IV 朝食の食堂で見たのは、カルロに話しかけているソフィアの姿だった。一晩経過して少しは落 ち着いたのか、昨日に比べれば随分と明るい表情で何くれとなく呼びかけている。カルロ様はい つも食が細いんですから、朝くらいはきちんと摂っていただかないと。せめてこちらのスクラン ブルエッグくらいは。それと後でお部屋の掃除に参りますので、それまでに散らかっている本く らいは片づけてください。 ソフィアの口は普段と同じくらいよく動いていた。無理をしているのかもしれないが、いつま でも落ち込んでいるよりはいいだろう。私は敢えて明るい声で彼女に挨拶をした。彼女は振り返 り、やはりいつものように元気よく挨拶を返してきた。おはようございます。昨晩はよくお眠り になれましたか。ありがとう、おかげさまで。できるだけ日常的な会話を交わす。彼女の鉾先か ら外れたカルロが、露骨に助かったという表情を浮かべる。 「すぐに食事を用意いたします」 ソフィアはてきぱきと話して食堂を出た。これ幸いとカルロが戦場から撤収の準備に入る。 「では、僕はお先に」 「今日も読書かい」 「そのつもりだったんですが、家にいるとソフィアに捕まりそうなんで散歩でもしますよ」 「いいじゃないか、相手をしてやれよ。彼女だってその方が気がまぎれていいだろう」 「その役目はお譲りします。どうも僕を相手にするとあいつは説教したがる癖があるみたいで」 「それは困ったな。私も今日は用事があるんだ」 「そうですか。いずれにせよ長居は無用でしょうから、ここで」 慌しく言い捨てた彼は取るものもとりあえずドアを開いて出ていった。苦笑していると、入れ 替わるようにサファリルックの男が現れた。 「や、おはようございます。今日もいい天気ですね」 「うん。夜の間は曇っていることが多いみたいだが、昼になるとよく晴れるね。イタリアっての はずっとこういう天候なのかな」 「お国よりはいい天候が多いでしょう。まあ地中海の眩しい太陽をいっぱいに浴びて心の洗濯に 努めてください。ついでに身体の方も動かしたらどうでしょう」 「嫌でも動かすはめになりそうだ。今日も町まで行かなくちゃいけないからね」 「おやそれは残念。どうせ身体を動かすなら私の仕事を手伝ってもらおうと思っていたんですけ どね」 「ご期待に添えず、申し訳ない」 「それにしても町に何の用事ですか。相変わらず、吸血鬼でも追いかけているとか」 「まさか」 私が笑い飛ばそうとしたとき、ドアが開いてソフィアが食事を持ってきた。その後ろからはマ ルコもついてくる。こちらはソフィアと違って相変わらず落ち込んだままだ。目の下には隈がで きているし、表情も冴えない。彼は黙って席についた。エンリコはそちらの様子をすこし窺った 後で、また私に話しかけてきた。 「…で、どんな用事があって町に出かけるんですか」 「昨日、こちらの家の自転車を借りて町に行ったんだが、帰りが遅くなったんで警察署に預けて あるんだ」 「おやそうでしたか。で、どうやって町まで行くんですか」 「え?」 それは考えてなかった。まさかまた自転車を借り出す訳にはいかないだろう。 「こちらのご主人はもう車を仕立てて出かけてしまったようですね。もっと早起きしてあれに便 乗していればよかったのではありませんか」 「うーん。言われてみればそうだが、今更遅いしな。仕方ないから歩くとするか」 「かなり距離があるでしょう」 「しかし、時間をかければ歩けない距離でもないだろうし」 「…あの」 妙に小さい声だったが、我々に話しかけたのはマルコだった。 「何だったら、俺が自動車で送りましょうか」 「それは、もちろんそうしてくれればありがたいが…」 大丈夫なのか、と私が問うと、マルコは頷いた。部屋でうだうだしていても何の解決にもなり ませんし、少しは気晴らしもしたいと思っていたとこですから。朝食が終わるまで待っててもら えば、すぐに車を出しますよ。そう言われて私に否やはない。マルコの表情や話し振りを聞いて いる限りではまだ立ち直ったようには見えないが、それでもほとんど会話すらしなかったこれま での状況よりはましだ。何より、ソフィアが一所懸命明るく振舞っているのに、マルコが落ち込 んでいたのでは彼女だってやり切れまい。 結局、朝食はそのまま三人で摂った。相変わらずエンリコが中心になって話し、私が相槌を入 れるというパターンだった。マルコの口はまだ重いままだったが、他人を拒絶するような雰囲気 は薄らいでいた。やがて朝食は終わり、私たちは館を出た。 門を出て森へ向かうエンリコを見送った後で、マルコは車庫から自動車を引っ張り出した。こ の数日間に何度か往復を繰り返した森の中の砂利道を走る。森の木々はいつも変わらず青々とし ており、何事もないかのように風に揺れている。いや、実際にこの森にとっては毎年巡ってくる のと同じ季節が経過しているのにすぎないのだろう。人間社会のごたごたなど、この広い森にと っては宇宙の彼方で起きていることと同じ程度の関係しかない。 マルコは依然として陰鬱に黙り込んだままだった。彼が何を考えているのかは分からない。昨 日、警察署の廊下でカルロが言っていた言葉が思い出される。兄は父に甘えているだけだ。そう 言ってカルロはある感情を面に表した。それは蔑みだっただろうか。いずれにせよ、この親子の 関係は見た目通りという訳ではなさそうだ。 「…あの」 マルコがようやくといった様子で口を開いた。私は何だいと気軽な調子で返答した。しばらく 口ごもっていた彼は、やがて思い切ったように言葉を出した。 「聞きたいことが、あるんですが」 「分かることなら何でもどうぞ」 「あの、えっと、その」 「うん」 「例の、殺人事件のこと、なんですが」 マルコが押し出すように話す。まあ、このタイミングで切り出す話題といえば他にない。もっ とも、事件について何を聞きたいのかは分からないが。 「事件ね。酷い事件だな」 「そうですね。それで、その、事件についてどう思うかを聞きたいんですが」 「どう思うって、どういう意味だい」 「つ、つまりですね」 マルコはごくりと唾を飲み込むと、しばらく唇を噛んで黙っていた。やがて、正面を睨んだま ま言葉を再び紡ぎだす。 「つまり、誰があの二人を殺したのかってことです」 「犯人か」 「ええ。いったい誰があんなことをしたと思いますか。どうして人殺しなんて」 「確かに、普通じゃ考えられないような事件だな。誰があんな風に殺したのか、できれば私も教 えてほしいね」 そうだ。結局のところ、問題はそこに戻ってくる。誰が何の目的で全身の血を抜いて人を殺し たのか。分からない。説明がつけられない。 「もしかしたら、あの、親父の工場のトラブルと関係あるかもしれませんよね」 「工場のトラブルって、あの労働争議のことかい」 「ええ、そうです。あれが問題の根っこにあることは考えられませんかね」 「それはどういう意味なんだい」 私の問いに答える前に、マルコは大きく深呼吸した。そして何かを決心したかのような決然と した表情で言葉を吐き出した。 「つまり、労働争議解決に黒シャツたちを呼んだ親父の行動が、今回の事件を巻き起こすきっか けになったんです。いや、正確に言うなら、その黒シャツたちの行動を俺が邪魔したことが、最 大の理由だったんじゃないかって、俺はそう思うんですよ」 「理由、というと」 「あの日、俺たちが町に到着したあの日は、実は黒シャツがピケ破りを計画していた当日だった んじゃないかってことです。だけど、それを俺が邪魔した。黒シャツたちの計画は失敗した。そ れをヤツらは逆恨みしたんじゃないかと思うんです。ピケ破りを邪魔した俺と、その時にやって 来て黒シャツを追い返したアマーテさん。どっちも黒シャツたちから見れば親父の身内です。自 分たちを雇っておきながら、計画当日になって身内に邪魔させた。ヤツらはそう考えたんじゃな いですかね」 「ほう」 「だから、あいつらはその落とし前をつけようとしているんです。アマーテさんを殺し、うちの 使用人であるテレサおばさんまで殺して、親父を脅そうとしているんですよ。自分たちの計画を 妨害した恨みを晴らそうとしているんです。あいつらはそういうヤツらなんですよ」 私は黙って彼の言葉を聞いていた。マルコは怯えていた。自分の推理を話す彼の顔は、その推 理の中身に対する恐怖感に歪んでいた。 「ねえ、この話をきちんと警察にしておくべきだと思いませんか。あの署長は親父が全部悪いみ たいなことを言っていたけど、それは違う。悪いのはあの黒シャツどもなんです。あいつらを早 く捕まえておかないと、また誰かが殺されてしまう。そりゃ、確かにあの黒シャツを最初に呼ん だのは親父です。でも、今の親父はむしろ被害者なんだ。信頼していた部下のアマーテさんを殺 されて、おまけに、おまけに」 「おい、前を見ろっ」 気がつくと自分の話に夢中になっていたマルコは私の方を見ながら叫ぶように話していた。前 方にカーブが迫るのに気づいた私は慌てて注意を発し、それを聞いたマルコは息を呑んで急ブレ ーキをかけた。砂埃を巻き上げ、自動車が止まる。私の身体は大きく前につんのめった。悲鳴の ようなブレーキの音が止み、静けさが戻る。マルコの吐く荒い息だけが響く。 「…はあ」 胸の中に溜まっていた空気をすべて吐き出すようなため息をつく。マルコが小さい声ですみま せんと謝った。私は体勢を立て直し、席に背中を預けて数回深呼吸をした。そのうえで、隣で小 さくなっているマルコに話しかけた。 「面白い推理だとは思うが、穴があるな」 「…え?」 マルコが憔悴した顔でこちらを見る。窓の外から鳥の長閑な鳴き声が聞こえてきた。木々のざ わめきと窓越しに射し込む穏やかな陽射し。私は自然に溢れた窓外の景色を見ながら言葉を継い だ。 「最大の問題は、死体の血が抜かれていたことが説明できない点にある。あのゴロツキたちがど ういう政治的背景を持っているかは知らないが、それにしても死体の血を抜くなどという面倒で 繊細な作業ができる連中だとは思えない」 「それは、そうかもしれませんけど」 「雇い主に計画を妨害されたのを恨んで、というのも殺人の根拠としては薄弱だ。ああいうゴロ ツキどもは、むしろその計画妨害をネタにさらに雇い主から金をふんだくろうと行動するんじゃ なかろうか。わざわざ危険を冒して人殺しをしたところで、一文の得にもならない」 「でも」 「それに、あのピケ隊のところでやった君の演説が殺人のきっかけになっていたとするなら、一 週間前の日雇い労働者殺害が説明できなくなる」 「ええっ」 マルコがあげた大声に私は度肝を抜かれた。彼の方を見ると、マルコはまるで親の仇を見つけ たかのように私に詰め寄ってきた。狭い車内で彼に追い詰められた私は思わず叫んだ。 「おい、どうしたんだ。落ち着け」 「どういうことですかっ。その日雇い労働者の殺害って何なんですかっ」 「何なんですかって、言った通りだよ。アマーテさんが殺される一週間前に、同じようにして日 雇い労働者が殺されていたんだ」 「同じようにって、つまりそれは血を抜かれてたってことですかっ」 「そうだ。おい、別に私は逃げ出したりしないから、ちょっとその手を放して」 「おかしいじゃないですかっ。あの時、警察署長はそんな話を一言もしていなかったでしょう。 そんな事件が前にもあったなら、どうして話してくれなかったんですかっ」 アマーテの死体が見つかった時、確かにあの署長はその事件の話はしなかった。私はニコロか ら教えてもらったから知っているものの、考えてみればマルコもカルロもこの話は初耳なのだ。 私はとにかくマルコの手を振り解くと、中年の警官から聞いた話を詳しく教えた。我々がこの町 に到着する一週間も前から似たような事件が生じてきたことを知ったマルコの顔から、憂いの表 情がどんどん消えていった。 「…つまり、今回起きた二つの殺人事件は、その一週間前に起きた事件と同じものなんですね」 「手口、というか死体の特徴は同じだ。だとしたら関連性があると考えるのが妥当だろう」 「もしそうなら、俺があの黒シャツどもを追い返したことは、殺人とは無関係だってことになり ますよね」 「そうなるね」 「そっか。そうだったのか。良かった。俺のせいじゃなかった、俺がやったこととは関係のない 事件だったんだ。良かった、本当に良かった」 マルコはハンドルにもたれかかるようにしながら心底嬉しそうに喋っていた。どうやら、自分 がやったあの演説が、連続殺人事件の引き金になっていると思い込んでいたようだ。どうりで深 刻な表情で悩んでいた訳だ。 「ははは。何だそうだったんだ。まったく、そうならそうと最初から言ってくれりゃいいじゃな いか。良かった、助かった」 「…安心してくれたのは結構なんだが、そろそろ車を出した方がいいんじゃないのか。いつまで も道路の真ん中で停車したままって訳にはいくまい」 「え、あ、そ、そうですね。分かりました、任せてくださいっ」 威勢のいい返事をしたマルコは、勢いよくアクセルを踏み込んだ。私の身体が今度は慣性の法 則で背もたれに押しつけられる。現金なもので、悩みから解放されたマルコはまるで口笛でも吹 きだしそうなほど陽気にハンドルをさばいていた。 その横顔を見ながら考える。それにしても、本当に対照的な兄弟だ。兄の方は落ち込むのも早 いが立ち直るのも異常に早い。逆に弟の方はいつでも冷静だが、ここまであけすけに舞い上がる こともない。 それにしても、カルロの指摘はある意味で正しい。自分に責任がないと分かったとたんにマル コが豹変したという事実は、つまり今回の事件についてマルコが自分のことしか考えていなかっ たことを示している。少なくともソフィアのことを考えるなら、素直に良かったなどと言える状 態でないことくらい分かる筈だ。隣に座る陽気な男は、そういう意味で確かに甘えている。彼が 気にかけているのは自分自身だけなのだ。 私は苦笑し、自問した。そういうお前はどうなんだ。ソフィアに王殺しの話をして怖がらせて いたお前は。マルコを批判できるほどご立派だとは思わなかったよ。その通りだ。他人の感情が 読めないという点では、私とこの男との間に差はない。私とマルコの違いがあるとすれば、私が ある時から他人の感情に対する関心を失ったのに対して、彼が元々そういうことを気にかけずに いたという点だろう。 というより、マルコは他人の感情を気にする必要がなかったに違いない。根っからの陽気な彼 の性格が、結果的に他人も巻き込んでいたから。彼と一緒にいる人間は否が応でも陽気になって しまったのだろう。そうであれば、マルコが他人の感情を読むのに労力を費やす理由はない。彼 の周囲にいる人間は、基本的にいつでも陽気な者たちばかりなのだから。 明るい陽射しが窓外の豊かな自然を照らす。マルコはニコニコと笑いながら気持ちよさそうに 車を飛ばす。私は黙って正面を見た。町が近づいてくる。 警察署の前まで送るというマルコの申し出を断って、途中で降ろしてもらった。署に行く前に 約束があったからだ。昨日、ニコロと会話を交わしたあの町角へ向かう。しばらくそこに佇む。 予定していた時間にはすこし間がある。私は周囲の様子をのんびりと眺めた。行き交う人々を見 て、少し頭を空っぽにした。この数日、急激な事態の変化で頭を使うことが多かった。それが悪 い訳ではないが、たまには何も考えないのもいいかもしれない。 道路の向かい側では主婦らしい三、四人の女性たちが集まって姦しく話している。甲高い声は 道に沿ってそのままあちこちに拡散しているようだ。私は聞くともなしにその声に耳を傾けた。 怖いわよねえ。本当に嫌ね。それもこれもあのシュギシャとかいうのが出てきてからじゃないか しら。あらそうなの、あたしは黒シャツの連中がのさばるようになってからだって聞いたけど。 どっちにしても嫌よねえ、昔はこんなことはなかったのに。そうよね、吸血鬼が人を殺すなんて ことは。 「…吸血鬼」 「よお。どうしたい、呆けた顔しやがって」 声のした方角を見る。失業者じみた雰囲気をまとった中年の男がへらへらとした笑みを浮かべ て立っている。本当に警官には見えない。私は黙って井戸端会議に熱中している主婦の方を顎で 示した。ニコロはしばらくそちらを眺め、彼女らが何の話をしているかに気づいて顔を顰めた。 「…まあ、噂にならねえ訳がねえやな」 「やっぱりそうか」 「ああ。禿げ署長がいくら最初の事件を無視しても、そりゃ皆気づくさ」 「そういう情報はどこから流れてくるんだろうな。新聞か」 「あのな、この町の新聞はな、アカか黒かのどっちかさ。こいつらはどんな事件でも自分に都合 のいい書き方しかしない。これは反革命の陰謀である、あるいはこれはアカどもの謀略である。 そんなものを素直に信じているヤツはいねえよ」 「じゃあ、どっからそういう情報が出てくるんだ」 「口コミさ。一番信用ならねえ方法だが、一番正しい情報が流れるルートでもある」 ニコロはそう言って肩を竦めると、私に背中を向けて歩き出した。 「こんなとこで駄弁っていても時間の無駄だ。ついてきな」 私は男に従って歩き出した。中年男の歩調は、見た目より意外と早かった。彼は細い路地に入 り、右に左に曲がりながらわき目も振らずに歩いていく。私はただ黙ってその行動に従った。や がて狭い路地がいきなり開け、目の前に川岸が現れた。小さな川だった。曲がりくねったその流 れの両側には、申し訳程度の川原が広がっている。ニコロは川原の砂利を踏みしめながらしばら く歩き、やがて足を止めた。振り返る。 「ここがそうだ」 「…この、場所が」 私は周囲を見渡した。このあたりは雑草が川原のあちこちに生えており、視界はあまり効かな い。遠くに人家は見えるものの、それ以外は倉庫らしき建物ばかりだ。夜になれば人影はほとん どないだろう。 「ここで、殺されていたのか」 「そう。血をごっそり抜かれてな」 私は黙って足元を見た。陽射しを浴びて乾ききった砂利が靴の下で軋み声を上げる。川までの 距離は二ヤードほどだろうか。この場所に、日雇い労働者の死体が転がっていたのだ。全身の血 が抜かれた男の死体。それが、この町で見つかった最初の失血死体だった。 「死体の様子は、他のと同じだったのか」 「同じと言っていいな。死因は出血多量、というより全身の血を失っていた。目立った傷口は、 首筋についている二つの痕だけ。目撃者などはいないし、犯人の遺留品らしきものもない」 「他の死者との関係は」 「今まで調べた限りでは皆無だな。あの工場で働いていた訳じゃないし、他の被害者と何らかの 個人的な関係があった風でもない」 「要するに共通項は死に方だけか」 「そういうことになるな。もっともあんたの調査次第ではどう転ぶか分からんがな」 私は黙って頷いた。こちらから持ちかけた話だ。求められれば必要な調査はするつもりだ。私 はゆるゆると流れる川に視線を向けて聞いた。 「一つ、気になることがあるんだが」 「何だい」 「ここで死体が見つかった時には、血はどうなっていた」 「さっきも言っただろう、血は抜かれて…」 「全部抜かれていたのか? 一滴もこぼれずに?」 「ああ、現場に血痕はなかった。死体にもほとんど血はついてなかった筈だ」 「そうか。アマーテの死体はどうだった」 「同じだな。ヤツは工場の裏手に転がっていたんだが、どこにも血痕はなかった筈だ」 「そして、昨日私が見つけた死体の周囲にも、血痕はなかった」 「そうだ。全部犯人が持っていっちまったと考えるのが妥当だろうな」 ニコロは肩を竦めた。 「…貧乏性なんだろうよ。一滴でもこぼすのはもったいないって訳だ」 「かなり面倒な作業だろうな。一滴も残さずに血を持ち去るのは」 「多分な」 「犯人はその血を自分で運んだんだろう。さぞや重かっただろうな。それにこんな辺鄙な場所か ら持ち出すとなると、どこへ持っていくにしても運ぶ距離は半端じゃないはずだ。とんでもない 重労働だったんじゃないか」 「コケの一念ってヤツかな。変態のやるこた理解できねえ」 「なあ」 私は改めてニコロに向き直った。真剣な眼で彼を見る。中年の警官はとぼけた表情でこちらを 見ている。 「…そろそろ白ばっくれるのはやめてくれ。あんた、本当はこれが異常犯罪者の仕業だとは思っ ていないんだろう」 「…………」 「でなければ私の誘いに乗るはずはない。この殺人が、きちんとした理由の下に計画的に行われ ていると思ったからこそ、私の持ち出した取引に興味を持った。違うか?」 「そいつは、買い被りすぎだ」 男はそう言うと私に背を向けるようにして川を見た。 「俺をシャーロック・ホームズみたいな人間だと思っているなら、生憎だが外れだ。俺は名探偵 じゃない。隠された真実を僅かなヒントで引っ張り出せるほど頭の回転が速い訳じゃねえ」 「ならば、なぜ私の取引に応じたんだ」 「正直言って俺は、この事件は八割方異常犯罪者の仕業だと確信している。そう考えた方がすっ きりするし、その線で捜査を進めるのが最も妥当なやり方だと考えている。けど、残りの二割ほ ど、気になる部分がある。何が気になるのかは説明できん。敢えて言うなら俺の勘だな。だが、 この二割ほどの可能性をきっちり潰しておかないと、後悔することになるかもしれない。俺は後 になって、あの時こうしていればと愚痴るのは嫌なんでな」 珍しく饒舌にニコロが話した。私は黙って彼の言葉に耳を傾けていた。ニコロはしゃがみ込む と、足元の石ころを掴んで川に放り投げた。小さな水音がする。 「あんたの目撃情報も、調べてみれば単なる偶然ってことは十分ありうる。だが、俺はそれでも 構わんと思っている。結果として他の可能性が潰せれば、残っているのが真相だろうからな」 「可能性、か。可能性だけなら吸血鬼の仕業ということもありうると言ってたヤツがいたな」 「ははは、確かにな。もし、異常犯罪者の犯行説まで含めて他の可能性が全部否定されれば、そ の場合は吸血鬼が犯人ってことになるんだろうよ」 そう言うとニコロはゆっくりと立ち上がりこちらを見た。とりあえず、この場所についてはこ んなもんでいいかい。彼の問いかけに私は頷き返す。ああ、大体のところは分かった。残る問題 は今後の方針かな。 「そうだな。あんたにはロドリゴの行動と、ヤツの館の様子を伝えてもらう。どんなことでもい いから、気づいたことは報告してくれないか。その代わり、こちらからは捜査の状況について伝 えよう。と言っても、あの頭の固い署長が仕切っている状態だから、あまり期待はできないかも しれないがな」 ニコロはそう言って皮肉っぽく笑った。私は軽く頷いて言った。 「じゃあ、簡単にいくつか知っていることを伝えとこうか。アマーテが彼の腹心の部下であるこ とは間違いなさそうだ。彼の家族もそう認識している。もっとも、アマーテの正体については、 善人だという者とそれに異論を唱える者がいるけどな」 「俺の知る限りでは、後者が正解だろう。あれはかなりの食わせ者だったらしい。もっとも、腹 黒い点では雇い主のロドリゴも似たようなもんだがな。お互い相手を利用していたってとこか」 「もう一人の被害者のテレサについては、私はあまり知らない。娘がいることと、屋敷の家事全 般を取り仕切っていたということくらいかな」 「殺される前に、彼女に何か変わった様子はなかったか」 「私は気づかなかったが、そのあたりは屋敷の人間にも聞いてみよう」 「そうしてくれ。他にはないか」 「特に…いや、待ってくれ。今あの屋敷には私以外にも一人の客がいる」 「ほお。どういうヤツなんだ」 「考古学者だと名乗っているが、随分と若い男だ。確か、私がこの町についた翌日に屋敷にやっ て来た筈だ」 「ああ、そう言えばアマーテの死体確認の時に、ひょろ長い男も来ていたな」 「そいつだ。エンリコと名乗っている。もっとも、こいつはあの時以外はひたすら森の中で調査 とやらをしているようだから、あまり事件と関係はないかもしれないけどな」 「まあいいさ。そいつも念の為に様子を見ていてくれれば十分だ。ところで」 中年男はグラスを持つような手つきをしてみせた。 「…どうだ。契約成立を祝って一つ」 「乗った」 彼に案内されたのは開けてみなければ店とは分からないほど小汚い家だった。食い物は外面と 反比例しているんだ。心配するなと彼が断言してみせたように、食事はたしかに美味かった。い ささか胃にもたれそうなくらい大量に出てきたのは往生したが。 契約成立の祝杯はごくささやかな量だった。これから仕事だから、というのがニコロの言い分 だった。プロ意識はきちんとあるのだろう。少量だけ入れたグラスをちびちびと啜りながら、中 年警官は食事についての薀蓄を並べ立てた。彼の手にかかれば、この店はイタリア中から最高の 食材だけを選び出し、厳選された調味料を使って、天使の如き腕を持った調理人が食事を作って いることになる。感心してみせながら、私はふと昔を思い出した。 戦場の食い物は味など二の次だった。死なないために栄養を摂る。単にそれだけのために飯を 食っていた。最初は違ったような気がする。何の楽しみもない戦場では、食事はたとえ不味くて も数少ない楽しみの一つだった。だが、そのうちに自分の感覚が麻痺していった。美味そうに食 事をしていた戦友が、一時間後には砲弾でミンチになるのが当たり前だった場所。そんなところ で過ごしているうちに、あらゆる感覚がおかしくなっていった。 首を振って嫌な記憶を振り払う。グラスの底に残った僅かなアルコールを一気に呷る。食い物 もすべて平らげた。ニコロは名残惜しそうに立ち上がり、私の顔を見ると割り勘で行こうと言っ た。 小さな店を出て、しばらく歩く。これから私は警察署へ行って預けてあった自転車を引き取る つもりだ。ニコロはしばらく自分で調べたうえで署に行くと話した。今日は夜勤だから、昼の間 は適当にやらせてもらうさ。俺なりに調査したいこともある。 「…そういや、あんたがさっき言ってた考古学者なんだが」 「ああ、何だ」 「おかしくねえか。考古学って言ったら、あれだろ。ピラミッドとか、そんなのを掘り返すのが 仕事じゃねえか。どうしてこの国の、こんな田舎にやって来ているんだ」 「ああ、そのことか」 私は苦笑した。エンリコのサファリルックが脳裏に浮かぶ。確かに、あの格好は本来エジプト あたりで見るべきものだろう。 「住んでいる人には分からないのかな。この国にだって古いものは沢山ある」 「そりゃローマあたりにはな。でもよ、こんな田舎でそういうのを探すのはやっぱり変だぜ」 「そうでもないよ。実際、彼と一緒に歩いている時に、小さい祠を見つけた」 「祠って」 「何の祠だかよく分からないけどね。昔の人が信仰していた神を祭っているのかもしれないそう だ」 「へえ、それはどんな神様なんだい」 「おそらく、自然全体を象徴する神様だろうな。もしかしたら女神かもしれない」 「女神ねえ」 「そう、女神さ。昔の人は自然を司る存在として神を思い描いた。彼らにとっての神とは、たと えばきちんと雨を降らせたり、夏には十分な陽射しを恵んでくれたりして、最終的には豊かな実 りをもたらしてくれる存在だったんだ。穀物が実り、家畜が沢山子供を産む。そういう収穫は女 神のおかげだと思っていたのさ」 「ふうん」 「つまり神というのは豊饒をもたらしてくれる存在だったんだ。未開人は、自然の運行によって 得られる収穫を、神という意思を持った存在による恵みだと解釈していたんだ。要するに擬人化 して考えていたんだな。バビロニアの太女神イシュタル、西アジアのアルテミス、プリュギアの キュベレ、皆豊饒や再生を司る女神だ。未開人たちは自然そのものを女神に見立てていたのさ。 おそらく、自然によってもたらされる豊饒と、女性の持つ子供を生む能力とが似ていたから、そ こから類推したんだろうな」 「あー、何だかよく分からんが、その考古学者とやらは女神様探しに来てるってことか」 「女神探しかどうかは知らないけど、まあそのくらい昔の人が暮らしていた時代の痕跡みたいな のを調査しようとしているんだろうな」 「やれやれ。学者っていうのは何が面白くてんなことやってんのかねえ」 ニコロは片手でぼさぼさと髪の毛をかき回した。 「さあてね。でも、この国にも昔はそういう女神を信じる人々がいたんだ。おそらくディアナと いう名前で呼ばれた女神をね」 「ディアナって言ったら…確か、月の女神じゃなかったっけ」 「へえ。よく知ってるな」 「戦友の中に、そういうのが好きなヤツがいたんだよ。死んじまったけどな」 「…そうか」 ニコロは黙り込む。私もまた何も言わずに歩いた。彼が過去を思い出しているのが分かったか らだ。彼が戦ったのがどんな戦場だったのか、私は知らない。また、私の戦場がどんなものだっ たかも、彼には理解できないだろう。だから余計なことを言うべきではない。思い出はただ沈黙 とともにあるべきものだ。 しかし、世間は私のそんな感傷に配慮してはくれなかった。いきなり通りの向こうから、かな り激しい喧騒が聞こえてきたのだ。数十人が争っているかのようなその物音は、我々の歩いてい るところまではっきりと届いている。だが、建物が邪魔して何が起きているのかは分からない。 「何だあれは」 「…やれやれ、始まっちまったか」 「何だって」 ニコロは険しい目つきで騒動の方角を見ている。その時、私は気づいた。騒ぎが起きているの が、この数日間ピケットを張っていた工場の方角であることに。私は息を呑み、呟いた。 「ピケ破りか」 「そうだ。おそらく黒シャツどもだろう」 「止めないと」 思わず走り出そうとした私の腕をニコロががっしりと掴んだ。振り返ると、彼は黙って首を横 に振った。 「なぜ止めるんだ」 「よせよ。騒ぎに巻き込まれるだけ損だぜ。怪我でもしたらつまらん」 「そんなことを言っている場合じゃ」 「あんたに何の関係があるんだ? あの工場の争議は、そこで働いている労働者連中と雇い主と の間の問題に過ぎない。よそ者が首を突っ込んでも、何の解決にもならないぜ」 「それはそうかもしれんが」 「それに、今じゃあそこはアカとファシストの代理戦争の場みたいになっている。手を出したら 火傷するだけだ」 「だからと言って」 「俺との取引を忘れたのか」 「何?」 「あんたは俺に情報を渡すという仕事がある。こんなくだらん争議に付きあっている暇なんかな い筈だ。違うか」 「その通りだ。だが、私が伝える情報はあの工場の工場主に関連するものだろう。だったらこの 争議も無関係とは言えない」 「無関係かどうかじゃない。混乱の最中に出かけていっても役に立つ情報は得られないってこと を言いたいんだ。分からないヤツめ」 「何だと」 「とにかく今はやめろ。無意味だ」 「だが」 「落ち着け。騒ぎはどうせ長続きしない」 私は工場の方角を見た。悲鳴や怒号が飛び交う方向へ向かって、野次馬に行こうとしている市 民たちが走っていく。次いで、一人の作業服を着た男が人の流れに逆らって歩いてきた。見ると ピケを張っていた労働者たちの一人のようだった。彼は布きれで頭を押さえながらよろよろとこ ちらへ近づいてくる。布が赤く染まっている。黒シャツにやられて、思わず逃げ出してきたらし い。私はそれを見て、ニコロの手を無理やり振り解いた。 「おいっ」 「やっぱり放っておけない」 「馬鹿なことを。すぐに警察が来るぞ。あの禿げ署長がこんなおいしい場面を放っておく訳がな いだろう」 「構わん」 「俺は行かないからなっ」 ニコロの叫び声を背後に聞きながら走る。怪我していた労働者はよろよろとわき道へ消えた。 私はしばし悩んだが、結局まっすぐ工場の入り口へ向かうことにした。野次馬をかき分けるよう に進んでいた時、甲高いホイッスルの音がした。私の身体が硬直した。 「警察だっ。大人しくしろっ。無駄な抵抗はするなっ」 騒ぎが広まり、野次馬がどっと崩れた。私は流されるように人波に押され、工場の壁に押しつ けられた。視界の隅で警察隊が工場の入り口になだれ込むのが見える。ホイッスルが何度も鳴ら される。その心臓を突き刺すような音が私の鼓膜を通し、脳髄へ流れ込む。全身の筋肉が堅く強 張り、心臓が激しく鼓動する。頭に血が上る。目の前が赤く染まっていく。ホイッスル。響き渡 る音。誰かの声がする。進め。何をしている。梯子はどこだ。早く登らなくては。塹壕を出てそ して。砲弾。煙幕。断続的な金属音。梯子は、梯子は。 「どうしましたか。大丈夫ですか」 耳元で声がした。真っ赤に染まっていた視界が少しずつ輪郭を取り戻してくる。私はずきずき と痛むこめかみを気にしながら声の方向を向いた。壁に張りつくようにしていた私の顔を誰かが 覗き込んでいる。ああ、そうだ。ここは塹壕じゃない。あの戦場じゃない。戦争はもう終わった んだ。 見覚えのある顔が私に向かって言う。顔色が悪いようですが、どこか打ったんですか。いや、 大丈夫です。ちょっと人ごみが酷くて気分が悪くなっただけですから。もう落ち着きました。私 はそう言って工場の入り口に視線を向けなおした。警察に追い散らされたのか、既に黒シャツた ちはほとんど姿を消していた。大声で喚く労働者たちは依然としてそこに座り込んでいる。入り 口を塞いでいたバリケードは半分破られ、その残骸が路上に散乱している。黒シャツたちは目的 を半分だけ果たしたようだ。 「本当に大丈夫なんですか」 背後から聞こえた声に慌てて振り返る。そこには、昨日の昼間に工場の裏口で話を聞いた、あ の若い女事務員が立っていた。私は少し驚いた。まさかこんなとこで知った顔に出会うとは。そ の時、彼女も私のことを思い出した。 「…あら、貴方は確か」 「こ、これはどうも」 「昨日の探偵さんですね。今日も何か嗅ぎまわっているんですか」 彼女の顔に笑みが浮かぶ。きつい台詞をかましてくれたが、その表情は柔らかだった。私は彼 女のその落ち着いた笑顔に引きずられるように苦笑した。 「いや、私は別に探偵という訳では」 「そうでしょうね。人ごみに揉まれただけで気分が悪くなるような身体の弱い人が、探偵なんて 稼業ができるとは思えませんし」 「ははは、お恥ずかしいところを」 おい、ぼさっとしてないで手を貸してくれ。そんな怒鳴り声がした。彼女はすぐに真剣な表情 に戻ると、失礼と短く言って工場の入り口へ向かって歩き出した。よく見れば、彼女の手には救 急箱がぶら下がっていた。私はその後姿をぼんやりと見送った。彼女の向こうに、興奮した様子 で騒いでいる若者がいる。大丈夫だ、大したことじゃない。それよりこれはどういうことだ。あ いつら、何てことをしてくれたんだ。大声で喚いているのはマルコだった。一瞬呆気に取られた 私は、思わず声をかけていた。 「マルコ。何をしているんだ」 何をしているじゃありませんよ。まったくヤツらめ、とんでもないことをしやがって。マルコ は酷く興奮している。やむを得ず、私は歩いて彼に近づいた。それでようやく彼は私が誰である かに気づいたようだ。あれ、どうしてこんなとこにいるんですか。 「あれだけの騒ぎならどこにいても気づくさ。それより、君こそこんなところで何をしているん だ」 「見かけたんですよ。あの黒シャツ連中がつるんでここに向かって歩いてくるのを。だから急い で皆に知らせに来たんです。知らせた直後ですよ、あいつらがいきなり殴りこんできたのは。全 く、諦めたかと思っていたらあいつらめ」 「まさかと思うが、またここで黒シャツ相手に演説をぶったんじゃなかろうな」 「そんなことしている余裕はありませんってば。こっちの言うことなんか耳を貸さずに、有無を 言わさずピケを壊し始めたんですよ。後はもう滅茶苦茶な揉みあいです。こっちも相当な怪我人 が出ましたけどね、同じくらいはやり返してやりましたよ」 私は唾を飛ばして話すマルコを見ながら、内心で大きくため息をついた。これが今朝方まであ れほど落ち込んでいた男のやることだろうか。つい朝までは自分がきっかけになって殺人事件が 起きたのではないかと怯えていたのに、今ではまるでリソルジメントの英雄気取りだ。カルロが 兄に対して皮肉交じりの視線を向ける気持ちも分かる。これでは子供だ。 私の内心などお構いなしにマルコは武勇談をとうとうと語っていた。困ったことに、その場に 居合わせた労働者たちが彼を囃したてるものだから、いよいよマルコの口調が熱くなる。まあ、 興奮して話しているのはマルコだけでなく他の労働者も同じなのだが。口を挟む機会がないまま 立ち尽くしていた私の横から、誰かがマルコに話しかけた。 「…怪我をしているじゃないですか。ちょっと座ってください」 「エレナ」 エレナと呼ばれたのは、あの女事務員だった。彼女はなおも話そうとするマルコの腕を掴むと 強引に腰を下ろさせた。そのまま濡れた布でマルコの頭部を拭く。よく見れば、彼の側頭部から 血が一筋流れていた。マルコは手当てを受けながらなお自分がいかに抵抗したかを身振りを交え て話している。エレナがてきぱきと作業しながら言った。 「マルコさん、動かないでください」 「え、いやでも」 「とにかく静かに。話なら後でいくらでもできるでしょう」 「そりゃそうだけどさ」 「まあまあ、マルコ君。彼女の言う通りだよ。手当てを受けている間くらいは静かにしているも んだ」 私は苦笑しながらそう言った。マルコが不満そうに唇を尖らせる。エレナはこちらをちらりを 振り返ったが、すぐに手当てに戻った。しばらくたって、派手に包帯を巻き終えた彼女はこれで 終わりです。ご苦労様と言って救急箱を閉じた。そして、すぐに私の方に振り返った。 「マルコさんのお知りあいだったんですね、探偵さん」 「まあね」 「探偵って、どういう意味なんだい」 マルコが不思議そうにエレナに話しかけるのを、まあ気にするなと遮る。それより、良かった らこちらの女性がどなたなのか教えてほしいんだが。私の問いに対し、マルコはあっさりと答え る。 「親父の秘書ですよ。アマーテさんほどじゃないけど、結構信頼されているみたいですね。そう でしょ」 最後の言葉はエレナにかけたものだった。彼女はさあどうでしょうかと軽くいなし、すぐにで はあなたはどなたですかと私に問いかけた。マルコの家に世話になっていることを告げると、彼 女は不審そうな表情で私を見た。 「社長の家にやっかいになっているお客さんが、どうしてアマーテさんの身辺調査なんかしてい るんですか」 嫌なことを問う女性だ。横合いからまたマルコが口を挟む。身辺調査って何です。アマーテさ んがどうかしたんですか。私は彼を無視し、慌ててエレナに言い訳をした。身辺調査だなんてと んでもない。そんな意図を持って話を聞いた訳じゃないんですよ。 「…ただ、アマーテさんの死でマルコ君がショックを受けていたようだったから、私でお役に立 てることでもあればと思ってね」 「え、それってどういう意味ですか」 今度はマルコが突っ込んできた。私は背中に冷や汗を感じながらさらに弁解を続けた。 「つ、つまりだね。ほら、アマーテさんの死因は何とも変だったじゃないか。全身から血を抜き 取られていたんだっけ? どうしてそんなことになったのか、それが分かれば少しは犯人像も見 えてくるかなって、ね。犯人が分かれば、マルコ君だって少しは溜飲が下がるだろう」 「そりゃそうですけど、でも犯人が分かるんですか」 「いや、残念ながら僕にはあまり探偵の才能はなかったようだ。さっぱり分からなかった」 悔しそうな演技をしてみせながら、横目でエレナの様子を窺う。どこまで私の言うことを信じ ているのかは分からないが、とりあえずこれ以上私を問い詰める気はなさそうだ。彼女は落ち着 いた様子で口を開いた。 「お気持ちは分かりますが、そういうことは警察にお任せするのが筋だと思います」 「そ、そうですね。その通りでしょう」 「でしたら、今後はそういう調査は控えた方がいいのではないでしょうか。自分の家の客人が探 偵の真似事をしていると知ったら、社長もいい気分にはならないでしょうし」 「は。肝に銘じます」 きっちりと釘を刺してくれた。なかなかどうして、思ったよりしっかりした女性だ。 「それと、マルコさんにも言っておくことがあります」 「へ? 俺?」 いきなり鉾先を向けられたマルコは目を白黒させる。エレナは淡々と話した。 「働く方々の味方をしたいという気持ちはご立派ですが、やり方がいけません。このようなこと をしても、社長がお喜びになるとは思えませんが」 「ま、待ってくれ。俺は別に親父のためにやっている訳じゃ」 「別に社長のために行動する必要はありませんが、もっと自分の行動に対して思慮を働かせるべ きではないでしょうか。そもそも、マルコさんは今回の行動について自分で責任が取れるのです か」 「せ、責任って」 「もし、ここで貴方が揉みあった相手に怪我でもさせたら、逆に貴方が大きな怪我をしたら、そ の時に貴方は自分で責任をとって決着をつけられるのですか」 「いや、それはその」 「学生とはいえ、マルコさんももう大人になるべきです。ならば、大人として相応しい行動とい うものを考えてください」 「大人として、って」 「マルコさんがきちんと考えて行動されるのであれば、たとえそれが社長の意に添わないもので あっても構わないと思います。ですが、大した考えもなしに行動するのであれば、どんな行為も 無意味です」 「か、考えはあるぞ。俺だってな、ちゃんと労働者の権利を守るということを考えて」 「そういう台詞は自分で責任を取る覚悟を決めてから言ってください」 ぴしゃりと決め付けられたマルコは、口の中でもごもご言うだけだった。見事である。ほとん ど同年代に見える二人だが、実際に仕事をしている人間と、単に親の脛を齧っているだけの者と の間には大きな差がある。私は感心してこのエレナという女性を見た。この芯の強さはいったい どこから来たのだろうか。 「…エレナさん」 「何ですか」 彼女が私の問いかけに振り向いた。 「一つ教えてほしいんですが、あなたはどうしてこのストライキに加わっていないんですか」 「どうして、というと?」 「あなたもこの工場で働いているのでしょう。同じ労働者として参加すべきでは」 「社長の秘書がこういう場に参加するのは問題があると思います。それに、工場の従業員が全員 強制的に参加させられるのは、かえっておかしな話ではありませんか」 「それはまあそうですが」 「自分なりに考えた結果です。それでは」 そろそろ社長のところに戻らなければなりませんので。彼女はそう言って救急箱を手に颯爽と 歩み去った。実に隙のない女性だった。私の隣で腰を下ろしたままのマルコがやれやれといった 感じで呟いた。 「…どうも彼女は苦手なんだよな」 「君たちは知り合いだったんだな」 「そりゃまあ、親父の秘書ですからね。俺が工場を訪ねた時なんかに何度か顔を合わせています から」 「しかし、随分と若く見えるが」 「でしょうね。雇ったのも割と最近だったと思いますよ」 マルコはそう言った後で、おやと首を傾げた。彼の視線を追うと、その先には特徴のある禿げ 頭があった。いつの間にか署長がやって来ていたようだ。事務棟から出てきた彼は、満面にして やったりという笑みを浮かべ、胸を張って歩いている。こんなおいしい場面を、あの禿げ署長が 見逃すはずがない。ニコロが言っていた言葉が脳裏をよぎる。 「おや、これはこれは。どこかで見たような人たちが並んでいますな」 署長は嬉しくてたまらないといった様子で我々に話しかけた。マルコの表情が憮然としたもの に変わる。彼にしてみれば、この署長は自分を悲嘆のどん底に陥れた忌むべき人物なのだろう。 だが、そのマルコの不機嫌な顔を見た署長はさらに歓喜を募らせたようだ。署長にとっては、マ ルコは政敵の息子だ。敵にとって不快なことは、味方にとっては快楽となる。大方そんなことを 考えているのだろう。 「まったく困ったもんですな。余計なトラブルは慎んでもらいたいもんだ」 「何のことですかね」 「分からんのかね、マルコ君。この争議、いやもはや私闘というべきかな。公の場で数十人が乱 闘するなど公共の秩序と善良なる風俗を乱す行為ではないかね」 「悪いのはあの黒シャツどもだろ。警察はあいつらを何とかすべきだろうが」 「もちろん、何とかしますとも。その背後にいるヤツも含めて、一網打尽にしますよ」 下卑た笑みが署長の顔に浮かぶ。マルコの顔に浮かぶ不快感がさらに強まった。それをさらに 煽るように、署長が言葉をつなぐ。 「そうそう、それともう一つ。明日にでもおたくの屋敷にお邪魔しますので」 「何だと」 「捜査班を引き連れてまいりますよ。徹底して調べさせてもらいますから」 「どういう意味だっ」 「殺人事件の捜査ですよ。何しろ殺された二人は、どちらもおたくとの関係が深い人物だ。そち らの屋敷を調べずして、真相を探り当てることは不可能でしょうし」 「ちょっと待て。確かに二人とも我が家と関係が深いのは事実だが、しかし彼らは被害者じゃな いか。なのにどうしてうちの屋敷を調べる必要があるんだ」 「被害者と加害者というのはね、深い関係にあることが多いんですよ。マルコお坊ちゃんはご存 じないかもしれませんがね」 「ふ、ふざけるなっ」 マルコが激昂して立ち上がった。 「血を抜かれた死体は二つだけじゃないはずだろうっ。もう一人、一週間前に殺された人がいる 筈だ。どうしてそいつの捜査をしないんだっ」 思わぬ反撃に署長の顔が歪んだ。だが、彼はすぐに自分を取り戻したようだ。すぐに余裕のあ る態度を見せて返事をする。 「…そういえばそんな事件もありましたな。ご心配なく。こちらはこちらできっちりと解決して みせますよ。あなたがその件を気に病む必要などありませんから」 「何だとっ」 「では、今日はこの辺で。また明日」 署長はマルコを鼻であしらいながら立ち去っていった。マルコは憤懣やるかたない様子でいつ までも怒っていた。私は黙ったまま、署長の言ったことについて考えを巡らせていた。 マルコの怒りは帰宅後まで続いたようだ。私が警察署を経由し、自転車をこいで館に戻ってき た時には、彼は食堂で演説をぶっていた。この数日、部屋に閉じこもって沈黙していた分を取り 返そうとするかのように、彼の口は忙しく回っていた。相手をさせられていたのはエンリコとカ ルロ、そしてソフィアだった。 家を出る前とは随分雰囲気が違う目の前のマルコの様子に驚き呆れているのはエンリコだけの ようだった。私が帰宅してきたのに気づくと、彼は何やら必死に目配せをしてきた。飄々として 物事にこだわらないように見える彼にとっても、マルコの変貌ぶりは刮目に値したのだろう。い ったいこいつはどういうことなんだ、という彼の無言の問いに、私は肩を竦めて答えた。 彼に比べてつきあいの長いカルロとソフィアは悠然たるものだった。カルロは適当に相槌を打 ちながら本の頁をめくっていたし、ソフィアは自分の仕事に完全に没頭している。私は黙ってた め息をついた。彼らの様子を見る限り、マルコの我が儘で気まぐれな態度はいつものことなのだ ろう。 もっとも、マルコ自身は聞き手のそうした態度にも無頓着だった。彼はひたすら熱狂的な言辞 を弄して自らの精神の鼓舞に努めているかのようだった。 「…こうやって俺はファシストどもと戦ったんだ。彼らの横暴な行為に対して、労働者たちとと もに立ち上がったって訳だな。もちろん、俺のやったことなんてちっぽけなもんさ。だけどな、 たとえ小さなことであっても、そういう熱情を持った行動を続けることによって、やがては革命 へといたる大きな流れができあがるんだよ」 彼の演説にさしたる感銘を覚えなかった私は、無遠慮に横にいたカルロに話しかけた。 「父上はまだお帰りじゃないのかい」 「まだですけど。何か父に用事ですか」 演説を中断されたマルコは不満そうな顔でこちらを見ている。私はそれを無視して会話を続け た。 「用事というほどではないんだが、まあ伝えておいた方がいいかと思ってね」 「伝えるって、何をですか」 「うん。今日あの警察署長に会ったんだが、彼が明日にもこの館を捜査したいと話していたんだ よ。例の殺人事件についてね」 「あ、そうそう。それ言ってた」 いきなりマルコが横から口を挟んだ。どうも高尚な演説を聞いてもらえなかったことより、お 喋りを邪魔されたことの方が気に食わなかったようだ。自分が会話に参加できる話題なら何にで も首を突っ込みそうな雰囲気だった。 「それにしても全くもってけしからんですよ。警察の仕事は公序良俗の保持でしょう。であれば 我が家の捜索よりまず真っ先に黒シャツどもの検挙に当たるべきです。そうは思いませんか」 「そうかもな。しかし、今は警察への不満を述べるよりこの事実を君の父上に知らせる方が先だ と思うが」 私の話に、マルコはまた口を尖らせた。彼を動かしているのは、父親に対するアンビヴァレン トな感情だ。だから父親の工場で起きた労働争議で労働者の味方になりながら、警察署長が父親 を敵視しているのを知ると不快感を隠さなくなる。実にやっかいなお坊ちゃんだ。私は子供に言 い聞かせるようにゆっくりと言った。 「もし本当にこの館に警察が乗り込んでくるのなら、きちんと対応を考えなくちゃいけない。し かし、どう対応するかを君が決める訳にもいかないだろう。それは館の主人の役目だ」 「それは、そうですが」 「とにかく時間があまりないんだ。彼はいつも何時頃戻ってくるのかな」 「いつもならそろそろ帰ってくる時間ですが」 カルロはそう答え、ソフィアを見た。確かそうだったよな、ソフィア。ええ。ですが日によっ ては遅くなることもありましたし、一概には何とも。ソフィアの返答を確認したうえで、カルロ は再び私を見て言った。 「…ところで、署長からその話を聞いた場所はどこですか」 「君の父上の工場だけど」 「もしかしたら、その時に署長は父のオフィスを訪ねているんじゃないですか」 私は少し考えた。そういえば署長は工場の事務棟から出てきたように記憶している。あの騒ぎ の後で事情聴取のために事務棟に行ったのだろうが、それならそこでロドリゴと会っていても不 思議ではない。 「その可能性はあるだろうな」 「であれば大丈夫だと思います。父はきっと警察側の動きに気づいているでしょう」 淡々と話すカルロの様子は、まったく普段と変わりない自然体だった。私は彼がそう判断する 根拠を問い質した。 「…兄が言ってましたけど、昼間に工場でピケ破りがあったそうですね」 「ああ」 「普通に考えれば、これは労働者に手を焼いた雇い主の仕掛けたことでしょう。けど、今回は違 うと思います」 「なぜだい?」 「時期が悪すぎます。殺人事件に巻き込まれかけている父が、この時期に黒シャツたちを使って さらに労働者側と事を構える必然性はありません。あの人なら、もっと勝ち易い時に仕掛ける筈 ですから」 カルロの歯に衣着せぬ言い方に一番ぎょっとしていたのはその兄だった。マルコにとっては愛 憎の対象である人物について、弟がまるでサッカーの試合を分析しているかのように客観的に見 ている事実がマルコを驚かせたのだろう。私は黙ってカルロに続けるよう促した。 「とすれば、黒シャツをけしかけたのはむしろ父を追い詰めたがっている人間だと考えた方がい いでしょう。父もそう考えている筈です。誰がやったのか。騒ぎを待ち構えていたかのように介 入した人物あたりが怪しい。その人物は何とか父と犯罪を結びつけたくてうずうずしている人物 ですから」 「ほお」 「しかし、労働争議だけで父を追い詰めるのは難しい。町の有力者の中にはアカを毛嫌いしてい る人も多いし、そういう人々がこのケースでは父の応援に回ることになる。従って、父の敵とし てはもっと決定的な何かを持ち出して勝負する必要性があります。この場合はもちろん、父の部 下や使用人が殺されたあの殺人事件との関連になりますね」 「お、おい。カルロ」 「本命である殺人事件の方で自宅捜索に踏み切る。これの方が父に与えるダメージは大きい筈で す。今日のピケ破りはその前に仕掛けた揺さぶりでしょう。そして、その程度のことなら父も分 かっていると思います。だから別に急いで知らせる必要はないと思いますよ」 私は呆れてこの少年を見た。呆然としているのは兄もエンリコも同じだ。ソフィアまでが目を 白黒させてカルロを見ている。カルロは一通り話すと、早くも署長の動向には関心を失ったかの ように目を書物に落とした。マルコが慌てて口を開く。 「ま、待て、今言ったのは本当なのか」 「本当かどうかは分かりません。全部、僕の想像ですから」 「何を言ってるんだおいっ」 マルコが吠えた。 「そんな無責任な言い方はないだろう。親父が殺人犯にされるかもしれないって時だぞ。この屋 敷に警察が来るかもしれないんだぞ。なのに、想像だけでそんな結論を出していいのかよ」 「なら兄さんには何かうまい考えでもあるのかい」 「いや、それは」 「それに、父さんがここにいてその話を聞いたとしても、特に何もしなかったんじゃないかと思 うけどね」 「何だってっ」 マルコの叫び声を聞いたのはこれが何度目だろうか。カルロは相変わらず淡々と答える。 「元々、警察がやろうとしているこの屋敷の捜査はかなり無理があるやり方だよ。被害者のうち 一人は確かにこの屋敷で働いていたけど、もう一人は違うじゃないか。そんな状況で父さんを犯 人に仕立てようと館を調べても証拠不十分で終わる可能性は高い。そうなったら、これは明らか に警察側の失点になる」 「な、それは、その」 「むしろあの署長は、警察が行くぞと言って脅しておいて、父さんがそれに反応して動きを見せ るのを待っているんじゃないかな。たとえば証拠隠滅と思われるような怪しい行動をするとか。 そうなれば署長の計略は大成功だろ」 「え、つ、つまり」 「つまり、署長が私やマルコ君に明日捜査に行くと言ったのは、君の父上を陥れるための罠だと いうことになるのか」 「そうですよ。そして、その程度なら父も知っていると思います。だから、僕たちがここで何か をする必要はありません。何もせずにぐっすりと休めばいいんです」 カルロはにこやかにそう言った。全員ひたすら黙り込んでいる。反論できない、というより無 理やり納得させられてしまったからだ。冷静沈着な少年だと思っていたが、どうも思った以上に とんでもない男のようだ。 私は別にカルロの推察が正しいと思った訳ではない。結局のところ、それは彼の想像に過ぎな いのだから。私が感心したのは、カルロが舌先三寸でここにいた一同を丸め込んでしまったとい う事実の方だ。おそらく彼は父親があの事件の犯人である可能性は少ないと見ているのだろう。 手間をかけて人間の血を抜き取るような犯人像と父親とは、決して一致しないと考えているに違 いない。となれば、警察の捜査があるからといって慌てて対応策を練る必要はない。何しろ犯人 ではないのだから捜査をしても何の証拠も出てこないことになる。 「ついでに言うなら、父さんは今夜帰ってこない可能性もあると思うよ」 「な、何でだよ」 「最も疑わしくない行動は、館に戻ってこないことだからさ。戻ってこなければ証拠を隠滅する こともできない。何か仕事が忙しいとか言い訳をつけて今夜は帰宅しないんじゃないかな」 弟の台詞を聞いた兄が、呼吸困難に陥った金魚のように口をぱくぱくと動かしていると、玄関 から人の声が聞こえてきた。気づいたソフィアがすぐに駆け出し、やがて生気を抜き取られたか のような表情で戻ってきた。彼女は一同を見渡すと、起伏のない声で告げた。 「今、運転手が帰ってきました。旦那様は今夜はお仕事があってお戻りになられないそうです。 お客様にその旨を伝えるようにとのことでした…」 一同が息を吐き出す音が聞こえるかのようだった。一同を驚愕させたカルロはもういつもの冷 静な表情に戻って本を読んでいる。私は内心舌を巻いた。これは参った。どうも私にとってやっ かいな事態になりそうな気がする。 昼間、ニコロが私と交わした約束が思い出される。あの男の動向を探ってくれ。マルコとカル ロの父親についての情報を提供してくれれば、かわりに殺人事件の捜査状況を知らせる。私は彼 に言ったことを守らなければならなかった。そのためには、まず何よりこの屋敷の主に疑われな いことが肝心だった。 帰宅するや否や警察署長が言っていた捜査の話をロドリゴに伝えようとしたのも、それが理由 だ。何しろ私がアマーテのことを調べていたのを、彼の秘書であるエレナが知っている。私がや ったことが彼女を通じて伝われば、彼は私を疑うだろう。何しろ彼はあの町の有力者でもある。 その気になれば私とあの中年警官が組んでいることまでばれてしまう可能性が高い。そうなった ら、私がやろうとしている調査など不可能になる。 そうした望ましくない事態を避けるにはどうするか。私が考えたのが、とにかくロドリゴの信 頼を得ることだった。役立ちそうな情報を彼に知らせるような行動を取れば、疑われずにすむか もしれない。署長から聞いた捜査情報を使ってそういう苦肉の策を施そうとしたのだが、まさか その小細工をカルロに粉砕されるとは思わなかった。 「…あの、皆さん。よろしければそろそろ食事の準備を致しますが」 どうやら落ち着いたらしいソフィアが一同にそう声をかけた。や、そうか。もうそんな時間だ ったんですね。こりゃ早いとこ食事を頂かないと餓死してしまうかもしれません。カルロの推理 に度肝を抜かれていたエンリコが、ようやく我を取り戻したように大声で言った。止まっていた 時間が再び動き出す。ソフィアは忙しそうに食堂を飛び出し、残ったものは改めて自分の席へ向 かった。 カルロは本を部屋の隅にある小机に置くと、ふと窓の外に目をやった。その横顔は、彼の年齢 からは想像もできないほど老成したものを感じさせた。