『Solitude』


98/01/08〜98/04/07


『さよならに代えてありがとう』 長瀬祐介



「もう誰も傷つけたくないんだ……」

 僕は彼女にそう打ち明けた。

 揺れる思い。
 交錯する現実と理想の狭間。
 見い出すことが出来ない自分がそこにいた。


・
・
・


「長瀬ちゃん……電波、届いた?」
 …届く訳無いよ、だって僕は……
 …ボクハ……

 何となく気付いてた。
 それとなく感じてた。

 でも……認めたくなかった。

 逃げ出す自分。
 何に対して、誰に対して、背を向けたのか、自分でもわからない。

「どうでもいい……コト」
 そう無理矢理、自分の中で結論つける。でも、放ってはくれない。そんな自分を、
悩める僕を、皆、放ってはくれない。
 皆、僕に近づいてくる。


 …どうして……来るんだ。
 …どうして……話すんだ。
 …どうして……どうして……


 関わりたくない事。関われば良くない事が起きる。それは昔から……今も変わらな
い事実。僕の気分を重くする事実。抗えない事実。


 …逆らったことなんて……ないじゃないか。


 僕にのしかかる言葉が重い。厳しい……言葉。
 嫌な事を避けようとすれば別の嫌な事が待っている。だが、ぶつかっていっても嫌
な事から解消される訳ではない。

 だから、僕は抗わない。流れに身を任せる。
 だから、僕は逃げる。救われないと分かっていながら。

 矛盾する思いが僕の心を絡める。


 …どうしたらいい?
 …どうすればいい?


 答えてくれる人はいない。その問いに反応する人はいない。聞いてくれる人はいな
い。ただ、静寂が僕を包み込む。


「助けてあげるよ……私が」
 僕はもう、彼女しか縋るものがなかった。


 だから……彼女を抱いた。
 だから……彼女の望む事をしてあげた。


 利害関係の一致。"愛"と呼ぶ劣情と欲望の行為。そしてその代価。偽りの偽り。そ
れだけでしかなかった。それだけの……


 …冷たい……


 僕の中で雨が降る。僕に雨粒が降り注ぐ。足下に溜まっていく雨水。


 …寒い……


 僕の足下から風が吹く。僕に冷気が吹き付ける。周囲に取り巻いていく風の渦。



 僕は、約束を守る事しか、出来なかった……。



「もう誰も傷つけたくないんだ……」
 明らかな嘘。傷つきたくないのは自分。誰かが傷つくことで傷ついてしまう弱い自
分。傷つく姿を見て恐怖する自分。己が傷つく事を思い、震え出すひ弱な自分。


 …泣いていいよ


 そう聞こえた。幻聴でもいい。僕の縋ったもの。縋ることのできた……人。


 …さようなら、あなた さようなら、ぼく


 そして……


 …こんにちわ、きみ こんにちわ、ぼく


 自然に涙が零れる。熱い雫が僕の頬を伝う。今まで、どうして出来なかったんだろ
う。こんなに、こんなに簡単なことだったのに……


「行こう」
 僕は彼女をそう誘う。手を引いて、誘う。誰もが傷つき、震えている。それを乗り
越えられるかどうか、それだけの事だと、僕は知った。知ることが出来た。


 …だから……泣いてるけど……嬉しいんだ。


 僕は見た。僕は……見ることが出来たから。


 …僕はもう……大丈夫。だから、心配しないで。


 そう彼女に伝えよう。それが、僕の……思いだから。


 …ありがとう。




 ただ、それだけを。





『裏切られた故に幸せ』 新城沙織  人は裏切りの歴史から学ぶ。  人は、信じることは教わるが、裏切ることは自分で覚える。  人とは…… 「どうもありがとうございました〜」  今日、恐らく今日最後の客が自動ドアから店を出ていった。 「ふう……新城さん、今日もご苦労様。ちょっと早いけどあがっていいよ」  店長も同じ事を考えていたのだろう。レジの前に立っていた私にそう声をかけ、後 片づけを始めだした。  …詰まらない……  平凡な日常。私はこのまま奥で着替え、残りの人たちに挨拶をし、誰もいない部屋 へと帰っていく。そしてそれを繰り返すだけの日々。  …つまんない……  退屈に飽き、非日常の世界に憧れるのは珍しい事ではない。現実では起こり得ない 別世界に旅だったり、不思議な力を得て暴れ回ったり……誰もが一度は夢見る事であ る。夢想でしかないと分かっていながら……。  だが、実際に現実では起こりえない事に直面した時、どれだけの人間が喜ぶのだろ うか。初めこそ、自分の知らない事、常識ではあり得ない事、色々な事を見てはしゃ ぐかも知れない。しかし、次第に人に襲いかかってくるのは不安と恐怖。  "現代"、"常識"、"皆がいる世界"、自分の足場の無いことに耐えられる人間がどれ だけいるだろうか。自分の物差し全てを無くして、全くの新たなるスタートを踏み込 める人間がどれだけいるだろうか。  人は皆、自分の足場がしっかりしているからこそ、他の物に憧れを抱く。退屈な毎 日が確保されているからこそ、他の事を望む。  …ツマラナイ……  幸せ。変わらない幸せ。変われない幸せ。気付いていない訳ではない。だが、それ を幸せと呼ぶことに抵抗を感じる。  自分が望んだ訳ではない幸せ。  与えられた幸せ。常に身に持った幸せ。生まれた時から、全ての人に与えられた幸 せ。父から貰った訳ではない。母より受け継いだ訳でもない。人が今、あなたが今、 わたしが今、授かっている幸せとは……。  …ふぅ……  着替え終わり、バイト先の店を出る。夜中なので完全に辺りは真っ暗、他に人通り もない。近所の家の灯りだけがここが人のいる場所だと証明してくれている。  …変わらないな……  いつまでも変わらない日常。昔から願っていた非日常は……今もやって来ない。  このまま短期大学を卒業し、就職してOLにでもなり、結婚して退職して……最後 には老婆となって人生を終えるのだろうか?  あたしがいつしか私となっていったように、多分何事もないまま、私の人生は終わ り、埋もれていくのだろう……。  …長瀬くん……  何故か、いつもこんな気分になると、ある少年の顔を思い出す。いや、少年の顔で はなく、彼の瞳を……。彼の瞳が……私が最初で最後に感じた非、日常の部分……だ と思う。彼の瞳を見た時、ひどくワクワクした気分だったのを、今でも鮮明に思い出 す。  だが、私の期待とは裏腹に何事もなく……本当に何事もなく時は過ぎていった。  彼の瞳と共に、私のドキドキも消えていた。彼は、何の奇跡も起こすことなく、私 と違う道を歩んでいった。確か彼の横に誰かがいたと思う。名前は覚えていないが、 とても、綺麗な人だった気がする。彼女が彼の瞳、彼の扉を閉じてしまったのだろう か。私にはわからない。ただ、何故だか悔しかった。目の前で電車が発進してしまっ たような、乗り遅れたような気分に陥った。電車は待てば来るけど、もう、二度とあ の思いは私の前に、現れない……そう思う。  誰かにこの事を話せば、きっと「それって彼の事、好きだったんじゃないの」と、 言うだろう。だが、それは違う。私は彼が羨ましかったのだ。私の知らない「何か」 、現実世界を普通に過ごしていたのでは一生見ることの出来ない「何か」を、彼は持 っている。知っている。住んでいる。それが無性に羨ましかったに違いないのだ。そ して、その仲間に入れて貰いたがっていたのだ。そして……  …ナンニモナカッタヨ  彼はそれに気付いていたから、知っていたから、私を迎えてくれなかったのだろう。  理由は分からない。  私は乗り遅れた訳ではない、乗せてくれなかったのだ。  人は、裏切る事で、自分の為した事を理解する。  人は、信じる事で、物事を見極める機会を逸する。  それでも、裏切られた者は、信じた者は、同じ事を繰り返す。  愚かではない。それしか知らない訳ではない。  人とは…… 「ただいま!」  誰もいない薄暗いワンルームマンションの玄関で、沙織は靴を脱ぎながら言った。 「もう……今日も立ちっぱなしで脚が棒になっちゃうよ〜……」  ソファーの上に並んだぬいぐるみ達の頭をポンポン叩きながら上着を脱ぎ、スカー トを下ろす。 「こういう時は……バブがいいわね。えっと……」  そしてハンガーを片手に下着姿で浴室まで歩いていく。  これもいつもと変わりない日常のひとコマ。  非日常を体験した筈の新城沙織の平凡な日々。  裏切られた事を知らなければ、裏切られた事にはならない。  信じた事を自覚していなければ、信じた事に気付かない。  私は知らない。  だから……今、幸せな日々を過ごす事が出来ている。  毎日が詰まらないと嘆ける、幸せを噛み締めている。  何も知らない。  だから、今、生きていける……。
『汚れ無き心、汚れ過ぎた心』 藍原瑞穂  頑張れ……  安易にそう励まされる。  曖昧な言葉だ。  私は……ひねくれてるのかも知れない。  一生懸命頑張ること……  ひどく安易で、いい加減な言葉だと思う。  一生懸命って何?  頑張るって何?  自分が自分のやりたいことをする時には使わない言葉じゃないの?   一人では言わない言葉じゃないの?  人に言わせる事で上がる高揚感。  人に見せる事で奮い立たせる使命感。  そのくせ、言われたくない、聞かれたくない言葉だと知っている。  怒りが込み上げてくる。  同時に、呆れてしまう。  力が、抜ける。  …色々な事あったんだ……私  私は真面目だと、人から言われる。  私はそうは思ってなかったが、そう言われる。  真面目……従順にして人に逆らわない。  都合の良い、存在。  社会で一番便利で、望まれる存在。  それを目指すこと。  その行為に励ましの言葉。  「頑張れ」  ふざけてる。  …私、そんなのはどうだっていい。  そう、言えない自分。  弱い、自分。  醜い、自分。  一番ふざけているのは、私。  そして従うことすら出来ないでいる。  だから……  …勇気を貰ったの。  …あの娘の為にも……。  人にはそう言う事で誤魔化している。  誤魔化している。  そう、誤魔化し。  頼っているあの娘をダシに使っている自分がいる。  情けない姿。  酷く醜い姿。  愚かな、私。 「頑張ろうよ」  呼び掛ける、私。  どうしても、自分の方に引き込みたい。  同じ世界を共有できないなら、私の中だけでも、一緒にいて欲しい。  救いようのないエゴ。  自己満足。  …それでもいいの。一人じゃ、寂しいから……。  一人では何もできない。出来ているフリか、勝手に自分の中に住んで貰っている事 で自分を偽る。 「私も……頑張るから……」  今日もそう呼び掛ける。  本当はもう、どうだっていいのかも知れない。  ただ、形が欲しいだけ。  私という存在を自分の納得がいく形で認めさせる形が。 「……」  私を見ていないから、だから安心しているのだろうか。  だとしたら、私はなんて汚い人間なのだろう。  だけども、私は他に縋る術を知らない。  だから、呼び掛ける事で自分を、周囲と同じ世界へと保つ事が出来るのだ。 「……だから、私を責めないで……」  私には、何もできないのだから……。  …その瞳を私に向けないで。  自分を保つことが出来なくなるから……。
『置いていく、靴を下さい』 吉田由紀  …誰でも良かったんだ 誰でも……  制服を着て、学校に通う私。  私服を着て、友達の家に向かう私。  お気に入りの服を着て、遊びに行く私。  何処にでもいる女子高生。少しも珍しくない女の一人。  別にすれ違う人が振り向いたり、大勢の中から目を惹くような存在じゃない。  …誰も私に目も止めない……。  誰でもいいんだ……私でなくても……  ……私である必要がないの。  それに気付いたのはいつなんだろう。  …いつの間に、私は舞台を降りたのだろう。  エキストラの一人に成り下がった覚えはない。  でも、自分でも気付かぬ間に諦めかけていた。  …ヒロインにはなれないんだ。  ……と。  だから……もがいたの。  子供の頃は夢ばかり見ていた。  夢の中では、アイドルや大女優になったり、スチュワーデスになったり、看護婦さ んになったり、保母さんになったり……お嫁さんになったりしていた。  夢の中の私は、いつも輝いていて、どれも間違いなく主役だった。  …キラキラ輝いていたあの日……。  自分の事なのに、ひどく……遠く感じる。  子供の頃と呼べる時期が過ぎていき、学生と呼ばれる長い時間……この時間の間 に私は変わっていった。  途方もなく大きな、それでいて純粋な夢を見られなくなった代わりに、その年頃に 応じた夢を描き始めただけ。  誰もが歩むような道を歩みだしただけに過ぎない……と、思う。好きな男の子を見 つけて、素敵な恋に落ちて、一生を添い遂げる。それが夢の最終目標のように考えら れ、自分でもさして疑わなかった。退屈な夢かも知れないけど、幸せで、幸せで…… 素敵な夢だと、思った。  ……女の子って……恋をした時に輝くの。その時に、主役になれるんだよ。  馬鹿みたいに……本当に馬鹿みたいにそんな事を信じていた。  待っていた……。  ずっと待っていた……。  でも……  何も……無かった。  待ち続けても……何も……。  だから、私は……自分から動く事を覚えた。  自分から恋をしてみた。  積極的に人を好きになってみた。  進んで心を許し、身体を許した。  ……秘していたものが暴かれた瞬間程、醜悪なものはない。  そう……みんな、嘘だった。  私は恋をしなかった。  あの人を好きになっていなかった。  身体は許しても、心は許さなかった。  演技をしてみせただけだ。  大根役者。  そんな言葉が私の耳を掠める。  …だからかな、幸せ、来なかった。  全員が幸せになれたらいいのに。  皆、楽しめればいいのに。  一人でも多く、喜べればいいのに。  そして……その主役になりたかった。  もてはやされる存在になりたかった。  中心になりたかった。  なくてはならない人間になりたかった。  端役なんて詰まらない。  ガヤなんて目立たない。  エキストラなんて分からない。  …どうしたら良かったんだろう……私は。  脇を固める人がいるから、スターはスターでいられる。  そんなの、嘘。  スターはスターなの。  誰の力も借りないで、何もしなくても……"選ばれた"だけで、目立つ事が許される。  "選ばれなかった"人は、ただ、こうして見つめる事しか出来ない。  …だったら……出来るだけ近付くしかないじゃない……。  近付くことで、少しでも雰囲気を味わうしかないじゃない。  女々しくてもいい。  未練がましくてもいい。  一度でいい。  一度でいいから……ヒロインになりたいの。  …プリマになりたいよ……。  夢見るだけじゃ、何も起きないの。  魔法使いのお婆さんも、  白馬に乗った王子様も、  夢見るだけの少女には見向きもしないの。  …だから、私は賭けたの。  ヤクザなならず者か、身分を隠した王子様か……。  貴方に……託したの。  …脇役が、賭けに勝てる筈……ないよ。  本当は、もっと素直に生きたかった。  普通の、恋する乙女でいたかった。  平凡でも、楽しく過ごしたかった。  幸せを求めて、幸せから一番遠い道に踏み込んでしまったの。  きっかけが不純だから……  醜い打算があったから……  輝きたいと思って……何がおかしいの。  這い上がろうとして……何故駄目なの。  運命に逆らっちゃ……いけないの。  私はお城のパーティーに行く。  そして終始、隅っこで踊るの。  王子様は気付かない。  いつでも、いつまでも待っているのに……。  …でも、もう……もがくのも疲れたの……。  少し、休みたい。  あの人とも離れて  誰とも会わないで  今は、一人になりたいの。  規則的な、機械の音がする。たったそれだけの静かな、静かな部屋。私に与えられ た、ちっぽけなお城。ヒロインになりたくてもがいた、私の舞台。白いシーツはステ ージ衣装。観衆のいない、好きな人のいない、誰もいない、私だけの……場所。  きっと起きたら、私はまたもがくだろう。  スポットライトを目指して、歩き出すだろう。  報われなくても……きっといつまでも……私はもがく。 「だから……今は休もう。ゆっくりと……」
『人形の涙は誰が為に……』 太田香奈子  私は今日も目覚める。  朝起きて、夜寝るまでの時間、人は何をするのだろう。  社会に必要な事を学ぶために、勉学に励む人。  自分が生きていくために、仕事で働く人。  子孫を残すために、子供を育てる人。  人はそれぞれ、何かをやっている。自分のため、人のため、何かのため、それぞれ に何かの目的の元、自分で何かをしている。自分の意志で動いている。  だが……それが出来ない人がいる。  人間の生きる術を失ってしまった、自分一人で生きる事の出来る全てをなくしてし まった人……そんな人がいる。  …それは……私……。  私は一体、何をしているのだろう。私は一体、何をしたいんだろう。  私が自分ですることは、起きる事と、眠る事。この二つしかない。誰かの助けがな くては、何もする事が出来ない。  ……人形。  布の代わりに皮で覆われ、綿の代わりに肉が詰まった人形。独りでに動くことが出 来ない私には、お似合いの言葉だと、思う。  私には父がいる。  私には母がいる。  私には友がいる。  皆、私の事を好きでいてくれる。  皆、私に優しくしてくれる。  でも……  私は……何もできない。  私の治療費を捻出する為に身を粉にして働いてくれるお父さん。  私の身体を洗ってくれ、身の周りを世話してくれるお母さん。  私が寂しくないようにと、暇さえあればやってきてくれる親友。  …私はそんな人たちにありがとうの言葉さえ言うことが出来ない。  どうしてこうなってしまったんだろう。  どこで間違えたんだろう。  どうして……  私は幾度となく同じ事を考える。  自責の念。  わたしは……わたしはただ、人を好きになっただけ。  好きな人に好かれたかっただけ。  恋を信じてみたかっただけ。  …他の人と何ら変わらない事……  今でもそう思ってる。  でも、どこか違う。違わなくてはいけないと、思う。  なのに……分からない。  ある時……愚痴を聞いた。  …あんな奴に関わったばっかりに……  …あんな男、死んじゃえば良かったんだ……  あの人の、悪口。  何がどうしてどうなったのか。  私は、知らない。  でも、色んな人が、あの人の悪口を言ってる。  ここにいる人、近くにいる人、遠くにいる人……口々にあの人を、罵っている。  お父さんもいる。  お母さんもいる。  親しかった人もいる。  先生もいる。  私と同じように、あの人を好きだった人もいる。  …みんな……知らないんだ。  あの人が悩んでいた事。  あの人が傷ついていた事。  あの人が苦しんでいた事。  そんなあの人に近付いたのは私。  感じていたのに  知っていたのに  余計に苦しませる事になる……そう、分かっていたのに  困らせたのも、私。  求めたのも、私。  ……望んだのも……そう、私。  悪いのは私。  悪くないの、あの人。  そう言いたいのに、言えない。  御免ね、皆。  御免ね、先輩。  私は、罰を受けているのかな。  私、悪い子だったのかな。  人を好きになっただけなのに……大好きな人が欲しかっただけなのに。  私の殺風景な部屋の片隅に、小さな人形が立てかけて置いてある。  誰かが持ってきてくれた、大きな熊の縫いぐるみに押しやられるように、座り込ん でいる。木製の、ちっぽけな人形。  自分では動けないの。  自分では動かないの。  …どうして……動かないの?  動かない私が、動かない人形を、動かない眼で見つめる。  何かを念ずるように。  何かを祈るように。  神様を信じた事はない。  でも、いてくれてもいいと思う。  ちょっとぐらい、少しぐらい……こんな私に……  その時、ドアがノックされて、人が入ってきた。 「あ……か、香奈子ちゃん……」  見舞いに来た人が息を飲む。  この声は瑞穂。  あれ?  どうして見えないんだろう……  声は聞こえるのに…… 「涙……」  瑞穂はそう言った。  あれ、歪んでる……見えないんじゃなくて……歪んでる。  見慣れた景色が、滲んでる……  …御免ね、瑞穂。そして……ありがとう。  魔法がかかっているうちに言いたかった。  唯一、あの人を責めなかった瑞穂。私を責めなかった瑞穂。  ……信じてくれている、瑞穂に。  …貴女にだけは……この気持ち、伝えたい。  立ちつくす瑞穂の脇で、部屋の隅の人形が笑っているように見えた。
『祈りに応じるは……』 月島瑠璃子  心、届くまで、屋上に上るの。  この電波が届きやすいように……と。  いつか誰かが助けてくれるまで……。  崩れるのを恐れていたのは、私じゃなかった……。  …視線を感じる……  お兄ちゃんが覗いている。  私を覗いてる。  珍しい事じゃない。  見つめる目……苦しそう。  怯えの色を見せた、悲しい……瞳。  …好きなのかな……  自惚れなら良かったのに。  他人だったら救われたのに。  きっとお兄ちゃん、素直になれる。  歪んだ顔、しない。  知っているの。  私が居ない時、何をしているのか。  無くなった私の服の行方。  ……その、思い。  知ってるから、苦しいの。  好きなことを我慢し続けたお兄ちゃん。  ずっと我慢し続けてくれたお兄ちゃん。  私の為に……  自分の為に……  二人の為に……  正常を保つために……異常を押さえ込む。  でも、異常は消えて無くなる訳ではない。  …聞こえる。  ずっと機を見て窺っている 心の枷が壊れるのを  解放されるのを 現れるのを 待ってる。  決して無くなる事のない、人として必要なもの。  厭まれる部分。でも、切り離せない。  だから……鎖がいるの。  でも……  …お兄ちゃん……  たった二人の兄妹だから……掛け替えのない存在でいたいから……  無理……しないで……  嘘、つかないで……  苦しみを……分けて欲しいの……  欲しかったら、あげる  壊しても いい  崩れても いい  お兄ちゃん  だから、自分を責めないで。  壊れないで。  お願い、お兄ちゃん。  誰か……助けて。  お兄ちゃんを……助けて。  傷つく事を恐れて、余計に傷ついて、他の人を巻き込んで……  救えなかったから。  私では出来なかったから。  理由は分かってる。  …原因は私だったから……  私では……駄目なの。  だから今日も電波を飛ばす。  私に出来ること。  …誰か、助けて  と。 ・ ・ ・  これで終わるつもりだったのに……  何故?……  …助けを求めている……  多分、その筈……。  誰かが来てくれるのを待っていた。  それだけ……それだけなのに……。  何か違う気がする。  理由は分からない。けど、  違うような気がする。  自分たちの事とは別に、私は何かを待っていた。  誰かを待っていた。  誰でもよくない。  ドキドキする……妙な気持ち……  これも……素直な気持ち……。  だから、初めは驚かせないように……優しく、始めよう。  笑顔を作って見せてあげよう。  怯えないように落ち着いて……。 「いけない、いけない、驚かせちゃったよ……」                          <完>

written by 久々野 彰 『Thoughtless Web』

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