がさらに険しくなった。 「そうだろうと思ったよ。だが、タイミングが悪すぎるじゃねえか」 「やむを得ないだろう。まさか彼女が殺されるだなんて思ってもみなかったんだから。それに、 彼女と話をするいい口実もあったんだから、それを逃す手はないと思ったのさ」 「あんたの言う口実ってのはこれか」 彼は私の前に薬瓶を見せた。私は頷いた。医者から処方されていた薬。昨晩、彼女に手渡した 瓶。中に入っている錠剤がからからと音を立てる。 「何であんたがこんなものを持っているんだ」 彼の問いに私は口ごもった。あまり話したいことではなかったからだ。しかし、ここで隠し事 は拙いだろう。自分の立場を考えるのなら、せめてこの中年警官の信頼ぐらいは確保しておく必 要がある。私はゆっくりと話し始めた。 「戦争の後遺症だ」 「何だって」 「シェルショックっていうのは知っているか? 簡単に言えば戦場で精神が壊されることだ。轟 音を上げて砲弾が降りかかり、周囲で大量の兵士が殺されていく。そんな光景を目の当たりにし ているうちに、おかしくなってしまう人間もいるんだ。私がそうだった」 「…………」 「言動が異常になった私は最前線の塹壕から後方へ送られた。治療のかいがあったのか、やがて おかしな振る舞いはしなくなった。でも、決して元に戻った訳じゃない。平常に見えるが、いつ また再発するか分からない。そう思ったから医者が薬を寄越したのさ。とにかく、自分で拙いと 思ったらこの薬を飲んで寝ちまえってね。寝ていりゃ変な言動をすることもない」 「…ああ、その、悪いことを聞いたみたいだな」 「気にしなくていい」 そうだ。気にしなくていい。似たような目に遭ったのは私だけではないし、中には未だに治ら ない者だっている。私自身、今でもあの戦場から戻ろうと足掻いている最中なのだから。 異常な言動は治まったものの、私の内面はまだ戦場にあった時と変わっていない。戦場で何度 も親しい人間が死んでいく様を見ているうちに、やがて私の心から感情というものが失われた。 自分自身の感情を表現する方法が分からなくなった。自分に感情があるのかどうかすら。目の前 にいる人間たちが、人間でなく機械仕掛けの人形のように思えてきた。人形があたふたと駆け回 り、時折砲弾に跳ね飛ばされてばらばらになる。まるで癇癪を起こした子供に引きちぎられる玩 具みたいに。玩具の人形。そこに感情など存在しない。その中で同じようにあたふたと駆け回っ ている私もそうだ。人形。壊されるためだけに存在する人形。 本国へ強制送還され、病院に閉じ込められて治療をしているうちに、どうにか周囲と折り合い をつける行動が取れるようになった。だが、それは単に周囲の連中の外面を真似ただけ。あたか も自分は人形でなく人間であるかのように振る舞ってみせただけ。周囲にいる連中を人形ではな く人間であるかのように扱っただけ。私は未だに人形の国に住んでいる。 イタリアへ来たのは、そんな自分を治す方法を求めたためだ。自分の周りでがちゃがちゃ騒ぐ 人形たちの感情が分からないのなら、自分自身の感情も分からないのなら、いっそ感情などあり そうもない廃墟でも見て回ろう。そんな廃墟だって、かつては人間の手で作られたものなのだ。 その廃墟からとうの昔に死んだ人間の感情でも読み取れるようになれば、私はもう一度、人間の 住む世界に戻れるかもしれない。 私の試みたリハビリは成功しているのだろうか。多分、うまく行っているのだろう。マルコの ような分かりやすい人間の感情は、かなり読めるようになったと思う。ただ、それはあくまで彼 の言動や表情を観察して推測しているだけのことだ。決して彼が抱く感情に対して共感している のではない。それでも、次第に胸のうちに自分が人形ではなく人間に囲まれているのだという実 感が広がっているのは間違いない。 考え込んだ私をしばらく黙って見ていたニコロは、やがて咳払いをして質問した。 「彼女がこれを飲んだかどうかは分かるか」 「いや、残念ながらいくつ錠剤が入っていたかは確認しなかった。彼女が何錠飲んだか、それと も飲まなかったのか、私には分からないな」 「やれやれ。もう少し注意深くやってほしいもんだな」 「すまない。だが、その代わり情報があった。ソフィアのくれた情報だ」 そう言って私は館の主が一ヶ月ほど前から週に一回、外泊するようになっていた事実を彼に伝 えた。ロドリゴは決まった曜日に館へ戻らずどこかに泊まった。日雇い労働者とアマーテが殺さ れた曜日に。それを聞いたニコロの目に光が宿った。 「そいつは間違いないのか」 「ああ。少なくともその曜日には、彼がこの屋敷にいなかったことは間違いない。おそらくは町 のどこかに宿泊していた筈なんだ」 「分かった。それは参考にできそうだな」 ニコロは手帳を開くと早速その話をメモした。私はさらに他の調査結果もまとめて報告した。 下男のアントニオは全く口をきかない男なので情報は得られなかった。料理人からはロドリゴに 対する不満を聞いた。金に汚い。吝嗇だ。そのくせ見栄を張りたがる。私の説明を聞いて、ニコ ロはその通りだと薄く笑った。 さらに私は、行方不明になった運転手について改めて注意を喚起した。あの運転手は彼がどこ に行っていたか詳しく知っていた筈だ。それが行方不明になったことには、色々な意味が考えら れるのではないだろうか。ニコロは私を窺うように見ながら言った。 「たとえば、どんな意味があるってんだ」 「口封じだ。自分がどんなことをしているかがあの運転手にばれてしまった。何しろ一緒に行動 することが多いのだから、そうなる可能性は十分にある。だから彼の口を封じた。そんなことも 考えられるだろう」 「まて、それはおかしいぞ」 「どうしてだ」 「運転手が行方不明になったのは一昨日の晩から昨日の朝にかけてだろう。その間、ロドリゴは 屋敷を離れて外泊していた筈だろうが」 私は思わず絶句した。迂闊だった。なぜそんなことに気づかなかったんだろうか。そうだ、運 転手が姿を消したあの夜、館の主人は帰宅しなかったのだ。仕事があるから外泊する。そういう 伝言だけを運転手に託し、自らは町に残ったのだ。 「…町にいたあの男が、わざわざ夜に屋敷の近くまで戻って運転手を謀殺し、また町へ帰ったと いうのは考えにくいな。できないことじゃないだろうが、夜の道を移動するのはかなり大変だ。 そもそも車もなしでどうやって移動したかという問題もある。それに、もし屋敷まで戻れたとし ても、誰にも気づかれずに運転手だけ呼び出すことが可能だろうか」 ニコロの指摘はその通りだった。少し考えれば分かったことだ。どうやら自分では冷静なつも りでいたが、本当は浮き足立っていたようだ。連続殺人、行方不明者、工場での労働争議。この 数日間は異常事態ばかりに遭遇してきた。そのせいで思考能力も落ちているのだろう。 「そうだな、言われてみればその通りだ。運転手が行方不明になった事件を、彼が引き起こした とは考えにくい。でも、それじゃどうなるんだ。連続殺人の犯人は、ロドリゴじゃなくて誰か別 人がやったってことなのか。それこそ異常犯罪者のようなヤツがこのあたりを徘徊していて、見 境なく人を殺しているのか」 「そうとも言い切れない」 ニコロの顔は沈鬱だった。 「…あんたも死体ばっかり見ていて頭が働かなくなっているようだな。いいか、よく思い出せ。 昨晩、下男と一緒に戸締りしたのはあんた自身だろう」 「あ、ああ。そうだ」 「全ての出入り口をチェックしていたんだったな。つまりこの屋敷は外部から侵入できない状態 だったことになる。そんな屋敷の内部で殺人が行われたんだ。これが何を意味するか、分かって いるのか」 「あ…」 まさか、まさかそんな。 「彼女を殺したのは、館の内部の人間だ」 目の前に立つ中年警官の言葉が冷たく頭に凍みこむ。そうなのだ。昨晩は特に念入りに戸締り をした。どんな方法であれ、外部から侵入できないように注意深く鍵を調べたのだ。にも関わら ず、ソフィアは殺された。とすれば、彼女を殺せたのは最初から館の中にいた人間だということ になる。 「…ま、待ってくれ、本当に館に出入りできる場所には全部鍵がかかっていたのか」 「それはあんたが確認したことだろう」 「いや、確かに私も確認したんだが、全部じゃない。半分以上はアントニオがやったんだ」 「さてな。あんたたちが食堂にいる間に他の場所はすべて調べさせてもらったが、少なくともそ の段階では鍵が開けられていた場所は正面玄関と、食糧を運び込むのに使われている勝手口だけ だった。あの料理人に確認したら、朝一番で勝手口の鍵を開けたことを認めている。正面玄関は 言うまでもないだろう。それとも、昨晩あそこは確認しなかったのか」 「いや、した。確かに鍵はかかっていた」 「そういうことだ。後で下男にも確認せにゃならんが、外部からの侵入は考えにくいな」 「いや、待て。こういうことは考えられないか」 私は必死に食い下がった。 「…玄関も勝手口も朝には開けられていた。だが、我々はその両方をずっと見張っていた訳じゃ ない。ということはだ、朝からソフィアが殺される昼までの間に、誰かが隙を見て外からもぐり こんだ可能性が」 「ないな」 「なぜだ」 「正確なところは検死をすれば分かるだろうが、俺の見たところ被害者が殺されたのはまだ夜が 明ける前だ」 私はただ黙って立ち竦むしかなかった。 「つまり、昨晩から今朝にかけてこの屋敷にいた人間の中に犯人がいる可能性が高い。屋敷の主 人とその息子たち、使用人二人と客人二人」 指を折って数えるニコロの手を、私は無言で見つめる。彼は私を正面から見て言った。 「…そう、この館の主人も含まれている。確かに、運転手の行方不明事件にあいつが直接関与し ている可能性はなさそうに見える。だが、殺人事件だけに限れば、ヤツにはアリバイはない」 「殺人事件…」 「そうだ。全身の血を抜かれて殺された連中の件だ。日雇い労働者、工場の従業員、そしてここ の使用人母娘。いずれもアリバイはない。しかも、うち二件ではすぐ近くにヤツがいたことが判 明しており、残りのうちの一件も彼と関係の深い人間が被害者となっている」 テレサが死んだ時にはロドリゴが近くで目撃された。ソフィアの時は同じ屋根の下にいた。そ して、アマーテは彼の右腕だった。 「もちろん、積極的にヤツが犯人だとは言えない。被害者の血を吸いたがる変態が犯人である可 能性だって十分にあるだろう。だが、引き続きヤツについて調べるだけの価値はあると思う」 ニコロの言葉に、私はただ頷くだけだった。さすがにプロは違う。私はこの数日、単に事件に 振り回されているだけだった。だが、この男はきちんと情報を整理し、筋道を立てて考えをまと めている。少しずつでも犯人に近づこうとしている。私はただ感服するだけだった。 その時、席を外していた若い警官が戻ってきた。準備ができましたと声をかける。ニコロは頷 いて、とりあえず今日のところは引き上げますと言った。私はお送りしましょうと答え、廊下へ と出た。 玄関へと歩きながら、ふと気になったことを問いかけた。それにしても、どうして三人しか警 官が来ないのだろう。いくら何でも殺人事件への対応にしては少なすぎると思うが。ニコロは足 を止め、しばし沈黙していた。やがてゆっくりと口を開く。 「…人手が足りないんだ」 「足りないって言っても極端すぎると思うが」 「だろうな。だが、本当に足りないんだ。町の方がかなり酷いことになっているせいでな」 「どういう意味だ」 「行方不明者が大量に出た。理由は分からない。とにかく、あちこちで人間が消えた。この一、 二日ほどのことだ」 「何だって」 私は思わず大声を上げた。前の方を歩いていた若い警官が振り向く。ニコロは先にいけという ように手で合図をして、私の方に向き直った。 「町の重要人物の中にも姿の見えない者がいる。そういうのの捜索にも人を割かにゃならん。そ もそも、警察自体が行方不明者のせいで機能しなくなっている。住人も不安になっているせいか 何かあるとすぐ警察に駆け込んでくる。その対処にも追われている状態だ。本当に三人しか送り 込めない状態なんだ」 「そ、そうだとしても何でそんなことに」 「分かったら教えてほしいくらいだ。行方不明者の動向はさっぱり掴めていない。まだ誰も発見 できていない筈だ。皆消えちまったのさ。きれいさっぱりとな」 吐き捨てるように男は言った。無精髭まみれの顔に浮かんだ疲労の色は、それが原因なのだろ う。私は頷いて答えた。 「そうか、どうりで署長がこの家の捜索をしなかった訳だ。そんなことをしている場合じゃなく なったんだな」 「うん? 家の捜索?」 少し首を傾げた男は、ああ、と言って首を振った。 「いや、それはどうだろうな」 「違うのか」 「違うとは言い切れない。そういう理由もあるかもしれんが…」 男の顔が再び険しさを増す。 「何だかよく分からない。あの禿げ署長なら、自分以外の全警官が行方不明になったとしても、 ロドリゴへの嫌がらせのためだけに家宅捜索をやると思っていたんだがな」 「どういう意味だ」 「直前に中止になったのさ。あれは一昨日の早朝だったな。必要な警官も集めて、後は出かける だけって時にいきなり署長から中止命令が出た。理由は不明。何だかよく分からないまま捜索は 中止だ。行方不明者続出という話が入ってきたのは、その後じゃなかったかな」 「待ってくれ、直前まではやる気だったのか」 「間違いなくそうさ。禿げ署長は前の晩からはっぱをかけて準備をさせていたんだ」 ということは、カルロが推測した単なるブラフという説は間違っていたのだろうか。 「だが、一夜明けると方針の大転換だ。何らかの理由で奴さんが心変わりをしたんだろうが、そ の理由が分からない」 「…たとえば、直前になってロドリゴとの間で妥協が成立したってことはないだろうか」 「たとえファシストと共産主義者が同盟を結ぶことがあったとしても、それだけはない。あの署 長に限って、そんな融通の利く行動を取るとは思えない。いやまあ、世の中ってのは思わぬこと が起きるものなのだろうが」 「いずれにせよ、理由は不明か」 「それだけじゃない。どうもあの時から署長の様子がおかしい。何だか心ここにあらずって感じ でな。いや、一応命令はきちんと出しているんだが、何だか操り人形みたいに見えることがある んだ」 人形…。嫌な言葉だ。私は首を振って意識をしっかりさせると、目の前の中年警官に言った。 「とりあえず、私の方もできる限り調査を進める。明日は何とかして町に行くつもりだ。そこで 改めて情報交換といこう」 「ああ。ただ、こちらも忙しくてな。約束した場所には行けそうにない。何だったら直接警察を 訪ねてくれ。今や署は千客万来状態だからな、一人くらい来客が増えても不審に思うヤツはいな いだろうさ」 「そうしよう」 ニコロは頷くと玄関から出た。既にソフィアの死体は警察の車に積み込まれたようだ。彼はそ の車に近づき、ふとこちらを振り返って言った。 「…気をつけろよ」 その顔には、妙に弱気な表情が浮かんでいた。 夕食は惨憺たるものだった。料理人はほとんど正体を失っており、帰宅した館の主人が下男を 使って無理やり目覚めさせる必要があった。そんな人間が作った料理が真っ当なものになる訳が ない。腕自慢の料理人も、今日ばかりは素人と何の変わりもなかった。 そう、ロドリゴはいつもより早めに帰宅した。だが、警察とは結局行き違いになったらしい。 どうしても私の話が聞きたいのならここで待っているだろう。先に帰ったということは、急いで 私の話を聞く必要はないということだ。そう言った彼は警察を訪ねるのは翌日回しにすると決め て屋敷にとどまった。 というより、ここで彼がいなくなると屋敷が機能しなくなるのが実情だった。料理人は辛うじ て夕食を作り終えた段階で使い物にならなくなった。彼は再び厨房に閉じこもった。中にあった アルコール類は主人がすべて持ち出させたため、彼を現世から逃避させるものはなくなった。そ れでも彼は厨房から動こうとしなかった。そこにいれば安全と思っているようだった。 同様に立てこもりを選んだのはマルコだった。彼は警官がいる間こそ食堂に出てきたものの、 警察が引き上げるや否やすぐに自室に入り込んで、中から閂をかけた。今となれば彼の気持ちも 分かる。彼は本能的に気づいているのだ。犯人がこの屋敷に住む人間の中に存在することを。だ から彼は自らを守る行動に出た。彼は夕食の席にも出てこなかった。 アントニオだけが忙しく動き回っていた。私とエンリコ、そしてカルロの三人は食堂で放心し たように座り込んでいたし、事態を把握した後になるとロドリゴもその輪に加わった。四人は不 味い食事をただ機械的にかき込んだ。 とにかく、戸締りだけはきちんとしよう。屋敷の主の言葉に、皆むっつりと頷いた。昨晩はア ントニオと私が調べたが、今日はエンリコとカルロも加わることになった。館の各所を、四人が 一塊になって移動する。あまりばらばらになりたくはなかったし、二人一組というのも避けたか った。誰もが他人を信用できなくなっていた。 そう、誰も口には出さないが、この屋敷の中に犯人がいるということに気づいていた。少なく ともソフィアを殺した犯人はここにいるのだ。もしかしたら、この無口で勤勉な下男がそうかも しれない。あるいは読書好きな少年か、ひょろ長い考古学者が犯人かもしれないのだ。いや、早 々に部屋に閉じこもった料理人やこの家の長男と言えども、疑わしさは同じだ。彼らはそういう 行動を取ることによって疑いを避けようとしているだけかもしれないのだ。 だが、何より私が疑いを消せないのは、この館の主人だった。あの町中の労働者居住区で見か けた紳士の姿が、いまだに私の脳裏に強く焼きつけられている。テレサの死体を発見したのはそ の直後だった。全身から血を抜かれたその死体もまた、私の記憶から消えることはない。 それにしても私はなぜここにいるのだろう。どうして長い間やっかいになりましたと言って、 この呪われた地を去ろうとしないのだろう。私はしょせん異邦人に過ぎない。この屋敷にとどま るべき理由などない。私には帰るべき場所があるのだ。ここではない他の場所に。 自分の行動を自分で説明できない状態だった。どうしてこの地にこだわるのか。連続殺人事件 の犯人を知りたいからなのか。確かに知りたい。だが、自分の命をかけてまで知るべきものだと は思っていない。あるいは、事件のために陽気さを失い、恐怖に我を忘れているマルコを助けて やりたいと思っているのか。もしかしたら、自分の想いを伝えることすらできずに死の顎に囚わ れたソフィアに同情しているのか。 奇妙な話だ。戦争で感情を失った私には、他人に共感する能力が失われた。だが、ここでの自 分の行動は、理屈では説明できない。むしろ他者に対する共感が根底にあると考えた方が辻褄が 合うのだ。もし、自分でも気づかないうちに私が他者への共感を取り戻しているのなら、それは 私のリハビリがうまく進んでいることを意味する。 何という皮肉だろう。死体が次々に登場するこの局面になって、私はようやくかつての自分を 取り戻しつつあるのだ。未開人ですらもっている共感の能力を、この異常な殺人事件が起きる場 所に来てようやく発揮できるようになってきたのだ。戦争による衝撃で失ったものを取り返すに は、塹壕にいた時と同じく親しい人間の死体が必要だった。何と惨い話なのだろう。 戸締りの確認が終わった。最後に一同は玄関ロビーにやって来て、そこの戸締りを確認する。 ここの確認が終われば、館は完全に閉じられた結界の中に入る。もはや誰も入り込むことはでき ない筈だ。昨晩もそうだった。そして、その結果の中で殺人は起きた。 私は首を振った。もう一度周囲を見渡す。ロビーの脇に置いてある小さなテーブルの上にある 緑が視界に入った。あんな場所に植物が置いてあっただろうか。近づいて確認すると、それは宿 り木だった。ボタンと一緒に回収して、その時からここに置きっぱなしになっていたのだ。そう 言えばボタンを回収した後はソフィアが貧血を起こして倒れたりと騒ぎが続いていて、この木を 処分する余裕はなかった。 宿り木には魔力がある。それは悪魔を追い払う能力を持っている。フレイザー卿の紹介した話 が思い浮かぶ。私はその枝を折り取ってポケットに突っ込んだ。お守りのつもりだった。この異 様な状況の中ではこんなものでも心の支えになるかもしれない。厳しい環境の中で生き延びてき た未開人がそうしたように、私も呪術に頼ろうとした。 「では、これで終わりです。最後に、各自の部屋に戻った際の注意事項を述べておきます」 再び全員が集合した食堂で、カルロがそう話し始めた。彼の父親は無言で一同を見ている。 「…屋敷の部屋は全て中から閂がかけられるようになっています。必ずかけるようにしてくださ い」 そう、ソフィアの部屋には閂がかかっていなかった。私はきちんと戸締りするよう言い残して 去った筈だが、彼女はそれをしなかったのだ。そして彼女は殺された。 「また、気になる場合は机や椅子などを使ってドアの前にバリケードを築いてもらっても結構で す。明日の朝、元に戻していただければいいので」 カルロが話を終えると、父親が一歩前に出た。彼は私とエンリコを見て言った。 「お客人に対しては、このような事態に立ち至ったことについて深くお詫びします。とにかく、 今夜のところはご用心いただくほかないでしょう。ですが…」 言葉を止め、彼は我々を険しい目で見る。何があっても礼儀だけは失わなかったこの男の本性 が瞬間、垣間見えた。 「…明日になれば、こちらをお引取りになっていただく方がよいかと思います。これ以上、こち らにお泊りいただいても、残念ながらおもてなしができる状態ではありません」 彼の眼には真剣な光が浮かんでいる。これ以上、引き下がるつもりはない。その眼はそう語っ ていた。確かに、今は客人を泊めておける状況ではない。彼の言うことは正論だ。 「警察が早急に犯人を捕まえてくれればよいのですが、そうでなかった場合にはお客人にも危害 が及ぶ可能性すらあります。早急にこちらの町を離れていただいた方がよろしいかと考えます」 その通りだ。犯人がどういう基準で犠牲者を選んでいるのかは分からないが、その対象から自 分だけが逃れられる保証はどこにもない。 「よろしゅうございますな」 「少々お待ちください」 答えたのはエンリコだった。彼は至極落ち着いた様子で返事をした。 「おっしゃることはよく分かりますが、私の方もまだ調査が終わっておりません。それが終わる まで帰る訳にはいかないのですが」 「何を言ってるんですか。考古学の調査などいつでもできましょう。今回のところは引き上げて また別の機会にでも」 「そうも行きません。今後の調査のためのメドをつける作業だけでも終わらせなければなりませ んから」 「しかしですな」 「せめて明日一日、時間をくださいませんか。この数日、事件のせいで十分な調査ができなかっ たせいもあって作業が進んでいないんです。せめて明日一日あれば、何とか今後のためのメドは 立てられると思うんです」 「…………」 「それが終わればすぐに引き上げさせていただきます。どうか明日だけ、調査する時間をいただ けないでしょうか。私を送り込んできたところも、そうすれば納得してくれると思いますが」 「…やむを得ませんな」 渋々といった表情で口髭の紳士は頷いた。そして、その不愉快そうな表情をそのままこちらへ 向けてくる。 「貴方はそんな事情はありますまい。こちらへは純粋に観光でいらした筈」 「そうです」 「ならば、こちらの御仁のように無理をおっしゃることはないでしょうな」 私は黙り込んだ。どうすべきなのだろう。彼の言う通りに引き上げるのも手だ。明日は警察に 行って、この屋敷から追い出された旨をニコロに伝え、そのまま町を去る。そうすれば、おそら くこれ以上のトラブルに巻き込まれずにすむだろう。死体も見なくてすむし、自分が殺されるか もしれないという不安に悩むこともない。 だが、どこか去りがたい思いがあるのもまた事実だった。事件の全容を知りたいという思い、 必死に捜査を進めているニコロとの約束、ソフィアの無念、マルコの惑乱。そんなものが胸の内 で渦を巻いて心を乱している。沈黙を守る私に苛立ったのか、ロドリゴが強い調子で言った。 「…貴方がどうお考えであろうと、明日はこちらを退去していただく」 「それは」 「異論は認めません。この館の主は私だ。これ以上、お客人をとどめることはできない。従って 明日にはこの屋敷を去っていただく。よろしいですな」 「しかし」 「これは決定事項です。今夜のうちに荷物をまとめておいていただきたい」 強い口調で断言した彼は、そのまま私の返事も聞かずに足音高く食堂を出て行った。なるほど 彼は本気だ。こうなってしまうと、私には手の打ちようがない。肩を竦めると、私は残っていた エンリコとカルロに向かって言った。 「…どうにも仕方ない。明日にはお別れですな」 「何でしたら、僕からも父にお願いしてみましょうか」 「いや、やはり使用人がここまでいなくなった状態で私がとどまるのはよくないだろう。色々と 世話になったが、明日には引き上げるよ」 そう言って笑ってみせる。カルロはどこか不満そうな表情で黙り込んだ。エンリコは静かに頷 いただけだった。 「では、荷物をまとめる必要もあるし、先に部屋に戻るよ。お休み」 私はそう言い残して食堂を去った。 ベッドに横たわったものの、目が冴えて眠れなかった。窓の外からはほぼ真円に近い月が部屋 を覗き込んでいる。明日の夜あたりは満月だろうか。月光に照らされた森は黒々とわだかまって 窓の外に見える景色の下半分を占めている。静寂に満ちた光景だ。薄汚れた人間社会とはおよそ 縁遠い世界だ。 自分の心を覗き見る。安堵感と欲求不満とがないまぜになったアンビヴァレントな感情が蠢い ているのが分かる。どこかにほっとした思いがあるのは間違いない。ここを去れと言われて、初 めて自分が極めて緊張していたことに気づいた。明日にはこの屋敷を去る。あの町からも離れて どこか遠くへ行く。そう考えるだけで、肩に乗っていた重荷がいっきに消え去るような解放感を 覚えている。 しかし、ここに来て会った人々の顔を思い出すと心が疼く。遠くからマルコと話している姿だ けを見たアマーテという中年の男。彼をじっくりと見たのは死体になった後だ。だからその時は それほど動揺しなかった。だが、テレサになると違う。屋敷に泊まっている間に言葉を交わした こともあったし、マルコとの漫才のようなやり取りを心楽しく見ていたこともあった。彼女の死 体をみつけた時、私の心に何か痛みのようなものが走った。 そしてソフィア。殺される少し前に話した少女は、伝えられない想いをどうすればいいのかで 悩んでいるような、どこにでもいる娘だった。顔を赤らめ、もじもじしながらカルロのことにつ いて相談してきたのが、つい先程のことのようだ。彼女の死体を見た時、頭の中が真っ白になっ た。しばらく何も考えられなくなったのだ。 感情。喜怒哀楽。そんなものが私の心の中で息を吹き返しつつあるのかもしれない。ソフィア の死体を見つけた瞬間に私の脳裏を白く染めたのは、その感情と呼ばれるものだ。私の心が感情 に支配され、そのため私は何を考えればいいかすら分からなくなった。内心で吹き荒れる感情を どう表に出していいのか、やり方が分からなかったのだ。いや、思い出せなかったというべきだ ろう。戦争にいくまで、私は他人と同様に感情を表していた筈だから。 今でも私は感情の表し方が分からないままだ。自分の心の中にある感情に従うとしたら、どの ような行動を取るべきなのか。このまま帰るのか。それともとどまるべきなのか。残るとしたら 私は何をすべきなのか。どうすれば自らの感情に従うことになるのか。分からない。分からない まま、私は空中を睨んでいる。 その時、ノックの音がした。素早く起き上がってドアを見る。念のため構築しておいたバリケ ードが、月明かりの下で影になっている。再びノックの音。私は小さな声で誰何した。 「…私ですよ、エンリコです」 ひょろ長い男の声がする。肩に入っていた力が抜けた。私はドア越しに話しかけた。 「危険じゃないか、こんな夜中に。早いとこ部屋に戻った方がいいと思うぞ」 「その通りなんですがね、ぜひともお話ししておきたいことがありまして」 「何だって」 「よければ入れていただけませんかね」 私の全身に再び緊張が戻る。なぜ彼は他人の部屋に入ろうとするのか。ソフィアの無残な姿が 脳裏に浮かぶ。彼女は夜中に何者かによって殺された。この屋敷の中で。 「…話ならそこからでもできるだろう」 「秘密のお話ですから、他人に聞かれると困るんですよね」 「それじゃ明日にしてくれないか。今日のところはもう遅いし」 「明日じゃ遅いですね。私は貴方に忠告に来たんですよ。今日のうちにお伝えしておいた方がい い忠告をね」 「忠告だって?」 「そうです」 「どんな忠告だ」 「入れていただけますか」 私は口を閉ざした。心の中に疑惑が急激に広がる。心臓が鼓動を速めている。乾いた唇を無意 識のうちに舐めながら、私は言った。 「…そう言われて、簡単に入れられると思うか」 「なるほど。私は信頼に足る人物ではない、ということですか」 「端的に言えばそうだ」 「身も蓋もありませんねえ。まあ、お気持ちは分かりますけど」 「ならば話は終わりだ。入れる訳にはいかない」 「落ち着いてくださいよ。どうして私を疑うんですか」 「疑っているのは君だけじゃない。誰を信じていいのか分からないだけだ」 「私は犯人じゃありませんよ」 「犯人は誰でもそう言うものさ」 「冷静に考えてくださいって。あの工場で働いている方、アマーテさんでしたか。あの人が殺さ れた時に、私はまだここに来ていなかったんですよ」 「…………」 「思い出してください。私が貴方に出会ったのはその翌日でしょう。私はあの日、この町に到着 して、ロドリゴさんと一緒にこの屋敷に来たんです。その私が前夜のうちに殺されたアマーテさ んを殺した犯人になれると思いますか」 確かに、理屈はそうなる。それに、私自身もエンリコを本気で疑っている訳ではない。ただ用 心が必要だと思っているだけだ。もし彼の言うことが正しければ、確かにエンリコはこの連続殺 人事件の犯人にはなれない。 私はしばし迷った。だが最後は好奇心に負けた。あるいは私の心の中にある感情がまだうまく 働いていなかったせいかもしれない。恐怖心が強ければ、何と言われても開けないのが普通だろ う。どこかで恐怖という感覚が麻痺しているようだった。戦場にいた時から、それはずっと麻痺 し続けていたのかもしれない。 私は手早くバリケードをどけ、閂を外した。エンリコは、や、どーもどーも、こんばんわ、と 言いながら部屋へ入ってくる。再び閂を閉めた私は、椅子を勧めながら聞いた。 「…で、忠告ってのは何だ」 「忠告の内容は簡単です。ですがその前に一つだけ確認させてください」 彼はそう言うと手に持っていた何かを私の目前に突き出した。思わず仰け反る。彼の手の中に あるのは十字架だった。しばし呆気に取られてそれを見ていた私は、やがてエンリコに向かって 怒鳴った。 「おい、これは一体どういう訳だ」 「…大丈夫なんですね。よかった」 「何が良かっただ。どういうつもりなんだ。何を考えて」 「忠告をしに来たんですよ。明日すぐにこの屋敷を出て、二度と戻らぬようにって」 「何だって」 「こちらのご主人も言ってましたが、貴方が迷っているように見えましたので念を押しに来まし た。すぐにここから立ち去るべきです。明日は早朝に出発して、真っ直ぐ駅まで行って町を去っ てください。なんでしたらそのまま帰国された方がいいかもしれません」 「どういうことだ」 「理由は聞かないでください。ただ、私の忠告に従っていただきたい。それが一番、安全です」 エンリコは淡々と話している。私は彼に噛みついた。 「…納得がいかないな。きちんと理由を説明してもらいたい」 「説明できません。とにかく私の言うことに従ってください」 「もし断ったら」 「そのようなことは認めません」 「君自身は残るじゃないか」 「私はまだ仕事が残っています」 「残ると危険なのだろう。だったら君も引き上げるべきじゃないのか」 「仕事が終わらなければ戻れません。とにかく、貴方は引き上げてください。いいですね」 「嫌だ」 「何ですって」 「今の話を聞いて気持ちが決まった。帰るべきかとどまるべきか、悩んでいたんだがな。君がそ こまで言うのなら、私はここに残る」 「なんて天邪鬼な人なんですか」 「理由も聞かずに引き上げるヤツがいたら、そいつの方がよほど変人だ。理由が分からない限り 私は残る。残って自分でその理由を調べてみる」 私の言い方を聞いてエンリコは困惑の表情を浮かべた。彼は腕組みをしてしばらく天井を睨ん でいたが、やがて小さいため息をもらすと、私に視線を戻して言った。 「…理由を聞いたら、引き上げてくださるんですか」 「納得のいく理由ならな」 「分かりました。そこまで言うのなら説明させていただきましょう」 エンリコはそう言うと、手に持っていた十字架を首にかけた。サファリルックの上からかけら れたその十字架が、月光を反射して銀色に煌く。 「…私は教皇庁から来ました」 「へ?」 一瞬、彼の言葉が理解できなかった。教皇庁、というと、ローマにあるあの教皇庁だろうか。 「もっとも、表立ってはある大学から派遣されてきたことになっています。教皇庁に私の件につ いて問い合わせても、そのような人物はいないという返事しか来ないでしょうね」 「どういう意味だ」 「私が所属しているのは、公式には存在しない機関です。その機関はある特殊な目的のために存 在しており、その目的を果たすためだけに活動しています」 「な、何を」 「その組織の名を『埋葬機関』と呼びます」 「埋葬…機関」 「組織の目的はただ一つ。それはこの世界にある邪悪な存在を消滅させること。そのためにあら ゆる方策を使って活動しているんですよ。某大学の考古学研究室に所属していると偽って、ある 屋敷へもぐり込むような活動をね」 「つまり」 「私がここへ来た目的は、この地にいる邪悪な存在、つまり吸血鬼を探し出すことです」 私は言葉もなく立ち尽くした。いったいこのひょろ長い男は何を言っているのだろうか。 「正直言って、貴方も吸血鬼である可能性があったものですから、なかなか理由を話せなかった んですけどね。十字架を見せても苦しんでいないとなれば、貴方は吸血鬼でないと判断していい でしょう」 「何を、言ってるんだ」 「となると、むしろ問題は貴方をいかに早く逃がすかという点に絞り込まれます。この地にとど まっていれば、貴方まであのような死体になってしまいかねないですから」 「待て、待ってくれ」 私は慌ててエンリコの話を遮った。彼は全く表情を変えない。私は愛想笑いを浮かべながら聞 いた。 「…今の話は、何かの冗談だよな」 「いいえ」 「そりゃそうだよな。吸血鬼だの十字架だの、そんな恐怖映画みたいな話が現実にある訳がない しな」 「ありますよ、現実に」 「た、確かに吸血鬼にやられたような死体が出ているのは事実だけど、だからって吸血鬼の仕業 ですなんてことは言わないよな」 「あれは吸血鬼の仕業です」 エンリコはどこまでも生真面目な表情だった。私はしばらくその顔を睨むと、やがて大きく息 をついて言った。 「そんなことを言われて、信じられると思うか」 「信じてもらうしかありません」 「しかしだな」 「もう一度、考えてみてください。今回の連続殺人事件について」 「考えるって」 「犯人は被害者の全身の血液を抜いています。これがどれほど手間のかかることかは想像がつく でしょう」 「ああ。それは分かる」 「何のために犯人はそんなことをしたんですか」 「それが分かれば苦労はしないよ。まあ、犯人なりの理由があったのかもしれないけどな。たと えば」 「たとえば異常犯罪者とか。まあ、普通はそう考えますね。でも、異常犯罪者にしてはやること が妙に手際よすぎると思いませんか」 「手際が?」 「ええ。血を抜くための道具を予め用意して被害者を殺す。それも、首筋にある二つの傷痕以外 に傷を残さずにです。そのうえで、路上に置いた死体から血を抜き取り、回収した血液を持って 逃げ出す。誰にも見つけられることなくこれだけの作業をするんですよ。信じられないほど手際 がいいじゃありませんか」 「それは…そうかもしれないが」 「異常犯罪者がそこまで手筈を整えて行動しますかね。単に血を抜き取りたがるだけの変態が、 それほど緻密な計画を立てて実行しているんですか」 「そ、そういう犯罪者だっているかもしれないじゃないか」 「異常でありながらかつ緻密な犯罪者、ですか。で、あなたはそういう犯罪者がこの屋敷の中に いると言うんですね」 「屋敷の中って…」 「忘れていないでしょう。昨晩はきちんと戸締りしたのを。ソフィアを殺した人間は、屋敷の中 にいた者のうちの誰かですよ」 同じことをニコロも言っていた。この屋敷の中にいる人物が怪しい。そう、私もそう考えてい たのだ。この館の主人であるロドリゴが一連の事件に関連しているのではないかと。だが、今エ ンリコが描き出して見せた犯人像は、あの慇懃無礼な男には当てはまらない。彼なら緻密な計画 に従って行動することはありそうだ。だが、決して無意味に血を抜き取るなどという真似はする まい。そんな危険なことをするのは割に合わないと考える筈だ。 「…思いつかないでしょう、具体的な犯人像が。血液を抜き取ることに異常な執着を見せながら 殺人計画そのものは緻密に遂行する犯人。とても現実には存在しそうにない。そのくらいなら、 いっそ吸血鬼が犯人だと考えた方が辻褄が合いませんか」 「存在しそうにないと言ったら、吸血鬼の方がよほど存在しそうにないだろう」 「そう。どちらも現実味がない。同じ現実味に乏しい犯人像なら、より簡単な説明原理の方を優 先してみてはいかがですか。犯人は吸血鬼。こういえば、すぐに犯人像が浮かびます」 「待て。たとえそうだとしても、君の説によるとその吸血鬼はこの屋敷の中にいるということに なる。屋敷にいる者の誰かが、実は人の血を啜って生きている化け物だということに」 「そうです」 エンリコはあっさりと頷いた。 「…吸血鬼はこの屋敷にいます。この館にいる者たちの中に、人の血を啜って生きる化け物が存 在するんです」 「な…」 私はこの背の高い男を呆然と眺めるよりほかになかった。彼はあくまでも静かな表情をたたえ て私を見下ろしている。その顔には確かな決意が窺えた。冗談を言う人間の顔ではなかった。彼 の言うことが事実かどうかは分からないが、彼が自分の言葉を信じているのは間違いない。私は 唾を呑み込むと聞いた。 「だ、誰が吸血鬼なんだ」 「分かりません」 「え?」 「残念ながら分からないんです。かなり特殊な吸血鬼ですから。簡単には普通の人間と見分けが つきませんし、本人も巧妙に隠している筈です」 「特殊って、いったいどの辺が特殊なんだ」 「吸血鬼と言ったら、どういう存在なんだと思いますか」 エンリコは一転して私に質問してきた。私は少し考えて答えた。 「そりゃ、まず人間の血を吸うことは間違いないだろう。あと、吸われた人間も吸血鬼になって しまうって話があったな」 「そうですね」 「それと、映画なんかじゃ弱点が色々とあったな。にんにくや十字架が嫌いで、太陽の光を浴び ると身体が崩れてしまう。でも、とどめを刺すためには木の杭を心臓に打ち込まないといけない んじゃなかったかな」 「大体、そんなところが一般に流布している俗説ですね」 「本物の吸血鬼は違うのか」 「ケース・バイ・ケースです。今回私が探している吸血鬼の場合は、俗説通りの部分も結構あり ますね。人間の血を吸いますし、吸われた人間の一部はやはり吸血鬼になります。もっとも、今 回はまだそういう被害者はいないようですね」 「まだ?」 「血を吸われた者がすべて吸血鬼になる訳ではありません。多くの者は血を吸われると身体がま るで風化したみたいにぼろぼろになって消え去ります。後には何も残りません」 「な」 「周りの人間から見れば、唐突に行方不明になったように思われるでしょうね。町の方ではこの 数日、行方不明者が続出しているそうですね。おそらく吸血鬼かそのしもべが本格的な活動を始 めたんだと思います」 私は絶句した。まさか、行方不明者までがあの殺人と関係があるというのか。 「だ、だとしたらあの運転手も」 「おそらくは、もうこの世にはいないでしょう」 「そんな」 私の脳裏に、あの夕暮れの森で見つけたボタンが浮かぶ。宿り木に引っかかっていたボタン。 魔力のある枝によって、辛うじて残された惨劇の証拠。夕日を浴びて金色に煌いていた。まるで 黄金の枝のように。 「一部の人間は、死体が消えずに残ります。それこそ全身の血を抜かれた死体としてね。体質の ようなものでしょうか、普通に比べて吸血鬼との接触に耐性があるとそうなるんです」 「それじゃあ、あの」 「アマーテさんも、テレサさんもソフィアさんも、やはり吸血鬼にやられたんですよ。彼らの遺 体が残されたのは偶然のようなものです。もし、全ての吸血鬼の被害者が死体を残していたので あれば、その数は場合によっては数百に上る筈です」 「す、数百っ」 「吸血鬼による活動とはそういうものです。表沙汰になるよりはるかに多くの被害者が発生して いる。まして、今回私が探している吸血鬼は、普通の吸血鬼よりずっと身を隠すのがうまいのが 特徴なんです。死体の始末もできる時は巧妙にやっている筈でしょう。数百の被害者が出ている としても不思議ではありません」 私はもう何も言えなかった。数百の被害者。それだけの人間が、たった一人の吸血鬼によって 殺されている。それが、そんなおぞましいことが現実だなんて。 「そして、吸血鬼に血を吸われながらも死ぬことなく活動を続ける者もいます。ですが、その大 半は単なる操り人形としての行動しか取れません。吸血鬼に命じられた通りに動くだけの傀儡。 彼らは死徒と呼ばれています」 「し…と」 「よほど吸血鬼と体質があっていれば、そうなるケースもあるんです。そして死徒たちは主のた めに働くようになります。人間を襲ってその血を主に届けたりすることが多いですね。彼らの行 動は、普通の人間の目から見ても異常に思えることがあります。まるで魂の抜けた人形のような 言動を見せたりするんですよ。どうやら、今回もこの死徒になった人間がいるようです」 ニコロの言葉が浮かぶ。署長の様子がおかしい。何だか心ここにあらずって感じだ。嫌な符合 が増えていく。 「そして、ごく少数だけが本物の吸血鬼になります。彼らは自ら人間の血を吸い、時には自分自 身に従う死徒を作り出すことすらあります。一つの巣から独立した女王蜂が新たな巣を作るよう なものですか。そうやって、吸血鬼は自らの巣を広げていくんです。吸血鬼の活動が続けば、そ こはいずれは死の町となってしまうんですよ」 「ほ、本当にそうなるって言うのか」 「ええ。いずれは」 「君が教皇庁から来たのは、その吸血鬼を倒すためなのか」 「いいえ。そんなことは言ってません。私は吸血鬼を探し出すために来たと言った筈です」 「えっ」 「私の仕事は探し出すことだけです。倒すのは専門の人材がいますから」 あっさりと述べるエンリコに対して私は叫んだ。 「だったら早くその人材とやらを呼べっ。手遅れになる前に」 「呼びますとも。誰が吸血鬼なのかが分かればね」 「…だ、誰がって」 「まだ分からないんですよ、誰が吸血鬼なのか」 「ちょっと待ってくれ」 私の声はもう悲鳴に近かった。 「君は、ここにいるのはかなり特殊な吸血鬼だと言ったよな。それはつまり、吸血鬼の正体を知 っているってことだろう。知っているからこそ、特殊だってことが分かったんだろう」 「そうです。私は吸血鬼の正体を知っています。ただ、それが誰なのかは分からないんです」 「どういうことなんだっ」 「その吸血鬼の特性を聞けば、貴方も理解してくれると思いますけどね」 エンリコはそう言って俯いた。私はいくつか深呼吸をして心を落ち着かせた。分かった。なら ばその特性とやらを聞かせてくれ。そう促すと、エンリコはゆっくりと語り始めた。 「その吸血鬼にも弱点はあります。にんにくは知りませんが、おそらく十字架は苦手でしょう。 十字架があれば安全とまでは言えないでしょうが。あと、太陽の光はそれほど苦手に思わない可 能性がありますね」 「…それで」 「最大の問題は、貴方がおっしゃった『とどめを刺す方法』を使っても彼を消滅させられないと いう点にあります。たとえ木の杭を心臓に打ち込もうと、彼にとどめを刺したことにはなりませ ん。どんなやり方でも、彼を消滅させることは不可能だと思われます」 「つまり、そいつは化け物であるうえに不死だってことか」 「不死ではありません。殺すことはできます。それこそ木の杭を打ち込めば、現世にいる吸血鬼 は滅びます。あくまで、現世にいる吸血鬼だけですが」 「回りくどい言い方はやめてくれ。不死ではないのに、なぜとどめを刺せないんだ」 私の問いにしばし黙り込んだエンリコは、やがて陰鬱な口調で返答した。 「…生き返るんですよ」 「な、何だって」 「生き返るんです。殺されれば、また復活を遂げるんです。現世で死を迎えた吸血鬼の魂は、や がて新しく生まれた子供の魂にもぐり込む。そうやってこの吸血鬼は再生する。しかも、生まれ 変わった直後は単なる人間でしかない。赤ん坊のうちは吸血鬼の魂は決して表に出てこないんで す。それが表面に出てきて吸血鬼としての活動を始めるのはその赤ん坊が大きくなって、人間社 会の中である程度の役割を果たすようになってから」 「そ、そんな」 「周囲の者にとっては、昨日まで普通の人間だった存在が、ある時からいきなり吸血鬼に変わる んです。しかも、自我は人間の時と同じだ。社会の中で普通の人間として暮らすには、何に注意 したらいいか、どのように行動すべきか、この吸血鬼はそんなことを全て知っているんです。日 光に耐性があるのも、生まれた時から人間として活動しているからです。彼はそうやって巧妙に 身を隠し、やがて自らの住む町を死の町へと変貌させていくんです」 私はただ呆然と呟くしかなかった。 「…死んで、再生する吸血鬼」 「はい。彼は既に数百年ほど生きている筈です。その間、十数回に渡って死と再生を繰り返して います。教会はずっと彼の動きに注意しているのですが、いかんせんその特性故に彼の動きを初 期段階で察知するのが難しい状態です。今回もどうにかこの森の付近にいることまでは分かった のですが、具体的にどの個人が吸血鬼なのかが判然としなかった。そのために、調査員である私 が送り込まれたんです」 エンリコはそう言って、口元に僅かながら笑みを浮かべた。 「まさか考古学者の真似をするとは思いませんでしたけどね。でもまあ、ある意味で私のやって いることは考古学かもしれません、数百年前から続いている悪夢を見つけ出そうとしているんで すから」 私は彼の言葉をろくに聞いていなかった。ただ、一つのことだけが頭に浮かんでいた。死と再 生。死んで生き返る存在。それは、聖杯伝説に出てくる漁夫王のことではないのか。フレイザー 卿が描き出したネミの『森の王』ではないか。古い森の王は挑戦者によって殺される。だが、森 の王と呼ばれる存在は死なない。なぜなら、古い王が死んだ段階で挑戦者こそが新しい森の王に なるからだ。森の王はより活力に溢れた若い人間に乗り移る。死と再生。そうやって森の王は永 遠に生きたのだ。呪われた吸血鬼のように。 「ただ、私がまだ吸血鬼を見つけ出していないのは事実です。手間取っている間に、被害が増え てしまった」 「…そんなに難しいのか」 「巧妙なんですよ。これだけ被害が出ているってことは彼はかなり活発に動いている筈です。だ けど、彼は全く尻尾を掴ませない。よほど巧妙に動き回っているとしか思えない」 「ちょっと待て。それにしても数百人をやっているんだろう。だったら屋敷の全員を注意深く見 張っていれば気づきそうなもんだが」 「全員を同時に見張るなんてことはできませんよ。私は普通の人間なんですから。それに、吸血 鬼の運動能力は、特に夜間は凄まじいものがあります。こちらの虚をついて移動することだって 十分に考えられますしね」 「そんなのを相手に、普通の人間で勝てるのか」 「私には無理です。ですから、私は単に吸血鬼を探すのだけが仕事なんですよ。普通の人間でも 吸血鬼に対抗できる力を持った人材はいますから、吸血鬼を見つけ出せばそういう人を呼び出し て後は任せるんです」 「最初から対抗できる人材を送り込む方がいいんじゃないのか」 「吸血鬼に警戒されますし、吸血鬼を倒す能力を持っていても探し出すことができなければ無駄 でしょう。まさか手当たり次第に容疑者を殺す訳にもいかないですから」 「しかし、そんなこと言っている間にもう数百人が殺されたっていうのなら」 「ええ、分かっています。私の落ち度であることは間違いありません。もっと早く見つけだして いれば、こうはならなかった。だからこそ私は何としても吸血鬼を探し出すつもりです。明日中 に。そして、明日の夜になる前に決着をつけます」 エンリコはそう力強く言った。私はその眼を見ていた。これまで彼が見せていた飄々とした雰 囲気は微塵も感じられない。彼はただ真っ直ぐに自分の意思を私にぶつけていた。私はしばらく 彼を見て、やがて静かに口を開いた。 「…私に手伝えることはないのか」 「あります」 「そうか。できるだけのことはするつもりだ」 「では、明日一番でここを去ってください」 「え?」 「そして二度と戻らないでください」 私はエンリコに向かって一歩詰め寄りながら言った。 「ど、どういうことだ」 「言った通りの意味です。貴方にできるのは、ここから逃げ出すことです」 「しかし」 「それが私の手助けになると思ってください」 「そんなことが思える訳が」 「いいえ、それが貴方にできる最大の手助けです」 「馬鹿なことを言うな」 「貴方こそ馬鹿なことは言わないでいただきたい。これ以上、被害者が増えるのを私に見せるつ もりなんですか」 「な…」 「とにかく、被害者の拡大だけは防ぎたいんです。私にとってはそれが一番の望みです」 エンリコはゆっくりと笑った。子供のような笑顔だった。 「一人でもきちんと助けることができれば、私の任務はそれだけ成功することになる。どうか、 私のために逃げてください」 私は、何も答えられなかった。