晴眼者 |
―――暑い……。 みーん みんみん みーん みんみん みーん みんみん ―――蝉の声。 昔の記憶を断片的ながら思い出しているせいか、蝉の声を耳にすると、あの時の光景がどうしても頭をよぎる。 実際、有間の家にいた時はそんなものを感じることもなく、普通に聞いていられたのだが。 やっぱり、目の前に死体があるという記憶は嫌なものだ。 気分が悪くなる。 本当はその時、死体を見たどころか自分が先に殺されていたのだが、死んだ親父による記憶封鎖のせいで肝心のシーンはぼんやり霞んだままだ。 けれども、秋葉が泣きながら俺に謝り続けていたことは覚えていた。 これは覚えていなかったが、翡翠はその日もいつものように俺たちと一緒に遊んでいて、現場に居合わせたみたいだった。 後で知った話では、琥珀さんもどこからか覗いて見ていたらしい。 屋敷内の子供たち全員が一部始終に立ち会ったぐらいなのに、大人たちは誰一人として様子を見ていてくれなかった。 人が殺されて蘇生して、あまつさえ洗脳され終わってからわらわらと来やがって――― 「兄さん、何をぶつぶつ言ってらっしゃるの?」 「へ?」 目を開けると、不思議そうに眉を上げた秋葉の顔が視界に入ってきた。 食後の一休みとして中庭に出て、テラスの椅子に腰掛けたまま、どうやらウトウトしていたらしい。 睡眠時間はたっぷりとったつもりだったが、それでも足りなかったのだろうか。 もともと、この家に来てから夢見は悪いほうだ。 どこまで寝ていて、どこから起きていたのか覚えていない。 悪夢を見る原因は解決したのだが、癖がついてしまったのか今でも時々ろくでもない夢を見る。 忘れていた過去の記憶が蘇ったものなのか、入りこんだ他人の記憶がこびりついて、時たま顔を覗かせるのか。 とにかく厄介な話である。 「座ったまま顔をしかめたり歯噛みしたりして……気分でもすぐれないのですか?」 「え、いや」 長年患っている体のほうはもう治ることは無い。 それでも、今は有間の家にいた頃と大差ないほどには回復していた。 ほとんど普通の人間と変わりない生活を送れるのだから、いまさら気になることはない。 しいて困る点を挙げるなら、必要以上に周りから心配されてしまうところか。 「顔色は悪くないようですが……ちょっと失礼します」 「あ………」 右手を俺の前髪に当てて持ち上げてから、秋葉はお辞儀するように腰を折って額に額を当ててきた。 本当に自然な動作だったのでつい、されるがままになってしまった。 「おい、秋葉……」 「熱は、なさそうですね」 そう言って秋葉は上体を起こして微笑む。 ―――心から安心しきった笑み。 認識したとたん、どくん、と胸が高鳴る。 くそう、猛烈に可愛いじゃないか。 「兄さん? どうかしましたか」 「あ―――いや、なんでもないんだ。大丈夫」 慌てて大げさなほどに手を振って、それ以上自分の思考が進むのを妨げた。 また顔が赤くなったりして、熱を出したと誤解されたくない。 あんまり秋葉をいつも心配ばかりさせるわけにはいかない。 秋葉にとって頼りないし情けない、それどころか血の繋がりすらない兄貴ではあるが、いつまでも甘え続けるわけにはいかない自覚ぐらいはある。 「―――それより、秋葉も立ってないで座ったらどうだ?」 内心の動揺を悟らせないように気をつけながら、椅子を勧める。 「あら、お邪魔してもよろしいんですか?」 「よろしいもなにも、ただダラけていただけだよ。それに俺になんか用でもあったんじゃないのか?」 「ふふ……」 「な、なんだよ」 どうも俺は、この秋葉の微笑みに相当弱くなっているらしい。 必要以上に動揺しているのが自分でも判る。 「本当は兄さんとお話でもしたいと思っていたんですけど―――」 「けど?」 「兄さんの顔を見ているだけで、満足してしまいました」 「なんだ、それ」 「さあ、私にもわかりません。どうしてでしょうね」 「……………」 どういう顔をしたらいいのか判らない。 「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」 「あ、ああ……」 秋葉は、少し離してあった椅子の背に両手を伸ばし、わざわざ俺の右側にくっつくほど寄せてから座った。 「ふふふ………」 俺の顔を見てニコニコ笑う。 「なんだよ、俺の顔になんかついてるのか?」 秋葉の上機嫌の謎が、俺にはどうしてもよくわからない。 こいつの機嫌を良くするようなことを口にした覚えはまったくないのに。 「いいえ。兄さんがこうして家でくつろいでいるのを見ると、無性に嬉しくて……」 「はあ?」 「やっと、この家が私の住む家になったような気がします」 「……………」 秋葉の言葉の続きを待つ。 が、秋葉は全然関係ないことを言ってきた。 「もうすぐ……、夏ですね」 ザザァと、木々のヴェールが風に揺れる。 敷地内の様々な樹木から発せられている音。 まどろみの中で耳にしたあの蝉の声は錯覚だったのか、今はまったく聞こえない。 暖かい風だけが吹いていた。 だからではないが、俺に倣って椅子の背もたれに寄りかかり、うっとりと呟いた秋葉に、 「もう夏になるんだな」 そう答えた。 まどろんでいた時とは違い、テラスに降り注ぐ陽射しは春の面影を残すような柔らかさに変わっていた。 記憶の中だけにある仮初めの季節から、今感じることのできる本来の季節に戻ったのだろう。 たとえそれが錯覚でも、なんとも心地よい錯覚ではないだろうか。 庭と呼ぶにはあまりに広いこの屋敷の敷地内は、そのほとんどが緑に囲まれていて、見晴らしの良い中庭のテラスからは季節の移ろいをこうして感じ取ることができる。 そして今はまるで秋葉の言葉を肯定するかのように、夏が近づきつつある春の終わりを、ここで座っているだけの俺に教えてくれていた。 「……………」 秋葉の言葉じゃないが、俺もこうしているとここが自分の居場所だと強く感じ取ることができる。 ここに居ることが、自然なのだと思えるようになってくる。 午前中に琥珀さんが翡翠を連れて外出していたため、屋敷の中は俺と秋葉の二人しかいなかった。 琥珀さんはともかく、翡翠が屋敷の外に出ることは滅多にないので、秋葉と二人きりになるのは本当に珍しいことだった。 「ふふ……」 気がつくと、秋葉はまたさっきのように俺の顔を眺めて微笑んでいた。 「嬉しいです」 「え?」 「兄さんがここで、そうした顔をしてくれるのがとても」 「……………」 俺は一瞬どう答えて良いものか迷ったが、口をついて出たのは自分でも驚くほど優しい声だった。 「―――ここが俺の家だからな」 俺の言葉に秋葉がすっと頷いた。 「はい。ここが兄さんと私の家なんです」 「……………」 頭上を過ぎていく緩やかで暖かな風。 かすかに聞こえてくる木々の揺れる音。 まるで屋敷全体が俺たちを肯定してくれているような、そんな錯覚が浮かぶのはどうしてだろう。 兄妹二人きりで過ごす穏やかな休日の午後。 このまま静かに時が流れつづけてくれるならば、どんなに幸せなことだろう。 「ズル休みはいけませんよ」 そう。 ズル休みはいけない。 ただでさえ病欠の多い俺なんだから、出席日数にはくれぐれも注意をしないといけない。 ―――って、 「シ、シエル先輩!?」 「こんにちわ。遠野くん」 気がつくと俺のすぐ目の前に、制服姿のシエル先輩が立っていた。 いつの間に。 「もう、遠野くんが今日学校を休んでいるから、また貧血でも起こしたんじゃないかって心配したんですよ」 シエル先輩は両手を腰に当てて、大袈裟にため息をつく。 「それなのに気持ちよさそうにくつろいでいるなんて、慌てて駆けつけちゃって損した気分です」 「あ、ごめん」 反射的に謝ってしまう。 慌てて駆けつけたにしては、午後というのはどうしてなんだろう。 俺がそんな疑問を心に浮かべていると、 「それに今は同級生なんですから『先輩』はつけないでください」 そうも付け加えてきた。 「あら? 留年したんでしたら先輩でよろしいんじゃないんですか」 立ちあがっていた秋葉が、棘のある話し方で脇から口を挟む。 顔には出さないものの、憩いを邪魔されたせいか不機嫌そうだ。 「留年じゃないです。人聞きの悪いことを言わないでください!」 シエル先輩はなんでも、死んだシキの後を継ぐ吸血鬼が出現しないか監視したり、吸血鬼に汚染されたこの街を浄化したりするために、もうしばらく滞在するのだそうだ。 そのまま三年に在籍していたら今年の春に卒業してしまうので、学年を術で一年ズラして俺の同級生になっていた。 学校に巣食う吸血鬼がいなくなった以上、別に通う必要はないのだが、ウチの学校がかなり気に入ったらしい。 学食のカレーライス、カレーうどん、カレーパンの三点セットが相当気に入ったせいだと俺は推察しているが、それについてはまだ聞いていなかった。 「遠野くん、聞いてますか!?」 「え?」 気がつくと眉を吊り上げたシエル先輩の顔が目前にあった。 荒くなっていた先輩の鼻息が頬をくすぐる。 これ以上近づくと、顔が触れてしまいそうだ。 「いや、ああ……ごめん。なに、先輩?」 思わず座りながら伸び上がるようにして、距離を取る。 「ですから、どうしてズル休みしたんですか!」 「いやその―――」 俺の体勢にかまわず、先輩は覆い被さるように再び顔を近づけてくる。 「失礼なことを言わないでください。兄さんは日頃の疲れが溜まっていたから、私のほうからお休みを取るようにお願いしたんです。 第一、兄さんが休もうと休むまいとあなたには関係のないことです」 「そんなことないです。わたしまた具合でも悪くなったんじゃないかって、心配になってごはんもあんまり喉を通らなかったんですよ」 それで昼食を済ませてから早退して、ここに駆けつけたのだと、先輩は胸を張って言う。 ―――結局、食べることは食べたんだ。 それでこそ先輩だ。 もちろん、そんなことを口には出せないが。 秋葉が先輩に食ってかかってくれたおかげで、俺は楽な姿勢に座り直すことができた。 目の前では秋葉とシエル先輩が向き合っている。 「でも、秋葉さんまで休むことはないじゃないですか」 先輩が反撃しようとするが、秋葉はしれっとした顔で言い返す。 「私は昨日で夏休みに入ったんです。うちは私立ですから、兄さんたちの学校とは予定がズレているんです」 そう言えば冬休みの時もそうだった。 あの時こっちはテストの真っ最中だったことを考えると、夏休みのほうが随分とズレているらしい。 「そういうことで兄さんはご覧の通り元気です。これで安心しましたね。あなたの用はもうないはずです。今すぐ戻れば六時限目には戻れます」 先輩に向かってさあ帰れと言外に匂わせて、秋葉が微笑む。 さっき俺に向けていた微笑とは、全然別モノなのは言うまでもない。 「―――もう早退しちゃいましたし、今戻っても仕方がないです」 シエル先輩は秋葉の言葉を平然と聞き流すと、 「それにせっかくですから、今日の授業で出た試験範囲を、遠野くんに教えながら一緒にお勉強しようかと思ったんですが、どうですか?」 そう言って俺を見た。 「―――っ!」 先輩の言葉を耳にした秋葉が、一瞬顔をしかめてから腕組みして俺に視線を据える。 シエル先輩も「どうですか?」とばかりに微笑みながら、俺の返答を待つ。 「……………」 ―――いや、二人して見つめられても困る。 「どうなんですか、兄さん」 秋葉が一歩踏み込んでくる。 断れと声無き声で言っている。命令に近い。 「えーと」 「遠野くん、試験範囲は一刻も早く知ったほうがいいですよね。それに今日の授業の内容も出るみたいですし」 秋葉を押しのけるようにして、シエル先輩が近づいてくる。 今ここで断ったら、後で何を聞かれても教えてあげないとこちらも言っている。 ともに、俺の被害妄想かもしれないが、どっちも間違っているとは思えない。 「その……」 「どうするんですか、兄さん」 「どうしますか、遠野くん」 遠野志貴、決断の時迫る。 どっちを選んでも、地獄を見ること間違いなし。 「えっと……」 「……………」 「……………」 「あー………」 なんとかならないものか。 なんとか。 「志貴〜♪ 志っ貴シキシキシキシキ〜♪」 イヤな緊張が周囲に漂う中、明るい声が遠くから聞こえてきた。 「……………」 「……………」 「あ」 アルクェイドが手を振って、ニコニコしながらこちらにやってくる。 「やっほー、志貴。生きてるー?」 随分な言い草だが、なんだか今ほどそれがピッタリと当てはまっているような状況はない。 返事をするなら「かろうじて」という感じだし。 今日という日に相応しい明るい声に、かなり救われた気分になる。 というか、救世主。 「今日もいい天気だよ、散歩にでも行こうよ」 アルクェイドはそう言って、自分の言葉を証明するように両手を広げて大きく伸びをしてみせた。 太陽の光をこうも心地よさげに浴びる吸血鬼なんて、そうそういないだろう。 アルクェイド。 今というこの瞬間だけは俺、おまえに優しくしてあげられそうな気がするよ。 「もう、そんなところでのんびりダラけてないでさあ」 アルクェイドは俺の前に立つ秋葉とシエル先輩をかき分けるようにして割り込むと、ぐいと俺の手を引き、 「ほら、妹やシエルなんか放っておいて、わたしと遊びに行こうよ」 そうにこやかに言ってのけた。 前言撤回。 やっぱりコイツは、どうしようもないヤツだ。 状況は破滅的に悪化する。 「兄さん」 「遠野くん」 敵意丸出しの秋葉とシエル先輩が、アルクェイドに手を引かれた俺を睨む。 「兄さんは私と午後を過ごしてくださるのよね」 「遠野くんはわたしと試験勉強をするんですよね」 ともに決定事項であるかのように宣ふ。 「志貴、どうしたの? 早く行こうよ」 「ア、アルクェイド……」 こんな状況で未だに二人を無視しきるなんて、いい根性していやがる。 しかしどうしてみんな、矛先は俺なんだ。 「そんな勝手は許しません。兄さんはただでさえ疲れやすい体質なんです。今日は完全休養日にしてありますから、兄さんを疲れさせる存在は出ていってください」 「何を言っているんですか。来週には試験なんですよ。いくら遠野くんが勉強ができるといっても、試験範囲も判らないままいきなり試験を受けるわけにはいかないじゃないですか」 「試験のための勉強なら後でもできます。別に『先輩』がわざわざ慌てて教えてくださらなくても大丈夫です」 「あ、なんかすごく強調してますね。さっきも言いましたがわたしはもう先輩じゃないんです。今は遠野くんのクラスメイトなんです。クラスメイトが勉強を教えに来るのは当たり前じゃないですか。秋葉さんこそよその学校で、しかも夏休みに入ったんでしたら引っ込んでいてください」 「試験範囲のことなら電話ででも、担当の先生に直接尋ねさせます。病欠ですので、それくらいは教えてくれるでしょう」 「そういうズルはいけないと思います。それに後で聞かなくても今、わたしが知っているんですから」 「でしたらそれを教えてさっさと出ていってください。わざわざ親切に押しかけて来てくださったシエル先輩さん」 「ですからっ!」 テラスにいた時に比べれば、塀で風がさえぎられるぶん陽射しがキツく感じられる。 「あったかくて気持ちいいよねー、志貴」 「秋葉たち怒ってるだろうなあ」 いがみあう二人をよそに、アルクェイドに手を引かれるまま俺は外に出ていた。 屋敷に残してきた二人のことを思うと、アルクェイドのように気持ち良く伸びなんかできない。 「妹とシエルのことなら忘れなよ。今ごろ二人で仲良くお茶でも飲んでるかもしれないし」 「いや、それはない」 仲良くしているとしたら、それはそれで恐い。 間違いなく、その臨時同盟の矛先は俺に向けられるのだろうから。 「ところでどこに行くんだ?」 「え? 決めてないけど」 「おいおい」 「志貴が行きたいと思うところがあるなら、どこでも付き合うよ」 「そう言われても………誘ったのはおまえなんだから、行き先もおまえが決めろよ」 「えー」 「不満そうな顔をするな。そういうものなの」 「じゃあ、どこでもいい?」 「ああ」 「つまんないかもしれないけど、いい?」 急にしおらしくなるのがなにか可笑しい。 そんなアルクェイドをからかってやりたい気になったけれども、やめておいた。 「ああ。どこでもついていくよ。外国とか言わなければな」 「あー、ちょっと残念」 「おい」 「せっかく、わたしの城に案内しようかと思ったのに」 笑っているが、コイツの場合は本当に冗談なのかどうか、一般人の尺度では測りきれないところがあるから油断できない。 まあ、俺もコイツも一般人には程遠い存在だが。 「で、本当はどこに行く気だ?」 「志貴もよく知ってるところだよ」 「―――まさか……あの路地う………なんでもありません」 そんな恐い目で見なくても。 「なんだ、公園か」 アルクェイドについていった先はいつもの公園だった。 「やっぱりつまらなかった?」 また不安そうな顔をする。 どうしてコイツはいつも呆れるほど図々しいくせに、こんなところでおどおどと落ち着かない顔をするんだ。 「別につまんなくはないさ。アルクェイドと一緒だし、どこだって楽しいよ」 「本当に?」 「ああ」 「そっかー。良かった。志貴に『やっぱりつまらないから帰る』って言われるんじゃないかって不安だったんだ」 パッと満面の笑顔になるのが可愛らしい。 「バカだな。俺がそんなこと言うわけないだろ」 「志貴、こっちこっち」 「おいおい」 だからって、そんなにはしゃぐのもどうかと思うぞ。 駆けるように公園の奥に行ったアルクェイドは、こっちを向いて手招きしていた。 「やれやれ、仕方ないか」 こうしてわがままなお姫様に、付き合うのは嫌いじゃない。 こういう振り回され方なら歓迎する。 俺も小走りでアルクェイドの元へ向かった。 日当たりの良い芝生に二人で座って、空を見つめていた。 他愛のないお喋りもいつしか途切れ、二人して青空に漂う雲の動きを目で追っていた。 ぼんやりと過ごす時間。 何もしてはいないけれども、二人でいるせいか退屈な気はしない。 それどころか、普段は騒がしいアルクェイドが相手なだけに、本当に貴重な時間のように思える。 ―――このままの時の流れが続けばいい。 俺とアルクェイドは今までせわしなさすぎた。 だったらこうして果てしなく広がっていくような無駄を満喫しても罰は当たらないだろう。 そんな気分になっていた。 「わたしね、いつもこうしてずっと空を見てた」 アルクェイドが唐突に語り出す。 彼女の方を見ようとしてやめた。 きっと彼女は空を見つめたままだろう。 だったら俺もその同じ空を眺め続けていよう。 「何も考えることがなくて、何一つすることもなくて――――眠りから覚めて起き出した時とか、眠りに入る前の寝床の準備ができるまでの時とか、いつも決まって同じ場所で見てたんだ」 「……………」 不意に脳裏にアルクェイドの姿が浮かぶ。 「別に空を見たいとか、何か思ってたわけじゃないの。見ながら何か考えたり思っていたわけでもないのね」 その時の彼女は、今のアルクェイドとは違う姿形をしてただ空を見上げていた。 その瞳には何も映し出されてはいなかった。 ただ、彼女はそこにいた。 「なんで自分がそんなことをしているのかも解らなかった。 わたしは死徒を狩るためだけに存在してたから、それ以外にやることは何もないし、考える必要もない。なんにも意識していなかったんだと思う」 俺はそこで初めて横を向く。 アルクェイドがいた。 淡々とした口調だったけれども、顔いっぱいに彼女の意思が溢れていた。 「今考えると、それが志貴の言ってた無駄なコトだったんだなって」 アルクェイドはここにいる。 俺の目の前に。 俺の手の届くところに。 俺の言葉が聞こえるところに。 「志貴に出会うまで、何一つムダなことなんてしてこなかったと思ってたのに、できていたんだなって思うと嬉しいな」 アルクェイドが楽しそうに笑う。 彼女もその光景を思い出しているのだろう。 ぼんやりと無為に空を眺めているアルクェイドの姿は、俺の脳裏にも思い描くことができる。 かつてシキを通して見たミハイル・ロア・バルダムヨォンの記憶の中の彼女は、今のアルクェイドとはまるっきり別人で、城の敷地内でなんの感情も見せずに首だけあお向けて空を見上げていた。 本当に何も見ていなかったのかもしれない。 それほど、何も映ることの無い表情だった。 彼女がそうしていたのはほんの数分だか、数時間だかは判らない。 けれども、あの時の彼女にとってみればなんの意味も無い、本当になんでも無い時間だったはずだ。 「……………」 そんなつまらない記憶でさえ、今こうして笑って話せる。 それが、自分にはできないでいたと信じていたことが実はできていたのだと思い起こせる喜びからきているのか、空を眺めていただけのなんの意味も無い行為そのものが楽しかった思い出として喜べているのか、どちらだかよく判らない。 きっとアルクェイド自身に聞いても、はっきりと答えることはできないだろう。 両方―――と、そんな答えが返ってくるかもしれない。 どうだってかまわない。 今、アルクェイドが笑って話している。 そのことが俺にとっては一番大事で、それ自体がなにより嬉しいのだから。 ―――ああ。 俺はどうしようもない。 どうしようもないほど、こいつの――― こいつの笑顔に惚れ込んでいる。 この屈託の無い、無邪気な笑み。 なんの険もない、素直な感情を表わしている。 今を楽しんで、毎日を喜んでいる顔を。 この笑顔を見るためだったら、俺はどんな苦労もいとわない。 そんな気にさせてくれる。 「どうしたの、志貴?」 「え?」 「なんかわたしを見ながら、ニヤニヤしちゃって…………」 「そ、そんな顔してたか?」 やばい。 俺は誰よりも思ったことが表情に出てしまう質だった。 「―――っ!?」 慌てて緩んだ頬を引き締めようとするが、その前に赤い瞳が迫ってくる。 そのまま眉をひそめて、じろじろ俺の顔を見る。 「……………」 「ヘンなの。今度は急に真っ赤になって……もしかして熱でもあるの?」 こうして顔をつきつけられるのは今日は二度目。 いや、三度目だ。 「……………」 「ん?」 「……相変わらず失礼なヤツだな、おまえは」 くく、と笑いをかみ殺す。 間近で見るアルクェイドの顔に照れる以上に、嬉しさがこみ上げてきていた。 その表情に。 その態度に。 「もう、やっぱり笑ってるし………何が可笑しいのよ!」 「いやさ」 俺はそう言って、理由が判らずにむくれているアルクェイドの頭に手のひらをぽん、と乗せた。 「え?」 「おまえさ、やっぱりずっとそうしていろよ」 「え……? 何?」 きょとん、とした顔をしている。 「だから……」 「?」 その時、 ―――唐突に。 アルクェイドが、消えた。 「兄さん、こんなところにいたんですね」 静かだが、凍りつくような声。 同時に、 「遠野くん。お勉強の時間ですよ」 落ち着いているが、乾ききった声。 まるで喰い殺すべき獲物を見定めたかのようなゆっくりとした足取りで、二頭の怒れる獅子がこちらに向かってくる。 慌てて反対側を向くと、アルクェイドの行き先を示すように芝生が一直線に抉り取られ、露出した土の上には彼女を横殴りにしたとみられる数多の剣が転がっていた。 そしてその先に見える木々の茂みの奥からは、吹き飛ばされたアルクェイドの体から発せられているのか、白い煙が上がっている。 もちろん、このままただで済むはずがない。 すぐに、アルクェイドが消えた先の茂みから何かが溢れ出してくるような気配を感じる。 「――――――――――っ!」 こうして予想していても、全身に粟が生じる。 ガサガサと茂みの中から音を立てて、アルクェイドが立ちあがる。 「二匹揃っても結局は不意打ちしかできないんだ。ワンパターンと言うか、虚仮の一念と言うか……」 相変わらず傷一つついていない。 俺が不意打ちとはいえ、一度でもこいつを殺せたのが不思議でしょうがない。 頑丈と言うよりも、ただただ無敵だ。 「別にこの人と手を組んだわけじゃないですけど、こういう時は一番手ごわい相手から潰すのが鉄則ですものね」 秋葉も髪を真っ赤に逆立てて怒ってる。 遠野の血全開の本気モードだ。 「後のことは、まず最大の敵を潰してから決めましょう」 先輩もいつか見たようなフル武装モードになっている。 どこで着替えたんだろう。 「……………」 「……………」 「……………」 それぞれが一歩も動かない。 力が拮抗していると言うよりむしろ、アルクェイドを前にしては秋葉もシエル先輩も下手な動きをとれないのだろう。 あまり長いこと今のままだと、秋葉は遠野の血で元に戻れなくなってしまう。 ロアが滅んだ以上、シエル先輩も不死身の再生力を持つ体ではなくなっているはずだ。 一方、昼とはいえアルクェイドは俺に殺された時の傷からほぼ完全に回復している。 一度は失われた力も、ロアからかなり取り戻しているはずだ。 この諍いに下手に割って入るのは危険だ。 なにしろ騒動の中心人物が俺なのだ。 彼女たちのうち誰とやりあっても生き延びられそうにないのに、三人を同時に相手にするなんてことにでもなったら、遠野志貴という存在がこの世に残れる確率は著しく低くなってしまう。 俺が採るべき道は、ひとつしかない。 そう。 たった一つ。 これしかないのだ。 死界が遠くなる。 ここまでくれば窮地は脱したと考えても問題はないだろう。 お互いの一挙手一投足しか見えていない状態だったから、忍び足で逃げ去ることは思ったより容易だった。 俺がいなくなったことに気づけば、戦闘よりも再び捜索のほうが優先されるだろう。 あとは俺が三人に見つからないようにしていればいい。 しばらくここらあたりでほとぼりを冷まして、落ち着いた頃を見計らって家に戻ろう。 皆に責められるかもしれないが、さっきのような状況では問答無用で殺されかねない。 まったく、よくもまあ人外ばかりがそろったものだ。 「ふう……」 大きく息を吐いた。 しかし、こんな路地裏では身を潜めるのにはよくても、何もすることが無くて退屈だ。 「どうやって時間を潰そうか……って、あれ、琥珀さん?」 路地裏の奥に馴染みの着物姿を見かけて驚く。 こんなところでこの人に会うとは、まったく予期していなかった。 「あら」 いきなり呼びかけられたにも拘わらず、琥珀さんは驚いた様子もなくこっちを振り向いた。 「志貴さん。どうしたんですか、こんなところに」 「あ、いや……」 まさか、アルクェイドたちのイザコザに巻き込まれて逃げてきただけだなんて、言えない。 「逃げていらしたのですか」 「そうなんだけど。ズバリ言われるとこま―――――って、うわあ!?」 背後にいつのまにか翡翠が立っていた。 こちらもこんな場所には似つかわしくない、いつものメイド服を着ていた。 「……………」 翡翠は顔をしかめるが、こんな場所でそれもいきなり声をかけられたら驚くのは当然だ。 「駄目ですよー。翡翠ちゃん、志貴さんを怖がらせちゃ」 いや、怖がったわけでは。 「驚かせてしまい、申し訳ございません」 両手で水の入ったバケツを持ったまま頭を下げる翡翠。 「あ、いや。それはいいんだけど……」 こんな路地裏で琥珀さんと翡翠に出会うなんて、予想もしなかった。 特に翡翠は屋敷の外に出ることなんて滅多になかったから、なんか琥珀さんと特別な用事でもあるのかと思っていた。 「それで二人はこんなところで何してるの?」 そう尋ねると、バケツを持った翡翠が困ったような顔をする。 「あ、え?」 琥珀さんが立っていた場所から、白く細い煙が昇っているのが見えた。 「この匂いは……」 見ると、琥珀さんの持っていたバスケットには、線香が入っていた。 「ああ……」 この路地裏は、多くの人たちがシキの手で殺された場所だった。 「あら、ばれちゃいましたか」 琥珀さんはいつもと変わりない笑みを浮かべていたが、隣にいる翡翠は縮こまっているようだった。 「二人で供養していたんだ」 「いえ、その……」 「供養ってほどのことじゃないです。ほんのちょっぴりお線香とお花をあげて、手を合わせていただけですよ」 「いや、そういうのを供養って言うんじゃ……」 「そうですねー。そうなのかもしれませんね」 俺は、花と線香が供えられている場所まで歩み寄ると、しゃがんで目を閉じ両手を合わせた。 俺の両隣で琥珀さんと翡翠もそうしているのが、気配で感じられた。 念仏とか唱えられるわけじゃないから、一分ほどただ黙って手を合わせる。 「志貴さん。お付き合いありがとうございました」 「いや、俺だって無関係じゃないし」 無関係どころか、シキと意識がシンクロしていたことに気づかないうちは、ずっと俺が殺したんではないかとばかり思っていた。 それに俺自身が犯人でなかったにしても、犯人がシキ―――遠野四季だったのだからせめてこれぐらいはしないといけない。 「最初から言ってくれれば良かったのに。そうしたら秋葉とかも付き合わせて―――」 「いえ、これは姉さんとわたしの役目です」 翡翠が俺の言葉をさえぎってきっぱりと言う。 「そうですよ。本当は翡翠ちゃんにも来てほしくなかったんです。もともとは全てわたしが―――」 「姉さん」 「いや、琥珀さん。それは違うよ。誰が悪いなんてことはない。しいて誰かのせいと言うなら遠い国のイカれた吸血鬼のせいだ」 アイツさえいなければ、四季だってあんなに早く遠野の血に目覚めることもなかったかもしれない。 だが、それはもしもの話でしかない。 全ては起こってしまったのだ。 いまさら時を戻すなんてできないし、起きてしまった事件を無かったことにもできない。 確かに琥珀さんが四季を解放しなければ、ここで多くの人が殺されたりはしなかったかもしれない。 翡翠が、琥珀さんの様子にもっと注意を払ってくれていたら、ここまでの大事には至らなかったかもしれない。 でも琥珀さんはそうするよりほか自分を守る手だてがなかったんだ。 それをうわべだけの倫理で責めたてることなんて誰ができると言うんだ。 責任を追及していったら、シキも、遠野槙久も、秋葉も、遠因まで遡ればアルクェイドやシエル先輩にだって罪は存在する。 何よりもこの俺自身が…… ―――さんは……なくていいんですよ。 「え?」 「志貴さんは、そんな顔しなくていいんですよ」 気がつくと、琥珀さんが目の前に来て俺の頬を撫でていた。 ひんやりとした手のひらの感触に、強ばっていた顔の筋肉がほぐされていくようだった。 「大丈夫ですよ、志貴さん」 「あ……」 そうだ。 俺が今、立ち止まっている所なんて、もうずっと前に琥珀さんが通りすぎていった道なんだ。 罪がない―――とは言えない。 逆に、全てを自分の罪にしてしまうのも正しいとは思えない。 一番大事なのは、自分たちの犯してしまった罪を忘れず、償っていくことだ。 この場所で殺された多くの被害者たちを蘇らすことなんて、できっこない。 ここで被害者の冥福を祈ったところで、何にもならないかもしれない。 でも、それだけが俺たちにできる精一杯なのだとしたら、たとえ自己満足だと思われてもやり通したい。 それが、この事件に関わった人間として、罪もなく死んでいった人たちにできるたった一つの償いなんだから。 「できれば志貴さんには、このことを知られたくなかったです」 「そんなコトないよ。やっぱり、俺も一緒に連れていってほしかった」 「……………」 そんな俺と琥珀さんのやりとりを、翡翠は黙って見つめている。 「翡翠と琥珀さんはここにはよく来るの?」 「姉さんはどうか存じませんが、わたしは今日が初めてです」 生真面目に答える翡翠の肩を琥珀さんが叩く。 「そんな翡翠ちゃん。初めてだなんて、卑猥な言葉使っちゃって」 「えっ? ……そ、そのわ、わたし…何か………」 「どこが卑猥ですかっ」 ワケがわからずに赤面する翡翠をフォローしようと、琥珀さんにツッコミを入れる。 ぎこちないままだった空気がやや和らぐ。 やっぱり琥珀さんのこういうところには、敵わない。 「それじゃあ、これで用事が終わりだったら、このままみんなでどこかに寄らない?」 考えてみたら秋葉抜きのこの三人で何かしたことは一度もない。 たまにはいいかもしれない。 「賛成〜。わたしね、映画館の横にあるアーネンエルベに志貴くんと一緒に行きたかったんだ」 「へぇ……琥珀さんお薦めの店なんですか?」 「え? わたし何も言ってませんよ」 ちょっと驚いたような顔をする琥珀さん。 その表情に嘘はない。 「あ? じゃあ翡翠?」 「いいえ」 翡翠も首を横に振る。 「ええと、じゃあ……」 「うらめしや〜」 「うわぁっ!?」 目の前にいたのは弓塚だった。 今日はこんな感じで驚かされっぱなしだ。 「あははは、志貴くんったら、そんなに驚いてみせてくれなくったっていいのに」 いや、驚くって普通。 「あらあら、あなたは確か……」 「志貴くんの家の人だよね。お線香ありがとね」 「いえいえ。当事者の一人としてはこれくらい当たり前ですよー」 「ちょっと待った! どうして弓塚さんがここにいるんだ!?」 「幽霊だからじゃないんですか?」 「そんな琥珀さんも素で受け止めないでっ!!」 「志貴さまのおっしゃる通りです。幽霊なのに足があるのはおかしいと思います」 「翡翠、そんな冷静にツッコまないでくれ」 「いえ、大事なことです。西洋の幽霊は足があるかもしれませんが、日本の幽霊はないのが相場です」 「相場って……」 「足なんて飾りだよ。えら(ピー)にはわからないんだよ!」 「弓塚さん。その(ピー)というのは?」 「あはは、志貴さん。この世にはわからないことはあっても、触れてはいけないものが世界に満ちているんですよ」 「姉さんこそ、その混ざりすぎた言葉は危ないからやめたほうが……」 「まぁ、足はいいとして……」 「よくありません。気になります」 「いいのっ!」 これ以上、ツッコまれると困る人が多い。 だから翡翠の言葉は抹殺した。 「それより、弓塚さん」 「さっちん」 笑顔で弓塚が言う。 「……………」 「さっちん、だよ」 やっぱりそう呼べということなのだろうか。 「……………」 「え、ええと……さ―――」 「サッチーさん」 「それは嫌!」 呼ぼうかどうか迷っていると、琥珀さんが脇から口を挟み、弓塚は即座に否定した。 「我が侭ですね」 「ね、姉さん……」 「なんでよっ!?」 話が全然進まない。 いや、もともと何の話をしようとしていたのか忘れてしまいそうだった。 「幽霊もなにも、魂も残らない消滅の仕方したのにどうして出てこれるんだ」 吸血鬼は滅びれば塵に還るだけだ。 汚染された魂がこの世に残ることなんて、あらかじめ転生の儀式でもしておかなければありえないはずだ。 はずというのが、聞いただけの知識の弱みだが。 けれども、俺のナイフはあの時、彼女の死の線を突いた。 これ以上ないほど完全に彼女は消滅したはずだった。 「それがね、わからないんだ」 「え?」 「やっぱり、わたしの志貴くんへの思いが天に通じたのかなあ?」 弓塚は悪戯っぽい表情をして俺を見つめる。 その表情は少し幻想的で、魅惑される。 「お盆が近いからではないでしょうか」 「あ、翡翠ちゃんナイスです。きっとそうですよー」 「外野は黙ってて!」 あ、なんだか急速に幻惑から覚めた感じが。 「えっとね、ホントのところわたしも全然わからないけど……」 再び弓塚は俺の顔を見る。 不意に、生前一緒に下校した最後の時の表情が、彼女の顔に重なって見えた。 夕暮れの中で 語られる思い出と たったひとつの約束。 「……………」 急に胸が締めつけられるような苦しさを感じる。 そんな彼女に俺があげられたものはなにもない。 何一つなかった。 約束を守るどころか、最後の最後まで裏切ってしまった。 「遠野くんに伝えたいこと、いっぱいあったから」 「……………」 弓塚が笑みをこぼす。 さっきまでの明るい楽しそうな笑顔とは違って、どこか寂しげで、優しい微笑だった。 「わたしのこと、忘れていいよ」 「え?」 弓塚の言葉が理解できなかった。 「みんな……偶然だったんだもん」 「偶然……?」 「偶然、遠野くんのことを好きになって、 偶然、最近になってやっと親しくなれかけて、 偶然、遠野くんに似た人が夜の繁華街を歩いているって噂を聞いて、 偶然、吸血鬼に襲われて、 偶然、わたしも吸血鬼になっちゃって、 偶然、遠野くんはそんなわたしを殺す力を持っていて、 だから、みんな偶然なんだよね」 「……………」 「ほんと、いくつもの偶然が重なって……それがわたしにとっては少しだけ運が良くて、遠野くんにはとことん運が悪かったってこと」 笑顔のままで淡々と語る彼女の顔が、俺には痛くて見ているのが辛かった。 「だから、遠野くんはほんとーに運が悪かったんだよ。一方的に好きでいただけのわたしが、ああなっちゃったから」 そんなことを言い出す彼女を見ていられない。 「遠野くんは運の悪さを恨むだけでいい。悔やむことなんて、何一つないよ」 ―――遠野くん、か。 本当に彼女はそんなことを告げるために現れてくれたんだろうか。 だとしたら、俺はなんて――― 「―――って、ずるいね。半分以上はわたしのせいなのにね」 「ゆ、弓塚さん……」 たまらなくなって、彼女の名前を呼ぶ。 けれども、彼女はまだ喋り続けた。 「わたしがもう少し昔から声をかけていたら、逆に最後まで関わらないようにしていたら、遠野くんをあんな嫌な目にあわせずにすんだのに」 「弓塚さん」 「ほんと、ほんとだよ」 彼女は手を後ろで組みながら、柔らかく微笑み続ける。 俺のために。 「ほんとに、忘れることで遠野くんが少しでも楽になれるんだったら、忘れてほしい」 「弓塚!」 たまらない。 本当にたまらない。 「うん。それがいいよ。そのほうがいい。わたしも気が楽になるし」 うんうんと、弓塚は頷いている。 どこまで、人が好いんだ。 そんなコトを言われたら俺は、自分で納得できたことでさえ、できなくなってしまう。 「……………それで」 「え?」 「それでいいのか、弓塚は?」 我ながら、ひどいコトを言ってしまったと思う。 弓塚は、きょとん、とした顔をする。 「わたしは大丈夫」 でも一瞬で、元の柔らかな笑顔に戻る。 「これ以上、遠野くんに迷惑はかけたくないから」 「そんなことはない。迷惑なんて俺は―――」 「わたしはもともと、とっくに死んじゃっているんだし。だから今こうして遠野くんとお話できるだけでも、ラッキーボーナスみたいなものだよ」 「……………」 「もう! 遠野くんったら優しいから」 「いや、それは……」 「じゃあ、ひとつだけ我がま――― 「でも今回の事件は全てわたしから始まったわけですから、弓塚さんの言った全ての偶然もわたしの行動という必然から起こったわけなんですよねー」 「ね、姉さん……」 何か意図的に邪魔するように、琥珀さんが口を挟んできた。 「……………」 なんだか、琥珀さんを見る弓塚の目つきがすごく険しいのですが。 「そんな吸血鬼バリバリの顔していたら、志貴さんにお詫びのキスをしてもらえませんよ」 「また、邪魔するんだ」 声が恐い。 彼女の憎悪が、この狭い路地裏に充満する勢いで高まっていくのがわかる。 「そんな。わたしは不審者を屋敷に入れなかっただけじゃないですか。屋敷の使用人としては仕方なかったんですよー」 直後、弓塚から生ずる圧迫感が増した。 「……え、ええと翡翠」 「は、はい。志貴さま」 全身に殺気をまとった弓塚と、相変わらずニコニコしたままの琥珀さんが対峙するという予想外の展開に、青くなって壁に張りつくようにしている翡翠を俺は小声で呼び、手招いた。 「いったい二人の間に何が?」 「……………」 「そんな目で俺を見るなよ」 そりゃあどうせ、遠因は俺かもしれないけど。 身に覚えがない以上、どうしようもない。 弓塚が俺の家に立ち寄ったと琥珀さんから聞いたことがあるのを思い出す。 その時に何かあったのかもしれない。 「……………」 「……………」 元吸血鬼とはいってもすでに死んでいるはずの弓塚と、普通の人間とそう変わりないはずなのに得体の知れないモノを感じさせる琥珀さんとの激突は、どうなるのか予想もつかない。 「翡翠」 「はい」 「俺と一緒に逃げてくれるか?」 ごめん、さっちん。 やっぱり俺にできることはこれだけだ。 今まで逃げてきたのに、いまさら妥協するわけにはいかないし。 「……え?」 「いや?」 「そ、その……」 翡翠は一瞬顔を伏せ、そして琥珀たちに目をやってから、向き直って頷いた。 「どこまでも、お供いたします」 真っ赤になりながらも丁寧にお辞儀をするその姿が、とても可愛らしい。 思わず抱きしめてしまいたくなる。 が、今はそれどころじゃない。 「それじゃあ……」 「あっ…」 「ん?」 翡翠の腕を掴んでしまっていたことに気づく。 「ああ。ごめん!」 慌てて手を離したが、初めて肩に手を置いた時に比べれば、はっきりした拒絶ではなかった。 「…………えっと」 「いえ……その、大丈夫です」 「え?」 小声で聞き取りづらかったので、聞き直す。 「わたしの体は、志貴さまのためにありますから」 「へ?」 「なんでもありません。被害が及ぶ前に脱出しましょう」 「あ、うん……」 逆に翡翠に手を引かれる格好で、路地裏から出て行く。 あれだけ触れられるのを嫌がっていた翡翠の心境の変化がわからなかったが、本人が平気ならあえて追及する必要もないだろう。 何か誤解しているようでもあったし。 「あ……」 翡翠と一緒に路地裏から出ると、表通りに見覚えのある面々が並んでいた。 「ふーん。最後は結局そうなるんだ」 「意外でしたよね」 「私はてっきり、琥珀が出し抜くとばかり思ったんだけど」 アルクェイド、シエル先輩、秋葉がそろって俺たちを待ち構えるように立っていた。 「秋葉さま、そんな翡翠ちゃんの思いを踏みにじるような真似はしませんよー」 「えっ?」 「ね、姉さん!?」 振り返ると、にこやかな顔をした琥珀さんがすぐ後ろにいる。 「……………」 不満な顔をして続くのは弓塚だ。 「あ、そのええと……」 戸惑う俺たちをよそに、秋葉は琥珀さんを冷たい視線で睨みつける。 「琥珀。それじゃあ私の思いを踏みにじることにはためらいはないわけ?」 「それはその……秋葉さまたちが張り合ってしまうと、どうしても翡翠ちゃんが不利ですから」 「はあ。でもほんとに手際が良いですね。危うくこっちは死ぬところでしたよ」 「あはは、そうだよねー」 「あなたが私たちを殺しかけたんでしょうが!」 「そりゃあ、真剣勝負だもん。わたしを相手にして生き延びられるコトなんて滅多にないよ」 「まったくです。この責任をどうとってくれるのか、わたしも気になります」 ズイと迫る三人。 琥珀さん絶体絶命。 それなのに琥珀さんは、落ち着き払って俺を見て言った。 「でも結局は、志貴さんが決めることですから」 「げ」 「げ?」 俺の呻きに翡翠が眉をひそめる。 いや、そんな律儀に反応をされても困る。 「それもそうですね。わたしたちがいくら争ったところで、結局は遠野くんが決めることですものね」 そういうのはもっと早く気づくか、永遠に気づかないままでいてほしい。 「不本意ですけど、確かにこればかりは琥珀の言う通りね」 こんなところで、急に物分かりが良くなることもないだろうに。 「なーんだ。じゃあ志貴がわたしを選べば済むことなんだ」 いや、そういうことは大きな声で口に出すな。少なくとも他のみんながいないところで言ってくれ。 「志貴さま」 そのまっすぐな視線が痛い。 ものすっごく痛い。 「話が綺麗にまとまったところで、志貴さんから一言どうぞ」 にこやかにそんなことをおっしゃる琥珀さん。 恨む。 俺は今ほどあなたを恨んだことはない。 「あー、えー」 心臓が高鳴る。 どくんどくんと激しく鼓動する。 見つめてくる五人の視線。 十の瞳。 「ええっと……」 一言でも聞き漏らすまいとする真剣な表情が並んでいて、緊張の汗が噴き出してくる。 「―――あっ、持病の貧血が」 「「「「「嘘つけっ!!」」」」」 ガタン ガタン ガタン ガタン 結局、俺の学校も夏休みに入ってから、親睦をはかるという意味でみんなで遠野家の別荘に行くことになった。 身の安全を確保するために有彦も誘おうと思ったのだが、秋葉とシエル先輩が「これ以上ライバルを増やしたくない」と許してくれなかった。 まったく、何を考えているんだか。 単線のレールの上を揺れながら、二両連結の車両が走る。 静かなところが良いと、避暑地の中でも田舎にある別荘をわざわざ選んだという秋葉の言葉通り、古ぼけた列車に乗り込んだ俺たちの他に乗客は誰もいなかった。 そのせいか、初めのうちはみんなも大人しくしていたが、琥珀さんが用意した酒やお菓子を飲んだり食べたりしているうちに、俺を囲んでまるで宴会のような騒ぎになってしまった。 休んでいる俺の向かい側、みんなが居る座席の前の通路には、さっきまでの宴の残骸が散らばっている。 彼女たちの足元に並べられたアルコールの空き缶や空き瓶の数は尋常じゃない。 みんなは騒ぎ疲れたのか酔いがまわったのか、それぞれの座席で居眠りしていた。 それでやっと俺は解放され、向かい側の座席で一息ついていたわけだ。 アルコールの臭いを車両の外に追い出すために窓を開けていたが、もうそろそろ閉めてもいいかもしれない。 警笛が鳴り、列車が駅を離れる。 目的地の駅まで、あと一時間半から二時間ぐらいだろうか。 まだまだ時間がかかるとわかったら、自然にあくびが漏れた。 なるべく酒には口をつけないようにしたつもりだったが、秋葉とアルクェイドが両脇について、交互に酌をしてくれたせいで、随分と過ごしてしまったようだ。 少し眠いが、気分は悪くなかった。 窓に流れる景色をぼんやり眺めていると、遠くで子供たちのはしゃぐ声がする。 車両の前の方で、兄妹だろうか、年の近そうな子供たちが何かを手にして遊んでいる。 見ると、親が作ってくれたのか、男の子の手にはペーパークラフトの飛行機が握られていた。 「ぐぃぃぃぃぃぃぃん」 男の子が紙飛行機を掲げて飛ばす真似をしながら辺りを歩きまわり、女の子がついていっているようだった。 すぐ側の座席から、子供たちの両親がときおり声をかけながらにこやかに見守っていた。 微笑ましい気分になる。 「兄さん。どうしたんですか?」 「え?」 起きだしてきたらしく、秋葉がそう言って俺の隣に移ってきた。 そして俺の視線の先を目で追って眉をひそめる。 「まさか兄さん、そんな趣味が……」 「ないない。秋葉の子供の頃を思い出していたんだよ」 「私の、ですか?」 「子供の頃の秋葉は、あんなふうに素直で大人しかったなって」 「悪かったですね」 「拗ねるな拗ねるな」 「兄さんはあの頃から意地悪な人でしたね」 「そうだったかな?」 「そうでした」 むっとした顔をしているが、本当に怒っているわけではないらしく、すぐに笑顔になる。 そんな秋葉が可愛くて、抱き寄せる。 「あ」 そしてそのまま秋葉の頭を撫でる。 「に、兄さん……」 秋葉は顔を真っ赤にしている。 「もう少し素直に甘えろよ。八年も放っておいて今からじゃ遅いかもしれないが」 「……………」 秋葉は目を閉じる。 「……じゅうぶんです」 「あー、ズルい。志貴。わたしにもわたしにも」 秋葉とは反対側にアルクェイドがやってくる。 「なんだ、アルクェイドも起きたのか?」 「あれぐらいのお酒じゃわたし酔わないよ」 「そのわりにはしっかりと熟睡してなかったか?」 「えへへー」 その曖昧な笑みは否定だか肯定だかわからない。 まぁ、どっちでもいいのだが。 「たまにはのんびり浸らせろよ」 「だってー」 まったく子供みたいなヤツだ。 「ほら」 「あれ?」 秋葉と同じように抱き寄せ、もう片方の手を頭に乗せてやる。 「むふふ……」 それで満足したのか、アルクェイドは目を閉じて眠ってしまった。 「……秋葉?」 気がつけば秋葉も俺に寄り添った姿勢のまま眠っていた。 どうりでアルクェイドが押しかけてきても大人しいと思った。 秋葉とアルクェイドの重みを感じながら、目を閉じる。 「……………」 「こうゆう時は遠慮があるほうが損しちゃいますねー」 「本当です。人が好いですよね、わたしたち」 しばらく目を閉じたまま列車に揺られていると、通路を挟んで反対側の席にいる琥珀さんたちの話し声が聞こえてくる。 「ああゆうのは、見ているだけで悔しくなってきちゃうぐらい気持ち良さそうですね」 「妬けちゃいますから、今晩はわたしたちで志貴さんを独占しちゃいましょうか」 「姉さん!」 「翡翠ちゃんも羨ましいんじゃない?」 「……………」 「とにかく、あの二人をすっきりしゃっきり排除するのが先決……」 「実はですね、作戦はもうばっちり考えて……」 ―――こんな夢のような時が続けばいい。 なんの因果か巡り合わせか、俺はみんなを同じくらい好きになってしまった。 その一つ一つは、愛と呼ぶほど大層なものではないかもしれないが、その中の誰に対しても離れがたい思いを抱いてしまっている。 こうしてみんなで馬鹿やりながら、楽しく過ごせればそれでいい。 誰か一人を選んで、他のみんなへの思いを切り捨てるような真似はできそうもない。 そうするにはもう、俺はあまりにもみんなと触れ合いすぎてしまった。 こんな罵迦にみんなが呆れてくれたらそれはそれでかまわない。 そのほうがきっとみんな、幸せになれるだろうから。 ―――って、都合の良い幻想だと思わないか? ……いいんじゃないかな。志貴くんらしいよ。 ―――まぁ、きっとロクな死に方しないだろうな。 ……そうなったら会えるかな? ―――どうだろうな。 会えたら、いいな。 ……うん。会えたらいいよね。 ―――そうなったら色々とよろしくな、弓塚。 返事は聞こえなかった。 全て錯覚だったのか、これこそ都合の良い幻想だったのかは判らない。 またどっちでも良かった。 体が車内の揺れに慣れていく。 ガタンガタンと列車が立てる音が、だんだん遠くなっていく。 もしかしたら、他のみんなも眠ってしまったのかもしれない。 それがいい。 起きた時には、また騒がしくなるだろうから。 目が覚めたら、俺もみんなと夏の陽射しを浴びてはしゃぎまわろう。 今の俺にはそれができるのだから。 ―――俺を生かした責任、とってもらうからな。 誰に向けるでもなく最後にそう思いながら、意識がゆっくりと落ちていった。 ――――遠野志貴の夏が、はじまろうとしていた。 <完> |