『天空の王妃 〜Prologue〜』


2001/12/12



   ...Prologue




 男は逃げていた。

 男の身体はあちこち傷ついていた。身にまとうトーガは血に塗れ、ぼろぼろになっていた。白
いものが混じった髪の毛や髭までが斑に赤く染まっていた。抜き身の剣を握り締めた右手は力な
く垂れ、森を駆ける脚も時折揺らいだ。
 男の眼は大きく見開かれていた。夜だったからかもしれない。月明かりがあるとはいえ、木々
に覆われた森は目を凝らさないと数歩先ですら見定めがたい状態だった。男は血走った眼を四方
にやりながら、息を切らして走った。
 木の根に足を取られた。男は無様に悲鳴を上げて倒れこんだ。そしてすぐに立ち上がろうとし
た。だが、男の膝はその身体を支えるには余りにも疲労し、動揺していた。二、三度もがいた男
は、脇の木にすがるようにしてようやく身を起こした。乱れきった呼気が夜を揺らした。
 昼間だったなら、男の顔が見えただろう。年老い、皺が刻まれたその顔に、絶望と恐怖が浮か
んでいる様まで窺うことができたに違いない。それは敗残者の姿だった。歳月に押しつぶされ、
傷の痛みに打ちのめされ、避けようのない死に向かって進む存在がそこにいた。

 どうしてこんなことになったんだ。男は自問した。俺はこれまでずっと上手くやってきた。祭
司になってからこれまで、ずっと上手くやってきたんだ。男の顔が歪む。口元から嗚咽が漏れ出
す。どうして。
 確かに男は上手くやってきた。この森に住むようになって以来、長きに渡ってその地位を保持
し続けた。恵まれた肉体と狡猾な知恵。そういったものを駆使して男は生き延びてきた。彼の前
に現れた挑戦者たちを、絶えず跳ね除けてきた。帝国のあちこちから来た様々な男たちを、次々
と物言わぬ骸に変えていった。
 そう、男は強かった。精力に溢れ、頭の回転が速かった。男は自分こそ自らの立場に相応しい
人間だと自負し、周囲もそれを認めていた。何十年もの間、男が祭司であり続けたこと自体が、
その評判を裏付けていた。彼こそ王だった。
 …つい先ほどまで。

 背後で物音がした。男は怯えたように振り返った。木々の陰はその音の正体を見せない。男は
息を潜めて暗闇を睨んだ。自らを護るように、右手にもった抜き身の剣を握りなおそうとした。
汗と血に濡れた掌に柄が滑る。男は剣を取り落とした。それが石に当たり、大きな音を立てた。
同時に暗闇の下生えが騒がしい音をあげた。
 武器を失った男は悲鳴を上げて逃げ出した。そこにはかつての誇り高い王の姿はなかった。た
だ死の恐怖に怯え、哀れに逃げ惑う年寄りがいた。老人は何度も転び、その度に血と泥に塗れな
がら逃げ続けた。止まることなく悲鳴を上げながら、力衰えた男は森を走った。
 だが、傷口から流れ続ける血が老人の力を奪っていた。彼は次第に周囲の景色が暗さを増して
いるのに気づいた。本当は老人の視界が血液とともに失われていっただけなのだが。老人が森の
木々を見ることも適わなくなるまで、残された時間は僅かだった。消えていく世界の中で、老人
はもがきながら逃げた。
 限界が訪れた。男の下半身から力が抜け、彼は地面に崩れ落ちた。最も新しい挑戦者につけら
れた数多の傷口が、老人から全てを奪おうとしていた。老人はこのアリチアの森で、最期の時を
迎えようとしていた。

 閉まりかけた老人の眼が、世界を捉える。彼の前方に見える揺らめく水面。そして、そこに映
るのは輝く…。



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