『わたしを信じて』
――志貴さまが引き篭もった。
そろそろそうなるんじゃないか、そうなってしまうのではないかというわたしの心配が見事に当たりました。
元々、虚弱体質な体と情緒不安定だった心をお持ちの志貴さまでしたが、衰弱が酷くなり寝たきりになってからは更におかしくなっていたので、こうなることはある程度予測できたことでした。
ですが、使用人としてのわたしのできることと言えば残念ながら志貴さまが日々弱っていくのを姉さんが設置した監視カメラで覗いたり、志貴さまが口走る妄言を姉さんが設置した盗聴器で聞き取ることぐらいしかできませんでした。
志貴さまに直接触れることもできず、苦しみの原因を知っていても口にすることもできず、解決方法を知りながらも出し惜しみする為に未だに明かせないというこの身の至らなさ、力の無さが不甲斐なく、実に口惜しいです。
ですので、フラフラと外出して戻ってきてそのまま部屋に鍵を掛けてヒッキーになってしまわれた志貴さまに対して、わたしは秋葉さまに知らせて、おめーのせいでこうなったんだよと遠まわしに先日叩かれた腹いせをすることぐらいしかできませんでした。
ですが馬鹿な秋葉さまは何も考えずに志貴さまを責めて、ただドアを叩くだけ。
どうやら遠野家の連中は何方も反省という言葉をご存知無いようです。
ドンドン。ドンドン。ドンドン。
「兄さん! 開けてください、兄さん!」
先ほどから秋葉さまが志貴さまの部屋のドアを叩いているのに返事がありません。
心配です。
幾たびも幾たびも叩き続けることを繰り返しています。
本当に心配です。
「兄さん……! 起きているんでしょう、検診をしなくちゃいけないのに鍵なんかかけて何しているんですか!」
秋葉さまはそれはもう必死に、部屋の中の志貴さまに呼び掛け続けます。
とても心配です。
「ああもうっ、とにかく開けてくださいっ! 夕方の点滴もしてないなんて、兄さんは死にたいんですか!」
拳でドアを叩きながら、何度も何度も呼びかけます。
心の底から心配です。
「あんなに激しく叩いたらドアが外れちゃうものね。本当に心配」
「黙れ、ドブス」
わたしのフリをして志貴さまのちん○んを上と下の口で飲んだ馬鹿姉の頓珍漢な言葉にわたしは優しく諌めます。
わたしは男は触れなくても女は触れるので幾らでも折檻はし放題なのですが、この姉はすぐに「わたしは人形…」とか呟いて意識を飛ばすので苛めても大して面白くありません。
もしかしたら監視部屋の存在をわたしに気付かせたのもわざとなのかも知れません。
油断のならない姉です。
「兄さん……!? ちょっと、聞いているんでしょう、兄さん……!」
それこそ恨みさえ篭っていそうな声で、秋葉さまが部屋の中の志貴さまに呼びかけて続けます。
ドアを叩く音は慣れましたが、秋葉の声は何とかならないのでしょうか。
キャンキャンと発情した牝犬じゃあるまいしと思った時、わたしの心を代弁するかのような志貴さまの声が部屋の中から聞こえてきました。
「うる、さい…………!!」
「え――――――」
思わず息を飲む秋葉さま。
思い上がりが糾される瞬間を見た気がしました。
「あ、琥珀ちゃん、何か嬉しそう」
そんなことはありません。
「う、うるさいって……兄さん、私は兄さんが心配で―――」
未練がましくグダグダ言いかける秋葉さまを遮るように志貴さまは更に続けます。
「……知らない。俺はここから出て行かない。俺のコトが心配だっていうんなら、秋葉は消えてくれ」
「なっ―――」
絶句する秋葉さま。
屋敷内は勿論、学校などでも同級生に囲まれ、下級生には慕われ、上級生にはちやほやと可愛がられてと、我侭放題に女王様気取りで自分の意のままにならないことなど何ひとつ無いと思っていたに違いありません。
兎も角、恐らくはこんな頭から拒絶されるのは初めての経験なのでしょう。
どうしていいのか判らないといった表情が印象的です。
「いいか、俺は絶対に出て行かないからな。俺はおまえに、殺されてなんか、やらない……!」
そんな秋葉さまに追い討ちをかけるような志貴さまの宣言に、秋葉さまは思わず遮るように強くドアを叩きました。
まるで図星をさされたかのように秋葉さまは青褪め、即座に姉さんの方を見ます。
そこに事件あらば、琥珀の影有り――正しい判断です。
「さっきの翡翠ちゃんの推測部分は某ノベライズの台詞から抜粋ですよー」
姉さんはいつもの笑顔で首を横に振って自分ではないとアピール。
すると秋葉さまの追及の目はわたしに向けられます。
この人は自らを省みるということを一度でもしたことがあるのでしょうかと思いながらも、わたしも表情を殺して首を横に振ります。
どうせまたこの二人のことです。
いつも通り姉さんが仕組んだ策略にいつも通り秋葉さまが引っ掛かって何かがバレたか誤解されるような状況を作ったに決まっています。
わたしは志貴さまと志貴さまの脱いだ着衣にしか興味がありませんので、何をやらかしたのかはわかりませんが、どうせまたろくでもないことでしょう。
こちらを見る秋葉さまの背中越しに姉さんを見ますと、いつも通りの笑顔で肯定しています。くだらない事を企むこの人もこの人ですが、毎度毎度引っ掛かり続ける秋葉さまもそろそろどうにかならないものでしょうか。
「……兄さん、それはどういう意味ですか。私が兄さんを殺すだなんて、誰にそんな事を聞いたんです」
結局、秋葉さまは御自分のミスを認めるどころか考えにも至らなかったようで、第三者の陰謀説に落ち着いたようです。本当に馬鹿な人です。
「……いいから出ていけ……! 俺は殺人鬼なんかじゃない、まだマトモな人間なんだ……!」
姉さんのせいで誤解している志貴さまがそう言って秋葉さまを撥ねつけますと、秋葉さまはその言葉の中に新たな理由を見つけたように、ハッと表情を変えました。
「まさか――――兄さん、貴方はそこまで引きずられてしまっているんですか」
秋葉さまはそう一人決め込み呆然として呟くと、
「……わかりました。兄さんはいま疲れているようですから、また後でやってきます」
最後まで自分の行いが原因になっている可能性を吟味せずに、ドアの前から離れました。
「――うるさい。俺は、秋葉たちをこの部屋には入れない……!」
「……兄さん。今夜は兄さんの言うことを聞いてあげますけど、明日は私の言う事を聞いてもらいます。今の兄さんは一日でも危ないのに、二日も放っておいたらそれこそ衰弱死してしまう。だから、あと一日だけ我慢していてください」
そう言って秋葉さまは顎でわたしにもついていくように命令すると、慌しく下へと降りていきました。
捨て台詞も負け犬臭が漂っていて愉快でしたが、笑い飛ばすわけにもいかず渋々姉と共に秋葉さまのあとを追いました。
「一体、これはどういうことなの?」
居間に戻るや否や、開口一番で秋葉さまはわたしたちを詰問してきました。
腕組みをして無い胸を反らして心なしか仁王立ち。
―――駄目ですこの人、何もわかっていません。
「あー。困りましたねー」
少しも困っちゃいねぇ顔をした姉さんがまず口を開きます。
全てはこの女が原因だということに誰かいい加減気付いてもらいたいものです。特に秋葉。
「そんなことを今更口に出さないでも十分困っています! どうして兄さんはああなったのよ!」
「これは噂の引き篭もりという行為ですね」
「引き篭もり?」
「はい。秋葉さまはご存知ないんですか」
「し、知っているわよ。それくらい!」
そう聞かれればそう答えるのが秋葉さま。
秋葉さまの言動はパターンにいつも填まり過ぎていて実に情けないです。
精神構造を分析してデジタル化させたら物凄く容量の少ないこと請け合いです。
「こういう時はですね、どんなになっても無理矢理ドアを開けるようなことをしてはいけないんですよ。自分の殻に閉じこもってしまった人は繊細で臆病ですから、一度傷つくと一生傷が残ることになりかねないんですから」
「え、ええ。そんなこと言われなくてもわかっているわ!」
「ですからこの場合、志貴さんが自分からドアを開けてくれるように持ち込むのが大事なんです」
姉さんの話術の特徴は最初に本当のことを言うことです。
「でも一体どうやったら……」
「こういう時は古来から日本に伝わる伝統儀式に則った正しいやり方で事を行うのが宜しいと思いますよ」
「古来?」
「丁度ここにマニュアルが」
姉さんは用意していたように、テーブルの上に栞を挟んで置いてあった小冊子を拾い上げて秋葉さまに差し出しました。
そしておもむろに嘘を言い出すのがこの人のやり口です。
・
・
・
秋葉達を追っ払った後、俺はそのまま壁にもたれかかると、眠らないようにずっと目蓋を開け続けていた。
「はぁ………はぁ………はぁ」
呼吸が上手くできない。
確かに秋葉の言う通り、このままだと本当に衰弱死してしまう。
「はぁ………はぁ………はぁ」
それでも、秋葉に殺されるよりは、いい。
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
「な、なんだ……」
遂に俺は気が狂ってしまったのだろうか。
時計の秒針と自分の呼吸の音しか聞こえなかった耳に、リズムカルに何かが打ち鳴らされるような聞こえてくる。
『朝〜、朝だよ〜 朝ご飯食べて学校行くよ〜』
『朝〜、朝だよ〜 朝ご飯食べて学校行くよ〜』
『朝〜、朝だよ〜 朝ご飯食べて学校行くよ〜』
「じゃあ遠慮なくいきますよ」
「止めてください、マスター! 痛い!痛い!痛い!」
そんな奇天烈な電子録音からの声がしたかと思えば、悲鳴と共に金属同士がぶつかるような音が響き、
「ちゃっちゃと焼きますよー」
「私のエドを返せ! 返してくれ! な!? や、やめろ! やめてくれーっ!」
パチリと火がはぜて、何かが焼けるような臭いが漂い、
「「モスラ〜ヤ モスラ〜 モスラ〜ヤ モス〜ラ」」
恐らく翡翠と琥珀さんのものと思われる歌声がドアの向こう側からする。
そして極めつけは
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
……どん、どとん、どん♪
そんな喧騒を全て隠すような妙な音。
何かを踏み鳴らしているような音がする。
間違いなく、
――ドアの向こうに、何かがある。
そう思ったが、体が動かない。
どうしていいのか途方に暮れていると、体を動かしているのか息を切らせている秋葉の声がドア越しに飛び込んできた。
「兄さん。聞こえていますか?」
アア、キコエテイル。キコエテイルゾ、アキハ。
俺じゃない俺が俺よりも先に頷いた。
どうやら俺以上に奴の方がウズウズしていたらしい。
ニブチン主人公属性の俺ではなかなか気付かない何かに気付いたような、どこか期待したような反応だ。
―――ヤバい。
辛うじて俺の中で保っているものが壊れる。
そんな予感がしたが、秋葉は気付かずに言葉を続けた。
「兄さんよりも尊い兄さんを手に入れたから、嬉しくなってこうして踊って……
「アキハァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ――――――――――ッ!!」
・
・
・
――――夜が明けました。
ひどく、静かな朝でした。
「――――――――」
体はもう、ぴくりとも動きません。
思考も完全に停止しています。
鏡でもありましたら、こうして廊下の壁に倒れかかっている自分が糸の切れた人形に見えていることでしょう。
近くには志貴さまの体がありました。
髪を白く染め上げたヘアスタイルに、下半身はすっぽんぽんという欲望に忠実な出で立ちで昏倒しております。
どうやら根こそぎ引き摺られてしまったなれの果てのようです。
その体の下敷きになるようにして秋葉さまの体がありました。
丈の短い白い薄手の着物は捲りあがっていて、脆弱な肉付きが曝け出されていて見るほうが気の毒な姿で気を失っております。
足場にしていた木の桶はバラバラになっていましたが、笹の葉は確りと握り締められたままでした。
他にも黒焦げになった動物の骨やら剣やら粗大ゴミのような鉄の塊やらが散乱し、眼鏡女やら変態コート男やらがそれぞれ意識をなくしておりました。
「……あれ……だめ、だよ、翡翠ちゃん。そんなに、泣い、てると……昔に、戻った、みたい」
日頃の行いが悪かったのか、一人だけ手摺を越えて一階に頭から落ちた姉さんの声が下から聞こえてきましたが、割かし頑丈な人形ですので放っておくことにして這うようにして志貴さまの元に向かいました。
「志貴……さまっ」
体も心も薄っぺらい秋葉さまを押しのけるようにして何とか直接触れずに志貴さまの体を自分の方へ引き寄せますと、必死で呼びかけました。
「志貴さま……志貴さま……志貴さ……」
耳元で何度か呼びかけます。起きてくださらないと効果は発揮しません。
「…………ぅ」
ああ、起きてくれました。
安堵で目を細めます。
「志貴さま」
「ひ、すい……?」
そうです。
目を見てください。
目を。
わたしの、目を。
志貴さま、わたしの目を見てください。
「…………翡翠?」
「志貴さま、貴方が誰も信じられないというのでしたら、わたしを信じてくださって結構です。ですから、今後一生わたしの言うことを聞いてください。わたしの言葉は神の言葉です。いいですね、ゆめ疑うことなきように」
「かみのことば……」
「そうです。わたしだけを見て、わたしだけを信じてください。そうすれば志貴さまを苦しみから救って差し上げることが……
「うわ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
「志貴さまっ!?」
チッ。まだ早かったか。
――志貴さまが引き篭もった。