耳障りな音がする。 切り離されかけた、私を繋ぎ止めようとしているかのように聞こえるのは私の錯覚 なのだろう。 だが、意味合いは同じ様に感じる。 ただ、目覚めさせるきっかけになり、また、考えさせられる日々の始まりになる。 愉快ではないが、それほど苦痛ではない。 何れは、それもなくなる日が近付いてきているのを感じているから。 まだ、最後のつなぎ目は残っていると確認できただけ。 ただ、それだけを感じればいい。 さっきの音が断続的に続いている。 食べ散らかしたコンビニの弁当をビニール袋に入れる音だろう。 だが、上手く入れることが出来ないでいる。 そして後で困ったような声を出して、あの男が入れ直して片付けるのだ。 …お前も同じ様になるんだ。 その声はあの男から発せられたのか、あの男じゃない何かに突き動かされて出たも のなのか、私には判らない。 そのどちらでもあり、どちらでもないのだろう。 今となってはどうでもいいことだ。 今日でもう、幾日経ったのだろうか。 時間の概念を無くしてしまってから、かなり経つ。 私は相田響子。 そこそこメジャーなレディジョイのライターを職業としてこの隆山には鶴来屋グル ープ会長への取材で来る。 その時、偶然起きた連続猟奇殺人事件の取材の手伝いに駆り出される。 そして、その犯人らしく男と遭遇。 この薄暗い部屋に拉致監禁され、今に至る。 そう、心の中で反芻する。 どうやらまだ、憶えている。 今、憶えていても明日憶えているか、明後日、反芻する事を行うかどうか判らない し、自信はない。 正直、かなり細かい部分が曖昧になってきている。 そして、思い出そうという気力がかなり萎えているのも自覚している。 隣で倒れている白い肉塊……かすかに蠢いている人物が浚われた女子高生だとは 憶えているのだが、名前が思い出せない。 たまに動き、それによって生じる繋がれた鎖の金属音だけがやけに耳障りで、私の 性に触る。同じ様に繋がれている。 きっと、私同様浚われてきたのだろう、陵辱されたのだろう。 そして、私と同じ目に遭ってきたのだろう。 もう彼女は私を見ていない。 この世界に存在しない。 きっと、少し前までは今の私のように何かを考えていたはずだ。 逃げようとか、助けてとか、殺さないでとか。 そして次第に疑問は根本的なものに遡るのだ。 ここはどこ? わたしはだれ? と。 どうやら、あの男が飲ませる薬には、そんな作用があるのだろう。 ただただ、身体を蝕ませるだけでなく、精神を歪ませるものを。 その内に、何も考えなったのだろう。 彼女は何も見ていない。 彼女は何も考えていない。 彼女は何も……何もしない。 ただ、蠢いているだけだ。 この部屋のなかで。 いずれは私もこうなるのだろう。 きっと。 間違いなく。 だが、私はその事に恐怖を感じない。 全ての感情が著しく麻痺しているのかも知れない。 それこそが薬の効果なのか、そうでないのかさえ自信がないほど、私は曖昧になっ ている。 そう、私の存在自身が曖昧になっている。 そのうちに消えてしまうのだろう。 そこで蠢いているものと同じ様に。 その事に不安はない。 今までと何処が違うのかと聞かれれば答えられないから。 何を為すこともなく、ただ呼吸するだけの存在でしかなかった私。 人の生きる世界に溶け込みながらも、何の影響も与えず、何の影響も受けないで来 た私。 そんなゲンジツから逃げるわけでも、向かい合うわけでもなくただただ流されるま ま流され、隅っこにしがみつくことしかできないでいた寄生虫な私。 必要とされず、必要とも思わず、そんな曖昧な存在になっていた私。 ひょっとしたら、解き放たれたのかも知れない。 自分で縛り付けていた縄を。 自分が縛られていた紐を。 溶けて消えていくこと。 放たれて霞んでいくこと。 自分で動いても 自分でないものに導かれても、 かわらない。 わたしは、かわらない。 意志も、意図も、意味も、意地も、 意がない。 意すら、ない……。 そんな私に相応しい場所なのだろう。 相応しい。 ただただ、相応しい。 この部屋は。 私にだけは少なくても、相応しい。 そんな気がしていた。 そして、この部屋の住人はもう一人いた。 鎖で繋がれた身体を少しずらし、顔を向ける。 そこには彼がいる。 彼はいつも部屋の隅に座っている。 恐らく、彼はこの部屋の一番古い住人なのだろう。 そして、あの男の大切な人間なのだろう。 あの男は、彼に対してはいつも優しく、あれこれと世話を焼いていた。 言葉からすると、私たちも彼への慰みだったようだ。 彼の仲間でも増やしてあげたつもりだろうか。 ただ、あの男の違う何かは、彼を馬鹿にしているように見えた。 彼と、あの男自身を。 理由はわからない。 ただ、彼こそ、私たちが飲み続けている薬を飲み、この世界を創り出した創造者な のだろう。 彼が、はじまりのような気がする。 あの人が、生まれたのも。 彼が、この世界を創ったからなのだろう。 私たちが蠢くことを唯一許された、存在することを許された世界を開いたきっかけ だと思う。 感謝すべきなのだろうか。 解放者としての彼を。 恨み憎むべきなのだろうか。 略奪者としての彼を。 その感情にあの男は介在しない。 実行者であり、犯罪者であるあの男に、私は既に何の感情も失っていた。 それは既にあの男と世界を隔ててしまったが故なのか、それともあの男が彼の使役 社でしかないと気付いてしまったからなのか。 まだ、感情は残っている。 理性と分類できそうなものも。 私は、彼を観察していた。 他にすることがないから。 まだ、考えることを脳が欲しているから。 そんな彼が食事としてあの男から買い与えられていたコンビニ弁当を食べ終わり、 袋に入れようと立てた音が、さっきの音だ。 彼は考えていない。 ただ、そうするようにあの男から言われたから、そうしているだけだ。 多少の行動は出来るらしく、たまにその場から立ち上がる。 排泄行動と、ドアの開錠の二つ。 排泄行動は、あの男が言ったせいか、何か憶えているのか自発的に行う事が出来る ようだ。 たまに思いだしたように穴から垂れ流す彼女に比べれば、立派なものだ。 いや、私も同様だが。 あの男も心得た物で、私たちの下には新聞紙が敷いてある。 だが、開錠は何か意味があるらしくいくらあの男が注意をしようとも、聞き分ける ことはなかった。 ただ、その行為を咎めるあの男にはどことなく苦しそうで、嬉しそうだった。 形の上では、 私たちは囚われている。 支配されている。 あの男に。 だが、あの男は気付かない。 私たちはとっくにあの男の手から離れていることに。 私たちを受け入れた、救ってくれた世界は広かった。 そこは、彼がいる世界だった。 あの男は、私たちの世界を眺めていることしかできないのだ。 そう、あの男はこの世界に行きたがっている。 甲斐甲斐しく彼の面倒をみる。 連れ込んだ私たちを犯し、処置をする。 血の臭いをまき散らし、嗚咽と怒号を繰り返す。 その全てが、彼といたいが為だけなのに、あの男は彼の元にいけない。 故に思う。 ああ、可哀想な人だな、と。 一人、この世界に取り残されている。 あの男は行けないのだ。 いくら望もうとも、彼の元には。 だから、せめて私たちを送り込もうとしている。 彼の元へと。 哀れな男。 気の毒な男。 愚かしい男。 ひとり、泣いている。 何も掴むことの出来ない両手を一生懸命に振り回している。 この部屋で、あなただけ、彼に近付けない。 あなただけ、見放されている。 いや、この世界があなたを離さない。 この、人が生きるには相当不便なゲンジツと呼ばれる世界に見込まれてしまったの だ、あなたは。 この空間ではただ、ひとり。 君、死に給うことなかれ あなたは生きなければいけないのだ。 それが、あなたの役目なのだ。 神という存在があるのなら、天という意志があるのなら、運命という言葉があるの なら、あなたはその命ぜられるがままに生きなくてはいけないのだ。 打破しようと横道に逸れても、逃げようと後戻りしても、切り開こうと違う道を選 んでも、あなたは生きている。 今、生きている。 死に絶えたこの部屋の中で、あなたは生きている。 ただ一人、生を享受している。 あなたは哀れな人だ。 己の死を求め、 あなたは哀れな人だ。 彼を追うために、 あなたは哀れな人だ。 余人に死を与えただけで、 あなたは哀れな人だ。 ただ、一人生き残っている。 あなたは哀れな人だ。 すべて、その行為の故に……。 だが、その愚かさこそ、あなたがここにいる理由なのだ。 私たちのいる世界との隔たりなのだ。 可哀想なあなた。 気の毒なあなた。 愚かしいあなた。 彼の笑顔を見たいだろうに。 彼の暖かさに触れたいだろうに。 彼は、あなたの側にいない。 彼を私たちは見ることが出来るのに、 あなたは彼を見つけることすら出来ない。 遠く、遠く、隔たれた世界。 きみ、しにたもうことなかれ ここにいない私たち。 ここに取り残されているあなた。 寂しいだろう。 悲しいだろう。 悔しいだろう。 この世界に忘れられたわたしたち。 この世界に閉じこめられているあなた。 空しかろう。 乏しかろう。 貧しかろう。 生きていないわたしたち。 生き続けているあなた。 たった一人、生きているあなた。 生きることを定められたあなた。 だから、あなたは生きなくてはならない。 死にたくても。 行きたくても。 君、死に給うことなかれ 生きることが、君の本意でないとしても 生きることが、素晴らしいと思えなくても 生きることが、苦痛と絶望の固まりだとしても 生きることが、退屈と平凡に満ち満ちていても 生きることが、無常と無力感に包まれていても 生きることが、死ぬことまでの通過点だとしても ただただ、生を貪るがいい 生きる世界を、甘受するがいい こちらの世界は、その為にあるのだから。 君が生きるために あなたが生きるために 私たちはただ、見守っていよう。 そんなあなたを 違う道にいるあなたを 感情を無くした私たちが、 あらゆる感情に包まれたあなたを ただ、思おう。 ただ、願おう。 君、死に給うことなかれ…… <完>