V 翌日、私は寝過ごした。この数日間の疲労が出たのかもしれない。思えばこの館に来てから、 妙に様々なことが起きたような気がする。私はしばらくベッドの上で身を起こした状態で窓の外 を眺めた。 森は今日も青々と繁っていた。フレイザー卿によると、ヨーロッパには古い時代の樹木崇拝の 名残が様々に残っているという。春あるいは夏至のころに一本の木を切り倒して村に立てる五月 の柱(メイポール)と呼ばれる慣習、全身を緑の小枝で覆った人物を主役にした行列。かつて緑 なす広大な森に覆われていたこの地域では、一つ一つの樹木に精霊が宿っていると考えられた。 それが時とともにより抽象的な存在となり、最後は森全体を司る神になった。その神は豊かに茂 る森の木々の繁栄を象徴し、さらには自然そのものの豊饒までも表す存在となった。 樹木の中でも重要な意味を持っているのはオークだった。なぜなら、オークはヨーロッパで最 もありふれた木だったから。ロシアでは19世紀まで聖なるオークの木を崇拝する儀式をやって いた地方があるそうだ。昔の人々が崇めていたオークの神とは、即ち天空の神、雨の神、雷の神 であるユピテルだったと、フレイザー卿は結論づけている。 この屋敷の周囲にある森もオークの森だ。ローマの南にあるネミの森と同じである。当然のよ うに、ここでも人々は森の神を祭っていたのだろう。そうした遠い記憶の痕跡が、エンリコに見 せられたあの小さな祠なのだと思う。一神教の神を知らなかった時代の人々が、言わば勘違いに 基づいて崇めた神。類似の法則や接触の法則といった、正しくはないのだがもっともらしい法則 に則って人間が想像を巡らせた存在。かつてこの森の中にいた人々は、そうした存在を現実のも のとして感じていたのだろうか。 私は一つ伸びをして立ち上がった。森を見ていたところで答えが出る訳ではない。何より、私 がしなければならないことはフレイザー卿の思考を追体験することではなく、一見すると失業者 にしか見えない中年警官に伝えるべき情報を探ることにある。私は手早く着替えると与えられた 客室を出て食堂へ向かった。 「や、おはようございます。今日はのんびりですね」 食堂で私を迎えたのはひょろ長い男だった。またサファリルックである。飽きることはないの だろうか。 「そちらも随分とゆっくりしているじゃないか。いつもはもう出かけている時間だろう」 「考古学の調査は現地調査だけではありません。時には他の学者と同様に文献調査に時間を費や すこともあるんですよ」 そう言ってエンリコは手に持った手紙らしきものをひらひらさせる。どうみても古文書の類で はない、ただのそっけない手紙だ。そんなものが文献調査の対象になるのだろうか。そう思いな がら席に座った時、ふと気づいたことがあった。 「そう言えば…」 「はい、何ですか」 「警察は来たのかい?」 「は?」 「警察だよ。今日捜査に来ると言っていたじゃないか」 「さて、どうなんでしょう。少なくとも私は警官らしい人物を見ていませんから、来てないんじ ゃないでしょうか」 「ふうん。ということはやはりブラフ、いや、罠だったのかな」 「かもしれません。でも、そう断言してしまうのも危険でしょう。確かに貴方は朝寝坊をしまし たけど、それでもまだ今日という日は半分以上残されていますからね」 「まあ、来ない方がありがたいけどね」 本当に警官がやって来たら、それにかき回されて私の調査が進まなくなる可能性がある。でき ることなら官憲諸氏には静謐を保っていていただきたいものだ。こちらが必要とする情報を集め 終わるまで介入を控えてくれるなら、さらにありがたいのだが。 問題は、どんな情報を集めるかだ。私は腕組みをした。何でもかんでも聞いて回るというのは 芸がないし、何より相手に疑いを抱かせる恐れがある。そうでなくても、ロドリゴにはエレナ経 由で私のやっていた探偵の真似事が伝えられている可能性が高いのだ。このうえ、彼の自宅であ るこの館で似たようなことをやらかしたら、いかに紳士的態度の好きなあの人物と言えども我慢 の限界に達するかもしれない。 私は彼の行動に疑問を覚えている。と言っても、根拠はほとんどない。ただ、ソフィアの母親 が殺された現場近くで彼を見かけたという事実が気になっているだけだ。もしかしたらあれは単 なる偶然なのかもしれない。仕事の都合であそこに寄っただけ。その可能性は十分にある。 だが、そうでない可能性もあるのだ。使用人のテレサが殺されていたのは、スラム街に近い場 所だった。平たく言えば貧乏人が集まっている地域だったのだ。そんなところに町一番の工場を 経営しているロドリゴが訪れる理由があるだろうか。取引先があるとは思えない。上得意の客な どは絶対にいないと断言してもいい。従業員が住んでいる可能性はあるが、彼がわざわざ個別の 従業員の自宅を訪ねるとは思えない。 なのに彼はあの時、車に乗り込もうとしていた。ということは、その前に車を降りて近くのど こかを訊ねていたことになるのだ。単なる通りすがりでは有り得ない。しかし、彼が訪ねるべき 場所の想像がつかない。いったいあんな場所に何の用事があったのか。後ろ暗い用事だったと考 えた方がしっくりくるのだ。 一つ考えられるとすれば、それはあの黒シャツたちと連絡を取るための行動だったという解釈 だ。黒シャツたちを雇ったのはロドリゴに違いないと私はそう思っている。連絡係を務めたのが アマーテだったのも、ほぼ確実だろう。だが、ひょんなことから黒シャツたちを使う計画は頓挫 し、しかもアマーテまでが殺されてしまった。黒シャツたちと連絡を取るため、マルコの父親が 自ら乗り出した可能性はある。 もっとも、わざわざあんなスラム街のようなところで会う理由は不明だ。黒シャツ連中と話を するだけなら、他に適当な場所がありそうなものだ。それとも、もっと別の理由があったのだろ うか。 いずれにせよ、彼とあの場所とのつながりを調べる方法はそれほど多くはない。最も手っ取り 早いのは運転手に話を聞く方法だ。ただ、あの運転手はほとんど一日中彼につきっきりで移動し ている。ロドリゴがいない場所で運転手だけ捕まえるのはかなり難儀だし、捕まえたところでう まく話をしてくれるかどうかは分からない。調査対象にすべき人物ではあるが、その場合には注 意深く行動する必要があるだろう。 他には誰に話を聞くべきか。目の前にいるエンリコはあまり役に立ちそうにない。何しろこの 館に来たのは私より後なのだ。彼の子供であるマルコとカルロもなかなかの難物だ。マルコは父 親との個人的な感情の方が邪魔をして、冷静な観察ができていない。彼に父親についての話を聞 いても、支離滅裂な答えしか返ってこないような気がする。とはいえ、カルロもあまり適当な相 手ではない。彼が本音の話をしてくれればかなりいい情報源になりそうな気はするが、あれだけ 勘のいいヤツだから私が何を調査しているかに気づく可能性もある。それは避けたい。 残るのは館の使用人たちだ。と言っても残りはそう多くない。まず毎日の食事を作っている料 理人だが、私はここに来て彼とほとんど話をしていない。見かけることも滅多にないくらいだ。 彼がどの程度の情報を握っているかは現時点では不明としか言えない。下男のアントニオになる と、さすがに何度も見かけている。館の主人に仕事を頼まれることも多いみたいだし、それなり のことは知っているだろう。問題は、彼が極めて無口だという点にある。私はこの屋敷に来て以 来、彼の声を聞いた記憶がない。 すると残るのはソフィアということになる。母親が死んだ時にはかなりショックを受けていた ようだが、少なくとも昨日の段階では随分と落ち着いていたようだ。注意深く対応すれば、色々 と話はしてくれるだろう。ただし、彼女の場合は裏の事情に詳しくない点が問題となる。アマー テの正体について、ソフィアは何も知らなかったようだ。あまり彼女の情報に頼りすぎるのはま ずいだろう。 とにかく、まず使用人に当たった方がいい。ただし余りストレートな聞き方をするのはやめて おこう。遠まわしに雰囲気を窺うような方法を考えるべきだ。そう結論づけて、私は腕組みを解 いた。 そして気づいた。テーブルに座ってかなりの時間が経過しているのに、一向に食事が運ばれて くる様子がない。どういうことだろうか。周囲を見渡してみると、熱心に手紙を繰り返し読んで いるエンリコの前にも食器が置いてなかった。 「おい。朝食はどうしたんだ」 「え、何ですか」 「だから朝食はどうしたんだ。もう食べたのか」 「いえ。まだです」 「まだですって…ソフィアは来てないのか」 「そういや遅いですね。何してるんでしょう」 とぼけた彼の台詞に私はため息をついた。なぜだか知らないが、彼にとっては朝食より手紙の 方が大切らしい。恋人からの手紙だろうか。ともかく、私はサファリルックの男をあてにするの はやめて自ら立ち上がった。 「様子を見てくる」 そう言い置いて食堂を出る。しばし広い屋敷の中を見渡した。どこかに厨房があるはずだ。そ れを探しだし、朝食を早期に確保しなければならない。何しろ、今日は色々と使用人たちから情 報を集め、それをニコロに伝える仕事があるのだ。町まで往復する時間を考えると、のんびりし ている余裕はない。もっと早起きすればよかったのだが、後悔先に立たずだ。とりあえず私は広 い館を経巡る冒険の旅へと一歩を踏み出した。 厨房そのものはあっさりと見つかった。問題なのはそこに料理人の姿が見えない点にあった。 見ると、朝食用と思われる料理はすでに用意してあった。後は運べばいいだけだ。だが、料理人 だけでなくソフィアの姿も見当たらない。私は仕方なくそこらにある料理を適当に見繕って運ぼ うとした。 「あ、これはお客さん」 裏口が開いて料理人が入ってきた。私が朝食を待っていたがいつまでたっても誰も来ないので どうなっているか見にきたと述べると、小太りの料理人は恐縮してあいすみません。実は朝から 急な用事で下男がいなくなったもんですからどうにも人手が足りなくて、と言いながら慌てて食 器を引っ張り出した。すぐに持っていくという彼の言葉を聞いて、食堂へ戻る。 途中であたふたと廊下を走るソフィアを見た。なにやら顔色がよくない。私は思わず立ち止ま ってどうしたんだと聞いた。私を見る彼女の瞳には、不安と焦燥が同居しているように見えた。 彼女は周囲を見渡すと、実はと声をひそめて言った。 「…行方不明なんです」 「行方不明って、誰が」 「あの、運転手さんです」 私は衝撃でしばし立ち竦んだ。彼女の話によると、運転手が今朝から見当たらないという。昨 晩は確かに屋敷の方へ戻ってきたという。自動車も車庫に入っていたのだそうだ。だが、屋敷の 中のどこを見ても、彼の姿は見当たらなかった。 「旦那様が仕事で町の方にお泊まりでしたから、相談する訳にもまいりません。とにかくカルロ 様と話して、誰でもいいから運転できる人が町へ行こうということになって、アントニオが急遽 出かけたんです」 「アントニオって、ああ、あの下男か。彼は運転ができたのか」 「はい。でもおかげでこっちの仕事がてんてこ舞いなんです。人手は足りないし力仕事は私には 無理だし、もうどうしようかと」 彼女は心底困ったような表情をした。大変なことになっているのは理解できたが、館の内情に ついてほとんど何も知らない私に手伝えることはあまりない。それは大変だろう。あまり邪魔し ちゃ悪いな。まあできることがあったら相談に乗るから、何でも言ってきてくれよ。そう言って 私は再び駆け出したソフィアの後姿を見送った。 朝食は冴えないものとなった。私から運転手が行方不明になっていると聞いたエンリコは顔色 を変え、以後はむっつりと黙り込んでしまった。運ばれてきた食事は既に冷たくなっていたが、 料理人も忙しすぎてそこまで気が回らないようだった。 それにしても、運転手が行方不明とはどういうことなのだろうか。お仕着せの制服を着込んだ 彼とは、何度も顔を合わせていたものの話をしたことはない。だが、これが私の調査計画にとっ てやっかいな問題になるのは確実だろう。彼はマルコの父親の行動についてかなり詳しく知って いる筈なのだ。彼の口を割ることができれば、重要な情報を得られる可能性が高い。そう睨んで いただけに、彼の行方不明が事実ならばまずいことになったと言うしかない。計画は始まる前か ら齟齬をきたしてしまった。 「…探しましょう」 私が朝食を食べ終えると、いきなりエンリコがそう宣言した。私はぎょっとして彼を見た。自 分が考えていたことを読まれたのではないかと思ったのだ。本当に行方不明なのかどうか確認し なくては。彼がどこに行ったか探してみるべきだろう。そんなことを考えていた時だけに、エン リコの言葉に心臓が跳ね上がったのだ。 だが、エンリコは別に読心術を使った訳ではなかったようだ。彼の顔は、純粋に事態を心配し ているものだった。 「どんな事情があったのか知りませんが、こういう時期に行方不明というのは穏やかじゃありま せん。事故に遭ったか、でなければ…」 エンリコはそこで口を閉ざしたが、彼が言おうとしていることは分かった。事故ではなく、殺 人事件に巻き込まれた可能性もある。そうだとすれば事態はかなり深刻だ。 「確かに、探した方がいいかもしれない。だけど、我々だけでやってもあまり成果は上がらない んじゃないかな」 「私たちには土地勘がありませんからね。とりあえず、マルコ君かカルロ君を見つけだしましょ う。彼らなら何か考えがあるかもしれませんから」 エンリコはそう言うと勢いよく椅子から立ち上がった。 カルロは意外と簡単に見つかった。どうやら彼も運転手の行方を探していたようだ。彼は屋敷 の敷地内をあちこち見て回っていたという。残念ながら、運転手は見つからなかったようだ。 「兄が念のため自分の車で町まで探しに行ってます。夜の間に運転手が町まで歩いていったとは 思えませんが、万が一ということがありますしね」 「分かった。で、私たちはどうしようか」 「後、探すべきところと言ったら、屋敷の周囲にある森だけです。ですけど、これは広すぎてど こを探せばいいのか見当もつかない状況ですが」 「構いませんよ。他にないのなら森を探すまでです。幸い、私はこの数日、調査で森の中を色々 と歩き回っていましたから、多少は地形の見当がつきます」 エンリコがそう言ってサファリルックのまま胸を張った。私は頷いてカルロに言った。 「屋敷の中は君の方が詳しいだろうし、それなら我々が森を探した方が効率的だろう。すぐに出 かけるとしようか」 「分かりました。ただ、必ず二人でご一緒に行動してください。お客さんに万が一があってはい けませんから。そして、決して無理はしないでください。危ないと思ったらすぐに引き上げるこ とを約束していただけるなら、ご協力を仰ぐことにします」 「約束しよう。それじゃあ」 私はそう言うとエンリコとともに屋敷を出た。門をくぐり、森の中を走る小道に足を進める。 相変わらず天候はよく、森の中は爽やかな空気に満ちていた。エンリコは周囲の様子を見ながら 話しかけてきた。 「とりあえず、どちらへ向かいましょうか」 「森は君の方が詳しいんだろう。まずは人が行きそうな場所に向かった方がいいと思うが」 「人が行きそうな場所っていうのは、どんな場所ですかね」 「改めて聞かれると困るんだが」 私は腕組みをして考え込んだ。二人とも森の中で足を止めている。木々の間からは鳥の鳴き声 が響き、空から降り注ぐ陽光は葉の隙間から地面を斑に照らす。これで何も起きていなければ、 さぞや穏やかで心地よい時間を過ごすことができたに違いない。だが、今はそんな暢気な気分に はなれない。 どこに彼は行ったのか。ソフィアは朝にはもう姿が見えなかったと言っていた。となれば夜の 間に屋敷を出ていったことになる。自分の意思で移動したのか、誰かに連れて行かれたのか、ど ちらにせよ夜の闇の中を動いたことになる。森の中は日中ですら視界が利かない。まして夜とな れば、自分がいる位置を把握することすら難しいだろう。彼が森へ来たのなら、はっきりとした 分かりやすい道を通ったと考える方が筋が通る。 「やっぱり、あの湖へ行く道かな」 「湖へ? なぜですか」 「運転手が湖に用事があったかどうかは分からないけど、あの道は森の中では一番分かりやすい ルートだろう。夜間に移動したのなら、そういうところを通った可能性が高いんじゃないかと思 う」 「そうでしょうか。むしろ、彼がどこへ行こうとしていたのかを考えるべきじゃないですかね。 単に移動しやすいというだけで歩く道を決める人はいません。普通は目的地があって、そこへ向 かうのにふさわしいルートを選ぶじゃないですか」 「それはそうだが、じゃああの運転手がどこを目指していたのか分かるのか」 「…………」 エンリコは黙って首を振った。私は、とにかくここで止まっていても仕方ないのだから湖へ行 こう。そこに何の痕跡もなければ、また別の場所を探せばいいと言った。止まったままでいるよ りはましだと判断したのだろう。エンリコも頷いて湖への道を歩き始めた。 二人は黙ったまま歩く。木の根が張り出した道は、昼間でも決して歩きやすくはない。夜間に 来たのなら、確実に二、三回は転ぶな。そう思いながら足を運んだ。やがて、エンリコが見つけ た祠の傍を通りかかった。一応、祠の周辺を見てみたが、誰かがやってきた様子はなかった。再 び小道を進む。やがて、目の前に小さな湖が開けてきた。 湖の周囲には湖岸近くまで森が迫っている。だが、地形は比較的平坦だ。その気になれば湖を 一周することもできるだろう。私とエンリコは相談して、時計回りにぐるりと湖を回ってみるこ とにした。下ばえを踏みしだき、落ちた葉を鳴らしながらゆっくりと進む。 足元に寄せる水はひたひたと静かな音をたてていた。時折湖面を風が通り、波とも呼べないよ うな僅かな揺らぎを生み出す。昼の太陽は静寂に満ちた空間を覗き込むように光を発していた。 南国らしい、明暗のはっきりした情景が私の眼を射る。この湖が私の生国にあったのなら、それ は間違いなく霧に覆われていただろう。なればこそ、祖国では湖から魔法の剣を握った手が出て くるという騎士物語がいにしえから伝わっていたのだ。英雄王が持ち、死する時まで彼とともに あった剣。コントラストのはっきりした地中海地域では、そうした幻想を抱くのは難しい。 そう言えば、カルロの読んでいた「祭祀からロマンスへ」は、まさにそのアーサー王伝説がテ ーマとなっていた。中でも、円卓の騎士たちが聖杯を求める物語の真相を解き明かそうとするの があの研究書の趣旨だった。同書の著者ジェシー・ウェストンは、聖杯物語に登場する傷ついた 漁夫王と彼の支配する荒廃国(ウェイストランド)との関係に、フレイザー卿が金枝篇で解き明 かした古代の呪術王の姿を見たのだ。傷つき、年老い、その生命力が衰えた王と、彼が支配する 水が枯れ、樹木が失せ、荒涼とした王国。王と王国との相似性。 私は首を振った。どうもこの森はいけない。オークの茂るこの森を彷徨っていると、フレイザ ーが探索した世界へと引き込まれるような気になる。しかし、そんなことを考えている場合では ない。今なすべきことは、消えた運転手を探すことだ。せめて靴跡でも見つけられればいいのだ が、下ばえに覆われた地面にそれを探すのは困難だった。何か証拠が、人間が来たという証拠が あれば。 結局、湖を一周してもそれらしいものは発見できなかった。 「…しばらく休みましょう」 エンリコが沈鬱な声で話しかけてきた。私は黙って頷くと、湖畔の石に腰を下ろした。エンリ コもまたひょろ長い身体を折り畳むようにして地面に座る。二人は申し合わせたように湖を見る とため息をついた。 「何も見つかりませんねえ」 「そうだな」 証人を確保するため勢い込んで飛び出してきたものの、僅かな時間の間に私の中では諦めの気 持ちが膨れ上がっていた。こんな何の手がかりもない捜索をいくらやったところで、時間の無駄 ではないのか。広い森の中でたった一人の行方を捜し求めることがどれほど困難であることか。 もし運転手がこの森に来ていなかったら、我々の行動は無意味となる。 そもそも、彼が本当に事件に巻き込まれたかどうかすら分からないのだ。もしかしたらやむを 得ない事情があって急遽夜の間にどこかへ出かけたのかもしれない。今ごろはもうマルコが町で 彼を見つけているかもしれない。あるいは屋敷の中のどこかでついうっかり寝過ごしていた可能 性だってある。もしそうなら、今ごろはソフィアの前で平謝りしていることになる。 いったん帰った方がいいのでは。そう言おうと思って私はエンリコを見た。彼の顔に浮かんで いるのは、運転手を探そうと言い出した時をはるかに上回る深刻な表情だった。まるで死に瀕し た人間を看取っているかのようなその思いつめた姿を見て、私は開きかけた口を閉ざした。マイ ペースなこの男が、これほど他者の安否を気遣うとは思わなかったのだ。 いや、別に不思議なことではない。考えてみれば、運転手の前にソフィアの母親が、さらにそ の前にはロドリゴの部下であるアマーテが、いずれも尋常ならざる姿で殺されていたのだ。そう した事件が続いた後でさらに行方不明者が出たら、過剰なほどに心配するのが普通だろう。エン リコは当たり前の人間らしい感情を示しているだけではないのか。異常な事態に対して、どうに も鈍い反応しか示せないのは私の方かもしれない。 私は湖と、その向こうに見える森に視線を飛ばした。湖はあくまでも穏やかであり、森は何の 変哲もなく静かに佇んでいる。たとえ人間社会で何が起きようとも、自然にとっては何ほどのこ ともないのだ。空はいつものように頭上にあり、太陽は変わらず周回を続ける。それは人間の手 が簡単には届かないもの。どれほど空に祈りを捧げようと、どれほど大地に思いを叩きつけよう と、人間の感情は自然との間にある断絶を埋めることはできない。 私は一つ気合を入れて立ち上がった。エンリコが青い顔のままこちらを見る。そろそろ捜索を 再開しよう。いつまでも座っていても彼を見つけることはできない。そう、いくら見ていても湖 も森も人間を手助けしてはくれないのだ。自分たちで動くしかない。 「分かりました。で、次はどこへ行きますか」 立ち上がりながらエンリコがそう聞いた。正直言って、私には何のあてもなかった。 「任せるよ。私より君の方がこの森には詳しいだろう。とりあえず、君が調査にあたっていた地 域にでも行ってみたらどうだろうか」 「いや、そこには多分いないでしょう」 「なぜだい」 「分かりにくい場所ですからね。普通に歩いていたら多分通り過ぎてしまうような場所ですし。 それより館の裏手の方に回りこんでみませんかね」 「館の周囲に探索の範囲を絞るのかい」 「その方が効率的じゃないかと思いますが」 私は頷いた。彼の言うことにも一理ある。エンリコが磁石を取り出すのを見て、どういうルー トを選ぶかは彼に委ねることにした。 それからは道なき道を進むことになった。時には身をかがめ、時には大きな石によじ登り、右 に曲がったり左に折れたり、立ち止まったりしばしば戻ったりした。エンリコは真剣な顔で磁石 と周囲を交互に見る。私は彼を見失わないようにしながら必死に歩いた。この時になって初めて 私はエンリコの服装が合理的であることを知った。少なくとも、あの服は汚れても問題ないもの だ。一方、私の一張羅はしだいに惨めさを増していった。 そろそろエンリコにルート選択を任せたことを後悔し始めた時、彼が足を止めた。振り返ると あちらを見てくださいと話しかけてくる。私はエンリコの指差す先を見た。森の木々を通して何 かが見える。 「…館、か」 オークの木の隙間を通すようにして見た館は、いつも見慣れている姿とはかなり違っていた。 正面の門から見るのとは違う角度から眺めているからだろう。エンリコが、ここがほぼ館の裏手 に当たると言った。私はしばらく黙ってその建物を見ていた。私の部屋から眺めていたのは、今 私が立っているこのあたりを含む景色だった筈だ。今度は館の反対側に視線を移す。木々が邪魔 をして遠景となっている山々は見えない。ざわめきだけが我々を包む。 我々は少し休んだだけで捜索を再開した。この状況では個別行動など自殺行為だ。少なくとも 私にとっては。エンリコがいなくなれば、道に迷ってそのまま餓死しかねない。カルロの言うこ とに従って二人一緒に移動したのは正解だった訳だ。 オークの木々は鬱蒼とあたりを覆っている。森を彷徨ってかなり時間がたつのだろう。次第に 周囲の暗さが増してきたような気がする。木の葉を抜けて地面に射し込む日の光が、しだいに傾 き輝きを失っているようだ。時計を見ると、いつのまにか午後になってかなりの時間が経過して いる。 もう駄目だ。これからではどう頑張っても町には行けない。ニコロとの情報交換は今日のとこ ろは不可能になった。まあ、こうした事態もあることを想定して約束を取り決めておいたから問 題はないだろう。決まった時間までに私が約束の場所に現れなければ、その日の面会は中断する ことにしている。また翌日、同じ時間に同じ場所で会えばいいのだ。 とはいえ、この段階でまだ誰からもロドリゴに関する情報を聞けていないのは問題ではある。 もう今日は仕方ないが、今後はより効率的に話を聞くようにしなければなるまい。まして、本当 に運転手が行方不明になってしまったとなると、残る使用人の数はかなり少なくなってしまう。 彼らからよほどうまく情報を引き出さなければ捜査が頓挫する可能性すらあるだろう。何を聞く かもきちんと考えておかねば。 森を覆う闇がさらに勢力を増しているような気がする。しだいに周囲を見るのが困難になって きた。私はエンリコに話しかけた。これはもう難しいんじゃないのか。エンリコは振り返り、ゆ っくりと頷いた。そうですね。やむを得ないでしょう。彼はそのまますたすたと歩き続ける。ど うにか後についていくと、いきなり視界が開けて前方に館が見えた。 「ここからなら屋敷まですぐです。疲れましたか」 「まあね。それにしても、こんな道が屋敷の近くにあったのか」 「道というより、単に空き地が連なっているというほうが正確でしょうね」 エンリコはそう言って再び歩き出した。それに続こうとした私の視界の隅で何かが光った。思 わず息を呑み、足を止める。私の声に気づいたエンリコが振り返った。私が何かを凝視している のを見て、彼が問う。 「どうしました」 「…あれ、何だ」 私が指差したのは、前方に見える木の枝だった。そこに何か夕日を反射するものがあった。私 は視線をずらさないようにしながら枝に近づく。私の頭よりかなり高いところにある。私はエン リコを見ると、肩車をしてくれと頼んだ。彼は黙って私を持ち上げた。 その枝には細い蔦のようなものが絡まっていた。私はそれを掴むと枝から引き剥がした。よく 見れば、それは宿り木だった。宿り木を空にかざし、先程私の眼を射たものを探す。あった。宿 り木の枝に親指の先ほどの大きさの何かが引っかかっている。エンリコに頼んで地面に下ろして もらい、それを見せる。 「これは、ボタンですか」 「ああ、そうだ」 私は唾を飲み込んで言葉を継いだ。 「お仕着せの制服につけられているような金色のボタンだ。すぐに戻ろう。運転手が着用してい た制服のボタンと同じかどうか、確認する必要がある」 館の主人が戻ってきたのは日が暮れた直後だった。マルコが運転する車も同行していた。カル ロが玄関口まで迎え、彼らを食堂へ案内した。食堂には使用人、客人を含め、この屋敷にいるす べての人物が勢揃いしていた。テーブルの上には金色のボタンが置いてある。暗い森の中では手 元の確認が難しかったため、引っ掛かっていたボタンを宿り木から外す作業は館で行った。 黙り込む一同の前で、彼はしばらく金色に輝くボタンを見詰めていた。その顔には珍しく困惑 が浮かんでいた。しばらく黙っていた彼は、やがていつもの席に腰を下ろした。空気が普段と違 うことに気づいたのか、マルコも珍しく余計なことを言わずに座った。運転手役を務めた下男の アントニオが空いた席に座るのを確認し、カルロが口を開いた。 「父さん、そのボタンに見覚えはありませんか」 「似たようなボタンは沢山あるからな。ただ、お前が何を言いたいかは分かる」 「なら結構です。ソフィアに確認してもらいましたが、このボタンは行方不明になった運転手が 着用していた制服のボタンに間違いないそうです。時折、外れそうになっているのをテレサおば さんやソフィア自身が縫い直していたそうですから」 カルロの話にソフィアが頷く。その顔はエンリコと同様に暗い。血の気が薄れた唇を強く噛み しめている。カルロの話を聞いて驚愕したのはマルコだった。既に予想していたのだろう、ロド リゴは黙ったままだった。 「ど、どういうことなんだカルロっ」 うろたえたようにマルコが立ち上がる。カルロは淡々と説明した。行方不明になった運転手を 探すために私とエンリコが森に向かったこと。そこで宿り木に引っ掛かったこのボタンを発見し たこと。マルコが救いを求めるように私とエンリコに視線を移す。エンリコが簡単に見つけた場 所を説明した。屋敷からはかなり近い場所。そこにこのボタンはあった。 「ボタンが引っ掛かっていた宿り木はかなり高い位置にあった。普通に歩いていてボタンが取れ たのなら、あんな場所にボタンが引っ掛かるとは思えない。何か特殊なケース、たとえば誰かと 揉みあってその拍子にボタンが弾け跳んだとか、そういうことがあったと考えられる」 私の感情を抑えた説明に、マルコの顔面からも血の気が引いていった。食堂を重苦しい空気が 包む。カルロは表情を殺して窓の外を見ている。エンリコはずっと俯いたままだ。部屋の隅を占 めている小太りの料理人は丸い顔を顰め、アントニオはいつも通りの陰鬱な表情で佇んでいる。 マルコは順々に一同の顔に視線を巡らせた。誰かが救いを提示してくれるかと期待するかのよう に。最後に彼の目は父親に投げかけられた。ロドリゴは腕を組み、瞑想するかのように目を閉じ ている。 「ボタンが運転手のものだと確認してから、私とエンリコ、それにカルロ君の三人でもう一度問 題の場所の捜索に当たってみた。もっとも、かなり暗くなっていたので十分に調べられたとは思 えない。とにかく、このボタン以外のものは何も見つからなかった」 私の解説に口を挟む者はいない。誰もが他人の様子を窺いながら沈黙を守っている。結局のと ころ、家人と使用人の視線は屋敷の主人へと向けられた。黙って腕を組んでいた彼は、やがて目 を開けると全員に向かって宣言するように言った。 「とにかく、彼の行方が分からなくなっていることは事実だ。町の方もマルコが色々と探したよ うだが、それでも見つからなかったとなるとただ事ではなかろう。明日の朝になっても行方が判 明しなければ、警察に届けた方がいい。明日、私が工場へ行くついでに警察にも言っておく」 「ま、待ってくれ親父」 唐突に言葉を遮ったのはマルコだった。一度は平静を取り戻したはずの彼の顔に、再び恐怖の 感情が芽生えていた。マルコは身を乗り出すように父親に向かって言った。 「そんなに暢気に構えていていいのかよ。もっと早く、今すぐにでも警察に伝えるべきじゃない か。何なら俺が自動車でひとっ走りして警察を呼んでくるから」 「落ち着け、マルコ」 父親の声はまったく普段と変わらない。だが、彼が保っている平常心も、マルコからは失われ ていたようだった。マルコは駄々っ子のように首を振って言った。 「これが落ち着いていられるかよ。何人目だ、おい。もう三人もやられたんだ。誰だか知らない けど、たったこれだけの時間の間にもうこんなに」 「黙るんだ、マルコ」 父親の口調が強まった。マルコの言葉が途切れる。父親は有無を言わさず話を続けた。 「…行方不明になったと言っても、まだ姿が見えなくなって一日も経過していない。相手が子供 ならともかく、今回はいい大人だ。それなりの事情があって姿を見せられない可能性はまだ十分 にある。警察沙汰にするまでにもう少し様子を見ても遅くはない」 「でも、そんなにのんびりしていたら」 「第一、警察を今から呼んだとして、彼らに何ができる? そのボタンが見つかった場所を調べ るとしても、夜の間は大したことはできない。明るくなってから警察を呼んだ方がいい。それま でに新しい情報が入る可能性もあるしな」 「情報? 情報だって? 一体どんな情報が入るっていうんだ」 マルコの声はほとんど悲鳴に近かった。 「一日駆けずり回って、何の情報もなかったんだぞ。朝から町へ行って、いる限りの知り合いに 当たって聞いたんだ。あいつを見かけなかったか、何か話を聞いていないかって。親父が動いて いない工場で何をやっていたのか知らないが、その間に俺はあいつを探して死にもの狂いになっ ていたんだよっ」 「言葉を慎め。私は工場で労働者と交渉をしていたんだ。遊んでいた訳ではない」 「交渉だと。はっ、交渉ですか。なるほど、鬼のいぬ間に洗濯ってことかい。警察が捜査を取り やめたと聞いて、今のうちに労働争議を押さえ込もうって考えたんだろう」 「ちょっと待ってくれ。取りやめたって、どういう意味なんだ」 私は慌てて口を挟んだ。マルコは激昂したまま喋り続けた。 「あんたも聞いていただろう。あの禿げ署長が言っていた家宅捜索の件だよ。俺が聞いたところ だと、あれは今朝になって急遽中止になったんだとさ。それを聞いて、親父がすぐに動き出した って訳だ。いや、もしかしたら、中止させたのは親父じゃないのか」 「何を言うんだ」 「大したもんさ。あんだけ親父を嫌っていたヤツを丸め込むんだからな。あの業突く張りに一体 いくら払ったんだよ」 「やめんか。客人の前だぞ」 ついに父親が席を立ち、大声で怒鳴った。私は何が何だか分からないまま親子喧嘩を茫然と見 ていた。そういえば確かにあの署長は今日屋敷の捜査をすると私たちに話していた。マルコの言 い方を聞く限り、実際に彼はそれに向けて準備をしていたように思える。だが、署長が今朝にな って捜査を取りやめた。 そういえばカルロが推測を述べていた。捜査をするという発言は、父親を罠に填めるためのブ ラフではないかと。実際、警察が全く姿を見せなかったところからすると、カルロの指摘は正し かったのかもしれない。だが、それにしてもマルコが捜査中止の件を話した際の父親の表情が気 になる。極めて珍しいことと思えるのだが、この紳士の顔が明らかな困惑に彩られたのだ。彼は 警察が捜査を取りやめたことに驚いているのではなかろうか。しかし、なぜ。 私の頭に浮かぶ疑問とは関係なく、親子喧嘩はさらに続いていた。 「何を企んでいるんだ。どうして警察の捜査をやめさせようなんて思ったんだ」 「馬鹿なことを言うな。私がなぜそんなことをしなければならんのだ」 「おまけに今度は、新しい情報が入るかもしれないから警察に知らせるのは明日まで待て? 冗 談じゃない。明日まで警察に知らせないようにして、その上で何かやらかすつもりなんだろう。 どうするつもりだ。証拠を隠滅するのか、それとも余計な証人を消そうって肚かよ」 「いい加減にしろっ。私がそんなことをする訳がないだろう。お前はこの私を犯人扱いするつも りか」 「違うのか、違うって言うのかよ。だったらすぐ警察を呼べよ。早く呼んでくれよっ。そうでな けりゃ」 マルコの声はほとんど泣き声になっていた。 「そうしなかったら、次の犠牲者が出るかもしれないじゃないかっ」 父親が息を呑んだ。カルロは冷たい眼で兄を見た。ソフィアが傍目にも分かるほど大きく身を 震わせた。俯いていたエンリコが顔を上げた。私はようやくマルコが錯乱している理由が理解で きた。彼は怯えているのだ。父親の、自分の周囲で死者や行方不明者が続出していることにどう しようもなく恐怖しているのだ。なぜなら、次の犠牲者が自分になるかもしれないから。 「どうするんだよ、もしそうなったらどうするんだよっ」 マルコの問いに答える者はいなかった。テーブルに突っ伏して感情のままに嗚咽を上げるマル コを見たまま、誰も口を開かなかった。ロドリゴは泣きじゃくる息子を複雑な表情で見詰めてい る。怒りと憐憫と困惑と愛情がないまぜになったようなその顔を見て、私は世間一般の親たちが よく言う「馬鹿な子ほど可愛い」という言葉を思い出していた。子供のいない私には理解できな い言葉だが、もしかしたらこの厳粛な父親と我が儘な息子との関係をもっとも適切に表現してい る言葉かもしれない。 そんな父親を、もう一人の息子は極度に冷めきった眼で見ていた。 「…とにかく」 悩んでいた父親は、静かな口調で話を再開した。 「今から行ったところで警察が来てくれる保証はない。死体が出たのならともかく、単に行方不 明というだけでは積極的な対応は期待できないだろう」 死体という言葉にマルコとソフィアがびくりと反応する。 「しかし、彼が屋敷の近くで何らかの災難に遭った可能性も否定はできない。従って、今夜のと ころは戸締まりをいつもより厳重にしておこう。明日は私が朝一番に出かけて警察に話をする。 できるだけ誰かを屋敷に派遣するよう頼んでみる。とにかく、今夜は様子を見ておいた方がいい だろう」 「…でも」 「できるだけ用心しておけばいい。全員、寝る際には部屋の鍵も忘れずに掛けておくこと。特に 窓の鍵には注意するべきだろう。犯人がどんなヤツなのかは分からないが、十分に用心していれ ばそうそう屋敷内までもぐり込んでは来ないだろう」 「そうでしょうか」 疑問を呈したのは、それまでずっと沈黙を守っていたエンリコだった。彼は真剣な眼で食堂に いる一同を見渡す。ふだんのとぼけた雰囲気とは全く違う顔つきだった。 「どういう意味ですかな」 客人の問いに対して鷹揚に答える主。エンリコはその方角に視線を据え、おもむろに口を開い た。 「お忘れですか。これまで殺された人間がどんな様子だったか」 「…何が言いたいのですか」 「見つかった遺体の血がすべて抜かれていたことですよ。まるで吸血鬼に殺されたみたいに」 ソフィアが息を呑む。マルコが恐怖に歪んだ顔を上げる。エンリコはひたすら主の方を見続け ている。しばし黙っていたロドリゴは、やがてわざとらしいくらい大きなため息をついた。 「何を言い出すかと思えば。まさか君は、本当に吸血鬼が人殺しをしているなどと主張するつも りかね」 「いけませんか」 「いかんな。学問の徒がそのような世迷言を吐くとは、実に嘆かわしい事態だ。そうは思いませ んかな」 そう言ってロドリゴは私を見た。私の顔に浮かんでいた表情を読んで話をふったのだろう。私 は頷いて答えた。 「おっしゃる通りでしょう。人間を殺すのは結局のところ人間です。この世に存在しない化け物 に怯えるのは無駄です。ただ…」 少し言葉を切った私に向かって、主が促すように目配せした。 「ただ、一連の殺人事件を起こしている人間の行動が、常人の感覚からはかけ離れているのもま た事実です。普通の人間は、全身の血液を抜いて相手を殺すなどというおかしなことはやりませ ん。犯人は吸血鬼という化け物ではなくて人間だと思いますが、普通の人間と同じ価値観や行動 原理を持っているという保証はないでしょう。その点には注意すべきです」 「そう、おっしゃる通りですな。犯人は人間だ。そして、人間なら厳重に戸締まりされた屋敷に は簡単に入ってこれないことになる。そうでしょう、エンリコさん」 私の支援を得たロドリゴは自信たっぷりにそう言った。エンリコはしばらく挑むように彼を見 ていたが、やがて一言だけ発した。 「そうであればいいのですが」 そして、再び沈黙へと下りていく。もはや誰も意見を言う者はいない。館の主人はそれではと 全員を睥睨しながら宣言した。 「これから必要な戸締まりをいたします。今夜のところはもう外出なさらぬよう。お客人もそう していただけますでしょうな。アントニオ、すぐに屋敷中のドアと窓に鍵をかけるんだ。ソフィ アも手伝うように」 アントニオは黙ったまま頷いてドアへ向かった。力弱い声ではいと呟いたソフィアも椅子から 立ち上がろうとする。だが、次の瞬間に彼女の身体は呆気なく床にくずおれた。傍にいたマルコ が軽い叫び声を上げ、カルロとエンリコが素早く彼女に近寄った。私は二人の背後から彼女の様 子を覗き見た。カルロに抱えられ、エンリコに脈をとられている彼女の顔面は文字通り蒼白だっ た。貧血だろう。こういう人間は何度も見たことがある。時折、後方から戦場にやって来たばか りの者がこんな風になっていた。 気を失っているだけみたいですね、というカルロの声を聞いて父親は頷いた。無理もありませ ん。母親が亡くなったばかりで精神的に参っていたでしょうから。エンリコがそう呟いた。確か に彼女にとっては衝撃的なことばかりが続いている状態だ。私は館の主を見て言った。 「戸締まりは私が手伝いましょう。皆さんは彼女を休ませてください」 「あ、ああ。そうですな」 同意した彼は、カルロに向かって彼女を部屋まで運ぶよう命じた。エンリコが手助けを申し出 る。二人がかりで運び出される少女の姿は、随分と小さく見えた。私は彼らを見送った後でアン トニオに向き直り、念のため二人で一緒に鍵の確認をしようと言った。アントニオは何を考えて いるのかよく分からない眼を背け、小さく頷いた。 下男の背後について歩きながら、私は考えた。この機会を逃がしてはならない。これまでなか なかできなかった調査に取りかかるべき時だ。この館の主人が、一連の殺人事件にかかわってい るのか否か。全身の血を抜くという犯人の行為に、何か合理的な解釈を当てはめられるのか。と にかく使用人たちから効率よく情報を得なければならない。 私が疑問を抱いたそもそものきっかけ。それはテレサが殺されたあの事件だった。私が死体を 発見する直前に見かけたロドリゴの姿。いる筈のない場所にいた工場主。それは単なる偶然だっ たのか。それとも彼の事件への関与を示す重大な目撃情報になるのか。私はなんとかしてそれを 確認したいのだ。 そのためには何を調べるべきか。気になるのは、アマーテが殺されるより一週間前に発見され たという日雇い労働者の死体だ。手口が同じである以上、それもまた同一犯による仕業と考える のが当然だろう。少なくとも犯人は、日雇い労働者、アマーテ、そしてテレサの三人を殺すこと のできた人間であることは間違いない。 私はとりあえず手っ取り早い方法として、この三人が殺された時のアリバイを調べることに決 めていた。三人のうち、まず日雇い労働者が殺された時にロドリゴが何をしていたのかについて 私は何も知らない。屋敷にいたのか、それとも仕事で工場に遅くまでいたのか。確か、彼は最近 になって外泊することも多かったという。当日の状況を確認したい。 アマーテが殺された夜には、彼は屋敷に帰宅しなかった。工場で仕事をしていたと本人は主張 するだろうが、その証拠があるかどうかも調べるべきだ。テレサが殺された時には、彼が死体の 近くにいたことは判明している。もし他の二件の事件の際にアリバイがなければ、ロドリゴには 犯人たりうる資格が存在することになる。 本当なら行方不明の運転手に確認する方がいいのだ。何と言ってもテレサが殺された時に彼が どこにいるかを一番よく知っていたのは運転手に違いないのだから。だが、運転手がいなくても ある程度の絞り込みはできるだろう。 私は淡々と戸締まりを確認しているアントニオに話しかけるきっかけを探した。彼に聞くべき なのは、日雇い労働者が殺された日の主人の行動だ。もしその日にロドリゴの帰宅が遅れていた り、外泊していたりすれば、彼のアリバイが一つ消える。もちろん、屋敷にいなくても他の場所 でアリバイが確認されればそれで彼の無罪が確定してしまうのだが、そうした調査まで手を回す のは私には無理だ。できることからやる。それしかない。 「全くとんでもないことになったもんだね」 できるだけ軽い調子で声をかける。少しでも相手が口を開きやすい雰囲気にできればと考えて のことだ。しかし、下男は私を振り返って胡散臭そうに睨んだだけだった。すぐに自分の仕事に 戻った彼の後姿を見ながら、とにかくなにか会話のきっかけを掴みたくて言葉を連ねた。 「そういえば運転ができるんだそうだね。知らなかったよ。どこかで習ったのかな」 「…………」 彼は振り返りもしなかった。私は少し力を込めて話しかけた。 「君はいつごろからこの屋敷で働いているのかな。こういうところで働くのには色々と苦労もあ るんだろう? どうしてこちらで働くつもりになったんだい」 アントニオが振り返った。彼は何も言わずに横を指差した。どうも廊下に並ぶ窓を示して、鍵 を確認してくれと言っているようだ。私は愛想笑いを浮かべながら一つ一つ鍵を確認した。アン トニオ自身は部屋を一つ一つ開けてそこにある窓の鍵を確認している。館は広く、調べておくべ き場所はかなり沢山あった。 どうにか一通り戸締りを確認し終えたのは、もう一時間も経過したころだった。結局、下男は 最後まで一言も口を聞こうとしなかった。もちろん、主のアリバイ確認などできはしない。肉体 的にはともかく、精神的には疲れきった私を食堂まで案内すると、彼は軽く頭を下げてその場を 立ち去った。私は自己嫌悪に陥りながら、用意されていた夕食の席へ向かった。 誰もいない食堂で冷めた食事を終える。しばしテーブルに頬杖をついて考えた。アントニオか ら情報を得るのは難しそうだ。ならば残っているのはソフィアと料理人ということになる。普通 なら口の軽そうなソフィアが真っ先に話を聞く対象となるところだが、今の状況では難しいかも しれない。一方の料理人だが、こちらはなにしろ先ほど話をしたのが初めてというのがネックに なる。彼がどんな人物なのか、それすら私には分からないのだ。 とりあえず席を立つ。アントニオを相手にした際の失敗を考えるとあまり気が進まないが、話 すだけ話してみるか。そんな風に思いながらドアを開いた時、一つの考えが脳裏に浮かんだ。私 は急遽予定を変更し、自分の部屋へ向かった。確か荷物の中に放り込んでおいたはずだ。あれは 十分小道具として使える。階段を急いで上ると、あてがわれた部屋へ入った。 目的のものはすぐに発見できた。思わず口元に笑みが浮かぶ。私はそれを手に持ったまま部屋 を出た。目指すのは厨房ではなく、ソフィアの部屋。貧血で倒れた若い女性が休んでいる部屋に いくのは、通常ならば難しいだろう。しかし、うまくいけば会って話をすることもできそうだ。 階段を下りたところで、カルロと出会った。彼は一瞬、私を奇妙な目で見たが、すぐにいつも の冷静な表情に戻った。 「戸締りはどうでしたか」 「問題はないはずだよ。それより、ソフィアは大丈夫だったのかい」 「ああ、大丈夫です。大したことはありませんよ」 冷めた口調で答える彼の顔には、今日の事件によって打撃を受けた様子は微塵も感じられなか った。まるで平凡な一日を終えたに過ぎないかのように平静で、物静かな少年。そう言えば、し ばらく前に彼のその度を越した冷静沈着さを非難したこともあった。あれは、警察署の死体置き 場近くの廊下だったか。薄暗い明かりに照らされていたあの時の顔と、目の前にいる少年の顔は 全く同じように落ち着き払っていた。 「…彼女は自分の部屋で休んでいるのかな」 「ええ」 「様子は」 「もう落ち着いていましたよ。僕もいつまでも彼女の面倒を見ている訳にもいきませんしね。大 丈夫そうだったんで引き上げたところです」 相変わらず淡々としている。自分のことで手一杯な兄とは異なり、ショックを受けたソフィア を気遣うだけの配慮はある。しかし、必要ならずっと彼女の傍にいてやろうというだけの親切さ は持ち合わせていないようだ。カルロもまた、兄ほどではないが自分勝手な人間の部類に入るの かもしれない。そんなことを思いながら言葉を継ぐ。 「実は、興奮状態を落ち着かせることのできる薬を持ち合わせているんだ。もし良かったら彼女 にあげようかと思うんだが」 そう言って手の中にある小さな瓶を見せる。その中にいくつか残っている錠剤には、かつて私 自身が散々世話になったものだ。薬が必要なくなった段階で、ようやく私は旅行に出るだけの心 の余裕を取り戻した。だが、医者は念のため旅先にも薬を持参するよう勧めたのだ。 「…いいんじゃないでしょうか。ソフィアの部屋はあそこです」 カルロがあっさりと私の意見に同意したのに、私はいささか拍子抜けした。 「あ、そうか。しかし何だな、若い女性の部屋を遅い時間に訪ねるのはちょっとあれかもしれな いしな。どうしようか」 「聞いてみたらどうですか。彼女が一人になりたいならそう言うでしょうし、入ってもいいと返 事したなら問題はないでしょう」 カルロは全く無関心な様子で義務的に口を開いた。私がソフィアの部屋に入るということに、 地球の裏側で起きていることに対するほどの興味すら抱いていないかのように。その冷静すぎて 冷淡にすら見える態度に内心辟易しながら、私は曖昧に頷いた。 「じゃあ、ちょっと聞いてみるか」 「そうですか。では僕はここで」 カルロはすぐに背を向けて立ち去った。私はその後姿をしばし呆然と見ていた。私は確かに他 人の感情を読むのが苦手な男だ。しかし、今のカルロについてはどんなに注意深い人間でも感情 を読むことなどできそうにない。というより感情があるかどうかすら不明だ。私はやれやれと首 を振ると、改めてソフィアの部屋に向かった。 異邦人の来訪に対し、ドアの向こうからは弱々しい応答が聞こえてきた。カルロはもう大丈夫 だと言っていたが、とてもそうとは思えない声だった。私がもし良かったら薬を上げようかと問 いかけると、しばしの沈黙の後でドアが内側から開いた。肩からガウンを羽織ったソフィアが隙 間からこちらを見ている。それは怯えた猫のような眼だった。私はできる限りの優しい笑みを浮 かべて見せた。 精いっぱいの演技が通じたのか、ソフィアはゆっくりとドアを開けてくれた。部屋の中は質素 であったが綺麗に片づけられていた。二つあるベッドのうち、一方には小さな花をいれた瓶が置 いてあった。彼女は母親と同じ部屋で寝泊りしていたのだろう。 気にせずに横になりなさいという私の声に小さく頷き、ソフィアは自分のベッドに腰かけた。 部屋の中央にあった椅子に腰を下ろし、とりあえず手にもった瓶を彼女に見せる。これは精神安 定用の薬だ。本当はあまり他人に飲ませてはいけないんだが、少なくともこれを飲めばぐっすり 眠れることは間違いない。 「良かったらこれを使えばいい。一日中仕事に追われていたうえに、最後になってあんな話を聞 かされたんだから、色々と疲れがあるだろう。たっぷりと寝て少しは気分を落ち着かせた方がい いんじゃないかな」 「…………」 「まあ薬が効きすぎて明日の朝寝過ごしてしまうかもしれないけれどね。こういう状態だから気 にすることはないだろう」 「…でも」 「うん?」 「でも、私くらいしか皆さんをお世話できる者がいませんし、あまり休む訳にも」 「私のことなら気にしなくてもいい。こう見えても私は長いこと戦場にいたんでね」 あまり思い出したくない過去だが。 「…自分のことはずっと自分で面倒を見てきたんだ。それに、エンリコも考古学をやっているく らいだから、あちこちで野宿なり何なりしてきたんだろう。彼も大丈夫さ」 「でも」 「カルロもそう心配することはない。彼は理にかなった判断ができる人物だ。疲れている君に無 理をさせるような真似はしないさ。マルコは…まあ彼にも頑張ってもらうとするさ」 そう言ってもう一度笑ってみせる。俯いたままの彼女を元気づけるように、弾んだ声で断言し た。 「いいから休むんだ。何なら明日は一日寝ていてもいいくらいだ。君の雇い主がそれで文句を言 うなら、私が弁護を買ってもいい。ポーシャ姫のような見事は弁護はできないかもしれないが、 できる限り君をシャイロックから守ってやるとも」 「は?」 「…いや、分からなかったらいいんだ」 我が祖国の偉大な劇作家の物語も、この少女の知るところではなかったようだ。今はさすがに 落ち込んでいるが、元々読書よりあちこち駆け回っていることに楽しみを覚えるタイプなのだろ う。私は気を取り直して言葉を続けた。 「とにかく今夜は何も心配せずに眠ることだね。私たちがきちんと戸締りは確認しておいたから 不安を感じることはない。分かったかい」 「はい…あの」 ソフィアが顔を上げた。私は何だいと訊ねる。 「貴方は随分と優しい方だったんですね。あまりそういう風には見えなかったんですけど」 「はは。これは手厳しいな」 胸の奥がちくりと痛んだ。調子のいいことを言っているが、実は私は彼女から情報を得るため にここへ来ているのだ。下心を持った人間にとって、相手による信頼の表明はかなり精神的にき ついものがある。私は嫌な仕事は早く済ませようと決意した。 「とにかく、ロドリゴさんに対しては私からできるだけ君を休ませるよう言っておくよ。もとも と彼は家にはほとんどいないんだし、それに明日もまた外泊するかもしれないだろ。屋敷内のこ とを君たちに任せっぱなしにしているんだから、時には休みを認めるのが当然さ」 「そうも行きません。それに多分、旦那様が明日外泊することはないと思います」 「え? どうしてなんだい」 「旦那様が外泊なされるのは、いつも決まった曜日なんです。ちょうどお客様がこちらにいらっ しゃった日がそうです。例外は昨晩だけですわ」 私は思わず黙り込んだ。決まった曜日に外泊する。アマーテが殺された晩、ロドリゴは外泊し ていた。そしてその一週間前、同じ曜日に、日雇い労働者が殺された。アマーテと同様に全身の 血を抜かれて。私は上ずりそうになる声を抑えながら彼女に聞いた。 「その外泊は昔からのことなのかい」 「いえ、最近一ヶ月ほどです。何かお仕事の関係だと聞いていますけど」 つまり、日雇い労働者が殺されるより二、三週間前から彼は週に一度外泊するようになったと いうことになる。ニコロの話では、日雇い労働者より前に吸血殺人は起きていない。ロドリゴの 行動が全て事件と重なる訳ではないようだ。 しかし、少なくともこの館でのアリバイはこれで消えた。日雇い労働者の時も、アマーテの時 も彼は外泊していたのだ。そして、テレサが殺された時には、まさにその現場の近くにいた。も ちろん、だから彼が犯人だと決めつける訳にはいかない。それに、外泊していたからと言ってア リバイがないとも言い切れない。彼が町のどこで夜を過ごしたのかは知らないが、たとえば工場 やホテルなどで彼のアリバイを証言する者が出てくる可能性はある。 いずれにせよ、この件についてはさらに詳しく調べる必要があるだろう。ニコロにこの情報を 伝え、まずは工場の従業員に当たってもらい…。 「あの、どうしたんですか」 ソフィアがそう問いかけてきた。黙り込んだ私の様子に疑念を抱いたのかもしれない。私は慌 てて笑って誤魔化すことにした。いやいや、何でもないんだよ。まあとにかくこの薬は渡してお くから、眠れなかったら使いなさい。一錠で十分だから。そう言いながら立ち上がろうとした私 に向かい、ソフィアは真剣な眼で言った。 「その、教えてほしいことがあるんですけど」 「何だい」 「あの、お客様の目から見て、カルロ様ってどんな風に見えますか」 「どんな風って…」 「つまり、どういうタイプの人かっていうことなんですけど。えっと、男性の目から見たらどう いう考え方をする人に見えるのかなって」 ソフィアは俯いたまま身を捩らせている。何だかよく分からないそのボディランゲージに戸惑 いながら、私は質問に答えた。 「…まあ、沈着な男だな。表面的なことではあまり動かされないというか、とりあえずじっくり 考えてから行動するというか。おそらく合理的な思考の持ち主だと思うけど」 「はあ。あの」 「まだ何か」 「ええと、あのですね、その、そういう人の場合は、どういう人が好みなんでしょうか」 「好みって」 「つまり、どういう女性のタイプがいいんでしょうか。たとえば、やっぱり頭のいい娘とか、落 ち着いた大人の女性とか」 ソフィアの身を捩る動作がさらに大げさになっていった。よく見れば顔は真っ赤だ。私が、つ まり何を聞きたいのかいと問いかけようとした瞬間に、彼女は顔を手で押さえて言った。 「や、やっぱりいいです。すみません、変なこと聞きました。忘れてくださいっ」 私はしばらく呆然とした後で、ようやく彼女の奇妙な行動を解釈する余地を見出した。もしか したら、この娘はカルロに惚れているのだろうか。そう考えれば辻褄が合うような気がする。そ ういえば以前にも、金枝篇の内容について解説してくれと頼まれたこともあった。あれもカルロ が読んでいるから興味を持ったのかもしれない。私は彼女に確認してみようかと思ったが、耳ま で赤くして視線を逸らせているその姿を見るうちに、質問をする気を失った。どうも、こういう 色恋沙汰は苦手だ。内心でそう呟いた私は、どんな顔をしていいか分からないまま椅子から立ち 上がった。 「…それじゃあ、まあゆっくり休みなさい」 「はい、ありがとうございました」 軽く手を上げてドアへ向かう。部屋を出る際、最後に見た少女の顔には再び暗い翳が落ちてい た。何かに渇えたようなその眼が、最後に私の脳裏に刻まれる。廊下を歩き出しながら、私はよ うやく理解した。 彼女が落ち込んでいるのは、母親が死んだり運転手が行方不明になったことが原因ではない。 いや、もちろんそれもあるのだろうが、最大の理由は別のところに存在する。カルロの見せるつ れない態度こそが、あの口の軽い少女が見せる憂鬱をもたらす根本的な要因なのだ。彼女の部屋 に入る前に出会ったカルロのあの妙に冷淡な態度。そしてソフィアの悩みに沈んだ表情。おそら く、ソフィアを部屋まで連れてきた後で、カルロが彼女に対して冷たい対応をしたのだろう。あ の少女にとって、それは人生最大の問題なのかもしれない。 彼女は私があげたあの薬を飲むだろうか。そんなことがふと気になった。