I 私がイタリアを訪れたのは、戦争が終わってほんの数年後の192X年だった。戦争の傷痕は 様々な形で残っていた。私自身にも、私の周囲にも、私の祖国にも。そんなものから逃げ出すた めにやってきたここイタリアにも、やはり傷痕は存在した。異邦人の私にもはっきりと見えるほ ど。 だが、私はそれを見ないようにした。その代わりに私が求めたのは、古代ローマ時代の遺跡だ った。ローマの街中にある様々な建造物。郊外にある優れた古代の土木建築。この歴史の古い国 をあちこち彷徨いながら、私はそんな遺物ばかりを見て回った。 廃墟と化した建物は、人間味を余り感じさせない。それは現実に人が住み、活動している建物 と比べてみれば一目瞭然だ。後者がいやというほど人間の匂いを感じさせてくれるのに対し、壁 と床だけになった廃墟にそんなものはない。遺跡がどこにあるかは関係ない。荒れ果てた地の真 ん中にポツンとある滅んだ街の遺跡も、現実に活動している都市の中に不意に浮かぶ古代の記念 碑も、どちらも非人間的という点では同じだ。 いや、本当は違う。建物はどれほど人間味を感じさせなくても、結局のところ人間が作り上げ たものだ。作った時代と使用された時期が異なるだけで、そこには間違いなく人間の意思が存在 した。何らかの人間らしい思いを感じることができた。ほんの僅か、細心の注意を払ってやっと 気づく程度のものではあったが。 だから私は遺跡巡りに時間を費やした。廃墟の前に立ち止まり、消えかかった人間の姿をその 乾いた石の向こうに捜し求めた。生身の人間は数多く私の周りを歩いている。煩く話し掛けてく る連中もいるし、ちょっかいを出そうとする者もいる。しかし、私はそんなものを相手にしなか った。ただ静かに廃墟を見つめていた。それが私にとって近道だったからだ。 もっとも、異国でいつまでも孤独を味わうことはできなかった。ローマの街中で夕食を摂って いる時に出会った男が、私を壁と床の世界から、人間たちで溢れ返り息が詰まりそうな現実の世 界へと引き戻した。 「よお、同志。楽しんでるかい」 その若い男は見事に酔っ払っていた。周りにいた彼の友人らしい連中にけしかけられ、暇そう な異邦人に喧嘩を売る役目を背負わされたのだろう。言葉が分からないふりをして無視しても良 かったのだが、何故か私はその問いに答えてしまった。 「おかげさまで心の洗濯をさせてもらっているよ」 私の答えのどこが気に入ったのか分からないが、とにかく若い男は愉快そうに大笑いし、私の 背中をバンバンと叩いた。そのまま私の隣の席に腰を下ろすと、男は勝手に酒を二人分注文し、 乾杯を強要してきた。喧嘩を期待していた彼の友人たちまでが、目論見が外れたことを気にとめ る様子もなく私の席へ移動してきた。賑やかな酒盛りが、異国人である私の周囲で始まった。 一目見た時に予想した通り、彼らは学生だった。いかにも学生らしく、陽気で、純粋で、世間 知らずで、若さに満ち溢れていた。そうした無防備とも言えそうな彼らの雰囲気こそが、私の固 く閉ざされていた心を開いたのかもしれない。あるいは、廃虚ばかりを見ているうちに、知らず 人恋しくなったのか。自分の気持ちもよく理解できないまま、私は彼らと過ごす騒がしい時間に 没入していった。 数日後、彼らの一人と偶然に顔を合わせた。街中にある遺跡の傍で休んでいる時に、向こうか ら声をかけてきたのだ。それは、あの宴の際に最初に私に話しかけた若者だった。驚いたことに 彼はこの国ではほとんど見かけない自動車に乗っていた。 マルコと名乗ったその若者は、私を無理やり車に乗せるとドライブを始めた。むやみやたらと ハンドルを振り回しながら、彼はとめどなく私に語りかけてきた。先日は失礼しました。見ず知 らずの人に随分と無礼なことをしてしまって。それというのもあいつらのせいなんですよ。あい つらときたら、とにかく人を酔わせて無茶させるのが趣味みたいな連中ですから。 「その割には仲が良さそうに見えたがね」 「そうすか。あはははは」 マルコは楽しそうに笑う。友人たちに対する悪口が本気でないからこそだろう。悪友こそ本当 の友人である。誰かがそんなことを昔言っていた。彼はまさに自らの若さを謳歌していた。こん な青春もあり得たのだと思って胸に痛みが走る。 「そんなことより、この国に来たのは何が目的なんです。観光ですか」 「まあね。ちょっと古い時代の遺跡を巡りたくなって」 「ははあ、ちょっと巡りたくなっただけで外国まで来るんですか。随分と余裕のある生活をして いるみたいですね」 「君こそその若さでこんな車を乗り回しているとはまた豪勢じゃないか」 「ええ…まあ」 マルコの顔に一瞬だけ不本意そうな表情が浮かぶ。私はそれに気づかないふりをしながら会話 を続けた。 「もしかしたら、いいとこのお坊ちゃんなのかい」 「やめましょうよ、その話は」 そう言うとマルコは乱暴にハンドルを切った。大きく傾いた身体をどうにか支える。暫く沈黙 が下りた。私は黙って後ろへ飛び去る街中の景色を見つめた。一角に集まって大声でシュプレヒ コールを叫ぶ労働者らしき者たちがいた。自転車に乗って急ぐ事務員風の人々が目の前を通り過 ぎる。雑踏、人ごみ、騒音と熱気。人間が大勢いる。私がこの国に来て以来、絶えず網膜に映っ ていながら意識に上らなかった数多の人々。 「ところで、これからの予定はどうなっているんですか」 私の沈黙に我慢しきれなくなったのか、マルコがまた話しかけてきた。私は彼の顔を見て、特 に決まっていないと答えた。金がもつ間はこの国をうろつくつもりだ、と。するとマルコはあけ すけな笑顔を見せていった。 「じゃあ、うちに来たらどうです。ローマから少し離れた町の近くですから、色々見て回るには あまり便利じゃないでしょうけど、ホテル暮らしより安上がりでしょう」 「私を泊めてくれるのかい」 「ええ、もちろんです。何、大丈夫ですよ。こう見えても俺はいいとこの坊ちゃんですから」 「いやしかし、それは悪いよ。見ず知らずの人の家に泊まり込むのは…」 「気にしないでくださいって。酔って絡んだお詫びですから。ちょうど大学も休みに入ったから 帰省しようと思っていたところだし」 「だが」 「まあいいじゃないですか。うちは母が早くに亡くなった男所帯なもんですから、十分なおもて なしはできませんけどね。それでもホテル暮らしよりは楽しいと思いますよ」 マルコはそう言ってまた声を挙げて笑った。根っからのお人好しだけが出せる笑い声だった。 だが、私はその声を前に戸惑った。ここで彼の申し出を断ることはかえって無礼になるような気 がしたためだ。彼の笑い声にはそんな力があった。私は曖昧に口ごもった。すると彼はそれを受 諾と受け取り、再び無邪気な笑顔を浮かべて言った。 「じゃ決まりだ。ホテルはどこですか。チェックアウトが終わるまで待ってますよ」 その町は中部イタリアの片田舎にあった。ローマから鉄道で来ることのできる場所ではあった が、実際に鉄道を使っていたらいつ到着できるか分からなかっただろう。イタリア中でストライ キやサボタージュが行われていた。鉄道も例外ではない。マルコの操る自動車は、動かぬ鉄道車 両を背後に置き去りにした。 町中の風景はありふれたものだった。何処にでもありそうな建物、何処にでもいそうな人々。 そこそこ賑わっていて、それなりに仕事もあって、誰もがまあまあの生活を送っている。通り過 ぎて一時間後にはそんな町が存在したことすら忘れてしまいそうな没個性的な景色が、私の前を よぎっていく。 マルコはあたかもパリの繁華街を走っているかのように楽しそうに自動車を運転している。ど うやら彼は、何がなくても愉快な気分になれる体質の持ち主のようだ。私とは正反対の性格をし たこの同乗者は、今にも口笛を吹きだしそうな様子でハンドルを切った。 「…あれ」 その直後、運転をしている男は急に自動車を止めた。彼の視線を追った私の目に、何やら人だ かりが飛び込んできた。大きな建物を持つ敷地の入り口に集まって騒いでいる。大勢の人間が一 斉に話す声が窓越しに車内へ漏れてきた。訝しげにその様子を見ていたマルコの表情が、やがて 険しさを増した。 「…ちょっと、待っててくれますか」 マルコは私の顔を見ずにそう言うと、ドアを開けて道路に降り立った。気になった私が慌てて ドアを開けた時には、彼はもうその群集に向かって近づいているところだった。 私は改めて人だかりを見た。入り口に群れて道路側を向いている連中と、それに向かい合って いる者たちとがいることに気づく。前者は典型的な作業服を着込んだ労働者たちだった。よく見 ると、彼らの背後に見える敷地の門には、通行を妨害するかのように雑多な物が置かれていた。 ピケット。間違いない。彼らはストライキの最中なのだろう。 それにしても、労働者たちに向かい合っているヤツらは何者なのだろうか。私は改めて彼らの 様子を見た。一点を除いて統一性の取れていない服装を着用したその連中の中には、一見して堅 気とは思えない面構えをした男たちが多く含まれている。彼らの態度も不謹慎という点以外はバ ラバラだ。全員が着用している黒いシャツだけが、この男たちが仲間であることを示している。 黒シャツの男たちと、ピケを張った労働者たちは凄い勢いで怒鳴りあっている。私は漠然と、 あの黒シャツたちは資本家に雇われたごろつきたちではないかと思った。と同時に目の前で起き ている事象に対する興味を半分ほど失った。何のことはない。よくある労働争議だ。あちこちで 嫌というほど見てきた。戦争前も、戦争後も、祖国でも、この国でも。 だが、マルコにとっては見飽きたものではなかったようだ。彼は顔を真っ赤にして口論の真っ 只中へと飛び込んでいった。まるで風車に突撃するドン=キホーテのように。彼の姿を見た労働 者たちが奇妙な表情を浮かべ、黒シャツたちは胡散臭そうにマルコを睨む。まったく気にした風 もなく、現代のアナクロ騎士は黒シャツの男たちに食ってかかった。 「…労働者の争議権を無視するのか。ピケ破りは許されないぞ」 マルコの甲高い声が私のところまで聞こえてきた。それを見る私の脳裏は冷え切っていた。プ ロレタリアートの解放がどうだとか、我々は搾取に断固として抵抗するだのといった彼の声を聞 き流しながら、私は周囲に視線を巡らせた。退屈な田舎町ではいい見世物なのだろう。いつの間 にか野次馬が集まり、マルコの大演説の聴衆となっていた。 その時、私の網膜に僅かな痛みが走った。何だ。この刺すような感じは。瞬きして眼をじっと 凝らす。人の群れ。単に野次馬がいるだけだ。物珍しそうに騒ぎを見る子供たち数人と、マルコ を論評するかのように口を忙しく動かしている主婦らしき女二人、身なりの整った若い男、顔を しかめる老人、エトセトラ、エトセトラ。違和感は消えない。だが、何がその違和感の原因にな っているのかも分からない。 その時、野次馬をかき分けるように一人の男が飛び出した。小柄で頭頂部の禿げ上がったその 男は、取り乱した様子でマルコの元へ駆けつける。ちょうどマルコの演説に苛立った黒シャツの 一人が、彼の襟元を掴み上げている時だった。小柄な男は慌てて二人の間に割り込もうとする。 しばらく揉みあいが続き、興奮した野次馬たちの間からも大声を上げる者が出てきた。 だが、騒ぎはそこまでだった。小柄な男としばらく話をしていた黒シャツたちは、何故かその 場に背を向けたのだ。彼らは集まっていた野次馬たちを怒鳴り上げ、道を空けさせた。そして、 瞬く間にその場から消えた。直後、ピケを張っていた労働者たちの間から歓声が上がる。彼らの 中では、英雄のように揉みくちゃにされるマルコがいた。あの小柄な男の姿は消えていた。 野次馬たちが去っていく。労働者たちはまだ自分たちの英雄を中心にして騒いでいた。私はそ ろそろいいだろうと判断し、そちらへ近づこうとした。その時、僅かに残っていた野次馬の中か ら一人の影が私に先んじてピケットに接近した。 「相変わらず威勢がいいね」 それは野次馬の中にいた若い男だった。一見して目立たないが、その仕立てのいい服は彼が上 流階級に所属していることを示している。声をかけられたマルコはその若い男を見た。何故かマ ルコの目に気まずそうな光が宿った。 「…カルロ」 「大学に行っていよいよ意気盛ん、ってところかな。兄さん」 「煩いな。別にいいだろ」 「父さんが見たらどう思うかな」 「親父は関係ない。俺は自分の信念に従って行動しているだけだ」 「信念、ねえ」 カルロと呼ばれた若い男の口元に少し皮肉な笑みが浮かぶ。同じ笑い顔でも分かりやすいほど 素直なマルコとは随分と雰囲気の違う表情。だが、その二人の笑みはどこか共通点があった。私 はゆっくりと二人の傍に近づき、声をかけた。 「終わったかい、マルコ君」 「あっ、そう言えば…」 私の顔を見たマルコがしまったという表情を見せる。どうやら私の存在を完璧に忘れて己の演 説に酔っていたらしい。だが、その様子ですら微笑ましく思えのは、彼が身にまとっている人好 きのする雰囲気のためだろう。ここまで来ると一種の才能だ。人嫌いの、人嫌いになってしまっ た私ですら、この軽率な若者を厭うことができないとは。 「すみません。貴方のことを忘れてついカッとなっちゃって」 「別に構わないよ。急いでいる訳じゃないし」 そう言って私はマルコの隣に立つ若い男を見た。まだ少年と呼んでもいいくらいの年格好をし た彼は、私と目が合うと微かに会釈した。そして何かを問い掛けるようにマルコの方を向く。だ が、マルコはそれに気づいた様子もなく私への言い訳を続けた。 「そりゃそうですけど、参ったな。みっともないとこ見られてっていうか」 「…兄さん」 カルロはマルコの注意を引くため、少し強い調子で話し掛けた。 「紹介してもらえないかな」 「あ、そうか。すみません、こいつは俺の弟でカルロって言います」 よろしく、と礼儀正しく話すカルロに対して私も自己紹介をした。正面から見ると、確かに二 人は似ている。雰囲気は全く逆だが、顔の造作は同じだ。その奇妙な対照を感心して見つめてい ると、沈黙の苦手なマルコがすぐに口を開いて私との出会いを弟に説明し始めた。ローマで会っ たんだ。酒盛りをやっている時にさ。わざわざ外国から遺跡を見に来たんだぜ。というか遺跡だ け見に来たみたいだったな。まあ確かに珍しいものかもしれないけど、なかなかそういう人はい ないよなあ。マルコの口は止まらない。誉められているのか貶されているのかも不明だ。 「…そういう訳で、うちに泊まることになったんだ」 何がそういう訳なのかさっぱり分からないが、マルコはそう言って話を締めくくった。私は苦 笑しながら言葉を補足した。 「申し訳ない。何の所縁もない異邦人がいきなりやっかいになるのは迷惑でしょうが」 「いえ。気になさらないでください」 カルロは丁寧さを全く崩すことなくそう答えた。慇懃すぎて無礼に思えるほど、その態度は完 璧だった。 「兄のやることには私たちはもう慣れていますから」 「…というと」 「その日に知り合ったばかりの人を我が家に連れてくるのは、兄の昔からの癖です。僕も父も、 もう諦めていますので」 「おいおい、そんな言い方はないだろうが」 マルコがむくれているのを気にもとめず、カルロは私に笑いかけた。 「歓迎しますよ。ようこそ我が家へ。と言っても、うちの館はここから少し離れた森の中なんで すけどね」 「あれ、そう言えばお前は何で町に出てきたんだ。普段は家に閉じこもっているくせに」 「注文していた本が届いたから取りに来たんだ」 そう言ってカルロは手に持った本をマルコに示した。少年の兄はそれを見て嫌そうな表情を浮 かべる。表紙に書かれた題名を見て、私は少し驚きを覚えた。 「それはジェシー・ウェストンの『祭祀からロマンスへ』じゃないか」 「あ、知ってますか」 とたんにカルロは私の方に向き直り、声を弾ませた。 「まあね。少し興味があったんで読んでみたことがあるけど」 「そうですか。いや、すみません。兄の友人だったらろくに読書なんかしたことがないんだろう と思い込んでいたんですが」 「おいおいおい、そりゃどういう意味だ」 黙っているということができないマルコがまた口を出す。カルロはそれを無視して私との話を 続けた。 「これを読んでいるってことは、もしかしたらフレイザー卿の『金枝篇』も読みましたか」 「ああ、読んだよ。それにしても凄いな君は。この『祭祀からロマンスへ』は原文じゃないか。 英語が読めるのかい」 「読むだけなら何とかなりますよ」 「君くらいの年で読めれば立派なもんだと思うがね。もしかしたら『金枝篇』も原文で読んだの かい」 「ええ」 私は素直に感心した。この生意気そうな少年は、どうやらなかなかの勉強家らしい。 「どうやら兄は素晴らしい客人を呼んでくれたようですね」 私の顔を見ながら、カルロはそう言ってにっこりと笑った。初めて、少年らしい率直な笑みが その顔を覆う。彼は兄の自動車の方を示しながら言った。 「では、どうかあの自動車で我が家までおいでください。じゃあ兄さん、運転よろしく」 「何か納得がいかないんだが…」 ぶつぶつ呟きながら自動車へ向かうマルコの後ろ姿を見ながら、カルロが悪戯っぽく笑う。何 のかんの言いながら、この兄弟は仲がいいようだ。微笑ましい光景に何となく浮き立つ気分にな りながら、私は足を踏み出した。 ふと気になって振り返る。背後には労働者たちのピケット。その向こうに見える工場らしい建 物の窓から、誰かが覗いているような気がした。 森を抜けてたどり着いたのは、予想していたよりさらに大きな館だった。木々の間から門とそ の向こうの建物が見えた時、私は思わずマルコに話し掛けていた。 「…君の家は、もしかしたら貴族か何かなのかい」 「は? んなこたないですよ。工場経営をやっているだけですが」 マルコの調子外れな返答を聞き、私は改めて彼が世間知らずであることを認識した。この国に せいぜい数万台しかない自動車を乗り回し、おそらくは親の金で大学へ行って都会で暮らし、そ の一方で労働者の権利を守れと演説をぶつ。本当に生きていくために苦労している人間から見た ら資本家のお坊ちゃんの道楽にしか見えないが、そのことにすら思い至らないほど純粋培養され たのがこの若者なのだ。 砂利道を館へ向けて勢いよく自動車を走らせるマルコの横顔を見て、私は内心でため息をつい た。そこには羨望の思いも込められていた。後部座席から忍び笑いが聞こえる。振り返ると、カ ルロと視線があった。その眼が何だか全てを見透かしているような気がして、私は思わずうろた えた。 自動車が門を過ぎ、大きな館の前に滑り込む。自動車の音に気づいたのか、下男らしき中年の 貧相な男が扉を開けて出てくる。マルコはブレーキをかけて彼の前で自動車を急停止させた。砂 埃が舞い上がり、男が咳き込む。 「アントニオ、久しぶりじゃないか。相変わらずしょぼくれた顔をしてるなあ」 ドアを威勢よく開けると同時にマルコは下男らしい男にそう話し掛け、両肩をバンバンと叩い た。アントニオは目を眇めて何やら口のなかでもごもごと話す。彼の意見を聞いた様子もなく、 マルコは言葉をつないだ。 「こちらは俺のお客さんだ。客室は空いているだろ。丁重にご案内してくれよ。ほらほら、荷物 を運んでさしあげないか」 マルコの口は休まることがない。無口な中年男はマルコに言われるまま自動車に近づくと私の 荷物を持って玄関へ歩き出した。車から降りた私にマルコが呼びかける。 「部屋は沢山ありますから、まあゆっくりして下さいよ」 「ありがとう。迷惑でなければいいんだがね」 「迷惑だなんてとんでもない。家を挙げて歓待させていただきますよ」 「そういう台詞は、本来は父さんが言うべきものじゃないかな」 同様に車を降りたカルロが兄にそう話し掛ける。マルコは不機嫌そうな顔をした。 「親父には俺から言っておくさ」 「そうした方がいいと思うよ」 会話を交わす兄弟の後ろについて玄関を入る。いかにもといった感じのロビーが目の前に広が った。床に敷き詰められた絨毯、壁を飾る絵画、部屋のあちこちに置かれた中世の武具や甲冑と いった装飾品、奥まったところに弧を描く二階への階段。確かに豪華で金も掛かっているが、決 して洗練されたイメージはない。 横合いの扉が開き、お仕着せの女性が出てきた。彼女はマルコを見ると吃驚した様子で一瞬だ け立ち止まり、すぐに小走りに近づいてきた。 「マルコさま。今日お戻りだったんですか」 「やあソフィア。しばらく見ないうちにまた大きくなったなあ」 やけに大げさに両手を広げ、彼女を迎えるマルコ。だが、その女性は彼の前で足を止めると厳 しい眼でマルコを睨んだ。 「大きくなったなあ、じゃありません。どうして帰ってくる日を知らせてくれないんですか。こ ちらにもそれなりの準備というものがあるんです」 「あはは。いやまあそれは」 「そもそも、学校が休みに入ったのはもう一週間くらい前でしたよね。旦那様からはすぐに帰省 するように連絡が行っていた筈です。今まで何をしていたんですか」 「それはまあ、こっちにも色々と。ああ、そんなことよりお客さんだよお客さん。ほら」 マルコは自分に向けられた鉾先を何とか逸らそうと私を指差した。言われて初めて私の存在に 気づいたらしいその女性は、顔を真っ赤にして頭を下げた。すみません、お客様がおいでだとは 存じませんで。みっともないところをお見せしました。あたふたと謝る彼女が思ったより若いの に気づく。まだ少女と言ってもいいかもしれない。カルロと同い年くらいだろうか。 「どうかお気になさらずに。どうせ気楽な旅行客ですから、お構い下さらなくとも結構ですよ」 「いえ、すぐにお部屋を用意して参りますので、どうか少々お待ちを」 言い捨てると彼女は背中を向けてバタバタと走り出す。その後姿にマルコが声をかけた。 「ソフィア。親父はどうしているかな」 足を止めずに振り返った彼女は、今は外出中だとだけ答えてすぐにロビーから出て行った。何 とも慌しい。苦笑しながらそれを見送っていたマルコが呟く。やれやれ、どんどん母親に似てき たなあ。 「彼女はこの家の使用人なのかい」 「正確に言えば使用人の娘ですよ。すみませんね、姦しい娘で。悪い娘じゃないんですけど」 「確かに、賑やかそうな娘さんだけど」 「もう少し大人しければいいんですけどねえ。まったく、母親のテレサに似て口やかましいとこ ろは何とかならないかと」 「いいんですか兄さん、そんなこと言って」 カルロが含み笑いをしながら兄に目配せする。弟の視線を辿ったマルコの顔から一斉に血の気 が引いていく。彼の視線の先にいたのは、身長こそソフィアと同じくらいだが、横幅はゆうに二 倍はありそうな女性だった。彼女は腰に手を当ててマルコを睨んでいる。その全身からいかにも 悪ガキを叱り慣れた感じの威圧感が漂ってくる。マルコは口をパクパクさせて何か言おうとして いるが、どうも声帯が意のままにならないようだ。 「あれがソフィアの母親です。うちには昔から勤めていて…」 「マルコ坊ちゃんっ」 私に説明しようとしたカルロの声はそのテレサという女性の叱咤に遮られた。マルコが思わず 首を縮める。どうやらこれから説教の時間らしい。視界の隅でカルロがやれやれといった様子で 肩を竦めた。 結局、私を部屋に案内してくれたのはカルロだった。屋敷の外にある森がよく見える。オーク の木々に覆われた森は、どこまでも広々と続いているようだった。荷物を運んできたアントニオ はすぐに部屋を去り、私は窓の外を見ながらカルロに声をかけた。 「この家は随分古いのかな」 「そのようですね。最も、僕の親がここを購入したのはそんなに昔じゃないですけど」 自分たちは別に貴族でも何でもなく、新興の資本家です。まあ金だけは持っているので、没落 した貴族から豪勢な館を購入することもできるし、その屋内を様々な調度品で飾ることだって可 能ですよ。所詮は成り上がり者のやることだから垢抜けてませんけどね。そう説明してカルロは また皮肉っぽい笑みを浮かべる。確かに、絵画や甲冑で飾られていたロビーの様子も、どこかご たごたしている印象が強かった。おそらく貴族から館を購入した後で、あちこちで買い集めた物 を適当に並べたのだろう。 年季の入った屋内をぼんやりと眺めていると、今度はカルロが質問してきた。私が何故この国 に来たのかについて。何とも答えにくい質問だ。観光。古い遺跡に興味があった。その程度の返 答でお茶を濁せればいいのだが、カルロの眼を見ているとそれでは納得してくれそうにない。や むを得ず、多少踏み込んだ説明をすることにした。 「…まあ、一種のリハビリかな」 「リハビリ、というと」 「実はこの数年、ちょっとした病気をしていたんだ」 「はあ、そうなんですか」 「で、気候のいいところで少しゆっくりと過ごした方がいいと医者に言われてね。まあどこでも 良かったんだけど、どうせなら今までいったことのない国に行こうと考えたんだよ」 「そうですか。でも、病み上がりならもう少し身体に気をつけた方がいいんじゃ」 「ああ、それなら大丈夫。気にかけてくれるのはありがたいが、身体の方は問題ないんだ。それ に、ここにもそんなに長く厄介になるつもりはないから」 「それなら気にしないで下さい。別にゆっくりと逗留して下さって結構ですよ」 「しかし、こちらのご主人はマルコじゃなくて君たちの父上だろう。そちらの了解も得ずに上が りこんで長期間滞在するというのは、やはり失礼に当たるんじゃないかな」 「大丈夫ですよ。父も僕も、兄の気まぐれにはもう慣れてますから。兄はご覧になってお分かり だと思いますが、とても落ち着きのない人間です。こんな田舎で同じ人間の顔ばかり見ていると すぐに飽きて悪さを始めるタイプなんですよ。お客さんがいた方がいいんです」 カルロは兄の悪口を言ってまた笑った。兄とは対照的に、この弟は年齢の割に落ち着いた雰囲 気をまとっている。落ち着きすぎていて可愛げがないほどだ。時折、私より遥かに年上に見えて しまうくらい。 「…イタリアに来てからは、ずっと遺跡巡りですか」 「まあね。ローマを拠点に色々と回ったよ。二千年も前のものがこれだけ残っている国もそうそ うないだろうな」 「お国にも古いものはあるでしょうに」 「あっても由来のよく分からないものが多いさ。でも、ここにある物は違う。二千年前にどのよ うな人々が何に使用していたのか、それが全て分かっているものだ。どこかに人間の肌触りがあ る物ばかりさ」 「ふうん。変わった感想をお持ちなんですね」 カルロは呟いて窓の外に目をやる。窓の外の森は風を受けて微かにざわめいている。ぼんやり とした様子でカルロは言葉を紡ぐ。 「そういえば、ネミの森には行ったんですか」 「ネミの森?」 「ええ。ローマから近いじゃないですか。『金枝篇』をお読みになっているんなら、当然あそこ に行ったんでしょう」 私は黙り込んだ。そうだ。ネミの森はローマの南にある。金枝篇の冒頭で、ジョージ・フレイ ザー卿が取り上げたのは、古代ローマ時代のネミの森にまつわる物語。あれを読んだ人間なら当 然の如くあの森を、森の中にある湖を訪れるはずだ。カルロの言う通り。 「…いや、行ってない」 「へえ、何故なんですか」 「何となくだよ。他の遺跡を先に巡っているうちに、君の兄さんと知り合ってね。そのままこち らに連れてこられたもんだから」 「そうですか。でもあそこにもローマ時代の遺跡はありますよね。森の女神ディアナを祭る礼拝 所が」 「らしいね」 私はそう言って窓際の椅子に腰を下ろした。どうしてネミを訪ねなかったのだろう。自分でも 分からない。あんなにローマの近くにあるのに。いや、そもそもカルロの持っている本を見るま で、金枝篇のことを思い出しもしなかったのは何故か。何度も読み返した本なのに。 部屋に沈黙が下りる。私は自分の考えに沈んでいった。古代の呪術と人々の世界観について探 求した大部の著作。今や古典的名作とも言えるあの本と自分が今いる場所との間につながりが存 在するという考えが、何故か思い浮かばなかった。これもあの戦争の傷痕なのだろうか。私を徹 底的に打ちのめしたあの惨禍の後遺症によるものなのか。 戦争。いつ果てるとも知れない塹壕での時間。私の周囲を、何か不安定なものが取り囲んでい く。部屋の風景がなぜか遠く小さく見え、耳に入る音が次第にかすれていく。代わって五感を支 配していくのは振動。揺れる視界、揺れる音、揺れる匂い、揺れる触感。脳が撹拌されていく。 内臓が痙攣する。息が、呼吸が。 「…さん、どうしました」 肩を揺すられ、私は顔を上げた。カルロが私の顔を覗き込んでいる。私は彼に悟られないよう 笑ってみせながら、ゆっくりと深呼吸をする。 「いや、ちょっと考え事をしていただけだよ」 私の声は僅かに震えている。カルロが眉を顰めた。私の体調がおかしいことに気づいたのだろ う。勘のいい少年だ。少し黙っていた彼は、やがて口元に笑みを浮かべて身を起こした。 「お疲れなんでしょうね。夕食時には誰かを迎えにやりますので、それまでしばらくお休みくだ さい」 「大丈夫さ。気にしないでくれよ」 「そうも行きませんよ。兄の大事なお客ですからね。では、私は外します。用があったらそこの ブザーを鳴らせば誰か来ますので」 カルロの微笑みは完璧すぎた。それは商売人がカモに向かって見せるものと同じくらい、整っ ていたが実のないものだった。私は仕方なく彼に礼を言って椅子の背もたれに身を預ける。カル ロが出て行った部屋には、森のざわめきだけが残った。 沈みつつある夕日が森を照らす。赤く染まった森と、その彼方に見える山並み。ひたすら静か だった。ひたすら寂しい景色だった。私はただ呆然とそれを見ていた。何か、自分が現実の世界 から浮き上がっていくような気分がする。背筋に悪寒が走る。嫌な予感がした。何だか、この赤 い光景を見つづけていてはいけないような。 意思の力で視線を逸らそうとする。できない。私の顔は凍りついたように窓の外に向けられて いる。首筋の筋肉一つすら動かせない。私の瞳に森と山が映る。人の手が入っていないかのよう に思われるその景色が、私の眼を固定させ、私の視神経を占拠し、私の心を…。 「お客様」 ノックの音がした。凍りついた時間が流れ出し、私の視線はごく自然にドアへと向けられた。 先ほどまで自分を包んでいた妙な感覚があっという間に溶ける。視線の先にはお仕着せのメイド 服を着用した若い女性。マルコがソフィアと呼んでいた少女が、ドアを開けて私を見ている。そ の瞳は興味深げにこの異邦人を映している。私はゆっくりと立ち上がって返事をした。 「夕食かな」 「はい。ご案内します」 「ありがとう」 彼女に続いて廊下を歩く。使用人の娘だというこの少女は、歩きながらちらちらと私のことを 窺っている。客人に対して興味津々といった様子だ。私は彼女の口を軽くするため、少し話しか けてみた。君はマルコ君とは小さい頃から知り合いなんだってね。彼女はこの餌に素早く食いつ いてきた。はいそうです。マルコさまとカルロさまには小さい頃からお世話になってます。私自 身はカルロさまと同い年なんです。でも、見て分かるでしょうけど、マルコさまの方が子供っぽ いですよね。昔からそうなんですよ。大学に行って少しは変わったかと思ったけど。 「…彼は昔から知り合ったばかりの人をこの家に連れてきていたのかい」 機関銃のように続く少女の言葉の隙間にどうにか自分の台詞を捩じ込ませる。それに対する反 応は、洪水のような言葉の流れだった。そうなんです。昔から一緒に遊んだ子供とか、ちょっと 町で話をした人とか、とにかく誰でも彼でも連れてきて泊まらせようとするんですよ。本当に困 りますよね。だって、中には質の悪い人間だっているかもしれないじゃないですか。あ、別にお 客様がそうだと言っている訳じゃないんですよ。本当ですって。 勝手に墓穴を掘って勝手に落ちそうになった少女は、慌てて手を振り回しながらこれまで話し た分を上回る言い訳を繰り広げようとした。だが、彼女の口が新たなる展開を始める前に、目的 地がやって来てしまったようだ。残念そうに口を閉ざした彼女は、すました顔を取り繕うと扉を 開けて私を食堂へと導いた。 「やあ。どうですか、我が家は気に入っていただけましたか」 立ち上がって真っ先にそう声をかけたのはマルコだった。相変わらず屈託のない笑顔を浮かべ ている。その隣には落ち着いた表情のカルロが席に就いていた。大きなテーブルに用意された椅 子は、この兄弟の分を除くと後は一つだけ。ソフィアはそちらに私を案内すると、少々お待ち下 さいと述べてすぐに部屋を出て行った。 私は椅子に腰掛け、食堂内を見た。大きめに取った窓からは最後の残照が消えていく空が見え る。反対側の壁にはまたいくつもの絵画。いずれも森の風景を描いたものだった。それを見てい るうちに、ターナーの絵を思い出した。小さな湖とその周囲で憩う人々。黄金色に染まった木々 が、その平和な光景を静かに見下ろしている。 軽く頭を振ってホストに向き直る。マルコはにこにこと笑いながら言った。ここも広いばかり が取り柄みたいな部屋ですけどね。でも、大勢の客が来た時には重宝するんですよ。椅子なんか いくらでもありますから。 「もっとも、今みたいに人数の少ない時は却って寂しいのが困りものですがね」 「確かに、たったの三人ではもったいないくらいだな」 私がそう言った時、扉が開いて食事が運び込まれてきた。ワゴンに乗せた食べ物を運んできた のは、私がこれまで見たことのない小太りの男だった。どうやらこの家は専属の料理係も雇って いるらしい。想像以上の金持ちだったようだ。 注がれたワインで乾杯し、配られた料理を楽しむ。思った以上に美味い。マルコの会話は相変 わらず人を飽きさせず、上等な食事とあいまって素晴らしい時間をもたらした。彼は人を愉快に させる天賦の才を持っているのだろう。いつの間にか外は真っ暗になっていたが、私は時間の経 過も忘れて宴を満喫した。 おかげで食後のコーヒーを飲み終わる直前まで、重要なことに気づかなかった。広すぎるテー ブルを見ていて、私はふと顔を上げた。 「…そう言えば、君の父上はどちらかな」 「ああ、親父ですか」 マルコがつまらなさそうに答える。どこに行ったのかな、と呟く彼の隣で、それまで大人しく 兄の独演会を聞いていたカルロが口を挟んだ。 「申し訳ありません、今日は仕事のようですね。最近は時々こうやって帰りが遅くなることがあ るんですよ」 「何だって。そうだったのか」 弟の台詞に驚いた様子を見せたのは兄だった。カルロは私に向けていた視線を兄に振り替えて 説明を続けた。 「ええ。時には外泊することもありますよ」 「おかしいな、親父がそんなことをするなんて。俺がいた時は毎日決まった時間に帰ってきてい たじゃないか」 「ですから、ごく最近の話ですよ」 「そんな遅くまで何やってんだか」 「仕事でしょう。父さんの工場でもストライキがあったりして大変なようですから。きっと対応 に頭を痛めているんでしょう」 カルロはコーヒーを啜りながら静かな顔でそう言った。だが、言われた方ははっきりと顔を顰 めた。 「…まして今日は跡取り息子がストライキを煽っていたんですからね。今ごろ事務所で頭抱えて るんじゃないかと思いますけど」 「おい、カルロ」 マルコの顔が今度は情けなく歪む。私は昼間、町中で見た光景を思い出した。大きな敷地の入 り口でピケを張っていた労働者たち。それに対峙していた黒シャツの連中。人ごみに踊りこんだ マルコと、なぜか彼を前に大人しく引き上げたピケ破り要員らしき黒シャツたち。なるほど。マ ルコがあの工場のオーナーと関係があれば、彼らが毒気を抜かれたようにして引き上げた理由も 想像がつく。 「今日だってアマーテさんが仲介に入ってくれなかったら、どうなっていたことやら」 アマーテというのは、マルコと黒シャツの間に割って入ったあの小柄な男のことだろう。 「いやしかしだな。やはり俺としては、労働者の戦いをああいう形で妨害するのはどうかと思う し、それは言わば信念に基づくものであって」 「父さん、怒っているでしょうね」 「う」 弟の容赦ない言葉に、あれほど忙しく回転していたマルコの口が痺れたように動かなくなる。 どうもマルコは父親が苦手らしい。父親の話が出たために、彼の表情が苦虫を噛み潰したように なるのは、これが何度目だろうか。 そんな兄の様子に気を止めた風もなく、カルロはコーヒーカップを置くと私を向いて言った。 「兄さんは未開人みたいなもんなんですよ」 「え?」 「フレイザー卿が書いているじゃないですか。未開人が行う呪術というものの基本は、二つの原 理に根ざしているって」 「ああ。『類似の法則』と『接触の法則』だったかな」 「そうですよ。兄さんにとって、工場とはつまり父さんなんです。これは接触の法則ですかね。 だから工場を見ただけで、頭に血が上るんですよ」 「ちょ、ちょっと待て」 私たちが唐突に始めた会話に、マルコは傍目にもはっきり分かるほど混乱した。彼は立ち上が ってカルロを見る。 「おいおい、何の話なんだ。どうして俺が『未開人』呼ばわりされなきゃならんのだ。その何と かの法則と、俺が昼間やったことと何の関係があるんだよ」 「厳密には何の関係もありません。兄さんは別に呪術をやった訳じゃないですからね。ただ、兄 さんがやったことの背景には、未開人と同じ発想法があるんじゃないかってことです」 「分からん。さっぱり分からんぞ。一体何が言いたいんだお前は」 「だからもっと勉強した方がいいって言っているんですよ、兄さん。昼間の演説も、何やらもっ ともらしい台詞を並べていましたけどね、中身はかなり支離滅裂だったじゃないですか」 「あのなあ」 「まあまあ。そんなに彼を責めることもないだろう」 私は苦笑して兄弟喧嘩の仲裁に入った。カルロはすました顔を変えない。マルコは頬を膨らま せて私と弟を交互に見る。なるほど、この表情だけ見れば精神年齢はどう考えてもマルコの方が 下だ。ソフィアの観察もあながち間違ってはいない。私はマルコに向けてゆっくりと話をした。 「今、話に出たのはフレイザー卿の書いた『金枝篇』に書かれていることだよ。フレイザー卿は 未開人が自然に働きかける際に使用した呪術の原理を、大きく二種類に分けて説明している」 「はあ」 「一つは『似たものは似たものを生み出す』。もう一つは『かつて接触していたものは、その後 物理的な接触がなくなった後も互いに作用する』。この二つの法則をそれぞれ類似の法則、接触 の法則と呼んでいるんだ」 「え、えーと」 「具体例をあげた方がいいだろう。そうだな」 考え込む姿勢を取った私の前に、一冊の本が出てきた。カルロがテーブル越しに渡してきたの だ。驚いたことに、この少年は食堂に金枝篇を持ち込んでいたらしい。私は彼に頷いて礼を返す と、そのフレイザー卿の代表作と言われる本を開いて関連のページを開いた。 「類似の法則を使った呪術、フレイザー卿によると『類感呪術』と呼ばれるものだが、その代表 例は敵に似せた像を傷つけたり破壊したりして敵本人に危害を加えるというまじないだろう。他 人を呪う際に、人の形をした像を尖った物で突き刺したりすることはよくあるじゃないか」 「そ、そういえば」 「その像と人間との姿が似ているからこそ、像を傷つければ人間も傷つけられる。両者はその姿 形が似通っているからこそ、遠く離れた場所にあっても互いに影響を及ぼせるんだ。言わば目に 見えないエーテルのようなものを媒介に、一方に与えた効果が他方に伝わると思えばいい。未開 人はそのような作用が現実に存在すると信じていたんだよ」 「はあ。そうなんですか」 「うん。で、もう一つの接触の法則を使った呪術は『感染呪術』と呼ばれる。こちらの典型的な 例は、これまた呪いになってしまうけど、相手の髪の毛や爪を使って行う呪術がある」 「というと」 「呪いをかける場合に、相手の髪の毛や爪をつかってまじないをかければ、その効果は相手に及 ぶということさ。これも類似の法則と同じく、誤った観念連想の一種だけどね。未開人は、髪の 毛や爪といったある人間の身体の一部だったものと、その持ち主だった人間の間には、呪術的共 感があると信じていたんだ。髪の毛や爪を手に入れれば、どんなに遠く離れていても、その元の 持ち主を意のままに操れる。そういう呪術が未開社会には沢山あるそうだよ」 「そう、ですか」 マルコは毒気を抜かれた様子で私とカルロを見ていた。彼にとっては、私の言葉自体が呪文の ようなものなのかもしれない。 「…でも、それと俺との間に、一体どんな関係が」 「君と父上との間の関係は知らないけど」 私はそう言って、少し言葉を区切る。マルコは私を見ており、カルロは窓の外に視線を向けて いる。私は言葉を継いだ 「どうも君と父上との間にはぎくしゃくしたものがあるようだね。君のそういう感情は、基本的 には父上自身に向けられたものだ。だが、人間の感情は時にそんな風に合理的に割り切れないこ ともある。ある人間が気に入らない場合、その人間本人だけでなく、彼の持ち物まで気に食わな くなることがあるだろう」 「それは、確かにありますけど」 「本当はそれは変な感情だ。ある男が気に食わないとしても、その男が持っているペンはその感 情とは何の関係もない。だが、それが憎らしい男の持ち物だと知ったとたんに、ペンまで憎らし くなることもある。何故なら、そのペンはかつてその男と『接触』していたからさ。かつて触れ ていたもの同士は、今は離れていても互いに影響を及ぼす。目の前にあるのは単なるペンに過ぎ ないのに、人間はその先に憎い男の影を見てしまうんだ」 「うーん。そう言えばそうですね」 「カルロ君が言おうとしていたのはそういうことさ。君は確かに工場の争議を見ていた。だが、 本当は君はその争議の向こうに父親の影を見て、それで頭に血が上ったのさ。考えてもみてほし い。ローマからここに来る途中で、労働争議をやっている工場なんていくらでもあった。なのに 君が勇んで飛び込んだのは昼間のあの工場だけだ。それは、あの工場だけが君の父親と接触して いたから。君の父上が働いている工場だったからなのさ」 「うむむむむ」 マルコは腕組みをすると唸ってしまった。何やらうまく丸め込まれたような気分になっている のだろう。私はそんな彼の様子を横目で見ながら、話をカルロに振った。 「…でもまあ、そういう感情に囚われるのは別に誰でもあることだろう。敢えてマルコ君だけを 未開人と呼ぶのはどうかと思うけどね」 「そうでしょうか」 カルロは窓の外を見たまま返答した。彼の視線はどこか遠くへ向いていた。 「そうさ。誰でもあることだ。ある人間と、その人間の持ち物との間につながりを見てしまうの は、多かれ少なかれ人間すべてに共通した性向だろう」 「僕は違いますよ」 カルロの声はどこか虚ろに澄んでいた。まるで何かを詠唱しているかのような、遠く、近く、 揺らぐ声。 「僕は違う。僕にははっきりと見分けがつくんです。人間と、それ以外と。その間にあるはっき りとした断絶が。いくら接触していても、いくら似通っていても、やっぱり人間とそれ以外とは 違うんです。それが僕には分かる。分かってしまう」 私は何故か寒気を感じていた。カルロの声は、はっきり聞こえているはずなのに、まるで空中 に消えていくような印象があった。遠くを見る彼の眼。口元に浮かぶ、辛うじて判別がつくとい う程度の微かな笑み。その微笑。 これまで見たことのない笑み。兄をからかう時に見せる皮肉っぽい笑みでも、自分が読んでい る本について語る時の無我夢中な笑みでも、時折浮かべる外面を取り繕った人形のような笑みで もない。何だか得体の知れない笑み。まるでこの世の者ではないような。 「…今夜は、月は見えないんですね」 彼の呟くような言葉が耳に響いた。