初出:1999年02月08日(月) 改稿:2001年03月05日(月)

 
『あなたとわたし』
 




 全ての始まりは、高校一年生の秋のことだった。


 土曜日の三時過ぎ。
 乾燥した空気が、僅かに露出した肌をかさつかせ、唇を荒れさせる。


 別に、こんな寒い外にずっといる必要はないような気がする。


 ――人を待っている。


 大義名分としては申し分ないこの行為も、確証どころか、裏付けすらもとれていない酷く不確かなものである以上、数時間も遅れていては拘り続ける必要性はないように感じる。


 ここに座り続ける、固執し続ける理由。
 わからない訳ではない。
 誤魔化す気もない。
 けじめ。
 踏ん切り。
 そして、あやふやなまま残された感情の収拾。

 我慢大会にも似た、その行為をするだけの心があれば、それ以前に気を払えた筈である。
「行かない」と言われた待ち合わせに、馬鹿みたいに待ち続けるよりも先に、そこまでに至るまでの過程に、精神を費やさなければいけなかったのではないか。
 ひどく馬鹿馬鹿しく、そしてちっぽけな行為。
 信じているとか、想い続けるとか、そんな感傷的で、希望を込めたものでは、最初からない。
 ただただ、無意味だろうと、無価値だろうと理解しながら、そうしないといけない気持ちになって、ここにいる。


 …来て、くれるわよね。
 …じゃ、場所わからないから、駅前で待ち合わせな。


 そんな他愛もない、簡単な約束を交わしたのが、以前の事だとしたら、


 …もう、いいよ……。
 …そんなの……そんなのって……狡いわよ……。


 全てが破綻し、砕け散った出来事が、つい最近の事だと言える。


 容易く、覆せるようなものではないと知っている。
 もう、何も起きないことを感じてまでいる。
 でも、今日、この場所に行くことを選んだ自分には、取りやめようと思うまでの理由にはならなかった。
 元々、それ程どうってことはない……ないはずだった。


 ただの意地だったのかも知れない。


 今、私が待ち合わせている相手と知り合ったのは、そんなに昔ではない。
 数ヶ月前、生れて初めての「お見合い」で知り合ったという、それほどドラマチックでないきっかけだ。
 高校生同士のお見合いなど、ままごとの様に感じるが、これがきっかけになり、後に発展すれば、許婚、婚約者、結納相手と関係が深まっていくわけだから馬鹿には出来ない。
 勿論、そんな話が出来るのは、私も、その相手もそこそこの家柄だということだ。
 ただ、それと同時に「お見合い」というイベントは、家同士の関係を取り持ったり、将来的に重要なお見合いで失敗しないように慣れさせるという側面も持つのだそうだ。
 少なくても私は、そう親に言いくるめられた。
 男の兄弟はいないが、一人、一歳上の姉がいる次女なので、そんなに結婚ということに関しては自由でいられる立場の筈なのだが、全く何もしないでいいというわけではない。本当の結婚は兎も角として、付き合いの深い家の子弟と交際をすることは、ある程度、義務づけられている。このお見合いも、その一環だろう。


 そのお見合いで、私は実家が大手建設会社の一人息子という少し年上の彼と出会い、ウマが合った。
 向こうもこっちも元々、乗り気でもないのに――高校生で乗り気があるのも困ると思うが――親に強要されて出てきた見合いであったが、互いの趣味――格闘技で、私がやる方、彼が見る方の違いはあったが――が一致したこともあり、話も弾み、なんとなくその日意外にも一緒に何処かに遊びに行く事が増えていた。
 恋愛関連は私にとっては幼少の頃、苦い初恋体験があるので、よくクラスメイトや友人達が嬉々として自分の彼氏彼女のことを話しているのが、気にしないように思っても、羨ましい気分が合ったりしたので、二人で遊んでいる行動を友人に見られて話題になり「彼氏?」と聞かれたりすれば嫌な気分になるはずはなかった。
 互いには特に意識した訳ではなかったけれども、互いの親としてはそれは願ったりだろうし、そう周囲から見られても否定する気持ちもなかった。


 それなりに、上手く行っていたのだ私たち二人は。


 周囲からそう見られることが気持ち良かった私は、錯覚した。
 元々、自信過剰になったり、傲慢になったりすることがないではなかった。失敗や挫折の経験が皆無に等しかったせいもあるのかも知れない。
 その数少ない挫折の経験が初恋だっただけに、それを克服したような、制覇したような気になってしまった。


 何もしていないのに。


 元々、単なる知り合いから、もう少しだけ、深い仲になった……そんな気がしていた筈の間柄、だった。
 それを忘れてしまった。
 ちょっと浮かれて。自惚れていた。


 何もしていないくせに。


 我侭だったり、調子に乗ったっていいとどこか思っていた。
 そういうものだとも少し、思っていた。
 私が見聞きしていた恋人関係とは、そういうものだったから。


 そう、ただ浮かれていただけだ。


 何もしていない。
 恋なんて全然していない。
 そして、その自分の気持ち自体が錯覚だったのだと、気付きたくないし、認めたくない。
 だから……
 だから、今、こうして自分は待ち続けている……。


 …これが、「未練」ってヤツなのかしらね……。


 舌でかさつき始めた唇を舐めてそう、自嘲する。


 待っているというより、ずっと罰を受けているのかも知れない。
 だとしても、それがどうだというのだろう。
 そうだとして、何の意味があるのだろう。
 何も、わからない。
 何もしていなかったせいで。


 だから、待つ。
 ただ、待つ。
 待たなくてはいけない。


「…………」
 今日は、自分の通っている高校の文化祭当日。
 今頃、校内はそれなりの賑わいを見せている筈だ。
 そして同時に、自分の不在にそれなりの反応を見せているだろう級友達の顔が思い浮かぶ。


「…………」
 大きな時計台に気付いていないわけではないが、敢えて自分の腕時計を見て時間を確認する。
 その所為は、幾度となく繰り返していた。


 水の噴き出す音が、都会の駅前広場に相応しい喧騒をかき消してくれている。
 無心にさせてくれる。
 人通りも少なくない駅前だけに、この噴水広場を行き交う人間も多い。
 だが、立ち止まって行く人はそう多くはない。
 自分と同じ様に、多少の待ち合わせをこの場所でしていく人間もいる。


 男が、
 女が、
 相手を待って、現れた相手と共にこの場を立ち去っていく。
 昼下がりがピークで、今は私の他にはいない。
 ただ、少し離れた場所に3時頃からずっと座っている人間がいる。
 それ以降は、私と同じ様にこの場所に留まっている。
 それほど、興味はなかったので、特に観察していない。
 営業のサラリーマンでだけはなさそうだが。
 それだけで、更々興味はない。


 先ほどから一分も経っていない。
 そのくせに、わざわざ腕時計の時間を確認する。
 秒針の進みが、不正確だと疑って暫く、見守り続ける。
 無駄なく、幅無く、変わらなく、動き続ける針の動きに、安堵と失望を覚える。
 数時間も噴水の縁に座り続け、石の冷たさが服を通して重く、緩く、深く、感じている。その底にある強い痺れと共に。
 初めの二時間ほどは、駅前のビルのトイレには数度立ち寄ったが、今では寒さ冷たさからの尿意はない。
 考えてみれば、朝以降、何も入れていない。
 けど、空腹感は感じなかった。


 こうして痺れを紛らわすように、少しだけ右に、そして左にと両腕で腰を上げるようにして、身体を微かに動かし続ける。
 別に、この駅前の空気に、世界に溶け込む必要はない。


 いつでも、自分の、自分だけしかいない世界へと思考を閉じこめる。
 今までの思い出、出来事、それとともに残っている感情を、今、ここにいる、この場に縛られ、取り残された自分が検証し、その上で羨望したり、嘲笑したり、純粋に浸ったり、あやふやな部分を思い出そうとしてみたりと、心の中だけは、目まぐるしく働いている。
 こうして、座っているだけの自分が。


 …最初から来ないって知っていたくせに。


 改めて、そう実感すると悲しくなる。
 どう表現したらいいのだろう。
 この悲しみは。


 わからない。


 行き交う人の波が、大海原をイメージさせる。


 私の他に誰もいない。
 誰も、いない。


 漂流船。
 難破船。
 波飛沫が強く跳ね上がり、目尻を焦がす。
 海水の塩分が、目に痛みを与え、閉じた瞼に力が加わる。
 見えなくて、更にはっきりする。
 絶え間なく聞こえる水音が、孤独を演出する。
 うち捨てられた、見放された、そんな孤立した気分になる。
 人は、いない。
 ここに、人は、いない。
 私だけ。
 私、一人だけ。
 助けを求めるでもなく、慌てふためく訳でもなく、
 ただ、流れを前に、座り続ける。


 いつまでも、そのつもりで。



「…………」
 その難破船を呼び掛ける声が聞こえた気がした。


 閉じていた目を開く。
 どれほどの時間、瞼を閉じていたのだと言うのだろう。
 潮のせいで張り付いていたような抵抗が、鈍痛と共にあった。

 そして視界が開ける。
 闇が開け、赤く煤けたような陽の光の色彩だけが視覚する。
 そして、カメラの標準を合わせるように、視界を調整する。
 人が、いる。



「えっ……」
 男が、自分の前に立っているのに気付く。
 いきなり現れたような錯覚を覚えるが、間違いなくさっきまで少し離れた場所で自分と同じように座り続けていた男だ。
 顔なんて見てもいなかったが、服装は自然に憶えていた。


 その背後を相変わらず、通行人が横切っていく。
 変わらない、人の流れ。
 人の流れるこの駅前で、この噴水広場という場所に縛られ続けたままだった二人と考えれば、面白い比喩だろうか。



「メシでも、食いに来ません?」
 いきなり、そう言った。
 もしかしたら、その前に、何か言ったのかも知れない。
 自分が聞いていなかっただけで。


 現実に、生活に、呼び戻される。
 水音にかき消されながらも、喧騒の名残が耳に届いてくる。


 駅前の、噴水広場。
 大海原に浮かぶ漂流船ではない。


 認識する。
 改めて。


 男を見る。
 ナンパにしては、冴えない呼び掛けだ。
 だけど、


「……デートのお誘いと考えて、いいかしら?」
 私は微かに残った目尻の滲みを指の腹で払いながら、そう聞き返す。
「……食材の買い出しからだから……デートと言えなくもないかな」
 そう言いながら、中指で軽く頬を掻いている。
 惚けた答えだ。
 でも、今の自分にはその程度の鷹揚さが丁度良いように感じた。
「だとしたら……何を御馳走してくれるのかしら?」
「この季節だし……鍋なんか、いーんじゃないかな?」
 そう言って、目を細めて笑って見せた。
 目が一本の線のように細まる。
「ん――……」
「…………」
 顎に指をあてて考える素振りをしながら、相手の反応を窺う。
 平然自若としていて、こっちの答えをただ、待っているようだった。


 頭の中でシミュレートしてみる。
 こっちがホイホイとついていったところを……。
 刃物を突きつける。
 スタンガンを押しつける。
 クロロホルムを嗅がせてくる。
 仲間を連れて一斉に。


 そのどれもが起きても切り抜けられそうな気がした。
 この際、そうなってボコる方が、気分が少しは晴れるかも知れない。
 暴れたい気分も十分にあった。


 チラリと上目遣いで相手を見る。
 そんなに悪い男には見えないが、大体、「悪い人には見えなかったから」と言われるケースが大半だ。アテにはならない。


「いいわ。行く」
 自暴自棄にならない程度のいい加減な自制心を僅かに持って、軽く返事をする。
「んじゃ……裏口の商店街の方に行こう。だいたい、そこで揃うから」
 こっちの長考をどう解釈したのかわからないが、相変わらず飄々としている。
 そして私に立つ事を促すように、顎を上げる。


「……っと」
 立とうとした瞬間、腰の痺れに自分の身体の感覚をそこだけ鈍くなった感覚と共に、バランスを崩し掛ける。
「おっと……」
 その時に身を乗り出して、後ろに倒れ掛けた私の手首を掴むようにして支える。


 そんな相手の男を見ていると、どこか違和感を感じさせない、昔からそうだったと思わせる、奇妙な感覚が膨れ上がる。


 まるで、前から私のことを知っていたように。
 まるで、私の待ち合わせの相手だったように。


「ん……?」
 こっちの視線に、何の躊躇いもなく応じて見つめ返す瞳。
 さっき、初めて会話を交わしたくせに。
 自然体すら、演じていない。
 そんな素振りを感じさせない。
 これが、長時間待ち続けた末の憔悴からの錯覚だとして片付けても、別におかしくはない。
 ただ、無性に人任せに……怠惰に、委ねたい気分なのかも知れなかった。


 万が一、何かあっても切り抜けられる自信がそれを許したのだとしても。


 …やっぱり、捨て鉢になってるのかしらね……?


 自分に、自信が持てなくなった。
 が、同時に何処かホッとしていた。


 ……この場所から自然に離れられたことを。



 そして確かに言う通り、駅のすぐ裏手に商店街は存在した。
 普段の買い物もそこでしているのか、立ち寄る店は決まっているらしく、すいすいと夕方前の人が多くて混みかけている商店街を練り歩いていく。
 私は、ただそれについていくだけだ。
 時折、話し掛けられたが、


「豆腐、白菜、長葱、シラタキに榎茸っと……あ、鶏は大丈夫な方?」
「え……あ、うん。皮の部分が……ちょっと……」
「ふぅん。あそこが一番旨いのに……じゃあ、豚にしておこうか」
「え、ええ」
「じゃあ、豚と……鱈辺りが妥当かな」


 そんなことぐらいだった。
 だから私はただ、長葱の突き出した白いビニール袋を持って八百屋を出て、すぐ近くの精肉店へと歩く慣れた素振りで買い物を済ませていく男の背中だけを追いかけるぐらいしかしなかった。
 その買い物も簡単に済ませると、更に混みだしてきた商店街を脱出するように、路地に出る。そしてそのまま、歩いていく。


 長閑だ。
 長閑すぎる。


 鍋の具のこと以外で、特に会話をしていないわけではない。
 ただ、何も深く訊ねられもしなかったが。
 かなり長い時間、自分が漂っていただけの時間を知っている筈なのに。
 それとも、向こうも向こうで、その時間、漂っていたのかも知れないが。


 そう思いながら、私は淡々と男の背中をついていく。
 糸の切れた凧のように当ても無く漂う私の心と身体。
 今は、電線か何かに引っ掛かったような引っ掛かりを心に感じていた。
 前の男は黙々と、急ぐでもなくのんびりと歩いていく。
 もし、途中で私がいなくなっても気にしないのではないだろうか。
 一人出歩いている時と相違無い、そんな足取りだった。
「ちょっと……」
「あ、早かった?」
「違うけど……もう少し、合わせてくれても……」
「……あ、はいはい。そうですね」
 文句を言うべきなのか、言うのだったらどう言ったら言いのか分かりかねた私だったが、向こうも、何か思ったらしい。
 急に納得したような温和な顔になる。
 何故か言葉遣いも、丁寧になる。
 これはどうも、無意識のようだったが。


「ここが……そう?」
「ええ……いえ、うん」
 結局、並んで歩いたまま辿り着いた。
 そしてそのまま、私は目の前の建物を見上げる。
 それ程大きくもないし、綺麗でもない。
 けれど結構、しっかりした造りで「ボロアパート」と言う感じではない。
「……近くに、住んでるんだ」
「まぁ、それが一番の長所みたいなものだからね……」
「確かに」
 クスリと笑う。
 駅と言う主語を敢えて省いたのは、思い返したくなかったからだ。
 向こうはどうなのかは知らないが、私が隠した主語については明確に認識していたらしく答えてくる。
「4階建てだけど、エレベータさえあれば、平気でマンションとでも呼んでいただろうけど……」
 部屋は4階建ての4階らしい。
 延々と4階まで階段を上っていく。
 別に疲れる程の階段ではないのだが、やはり何か疲れるような気がする。
 その私の気持ちを察したのだろうか、上り終えるとすぐに振り向いて、買い物の入ったビニール袋を持った手を、人差し指を唇に押しあてるようにして私に向けて苦笑してみせた。

 さっきとは違う笑み。

 でも、その本質は変わらないような気がした。
 不愉快な気分には、ならない。
「じゃあ、どうぞ」
「お邪魔するわ」
 鍵を開け、わざとらしく恭しく開けたドアの横で控えられれば、それに乗るしかない。私ももったいぶったような口振りをして、開け放たれたドアから室内へと入っていった。
 別に、どうともしないただの部屋だったが。

 …もしかして、気を使ってくれたのかしら。

 その一連の動作で気が楽になった訳ではないが、座って部屋を見回しながらそう不意に思った。
 台所では、早速鍋の準備をしている。
 TVでも見ていてと言われたが、何だかその気にならない。
 男の一人暮らしの部屋に入るのも見るのも初めてなのだ。
 気にならない訳が無い。


 が、まさか漁るわけにもいくまい。
 それくらいの分別と、遠慮はあった。
 何せ、この部屋の主はまだ全然知らない人なのだ。
 そう考えると、自分の行動がいかに軽率で考え知らずな真似だとも思ったが、今更動く気にはなれなかった。
 やはり、私は疲れていた。

 することもなく、部屋を漁る真似も出来ないとすれば、することは考えることぐらいだ。掃除され、整頓されている部屋は、つまらない。


 …そう言えば、何か、変なところあったわよね。


 変といえば、見ず知らずの自分をこうして食事に誘うという事自体が、十分に変なのだが。
「お待たせ……」
「あっ……」
 鍋が来て、考えるのを止めにする。
 一応、何かしら手伝おうとしたが、それ程の手間じゃないからと丁寧に断られ、炬燵に入って出来るのをただ待っていたに等しいだけに、ホッとする。
 考えるのは、後でも出来る。
 そうではないだろうが、今はそう思う事にする。

 …まぁ、鍋では睡眠薬とかって真似はないだろうし……。

 多分、その可能性は捨てていいのだろうと思うが、一応油断していないとばかりに自分に言い訳するような口調で言い聞かせる。
「鍋は仕切る方?」
「特には……」
「良かった。食べることであれこれ言われるのって、どーも苦手で……」
 そう言って、微笑む。
 また、目が消えるように細まる。
 だしの昆布もそのままで、次々と具が入れて、一度蓋をする。
 そして少しだけ待ってから蓋を開けると、鍋は大きな音と共にあぶくを噴き出させていた。
「よそおうか? 何か好きな具、ある?」
「え、でも……」
「ここで遠慮しても始まらないよ」
「ま、そ、そうだけど……」
 どうもいつもの調子が出ない。
 まぁ、今日のような日ではまず、無理な話なのかもしれないが、理由はそれだけではない気がする。


「どう?」
「美味しい」
「そう? 良かった」
「…………」
「?」
 その暖かい鍋は、私が如何に今まで身体の奥底まで寒さが染み込んでいたことを、根元まで冷え切っていたかを実感させるには十分だった。
 そしてこれも鍋のせいだろうか。
 強ばっていた私の口調も、だいぶほぐれていったように感じた。
 内容は他愛のない、大してつまらない雑談だったが、普通に話すことができた。
 笑い合うことができた。
 それなりに、友人関係に等しいぐらいの会話をすることに違和感を憶えなくなっていた。
 それは元々、私の性格が図太かったせいかも知れないけれど。


「ふぅ……御馳走様。美味しかったわ」
「それはどうも……お粗末様」
 そう言ってニッコリと微笑まれる。
 また、微妙に違う笑顔で。


 気がつくと、自分があれこれと喋り、食べ続けていたことに気付く。
 額から、汗が噴いていた。
 身体から暖まった証拠だった。
「あのさ……」
「ん?」
「御免なさい。なんでもないわ」
「?」
 ひと心地ついたせいか、急に今日の今までの自分を取り戻す。
 泣き出すほど弱くはなかったが、笑い飛ばすほども強くはなかった。


 …あーやだやだ。


 いつの間に、自分はこんな色々と考えてしまう人間になったのだろうか。
 これを人間的に成長したかと捉えるか、単に悩み易い人間になってしまっただけなのか、判断のつきかねるところだ。


「……ねぇ」
「ん?」
 暫く経って、台所の流しで二人分の食器を洗っている男に、訊ねる。
 座ったまま、薦められる前に勝手に見つけて開けたビールを片手に。
 今までも多少は悪友に薦められるまま口を付けていたし、アルコールに対して自分が酔うという実感は今までになかったので、気分を高揚させるぐらいの軽い気持ちだったのだが、言い訳に過ぎないような気がする。
 酔ったつもりになって、本来の自分を取り戻そうとした行為だった。


「…………」
「?」
 身体はそのままで顔だけを台所に向けている姿勢で、洗っている彼の後ろ姿を見つめる。お互いに顔は見えない。
 それを見て今更だが、完全に男女の役割が逆だと気付く。
 無論、だからどうということはないのだが、どことなく落ち着かない。


「何、してる人なの」
「何って……普通の大学生だけど……」
「普通……ねぇ」
 普通と言うには抵抗のある感性を持っていると思えたが、それが言葉を否定する理由にはならないと思い、沈黙する。
 仕方がないので、その間を誤魔化すように、コップの中の液体をグイと傾けて一気に飲み干す。勝手にあったのを開けてしまった。
 それが目的だったように。


「後で面倒だから……あんまり、飲み過ぎないようにね」
「あなたは……お酒……飲まないの?」
「この後、車、使うから……」
「え……」
「送らないと、帰れないだろう?」
「そ……」
 そんなことはないと言おうとしたが、止める。
 気怠さの残り、どこか重く感じる身体が、それを認めていた。
 満腹感もさりながら、一人で帰るには心が重すぎると感じた。


 …あ……もしかしたら、最後のチャンス……かしら?


 酔いつぶれた相手を介抱すると見せかけて……。


 自分で勝手に飲みはじめたくせに、そんな事を思ってみる。
 そして同時にそれに気付くと、自分がまるで誘っているような気分に同時になる。
 落ち着いた気持ちが、また、揺れる。
 するとそれを見計らったように蛇口から流れる音が止まり、布巾で両手を吹きながら台所から顔を出す。


「お茶、飲む?」
 急須から緑茶が、茶碗に注がれる。
 慣れた手つきらしく、無駄がない。
 ほのぼの、長閑なムードが部屋に、自分の中に戻ってくる。


 …なんだかねぇ……。


 苦笑するのを誤魔化すように首を横に向けて、部屋にあった時計を見る。
「あ……もぅ、こんな時間……」
 今頃、思い出すが、文化祭に参加していれば打ち上げでもしている時間だ。
 夕飯は遠慮するような事は言ってあった筈だから、こうして御馳走になるのも結果的には助かったのかも知れない。
 今頃、思ったのもなんだが。


 …これが姉さんなら、こんなことは許されないわよねぇ……。


 次女に生れてきた幸運を改めて実感する。
 自分の姉は男の兄弟が生れてこないばっかりに、家の次期後継者に目されている。
 だからこそ、自由がない。
 いつも見張りに執事が付き、行動も制限されている。
 こんな自堕落な真似はまず出来ない。


 …ま、性格もあるけどね……。


 自分も全く放置されている訳でない。
 だが、やはりそれほど厳しくされていないのは、今も家の実権を握る祖父と上手く
いっていないせいもある。
 従順な姉を溺愛した結果、外国で奔放に育った自分を疎ましく思っているようで、自分もあれこれと行動に注文を付けてくる祖父を鬱陶しく思っているので、互いに距離を置いていた。
 同時に両親がそれほど、厳しい人間でないのが幸いした。
 それでも、時たま姉の執事が付いて来ることもあるが、適当に撒いたりしてあしらっていた。


「ふぅ……」
 改めて、視線を戻すと、丁度向かい合うように座ってお茶を飲んでいた。
 彼は両手を茶碗に添えて持ち上げ、一口飲み干して、息を吐く。
 年寄り臭いと思ったが、口には出さない。
「ん――……塩昆布でも出そうかな……」
「年寄り臭いわね……」
 やっぱり、口に出す。
 言わずには、いられない。
 空気が軽くなる。
「そう?」
「そーよ」
「あらら……」
 僅かに、困ったように眉を顰めて残りを飲み干し、そのまま横になる。
 つまり、私の視界から消えた格好になる。
「ふぅ……」
 寝転がったせいか、息だけが漏れる。
「くつろいでるわねぇ……」
 テーブルの下を覗き込む気も無く、ただテーブルに肘を突いて苦笑する。
「そりゃ、自分の家でくつろげないのも、寂しい限りでしょう」
 私の苦笑に、寝たまま答えてくる。
「ま、そーだけどさぁ……」
「ふぁあ……」
 この位置からは顔が見えないが、欠伸をしたらしい。
「ちょっと……このまま、寝ないでよ」
「自信……ないな……ぁ……」


 ………あのねぇ。


 声が完全に眠そう声になっている。
 折角、現役女子高生を家に招き入れて置いて、その態度はないような気がする。
 改めて考えてみれば、食事をして、食べながら少しだけ他愛もない雑談をして、それだけだ。
 結局、幾たびもこちらが見せた隙にひとつも気付かなかった。
 と、言うよりも向こうがその気が全くなければどうしようもない。
 正当防衛の名の下で振るおうとした拳も、耳当たりの言い優しい言葉で近寄ってきたら言ってやろうと思った辛辣な言葉も、理不尽でも何でも八つ当たりしてやろうと思っていたこと、何一つ出来ないで終わりそうだ。
 無論、そうなるような気も、どこか、初めからしていた。
 初めて見た瞬間から。
 だからこそ、そんな事を思いつつも結局、最後まで流されたままでいた。
 そして、このままではやり場のないこの感情を持て余すとばかり思っていたが、結構、いい気分だった。
 気持ちのガス抜きをされた感じだ。
「…………」
「…………」
 こっちはぼぉっと座ったまま、向こうは横になったまま、
 互いに干渉するわけでもないのに、同じ場所にいる。
 悪い気分ではなかった。
 互いの構図だけは公園の時と同じだが、どこか違う。
 曖昧なゆったりとした空気の中にいた。
 互いについて関与しない二人が、一緒に。


「さてと……」
 ごろりと横になっていたが、急に起き出したのでビクリとする。
 のんびりしていた世界が、急に普通の速さに動き始めた感じがした。
「な、何?」
 私は切り替えが出来ずにちょっと慌てる。
「?……そろそろ、送るよ」
 こっちの動揺に不思議そうな顔をしながらも、そう言う。
「え……あ、う、うん」
「ん、まだ帰りたくないとか?」
「そ、そうじゃないけど……」
「駐車場、それ程近くないから……」
「う、うん」
 意外に、機敏に起きあがる。
 年寄り臭いと言われたことを気にしているのだろうか。
「眠……」
 口に手を当てて欠伸をかみ殺す。
 どうやら、眠りそうになったのが原因らしい。


 ドアを開けて、外に出た。
 日が暮れるのが早い時期になってきたとはいえ、暗くなっておかしくない時間。
 アスファルトの上にあった小石を蹴りながら、付いていくように歩いていく。
「あのさぁ……」
「ん?」
「どうして、今日、誘ってくれたの?」
「う〜ん……」
 その質問に、顎に手を当てて暫く考えてから、
「まぁ、メシは一人より、二人で食べた方が旨いし……」
 と、はぐらかしているのか、惚けているのか、平然と答えてくる。
「答えになってないわよ」
「何となく……一人で、帰りたくなかったから……かな」
「え?」
 ドキリとする。
 その言葉こそ、自分がずっとあそこに居続けた理由のような気がしたのだ。
「何となくだけど……、そんな気分になってね……」
「…………そ、そう……」
「うん。いけなかったかな?」
「だったら……………ないわ」
「?」
「ついて、行かないわよって」
「あ、でもホラ……食べ物に釣られたとか……」
「んなワケないでしょーがっ!」
「それも、そうかな」
「そーよ!!」
 もしかしたら本気だったのか、納得したような顔をする。
「もぅ……」
 私は思いっきり膨れてみせて抗議するが、ふと、気付く。
 左程、振り回されているわけでもないのに、しっかりペースを握られている。
 そしてそれは、今までずっとだった。







 夜の高速道は、純粋に「道」という感じがする。
 ただただ、移動する為のもので、移動するべく車がそこを通る。
 昼間より、それを強くはっきりと意識する。


 ……余計なものが見えないから。


 ずっと横を向くようにして、景色でない、ただ車の動きに合わせて流れて行くだけのものを見つめ続ける。
 濃紺な背景を、対向車の色だけが、一瞬の全体を薄暗さを纏わせつつ通り過ぎる。


 遠くの建物から出ている光がうざったく感じる。
 真っ暗な方がいい。
 気持ちに、通じていられるから。
 今、思いだしている気持ちと同化、出来るから。


「…………」
 車に乗り込んで、行き先を簡単に説明してから、特に会話を交わしていない。
 駐車場まで、あれだけ話していたくせに、一度黙ってしまうと、その沈黙は重さを感じる。
 車内という外界と密閉された狭い空間は、さっきまでの開放感を損なわせるのには十分だった。
 あれだけ軽かった空気が、重さを取り戻していた。
 今まで、こちらから、口を開いていないと今頃気がつく。
 向こうが黙っていると、話せない気分になる。
 そして、出会うまでの自分を思い出す。


 こうして、黙ったまま。
 こうして、座ったまま。


 あの時と、全然変わらない。
 嫌気が、襲った。


「あ、あのさ……」
「……?」
 前を見ながらも、一度、横目でチラリと助手席のこちらを見る。
「あ、あのさ……」
 特に考えなく、口を開いたので何を話して良いのか思い付かない。
 襲ってきた嫌気が嫌だったから、思い出したままでいるのが怖かったから、さっきまでの空気が懐かしくなったから、その思いだけで口を開いたので、言葉に詰まる。
 ただ、身体に残る不快感は、帰ってから身体を動かすことで解消出来ても、この心の引っかかりは今しか、拭えない気がした。
「………」
 困ったように、相手の顔を見る。
 すると、


 何も言わないでいるが、どこか安心できるような顔をしているような気がする。
 急かすでもなく、後押しするでもなく。
 表情は穏やかの中に、惚けたものが混じっている。
 さっきまで、つかの間でも、忘れさせてくれた、ホッとさせてくれた、そんな安心できる、気持ちを委ねられるような顔だと、思った。


 だから……少しだけ……


「正直……恋するってどういう事なのかしらね?」
「……藪から棒だね」


 頼りたく、なっていた。


「ふふ……どうやら私、本当の恋、したこと……ないみたいだから」
「………」
 自嘲気味に笑って見せる。
 ハンドルを握って前を見ながらも、その気配だけは私の方に向けたように感じた。
「今回はそうかなって……思ったり……したんだけどもね……違ったみたい」
「恋ねぇ……」
「そう……恋……」
「…………」
 それ程長いドライブにはならない。
 料金所を出てから、つい下を向いて顔を上げて、改めて隣を見る。
「貴方は、どう?」
「わ、えっと俺? ……ん――……そうだなぁ……どれが恋かどうか何て、俺もわからないけど……逆にどれが恋でないとも決めるまでも、いかないけれどね……」
「………」
「………」
 そんな言い方に、じっと顔を見つめるが、相変わらずのまま。
 意見なのか、皮肉なのか判別がつかない顔をしている。
「………」
「………」
 言葉が無い。
 何と答えていいのか分からなかったから。
「いつか……わかると……いいね……」
「うん……」
 だから彼の言葉に、静かに頷いた。
 見馴れた、見飽きた景色が見えてくる。
 家まで、近い。


 ――早い話、自分で決めないと駄目なわけよね。


 それを教えたのだろうか。
 まさか――そう思う。
 けれども、結果的には示唆してくれたような気分になった。
 車が信号で止まり、彼の顔をチラっと見た。
「?」
 呆けたような、間の抜けたような顔をしていた。
 何を考えているのか全く読み取れなかった。
「どうしたの?」
「ううん。ちょっと何か…… あ〜、でもすっきりしたわ」
 伸びをして見せてから、
「今日はどうも、ありがとね」
 そう笑いかけた。
「……あ? ああ。こっちも……楽しかったよ」
 最初、こちらの変化について来られなかったようだったが、すぐに穏やかに笑う。
 見せる笑顔ではなく、言葉の結果の笑顔。


 遂、つられて……から、自然と、応えるように……。


 笑顔の区別が付き始めていたのを満足しながら、家までの距離がはっきりとわかる場所に来ているのに気付く。
「この辺でいいわ。止めてくれる」
「OK」
 あっさりと、言って車を止める。
 呆気ない程。
「……いいの?」
「え?」
「家、知りたかったり、しない?」
「ん? ……別に……何で?」
 予想通りの答えだが、何か、悔しい気もする。
「う…ううん……それならいいけど」
「?」
 惚けているような顔のまま首を傾げる。
 どうも何か抜け落ちているような気がしてしまうのは考え過ぎか。
 私は首を振ってからシートベルトのロックを外す。
「暗いけど、大丈夫?」
「ええ。でも……帰ったら叱られるだろーけど」
「一緒に謝ろうか?」
「余計面倒なことになるって考えない?」
「ん――、確かに」
 ちょっと考えてみたらしく、苦笑するのが判る。
 助手席のドアを開け、外へ出る。
 夜風の冷たさが、どこか言いようのない弛みに包まれていた身体を引き締める。
 晒されていた心を取り戻すが、それ程は強迫観念にとらわれない。
 今度は同時に、車の中のやりとりが、家の中でのやりとりが思い出せたから。
「ん……?」
 気付かない内にまたじっと彼の顔を見続けていたのだろう、こちらの視線に不思議そうな顔をする。


 色を意識する。
 とっても奥深い……深淵の、それでいて暗くない……白に近くて、純白じゃない……ちょっとだけ暖色掛かったような、色。


 かすれた、感じで、
 掴み所のない、はっきりしない色。


 そう、深くて、暗くない。
 暖かそうで、明るくない。


 はっきりしない、ぼやけているのではなくて、元々、乏しい色。


 そんな色を感じた。
 人の、色。
 心の、色。


 ふと、こんな感覚がどういうものに近いか、思い当たる。


「どうして……か、わかった気がする」
「何が?」
 こんな私の感覚を知らないから、気付くわけがないから、唇から漏れた呟きに、不思議そうに聞き返す。
「……あなたに、ついていったのか」
「え?…………あ〜、…………何で?」
 不意をつかれた顔、漫然と考えてみる顔、簡単に放棄して聞いてくる顔。
 その動きを予想して、微笑みながらじっと見つめる私の顔。
 開け放たれたままの、ドアを挟んで、向かい合う。


「………何かね、すごく、お爺ちゃん相手に話しているような気分になったの」
「?」
「ほら、何か好々爺然としてる感じじゃない」
「そ、そぅ……」
 何か、嫌そうな顔。
 初めて見たけど、けっこう、可笑しい。
 年寄り扱いな事は意外と、言われているのかも知れない。
「……君のお祖父さんが、そんなタイプとか?」
「ううん。全っ然、違うわ。正反対。……かなり、苦手にしてる」
「あ、そう……せめて、「お兄さんみたい」ぐらいに、割り引かない?」
「嫌」
「………そ、そう?……」
 かなり、困った顔。
 笑うのに、必死になる。
 最後になってようやく、彼の素以外の顔を見ることが出来た。
 してやったりの気分になる。
「ショック?」
「ん……少し」
 身を乗り出して聞くと、あっさりと苦笑して答えてくる。正直に。
「ふふっ……はははっ!!」
 そこで、堪らずに押さえつけていたものが、腹から出ていくようにして笑ってしまった。
 静寂な夜道に、自分の笑い声が響く。
 それを困ったような顔をして、それでも苦笑を崩さないで見守っている。
 仕方ないと言うように。
 そこがまた、大人の風格というより、達観した老人らしくて、笑えてしまう。
「ねぇ」
「ん?」
 一頻り、笑った後、ドアに手を掛けて聞く。
「……また、話聞いてくれる?」
「別に、いいけど……」
 ちょっと不安になったけど、それ程嫌な顔はしていない。
 ただ、戸惑いが感じられた。
 口に出しそうな事が何となく、わかった。
 場所ぐらい、覚えている。


「じゃあ、暇、見つけたら遊びに行くから」
「え……あ……ああ」
 ドアをこちらから閉め、そのまま何も言わせない態度を取る。
 案の定、これ以上、聞いてこない。
 野暮なことを、言わせない。


 つもりだったが、


「一つだけ、聞いていいかな?」
「……何?」
 不意に、何か揺れを感じた。
 突然、語り掛けてきたから。
 否、その声に、違和感を感じたから。


 …え?


 ちょっと、動転する。


「今日だけど……普通に、話せてました?」
 顔の顔が変わった。
 表情じゃなくて、その彼の周りに合った空気が。
「えっ?」
 車内から外に出て全身が外気に晒されて身体の熱が冷めていくように、心の中の熱がいきなり冷まされたような錯覚に陥っていた。
「貴女と、普通に話せてましたか?」
 急に言葉遣いが、その雰囲気と共に変わった。
 さっきよりも更に老けているように感じる。
「……え?」
「今までずっと、普通に話していたつもりでしたけど……やっぱり少し気になったもので……」
「言葉遣いは――変わったわね」
「ええ、すみません」
 また、別の顔をしていた。
 最後の最後で捕まえていたと思ったものが、急に逃してしまったようなそんな気分になる。
 なんとなく面白くなかった。
 狭まったと思った距離がいきなり開かれたような、そんな気がして。
「良く分からないけど……その言葉遣い、私との時はやめてくれる?」
 そう言ってみた。
「……」
 流石に驚いたような顔をしたが、
「いい?」
 と、念を押すと、
「…………ええ」
 ちょっと迷ったような顔をしたが、すぐに笑みになった。


「それじゃ、じゃ〜ね〜」
「…………ええ、おやすみ」
 元気良く手を振ってみせる。
 窓が開いていたので、微かに、声が聞こえた。


 家までの短い道程を歩きながら、最後の変化が気になっていた。
 もしかしたらあの喋りが元々の口調だったのかもしれない。
 そんな気がしていた。


 …もしかして、老人くさいって所、前から気にしてたのかしら……


 だから、くだけた口調を意識して使っていたとか。
 だとしたら、面白い。


「これは、もう一度会って確かめないといけないわね」
 そう考えると、自然に頬が緩んでくるのを自覚していた。
 面白い拾い物をしてしまった。
 今の私の形容はそれでしかない。
 だが、この時既に私は色々と自分が迂闊だったことを思い知ることになる。


 …あ、電話番号、聞くの忘れた……。


 それに気付いたのは、家で叱られて、自分の部屋に戻った時の事だった。
 そして、それどころかお互い、名乗ってもいないことに気付いたのは、それから数分後のことだった。


 …不思議そうな顔、する訳よね……。


 だからと言ってこれきりにする気はさらさらなかったが、その迂闊な勘違いで、その後暫く、笑いが止まらなかった。








 初めて会ってから何となく過ぎた半年、学年も二年になり、一番落ち着ける春、そしてそのまま突入した夏休みも半ば過ぎになった。
 アパートを強襲しようとしたら、部屋から大人びた女性が出てきたりして、慌てて身を隠した事もあったが、概ね、関係としては問題はなかった。


 私が喋り、それを静かに聞いてくれる。


 それだけを、続けていく関係に、申し分はなかった。
 両親もそれなりに理解はあるし、無口で大人しい姉もいるが、どうしても適当に言い散らすだけの、思ったことをただ口にすることの出来る環境は、心を落ち着かせるにはもってこいだった。
 縁側で子供が駄々をこねるのを、静かに聞いてくれるお爺ちゃんお婆ちゃんがいてくれるのは、ホッとする。


「ねぇ……」
「ん……?」
「実はさ……最近、結構、気になる人、出来たみたいなんだ」
「へぇ?」
 そう言いながらも、目だけで興味らしくものを示してくる。
 しつこくは、聞いてこない。
 踏み込んで、来ない。
 もし、私がこのまま喋るのを止めても彼は気にしない。
 そんないつも通りの態度だ。
「気になる?」
「……聞かせたいって顔してるけどね」
 最初から、私が喋るのを止めるということはないと見透かされている。
「あ……そう? ははは……」
 釣り竿を固定したまま川を眺めていたので、顔はこちらに向いていなかった。
 けど、口元は多少歪んでいる。笑っているのだ。
 こっちも、照れるのを誤魔化して笑う。


 強引に連れ出さない限り外出を好まない相手を、今日も川釣りへと引っぱり出して相手をさせている。
 ものぐさな質のようだが、それを押し通すことはそれほどしない。
 気がいいのか、単純に執着がないのか。
「……でも、大きな壁があるのよね〜」
「………」
 二人共釣竿を固定させ、彼は文庫本を片手にし、私はそんな彼を相手に延々と喋っていた。
 釣りも目的だが、彼を相手に喋るというのも大きな目的だったから。
「姉さんが……そいつのこと、本気で好きみたいなの」
「………」
「ほら、前、言ったことあるでしょ? すごーく積極的で、姉さんにちょっかいかけてる、「お友達」。何か目つきだけがいただけないんだけども、かなり根性ありそうな奴……」
「……ああ、覚えてる」
「そいつとねぇ……あれから結構、会う機会あってさぁ……」
 どうも、一人で喋っている。
 けど、それが何だか自然だし、自分もつるつると気持ちよく喋っている。
 聞いていないのかと思う時もあるが、何か聞くと必ずそれなりの返事してくる。
 喩え、惚けていても聞いていないわけじゃない。
 それが判ると嬉しくて、また更に色々と喋ってしまう。
 まさに、縁側のお婆ちゃんを相手にする状態だ。
「あーあ、姉さんとは性格は違うのに……意外と、こういう趣味とか似てたりするのよねぇ……」
「ふぅん……」
「あ、何か面白がってない?」
「いや、別に……」
 肉親の愛情に恵まれなかったわけではないけれど、こんな時間はどうしても今まで持った事はなかった。
 だから、とても心地いい。


「それで、もう一つ、そいつの話なんだけどね……ほら、私がやってる格闘技の……それで将来有望な娘がいるって話もしたわよね……その娘もどーもねぇ………」
「……へぇ、モテるんだ」
「それが、わかるのよねぇ……悔しいけど……」
 腕を組んで尤もらしくうんうんと頷いて見せる私に、一旦閉じていた文庫本を再び開いて、
「他人の、その人への感情を、気になりだしたら……って言うけどね」
 とまぁ、言ってのける。
 自分の意見を言っているのか、一般論を述べているのか、聞きかじりを喋っているのか判別がつかない。
 また、それは彼にとってはどう取られても別に構わないらしい。
 私が求めているのは、彼のそんな一言だったから。

 そして、
「すごく自然体に接してくれるし、話してて楽しいし、何か……凄く嬉しくなるのよね……これって……恋かしらねぇ……」
 そうごまかし混じりに戯けたように私が聞くと、興味があるのかないのか暢気な口調で答えが返される。
「さぁ? …………ただ」
「ただ?」
 聞き返す。
「自分の良さを他人に気付いて貰える人って……必ず誰かが捕まえていること、多いみたいだけどね」
 経験談か、体験談か、先達者らしい言葉が続く。
 こういうところも、年寄り臭い。


 他の誰かが言った言葉なら反発しそうだけれども、残念ながら彼が言うとそんなものだろうかと思ってしまう。
「……言うわね」
 だから私はそんな彼に唇を歪めて見せるしかできない。
「たまには、ね?」
「たまに……かしら?」
「さぁ? でもまあ、人を好きになるってのも、いいことだと、思うしね」
 達観しているのか。
 ただの強がりか。
 後者だとしても、そう感じさせない雰囲気があった。
 事実、後者ではないような気がする。
 だからこそ、そんなことを言えるのだろうと思ってしまえる。
「じゃあさ、せめて応援してくれる?」
「応援?」
「そう。私の……今の……この……」
 流石にちょっと言葉に詰まる。
 はっきりとは言えないが、そんな状態になること自体が自分の気持ちを肯定している気もすると感じる。
 こんな気持ちは、以前の時にはなったことがない。
 それだけ、アイツは私にとって気になる人、だと言うことかも知れない。
 ただ、それと同時に破れた時の事を考えると、あの時以上の寂しさを覚える気がして怖かった。
 それだけに今度は、初めから支えてくれる彼が側にいて欲しくなった。
 押しやる勇気が、ないだけに。


 でも……


 彼は軽く頬を掻いただけだった。
 そして言った。
「負け戦に加勢するのはちょっとなぁ……」
「負け戦…………ま、負け戦ってなによー」
「でも、どこか諦めてるだろ……」
「え…」
 言葉に、詰まる。
 さっきとは違った意味で。
 こういう妙な鋭さは嫌いだ。
 いや、だからこそ頼り甲斐を感じているのだけれども。
 でも、今はちょっと嫌いだった。
「…………」
「ま、何がどう転ぶかなんて誰にも、わからないしね……」
 それなりにフォローを入れているのだろうが、ちょっと先の一言の方が印象に強すぎた。
「………そう、かな?」
 その言葉がまだ頭に離れないでいたので遂、聞いてしまう。
「ん――……」
 答えない。
 そして、さっぱり釣れない釣り竿を見ることを放棄して、横になる。
 さっきの言葉は彼なりに私の話を聞いた上での推察なのだろう。
 洞察力に長けていることに結構、気付かされたのは遂最近のことだ。







 それとなく隠していた私の家のことが、急用で迎えに来た老執事長の乱入でバレた時は、この気安い関係が崩れたと思ったものだった。
 釣り堀に不釣り合いな黒服の執事の乱入とその口上に、内心で取り乱したすのを押さえながら、相変わらず口五月蠅い老人を適当に言い散らして追い返した後、取り敢えず、私の口に出たのはありきたりな謝辞の言葉だった。


「……その、御免なさいね」
「?」
 台風が過ぎ去った後も、こんな顔をしているのだろうと言う顔をしていた。
「だって……その、話してなかったし」
「何が?」
「その……私のこと……」
「来栖川ってこと?」


  コクン


 首を縦に振る。首が揺れたぐらいの動作だったが。
 恐々と顔をあげて彼の表情を見るが、いつもと変わった様子はなかった。
「……ん――……」
 そして少し困ったような顔をする。
 何と答えたらいいのか迷っているようだった。
「それとも……知ってた?……驚いてないし」
 ひょっとしたら、って気がして聞く。
「……何て言ったらいーか知らないけど……そもそも、最初から言わなかった時点で、多少は何かあると考えるのが普通じゃないかな? まぁ、だからどうって聞くのも何だし」







 結局、知っていたとも、知らないとも言わなかった。
 ただ、それが彼の気の回し方だと思うと、納得できた。


 だから、今も、そうなのかと思う。
 はぐらかしただけかも知れないが。


「…………」
 何か、言いたかった。


 …こないだまで起きていた家の別荘での信じがたい体験談でも、話そうか。


 荒唐無稽な出来事で、何か急に頭の中では思い出滲みた話になっていたが、話せば信じそうな気がする。
 固く、口止めされていなければ話したくなる。


 取り敢えず、さっきのことだけでも反論しておこう。
 弱々しくても。
 そう思い、口を開く。


「……ねぇ……」
「ん――……」
 視界に揺れ動くものが目に入った。
 ふと、言おうとしたことが変わる。
「……引いてるわよ」
「へ?」
 忘れていた彼の釣り竿が、動き出していた。



「やっぱり、行き当たりばったりは駄目ねぇ……」
「ま、こーゆー日もあるわね……って?」
「こら、先回りしない」
「ははっ……」
 空っぽのクーラーボックスと釣り竿を後部座席に押し込む。
 結局、軽く騒いだだけで、有耶無耶に沙汰止みになった。
 急に思ってしまったから、


 自分でも気づいていたことを彼が気づいていて、
 更に、私が気づかないで置こうと思ったことまで、どうやら気づいていたようだったから。


 憧れてるだけで、見つめているだけで、
 争う勇気が、ないのだ。
 他人を踏みにじる気力が、沸かないのだ。


 だが……
 最後まで言わないで、気づかせたとも言えない程のところで手を離す。
 その彼の手口が、老獪な計算なのか、単なる地が出ただけなのか判らせないところが狡いと思う。
 ある意味、卑怯だとも思う。
 それが、彼の優しさからだとしても。


「ねぇ……」
「ん?」
 車に乗り込もうとするのを制するように、切り出す。
「聞いて、いい?」
「何を?」
 だからこの顔をどうへこますかが、差し当たっての反撃目標だ。
 何か、悔しいから。

 うん。
 はっきり言われるよりも、悔しかったから。


「前……訊ねようとした時に見たんだけど、部屋から出てきた女性って……貴方の彼女?」
 今まで、とっておいた攻撃材料を使うことにする。
 以前、彼の部屋を訪ねようとした時に、不意に彼の部屋から出てきた女性の話題を口にした。
 その時からずっと気にしていたのだが、いつもどちらかといえば彼にへこまされることが多かったので、ここぞの時の切り札に使おうととっておいたネタだった。
「春……? ……集金のおばちゃんとかじゃなくて?」
「惚けたって無駄よ。たしか黒いシャツ着てて、何か気怠そーな顔してて……」
 そう。
 確り観察したのだ。
 嫌がらせの為に。
「……ああ」
 そこで、ようやく思いだしたという顔になる。
 そう演技しているのかも知れなかったが、判別はつかない程、自然だった。
「彼女……ね……」
 そして苦笑いを、浮かべた。
「そーそー、何? 今は別れた彼女か何かかしら?」
 肘で脇腹の辺りを突っつく。
 実の姉とか言うオチだと悔しかったので、違う雰囲気にホッとして、ことさらにせっつく。
 が、案に反して彼は苦笑のままだった。
「兄の……ね」
「兄?」
「そ」
「踏み込んで、聞いていい?」
「どーぞ」
 そうくるだろうと予想しきった顔をして、言う。
「何で貴方の兄の恋人が貴方の家に行くわけ?」
「失踪したから」
 あっさりと言った。
 あんまり普通の家族間では使わない言葉だ。
「家出とかじゃなくて?」
「一人暮らしだったからそうは言わないと思うけど」
「消費者金融とか……」
「そういうのがあったら、こんな暢気な日々は過ごせていないって」
 一応、暢気は自覚しているらしい。
 いや、問題はそれではない。
「じゃあどうして?」
「さぁ? そこまでは……」
 判らないとばかりに、両手を広げるゼスチャーをする。
「で、今は?」
「消息不明。大学院からも、実家からも、住んでいたアパートからも。連絡も無し」
「何か、トラブル?」
「…………かもね」
 ちょっとだけ、逡巡したように見えた。
 理由を知っているのかもしれない。
「………」
 これ以上聞くのは、いけないかも知れない。
 色々、あるもんだ。
 人には。
 改めて、思う。
 こんな暢気な生活の裏にも、それなりのことはあるのだろう。
 今更ながら、知らしめられる。
 というか目の前のこの彼にも彼自身のことでないにしろ、そういう部分があることに少し驚きである。
「ちぇ〜、何だ、折角からかってやろうって思ってたのに……」
「なら、代わりに……良いこと、教えて上げようか?」
「何?」
 その時、そんなこと考えていたので遂、油断した。
「ちょっと前、綾香の家の人間がうちに来た」
「え!?」
 思わず、聞き返す。
 いきなりの言葉に、声を失う。
「そりゃ、自分トコの娘が変な男と遊びに行っていることを知ったら、それなりに反応してくるだろう?」
 確かに。
 というより全てバレバレだったとは。
 いや、少し考えれば当たり前なのだが、何も言われたりしないので考えることもなかった。
「で、何か……」
「問題があったら、それなりに何かあった筈だろ?」
 何も、今まで少しも言われていない。
 今日だって、普通に家を出た。
 普通でない時も以前の一回を除き、見つかったりしたことはない筈だった。
「……うー」
「何も言ってきてないみたいだから、そのまま知らない振りをしていた方がいい。向こうがそうしてくれているんだから」
「…………何か、狡いわよね」
 自分の頭の上でそんな話が進んでいたのだとすれば、悔しい。
「ま……そーゆーこと。人間は狡い生き物だから……鈍い振りをすることで、気づかないフリをすることで、厄介ごとをかわすことがあるから」
「かわす?」
「例えば……正面からフるよりも、気が楽だろう?」
「……?」
 話の意図が掴めなかった。
 家の話をしていたのではなかったのか。
 彼の顔を見る。
「『人が良い』の半分は、それなりの狡さを持ってるんじゃないか? 天然だとしても」
「え?」
「…………だから、それを判った上で、踏み込めるのなら……応援したんだけど……ね」
 そこで、誰のことを言っていたのかようやく気づく。
 また悔しくなった。
 だから一言毒づいた。
「……言っている本人が一番、惚けている気がするけど」
「……違いない」
 彼は笑う。
 あっさりと肯定して。
 やっぱり敵わない。


 つい、この間のことを思い出す。
 無茶苦茶で、最高に危険で、これ以上ないほど楽しかった別荘地先での出来事。
 改めて、あいつの良さを実感できた短いながら充実した日々を。
 その人の良さは誰にでも平等で、誰もが惹かれているように感じた。そして、互いに怯んでいた。互いの存在に。その存在に向けるあいつの優しさに。
 でも、それに唯一の、例外があった。
 そのあいつにとっての例外だったのが……。



 …あ、どうして気付かなかったんだろ。



「ううん……そっか」
「?」


 …常に動くものに気を取られてて……ずっと一緒に、動かないで留まってくれたから……


「だから……気づかなかったのね……」
「え?」

 あいつも。
 わたしも。


 私は、私だけで納得する。
 勿論、隣の彼は判らないし、気づかない。
 あいつにとっての彼女は、私にとっての……。



 ……飛躍し過ぎだ。



 苦笑して、隣を見るのを止める。
「…………今日は、何か疲れたね……」
「そうね」
 いつもより、喋り過ぎた気がする。
 向こうも、いつになく喋った。


 夕焼けが、眩しいと思った。
 染め上げるように、染み込ませるように、二人を照らしていた。




 ――その日から少しだけ、私は多く年を取ったように思えた。




                          <完>




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