II



 空は見事なまでに澄んでいた。全天のあちこちに僅かばかりの雲が浮かんでいるほかは、一面
の蒼が天蓋を成していた。この国に来て以来くすんだ壁と床ばかり見ていた私の目に、その蒼は
あまりにも鮮やかすぎた。目を細め、頭上を見上げていた頸を元に戻す。今度は蒼に代わって緑
が視界を覆った。
 私は館の周囲にある森を散策していた。昨晩はマルコ兄弟による歓待を受けた後、ベッドに倒
れ込むようにしてすぐに眠った。ローマからの移動で身体に疲れが溜まっていたのだろう。夢も
見なかった。目を覚ました時にはすでに日は高く上っていた。遅い朝食につきあうほどの暇人は
この館にはいなかったようだ。カルロはおそらく読書にいそしんでいるのだろう。マルコはどう
したのかと聞いたら、どこかへ出かけたとソフィアが答えた。普段から帰省するとすぐにお近く
の友人の家を訪ねてましたから、多分今日もそうでしょう。本当にお客様を放り出してどこへ行
ったのやら。

「申し訳ございませんねえ」

 最後にそう言って謝ったソフィアの様子がなぜか可笑しく、私は吹き出してしまった。ソフィ
アはかなりの童顔だ。近くで見るとカルロよりさらに幼く見える。そんな少女が、まるでできの
悪い子供を持った母親のような言葉遣いをするのだ。私は笑いながら君が謝ることはないと言っ
た。彼女は妙な顔で私を見ていた。
 散歩をしようと思ったのは、一人で時間を潰す必要に迫られたからだ。忙しそうなソフィアを
いつまでもからかっている訳にもいかない。マルコやカルロが姿を現すのを待つ手もあるだろう
が、それよりは散策をしたい気分だった。昨日、窓から見えたオークの森を自分の足で歩いてみ
たかったのだ。
 森は広かった。私は何も考えずにその森を歩いた。時折風が私の周囲を通り過ぎる。木の葉の
ざわめきが耳朶を打つ。まだ訪ねていないネミの森とは、こんな感じの場所なのだろうか。その
森を歩く人々はどのような感慨を抱くのだろうか。かつて、ローマ帝国時代に森を訪ねてきた人
々は、何を思って歩いていたのだろうか。
 視界が開けた。私は思わず立ち止まった。無意識のうちに口が動き言葉を形作る。ディアナの
鏡。私の目の前には満々と水を湛える湖が存在していた。いや、湖というほど大きくはないかも
しれない。その水面は風に僅かに揺らぎながら、湖畔に立つ木々を逆さまに映し出していた。
 しばらく湖面を見守る。遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。緑の木と蒼い空を反射した水面は何
か厳粛な雰囲気を漂わせていた。私は黙ってそれを見ていた。五感が少しずつ遠ざかり、薄らい
でいくような気がする。周囲に何か圧倒的な存在が感知されていくような。

「奇麗な湖ですね」

 背後からいきなり声をかけられた。私は心臓が飛び出るかと思うほど仰天し、慌てて振り返っ
た。いつの間に背後に忍び寄っていたのだろう。一人の男が森を抜ける小道に立っていた。
 背の高い男だった。私より頭一つ分くらいだろう。上下に細長く伸ばされた分だけ、左右の厚
みには欠けていた。ひょろひょろとした体格に見合うように腕も脚も長い。私を見下ろす男の顔
も体格と同様に縦に長かった。
 だが、そんなことよりまず私の注意を引いたのは、彼が着用している服装だった。まるでトロ
イの発掘に赴くシュリーマンのように、全身を物々しいサファリルックで固めているのだ。足元
にはごついキャラバンシューズを履き、さして強くもない陽射しを遮るために丸い帽子を被って
いる。とてもイタリアの森の中で見かけるべきファッションだとは思えない。
 男は驚愕した私の様子を見て、慌てて弁解を始めた。や、これはすいません。驚かせてしまっ
たようですね。大仰に手足をばたつかせて詫びを述べる姿は、壊れかけた操り人形のようだ。暴
れだそうとしていた心臓が収まるのを待ち、私は問いかけた。

「…どちらさまでしょうか」
「ああ、そうですね。まだ私の名を名乗っていませんでした。いやー、これは我ながらつい不躾
なことを。驚かせてしまったうえに重ね重ねの失礼をば…」

 男の話がずれていくのを軌道修正させるため、私は再度彼に名を問わねばならなかった。ひょ
ろ長い男は時折葦の葉のように身体を揺らしながらエンリコと名乗った。なに、珍しい名前では
ありません。お隣のフランスにはアンリという名前の王様が何人もいましたし、さらに海を渡っ
てイギリスに行けばこちらはヘンリーさんが盛り沢山です。

「アルプスの向こうにもハインリッヒが山ほどいますし、大西洋を越えれば独立戦争時の有名人
にパトリック・ヘンリーという人がいましたね。あ、このヘンリーさんはファミリーネームの方
でしたか」

 エンリコは私の存在を無視するかのように言葉を並べ、最後に自分で勝手に話にオチをつけて
笑った。どう反応していいか分からなかった私はとりあえず一緒に笑うことにした。森の中に、
男二人分の不気味な笑いが木霊する。空気が白けそうになったのに気づき、私は急いで話題を変
えることにした。だが、焦っていたため、私の質問は妙なものになってしまった。

「ところで、随分と珍しい服装ですね」

 森の中にある物静かな湖畔で問うべき質問でないことは、言った直後に気づいた。しかし、エ
ンリコはこの問いに嬉しそうな表情で答えた。

「格好いいでしょ」

 私が彼との間に存在する深刻な美的価値観の相違に頭を悩ませている間も、このひょろ長い男
の口は休まらなかった。やはり考古学を学ぶ者としてはこの服装は避けて通れないと思うんです
よ。何より便利ですしね。多少汚れても気にならないし、現場で見つけたものをポケットに放り
込んで持ち歩くこともできます。あまり大きいものは入りませんけどね。

「それに、何だかこれを着ていると『学者』って感じがしませんか」
「まあ、場所によってはそう思えるかもしれませんね」

 バックにピラミッドが立っていたりするなら、彼の意見も頷ける。だが、ここはイタリアであ
り、しかも周囲にあるのはオークの森だ。しかし、エンリコは私の感想など全く求めるつもりは
なかったかのように話を続けた。

「何と言っても遺跡の調査に来たんですから、やはりそれらしい姿をしておかないと勘違いされ
る可能性があると思うんですよ」
「遺跡、というと」
「例えば私がここにタキシードを着てやって来たら、貴方はどう思いますか。森の中で妖精たち
と舞踏会でもあるのかと思われたら困るでしょう」

 そんなことを思うヤツはいない。

「あるいは古代ローマ人の如くトーガをまとって来たら、それとも中世の騎士のように甲冑を着
用して現れたら。どちらにしても、遺跡調査とは思ってくれないでしょうしね。そうしたことを
色々と考えた結果、私はこの格好を選んだんですよ」
「それはともかく」

 彼の止まらない台詞を無理やり中断させるべく強い言葉を出す。ひょろ長い男は私の機嫌など
気にした様子もなくにこやかに笑いながら耳を傾けていた。

「遺跡調査とおっしゃいましたね」
「ええ、そうです」
「この森には、何か遺跡があるんですか」
「さあ、どうなんでしょう」

 沈黙が下りた。エンリコの愛想のいい笑い顔が、緩みきった馬鹿面に見えてきた。私は一つ大
きな深呼吸をして血の上りかけていた頭を冷やす。どこから何をしに来たのか知らないが、真面
目に相手をするべき男ではなさそうだ。適当にあしらっておいて、さっさと館に引き上げるとし
よう。
 私は精一杯の笑みを浮かべ、エンリコに頑張って下さいと述べた。そのまま彼に背を向けて館
への道を歩き出す。敢えて後ろを振り返ることはしない。森の道は柔らかい陽射しに照らされ、
木々の葉はその光を反射している。草や枯葉を踏みしめる自分の足音が耳に響く。背後から誰も
ついてくる物音がしないのに安心した私は、何となく空を見上げて歩調を緩めた。

「ほらそこの右手」
「うわあっ」

 耳元で大声を出され、私は悲鳴を上げた。飛びのいて振り返ると、きょとんとした顔のエンリ
コがいた。私は本格的に暴れだした心臓を押さえて呼吸を整えながら彼の顔を見た。一体どうや
って近づいたんだ。足音はしなかったし、何の気配も感じなかった。

「ど、どこから」
「そこです、そこ。右手の森の中を見てください」

 エンリコは私の訝しげな表情を気にもとめず、森の中を指差す。つられてそちらの方向を見た
私の視界に、何やら蔦の絡まった塊が飛び込んできた。エンリコは無造作にその塊に近づくと、
草や蔦を大雑把に払う。その下から出てきたのは、何か石のようなものだった。エンリコは腰を
下ろすとその石の表面を手で撫で回した。
 石でできた壁と床。物言わず佇む廃墟。この国に来て以来、いくつもの遺跡を巡ってきた私の
心の中に好奇心が生まれた。エンリコが見つけた石は、離れた所から見ても明らかに加工された
痕跡がある。一体何なのだろうか。知りたい。彼の無礼を咎めるのは後でもいいだろう。
 私が近づくと、エンリコは背後を振り返ることなく説明を始めた。見てください。小さな祠で
すよ。どのくらい古いと思いますか。

「さあ、私には何とも」
「それほど古くはないでしょうね。ただ、はっきりしていることがあります。これはキリスト教
の神を祭ったものではありませんよ。この森に、かつて存在していた異教の信仰の微かな痕跡。
それがこの祠でしょうね」

 話す内容にあわせてエンリコのとぼけた口調までが変わったような気がする。彼は私に背を向
けたまま言葉を紡ぐ。

「まだキリスト教が広まる前、そうですね、ローマ帝国の時代頃まで、このあたりの人々がどん
な神を信仰していたか、ご存知ですか」
「…ディアナか」
「そうです。森の女神ディアナ。昔からこのあたりには森が広がっていたのでしょう。森のある
所にはディアナの信仰が存在しました。ローマの南にあるネミの森が代表例です。ここでもディ
アナが祭られていたとしても何の不思議もないでしょう」

 またネミの森か。どうも私の周囲に現れる人間は、皆が皆フレイザー卿の描き出した森を思い
出させようとするかの如き行動を採る。オークの森、小さな湖、そして森の神を祭った聖所。

「ネミの森には立派なディアナの聖所があります。そして、ここと同じような湖もある。ネミで
は水の精エゲリアも祭られていましたね」
「…………」
「この祠がどんな神を祭っていたのか、私には分かりません。でもまあ、少なくともネミの聖所
では様々な古代の物品が発掘されているんですよ。だとしたら、この森にもそういう物が埋まっ
ている場所があるかもしれません」
「なるほど。それで遺跡調査に」
「はい。そうした物が見つかるかどうかは分かりませんがね。まあ駄目で元々ですから」

 よっこらしょと立ち上がったエンリコが、柔和な笑みを浮かべて振り返る。ひょろ長い男の顔
に、それまで見えなかった知性が窺える事実に、私はなぜかうろたえた。

「ところで、貴方は異国の方のようですね」

 エンリコが問う。私は動揺を悟られないよう表情を殺して頷いた。考えてみればまだ自己紹介
もしていない。この地へやって来た理由について問わず語りに説明し、私がマルコの家に宿泊し
ていると述べたとたん、エンリコは妙な顔をした。しばしの沈黙の後で、彼が言う。

「…実は、私も調査の間はその館にお世話になる予定なんですが」



 館に近づく我々に最初に気づいたのはソフィアだった。玄関の近くでお仕着せを来た運転手ら
しい男と高価な服を来た男の二人を相手に会話をしていた彼女は、我々を見ると何やら声を上げ
てこちらへ走ってきた。何かというとすぐ走り出すのが彼女の癖らしい。私はぼんやりとそんな
ことを思いつつ彼女の方へ足を進めた。ソフィアが我々の場所に到着した時、彼女と話をしてい
た高価な身なりの男性もまたこちらへ近づいていることに気づいた。紳士らしい整った様子のそ
の男は、五十絡みの体格のいい人物であり、見事な口髭を蓄えていた。

「エ、エンリコさんですかっ」

 息を切らしながらソフィアが話す。私の隣にいたひょろ長い男は、はいそうです。よく私の名
前を知ってますね。もしかしたら私、有名人だったんですか、などと相変わらずの調子で対応し
ていた。だが、続いて口髭の紳士が彼の名を呼んだ時には、とぼけたエンリコの表情に動揺が走
った。
 口髭の紳士は堂々とした声でエンリコに話し掛けつつ接近してくる。困りましたなエンリコさ
ん。教授から依頼を受けたからこそ貴方をここへお招きしたのですぞ。なのに、来たとたんに行
方不明になるとは。館の周辺をいくら探しても見つからないものですから、警察でも呼ぼうかと
相談していたほどです。

「いやあ、これはあいすみません。できるだけ早く現場の様子を見ておきたいと思ったものです
から」

 エンリコの引きつった表情はなかなかの見ものではあった。だが、彼の忙しく回る口は紳士に
何の感銘も与えた様子はない。救いを求めるようにきょろきょろと周囲を見回しているひょろ長
い男と、傲然と胸を張って相手を正面から見る口髭の男。差は歴然としている。

「なるほど。で、下調べはもう宜しいのですな」
「はあ。元々今日のところはそれほどのことは出来ないもんですから」
「ならば早速、部屋の方へ案内させていただきたいのですが」
「そ、そうしていただけますと幸いに存じたてまつり…」
「ソフィア」

 太い声で紳士がメイド服の少女を呼ぶ。彼女は神妙な表情を作って畏まっていた。

「エンリコさんをお部屋にご案内するように。調査用に持ち込んでいる荷物も沢山あるようだか
ら、アントニオにも手伝わせなさい。それと…」

 エンリコを震え上がらせたその紳士の視線がこちらを向いた。私の背筋に緊張が走る。紳士は
決して威圧的ではないものの、その雰囲気は威厳に満ちて周囲を睥睨する気概を感じさせた。人
に命令することに慣れた存在。この人物がどうやら館の主らしい。

「失礼。貴公はどなたでしたかな」
「ええと」
「…兄さんの客人ですよ」

 紳士にすっかり飲まれてしまい、舌の回転が悪くなっていた私を救ってくれたのはカルロだっ
た。いつの間に現れたのか、ゆっくりと玄関の方角からこちらへ近づいてくる。エンリコがほう
ほうと梟のような呟きを漏らした。少年は眼球だけを動かしてひょろ長い男の存在を確認し、す
ぐに興味を失ったように視線を私に戻した。

「本当か、カルロ」
「ええ。ローマで知りあったらしいです。父さんが不在だったんで、兄さんと相談のうえで館に
お泊まりいただいていたんですよ」
「そうなのか。これは失礼いたしました。私はマルコの父でロドリゴと申します」

 私は慌てて自己紹介した。その間、紳士は悠然とした態度で私を見ていた。お留守の間に上が
りこんでしまい、申し訳ございません。何、気になさることはありませんとも。息子の客人とい
うのならば大歓迎です。堂々とそう言った紳士は、カルロの方に視線を動かして言った。

「ところで、マルコも帰ってきたんだな」
「はい。もっとも、今日はご友人のところにでも出かけたようですが」
「まったく、あいつと来たら」

 顔を顰め、吐き捨てるように話す。それまで悠揚迫らぬ態度を崩さなかった紳士が、初めて感
情を露わにした。どうやらこの父子はお互いの存在を苦手に感じているらしい。そんな父親の様
子を気にもせず、カルロがにこやかに笑いながら近づいてくる。

「湖は見ましたか」
「え、ああ。見たよ。静かでいい場所だね」
「そうでしょう。僕はあそこを『ディアナの鏡』と呼んでいるんです。いい名前だとは思いませ
んか」

 私が湖を見て最初に抱いた感想と同じことを言う。無理もない。実際に、金枝篇を読んでいれ
ばそう呼びたくなるような湖だったのだ。私はもっともらしい顔を作って頷いて見せた。

「昔は本当にそう呼ばれていたかもしれないな」
「本物のネミ湖には敵わないでしょうけど」
「あのお」

 我々の会話に、いきなりエンリコが割って入った。先ほどまでの神妙な様子はどこへやら、彼
はいつもの好奇心溢れた表情を浮かべて我々を見ている。

「その『ディアナの鏡』ってのは何なんですか」
「おや、考古学をやっているのにフレイザー卿を知らないんですか」
「や、フレイザーさんと言ったらあの文化人類学の人じゃないですか。最近はお元気なんですか
ねえ」
「お元気なんですかって、まさか知り合いですか」
「いえ、全然」
「…………」
「ところでさっきの質問にまだ答えてもらっていないんですけど」

 相変わらずとぼけた調子で話し続けるエンリコに向かって、カルロが冷めた表情をしながら簡
潔に話した。

「ディアナの鏡というのはフレイザー卿の著作『金枝篇』に出てくる名称です。ローマ南方のネ
ミ湖は古代にそういう名で呼ばれていました」
「へえ、そうなんですか」
「そうなんですかって、貴方さっきは私に向かってディアナの聖所がどうこうと解説してくれた
じゃないですか。本当にディアナの鏡という呼び名を知らなかったんですか」
「いやあ、ほら、私の専門は考古学じゃないですか。昔の建物跡とか、陶器の破片とか、古い彫
像とかなら分かるんですが、湖はねえ。もうちょっと地理学の方も勉強した方が良かったかもし
れませんね」
「地理学ではないと思いますが」
「あのー」

 素っ頓狂なことを話し続けるエンリコに向かい、我慢しかねたようにソフィアが口を開いた。

「そろそろ、お部屋の方にご案内させていただきたいのですが」

 彼女は館の主の方をちらちらと窺いながらそう話す。見ると口髭の紳士の顔にはっきりとした
苛立ちが浮かんでいた。エンリコは首を竦め、私とカルロは目配せして苦笑いを交わした。少年
が照れながら小声で私に囁きかける。

「どうやら我が家の『森の王』を怒らせてしまったようですね」
「…森の王って」

 慌てて館へ向かいかけていたエンリコが懲りずに足を止めて振り返った。カルロができるだけ
早く話を終わらせようと端的に説明する。

「ネミの森の祭司の呼び名ですよ。金枝篇の冒頭に登場するのが、この『森の王』を巡るある慣
習についての話なんです」
「や、そうだったんですか。で、その慣習というのは」
「あの、エンリコさん」

 ソフィアが口調を強めて再度呼びかけた直後、門の方角から騒音が響いてきた。その場にいた
全員がそちらを見る。砂埃を上げて疾走してくるのは、マルコが乗り回していた自動車だった。
砂利道を飛び跳ねるように駆けてきた車は、門を抜けると我々の前で急ブレーキをかけて止まっ
た。勢いよく開かれたドアから出てきたマルコを見て、不機嫌そうに黙っていた父親がさらに顔
を顰めて言った。

「マルコ。何だその乱暴な運転は。おまけにお前はお客さんを置いて…」
「それどころじゃないんだっ」

 悲鳴のような叫び声をあげた彼の顔は青褪め引きつっていた。ただならぬ様子にカルロが低い
声で問いかける。

「どうしたんだい、兄さん」
「ア、アマーテさんが、殺された」
「何だと」

 彼の台詞に一番過敏に反応したのはその父親だった。



 車を降りたのは町中にある警察署の前だった。なぜか私の隣に座っていたエンリコも、長い身
体を折りたたむようにしながら狭いドアを抜け出す。運転していたマルコは真っ先に飛び出して
いた。後ろに続いていた自動車からはカルロとその父親が出てくる。先程見かけたお仕着せの運
転手が、車を飛び出して警察署へ踏み込む我々の様子を黙って見送った。
 我ながら野次馬な行動を取っている。それは分かっていた。ただ、慌てふためくマルコとその
父親を見ていると、何故だか一緒についていった方がいいと思えたのだ。もしかしたら、それは
予感のようなものだったのかもしれない。私は神秘的な現象など一切信じない男だが、後から考
えると虫の知らせとしか思えないような切迫感を感じていたのは事実だ。
 警官は一行の顔を知っているのか、我々を何も言わずに案内した。奥まった部屋には頭の禿げ
た目つきの悪い男が待ち構えており、マルコの父親を見て擦り寄るように近づいた。こちらです
よ、ロドリゴさん。そう言って禿げた男は口髭の紳士の前に立った。近くの警官が禿げた男に署
長と呼びかけ、何かを耳元で囁いた。署長は黙って頷き、そのまま奥へ進む。やがて、殺風景な
ドアが開かれた。さして広くない部屋の中央にはベッドが鎮座しており、その上にシーツを被せ
られた人間の身体が横たわっていた。禿げた署長は大またでベッドに歩み寄ると、無造作にシー
ツをめくった。

「息子さんには確認済みですが、こいつはそちらの従業員に間違いないですな」

 マルコの父親はむっつりと頷いた。マルコは青褪めたまま視線を逸らせている。陽気な彼にと
って死体は見るに耐えないものなのだろう。カルロは表情を殺して壁を見つめ、エンリコは何か
に憑かれたようにベッドの上に横たわる物を観察していた。
 見覚えのある人間だった。その小柄な体躯も、頭頂部の頭髪がきれいに失われている姿も、私
の記憶にしっかりと残っている。つい昨日だ。黒シャツと労働者たちを前に大演説をぶっていた
マルコの前に、生きていたこの男が姿を現したのは。混乱の中に飛び込み、二言三言話しただけ
で黒シャツたちを追い払ったその見事すぎる手際が、鮮やかに印象に残っている。

「残念でしたな、ロドリゴさん。子飼いの部下がこんなになってしまって」

 署長が禿げ頭を撫でながらぼそぼそと呟く。マルコの父は工場を経営している。その彼にとっ
て、子飼いの部下というのはどういう存在なのだろうか。昔から働いていた男か。昨日の様子を
見る限りでは、マルコたちのことも知っているようだった。

「全くもってご愁傷様としか言いようがない。で、少し教えてほしいんですがね。誰かこいつを
恨んでいる人間に心当たりはありませんか。まあ、そちらの工場が最近ごたごたしてるのはこっ
ちも把握してるし、我々の方でも色々と調べてはいますがね」

 署長が何気なく顔を上げる。その視線には奇妙に粘着質なものが感じられた。ロドリゴはそれ
に対して、完璧なポーカーフェイスで答える。

「その前にアマーテがどうしてこんな風になったのかを教えてもらえないかね。それが分からな
い限り、質問にも答えようがない」
「ほほう。どうしてこうなったのか、ですか」

 署長はぴしゃぴしゃと禿げ頭を叩き、死んだ男の顔としばらく睨めっこをした。次に天井へ視
線をやった彼は、腕組みをしながら言った。

「どうしてこうなったのか、それを知りたいのはこちらも同じでね。我々に分かっているのは、
今朝になってこいつの死体が発見されたということだけなんだよ。こいつは一体、いつ、誰の手
で、どうやってこんな風になったのかねえ」
「死体はどこで発見されたのかね」
「そちらには馴染み深い場所でしょう。工場の裏手。夜は人通りの少ない場所だから、いつから
この男が路上で横臥していたのかは分からんですな」
「死因は」

 署長の口がへの字に曲げられる。その目元に不愉快そうな感情が一瞬だけ浮かぶ。

「…出血多量。どうしてそんな風に死んでいたか、心当たりはありますかな」

 署長の視線が再びポーカーフェイスの紳士に向けられる。ロドリゴは何も答えない。父親の横
顔を見るマルコの表情は、まるで死人のように血の気がない。

「…そちらの工場の入り口ではご熱心な革命の前衛さんたちが徹夜でどんちゃんやっている。中
には夜の夜中に工場の裏手まで回りこんで不埒なことをしている連中だっているかもしれない。
それに、あいつらを支援するとかいう名目で、この数日どこからか送り込まれたアカの連中が町
中をでかい顔でうろつき回っている」
「…………」
「それだけじゃない。時折あそこに来て吠えている黒服連中の中にも素性のはっきりしないのが
紛れ込んでいる。何かをやらかしても不思議じゃない連中だ。おまけに、工場の裏で死体になっ
て転がっていたこの男は、その黒服どもと何らかのつながりがあったようだ」
「何だって」

 大声を上げたのはマルコだった。署長は一瞬だけ彼を見ると、すぐに視線を戻した。

「よくある話でしょう。労働争議がこじれ、革命を起こしたがっているアカどもが紛れ込んで工
場がまったく動かなくなる。困った資本家は、アカを追い出す汚れ役をやってくれる連中を必死
に探す。まあ幸いなことにアカ嫌いの黒シャツたちはどこにでもいる。後は子飼いの部下を使っ
てそういうゴロツキどもを雇い、ピケ破りをやって…」
「そういうことかっ」

 いきなりマルコが父親に飛びかかった。息子に比べて敏捷さに欠ける彼は襟元を締め上げられ
て驚愕に顔を歪めた。マルコは大声で父親を怒鳴り上げた。

「あんたがそんなことをしたからだっ。あんたが労働者の権利を薄汚い方法で踏みにじろうとし
て、その挙句にアマートさんまでこんな目にっ」
「ま、待て、何をするマルコ」
「あのゴロツキどもだっ。あいつらがアマートさんを殺したんだっ。昨日、俺に妨害されたのを
逆恨みしてこの人をっ。謝れっ、アマートさんに謝れっ」
「や、やめ…」
「やめなよ、兄さん」

 冷え切った言葉が部屋を一直線に横切った。父親の首筋を掴んでいたマルコの動きが止まる。
ゆっくりと声のした方角を向いた彼が見たのは、まるでゴミでも見るかのような感情のない瞳で
兄の狂態を観察する弟の姿だった。

「父さんとの喧嘩ならここでやる必要はない。今はもっと重要なことがあるだろう」

 マルコの腕から力が抜けていった。息子の手を振り解いた父親は、荒く息をつく。そんな様子
を横目で見ていた署長は、全く口調を変えずに話を再開した。

「そうそう、昨日はそちらの正義の味方気取りのお坊ちゃんが介入したおかげで、黒シャツはピ
ケ破りに失敗したようですな。この男が慌てて止めに入ったのを見ていた野次馬も大勢いる。せ
っかくゴロツキに渡りをつけたのに、いざ実行という段階でまさかボスの息子が邪魔に入るとは
思わなかったでしょうな。その挙句に、黒シャツどもに逆恨みされて殺されたとなれば、まさに
踏んだり蹴ったりと言ったところですかな」
「…………」
「どうなんですか。至極分かりやすいお話でしょうが」

 署長の問いに対し、マルコの父親は一つ深呼吸をしたうえで口を開いた。

「想像力を逞しくされるのは結構ですが、私としては何とも答えようがありませんな」
「なに、あの黒シャツどもとこいつの関係だけ教えていただければ結構なんですがね、ロドリゴ
さん」
「私には分かりません」
「おやまあ、何もご存じないと。それはつまり黒シャツどもを雇ったことがばれるとまずい、と
いう意味ですな」
「答えられません」
「善良なる市民としてご協力を願いたい。それとも、会社の部下が変死したというのに自分には
関係ないとしらばくれるつもりですか」
「では答えましょう。アマーテと黒シャツの関係については、私は何も知りません。私はピケ破
りのためにファシストを雇ったことはないし、アマーテにそうした役目を負わせたこともない」
「ほお」

 署長の目が細められる。獲物を見るかのように。

「では、そちらの息子さんが黒シャツと対峙した際に、どうしてこの男が仲介に入ったんでしょ
うな」
「それはアマーテに聞いてください。まあ彼も息子のことは知っていましたし、知り合いがトラ
ブルに巻き込まれていたなら助けに入るのが人情でしょう」
「人情ね。ではなぜアマーテさんが仲介に入ったら黒シャツたちがあっさりと引き上げたんです
か。生意気な学生ともども袋叩きにしても良かったでしょうに」
「それは黒シャツを着用していた者たちに聞いていただきたい」
「なるほど。とことん白を切るつもりか」

 いきなり署長の顔が憤怒に歪んだ。彼はその凶相を遠慮なく目の前の紳士に近づけてドスの利
いた声を上げた。

「いいだろう。白ばっくれるならそれで構わん。だがな、こっちが大人しく引き下がると思って
もらっては困る。あんたが町の有力者とツーカーなのをいいことにゴロツキどもに好き放題させ
ているのを、いつまでも見逃しているつもりはない。今回のヤマはきっちり追いかけさせてもら
う。ようやく掴みかけた尻尾だからな。いいか、逃げ切れると思うなよ」
「…何のことやらさっぱり分からんが、仮にも公職にある人間にしては不穏当な発言ではないか
ね」
「俺は秩序を乱す連中を赦すつもりはない。それがアカだろうとファシストだろうと、暴力や非
合法行為は放置しない。ゴロツキどもの背後にいるあんたのような連中もしかりだ」
「善良な市民を捕まえての言い草とも思えないが、まあいいだろう。私は別に警察と喧嘩をしに
来た訳ではない。そろそろ我が社の社員の遺体を引き取りたいのだが、構わないかね」
「残念ながらそれは無理だ」

 署長が憮然とした表情を浮かべる。妙にそわそわした様子が窺える。息子に掴みかかられた時
以外はとことん無表情で押し通していたロドリゴが、初めて怪訝な表情を浮かべた。それまで二
人のやり取りばかりに気を取られていた私は、久しぶりにベッドの上の死体に眼をやった。冷た
く横たわる死体には当然のことながら何の表情も浮かんでいない。私はふと部屋を見渡した。
 マルコの顔色は死体さながらだった。父親との喧嘩の直後に、今度は警察署長と父親の間で交
わされた殺伐としたやり取りを目の前で見たのだ。彼のようなお人好しにはショッキングな出来
事続きだったに違いない。一方、弟のカルロはとことん冷め切った表情だった。とても兄弟とは
思えないほど、その落ち着きぶりは兄と対照的だった。そしてエンリコ。いつもはとぼけた雰囲
気を醸し出している彼も、今だけは真剣な表情で死体を見ている。いや、よく考えれば彼はずっ
と死体だけを見続けていたような。
 署長はシーツを死体の上に被せ直した。なぜか彼の顔に苦悶の表情が浮かんでいた。先ほどま
での激情は失せ、変わりに当惑が彼の心を覆っている。

「しばらく遺体は警察の方で預かることになった。もう少し調べたいことがある」
「どういう意味なのかね」
「気にしなくていい。いずれ分かるだろう」
「そうでしょうか」

 深刻な声を出したのはエンリコだった。それまで一言も話さなかったこのひょろ長い男の台詞
に、全員が驚いて彼を見た。エンリコはゆるゆるとベッドに近づくと、シーツをめくって死体の
顔を露わにした。署長は黙って彼の行動を見ている。腰を曲げ、しばらく死体を見ていたエンリ
コは、やがてこちらに振り返ると言った。

「ここを見てください。この首筋のところです」

 私は思わず前に出てエンリコが指差すところに顔を近づけた。嫌そうな顔をしているマルコと
は違い、私は死体には慣れていた。首筋をじっくりと観察した私は顔を上げてエンリコを見た。
視線が合う。私は口を開いて見た通りのことを述べた。

「傷痕がある。二つの小さな穴のような傷痕が」
「ええ。何の傷痕に見えますか」
「少し大きな錐で突いたような感じだが」
「他には何も思いつきませんか」

 エンリコの顔はこの上なく真剣だった。私はしばらく考えて首を横に振った。錐で首筋の二個
所を刺すなどという殺し方があるとは思えないが、他にこんな傷がつく可能性はなさそうに思え
た。少なくとも、私の常識にはなかった。
 エンリコはさらに全員を見渡した。誰かの言葉を待っているかのように。だが、小さな部屋は
沈黙で満たされていた。彼はやがて署長を見て訊ねた。

「貴方は死因を出血多量だと言っていた。でも正確に言えば」
「…………」
「この死体の血は、すべて抜き取られていたのではありませんか」
「なぜそれを」

 署長が愕然として答えた。エンリコは黙り込んだ。二人のやり取りが理解できない様子のマル
コが首を傾げる。私はカルロの方を振り返った。このいつでも沈着な少年なら、エンリコの言い
たいことが分かるのではないか。心のどこかでそう考えていたのかもしれない。
 私の視線に気づいたカルロは、落ち着いた様子で口を開いた。

「エンリコさんはこう言いたいんですよ。この死体は、まるで吸血鬼に血を吸い取られて殺され
たみたいだって」



 マルコの父親は我々に対し、まずアマーテの家族を訪ねそれから更に工場へ寄って帰ると告げ
た。お仕着せの運転手が操る車の後部座席に座る彼の後姿には、妙に疲労した雰囲気が感じられ
た。残った四人は直接館へ戻ることになった。だが、簡単には戻れなかった。
 マルコが完全に混乱していたためだ。昔からの知り合いの死体を見せられたうえに父親との感
情的な激突があった。挙句の果てには何やら三流恐怖映画に出てくるような化け物の登場だ。あ
る程度の修羅場をくぐった人間ならともかく、彼のような温室育ちの明るさだけが取り柄の人間
にとってはいささか酷な場面の連続だったかもしれない。
 ショックのあまり完全に意気消沈していた彼にハンドルを握らせるのは危険だった。だが、私
は運転はできない。若いカルロも無理だ。どうやって帰ったものかと悩んでいる時にまたもや思
わぬ活躍を見せたのがエンリコだった。現場では車を乗り回すこともあるんです。そう言いなが
ら彼は軽やかにハンドルを捌いた。どうにか日が暮れる前に館に帰り着いた。
 とりあえず与えられた部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。目を閉じると先ほど見た男の死体が脳
裏に浮かんだ。首筋の二つの傷痕が赤黒く瞼の裏に映る。全身の血を抜き取られた死体。昨日ま
では生きて普通に動いていた人間の変わり果てた姿。青白く表情の消えたデスマスク。
 別に珍しいことではない。思いもよらない死を迎える人間は数多くいるし、ついさっきまで元
気だった人が物言わぬ骸となることも決して異常な状況ではないのだ。唐突な死、瞬時に存在を
やめる生命。私はそんなものを嫌というほど見てきた。そうしたものに対しては不感症になって
いると言ってもいいくらい。
 首を振ってベッドから起き上がる。どうもいけない。首筋にずっしりと疲労が溜まっているの
に、なぜか頭が冴えてしまっている。窓の外に視線をやる。そこには今にも沈みそうな夕日で真
っ赤に染まった広い森。その赤い色が私の網膜から脳髄へ沁み込んでくる。また、自分の肉体が
現実から遊離していくような感覚に襲われる。私は強引に瞼を閉じた。大きく深呼吸をする。遠
ざかっていた現実感が少しずつ戻ってくる。私は目を開くとすぐに立ち上がり、ドアへ歩いた。
一人でいると変なことばかり頭に思い浮かぶ。誰かと一緒にいた方がましだろう。
 食堂へ行くと、ソフィアがテーブルクロスを取り替えていた。私は彼女に会釈をすると、壁の
絵をぼんやりと眺め始めた。別に絵心が分かる訳ではない。ただ、他人のいる場所に身を置いて
いる必要があると感じていただけだ。衣擦れの微かな音を聞きながら、私はただ漫然と絵に視線
を向けていた。

「面白いですか」

 案の定、ソフィアは話しかけてきた。僅かな付き合いだが、彼女が三度の飯よりお喋り好きで
あろうことは想像がついていた。私は振り向かずに返答をした。いや、特に面白くはないよ。こ
の絵を飾ったのは誰なんだい。

「旦那様です。何でも、結構いい値段のものだからと言って」

 思わず口元に苦笑が浮かぶ。なるほど、工場のストライキを止めさせるためにゴロツキを雇う
と思われている人物の下しそうな判断だ。あの署長の言う通り、ロドリゴが黒シャツのゴロツキ
を呼び寄せたのならば、だが。

「あの、ちょっといいですか」
「うん?」

 ソフィアの声が少し真剣なのに気づき、私は緩んでいた口元を引き締め直したうえで振り返っ
た。珍しく真面目な顔をした少女が換えたテーブルクロスを腕に抱えてこちらを見ている。

「お客様は、よくカルロ様と何とかいう本の話をなさっていますよね」
「ああ、フレイザー卿の金枝篇のことかい」
「そうです。あの、それってどんな本なんですか」
「どんな本って」

 私はまじまじと彼女の顔を見た。彼女の質問の意図が掴めなかったからだ。私の視線を受けた
彼女は、なぜだか顔を赤らめると俯いて口をぼそぼそと動かした。

「その、どういった内容なのか、とか、あの」
「内容ね。なかなか一言では説明しづらいなあ。何しろ長い本だからね。数年前に出た第三版で
は全十二巻に及ぶ書物になっていたし」
「ええっ。そんなに長いんですか」

 ソフィアが目を丸くする。そんな長い書物を読む人間が存在するなど信じられないといった様
子だ。私が頷くと、彼女は何やら深いため息をついた。全十二巻の本と聞いただけで疲れきった
ような表情をしている。
 それにしても、読書にいそしむタイプには見えない彼女が、なぜ金枝篇に興味を持ったのだろ
うか。私は彼女を観察しながら言葉を継いだ。

「金枝篇に興味を持ったんならカルロ君に本を借りたらどうかな」
「それは駄目です」
「どうしてだい」
「どうしてって…どうしてもです。それじゃ駄目なんです」
「なら、どうやれば駄目でなくなるのかな」
「あのー」

 ソフィアは俯いていた顔を上げる。上目遣いで私の様子を見ながら、腕に抱えたテーブルクロ
スを両手で揉む。そして、ゆっくりと口を開いた。

「…できればその、ごく簡単に、かいつまんだ内容でいいですから、教えていただけないかと思
うんですけど」
「何について書かれた本なのか、という程度でいいのかい」
「は、はい。そのくらいで十分きっかけにはなりますから」
「きっかけ?」
「あ、その、こちらの話です」

 ソフィアの顔が再び赤く染まった。両手で掴んだテーブルクロスはもはやしわくちゃだ。下手
をするとそのうち引き裂いてしまうかもしれない。私はとりあえず心に浮かんだ疑問は棚上げに
して説明に取りかかることにした。

「…金枝篇の冒頭に『森の王』と呼ばれる人物が出てくるのは知っているね」
「えーっと、確か昼間に庭でお話しされていた」
「うん。あの時は途中で中断するはめになったけどね」

 マルコが飛び込んできて、あの男の死を伝えたのだ。金枝篇の話などどこかに消え失せてしま
った。私はソフィアの顔を見ながら話を続けた。

「…森の王と呼ばれる者がいたのは、ローマ帝国時代ごろまでだ。彼がいたのはローマの南に広
がるネミの森。近くにある町の名を取ってアリチアの森と呼ばれることもある」
「森にいたんですか」
「森の王、ラテン語ではレクス・ネモレンシスという名で呼ばれていたが、彼の実際の地位は祭
司だ。森の女神であるディアナに仕える司祭だね。この森にはディアナの聖所があり、そこから
はディアナの小像がいくつも見つかっているそうだよ。森の女神らしく、短いチュニックを着用
し矢筒を肩からぶら下げている像が」
「へえ。女神がそんな猟師みたいな格好をしているんですか」
「そうなんだ。そして、勇ましい格好をした女神を祭る祭司もまた、かなり殺伐とした姿で森の
中を徘徊していたようだね」
「殺伐とした姿、ですか」
「フレイザー卿は彼をこんな風に描写している。彼は殺人者だった。彼は絶えず抜き身の剣をぶ
ら下げ、森の中にある一本の木を守るようにあたりを警戒しながら歩き回っていた。この祭司は
いわば常時臨戦態勢にあったんだよ」
「さ、殺人ですか」
「なぜ彼はそんなことをしていたのか。どうしてろくに睡眠も取らず、追い詰められた獣のよう
に注意を怠らなかったのか。それは、彼がいつ殺されてもおかしくない地位にあったからだ。こ
のネミの森の祭司という地位には独特の慣習が存在した。新しく祭司になりたいと思った男は、
森の中にある特定の木の枝を折り取ったうえで、現在の祭司に挑戦できる。彼が古い祭司を殺す
ことができれば、その男が新たな祭司になったんだ」
「殺すって…」
「彼は森の王と呼ばれた。だが、王と呼ばれた者の中で、これほど明日をも知れない運命に翻弄
され、悪夢に苛まれた者もほとんどいないだろう。なぜこんな慣習が行われていたのか。なぜ王
は殺されなければならなかったのか。フレイザー卿はその疑問を追及したのさ」
「…………」
「彼は殺される王を求めて世界中の未開人に伝わる慣習や伝承を調べた。彼が見出したのは地中
海東部に伝わる、死んでは生まれ変わってくる神の物語だ。アドニスやアッティス、あるいはタ
ンムズという名の神々について調べていくうちに…」

 私はふとソフィアが黙り込んでいることに気づいた。見ると随分と顔色が悪い。私は驚いて聞
いた。

「どうしたんだ。気分でも悪いのか」
「…酷い話ですよね」
「え、何が」
「酷いです。どうしてあんないい人が殺されなければならなかったんでしょう」
「いや、別に森の王がいい人だった訳では」

 私の声など聞こえていないかのように、彼女は手に持ったテーブルクロスで目元を拭った。泣
いているのだ。なぜこんな話で泣くのだろうか。私はしばし呆然としていたが、彼女の手元で乱
暴に扱われているテーブルクロスを見ているうちに気づいた。ソフィアは森の王の話をしている
のではない。私の話を聞いているうちに、あの殺された小柄な男のことを思い出したのだ。

「…君は、あの人を知っているのか。あの、何と言ったか」
「アマーテさんです」
「そう、そのアマーテさんと」
「アマーテさんは旦那様の工場でずっと昔から経理の仕事をしていた人です。よくこちらの屋敷
の方にも訪ねてきていました。あの人は私やカルロ様が小さい頃から知っています。マルコ様な
ど一番よくなついていたし、私もよくアマーテさんからお菓子をもらっていました」

 思い出話をしながら、彼女は再びテーブルクロスを顔にあてた。ついでに鼻までかんでいる。
もはや二度とテーブルクロスとして使われることはないかもしれないその布を見ながら、私は彼
女に問いかけた。

「どうして彼が殺されたのか、心当たりはあるのかい」
「ありません。あんないい人が殺される理由なんか思いつくはずがないです。優しい人でした。
私やマルコ様がじゃれついて仕事の邪魔をした時も、いつもちょっと困ったような顔をして私た
ちのことを見ているだけでした。そんな人がなぜ」

 本当にアマーテがそんなお人好しなだけの人物だとしたら、ロドリゴがゴロツキを手引きする
際に彼を使うはずがない。だが、昨日マルコが起こした騒ぎを瞬時に収めたあの様子を見る限り
では、アマーテがあのゴロツキたちと何らかのつながりがあったことは疑いない。子供の前では
いい人のふりをしていたのか、それとも本当にただのお人好しで、ゴロツキを追い払った件はた
だの偶然だったのか。

「…アマーテさんは雇い主には信用されていたのかな」
「はい。旦那様はよくアマーテさんを屋敷まで呼んで色々な相談をしていました。仕事の件につ
いてはこれほど信頼できる人は他にいないと、旦那様はよくそうおっしゃってましたし」
「じゃあ、困った時にも頼りにされていたんだろうな」
「そうだと思います」

 アマーテという男の人物像がよく掴めない。私はもう少し別の側面から彼女に聞いてみること
にした。

「アマーテの死体…いや、遺体の様子は聞いたかい」
「いいえ」
「誰も教えてくれなかったのか」
「はい。マルコ様は先ほどご帰宅して以来、ずっと部屋にこもりっぱなしですし、カルロ様に少
し聞いてみたんですが、気にするなとだけおっしゃって」
「じゃあ、彼の死…遺体から血が全部抜き取られていたのも聞いていないんだね」
「えっ」

 私の言葉にソフィアの顔が一気に青褪めた。それこそ血が抜き取られていくかのような変化だ
った。彼女は唇を震わせながら言った。

「そ、それっていったい…」
「警察はまだ具体的な見解は示していない。どうして血が抜き取られていたのかについて、その
理由は分からないと話している」
「わ、分からないんですか」
「ただ、これは私も見たんだが、アマーテさんの首筋には二つの傷痕が残って」
「吸血鬼ですっ」

 ソフィアの声はほとんど悲鳴だった。彼女は両手で頭を抱え込むようにして叫んだ。

「間違いありませんっ。それ、吸血鬼ですっ」
「おいおい、何の話を」
「見たんですっ。昔、映画でっ。いやっ、怖いっ」
「おい、大丈夫か」
「嘘よっ、そんな、そんな、吸血鬼がこの町に来るなんてっ」

 嘘よ、何かの間違いよ、と喚きながらソフィアは食堂を飛び出した。あれだけ動転していても
抱えていたテーブルクロスを持ち出すのだけは忘れなかったところは立派である。一人取り残さ
れた私がぼんやりと入り口を見ていると、そこに影が射した。その影は少し躊躇うように動きを
止め、やがてゆっくりと食堂へ踏み込んできた。カルロだった。彼の顔色はもう普段と何の変化
もない。しばらく私の顔を見て、カルロは口を開いた。

「今、ソフィアが騒ぎながら出ていきましたね」
「ああ。いや、アマーテの死体から血が抜き取られていたことを話したら、えらく怯えてしまっ
てね。吸血鬼の仕業だって叫んで逃げ出したんだよ」
「え、そんなこと彼女に話したんですか」

 カルロは少し呆れた様子でこちらを見ている。私はなぜそんな目で見られるのか理解できずに
立ち尽くしていた。カルロはやがて肩を竦め、少し笑って話し始めた。

「失礼。よく考えればお客さんには説明していなかったですね。ソフィアはね、極度の怖がりな
んですよ。ちょっとした怪談をするともう大騒ぎを始めてしまってね。子供の頃は僕と兄さんと
でよく脅かしていたんですけど、その度に本気で怖がってました」

 苦笑を浮かべ、ソフィアが出て行った扉を見る。

「前にも揃って吸血鬼の映画を見にいったことがあったんですけど、途中で耐え切れなくなって
映画館から出てしまったくらいなんですよ。まあ、生理的に受け付けないんでしょうね」

 カルロが振り返り、私を見る。それにしても、血が抜かれていたなんて話をよく女の子にする
気になりましたね。

「…普通は嫌われますよ、そんなことを若い女性に向かって話したら」
「そういうもんかね」
「相手に気を使って、敢えて言わない人の方が多いんじゃないですか」

 言われてみればそうだ。別に相手が怖がりでなくても、そういう話を女性の前でするのはあま
り誉められた行動ではないだろう。だが、先程はそういう配慮が働かなかった。全く気にとめる
ことなく、彼女にそのおぞましい事実を明らかにした。
 そう、私にはできなかった。少し相手の気持ちになって考えてみることが。ずっと昔の自分は
そんな人間ではなかった。女性の前ではそれなりに気を使う程度のことはやっていた。だが、さ
っきはそういう人間らしい発想が浮かばなかった。いや、先程だけではない。私はこの数年、ず
っとそういう他人への共感ができない人間になっていたのだ。

「失礼。気に障りましたか」

 その声に私は視線を上げた。カルロが真剣な眼でこちらを見ている。まるで私の心の中を探ろ
うとするかのように。その眼に浮かぶ恐ろしいほどの迫力に少し辟易しながら、私は苦笑いを浮
かべてみせた。

「いや、君の言う通りだな。どうも配慮が足りなかった。後で彼女に謝っておかないと」
「僕の方もきちんと彼女のことを説明しておくべきでしたね。すみませんでした」
「君が謝ることはないだろう。それにしても」

 いい機会なので先程感じた疑問を問いただすことにした。

「君もアマーテさんのことはよく知っているのかい」
「アマーテさん、ですか」

 カルロは少し考えるように首を傾げた。思慮深そうな眼が空中を彷徨う。

「父ほど詳しく知っている訳ではありませんが」
「ソフィアによると、とてもいい人だったそうだな。殺されるような悪い人ではないと」
「ああ。彼女はそんなことを言っていたんですか」

 カルロの口元が妖しく歪んだ。その顔が皮肉っぽい笑みを形作る。彼らしい、極端なほど彼ら
しい表情が私の前に姿を現す。それは悪意のある傍観者が浮かべる嘲笑。兄のマルコが決して見
せないであろう、昏い何かを窺わせるアルカイックな笑み。

「…ソフィアはあの男の外面しか知りませんからね。兄と同じです。父に呼ばれて屋敷に来た時
にあいつが見せた、子供を手懐けるための演技に騙されているんですよ」

 強烈な台詞だった。カルロはしばしば兄であるマルコを馬鹿にするようなことを言ったり、そ
ういう表情を見せたりしている。どうやら、彼が蔑む対象は陽気でどこか抜けている兄だけでな
く、あの怖がりでお喋りの幼馴染も含まれているようだ。私はいささか鼻白みながら彼に質問し
た。

「なら、あの警察署長が言っていた通り、アマーテは君の父上の腹心で黒シャツのゴロツキを雇
った張本人だったというのかい」
「父に確認した訳ではないですけど、そうだとしても何の不思議もありません。あのアマーテは
かなり強かなヤツですよ。そうでなければ父の腹心になどなれる訳がないでしょう」

 さらりと言ってのけるカルロの顔には、いっそ爽やかといってもいい雰囲気が漂っていた。私
はゆっくりとため息をついた。どうもカルロと話をする際には妙な体力を使う。しかしながら、
この少年がある意味でもっとも役立つ情報源であることも間違いない。となれば、もう一つの疑
問についてもカルロに聞いた方がいいかもしれない。なぜアマーテは血を抜かれていたのか。私
は問いを発しようと口を開いた。

「…お帰りなさいませ、旦那様」

 玄関の方から下男の声が聞こえてきた。館の主人が帰還したらしい。カルロはそれではと短い
言葉を残してすぐに食堂から出た。私が投げかけようとした問いは、音声となる前に消え去って
しまった。



 初めて館の主人が開くディナーへ出席することになった。出席者は前日より増えて五人。それ
でもまだ広いテーブルには余裕があった。主催者席には威厳ある口髭を蓄えたロドリゴが堂々と
腰を下ろし、その息子たちは下座に並んだ。客は私を含めて二人。ひょろ長い男はいつもと同じ
ように飄々とした顔で席に座る。
 全員が揃ってからも、しばらく誰も口を開かなかった。主催者は何か考えるように天井からぶ
ら下がったシャンデリアを睨んでいる。その長男は気の毒なほど青い顔をしていたが、次男は淡
々とした様子だった。エンリコはきょろきょろと広い食堂を見回している。食事が運び込まれて
きた。

「本日は色々と失礼いたしました」

 唐突に館の主人が口を開いた。これは我々客人に向かってかけられた言葉だろう。そう思った
私が口髭の紳士を見ると、彼はそのポーカーフェイスにわざとらしい笑みを浮かべて言葉をつな
いだ。

「遠来のお客様をお迎えするには、いささかタイミングが悪かったようですな。不愉快な思いを
させたことにはお詫びを申し上げます」
「あ、いえ、どうかお気遣いなく」

 礼儀を失わない主人に対し、私の返事はどうにもぶっきらぼうになってしまった。再び沈黙が
下りる。昨日に比べて人数は多いのに、どうも盛り上がらないこと甚だしい。給仕しているソフ
ィアまで暗い顔をしている。
 結局、食事の間それなりに会話をしていたのはエンリコくらいだった。私やロドリゴが時折彼
の相手をしたものの、会話はすぐに寸断された。全員の脳裏に、昼間見た男の死体がちらついて
いたのは間違いない。マルコはついに一度も口を開かず、カルロもまたほとんど喋ることはなか
った。考古学に関するエンリコの簡単な講義が終わったあとは、まるで修道院のように沈黙のま
ま食事が行われた。
 食事が終わると、耐え切れなくなったようにマルコが席を立った。挨拶もそこそこに食堂を出
て行く彼の後姿は、落胆という言葉を絵に描いたようだった。それにしても、たった一人の死で
あの陽気な男がこれほど落ち込むとは思わなかった。何が理由なのだろうか。私がそんなことを
思いながらコーヒーを啜っていると、館の主が声をかけてきた。

「…こちらの国はいかがですか」
「え、ああ。はい、なかなかよい国だと思いますが」
「おやそうですか。どのあたりが気に入りましたかな」
「どのあたりと申しましても、私がこちらに来て見たのは大半が遺跡ですので」
「ははあ。異国の方はああいったものがお好きなようですな。私には単なる石の塊にしか見えま
せんが」
「確かにそうですね。ですが、あれもよく観察すればその背後に人間の意図というか感情という
か、そういうものが感じ取れると思うんですよ」
「人間の意図、というと」
「古い時代の人間。もう歴史上の存在になってしまった人間たちです。今でこそ彼らは歴史書に
書き込まれた記号になっていますが、そんな彼らでも生きていた時は我々と同じように喜んだり
悲しんだりしていたのでしょう。そういうことを想像しながら見れば、単なる石の塊もまた面白
いものです」
「なるほど。おっしゃることは分かります」

 紳士はそう言うと上品にコーヒーを一口飲んだ。

「…ですが、喜怒哀楽に振り回される人間を見たいのならば、現に今生きている人々を見た方が
手っ取り早いのではないですか。わざわざ遺跡を経由して想像をたくましくする必要もなさそう
な気がします」
「まあ、それはその通りですが」

 私は口を濁した。彼に言われるまでもない。わざわざ遺跡を通して人間を想像するより、周囲
に溢れている人間たちを直接観察した方が手っ取り早いのは事実だ。ただ、私にはそれができな
いのだ。観察することが、ではなく、生身の人間から感情を読み取ることが。だから、敢えて遠
回りなことをしている。
 しかし、そんなことはこの席で言うべきことではない。私が話題を変えようとした時、再び紳
士が話しだした。

「しかし、残念ですな」
「はい?」
「このあたりはローマと違って、見て面白い遺跡などほとんどないでしょう」
「それは、まあ」
「遺跡に限らず、遠来のお客様に見ていただきたいような面白いものはほとんどない」
「そうなんですか」
「ええ。せめて私どもの方で微力ながら歓待の姿勢をお示しできればとも思うのですが」

 紳士の言葉が途切れる。その眼は私とエンリコを交互に見ていた。どうやらこれから彼が口に
出す台詞が彼の本音らしい。

「…残念ながらあんなことが起きてしまいました。正直申しましてお客様のお相手をする余裕が
なくなってしまった状態です」

 なるほど。ここまで分かりやすく言ってくれれば、他人の感情を読むのが苦手な私でも理解で
きる。彼は我々の存在を疎ましく思っている。特に、子飼いの部下があんな風に殺されてしまっ
た現状では、部外者をこの館に置いておきたくないようだ。

「や、そんなことでしたか。どうかお気遣いなく。私は全然気にしませんから」

 エンリコが妙に勢い込んで言う。紳士はそうですかそうですか。それではお言葉に甘えること
にいたしましょう、と物分りよく応じた。エンリコはロドリゴ自身が連れてきた客だ。最初から
追い返すつもりはないのだろう。彼のターゲットはこの席から逃げ出した息子が連れてきた客、
つまり私だ。
 そう、私は言わばマルコに無理やり連れてこられた客である。その父親にとっては想定外の存
在に違いない。彼の工場がトラブルに巻き込まれているこの時期に、正体不明の異邦人を家に置
きたくないという気持ちも分かる。私自身、望んでこちらの館に逗留したのではない。元々、短
期間で引き上げるつもりだったのだ。少なくとも、最初はそう考えていた。
 困ったことに、私の心境は変化していた。今は何とかしてこの館にとどまろうと考えている。
ここに来て生じた事件が、私の心を惹きつけてしまったからだ。血を抜かれて死んでいた男、工
場を巡る労働者と黒シャツの対立。そんなものに、私の好奇心がどうしようもなく刺激された。
何が起きているのかを知りたい。何とか真相を暴くことはできないのだろうか。衝動が胸の内に
広がっている。

「…貴方を連れてきたマルコがあんな具合ですし、しばらくは何のお相手もできそうもありませ
ん。もしお帰りになるというのであれば、こちらでローマまでの切符の手配はいたしますが」

 私の心境など忖度する様子もなく、紳士が言葉を連ねる。さて、どうしたものか。何とかうま
い言い訳を考えて、この館に残るようにしたいのだが。考えながら彷徨わせていた視線が、カル
ロとかち合った。彼の目元に、面白そうな表情が浮かんだ。

「いかがですかな」
「父さん」

 父親の言葉をカルロが遮る。

「…うん、どうした」
「別にしばらく逗留してもらってもいいんじゃないかな。兄さんがダメなら僕が代わりにお相手
するし」
「いやしかし」
「せっかく金枝篇について詳しい人が来てくれたんだよ。色々と話も聞いてみたいんだ。父さん
がごたごたしているのは知っているけど、それはあくまで工場の方の話だろう。館の方にいても
らう分にはそんなに問題はないと思うよ」
「うむ」

 思わぬ援護射撃だった。私は思わず感謝の念を抱きながらカルロを見た。少年は悪戯っぽい笑
みを見せて私に頷く。彼の父親はしばらく苦虫を噛み潰したような顔で唸っていたが、やがて私
の方に視線を移した。

「息子はこのように申しておりますが」
「私としては全く構いません。気楽な旅の身の上ですし、ご迷惑にならない範囲で泊めていただ
けるというのなら喜んで逗留させてもらうことにします」
「退屈ではありませんかな。何しろ本当に何もありません。館の周りは森ばかりですし、町に行
っても面白いものがある訳でなし」
「心の洗濯のつもりで来ているのですから、一向に構いませんよ。どうかお気遣いなく」

 私の言葉に紳士は静かに頷いた。内心はどう思っているのか知らないが、外目にはその態度は
完璧なものだった。マルコもカルロも、ある意味であけすけなところがある。マルコは感情がそ
のまま態度に出るし、カルロは兄に比べればひねくれているが、それでも考えていることがすぐ
に表情にあらわれる点は兄と似ている。しかし、彼らの父親は違う。彼は自分の感情を完全に隠
すことができるタイプの人間だろう。警察署長を前に、ポーカーフェイスを崩すことなく対応し
きった点から見ても間違いない。
 この時も彼は完全に感情を隠して、そういうことでしたらどうかこの屋敷にしばしお泊りくだ
さい。何もないところですが静かさだけは取り柄です、などと述べた。その本音は見えない。自
分で明かすつもりにならない限り、彼が考えていることは掴めなさそうだ。彼がアマーテに何を
させていたのか、その死をどう思っているのか、血が抜かれていた理由について何か思い当たる
ことがあるのか。
 私は精いっぱい自分の感情を抑制し、紳士に向かって慇懃無礼に礼を述べた。視界の隅で、カ
ルロがいつもの皮肉な笑みを浮かべて我々を観察していた。



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