『もう、なくさないから』

Christmas -Case of KASHIWAGI family- a "azusa" scene.



 TVを見ながら朝食を摂っていると、JRのCMに山下達郎が戻ってきていた。
 駅前のレンタルショップでもいつもこの季節になるとシングルCDが顔を出す。


「クリスマス」や「イブ」を歌った曲は今までに沢山あって、これからもきっとそれ
は同じで、流行の歌手の口から歌われて、物凄い数の売り上げを出す曲もこれからも
数多くあるのだろう。
 そして一年が過ぎた頃、その殆どは忘れ去られていくのだろう。
 一年は保っても、二年、三年を過ぎていく中でその歌い手の人の存在が掠れていく
のと比例して、その歌も幾多の歌の中に埋もれて、消えていくのだろう。
 どれだけ人の想いを囁き、語り、訴える筈の歌も、時が経つにつれ例外無く日々の
雑音の中に掻き消えていく。
 或いは新しいものの前に塗りつぶされていく。


 クラシックのパッヘルベルのカノンの一部がそのまま引用されているとされる、彼
の曲がここまで支持される理由はあたしには判らない。
 あたしはこの曲は特に好きでもないし、嫌いでもない。曲が良いからと鼻で歌って
しまうということもない。
 今までに流行り、そして廃れていった他の曲との決定的な差があたしには判らない。
 ただ何となく、名曲だからという理由ではない気がした。
 名曲とそうでない曲の区別が付くほど、曲を知っている訳でもないけれど。


 時間は流れ続けて止まることがなく、時代の流れも止まることはない。
 過去に目が行く時はその時の感情を呼び起こしたい時。
 昔が今では取り戻せるものでないことを、喜んだり悲しんだりする時。
 そしてそれを懐かしむ時。


 耕一がいない。
 この事をが当たり前で感じなくなったのはいつ頃だろう。
 かつては家には両親がいた。
 それが当たり前だった。
 両親が死んでからは叔父さんが家に住み込んでくれた。
 それが当たり前に取って代わった。
 そして叔父さんが死んで、暫くあたし達だけで家にいて、あたし達だけが取り残さ
れたような気分になっていた時、耕一がやってきた。
 耕一は家に居着くことはなかった。
 久しぶりにやってきた耕一は夏休みの時間だけ家にいてくれたけれども、大学が始
まる頃に東京へ帰って行ってしまった。
 それは耕一が一応は現役の大学生で、東京の大学に通っているからだから仕方が無
いことで、少なくても卒業するまではずっと家に住み込んでくれることはないと判っ
ているのだけれども、耕一が家にいないことを「寂しい」と感じる自分がいる。
 いや、あたしだけでなくてきっと千鶴姉も、楓や初音達も同じ気持ちだと思う。
 いつしか耕一が身近にいることが当たり前に感じてしまっていた。
 たった一夏のことなのに、耕一と毎日顔を合わせていたあの短い期間があたし達の
「当たり前」になっていた。
 単に、肉親に死なれることが続いたあたし達が普通以上に人恋しい状態になってい
たのだとしても、耕一の人柄がくだけて馴染みやすいものだったとしても、この一緒
にいて安らぎを与えてくれる感覚は「家族」を感じる。
 だからこそ、家族がいないことにあたし達は違和感を憶え、空虚を感じる。


 だから今のあたしは寂しさを感じている。
 家族が欠けている寂しさを。


 千鶴姉はこの稼ぎ時の年末ということもあり、ずっと旅館の仕事で家にも帰れない
日々が続いている。たまに帰ってきても寝床に直行してそのままばったりと死んだよ
うに眠り、あたし達と同じ時間に起きて来ることはない。そしてあたし達が学校から
帰ってくる頃には既に出社している。互いに見られるのはせいぜい寝顔ぐらいだ。
 別に見たわけでもないが。
 自慢ではないがウチは温泉ぐらいしか目玉の無い田舎旅館――そう呼ぶには余りに
も広大で壮大な旅館『鶴来屋』である。
 ロビー一つとっても中央が吹き抜けになっていて、中庭風に設えた広場からは大き
なクリスマスツリーが電飾されて飾り付けられている。
 大きいということはそれだけ収容人数が多いということになり、その世話をする社
員や従業員の数も半端ではなく、その大勢の人数を指揮するのが千鶴姉ひとりときて
いる。忙しくない筈がない。
 収容人数が広いということは、それだけ客が入らないとすぐに赤字が膨れ上がり経
営が行き詰まってしまうのだから気が抜けない。稼ぎ時は一人でも多く、少しでも多
く稼がないとやっていけない。そして放っておいても客が来る程観光名所がある所で
も地理的条件が優れている所でもない。
 千鶴姉にとって働いて働きすぎと言えることの出来ない日々が続くことになる。
 勿論、クリスマスや正月は彼女にはない。
 人々が笑い興じながら怠惰に過ごす年末を、泣きながら会長室で執務をし続けるこ
とになるのだ。
 気の毒だとは思うが、こればかりはどうにもならない。足立さんも色々と気を使っ
てくれているけれども、根は生真面目な千鶴姉は好意に甘えすぎる真似はしない。
 きっと今年も働けるだけ働くのだろう。人一倍頑張ったところで、なかなか評価さ
れることのない損な役回りを演じ続けることになる。
 千鶴姉が叔父さんの後を継いだことでやっかみや陰口を叩く人には、ここ数日の千
鶴姉を見て欲しい。石油でも掘り当てない限り、毎日を楽しく遊んで暮らせる身分に
なんてなれることはないのだ。


 あたしはあたしで受験生という立場にいた。別に毎日毎日、机に噛りついて勉強し 続けないといけないほど追い詰められていたりはしないが、それでも例年のようにの んびりと深々と身体を丸めてこたつに入って、TVを見ながら指を黄色く染めながら みかんの皮を剥いていられるほど余裕があるわけでもなかった。  日々が忙しなく、余裕が無くなっていくのを感じる。学校の授業が、担任教師が、 級友達が、周りの空気が否応無くあたしを受験生という立場を自覚させ、何事に対し ても最優先で「受験勉強」という四文字熟語が幅を利かす。あたしを圧迫する。  楓や初音はそんなあたしに気兼ねしてなるべくあたしが家事をしないで済むように と家の中の事を色々と取り計らってくれている。  掃除洗濯、そして買い物は彼女達が率先してやってくれている。料理もやってくれ ると言ったがそれは断った。  あたしだって、気分転換はしたいのだ。  彼女達のその気遣いでさえ、あたしをせっつく空気の中の一部に感じてしまう。  憂鬱になる。  だから今のあたしは寂しさを感じている。  今までの自分の生活を出来ないでいる寂しさを。 「あーあ……」  机の上には開いたままの数学の参考書がある。  あたしはそこに手で回してばかりいるシャープペンシルではなく、自分のおでこを 乗っけて溜め息をついた。  全く書き込んでいないので額に数式が写る事はない。  顔を横に傾けると、やけに大きい音を立てている時計が目に入る。  普段は取りたてて聞くことのない置き時計の秒針が時を刻む音が、耳障りなほど大 きな音に聞こえる。  全く捗っていない。  やる気が出ない。  こんなに寂しがりやの自分になったのはいつの時からだろう。  あたしは昔からやせ我慢ばかりして、意地っ張りで、素直じゃないやつだった。  一人でいる時間が苦手なことは一度もなかった。  あたしはいつだって一人だったから。  両親は生前はずっと働き詰めだったし、千鶴姉は年が離れていて、姉さんぶってば かりで一緒なって遊ぶということは殆どなかった。妹達二人と遊ぶことも多かったけ れども、趣味が合わないこともあってやっぱり遊ぶのは一人だった。  それは学校の中でも同じで、女の子達とは趣味が合わないし、男の子達はすぐに喧 嘩になってしまった仲良く遊ぶということは出来ないでいた。  だからあたしはいつも一人でたもと虫かごとを持って虫取りをしたり、釣り竿を持 ってヤマメやフナを釣ったり、自転車で遠出をしたり、山の中を探検したりして自分 で好き勝手に遊んでばかりいた。  嫌な奴に合わせるよりも自分で気侭に遊んでいた方がずっと楽しかったし、一人き りが寂しいと感じる暇が無いほど、この土地は魅力に溢れていた。  一緒に遊ぶようになって、一緒に遊ぶことを楽しいと思うようになったのは耕一と 出会ってからだった。  夏休みに親戚の子が家に遊びにやってくると聞かされても、あたしは別に嬉しくも 何ともなかった。  あまり身近ではない「男の子」が家にやってくると言うことに妹達は喜んでいたし 、千鶴姉も密かに弟のような存在が来ることを楽しみにしていた感があったけれども あたしは興味がなかった。  学校で男子は馬鹿で我侭で、二言目には「女のくせに」とか言って見下そうとした り、力で捻じ伏せようとしたりとロクなやつがいない。  だからあたしは男が嫌いだった。  どうせならこっちから仕掛けてやれ。  からかってやれ。  いびってやれ。  そんな悪戯な衝動が沸いていたあたしは、耕一が初めて家にやった時、物陰に隠れ て様子を窺っていた。  そして叔父さんに連れられていた耕一が、父さん達や妹達との挨拶を終えて一人き りで外に駆け出して行ったのを見て後ろからついていって声をかけた。  …よう  …お前、コーイチだろ?  初めて間近で見た耕一は、明らかに地元の人間ではない都会的なものを身にまとっ てけれども、従兄だという表面的な血の繋がり云々じゃない、言葉には言えない身近 な親しみを感じた。  一目見た時、もしかしたらトモダチになれるかも知れないと思った。  そしてそれは間違っていなかった。  木に登って虫を追いかけたり、山を駆け回ったり、  川の浅瀬で水遊びをしたり、釣り糸を垂らして魚釣りをしたり、  二台の自転車を乗り回して当ても無く遠くまで乗り回してみたり、  あたしにとって誰よりも一緒にいたいと思う、夏休みという時間を共に過ごすトモ ダチになっていた。  そしてあたしは一人きりでなく、誰かと一緒に遊ぶことの楽しさを知った。  新鮮だった。  爽快だった。  凄く、嬉しかった。  それからも毎年、夏休みの度に耕一は叔父さんに連れられてやってきた。  あたしも耕一もそれぞれ成長して、身長も体型も代わってきたけれども仲の良さは 変わらなかった。  あたしは耕一と遊ぶのが一番好きだったし、耕一もここに来る度にあたしと毎日の ように二人して肌が真っ黒に焼けるまで遊んで過ごした。  何をして遊ぶのも一緒だった。  そして7年前、あたしたちは親に死なれ、親戚や地元の人間や土地の利権に絡んだ 面々との醜いやり取りに追い回されることになって、すっかり耕一どころではなくな っていた。  そんなあたしたちを助けてくれたのが、耕一の父親で、あたしたちにとっての叔父 さんだった。  父さんと母さんが死んで、叔父さんが旅館を継ぐことになってずっとこっちにいて くれるようになったけれども、何故か耕一は一度もこっちにやって来ることはなくな ってしまった。  だからと言って、叔父さんが嫌いだったわけじゃない。  あたしは叔父さんが大好きだった。  どちらかと言えば真面目で、堅物なところもあったあたしの父さんとは違って、豪 放な性格をしていた。  子供のように無邪気にはしゃいだり、つまらないことに対しても一喜一憂する叔父 さんがあたしはとても好きだった。  叔父さんは両親を亡くして暗い雰囲気になっていたあたし達の前に現われ、一緒に 住み込んでくれるようになったお陰で、あたし達は明るさを取り戻すことが出来た。  叔父さんがいなければ、どうなっていただろう。  想像もつかなかった。  そして両親が死んでからは、下に妹が二人いる次女という立場のあたしを今までの ように気侭にはさせてくれなかった。  叔父さんは旅館の方を助けてくれたけども、それ以外の部分はあたしたちが自分で やらなくてはいけなかった。  千鶴姉はみんなの母親代わりとして振る舞っていたけれども、叔父さんの強い薦め で国立の大学に行く為に勉強が忙しくて、家の中のことや妹達の面倒はあたしがしな くてはいけなかった。  別にそれは大変とは思わなかった。家事をするのはそれほど苦手じゃなかったし、 妹達も手間の掛かる存在ではなかった。  けれども、仕事で忙しい叔父や姉に気遣ったり、妹達に不憫な思いをさせたくない という気負いから自分のことを後回しにしてくたら、いつしか何事にも我慢して、遠 慮してしまう癖がついてしまった。同時に、次女という自分の役割を演じすぎるよう になってしまったことに気づいた。  その癖は妹達が大きくなって、姉が大学を卒業してからも抜けることはなかった。  抜く必要も無かった。  この七年間で、その方が自然になっていたから。  そして耕一はその間、一度もこっちにはこなかった。  叔父さんが叔母さんや耕一と離れてこっちで暮らしていることに、耕一がこっちに やってこないことには、深い事情があるようだった。理由は判らないけれど。  酒に酔った時だけ、楓を膝に抱えながら叔父さんが耕一のことを話す。  膝に抱えられた楓、そして背中に張り付くようにしてくっついている初音はその自 分たちの従兄にあたる耕一のことを喜んで聞いていたけれども、あたしには興味はな かった。  話の中の耕一に興味なんてなかったから。  あたしにとっての耕一は一緒に遊んでくれるトモダチとしての存在だったから。  一緒にいて楽しめるトモダチこそが耕一だったから。  目の前に、あたしの前にいてこその耕一だったから。  退屈だった。  会いたかった。  そして夜に居間で叔父さんと妹達が盛り上がっている時は、あたしは自分の部屋で 押入れにしまってある古ぼけた子供靴を取り出して眺めながら耕一を想った。  この靴は耕一が命懸けで拾ってくれた靴だった。  子供の頃、水門から川に落ちたあたしを助けるために、耕一は迷いなく川の中に飛 び込んでくれた。そしてあたしを助けただけでなく、川底に落としてしまったあたし の靴を拾う為に、もう一度川に潜って耕一は溺れかけたのだ。  あたしはあの日ほど泣いた日はなかった。  溺れかけて、耕一に助けられても泣かなかった。  お気に入りの靴を無くしたと気づいた時もベソ止まりだった。  あたしの靴を探しに潜ったまま全く浮かんでこない耕一が心配になって、時間だけ が過ぎていくのが、怖くて怖くてたまらなかった。  初音が泣き出して、楓も泣き出した時もあたしは恐怖ばかりで、泣くゆとりなんか 全然なかった。  靴なんかもうどうでも良かった。早く耕一に上がってきて欲しかった。耕一を待つ 時間が長くて仕方がなかった。  そして、耕一が耕一じゃない姿で水面から飛び上がるように上がってきた時は、驚 いてしまって泣くゆとりなんか全く無かった。  そして耕一が、異形の姿から耕一の姿に戻った時、あたしは耕一が生きていたこと にやっと気づいた。  嬉しかった。  すごく、嬉しかった。  そして、耕一にすがりついて目一杯泣いた。  そんなあたしの頭を耕一は乱暴に撫でてくれた。  耕一の掌が気持ち良かった。  それでもあたしは泣き続けた。  最後は泣き疲れたを耕一は家まで負ぶってくれた。  途中で千鶴姉を呼びに行った楓達と会った時に、初めてあたしは泣くのを止めた。  でも、耕一の背からは降りなかった。  暖かくて、気持ち良くて、降りたくなかったから。  あたしはあの日初めて、耕一に甘えていた。  あたしが耕一を……好きになった大切な思い出。  年が経つにつれ、あたしも人並みの分別を憶えるようになった頃にはあたしは自分 の気持ちに気付いていた。  あたしは、遊び相手としてのトモダチの耕一を待ち焦がれていたわけではなくて、 あの時から好きになった相手を待ち続けていたことに。  けれども耕一が来なくなった以上、あたし達の間はトモダチのままで時間が止まっ てしまっていた。  だから七年ぶりに再会した耕一の前では、耕一がやってこなくなってから止まった ままになった七年前の、子供時代のままのたしが時折顔を覗かせる。  再会した時、あたしをあの頃のままで接してくれた耕一が嬉しかった反面、少し寂 しい気持ちにもなった。  いつまでもあいつにとってあたしは弟であり、いいトモダチ。  それでしかないことに気づいたから。  あたしにとって大切な思い出を、耕一は忘れていた。  あたしが耕一を好きになった出来事を耕一は憶えていなかった。  ショックだったけれども、考えてみればそんなもんだ。  耕一にとってはそれほど大切な出来事だった訳じゃない。  逆にあたしのせいで死にかけたのだから、忘れてしまった方が良かったのだろう。  そう考えた時、あたしは耕一のことも我慢することに決めた。  耕一のことは姉妹、皆が好きだったから。  千鶴姉も、  楓も、  初音も、  皆、耕一のことが大好きだったから。  耕一の方も久々に会った千鶴姉に惹かれていた。  不審な態度を取る楓のことを気にかけてばかりいた。  昔のまま兄と慕ってくる初音をいつも可愛がっていた。  だったらあたしは、いいトモダチで構わない。弟で構わない。  元々、そうだったのだから。  別に、それで構わなかった。  我慢することには、慣れていたから。  もしかしたら、他の誰かと耕一が……そんなことも考えて、でもそれでもいいと思 った。  あたしはトモダチとして、喜んでやれればいい。  そう思った時だった。  そんな矢先に事件が起きた。  忌まわしく、忘れる事の出来ないあの事件。  あたしの部屋で耕一が急に倒れ、その騒ぎのなかで追い出すようにしてかおりと別 れた。かおりは手伝うといってくれたのだが、あまりにも縁起でもないことばかり言 うので、帰ってもらったのだ。別に嫌みで言ったわけではなかったが、少し乱暴だっ たかなと思った。けれども明日また、学校で会って話せば済むと思っていた。  それが、かおりとの別れだった。  今までのかおりとの、最後だった。 「柏木……梓先輩ですか」 「そうだけど……」 「ああ〜っ やっぱりぃっ!!」 「……ってな、なによ、うひゃぁっ!? も、揉むなぁっ!!」  あたしが初めてかおりと会ったのはあたしが二年になったばかりの頃。  新入生紹介の中で、マネージャー希望で入ってきたのがかおりだった。  かおりは挨拶もそこそこにあたしに近づいてきて目を輝かしながら、あたしが夕方 までトラックを走って練習しているのを見かけたという話を始めた。 「でね、でね、その時に夕焼けの中で見た柏木先輩のフォームが……かぁ〜っ もー 凄かったんですっ!」  かぁ〜っとまるでいい歳したオヤジのように唸ったり、 「見えたんです。私の目標が! この先輩こそっ、この先輩こそ、私を支えてくれる 人だって!」  勝手な思い込みを膨らませて突っ走ったり、 「その揺れる胸っ! これがっ!」 「うひゃっ!?」  最後にはこうして抱き着いてきて大変だった。 「もう、たまりませぇ……痛いっ!」 「いー加減にしろっ!!」 「うー、痛いですぅ。ほんのスキンシップなのに……」 「あんたはセクハラ地方市議会委員かっ!」  隣町で先日、そのような事件があったことを思い出しながら怒鳴った。  そしてそれがほぼ毎日、所構わず続くようになるとは思いもよらなかった。いつも 知らないうちにあの子のペースに呑まれていた。  彼女が悪い子じゃないことも判ってきたし、純粋に慕ってくれることは悪い気分じ ゃなかったけれども、その襲ってくる癖だけは何とかして欲しいなと内心でいつも思 っていた。  元々かおりのことが嫌いじゃなかったせいもあるが、下手に言うことで傷つけてし まうんじゃないかという弱気に逃げるような言い訳だけを心に残したまま、中途半端 なままの状態を保たせてしまっていた。  そんな毎日があの日まで続いていた。  ――手から零れ落ちてしまったもの。  事件を起こしていた私たちの叔父にあたる柳川が死に、かおり達が救出されて、あ たしと耕一も家に帰って事件は解決した。  薬物中毒の症状自体は軽かったし衰弱も直った筈なのに、かおりは一度も学校に来 ることはなかった。  お見舞いに行ったけれども、家にはいつも誰もいなくて一度も会えなかった。  そして、学校で彼女が家族ごと引っ越したことを知った。  二度とかおりと出会えないんだとはっきりと自覚した時、あたしは、かおりを邪険 に追い返したままなことに気づいた。  無くしてから気づくことがある。  そして無くしたものは二度と戻ることはない。  叔父さんが死んだ時もそうだった。  夜、叔父さんが夕食の後にビールを飲んでいる時は、胡座をかいた両膝にそれぞれ 楓と初音にじゃれつかせたまま酔いながら話をするのが常だった。  あたしは料理の後片付けをしながら、空になりそうになるとビールを冷蔵庫から運 んできて叔父さんの前に置いた。  そして台所で洗い物を終えると、まだ楽しそうに話が弾んでいる叔父さんがあたし を誘う。 「おーい、梓」 「え…」 「梓も、ほら……」  叔父さんはおいでおいでとあたしを手招きする。  楓たちもその叔父さんの行動からあたしの方を見ていた。初音が少し横にずれてあ たしのスペースを作ろうとする。 「いいよ、あたしは……宿題もあるし……」  あたしははにかんだ表情を作って顔の前で、手を横に振る。  そしてエプロンを少し乱暴に畳んで、部屋に向かうのだ。  純粋に甘えている妹たちに微かに嫉妬していたのかもしれない。  甘えることに躊躇いの無い妹たちに遠慮していたのかもしれない。  素直になれなかった。  純粋に慕っている妹たちのように、叔父さんの大きな手で髪をくしゃくしゃにする ように頭を撫でて欲しかった。  シャツについたタバコのにおいを、間近で嗅いでみたかった。  でも、我慢してしまっていた。  叔父さんの葬儀の時、もうその機会が無いことにあたしは初めて気がついた。  いつも口元に笑みを浮かべながら話しかけてきた賢治叔父さんとの思い出。  すぐに腕を取って抱き着いてくるかおりとの思い出。  いつも何か欠けていて、その部分を埋める前になくしてばかりだった。  そして時の流れは、押し流すように無情に過ぎていく。  ――耕一は……  ――耕一だけはなくしたくない。  耕一が東京に帰って、部屋に籠もってこうして一人で過ごしているとその思いが日 増しに強くなっていくのを感じた。  毎日が流れるように過ぎていく中で、その思いだけが膨らみ続けた。  こうしてあたしが受験勉強もしないて悩んでいる時、耕一はどこで何をしているん だろう。  耕一がいないことが、こんなにも辛いと感じてしまうようになってしまった。  我慢することが出来なくなってしまっていた。  電話で声を聴くことができる。  受験さえ終わればすぐにでも会う事ができる。  判っているのに、今すぐに会いたい。  凄く我侭だった。  そんな思いを押し殺して、耕一に会えないのは自分だけじゃないと言い聞かせて、 こうやって机に向かっているのに集中できない。  今日は楽しいクリスマス。  明るく騒いで盛り上がる行事の日。  けれども、うちは特に用意していなかった。  叔父さんがいなくなって、千鶴姉も仕事で遅くまで帰ってこられない以上、あたし 達だけで騒ぐ気にはなれない。  いつも通りの冬の一日。  普段とあまり変わらない夕食に、デザートとしてケーキを人数分用意するぐらいで 済ませようという打ち合わせを楓達としていた。  寂しい気持ちのまま、何かを騒いだり祝ったりする気にはなれない。  だから今日はいつもと変わらない一日にする予定だ。  ただ、せめてこんな憂鬱な顔だけは皆に見せないようにしよう。  夕食の支度をする為に下に降りる頃にはいつものあたしに戻ろう。  寂しさを感じさせないように明るく見せなくては。 「ん…、もうそろそろ準備しないと…」  時計を目だけで見て、そう呟いた時に下で玄関の戸がガラガラと開く音がした。  そして幾分弾んだ、明るい千鶴姉の声が聞こえてきた。  あたしは机から顔だけ上げながら、今日も仕事の筈ではなかったのかという疑問が 心に沸く。もしかしたら食事の為だけに戻ってきたのかもしれない。一応、そうなっ てもいいような準備はしてあった。  続いて出迎えに出たらしい初音の声――大きな驚きの声がした。  何か千鶴姉が持ってきたのだろうか。旅館のツリー用の大きな飾りとか。  そんなことを考えていると、すぐに続いて聞き覚えのある、あたしが今の今迄思い 続けていた相手の声が聞こえてきた。  聞きたかった声が。  会いたかったあいつの声が。  ――っ!  反射的に椅子を蹴っていた。  そして椅子がガタンと床に倒れるよりも早く、あたしはドアを開けて廊下に飛び出 していた。  階段を一気に飛び降り、踵がぶつかってまたしても大きな音を立てる。  けれども、気にしなかった。  あたしはバカだから、  素直になれなかったから、  だから沢山の大切なものをみすみすなくしてしまった。  二度ともう、なくした後で後悔するのは嫌だ。  絶対になくしたくなかった。  足音荒く廊下を駆けて、玄関まで走って行った。  コート姿の千鶴姉が苦笑いを浮かべている。  初音が驚いた顔をしてこっちを見ている。  楓は道を開けるように初音の手を取って隅に寄っていた。  そして、 「よぅ、梓…」 「耕一っ!」  ニッコリと笑いながら、耕一はこんなあたしを迎えてくれた。 「もう、梓ったら行儀が悪いわね」 「仕方ないだろ。ビックリしたんだから。全く……連絡のひとつぐらい入れれば、も う少しそれらしい料理用意したのに」  食事の支度をしながらあたしは、さっきの行動の照れ隠しのように文句を言うが、 耕一は笑ったまま聞き流してくれる。 「いや、悪い悪い。あんまり負担かけさせたくなくてさ」 「今日ぐらいは梓も受験勉強のことは忘れてゆっくりしましょう、ね?」 「千鶴姉もいーのかよ」 「少しだけ。食事したらまたすぐ戻るって足立さんに言っておいたから」  千鶴姉。  両親が死んだ時から、いつも無理してあたしたちの母親を演じてくれた姉。  今はちゃっかりと耕一の横の位置をキープして、ビール瓶を持って酌の準備を終え ていた。コートは脱いでいて、スーツ姿のままだったが。 「でも耕一さんを呼ぼうっていったのは楓よ」 「……姉さん、最近調子悪そうだったから」 「そうだったか?」 「うん……」  楓。  いつも黙ってあたしたちのフォローをしてくれた妹。  今はこたつに深々と入って、ミカンの皮を丁寧に剥いている。白い皮までひとつひ とつ剥いて、表面がツルツルになったのを満足げに眺めていた。 「でもやっぱりお兄ちゃんと一緒だと家族全員揃ったみたいだよね」 「そうよね。やっぱり耕一さんがいてくれると……あ、お酒注ぎますか?」 「千鶴姉は飲んじゃ駄目だからね」 「判ってるわよ、もうさっきから……」 「千鶴お姉ちゃんもあんまり長居できないんだからいっぱい食べてね」  初音。  あたしたち姉妹の場を常に和やかにしようといつも考えていてくれる末の妹。  言われないでもあたしの手伝いをする為に、温めたばかりの料理を次々と運んでく れている。耕一の前から順に並べてはいたけれど。  息が合っているのか合っていないのかよく判らないあたし達姉妹も、こうして耕一 が来た時は不思議なほどに、和やかな雰囲気になる。  耕一が家に来て初めて、普段あたし達に欠けていたものが埋まったと――「家族」 が揃ったと皆、感じているから。  耕一がいる時だけは、寂しさを感じることがないから。  だから、皆笑顔になる。  楽しくなれる。  普段どんなに辛くても、大変でも、憂鬱でも、退屈でも、耕一がいる時だけは感じ ないから。  満たされるから。  満足、できるから。 「じゃ、皆揃ったし……」 「ええ。それじゃあ耕一さん……」  乾杯の音頭は、勿論耕一がとった。  耕一は、あたし達家族の家長なのだから。


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