初出:1999年11月18日(木) 改稿:2001年03月05日(火)

 
『こっちを向いて』
 




 木曜日の放課後、私はスカッシュをすることにした。
 私のとっての木曜日は習い事のスケジュールの中で一番サボりやすく、気が乗らないものが多い日でもある。
 普段はクラスの友達と遊んだり、葵が稽古している神社に邪魔しに言ったり、商店街をうろうろして浩之達と遊ぶことが多かった。
 が、今日は急にスポーツがしたくなった。
 身体を動かしたくなって堪らなくなったのだ。



「だからって、人を巻き込むかなぁ……」
 横から諦め半分、呆れ半分の声が聞こえて来る。
 私が来た時、丁度大学から帰ってきたばかりだったのだろう、その時に肩に下げた鞄はずっとそのままだ。
「このスポーツクラブはまだ出来たばっかりだから意外と穴場なのよねー」
「聞いてる?」
「浩之は捕まらなかったし、葵の邪魔するのは悪いと思ったし……」
「俺の安眠を阻害することは厭わなかったわけですか?」
「夕方に寝てどうするのよ」
「昨日殆どろくに寝てな……
「一日ぐらい、寝なくたって死にはしないわよ」
 振り返って、鼻の頭を抑えるようにピンと人差し指を突きつける。
「……」
「……」
 困ったような唸り声が喉の奥から漏れているようだった。
 私はフフンと鼻を鳴らして凱歌をあげる。
「さぁ、行くわよ〜。手加減しないからね〜」
 そして再び、くるりと前を向いて施設の方に歩いて行くと、ぼやきが背中から聞こえてきた。
「手加減とやらは今までにしたこと……ある?」
「さぁ?」
「……うぅ、一度気を許したのが間違いだったような……」
「もう手後れね」
 意味ありげに笑って見せた。
 振り返りはしなかったが、後ろも笑っているような感じを背中で受けた。
 恐らく、苦笑だろうが。


 初めてやってみたのだが、かなりキツかった。
 テニス並みに動くくせに、テニス程、余裕のある時がない。


「ふぅ……ふぅ……はぁ……はぁ……」
「結構、いい勝負だったのにねぇ……」
「はっ… はっ… はっ……」
 かなりの激しいラリーを繰り返し、ばてばてになっていた。他に誰も利用する気配がなかったことをいいことにぶっ続けで延々とやったのは流石に効いた。
 が、こっちはまだ壁に手をつきながらも立てる。意識して息を吐くのを止めてごまかせる。
 向こうはコートのある部屋の外にあるベンチに座ったまま、顔も上げられないでいるようだった。


 …こっちでも勝った。


 男女の差から普段の運動量の差を推し量って差し引きしてみても、結構自慢だ。
 どんな些細なことでも、負けるよりは勝った方が良い。
 そんな拘りで何度も失敗しているのだが。


「ふぅー……ほい」
「っと。あ、ありがと……」
 タオルで顔を拭いているとベンチ横の自動販売機からスポーツドリンクを買って放り投げるようにして渡して来る。
「身体が冷える前に着替えないと……」
「その前にシャワー浴びたいわ……」
「あ、そうだね……」
「そうよ……」
 荒い息を整えつつそうお互い喋るのだが、まだ動く気にはなれなかった。
 向こうも同様らしく、腰を上げる気配はない。


 …結局、今日も付き合って貰っちゃたわねー。


 時計を見ながら、そう内心でボヤく。
 もういい加減、夕方とは呼び難い時間になっていた。
 さっさと家に帰らないと怒られる時間だろう。
 どっちにしろ、サボってここにいる時点で怒られるのだが。


 いつもこうして連れまわしたり付き合わせたりした時、文句は良く言うが、実際にやっている時は、熱心に付き合ってくれている。
 その事をいつか聞いた時、
「折角やるなら、楽しまなくちゃ損だし。それに、まぁ、実際楽しいし……」
 と、普段の消極的な部分からは意外にも思えることを口にしていた。
 ただ、逆に妙なところでこうした積極的なところもあるのも事実だ。
 元々、その部分が無ければ私とこいつが知り合う事もなかった訳なのだが、色々と不思議な気がしないでもない。


 …ま、いーんだけどね。


 わざわざ気持ち良く付き合ってくれる相手に対してあれこれと詮索染みた無粋な真似をするまでもない。
 ただの相談相手、話し相手に留まらずにいてくれることは素直に嬉しいのだ。


 兄妹ならばこんな感じで妹に接してくれるのだろうか。
 ただ、どうも普段の物腰や仕種、漂ってくる雰囲気は老輩のそれに近い。
 だからこそ持てる安心感があるのも事実なのだが。
 実際、肉親や友達相手に接する時よりも、くだけた気分に慣れる。
 言ってみれば、安心して我が侭が言えるような、言っても許されるような雰囲気がこいつと一緒の時はある。


 ただ、昔よりは少しだけ、距離が狭まった気はする。
 こうして自然に、激しく身体を動かすスポーツに誘える程に。
 それはこっちが近付いたのか、向こうが近付いた結果なのかは判らなかったが。
 そう考えれば、年の離れた兄妹ぐらいは妥協してあげてもいいのかも知れない。
 ただ、まだまだ実年齢以上の距離は存在したが。


「? シャワー、浴びるんじゃないの?」
「え、あ……あー、うんっ」
「?」
 気付いたら何時の間にか近くにいた。
 不思議そうにキョトンと首を傾げている。
 白いウェアシャツにタオルを首にかけたその姿は、年相応に見えた。
 普段は閉じているように細い目が、珍しく見開かれている。


「へぇ、そんな顔も出来るのね」
 思わず口に出し、思い切り不思議そうな顔をされた。







 先日のお礼という訳では全然なく、何となく気になったので翌日も学校帰りに彼の家に寄ることにした。
 予想ではカーテンを引いて真っ暗にした部屋で筋肉痛の湿布を身体中に貼りながら、うんうん言いながら寝込んでいると思い込んでいただけに、その姿をアパート前で見つけた時には驚いた。


「和服なんて着ちゃって……どうしたのよ、一体」
 そして二度、驚いた。
 今日は丁度出掛ける寸前らしく、千歳緑の着物を――そう、着物を着ていた。
 ちょっとした京都の呉服問屋の若旦那みたいな格好だ。
 意外だったけれども、似合っていないことも無い。
「どうしたのって……これでも一応は……」
「?」
「……まぁ、いーや」
 私に向かい説明しかけたが、止める。
 眉を曇らせたその表情から察するに、面倒になったらしい。
「何よ、それ。気になるじゃないの……」
 そう言いながら、後ろをついて歩いて行く。
 行き先は駐車場のようだった。


「似合うかな?」
「全然」
「…………」
「…………」
「即答?」
「ええ」
 少し驚かされた恨みも手伝って厳しめに言ってみたが、効いてはいないようだ。
 いつも通り、困ったような顔をして笑っただけだった。
 そう、いつも通りの余裕のある顔だった。


「んじゃ、今日は悪いね……」
「別にいいわよ。会えないで帰ることも多いし」
「ひょっとして、実は暇人?」
「まさか」
「それじゃあ……」
「ええ。またね」
 そのまま特に説明されるでもなく、そのまま車に乗り込んだ彼をいい加減に手をひらひらさせながら見送った。
 ちょっと時間に余裕が無かったらしく、勢い良く車で走り去って行く。



 だから気付くのがとても遅れた。
 迂闊にも数ヶ月経ってからのことだった。



「ねぇ、貴方ってもしかして高村先生の……」
「あ? ええ、そうだけど……」
 今頃気付く私もどうかしているが、平然としているこいつもこいつだ。
 私は幾つか習い事をさせられているが、その中の一つの華道が高村流で、その家元の高村犀秀という人間に直接習っている。
 元々、興味の無い華道ということに加えて、淡々とした調子と退屈な稽古の繰り返しでは3回目あたりから常時抜け出す習い事のひとつになっても仕方が無いだろうと私は思う。
 私にとって将来、それ程役に立つとも思えないし。



「じゃ、じゃあ……何よ。あたしは何? 貴方のお父さんを家で待ちぼうけさせといて貴方のところに遊びに来ていた訳?」
 かなりの確率で抜け出している華道の稽古を避けて、ここに着た場合はそうなる。
 幸いというか何というか、その毎週の稽古の日に会うことはあまりないのだが、全く無いことも無い。
 第一、他の日、会いに来ていても何か別の習い事をさぼって来ていたりするのだから理屈としての状況はあまり代わりはない。


「あー、そういうことになると、構図としてはそうなるんだね……」
「って……ねぇ……あなた……」
 まるで、今、気付いたような顔をするので、脱力する。


 …そーよ、こいつはこういうやつよ。


 改めて、思い直す。
 初めは年上の持つ独特の悠長さと買いかぶっていた部分もあったが、今では断言できる。
 ただ抜けているだけだ。
 あと、意識して呆けているだけだ。


「あの人は律義だから、きっとずっと正座して時間一杯待ってんだろうねぇ……いつも……」
「そ、それでどーして貴方は、そう平然としていられる訳? 気にならないの!?」
 ひょっとして仲が悪いのだろうか。
「そう言われても……あの人はあの人だし。第一、わ…もとい俺がすっぽかしている訳じゃないし……俺はどうって聞かれても、綾香だって別にあの人が嫌いだから避けている訳でもないんだろ? だったら、いいんじゃない、別に?」
 にっこりと言う。
 毎回、待ちぼうけさせている私が言うのも心苦しいが、酷い奴だ。
「で、でも……改めてそう知ったら悪いとか思わない?」
「どうして?」
「ど、どうしてって……」
 不思議そうにしているが、こっちの方が不思議だ。
「キチンと礼金を払って呼んでいる訳でだろうから、来る来ないは綾香の勝手だし………あの人は綾香の家に来て教えるのが役目なんだから、来ないなら待つのは別に普通だと思うけど……」
「そーゆー問題?」
「別に怒ったりはしていないと思うよ。あの人なら」
「…………」
 にこにこと悠然としている。
 改めて、こいつの父親であろう華道の師を思い出す。
 ただの平凡な詰まらない人間だとしか思っていなかったが、考えてみると運悪く逃げ出せなかった時にだけ、たまに顔を出すだけの私に対してつんけんした様な態度は一度もとったことはなかった。
 それは来栖川グループという背中に背負った看板のせいなのかも知れないが、別に遜ってもいないのだから、これは性格なのかもしれない。
 だとすると、相当呑気というか穏やかな家系だ。
 ただ、高村先生は寡黙で、華道の家元と言うよりも植木職人に近いその風貌と雰囲気を持っていて、目の前のこいつとは顔も性格も全く似ていない。母方の遺伝なのだろうか。


「あのさぁ……」
「何?」
「前、特技が華道とか言ってなかった?」
「言ったけど」
「それって特技なの?」
「多分そうだと思う……って、何で拳を固めるかなー」
「殴られても仕方ないと自分で思わない?」
「な、何でっ!?」


 取り敢えず、ムカつく分殴っておいた。








「元々、華の道は神事としての側面がありまして……法要では「散華」と言う儀式がそれに当たります。これは散華僧と言う役割を与えられた僧が蓮の花を模した造花を散らす……まいていくのですが、これは「蓮の花」が過去、現在、未来の「三世の世界」を表現しているので、これが散らされることでその周辺が清められ、聖域である「浄土」を作りだし、諸仏は招き入れられ、鬼神は花の色香により退散していくという霊力をを作り出す儀式ということになりますが、これは古来の日本と花との関わりを現し、尚かつ今も残るものと言えます」
 延々と淡々と落ち着いた口調で語っている。
 目の前に並んで彼に倣うように座っている人々は、政財界の有力者やそれに連なる子弟ばかりで私と同じ位の年齢から、その上までと比較的若い世代だ。
 彼が言うには、普段アルバイトでやっている主婦向けの華道セミナーと実質は変わらないのだそうだ。
 別に相手に物事を教えたりする訳でないので、気が楽だとも言っていた。
 今、語っていることもどうせ聞き流されることだと笑って言っていた。
 勿論、私も聞き流す一人だったりする。
 知ったところでどうなる訳ではない。
 説法みたいな喋りだ。残念ながら淡々と聞き流している私達は釈迦ではなかったが。


 伝統風雅を理解する人と見られることで、似非教養人としての箔付けを求める側。
 金権という実力に常に近付き、縋ることで脈々と生き長らえる文芸の支える側。
 その互いの持ちつ持たれつといった関係。


 簡単に言えば、私が習い事を習わされている事、ひとつでその仕組みは要約されている。


「そういうことで、こうした花を神聖視している由来としては仏教の色があると言われています。花との関わりとしては他にも法事でなくてもありまして、花が散ることで同時に疫えきも分散し、流行病を引き起こすと恐れられていたという話も残っています。現に今の祭でも……旧暦の三月に当たる時期、「はなしずめの祭」と呼ぶのですが、それを鎮めるために花を慰撫する祭りが今も残っていたりします。あ、花の祭りと言えば京都三大祭りの葵祭もそうですね」


 …本当に知りたければ本でも読んだ方が早い。よっぽど丁寧懇切に書いてあるし。
 …ここに来ている人もそうしているだろうしね。


 そんな事を言っていた人間とは思えないほど、丁寧に語っている。
 そして集まっている面子も、鹿爪らしい顔をしていて、一見、真剣そうだ。
 一応、私も他人の目があるのでそれらしい顔を作っている。


「そして華道が今の形になっていったのは、中世になってからです。道楽としての側面が出てきてからで、華道は他の娯楽……茶道や能楽とかですが、それらの娯楽と一緒になって平安貴族に始まり、佐々木道誉や足利義満、義政なんかは歴史の教科書で一度は聞いたことがあるでしょうが、彼ら一部の「風流を愛した」武将達の元、文化として形成されていきます。義満なんかは「花の御所」がありますから、ちょっと囓っただけでもピンときてしまうのですけれども。そしてその義満等支配者階級の庇護の元、それぞれの文化となり、室町、戦国、江戸と時代が進むに連れ、その文化を造り上げていくその道の人間達が「同朋衆」と呼ばれて、今のそれぞれの道の基礎を彼らが築き上げていったのですね。「花会」、「茶会」、「和歌連歌会」、「香会」、「能楽会」……彼らその庇護者らがそういった催し物を開くことで、その道が磨かれ、それに優れた人が更に名を成し、その人達の元に多くのその道を目指す者が集まる……それがそれぞれの流派の祖先となって名前が残っています。当高村家もその末端だったりするのですが……」
 元を辿れば他流の亜流に近いのだそうだ。
 更にまるで一子相伝に近い状態で、門弟の多い流派という訳でもなければ、他の道の諸派と深い繋がりがある訳でもない。
 それが曲がりなりにも戦後の今まで存続してこられたのは、政財界に隠然たる影響を持つ人物と繋がりを持てたことが無関係ではないのだろう。
 今、こうしてこの場所で会を開いているのが高村流であることが何よりの証拠と言える。
 そしてきっとそれは来栖川家も無関係ではないのだろう。
 私自身にも関係無く、彼自身にも関係無い筈の部分ではあったが。


「花の道を説く花伝書も多く出回りましたし、伝わっています。『仙伝抄』は室町の前期ですが、戦国時代が意外に多く、有名なものだけでも『道閑花伝書』、『宗道花伝書』、『専応花伝書』、『唯心軒花伝書』、『賢珠花伝書』まさに花の戦国といった塩梅ですね。まぁ、それからの安定期に逆に世の中が落ち着いてしまったせいか、権力闘争やら、何やらとあり、今の家元制に落ち着いていく訳ですが……」


 …ま、どうでもいいことだけどね。


 彼は先人たちの努力を無にするようなことを、事も無げに言っていた。
 正直なところ、同感だったのだが。


 簡単な歴史の講義はお題目だ。
 その後の雑談の方が、実質的にはここに来た人間には主目的に近い。
 互いに関係がある者同士、固まって顔見せ程度の挨拶を交す。
 あまり広くない和室から緊張感が解き放たれる。


「――君は長男だったかな?」
「いえ、私は次男です。ですが、長男は昔から家を出て全ての面で自立してかなり経ちます。違う道を早くから歩んでおりますので……」
「ほぉ……じゃあ、どっちにしろ、君が跡を継ぐことになるのかな?」
「いえ、後継者には弟が指名されております。世襲制という訳ではないのですが、家元は個人的な弟子はとらない人でしたので……習いを受けたのは私達兄弟だけなもので、自然、そうなりました」
 席を設けた主の代理――主宰の代行としての立場を遵守している。
 同時に、華人としての役目も弁えている。
 こうして相手が遊び半分、興味半分な態度で接してきたとしても如才無い振る舞いが出来なければ、道を護って生き残ることは出来ない。


「例えばそこの向日葵の小品花は私の作品です。家元が誉めて下さった私の数少ないもののひとつなんですが、見て判るとおり奇妙な形をした置物ですが、これを入手した際に、丸い形に向日葵のイメージが浮かび、生けてみたら面白そうだと思い、挿したのですが……ことのほか、おかしさを持たせることが出来ました」
 彼が指差す先には、板間の隅の平机の上にある、紺色のセロハンテープの台のような滑稽な形をした花入れに、向日葵の花の部分だけが外に出ている形で生けてある。


「そして、この部屋に飾ってある白木蓮の自由花は弟の作品です。見事な物です。伝統的な形式に囚われず、自由に構成するのを自由花と呼ぶ訳ですが、この出来上がりはまるでそうあるのが当然のような、決まっていたかのような印象を私達に与えてくれます。美しさと気品が溢れています。思わず見とれている方もいらっしゃるようですが、これが高村家の「生け花」でもあります。花を活かし、華を創る。これが家の華道です。ですから、弟こそ時期後継者に相応しいのです」
 こないだ聞き質したところ、弟一人、妹一人の計四人兄妹なのだそうだ。
 ただ、弟が後を継ぐとは今、聞いたが。


「じゃあ、どうして今日の席に……」
「今日の席は、家元に代わり華の道の歴史と作品の紹介をお客様方にするという席です。花を生ける会ではありませんでしたので、私が選ばれました。ご不満でしたでしょうか?」
「あ、いや……」
「もし、そうならば本当に申し訳なく……」
「あ、いやいや……」


 こんな彼は正直、あまり見ていたくない。
 だが、遜った感はない。
 それだけが、救いだった。



「ふわぁ……疲れました……」
「お疲れ様」
「そちらこそ、最後まで退屈だったでしょう……」
「お生憎。頻りに声ばかりかけられて大変だったわよ。見てなかったの?」
 別室で簡単な昼食会に雪崩れ込んだりした後、ようやくお開きとなり、一番最後に出てきたこいつを捕まえる。
 腰を痛めて出てこられなくなったと言う親の代わりにこいつが出ることになった、華会――実のところはそうではないのだろうが――に私が参加したのは、興味本位だった。親には大層驚かれたが。
 元々、気づかなければ決してこんな場所に行きたい筈がない。
 どんな顔をして場を仕切るのかと思ったが、想像以上に呆気なくまとめさせた。
 お陰で、実に退屈な時間と不愉快な体験をする羽目になったが。



「本当のことを言いますと、どっちも落第だったんですよ」
 迎えのタクシーと車をそれぞれ断って一緒に電車に揺られながら、弟が後を継ぐことについて聞いてみた。


 恐らく私の家は姉が継ぐ。
 まず普通はそうだろう。
 だから改めて聞いてみた。


「我が、高村家の華の道は「花としての芸術、人としての文化」の両立をモットーにしていますので……」
「そう言えば、そんなこと言っていたわね」
「あ、聞いてました?」
「誰も寝てなかったからねー」
 私がそう言うのを聞き、可笑しそうに口元に指を当てる仕種を見ると、妙にほっとした。
「私は華は楽しめればいい……娯楽の一種だと思います。弟は華の芸術に魅せられて、己もその域に達することを願い、日々精進しています。さっきも言ったのですけれども……そうですね。違う物にしましょうか」
 そう言うと、着物の入っているバッグを開き、中から小さなアルバムを取り出す。


「この写真にある作品は弟が小学生頃に生けた作品です。綺麗でしょう?」
「写真写りが?」
「そーゆーことを言いますか?」
 苦笑する。
「わかってるわよ……」
「普通に咲いている花と違う「美」があります。で、人は感心するだけの存在です」
 そう説明する顔はさっきとちょっと近い。
 でも、矢張りかなり纏っている空気が違う。
 単に自分の縄張りの分野の話をしているだけだ。
 趣味と言うのも、あながち嘘ではないのだろう。


「平たく言えば、貴方は人を意識して、弟さんは意識してないと……」
「うーん……華が主か、人が主か……そういうところでしょうか?」
 首を傾げているところを見ると、自分でも上手くまとまっていないらしい。
「で、それでどーして、貴方が継がない訳?」
「その気がある人と、あるかどうか判らない人が二人いたら、ある人を選ぶでしょう、普通」
 悪戯っぽく笑う。
 まさか皮肉ではないだろうかと疑いたくなる。
 別に、私は継ぎたくないとか思っている訳ではない。
 ただ、柄ではないとは思っている。


「……あっそう」
「と、言いたいところですが、実際の所は弟の方がまだ近かったからでしょう。家の華の道に」
「……ふぅーん」
「私はその点、全然駄目でしたから……ですんで、今日みたいな事でもなければお呼びは掛かりません」
「口だけは上手いからね……」
「はは……そう言われてしまえば身も蓋もないですけど、その通りです」


 実際、そうなのだろう。


「ところで……さぁ」
「はい」
「その口調、何とかならない?」
「あ……」
「だぁぁぁいぶ、前から言ってたわよね」
「あは………ははは……参りましたね……」
「で、出来なかったら……どうするって言っておいたっけ?」
「えーと……何でしたっけ?」
「…………」
「そ、それでは、私、午後はセミナーのアルバイトがありますので……」
「あ、待てっ!!」
 丁度タイミング良く、降りる駅に電車が止まろうとしていた。


 日曜日を犠牲にする覚悟で付いてきてしまった。
 場所は都内のビルの中ほどの階。
 さっきのお偉いさんの子弟相手とは違って、普通の主婦層が中心だ。


「……では、最初に用意した花をそれぞれ枝や茎同士、交差させて生けてみて下さい。花が咲いているものはやや短めに切って、つぼみ同士は間隔を開けて長めに入れて見て下さい。あ……別に全体的に偏りがない程度で構いませんよ。全方面から対象にすることは心がけなくて良いです。一方面、自分が見る方面だけ、見て楽しめる、それでいいのですから……」
 ニコニコと笑顔を作っているのは主婦受けする為だろうか。
 ただ、その言葉はさっきまでの張りのあるものではなく、弛緩した落ち着いた雰囲気がある。


 …生け花は自然の草木を材料にして、花を器の上に小さな芸術的造形物を創る……これが基本的概念です。

 …自然から切り離し、生命あるものでなくなった切り花に生命を吹き込み、自然と似た姿に美しく整え、花器の上で小造形物を創る、これが「生け花」――器の中で植物としての生命を保ちつつ、芸術的美しさを発揮する切り花をそう呼ぶということになります。


 さっきはそんなことを言っていたくせに、


「あくまでここでは花を生けて楽しむ、娯楽としての生け花の方法をお教えします。別に流派がどうだとかは考えないで下さい。花を自分の思うとおりに生ける楽しみ、自分で生けた花を飾って部屋を彩る楽しみ、そういう楽しさを知って貰いたい、そう思っています」
 そんなことを言っている。
 全く別の顔をしている。
 いけしゃあしゃあと。


 ガラス戸の向こうで、そんな光景を見ながら、私は可笑しくしょうがなかった。
 これが本音に近ければ、確かに跡は継げないだろう。
 まず普通。








「何それ、盆栽?」
「違うって……」
「……何か、ジオラマでも作っているみたいね」
「うう……」
 ちょっと傷ついたようだった。
「で、何?」
「これは「水溜まり」という手法だよ。梅や猫柳、萩なんかの枝先の一部をほら、こうして花に水がつかないように水に潜らせる生け方のことなんだけどね」
 そう言って、土を敷き詰めた重そうな古銅水盤――要は銅製の平鉢のようなものの中央部分を横断するように作られた水たまり部分に、土に生けてある梅の木の垂れ下がった枝の中央部分を水の中に浸している。
「ふぅん……何か面白そうね。今度から少しは取り組んでみようかしら?」
「んー、どうせ花で生活立てる訳じゃないんだし……折角習うなら、色々と楽しもうとしなくちゃ損だと思うけどね……」
「何でもやってみれば楽しいかもしれないって訳?」
 ニヤリと口元を曲げて笑って見せると、
「楽しめれば、それに越したことはないってこと」
 相変わらずの糸目で穏やかに返してきた。
 その言葉が、こいつの基本路線だと知った。
 そしてそう思えるこいつと知り合えて、良かったとちょっと思った。
「じゃあちょっと遊んでみる?」
「え?」
「えっと生けの構想の練習用に、行き付けの花屋から屑花を少しまとめて貰ってきたんだけど……」
「ろうず?」
「あ、ええと……売り物にならない花のこと。ナツハゼとかナナカマドとか……」
「わからないわよ」
「この二つは果実酒としても少し知られていたり……」
「………」
「えっと……そろそろ昼食にでもする?」
「あ、何か今凄く馬鹿にしてない?」
「………」
「………」
「えーと……」
 困った顔になっている彼に対して、笑いを堪えるのが難しかった。


 今のように、いつまでも彼を私の好きに振り回せる日はいつか終わるだろう。
 私の中の時間は動き続けているし、彼の生活も変わっていく。
 きっと私の相談相手としての、遊び相手としての彼はいつかなくなってしまう。
 それまで少しでも彼のことを知っていれば、きっともう少し長い付き合いになることが出来ると思う。
 私の一方的な趣味や行動からのつきあいから出来ている関係でなくなれば、もう少し一緒にいられることができるだろう。
 大事な知り合いとしての彼を一生放したくない。
 今では彼は多くの友人知人の中でも指折りの掛替えの無い存在の一人になっている。
 だから、もう少し彼を知りたい。
 いつまでも気軽に会って気軽に喋れて互いに楽しめる関係になるように。


 ただ、今はあまり深入りするつもりはない。
 知っておくだけで十分だった。


「でさぁ、こないだの罰ゲームの件だけど……」
「あ、あぅ……」


 目一杯意地悪げな笑みを浮かべて見せながら、
 じゃれあって見せながら、



 私はこんな関係がもう少し続くことを望んでいた。




                             <完>




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