III



 翌日、私は町へ向かった。借り出した自転車に跨って砂利道を走り、長い道のりを移動した。
マルコは相変わらずだったし、たとえ彼が気を取り直していたとしてもわざわざ自動車を運転さ
せる気にはならなかっただろう。久しぶりの運動に息が上がりそうになりながら、私は一所懸命
ペダルをこいだ。
 館は朝から賑やかだった。主人は早朝から運転手とともに工場へ出勤した。工場へ行ったとこ
ろで、争議を何とかするメドが立たない限り仕事にはならない。それでも朝早くから出かけるの
は偉いというべきなのか、それとも問題を早く解決するために早朝から飛び出したのか、私には
分からない。いずれにせよ、彼は私やエンリコに何の挨拶もせずに出立した。
 そのエンリコは、例のサファリルックを着込み勇んで出発した。なにやら道具を沢山詰め込ん
だ鞄を肩からぶら下げての出陣だった。私がやるのは予備調査なもんですから、そんなに凄い物
が出てくる可能性は少ないと思います。でも、私の見つけた成果しだいで今後の発掘方針が固ま
る訳ですからね。そう考えると任務は重大です。では、健闘を祈っていてください。そんな大げ
さな台詞を残してひょろ長い男は森へと消えた。
 マルコは朝食の席にこそ出てきたものの、依然として意気消沈したままだった。一方のカルロ
は淡々とした様子だったが、食事が終わるとすぐに買った本を読みたいからと言って部屋にこも
ってしまった。昨晩、私の相手をするといったことなど忘れたかのように。もっとも、私自身も
今日は別のことをしたかったので、彼の行動は幸いだったのだが。
 食事が終わった後で、私はソフィアを探して聞いた。町にはどうやって行けばいいのか。君た
ちのような雇用人はどうやって町へ行っているのか。

「ほとんど自転車を使っていますけど」
「自転車? そんなものがあるのかい」
「ええ。館の裏手に置いてます。運転手も町に用事がある時には自動車に便乗させてもらいます
けど、それ以外はほとんど自転車ですね」

 ソフィアは昨晩のパニックぶりが嘘のように明るく話していた。単に忘れやすい性質なのか、
あるいは人間というのは身体を動かしていれば悩みも消え去るものなのかもしれない。今日も少
女は忙しく立ち働いていた。

「あ、ちなみにうちの母さんは歩いていきます」
「君の母上が」
「ええ。人間には二本の足があるんだからそれを使えって。今日もえっちらおっちら歩いて町ま
で行ってるはずですよ。買い物があるって言ってましたから」
「ははあ。でもかなり距離があるよね」
「大した距離じゃないっていつも言ってます」
「でも、買い物の帰りはどうするんだい。荷物を持ってまた歩いて帰ってくるのかい」
「そうですよ」

 私はテレサと呼ばれていたソフィアの母親の姿を思い浮かべた。この少女より遥かに頑丈な体
格をしていたあの女性なら、確かに重い荷を持って歩いてくるかもしれない。というより、そう
いう生活をしているうちに鍛えられてあの体格になったのだろう。両手に巨大な荷物をぶら下げ
て砂利道を突進している彼女の姿が脳裏に浮かび、私は思わず苦笑した。

 結局、ソフィアに頼んで使用人用の自転車を一台借り出した。彼女には少しこのあたりを見て
きたいから、とだけ説明した。嘘ではない。ただ、見に行きたい場所は既に決まっている。もち
ろん、町に行くのだ。
 砂利道にハンドルを取られそうになりながら自転車をこぐ。森の中の道は爽やかな空気に満ち
溢れ、身体を通り過ぎる風も心地よい。自転車で町に向かう理由が、あの奇妙な殺人事件の調査
でなければ、さぞや素晴らしいひとときになっただろう。
 そう、私は個人的にもう少しあの事件を調べてみたいと思っている。労働争議真っ只中の工場
所有者の部下が殺された事件。全身の血を抜かれ、工場の裏口に放置されていたあの男は、あの
争議の中でどんな役割を果たしていたのか。黒シャツたちとの関係はどうなっているのか。工場
の持ち主であるロドリゴからはどんな役割を期待されていたのか。
 そして何より、なぜ彼は全身の血を抜かれていたのか。エンリコは吸血鬼がどうのこうのと言
っていたが、私はそういう怪奇映画のような話には興味がなかった。彼を殺したのは人間に違い
あるまい。問題は、どうして殺したときに全身の血を抜くような真似をしたのか、ということに
ある。血を抜くこと自体は注射器などを使えばできる。ただ、簡単な仕事ではないはずだ。全身
の血を抜くとなれば量もかなり多いし、その始末も大変だ。何より、手間暇かけてそんなことを
する理由が分からない。
 ペダルを強く踏み込む。町に行けば何か分かるかもしれない。少なくとも、館に残っているよ
りはましだ。私は疲れた脚に鞭打って町へと急いだ。

 苦労しながら町へついた私だが、いざたどり着いたところで当惑してしまった。殺人事件につ
いて調べたいといっても、まず何から調べたらいいのか分からなかったのだ。私は町角に自転車
を止めて、呆然と周囲を見渡した。ありふれた町並み、行き交う人々、大勢の人間が醸し出す空
気があたりを包んでいる。私はしばらく周囲を見渡し、ここに止まっていても何の進展もないこ
とを確認してペダルを踏み込んだ。
 最初に向かったのは警察署だった。だが、建物の前で再び私は立ち往生するはめになった。こ
の中に入ったとしても、誰に何を聞けばいいのか思いつかなかった。私はしばらく未練がましく
建物を眺めた末に、結局そこから引き上げた。
 次に向かったのは、マルコの父親が経営している工場だった。正面入り口で相変わらず気勢を
上げているピケ隊をしばらく眺め、それから背後に回った。工場の裏手は、確かに人通りの少な
い場所だった。ここでアマーテが殺されたはずだ。私は自転車で行ったり来たりしながら、どの
辺に彼の死体が転がっていたのか調べようとした。すでに警察が死体を持ち去ってかなりの時間
が経過しているのか、何の痕跡もなかった。血の跡すら見つからなかった。
 私は自転車を止め、道路脇に座り込んだ。どうもいけない。何の計画もなく行き当たりばった
りでやってきたのが完全に裏目に出た。このままでは単に疲れるためだけに自転車をこいできた
のと同じことになってしまう。とにかく、誰かに話を聞くしかないのだ。そうしなければ何も始
まらない。

「あら」

 頭を抱えて悩んでいた私の耳に誰かの声が聞こえた。ふと顔を上げると、工場の裏手から若い
女性が出てくるところだった。道端に座り込んでいる私を見て、彼女は怪訝そうな表情を浮かべ
ていた。服装を見る限りでは、どうやらこの工場の事務員の女性らしかった。
 私は思わず立ち上がった。そうだ。アマーテについて話を聞くのなら、この工場の人間に聞く
のがいいだろう。少なくとも一緒に仕事をしていた立場なのだから。私はとりあえず、相手を警
戒させないよう笑ってみせながら彼女に声をかけた。

「あの、ちょっとよろしいでしょうか」
「はあ。何でしょうか」

 その女事務員は固い表情で返答した。見た目はかなり若そうである。もしかしたらマルコと似
たような年齢かもしれない。だが、このくらいの年で働いている者は珍しくない。親の金で大学
へ行ける者の方が少数派なのだ。

「いえね、ちょっと先日、こちらで亡くなったアマーテさんのことで教えていただきたいんです
けれど」
「…貴方は、どなたですか」

 明らかに警戒している。無理もない。私だって見ず知らずの人間に殺人事件のことについて訊
ねられたら同じように警戒するだろう。とにかくできるだけ無害に見えることを祈りながら必死
に笑みを浮かべてみせる。

「ちょっとね、アマーテさんの件で調査している者なんですよ。よろしければいくつか教えてい
ただければと思いまして」
「申し訳ありません。私はアマーテさんがあんな風になったことについては何も知りません」
「いえ、彼が殺された件についてではなくて、その、普段の様子について聞きたいんですが」
「普段のこと?」

 彼女は真っ直ぐに私を見た。意外と肝の据わった女性なのかもしれない。私はあまり警戒させ
ないよう、ある程度の距離を置いた場所で足を止めた。彼女の服装はシンプルだが清潔である。
見たところ、有能な秘書といった印象を抱く女性だった。私は努めて何気ない風に話を切り出し
た。

「ええ。アマーテさんが普段はどんな仕事をしていたのか、誰と親しかったとか、逆に仲が悪か
ったとか、雇い主との関係とか。まあとにかくどんな話でも結構なんですが」
「それを聞いて、どうなさるんですか」
「調査の参考にします」
「何の調査です?」
「えーと、そのまあ、色々と」
「色々と調査することがあるんですか」
「まあそうなんですよ」
「おやめになった方がいいですよ」

 彼女は落ち着いた様子でそう言った。私は思わず黙り込む。どうもうまくない。

「…貴方がどんな方かは知りませんけど、この件について単なる好奇心で首を突っ込むのはよく
ないと思います」
「それはなぜですかね」
「噂くらいはご存じないんですか。入り口でやっている労働争議と関係する噂は」
「それって、もしかしたら黒シャツの連中と関連する噂ですか」
「ご想像にお任せします」

 そう言って彼女はちらりと工場へ目をやった。建物の向こうではピケを張った労働者が色々と
騒いでいるはずだ。そう言えばあの時以来、黒シャツを見かけていない。まさかピケ隊を前に怖
気づいた筈もないだろうが。そう考えていて、ふと疑問が浮かんだ。

「…あの、貴方はこの工場で仕事していらっしゃるんですか」
「だとしたらどうなんでしょうか」
「いえ、だったらなぜあのストライキに加わっていないのかと思って」
「労働者側に与していない従業員もいますよ。アマーテさんみたいにね」

 そう言って彼女はくすりと笑った。どうもよく分からないが、この女性は何か色々と知ってい
そうに見える。だとしたら、この機会を逃してはいけない。意気込んだ私が口を開こうとした瞬
間に彼女はまた冷たい表情を作ってこちらを見た。

「いずれにせよ、貴方の質問には答えられません。悪いことはいいません。余計な詮索はおやめ
になるべきです。それに警察だって、自分の仕事に他人が口出ししてきたらいい顔はしないでし
ょう」
「なるほど。確かにあの怖い署長さんなら怒り出しそうですね」
「お分かりなら結構です。それでは」

 彼女はそう言って話を切り上げると、わき目もふらずにその場を立ち去っていった。私の横を
通り過ぎる彼女の横顔を見た時、誰かの面影がふと思い浮かんだ。だが、それが誰のものだった
のか思い出すより前に、彼女は静かに歩み去っていた。



 その後もしばらく工場の様子を窺っていたものの、私はかなり上の空だった。いや、正直言え
ばこの時点でほとんど挫けていた。若い女事務員から話を聞きだすことすらできないとなると、
他の従業員を相手にしても成果は見込めそうにない。これ以上の調査はやるだけ無駄か。私はそ
うごちると、やがてため息とともにそこを去った。
 行き場を無くした私に、行動を決断させたのは腹の虫だった。ふと感じた空腹に時計を確認す
ると、時刻は既に昼になっていた。朝から自転車を力いっぱいこいできたおかげで、胃の腑は十
分に隙間が空いている状態だ。進まない調査に悩むことはやめ、私は繁華街らしい方角へ向けて
自転車をこいだ。やがて、適当な食事を摂れそうなところを見つけた。
 店の扉を開けた私は、思わず入り口で固まってしまった。店の中には黒シャツたちがいっぱい
に詰め込まれていたのだ。彼らはカウンターやテーブルの席から一斉にこちらへ顔を向けた。胡
散臭そうな目つきでこちらを睨む連中を前にして、私は別の店を探そうかと一瞬だけ迷った。
 だが、空腹と美味そうな料理の匂いが私の判断を変えた。別に黒シャツ着用が入店者の義務で
はあるまい。そう自分に言い聞かせながら、私は店に踏み込んだ。空いた席はさして多くない。
カウンターの隅っこにかろうじて残っていた空席に自分の身体を捩じ込む。そのうえで、さり気
なく店内の様子を見渡した。
 よく見れば黒シャツばかりに占領されている訳でもなかった。隣にいるのはくたびれた服をま
とった中年男に過ぎなかったし、他にも色々な服装の人間がいた。ただ、目つきの悪さだけは隣
席の男を含めて全員の共通する特徴だった。一通り観察が終わると、私はできるだけ彼らを気に
とめずに過ごすことにした。
 運ばれてきた食事はかなりいい味だった。私はゆっくりと味わって食べることにした。周囲に
いる黒シャツどもは、なにやら威勢良く怒鳴りあっている。喧騒に満ちたその空間は、人間の感
情がぶつかり合う場だ。私はその渦の中で、まるでそこだけ空白になったような場所を占めてい
た。ただ一人、周囲と異なるペースで食事を口に運ぶ。この国に来て以来、そうやって過ごして
きた時間をまた繰り返す。いや、この国に来る前から、あの戦争の最中から、私はそうやって大
勢の中にいながら一人きりの時間を過ごしてきた。
 食事を終え、店を出る。黒シャツたちはもう誰もこちらを見ようとしない。店の外で自転車の
ハンドルを握ったところで、声をかけられた。

「兄ちゃん、ちょっと待ってくれるか」

 振り返ると、隣席に座っていた中年男がいた。彼はニヤニヤと笑いながら私に近づき、馴れ馴
れしく肩を掴んだ。

「何の用ですか」
「まあいいからいいから。ちょっと散歩しようじゃねえか」

 男はそう言って私を押すように移動し始めた。私は警戒を強めながら動く。町中を歩く人々は
こちらには無関心だ。そのまま私と男は店が見えなくなるところまで歩いた。男は途中で私の肩
に乗せた手を外し、さり気なく背後を見た。やがて、再びこちらを見ると口元に下卑た笑みを浮
かべて言った。

「よお。俺のことは憶えているかい」

 男の思わぬ台詞に私は眉を顰めた。改めて目の前の中年男を観察する。くたびれた服装はどこ
にでもありそうなものだし、その目じりの下がった顔つきも町を歩けば十分に一回は見かけそう
なものだ。どこにでもいるような中年男。だが、この男と過去に出会った記憶はない。

「…すまないが、君は誰なんだ」
「やれやれ、やっぱ気づいてなかったか」

 男は肩を竦めて髪の毛を掻いた。そして自分の顔を私の前に近づけて言った。

「ほら、俺だ俺。昨日、警察署で会っただろうが」
「え?」
「忘れたのか。しょうがねえなあ。ほれ、お前さんがたを出迎えてあのモルグまで案内してやっ
ただろうが」
「あ」

 思い出した。警察署にたどり着いた我々を、死体を置いてある部屋まで案内した警官がいた。
あの時は制服を着用していたので警官だと分かったが、今の服装はとてもそうは見えない。失業
中の労働者といった趣だ。ここまで雰囲気が違うととても同一人物には思えない。

「そうか、あの時の警官か」
「ニコロって名前がある。まあ、その気があったら憶えていてくれや。にしても珍しいとこで会
うもんだな。あの店がどういう店か知ってるのか」
「いや、別に知らないけど」
「見れば想像ついただろ。あそこはファシストどもの溜まり場さ。あんまりよそ者が気軽に顔を
出すところじゃねえぜ」

 男は暢気そうな様子で言葉を連ねる。そんな彼を見ているうちに、驚きから覚めた私の心に疑
問が浮かんできた。彼はなぜ私に話しかけてきたのだろう。死体の確認に訪れた一行の一人に過
ぎなかったこの私に。

「…何の用だ」
「あん」
「私に何の用があるのかと聞いている」
「そりゃあれだ。せっかく知り合いと出会ったんだから、旧交を温めようと思ってね」
「今はあまり冗談を聞きたい気分じゃない。正直に言ってくれ」
「やれやれ、そう思いつめた顔をするもんじゃないぜ。神経に悪い。それにまあ、旧交を温める
ってのはあながち嘘でもねえ」
「温めるような旧交はないと思うが」
「そうさな。俺たちの間にある共通項といえば、あの死体の件だけだ。つまり、俺が話したいと
思っているのもあの死体のことなのさ」

 私の体内で心臓が瞬間跳ね上がった。もしかしたら、わざわざ町まで出てきた目的を果たすこ
とができるかもしれない。私は注意深くニコロと名乗った中年男の顔を見る。だらけた笑みを浮
かべたニコロの表情からは彼の目的は窺い知れない。私は慎重に口を開いた。

「アマーテさんの件について、何の話がしたいんだ」
「色々と。ヤツがあの労働争議に関連してどんな暗躍をしていたかとか、何を考えて物寂しい工
場の裏手で寝転がっていたのかとか。まあ中でも…」

 ニコロの眼が暗く光る。

「死体確認のためにやってきた工場主にくっついてきた男、つまりあんたの正体は何者なのかと
いう点については、是非とも確認したいもんだがねえ」
「ああ、そういうことか」

 迂闊だった。警察にしてみれば当然抱く疑問だ。それまでこの町に姿を現したことのない人間
が、いきなり渦中の人物の側近のようにして登場してきた訳だ。それに警察署長はマルコが演説
していた時の話も知っていた。なら、その場に私がいたことも調査済みだろう。かなり怪しい人
物としてマークするのが当たり前だ。私は苦笑して見せた。

「なるほど。あんたはあの署長に頼まれて俺のことを調査しているって訳か」
「あん? どうしてそうなるんだ」
「どうしてって…署長が言ってたじゃないか。必ずお前の尻尾を掴んでみせるって。だからあの
工場主の近くにいる私のような怪しい人物を見張っていたんだろう」
「ほほお。自分で怪しいと認めるのかい」
「そういう訳じゃないが、警察から見たらそうなんじゃないのか」
「そうかもしれん。けどな、勘違いしてもらっちゃ困るが、俺は別にあの禿げ署長のためにあん
たを見張るなんて面倒臭いことをしていた訳じゃねえ。あの店であんたを見かけたのは、ただの
偶然だよ」

 彼はそう言ってニヤニヤと笑った。どこまで信じるべきなのだろうか。どうも言うことが一々
信用できなくなる雰囲気をまとった男だった。

「そういうことを言って油断させ、尻尾を出させるって寸法か」
「おいおい、そこまで警戒するこたあるまい。本当にあんたのことなんか見張ってなかったって
ば。そんなにあの禿げ署長の戯言が気になるのかよ」
「気にはなるさ。秩序を乱す連中は何としても取り締まると喚いていたしな。彼の目から見たら
よそ者の私も秩序紊乱者の一味に過ぎないだろうし」
「やれやれ、どうも勘違いしているようだな。あの禿げはそんなご立派な人間じゃねえ。単にヤ
ツがつるんでいる政治家と、あの気取ったブルジョワ親父のロドリゴが応援している政治家とが
対立しているだけさ。自分と親しい政治家の政敵を困らせるためなら、どんな材料にもヤツは飛
びつくだろうよ」

 私は彼の話を呆気に取られて聞いていた。ニコロは事細かに説明した。黒シャツどもとつるん
でいるアマーテが殺されたから、あの禿げが始めてやる気を出したのさ。これを機会に目障りな
ロドリゴを潰して、自分が親しくしている政治家に忠誠を示そうって腹だ。それ以外に今になっ
て禿げが張り切りだした理由はない。そう吐き捨てるように言った彼の顔は、決して愉快な様子
ではなかった。私は、彼の言葉の気になる部分を問い正した。

「…今になって張り切りだした。そう言ったな」
「ああ」
「どうして今になって、なんだ? 死体が見つかったその日のうちに、署長は死体の身元だけじ
ゃなくて、マルコが起こした騒ぎまで嗅ぎつけていたじゃないか。これはかなり素早い反応だと
思う。死体が見つかった直後から、署長は張り切っていたとしか考えられないんだが」
「あの死体が最初に見つかったものならそうだろうよ」
「…どういう意味だ」
「言った通りの意味だ。死体が見つかったのはあれが初めてじゃない」

 私の背筋を悪寒が走った。この中年の警官は何を言おうとしているのだ。

「死体は一週間も前から出ている。血が抜き取られた死体がな」

 私は全身が凍りついたような気分になった。血が抜き取られた死体はアマーテだけではなかっ
た。既に他にも同じ死体がこの町で見つかっていたのだ。あたかも吸血鬼に殺されたかのような
死体が。

「だ、誰の死体なんだ。いったいどこで、どんな風に」
「日雇いの労働者だ。アマーテの死体が見つかるちょうど一週間前に、町外れの河沿いで見つか
った。死因はアマーテと同じ。全身の血が抜き取られていたのも同じ。ついでに言うなら」

 ニコロはそこで息を接いだ。

「…首筋に二つの傷痕があったとこまで、そっくり同じ死体だったよ」
「…………」

 私は言葉もなく立ち尽くした。まさか、アマーテと同じような死体が既に出ているとは思わな
かった。それまで私は署長が言った通り、アマーテは黒シャツたちとのトラブルに巻き込まれて
殺されたと思っていたのだ。いや、下手人は黒シャツ以外かもしれない。労働者を支援している
アカの連中かもしれないし、もしかしたらもっと個人的な怨恨によるものかもしれない。いずれ
にせよアマーテの死は彼個人の特殊要因に基づくものであることは疑っていなかった。
 しかし、もしこの警官の言うことが正しければ、考えを根底から改めなければならなくなる。
死体の状況が同じであれば、この二つの殺人は連続事件になる可能性が出てくるのだ。日雇いの
労働者と、マルコの父親が片腕と頼んでいた男。この二人に何らかの共通項が存在していて、そ
れがあのかなり特殊な殺害方法につながったのだろうか。それとも。
 私は頭を抱えた。思った以上にやっかいな話になったようだ。特に二人とも血を抜かれていた
という事実をどう説明していいのかが分からない。アマーテだけでも混乱していたのに、同じよ
うな死体がもう一つ存在していたなんて。

「…なぜ血を抜いたんだ」
「さあて。なぜだろうな」

 私が自問するように呟いた言葉に、ニコロが答えた。彼の顔からは先程までのふざけた笑いが
消えて、その眼は真剣にこちらを見ている。

「何のために血を抜いたのか、それが分からねえ。考えられるとしたら、他人の血を抜き取って
喜んでいる変態がやっているという可能性くらいだ」
「なるほど。娼婦を切り裂いて喜んでいた切り裂きジャックみたいなもんか」
「いや、それよりさらに分からんヤツだぞ。少なくともジャックが殺したのは女だ。ところが、
今回の変態はなぜか野郎ばかり、それもくたびれた中年の日雇いと、どうみても可愛げのない禿
げ親父を殺ってやがる。これが変態の仕業だとしたら、かなりグレードの高い変態だな」

 ニコロの変な表現に私は思わず首を振った。まあ確かに吸血鬼が犯人だという説よりは説得力
がある。もしこの事件がそういう異常犯罪者の仕業なのだとしたら、確かに色々と説明はつくだ
ろう。

「ところで、こちらの質問にもそろそろ答えちゃくれんか」

 男の声で私は顔を上げた。あんたの正体だ。あんたは何であの強欲野郎と一緒に行動している
んだ。調べによると、あんたはヤツの館に泊り込んでいるらしいじゃないか。私は苦笑して答え
た。何者でもない。ただの観光客さ。あそこの息子に無理やりローマから連れてこられたんだ。
確かに宿を借りている恩義はあるが、それだけだ。別に一緒に行動しているつもりもない。
 私の言葉をこの警官が信じたかどうかは分からない。彼はただ黙って聞いているだけだった。
アマーテの死体確認の時も、成り行きでついていっただけだ。深い意味はない。ただ、あんな奇
妙な死体だったから、自分なりに調べてみたいという気にはなったがね。

「それとも、警官でもない私が調べるのは拙いかね」
「…まあ、あまり誉められたもんじゃないだろう。少なくとも禿げ署長ならそう言うな」
「そうか。なら止めた方がいいかな。もし異常犯罪者が起こしている事件だというのなら、私に
できることはあまりないだろうし」
「ありゃ。随分と謙虚なんだな」
「退くべき時は知っているつもりさ。他人の血を抜いて喜んでいるような変態の相手は警察に任
せるよ」

 私の話をつまらなさそうに聞いていたニコロは、最後に肩を竦めて言った。

「そうかいそうかい。もしやる気だったらちょっと取引でもしようかと思っていたんだが」
「取引?」
「そうだ。どうだ、乗るかい」
「どんな取引だ」
「情報交換さ。こっちは捜査状況を教える。代わりにあんたは泊まっている屋敷の主人について
の情報を提供する」
「…なぜそんな情報を欲しがるんだ」

 私は彼の眼を見た。中年の警官はまたニヤニヤとふざけた笑みを浮かべて言った。

「決まっているじゃないか。ヤツの弱みを握れば、それを禿げ署長に高く売れるからさ。上司に
恩を売っておけば後々いいことがあるからな」
「…そういうことか」

 私はため息をついて言った。

「悪いがそういう取引なら乗れない。何といっても宿泊させてもらっている恩義があるし、それ
に異常犯罪者の話をわざわざ聞きたいとも思わないからな」
「そいつは残念だな」
「悪いが別のヤツに当たってくれないか」
「うーん。あんたなら物分りが良さそうに見えたんだけどな」
「期待に添えず、申し訳ないな。じゃあ」

 私は彼に背を向けて自転車を押していった。背後からはわざとらしいため息が聞こえる。私は
それを無視して角までいくと、自転車に跨った。今日は色々と疲れた。帰路に必要な体力まで考
えると、そろそろ帰った方がいいかもしれない。
 自転車で町中を駆ける。二つの死体。中年の警官。政治家とつるんでいる警察署長。労働者の
ストライキ。黒シャツの溜まり場。正面を見ていた女事務員。様々なことが脳裏を巡る。だが、
それがまとまって一つの筋を描くことはない。全身の血を抜かれた死体。誰が何のためにそんな
ことをしたのか。変態が己の趣味のために。それが最も分かりやすい答えだ。だが、同時にそれ
は思考を諦めた結果でもある。異常犯罪者なら何をしても不思議じゃない。血を抜き取った理由
など普通の人間には分からない。そう解釈することと、犯人は吸血鬼だと考えることの間にどれ
ほどの差があるのだろう。どちらも考えることをやめて安易な結論にたどり着いたという点では
同じじゃなかろうか。
 慌ててブレーキをかけた。視界の隅を何かがよぎった。それが気になって少し道路を戻ってみ
る。向こうの通りで車に乗り込んでいる人物。見覚えがある。私が宿泊している館の主の横顔が
自動車の中に消えた。あのお仕着せの運転手がいる。工場で仕事をしている筈なのに、どうして
こんな下町にいるのだろうか。
 マルコの父親を乗せた自動車は私に背中を見せて走り去っていった。この辺に用事があったの
だろうか。私はなぜか気になって自転車を降りた。車が止まっていた付近まで自転車を押して進
む。周囲にはいかにも家賃の安そうな古いアパートが立ち並んでいる。見回してみても特におか
しなところはない。何かの気まぐれか。それとも、どこかに妾でも囲っているのだろうか。
 私は肩を落とした。何をしているのだろうか。これではあの中年の警官に頼まれた仕事をやっ
ているみたいじゃないか。薄汚い探偵のような稼業。やめたやめた。なぜこんなことをしなけり
ゃならんのだ。そう呟いて自転車を押し、元の道へ戻ろうとする。
 足が止まった。視線が吸い寄せられた。脇から伸びる路地の奥になにかがある。何だか分から
ない物が暗がりの奥にわだかまっている。私はまるで重力に引かれるように路地に足を踏み入れ
た。蹴り飛ばした小石が壁に当たって虚ろな音をたてる。一歩、二歩、三歩。暗がりに沈んでい
た物が、しだいに私の視界を大きく覆っていく。もう目の前だ。腰を下ろしそれに手を伸ばす。
それは全く動く様子を見せない。手で触れてみる。反応はない。揺する。びくともしない。かな
り重いようだ。力を入れて揺する。ごろんとひっくり返る。それまで壁を向いていたそれがこち
らを見た。

 それは死体だった。それはかつてソフィアに母と呼ばれていた物だった。



 扉が大きな音をたてて開かれた。私は座っていた椅子から立ち上がる。入り口には蒼白になっ
たソフィアが立ち尽くしていた。必死に走ってきたのだろう。肩が大きく上下している。しばし
室内を彷徨った彼女の視線がやがて一ヶ所に固定された。その顔に驚愕と悲嘆が浮かぶ。ついで
彼女は悲鳴のような泣き声を上げ、部屋の中央にあるベッドに縋りついた。ベッドのうえには、
変わり果てた母親が横たわっていた。

「…か、母さん。どうしてっ。ねえ、どうしてなの」

 嗚咽と伴に漏れるソフィアの声を聞きながら、私はこれまでのことを回想していた。死体を見
つけだした後、慌てて警察に連絡を取ったこと。やってきた警察署長が、私の顔を見たとたんに
眼を剥き出したこと。死体の様子を調べた医者が、また血が抜き取られていると話したこと。警
官に両脇を挟まれて署まで連れてこられたこと。
 彼女の雇い主は、死体が署に運び込まれた直後にやってきた。さすがに表情は強張っていたも
のの、彼は冷静さを失っていなかった。獲物の到着を待ち構えていたかのように嫌味を浴びせ始
めた署長を前に、いつも通りの堂々とした対応を見せた。何が起きたのかと言われても、私には
分かりかねますな。それに、我が家の客人をまるで容疑者のように拘束しているのはいかなる訳
でしょうか。異国の方にそのような扱いをすると外交問題になりかねませんぞ。
 結局、署長は禿げ頭から湯気を立てながら引き下がった。部屋から出て行く際には私に噛みつ
くような一瞥をくれた。いくら睨まれたところで私に犯人が分かる訳ではないが、この署長が私
を疑っていることは明らかだった。いや、ニコロの言ったことが正しいのなら、署長は私を疑い
たくて仕方ないのかもしれない。怪しい異邦人と、それを宿泊させている自分の政敵。でっち上
げでも何でも、私を逮捕できればそれはロドリゴに対する一撃になりうる。
 彼が部屋を出た後はしばらく沈黙が続いた。ロドリゴは私の方も、ベッドに横たわるテレサの
死体の方も見なかった。私自身も彼を見ることができなかった。もし見たら、私が彼に疑いを抱
いていることがすぐに分かってしまっただろう。死体を見つける直前に見かけた彼の姿が、私の
脳裏に強く刻印されていた。
 運転手が車を飛ばして知らせた結果、ソフィアは思ったより早く警察署にたどり着けた。彼女
と一緒にやって来たのはマルコとカルロだった。母親の死体にしがみつくようにしているソフィ
アを見て、カルロは当惑したような表情で立ち尽くしていた。逆に恐ろしいほどの静けさで部屋
の中を見ていたのはマルコだった。彼はしばらく黙ったままソフィアの激情を見つめていた。

「…これはどういうことなんだ」

 マルコが口を開いたのは、ソフィアの嗚咽が少し小さくなった時だった。静かで、しかしその
底に何かを必死に押さえ込んでいるような声だった。マルコが視線を上げる。その先にいるのは
父親だった。

「何だと」
「これはどういうことなのかと聞いている」
「どういうこともこういうことも、見ての通りだ」

 父親はなぜか感情的になっていた。逆にマルコはどこまでも無表情のまま父親を睨んでいた。
彼はゆっくりと父親へ向かって歩きながら話した。

「どうしてテレサおばさんが死なないといけないんだ。殺されなきゃならないようなことでもし
たって言うのかよ」
「そんなことは犯人に聞け」
「アマーテさんも殺された。親父はあの人に何をさせてたんだ? あの人が殺されるようなまず
いことでもやらせてたのかよ」
「馬鹿を言うな。どうして私がそんなことをしなけりゃならん」
「親父が変なことをしていなければ、あの人が殺されることはなかったんじゃないのかよ。テレ
サおばさんだってそうかもしれない。親父のせいでこの人も」
「おい。いくら私の息子だからって言っていいことと悪いことが」
「ふざけるなっ」

 それは、私が初めて聞いたマルコの絶叫だった。それまで陽気さの背後に押し隠してきた全て
の感情を叩きつけたような声だった。私は思わず彼の顔を見た。マルコは涙を流していた。彼は
そのまま椅子に座る父親の肩を掴んで激しく揺すり始めた。

「どうなんだっ。ええ、どうなんだよ親父っ。あんたのせいなんじゃないのか、あんたのせいで
テレサおばさんも、アマーテさんもっ」
「よ、よせ。違う、そんなことはない」
「周りの連中に何度も言われたんだっ。お前の親父は汚い真似して金儲けをしているってっ。気
にしないようにしてきた。何言われても無視してきたんだっ。なのにっ」
「お、おい」
「どういうことだっ。どうしてあんたの周りでこんなに死人が出るんだよっ。答えろ、答えろよ
おいっ」
「マルコっ」

 喚きながら父親の肩を掴んで振り回す。激しく揺さぶられた父親は必死にマルコの腕を掴んで
彼を止めようとするが、マルコは手を離そうとしない。誰かがまるで森の王だと呟く。しばし呆
然とマルコの狂態を見ていた私は、気づいて慌てて彼にしがみついた。
 結局、マルコを引き剥がすためには、飛び込んできた運転手と警察官の力を借りて三人がかり
でやる必要があった。カルロが耳元で何度も叫んでようやくマルコを落ち着かせる。

「よせ、兄さん。ソフィアのことを考えろ。今はそんなことしている場合じゃないだろう」

 憑き物が落ちたように動きを止めたマルコは、ゆっくりとベッドを見た。ソフィアは母親の死
体にしがみついたまま動かない。その姿を見たマルコは、口の中ですまん。俺が悪かった。どう
かしていたんだ。何だか頭の中がかっとなって、それで、と話す。そしてストンと床に腰を落と
すと、顔を両手で覆った。
 静けさが取り戻された部屋の中で、ソフィアの微かな嗚咽だけが響いた。私は座り込んで何や
ら呟くマルコを立ち上がらせ、隅にある椅子に座らせた。彼はずっと顔を覆ったままだった。父
親は乱れた服を直している。だが、それはほとんど無意識の行動のようだ。彼の視線はずっとマ
ルコの方を向いていた。私は周囲をしばし見渡し、部屋にいる人々が落ち着きを取り戻している
のを確認するとカルロに近づいた。

「ちょっといいか」

 目線で部屋のドアを示す。カルロは頷いて私に従い、部屋を出た。モルグの前の廊下は暗い電
灯に照らされて無人の姿をさらけ出していた。私は窓の外を見て深呼吸をし、振り返った。カル
ロは表情を消してこちらを見ている。

「さっき、何で『森の王』なんて言ったんだ」
「え? 何のことですか」
「とぼけないでくれ。マルコが父上に掴みかかった時に言っただろう。『まるで森の王だ』と」
「ああ、その件ですか」

 カルロは軽く頷くと、私の眼を正面から見た。

「あなたは、そう思わなかったんですか」
「どう思うっていうんだ」
「森の王ですよ。金枝篇に描かれたあのネミの森の祭司です。先代の祭司を殺した者が新しく祭
司になれるという、あの残酷な慣習を持つ王ですよ」
「それは知っている」
「思いませんでしたか? まるで挑戦者である新しい森の王が、古い森の王を殺そうとしている
みたいだって」
「何てことを言うんだっ」

 私は思わず大声を上げていた。一体全体、この少年は何を言い出すのだ。

「それはまるで、マルコが父親を殺そうとしているような言い方じゃないか」
「そういう意味なんですが、分からなかったんですか」
「何だとっ」
「落ち着いてくださいよ。あくまでたとえ話じゃないですか。何をむきになっているんです」
「たとえ話だとしても、こんな時に言うことじゃない」
「そうでしょうね。だから誰にも聞こえないように小声で呟いたんです。まさか貴方の耳に届く
とは思っていませんでしたが」
「カルロ。君のその冷静沈着なところは立派だと思うが、度を越すと嫌味にしかならない。まし
て今は、君も言った通りソフィアのことを一番に考えるべき時だ。だから」
「だから兄を止めたのでしょう。貴方もそろそろ父と兄の茶番に付き合うのは止めた方がいいと
思いますけど」
「茶番だって」

 私は愕然として目の前の少年を見た。彼は完全に表情を消し、淡々と話している。

「あれは単に兄が父にじゃれついているだけのことです。ああいうことをやって、いつまでも親
に甘えたがっているだけですよ。それを許している父もどうかと思いますけど」
「な、何を言って…」
「アマーテさんの時も似たようなことをやっていたじゃないですか。いや、もっと前に兄がスト
ライキをやっている労働者の前でぶった演説、あれも同じです。相手にどれだけ甘えられるかを
知りたければどうすればいいと思いますか? 相手が嫌がるかもしれないことをするんです。相
手がそれを許してくれれば、そこまでは甘えても構わないことになる。兄はそれを知っていて、
父に無理難題を吹っかけているだけですよ」
「カルロ、君は」
「だから言ったんです。まるで森の王だってね。挑戦者は古い森の王を殺す。でもね、殺した後
でその挑戦者は結局また森の王になるんです。同じことの繰り返し。いや、フレイザー卿が言う
通り、繰り返しのためにこそ殺されるのが森の王でしょう」
「何が言いたいんだ」
「森の祭司は次々に殺され、新しい者に入れ替わっていく。でも、『森の王』という存在自体は
永遠に生き続ける。兄にとって父はまさにその『森の王』なんですよ。永遠に生き、永遠に森を
支配し、永遠に繁栄を続けるべきもの。時にはそれに逆らって、殺す真似をするかもしれない。
でも、結局のところ森の王は生き続け、兄を支配し庇護し続ける」
「…………」
「分かりますか。兄はね、本音のところではずっと父の保護下にいたいんです。永遠に甘えてい
たい。だからあんなことをするんです。未開人たちが、森の王を殺し続ければ永遠の豊饒を確保
できると信じたようにね」
「カルロ」
「森の王とは、自然の豊かさを司る森の女神の祭司であり、その夫だった。未開人は子孫繁栄が
結婚によってもたらされるのと同様に、自然の豊饒がやはり男女の交わりによって約束されると
信じた。森には女神がいる。ディアナ・ネモレンシスという名の豊饒の女神が。彼女が世界に豊
かさをもたらすためには、彼女と結婚すべき夫が必要だ。その夫こそが祭司。レクス・ネモレン
シスの名で呼ばれた者。そう、彼こそが『森の王』です」
「…………」
「しかし、森の王は誰でもいいという訳にはいかない。豊饒をもたらす王は、若さと強さに満ち
溢れていなければいけない。年老いて病気をしているような男が女に子供を産ませることなどで
きないように、女神の夫も老いたり力が衰えたりしてはいけなかった。だから、王は殺された。
より若くて強い新しい王の手によって」
「その通りだ、カルロ」
「愚かしい話ですよね。そんなつまらない理由で殺し合いをやっていたなんて。未開人が求めた
のは、兄が父に求めているのと同じ幻想です。死を繰り返すことによって得られる永遠。でも、
それは本物ではない。所詮は単なる思い込み。そうでしょう」

 真っ直ぐに見つめてくるカルロに対し、私はゆっくりと口を開いた。

「君の言いたいことは分かった。だが、今はやはり我慢すべきだ。父上や兄上に言いたいことが
あるなら、それは別の時に言えばいい。今は駄目だ。今はとにかく、ソフィアの心の負担を減ら
すことに専念すべきだろう。違うかい」

 カルロはしばらく黙っていたが、やがて眼を閉じると大きく息を吐いた。

「…違いません、貴方の言う通りでしょう。すみませんでした。自分では落ち着いているつもり
だったんですが、もしかしたら取り乱していたのかもしれません」
「構わないさ。それより彼女を慰めてあげた方がいい。今はそのことが重要だ」
「分かりました」

 カルロは顔を上げると、力なく微笑んでみせた。私は彼に頷くと、モルグのドアを開けた。中
に入ったカルロはゆっくりとベッドに近づき、ソフィアに何か話しかけた。しばらく黙って彼の
言葉を聞いていたソフィアは、やがて振り返り、カルロの胸に縋りついた。肩を振るわせる彼女
を、カルロは黙って抱き寄せていた。マルコは俯いたまま椅子に座っており、父親は背中を丸め
てすっかり考え込んでいるようだった。
 しばし室内の様子を見たうえで、私はそっとドアを閉めた。そのまま警察署内を歩く。私はあ
る人物を探していた。予想通りなら、彼もまたここに来ているはずだ。
 その人物はすぐに見つかった。廊下の片隅に寄りかかり、その目じりの下がった眼で私を観察
していた。私は黙ったまま彼に近づく。ニコロは制服を着用しており、昼間見た失業者のような
雰囲気は感じられなかった。彼は目の前に立った私を見て口を開いた。

「…あんた、人を殺したことがあるんじゃないのか」

 私は黙って彼の眼を睨んだ。中年の警官はへらへらと笑いながら仰け反った。

「おっと、そんな怖い顔すんなって。悪かった。からかってすまなかったな」
「そういう質の悪い冗談は笑えない」
「まあまあ、カリカリしなさんな。あんた戦争に行ってたんだろ。西部戦線かな」

 私は黙っていた。ニコロの目が細められる。

「…実は俺も行ってたのさ。オーストリアとの戦争だ。酷い目に遭ったよ。まあ、あんたが戦っ
ていたとこに比べれば大したことはなかったかもしれんがな」
「そんな話は今は関係ないだろう」
「関係ないか。本当に関係ないと言える時が来ればいいんだがな。まあいい。で、わざわざあん
たの方から近づいてきた狙いは何だい」
「想像はついているだろう。取引をしたい」
「へえ。どんな取引だい」
「こちらからロドリゴに関する情報を送る。色々調べてみて、その結果を知らせる。代わりにそ
っちは、この連続殺人についての情報を寄越す。どうだ」
「おやおや。昼間は断ったくせに、どういう風の吹き回しだい」

 相変わらずニヤニヤと笑うニコロ。私はしばらく悩んだ。こいつはどうやら韜晦が好きな男ら
しい。だとしたら、こいつが見せている不良警官らしい言動も、本心でない可能性がある。それ
に賭けてみよう。うまくすれば、私が感じている疑問を彼が解決してくれるかもしれない。リス
クのある方法ではあるが、テレサの死体を見た今となっては躊躇っている余裕はない。

「まず、こちらから一つ情報を提供する。聞くか?」
「ほうほう。どんな情報だい」
「さっき見つかった最新の失血死体についての情報だ。あの死体もまた血が抜かれていたのは間
違いないのだろう」
「ああ、そう聞いてるぜ」
「死体を発見したのは私だ」
「らしいな」
「そして私は、死体を発見する少し前に、ある人物の姿を見かけたんだ。死体が転がっていた路
地裏のすぐ近くでな」

 中年男の目が細められた。口元に浮かべていたニヤニヤ笑いが消える。男の視線はまるで刃物
のように私を貫いた。

「…誰を見たんだ」

 その視線を見て、私は確信した。これは仕事をやり遂げようとする男の眼だ。誰のためでもな
く、自分の誇りのために困難に取り組む男の。私はゆっくりと口を開いた。

「あんたの想像している通りの人物さ。仕事場である工場からは随分と離れた場所だったが、間
違いなく彼だった。ちょうど自動車に乗り込もうとしていたところを目撃したんだ」
「…確か、ロドリゴには泊めてもらっている恩義があるんじゃなかったのか」
「ある。だからこそ確認してもらいたい。あの酷い死体を作り出しているのが一体何者なのか」

 彼はしばらく黙り込んだ。私はその横顔を見ながら問いを発した。

「どうする? 取引に乗るか」
「…いいだろう。契約成立だ」

 ニコロは私を横目で見て、不敵な笑みを浮かべた。



 館に帰り着いた時には既に日は暮れていた。暗い森の中に浮かぶ館の影は、黒く不吉に私たち
を見下ろしていた。一行は黙って重い足を引きずるように玄関をくぐった。館の主は相変わらず
いかめしい態度のまま、マルコは妙に大人しく、カルロは泣きやまないソフィアを慰めながら。
一同の最後について歩いていた私は、屋敷の中を覆う暗い空気に気づいた。使用人たちにとって
も、つい先程まで一緒に働いていた者が亡くなったことはショックなのだろう。
 死体は警察が預かっていた。いつ引き渡せるか分からないという。肉親との最後の別れのため
にソフィアを残そうかとの意見もあったが、若い女性一人をあの殺風景な署に置き去りにする訳
にもいかず、ソフィア自身も一人になるのを嫌がったため、結局のところいったん屋敷へ引き上
げることにしたのだ。
 ロドリゴはしばらく一人にしてくれと使用人に話しかけ、書斎へこもった。マルコも真っ直ぐ
に自分の部屋に向かった。カルロだけがまだ泣いているソフィアの傍に残った。食堂を彼らが占
拠してしまったため、仕方なく私は応接間へ向かった。
 そこには真剣な表情で手紙を読んでいるエンリコがいた。私が来たのに気づくと、彼は慌てて
その手紙を懐へしまいこんだ。そして立ち上がり、どうだったかと訊ねてきた。私は警察署であ
ったことをかいつまんで説明した。うんうんと頷いていたエンリコは、話が終わるとソファに座
り、ひょろ長い身体を背もたれに乗せ天井を見て息をついた。

「…また、血を抜かれた死体ですか」
「ああ。こう何度も続くと薄気味悪いな」
「傷痕は確認しましたか」

 エンリコがこちらを見て真剣な目で問う。私は黙って頷いた。警察が死体を調べているのをす
ぐ横で見ていたのだ。医者が首筋に二つの錐で刺したような傷痕を見つけた瞬間も記憶にある。
死体の様子は、アマーテの時とまったく同じだった。

「…どういうことなんでしょうかね」
「また吸血鬼の仕業だ、と言い出すつもりなのかい」
「貴方はそう思っていないんですか」
「まさか。吸血鬼など映画の中にしかいないさ」

 私は肩を竦めてわざと陽気に言ってみせた。だが、エンリコの真剣な表情は変わらない。彼は
真っ直ぐに私を見ている。その視線に苛立ちを感じた私は、言葉を継いだ。

「何か目的を持って人を殺すのは人間だけさ。あんな町中に、人間に危害を加えるような動物は
いない。殺ったのは人間だ。何者かが彼女を殺したんだ。アマーテと同じように」
「そうかもしれませんね。でも、それならどうして血が抜かれていたんですか」
「血を抜くこと自体は難しいことじゃない。注射器でも何でも使えばできることだ。血が抜かれ
ていたからと言って、すぐに吸血鬼を持ち出すのは論理的じゃないだろう」
「なるほど。それじゃ貴方は犯人が被害者の血をすべて抜いた理由を論理的に説明できるんです
ね」
「それは無理だ。私は犯人じゃないからね。だが、我々に分からなくても、犯人にとっては血を
抜く論理的な理由があったのかもしれない。犯人にとって血を抜くという行為が重要な意味を持
っていた可能性もある。それは我々の常識とは異なる論理かもしれないが」
「要するに異常犯罪者の仕業だと言いたいんですか」

 私は黙り込んだ。確かに私は今日の昼まではそのように考えていた。いや、今でもかなりの確
率でそうだったのではないかと思っている。ただ一つの疑問点を除けば。どうしてロドリゴがあ
そこにいたのか。

「異常犯罪者だとしても、奇妙な犯人ですね。血を抜くことにどうしてそこまでこだわるんでし
ょうか」
「変態が何を考えているかなんて、私には分からないよ」
「でも、よく考えてください。全身の血を残らず抜き取ろうとしたら、これは相当大変な作業で
すよ。注射器を含めた道具が必要だし、作業をする場所と時間も欠かせない。何より、抜いた血
の処理が最大の問題です」
「それはそうだ」
「今日は貴方が死体を発見したんですよね」
「ああ」
「現場に血の痕は残されていましたか」

 残されていなかった。現場のどこにも流れ出した血液、抜き取られた血液はなかった。首筋の
傷痕付近に残されていた僅かな血を除けば。

「人間の体内にある血液の量がどのくらいかは知りませんが、簡単に処理できるような量ではな
い筈です。いったいどうやってその血液を現場から持ち去ったんでしょうか」
「知らないよ。適当な容器でも用意していたんじゃないのか」
「では、犯人は血液でいっぱいになった容器を担いで現場から逃走したんですか。かなりの重さ
だったんじゃないですかね」
「だろうな。けど、他に考えられないんだからそうだったんだろう。犯人は予め注射器だの容器
だのを用意して被害者を殺し、血をすべて抜き取ったうえで道具を担いで逃げ出したんだ。どん
なにバカバカしく思えても、他に可能性がないのならそれが正解だ」
「可能性だけなら、吸血鬼だって考えてもいいと思いますけどね」
「残念だが、その可能性は医療道具一式を背負った犯人よりさらにありそうにないな」

 私の言葉を聞いたエンリコは、なぜか口元に微苦笑を浮かべた。暢気さが服を着て歩いている
ような普段の彼には似つかわしくない、意味ありげな笑み。彼は再びソファから立ち上がると、
大きく背伸びをして言った。

「…今日は色々と調査をして疲れました。食事はもう先にいただいたんで、そろそろ休ませても
らいますよ。貴方も早めに食事をして休んだ方がいい」
「先に食べたのか。こっちが警察署で大騒ぎしている間に」
「お腹が空いていたんですよ。それに、どうせ今夜は皆揃ってお食事という訳にはいかないでし
ょう」

 彼はそう言うと片手を上げて部屋を出ていった。残された私は、しばらく彼の言った言葉を反
芻するように思い返していた。彼の言う通りなのだ。どう考えても犯人の行動は変だ。たとえこ
れが異常犯罪者のやっていることであっても、あまりに手間がかかりすぎるのは間違いない。血
を抜く作業の最中に、誰かに見つかったらどうするつもりなのだろう。
 私は首を振った。考えても分かるものではないだろう。そもそも血を抜くという行為自体に何
の意味も感じられない。血を抜くという行為から私に想像できるのは、輸血用の血液を確保する
作業くらいだ。いくら何でもそんなおぞましいことをやっている病院は存在しないだろう。
 私は考えるのをやめて部屋を出た。エンリコの言う通り、早めに食事をして休んだ方がいいだ
ろう。どうせ明日はまた町に出るつもりだった。今日、町へ行くのに使った自転車を警察署に預
けたままなのだ。それを取りに行くついでにニコロにももう少し詳しい話を聞きたい。彼は彼な
りに捜査をしている筈だ。一週間前にあった最初の殺人事件についても、詳しいことが分かれば
いいのだが。そんなことを思いながら食堂にいくと、そこにはカルロだけが残っていた。

「…ソフィアは、どうしたんだい」
「とりあえず部屋に戻して休ませてます」

 彼はそう答えると、疲れきった様子で大きく息をついた。さすがに冷静沈着なこの少年も、今
日は色々とこたえたのだろう。珍しくうんざりとした様子で窓の外を眺めている。
 声がしたのに気づいたのか、下男が顔を出した。食事を頼むとすぐに持ってくると答える。カ
ルロに君も食べるかと聞くと、今日は食欲がないのでいいですとそっけない返事だった。下男が
引き下がると、カルロはなぜか私を横目で睨みながらぼそりと呟いた。

「…恨みますよ」
「へ? 何でだい」
「貴方の言った通り、ソフィアを慰めましたけどね。まさか何時間も引っつかれるとは思っても
みませんでしたよ」
「いいじゃないか。彼女だっていきなりの不幸で心細く思っているんだろうからな。そういう時
には誰かに縋りつきたくなるもんだろう」
「そうかもしれませんけど、ものには限度ってものがありますよ」
「冷たいヤツだなあ。可愛い女の子に抱きつかれているんだから文句はないだろうに」
「だったら代わってあげた方が良かったですね」
「ははは。私みたい他人同然の人間に対しては、彼女もあんな態度は取らないさ。幼馴染の君だ
からこそだろう。彼女にとっても辛い時期なんだから、大目に見てやったらいい」
「難しいですね。どうも僕の性に合わない」

 そうごちるカルロの瞳は、妙に冷たく見えた。遠くにある何かを必死に見定めようとするあま
り、目の前の人間には気づきもしないかのような眼。少年の低い呟きが私の耳に届く

「違う。あれはそうじゃない。僕が求めているのは、あの時に見た…」
「何だって」
「あ、いや」

 顔を上げたカルロは、少し戸惑ったような表情で食堂を見渡した。しばらく沈黙した後で、彼
は首を振ると立ち上がって言った。

「…すみません、やっぱり疲れているみたいですね。先に引き上げていいですか」
「ああ。それじゃお休み」
「はい。それでは」

 カルロと入れ替わりで下男が食事を運んできた。だだっ広いテーブルに並べられる食器の音を
聞きながら、何となくカルロが見ていた窓の外に目をやった。外に見える森は、どこまでも黒く
沈んでいた。




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