二人、手を繋いで。




 大人になんかなりたくない。
 けれどもガキでい続けることもみっともない。
 選べないで、選びたくなくて、保留と言う言葉で避けていくうちにいつの間にか、俺自身の矜持、見栄やプライドがいよいよ逃げ場を無くしていく。
 世界中の人間と同じようにうねりに飲み込まれ、時に流されて過ごして行く。
 生きていくというのは面倒で、大変だった。
 それはきっと今こうして俺が漠然と思っているよりもずっとそうなのだろう。
 わかりもしないことをわかったフリをすることもない。
 だから俺は俺が感じることができるところで、実感する。
 鈍く痛み続ける体が、意義を持たず生き続ける俺を証明する。


―――ああ、俺は生きている。



「おす」
「ん」
「いないのか?」
「ああ。検査に出てる」
「……ふう。ここじゃなんだし、外に出ないか」
 入ってきた時にわかっただろうにそいつはわざわざ不在の隣のベッドを覗き込んでから、更に外へと誘ってきた。
「一服するか?」
「ああ」
 学生で未成年で親のすねかじりな俺にそんな誘いを向けるのは、知る限り一人しか居ない。こんな俺の数少ない知り合いの中でも、本当に僅かな存在である霜村功と共に、同室者のいない病室を後にする。
 壁一面の白と消毒液の臭いに包まれた病院の廊下を通り過ぎる昨年末に問題を起こして運び込まれた入院患者と、新学期以降ずっとしょぼくれた顔をしている見舞いの同級生に誰も注意は払わない。そのまま中庭へと向かった。担ぎ込まれた時はベッドに固定されていた重体患者だった俺も月を数える頃にそれなりに動けるようになっていた。若いからだと医者には言われたが、それだけが理由というのも少ししゃくだった。

「ふぅ……」
 溜め息だか何だかわからないものを混ぜながら煙を吐く功の横で、俺は吸うよりもタバコそのものを指で弄ぶ。誘われたから応じたまでで、やはり気が乗らない。
 この病院には決まった喫煙室がないので、中庭に出て壁に寄りかかりながら煙草を吹かした。もっとも喫煙室があっても見るからに学生身分の二人が堂々と吸えるかどうかというのを考えれば結局、適当な場所を探して吸うしかなかっただろうが。
 時折ヤニ混じりの唾を吐きながら、互いに何本かタバコを消費する。初めは久々のモクに対して気後れに似たものもあったが一本吸ったところでそういうのもなくなっていた。別に特に吸いたいと思うほど中毒ではないが、吸いたくなくなるほど弱ってはいない。勧められるままに、一緒になって一箱のタバコを吸い尽くす。
「で、俺に何か用か?」
「い、いや、用ってほどのことは……」
 言い出してくるのを待つのも面倒になったので、二箱目の封を切る功にさっさと聞くことにする。入院している俺よりも憔悴したような顔をしていれば、俺のような鈍感な人間でも何かあったのだろうということぐらいは予想がつく。
「あのよお」
「……ああ」
 入院している俺の見舞いという口実を携えて、功がやってきた理由を口にする。恐らく愚痴の類だろうと察していたら案の定だった。簡単に言ってしまえば、真帆ちゃんと上手くいっていないのだそうだ。期末テスト前にクリスマスイヴで決めるだのなんだとの意気込んでバイトに奔走していた記憶を思い返す。自分も余裕がなかった頃なのに存外そんなどうでもいいことを覚えていたことに驚きながら、入院後に初めて来た時は二人別々だったことを思い出した。
 功の一方的な言い分を聞きながら、紫煙をくゆらす。途中から熱弁を振るうようになってからはタバコどころじゃなくなってきたのだろう。タバコを箱から勝手に抜き取って勝手に火をつけて吸いながら、独演は適当に聞き流した。興奮しているのか、時折大口を開けるたびに、唾が飛ぶので正面には立たない。
 こいつも別に俺から適切なアドバイスを貰えるとは思ってはいなかったのだろう。言いたい事を言っただけで満足しているようだった。
 ただの時間潰しにも似たその行為を続けていくうちに、互いの燻ぶったものも少しは落ち着いてきた。
 最後はまあそれでもなんだのともにょもにょと口ごもりながら、何とかするさと勝手に自己完結して締めくくった。本当に勝手な奴だった。
 そして自分だけが喋っていたことに羞恥があったのか、おざなりに俺のことも聞いてくる。いちいち聞かれたことに答えるのも億劫だったので、いい加減に応対していたが、それすらも功は気づいていないようだった。本当にただ聞いているだけ、他人のことなどどうでもいいのがよくわかる。
 親身になったつもりになって、優越感に浸るためだけに踏み込んでくるような奴でないのが救いだ。
 トモダチでは決してないけれども、話していて苦痛にならない貴重な相手だった。
「やるのはセックスだけにしとけよって俺があれほど言ったってのに……」
 そう言いながら功のヤツが笑顔なのは、俺が生きているからなんだろうか。
 きっとそうなんだろう。
 身近な人間が死ぬというのは良い悪いではなく、気持ちが悪くなることだ。
 須磨寺に怯えさせられた経験上、そんな予感が漠然とあった。
 だからこそ、今の功の笑顔も苦笑交じりで受け入れられる。努めて笑い話に納めようとしているところもだ。そんな俺の心境が理解できているとは思えないが、何故か功は上機嫌だ。鬱屈したものがある分、俺で晴らそうとしているのかもしれない。
「なんかさ、憑き物が落ちたみたいな感じだぜ、今のオマエ」
「触るな、痛いだろうが」
 バシバシと背中を叩く衝撃で、折れた箇所が痛む。
 殴ってやりたかったが今の俺は腕を振り上げるのも面倒だったので睨むだけで留めておいた。今の学校を卒業したら、俺と功とでは偶然会う以上の付き合いができるとは思わない。進む道を一緒にするほど付き合いが良い俺達じゃないので、そんな未来は確定しているとも言えよう。唯一可能性があるとすれば恵美梨と真帆ちゃんの関係からというのがあるが、それもコイツが真帆ちゃんと別れてしまったら間違いなく消滅する。人の関わりなんてそんなものだ。こいつは俺が今死なないことだけに安堵しているだけで、関係がなくなった後であれば衝撃など受けまい。文字通り他人事に成り下がる。新聞で死亡事故の記事を見て被害者に同情するぐらいの感情がせいぜいだろう。それでも今、この瞬間、この関係がある限りはこいつは俺を心配する。自分の為であろうとなんだろうとその事実は変わらない。そんなことがやっとのことで理解できた。生きていかなくっちゃいけないんだねと言った須磨寺の言葉の意味、その一端がこんなところで掴み取ることができる。なかなか、深いところだ。
「随分と丸くなったみたいだし……こういうのなんつったっけ? 雨降って地固まる? 終わり良ければ全てよし? まあわかんねーけど、そんなんじゃねーの」
 俺の幾つかの感慨を他所に、功は散々好き勝手言って帰っていった。
 結局、何をしに来たのか意味のないままだ。俺にしてみればタバコを供給してくれたという点だけで、それも感謝したいほどのことではない。
「丸くなった……か」
 バカは死ななきゃ直らないというが、死に損なったバカは結局バカのままなんだろうか。
 確かに少し物の見方ぐらいは変わった気がする。
 前ほど苛立たない。
 両親を初め周囲の人間が腫れ物に触れるような態度を取っていることに対しても、大して腹が立たない。
 それは今病院にいるという非日常な状況がもたらした、暫定的なものなのかも知れない。
 少し前までの自分を振り返る余裕が出来てきている。
 子供染みた―――その一言で全てが事足りる。
 ずっと日常を蔑んでいたことも、栗原に対してやったことも全てだ。
 自分の思いや願いすらわからないくせに、思う通りにならないと吼え、依存してくる相手をうざったく扱うことで、自分が相手よりもマシな人間だと思いこむ。
 おやっさんや明日香さんには散々甘えていた。
 逆の立場で一度でも思ってみたら良かったのだ。あんな俺が俺の目の前に現れてあんな言動をしたらと思うとぞっとする。
 自分はどうしようもない人間だと言いながら、本当にどうしようもないことへは目を瞑っていた。酷いものだった。
 平凡や日常を馬鹿にしたくせに非日常や異常には怯え、尻込みにしてオタつくだけの口先ばかりのガキだということを嫌というほど思い知らされた。
 俺は恵美梨なんかよりもよっぽど自覚のないバカだった。
「もっとも……」
 今頃気づいてそれを恥じる心はあるが、謝る気概はない。
「人間、そう変われるものじゃない……」
 言い訳。
 自分だけに言い聞かせるための戯言。
「ちっ」
 素直に認めるのは未だにしゃくではあるが、須磨寺が俺を変えてしまった。
 あいつは平然とした顔で俺という人間を内側から暴きたて、破壊し尽くした。
 本当に俺が俺自身が思っている通りだったら……そんな仮定と現実を結果的に示したのがあいつの言動だったことに気づいたのは、間抜けにも病室で寝ていたついこの間だった。それまでも漠然とは気づいていたのかもしれないが、確りとした形での理解にまでは至っていなかった。病院は本当にすることのない場所なのだ。
 だからこそ改めて自覚する。
 俺にとって須磨寺とこれまでは恥曝しの日々でしかなかったということに。
「はぁ……」
 そう思いながらも 今の俺は溜め息一つで済ませられている。
 前だったらこうはいかない。
 感情のもっていき方が分からず、苛立ちを蓄積させるか爆発させるかのどちらかしかできなかった。
 それがこうも醒めるだけで済むのは、成長したとか変化したとかではなく、単に須磨寺に似てきたのかもしれない。
 それもちょっとしゃくだが、まあもう別に良かった。


 日も暮れ始めた頃になってガタガタの体を引き摺るようにして病室に戻ると、同室の相手が既に戻っていることに気がついた。
「須磨寺―――」
 本来、病室で男女が同じ部屋になることはなるべく避けるのだろうが、年末で慌しい最中だったこともあって空き部屋が一つしかなかったことで一緒のところを宛がわれて現在に至っていた。今更わざわざ別になる理由もないので運ばれて大分経つ今、幾つか空きが出ていてもどちらかが移るということもなかった。きっと退院するまで一緒だろう。一緒に退院するかどうかはわからないが。
 既に須磨寺も俺も寝たきりになるほどの重傷ではなく、ある程度には行動の自由はあった。ただ怪我の理由というのか、入院する原因というのか、学校の屋上から飛び降りた俺達に病院の屋上へ行くことは許されていない。
 もっとも俺達は監視されているわけでもなく、屋上も封鎖されているわけではないので行こうと思えば行けるのだが、須磨寺はシーツを変えたばかりの俺のベッドの上に腰掛けたまま、病室の窓から外を眺めていた。屋上でかつてそうしていたような目を向けて……そう、あんな目をしていた。

 だから、
 俺は、
 ―――数秒ほど、見惚れていた。

「なにしてる?」
「空を見てる」
 予想通りの答え。
 そしてそれは以前何度も聞いた答え。
「お空は、キレイか?」
 悪意はないが意地悪いものは多少込めて訊ねながら、病室のドアを閉める。入り口のところで彼女に見惚れていたという事実は自分の中で消却した。
「うん……すごく、キレイ」
 言いながら、その視線は既に俺に向けていた。
「?」
 意味が分からずに立ち尽くしていると、須磨寺は少し座る場所をずらしてから再び視線を窓の外に移した。
 ずれたのは俺が座るスペースを空けたということなのだろうか。
 何にしろ彼女が座っているのが俺のベッドな以上、俺は立ち尽くすか見舞い客用の椅子に座るしかない。
 どちらも嫌だったので須磨寺の横に、すこしだけ距離を空けて腰掛けた。
 ベッドのスプリングが軋む。
 掛け布団を通じて硬いマットの感触を尻に感じる。
 ラブホテルのベッドのようにはいかないようだ。
「……」
 そんな感想を思い浮かべながら、横を見た。
 須磨寺は夕焼けの光を窓から浴びている。今度は俺の方を見ない。俺の視線は気づいているだろうに、意識を向けようとしていなかった。
「まだ誘われていると思うか」
 初めて会った時、屋上の柵越しで話したことを思い出す。
 あの時は俺に余裕が殆どなかった。
 今は大分違う。
 そして、キレイな世界で彼女は死ねなかった。
「ここじゃわからない。けど、きっとまたあそこに立ったら同じことを感じると思う」
「そうか」
 彼女もあの時を思い出しているのだろう。
 それほどまでに今日の夕焼けは似ていた。
「あの時ね、木田君はわたしと同じなのかなって思った」
「だろうな。でなきゃ、あんなことは言わないだろ」
「うん。ちょっとヘンだったよね。わたしも興奮していたのかも知れない」
 屋上で上を見上げれば空を望み、下を覗けば落ちることを考える。
 十分にヘンな女だった。

―――いままで一度も会わなかったふたり。

 あの屋上での邂逅を締めくくったのは、そんな須磨寺の芝居がかった言葉ではなかったような気がする。俺が何を考え、何を思い出していたのか知っていたかのように須磨寺は訊ねる。
「あの時あの瞬間に出会ったのはやっぱり神さまが用意したシナリオだったのかな。それともわたしたちが作り出した運命だったのかな」
「そんなの、どうでもいい」
「うん。木田君はきっとそう言うと思った」
 何故だか、物凄く嬉しそうに笑う。
 須磨寺がそんな顔をすることに、もう怯えはない。戸惑いもない。
 苦笑を返しただけだった。
「……ああ、どうでもいい」
 須磨寺は結局、留学は取りやめることになった。学校側としては厄介な人間をこれ幸いと追い出すことよりも、推薦先でトラブルを起こされる可能性を怖れて推薦を取り消したのだそうだ。勿論、学校の推薦がなくても自分で留学はできる。それでもそうしなかったのはもう彼女の中に留学という行為に意味を持たなくなったのではないかと思った。ピアノからギターに変えるよりもずっと瑣末なものになったのだろう。
 座る距離が詰まる。
 須磨寺が俺のすぐ横に座り直したから。
 この世界のどこにもなかった俺の居場所を、彼女はいつの間にか作ってくれたらしい。それはお互い様なのかも知れないが、そう受け取るのは都合の良い甘えた考えの気がしたので止めておいた。
「なんだよ」
「何も、特別なことはないの」
 そう言っている須磨寺の横顔は、その言葉を肯定するように特に変わった様子には見えなかった。けれども、
「俺にはそう思えねえけどな」
 そう言っておいた。ただそう思っただけ。けれども、それが間違っているとは思わなかった。
「……」
「なんだよ」
 じっと言葉なく見つめられるのは、困る。
 かつての須磨寺の視線なら怯えただろうが、今の彼女の目は照れを感じさせる。
「あなたって、やっぱり優しいのね」
「なっ……」
 頬が紅潮するのがわかる。
 わかるからこそキレかかったが、辛うじて思い止まった。
 ここで吼えるからガキ臭くなる。
 昔よりもガキっぽい自分を恥じる気持ちが出てきたのは人間の成長と言う面では良いのかも知れないが、この場合は少し困る。
 猛省はできても、対処ができない。どうしていいのかわからない。
「あのな、須磨寺」
 言葉を捜すが、上手い言い方が思いつかないので、そのままを口にする。
「男ってのは優しいって言われるのは、誉め言葉じゃないぞ」
 今更気取っても仕方がない。
 俺の弱さは須磨寺には全て曝け出している。
 だからこそ、今、ここでこうしているのだ。
 開き直る。
 これもまた弱さだが、気にはならない。
 須磨寺相手だからか。
「まだオマエなんか死ねって言われて平手打ちを喰らう方が、救われる」
 だから榊なんかはうざくて面倒で仕方がないが、好き嫌いで言えばそれほど嫌いじゃない。裏表なく、はっきり嫌われているのがわかるからだ。余計な口を利いてからかうことで余計に怒らせるのは、俺なりのあいつへの感情表現なのかも知れない。そのままずっと嫌って、俺に構わないようになってくれよという想いが、挑発に繋がるのだろう。それが功を奏していたとは決して思わないが。
「―――」
 その笑みは困る。
 女を前にした男はどう足掻いてもガキでしか生きられないことを突きつけられる。
 尤も、元々ガキでしかない俺にしてみれば、素直になる程度のことでしかないのかも知れないが。
「木田君。わたしね―――」
 もう喋るな。
「ん……」
 その思いが通じたのかどうかは定かではない。
 彼女の言葉は確かに続かなかった。
 押し付けられたのは彼女の唇。
 まるで俺が彼女に黙らされたかのように、封をされた。
「んっ……あっ……んっ」
 体をすり合わせる。
 彼女が今求めているのは性的快楽か。それとも肉体的満足か。
 俺の探るような目つきを、彼女は正面から受け止めた。
「……っ!?」
 少し驚く。
 その瞳には欲情に溺れたいというものも、心と体を切り離したものもなかった。
 俺を見ていた。
 強く、求めていた。
 それは俺の全てを欲しているように感じられる。
 奪おうとするのか。
 よりにもよってお前が、こんな俺を取り込もうとしているのか。
 次々と沸いてくる戸惑い。
「……」
 けれども、同時に納得できている自分もいた。
 むしろストンと腑に落ちたような感覚もあった。
 屋上で最後にセックスをした時に浮き上がってきたものが、病院のベッドで目覚めた時の彼女の言動が結露したものが、今の須磨寺なのだと。
 考えてもわからないぐらいに頭の奥と、触れ合っている全身が理解していた。
 もう俺達は逃避の為のセックスはできなくなったらしい。
 こいつの口を陵辱するように舌を這わせる。
 観念した。
 触れ合った先から感じるものを片っ端から味わっていく。
 どんなに彼女に奪われても、こうして奪い返す。
 いつしかそれぞれが搾取されていくのではなく、与え合うようになっていた。
 二人のものを二人で分ける。
 まさぐる指の先が柔らかい肌に沈んでいく。
 衣服と包帯とが擦れあい、壊れた体が内から悲鳴を上げる。
 痛覚は生きている証。
 性欲は生きる為の衝動。
 頭の奥から体の端まで、俺は生きていることを実感させられている。
 歓喜はない。実感も薄い。
 舌打ちしたくなるような苛立たしさと、どうにもならないという腹立たしさばかりが沸いてくる。
 軽く、吐息をつく。
 それでも止まらないのは、生きていることを努めないと生き続けることができないわけではないのと同じ理屈なのだろう。
 意味はない。理由もない。努力もなければ、必要もない。
 ただそうあるだけ。
 そうすることだけが自然で、そうすること以外に労を割く気分もない。
 与えられた果実に手を伸ばし、果肉にむしゃぶりつく。
 その光景は醜悪だ。
 けど、その視点はヒトの視点ではない。
 衝動に縛られたモノが考えることではない。
 ただ思いつくことを述べ、湧き上がる欲求に応じるだけ。
 それは安易な堕落に見える。
 けれども、ヒトが人を産み、人として増やしていく最低条件であるのなら、それは堕落とは呼べまい。
 ただそうあるように、そうするだけだ。
 その白い肌を求めて、乱暴に腕を取って引き寄せた。
 不自由な体で、ぎこちなく。もどかしく。

 どんなにカッコつけたって、飾ってみたってやることはセックスだ。
 生殖を望まないくせに、生殖のおまけである快楽だけを求めて体を求め合う。
 好きだ嫌いだというよりもずっと強く、よっぽど大きく、性器と性器が触れ合うことで得られる愉悦を欲している。
 そんな目先だけの快楽に溺れることは、どこをどうとっても誉められたことじゃない。自慢できることじゃない。恥ずかしがることであって、開き直ったりするものじゃない。
 なのにまだ俺は嘘を信じてしまっていた。
 かつては唾棄しきっていた思いなのに。
 嘲笑うことすらせず呆れかえっていた感情だったのに。
 一つの嘘。
 女体とその生殖器から得られる悦楽よりもずっと嬉しいもの。

 一つになること。
 男と女がいて、その男が俺で女が須磨寺であること。

 きっと浮かれているだけだ。
 熱に魘されているだけだ。
 気の迷いだ。
 勘違いだ。
 嘘だ。
 みんな嘘だ。

 俺が他の誰でもなく、須磨寺雪緒を求めてることなんて。
 共に、生きていく相手に選びたいなんて。

「ん……あ……ああっ」
 控えめな嬌声だったが、静寂のこの空間では篭りながらも強く響く。
 彼女は自分の声が俺に届いていることがわかっているだろうか。
「触って……もっとあなたの手を感じたいの」
 彼女の体に触れるたびに、控えめな声が漏れる。
 睫を震わせるその顔は赤く染まっていた。
「いや……あっ……」
 ベッドの上に座り、後ろから抱きすくめるような格好のまま剥き出しにした乳房を持ち上げるようにして手に抱える。初めはそっと壊れ物でも扱うように。固められて曲がらない腕を痛みと共に無理に曲げる。
「ふぁぁ……っ、あっ、んぁ……はぁ、ぁうぅ……」
 すぐにそのふくらみに指を埋めるようにして、うっすらと汗ばんできた肌に手の平をはりつかせたまま揉みしだいていく。ゆっくりとゆっくりと。
「んぁ、あぁ……」
 逃れるように身をよじるが、後ろから抱き付いているので腰が動いただけだった。構うことなく意識を両手に集中する。大きく熱く柔らかいそれは、俺を容易く夢中にさせる。次第に強く、小刻みに指を動かし続ける。その柔らかい感触のなか、指の股に挟んでいた突起が硬くなっていくのを感じた。手の平をすぼめるように滑らせながら、最後は指先でその膨らみの頂点を軽く弾く。
「あぁぁっ、あ、んぁぁぁっ、あ……」
 その瞬間、がくんと彼女の首が折れ、全身を震わせる。
「え?」
 まだ指で弄っただけだ。それも自由にならない包帯とギブスで固められた全身でぎこちなく、自由になる指先だけで精一杯の愛撫だった。
「須磨寺……?」
 摘んだ突起を、強く摘みあげた。
「ひぁっ…… あっ、んんっ……」
 何度となく摘み上げるごとに、彼女の上半身が強くのけぞる。
 身体中が敏感になっているのか、過剰とも思える反応が返ってくる。
「くぅ……ああっ……んぁぁっ……」
 押さえ気味の声が、徐々に大きくなっていく。
 絆創膏が貼られた頬の下まで赤く染めた須磨寺が、堪えているかのように首を幾度か強く振った。
「え……あ……」
 見ると彼女の閉じられた脚は太股をもどかしげにすり合わせていた。
 須磨寺の胸にしがみついたまま、もう一方の手を秘部に伸ばした。
「ひぁっ……ぁ、んぁぁぁぁっ!」
 既に秘裂からは愛液がとめどなく溢れ、シーツを濡らしていた。
「そっか、須磨寺は最初から入れて欲しかったのか」
「んんっ、んんんっ……」
 俺の言葉に唇を噛み締めているのかくぐもった声で首を大きく横に振った。
 目も堅く閉じられている。
「どれ……」
 表面を滑らし、あてがっていただけの指先を、中に突き立てた。
「んぁぁぁっっっ」
 甲高い悲鳴。
 指先から掻き出した中からは既に液ではなくトロッとした蜜が溢れかえっている。
 とっくに十分だった。
 触る前からわかっていたくせに、こうして確かめてみないと行動に移れない。
 慎重なんじゃない。臆病なんだ。
 今、この時この期に及んでも俺は、弱い人間だったから。
「須磨寺……っ」
 挿れると言う代わりに、彼女の名前を呼ぶ。
 言葉はいい。
 口にするだけで、言葉の意味を伝えられるから。
 一緒はいい。
 口にしないでも、気持ちを伝えてくれるから。
「ぐっ……」
 何度も繰り返してきた行為だと言うのに、この敏感な部分同士が触れ合う瞬間のこの感覚だけは慣れない。でもそれも一瞬。
「あ、ああ、ああああぁぁ―」
 わなわなと体を振るわせる須磨寺を感じながら、俺は奥まで貫き通した。
「あ……うぁぁぁぁっ んぁぁっ」
 腰を引くと、彼女は爪先まで突っ張らせて仰け反る。
 再びペニスで彼女の奥を突く。時には角度をつけてぐりぐりと抉るように、壁を擦るように、何の考えもなく、余裕もなく、ただひたすら狂ったように腰を打ち付ける。その回数だけ繋がった部分からはぐちゅぐちゅと淫猥な音を立てる。そのたびに愛液が攪拌され、溢れ出す。
「あ、あっ、あっ……」
 大きく息を吸うたびに、締め付けが強まる。
 強烈な快感を俺に与え続ける。
 淫靡に歪んだ表情が、蕩けそうな瞳が、彼女を人間でなくしていく。
 そうしているのは俺だという自負が、自分の中で悦びとなって興奮に繋がる。
 きっと俺も相当馬鹿な表情をしているに違いない。
 ちょっとだけ何とかしたかったが、すぐに諦める。そんな余裕はない。
 ただ締め付けるだけじゃなく、彼女の中の襞が俺自身を絡め取り手放すまいとするように蠢いている。
「うぁぁ、うぁぁぁぁっ、うぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 中の壁を引き摺り出すように腰を引く。
 感じることを感じるままに。
 思うことを思うままに。
 だたひたすらそれだけを。これだけを繰り返す。
 激しく腰を振る。
 何度も何度も。

 体がガクガクと震え出す。
 限界が近い。
 情けないぐらいにそれは早かった。

「うぁ、も、もう俺……」
「うん……いいから……いいから、わたし……」
「あ、ぅ……」
 歯を食いしばる。
 頭は違うことを考える。
 精一杯引き伸ばそうとして―――諦めた。
「ん、んんんんんっ、んっ」
「あ、あっ、ああ、ああっああっ、あ、あ、あ、あ―――」
 それはあまりに、我慢のしようのない解放だった。
 だから、劇的なものもない。
「あ、んぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っっっっ」


 だから、彼女の絶叫も薄れかかった頭の中で、遠くなって聞いていた。



―――わたしね、木田君と出会う為に……

 抱かれる直前、須磨寺はそんなことを言った。
 言葉が途中なのは、今度は俺が口を塞いだから。
 須磨寺らしくない。
 言い損ねたことをもう一度言おうとするなんて。
 きっといつか全てを俺は聞くだろう。
 彼女が俺をそう思っているのなら。
 あの時の出会いに特別なものにしてしまったのなら。
 俺と彼女が一緒にいる限り。
 側で過ごす限り。
 体を求め合い続ける限りは。
「あたたかいね」
「そうか」
 無残な惨状のベッドを横目に、さっきまでそうしていたようにベッドの端に座った須磨寺は横に同じように座っている俺に寄りかかっていた。
 それは彼女には有り得ない甘えた仕草だ。彼女の体臭か、行為の名残香かが混じりあったような匂いが鼻腔をくすぐる。困ったことに不快じゃなかった。
「うん……生きてるね、わたしたち」
 セックスをしていた時よりも、今こうしていることの方がずっとそれは体感できる。彼女はそう言いたいのだろう。
「見苦しいほどにな」
 裸のままでいるのは寒いが、須磨寺がそうしている以上は一人服を着なおすのも躊躇われる。看護婦や医者に何を言われるかと思うと憂鬱だ。病室がどちらか変わるかも知れないなとも思ったが、その気になればどうとでもなる問題なので、やっぱりそれはないかもしれない。仕方がないので膝に掛けていた毛布を肩に掛け直した。二人くっついている以上、俺達二人の肩にだ。
「……やっぱり木田君は優しいね」
「馬鹿。俺が寒いだけだ」
「……でも、本当は服を着たいんでしょ?」
 くそっ。見抜かれていたようだ。
「そうね。空気に触れているところは冷たいけど……」
「あ、おい」
 肩を寄せ合うどころか、須磨寺は俺の首に両手を回して抱きついて格好でそのまま密着してきた。俺より軽症の彼女は俺よりも自由が利く。当然、毛布はずり落ちた。またやろうってのか。
「でも、木田君に触れているところは熱いぐらいにあたたかい……」
 酔っ払ってるのかと思うぐらいに、有り得ないほどべたついてくる。
「須磨寺、おまえ……」
「うん。木田君、あのね……」
 普段と変わりない顔の癖に、必死なんだな須磨寺。
 二度言い損ねてもまだ、言おうとするなんて。

「 あ な た が す き 」

 聞いたからきっと俺達は昔には戻れない。
 恋人みたいになれるのかも知れない。
 ならないかも知れない。
 けれど、これだけは間違いない。
 俺達はこのまま世界に溶ける。



 こうして二人、手を繋いで。



                           <完>

この作品への感想を是非。