Select the sixth.


2001/03/21

 ………体は疲れている。  なのに、深い眠りにつけないでいる。  体のふしぶしにある傷がズキズキと痛んで、熟睡しようとすると意識が半端に起き てしまうためだ。  ベッドの中から時計を見る。  午前三時過ぎ―――もう五時間近く、眠りとまどろみの境界の中にいる。 「……くそ、眠れない」  眠りたくても眠れない、というのは拷問に近いと思う。  チッ、チッ、チッ、と時を刻む秒針の静けさが癪に障る。  チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、ギイ、チッ、チッ、チッ、チッ―――― 「え――?」  今、時計の秒針の音にまぎれて、物音がした気がする。  扉が開く音に似ていたけど、こんな時間に誰がやってくるっていうんだろう?  カツ、カツ、カツ。  いや、間違いない。  誰か部屋に入ってきて、こっちに近づいてきている。 「―――――」  誰だろう……こんな夜遅くにやってくるっていったら、それは――――  アイツかもしれない。  ―――ゾクリ  不意に寒けがした。  今まさにカーテンの向こうに、窓の外にはあの蒼い鳥―――不気味な烏がじっと見 張っているのではないかという錯覚に陥っていた。  そう烏は彼の―――あの吸血鬼の使い魔だった。  黒いコートを着た男。    ネロ・カオス  全身から汗が吹き出していた。  そんな筈はない。  あいつはもう復活することがない。  これ以上無いほど滅んだ筈だ。  だから俺の前に姿を現わすことなんてない。  わかっている。  わかっているが目を開くことが出来ない。  怖い。  もし、目を開いた時に目の前にネロがいたら。  あの恐ろしく冷たい目をした吸血鬼が立っていたら俺は何もできないうちに殺され てしまうだろう。  俺が奴を殺す事のできる唯一の武器のナイフは、引き出しの中にしまってある。  しかしそれを取り出す暇もないだろう。  肌で感じる。  侵入者はまちがい無く今、俺を見下ろしている。  嫌だ。  絶対に違う。  こんなところに、こんなところにお前がいる筈がない。  きっと見回りに来た翡翠か誰かに決まっている。  目を開ければそれはすぐに確認できる。  でも俺は目を開けることができない。  怖かった。  怖い。  怖い。  怖い。  震えることもできないでいた。  全身の毛穴という毛穴から汗を吹き出させ、体を硬直させたままでいた。  嫌だ。  嫌だ。  嫌だ。  嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌 だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌 だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌 だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。  このまま何もわけのわからないうちに殺されるなんて。 「危害を加えるつもりはない」  ――危害を加えるつもりはない。  そう言われても、安心出来るはずがない。 「だが、お前を殺そうと思えばとっくに殺している」  正論だ。  でも、理屈じゃない。  本能的な恐怖はそんな理屈で納得できるものではない。 「だが、言葉で伝達する以外、俺は方法を知らぬ」  それは判らなくもないが―――はて、  俺は誰と会話をしているのだろう。  気がついた時、俺は叫んでいた。 「うわぁぁぁぁぁぁぁ――――――っ!?」  何と言うことだろう。  生きていた。  生きていたのだ。  俺とアルクェイドが共に戦い、俺の手で葬り去った筈の敵――ネロ・カオスが枕元 に立っていた。 「やっと起きたか」 「ネ、ネロ………」  恐怖で凍りつく。  二度と甦るはずのない絶対の消滅でさえ、この混沌の主には通用しなかったという ことなのか。 「ど、どうして……」 「理由など必要ない」  錆びたような独特の声。  忘れようのない声。 「そ、そんな……」  アルクェイドも保証したし、彼女の保証がなくても俺自身判っていた筈だった。  それなのに奴はここにいる。 「………」 「あ、ああ………あああ………」  起こり得ないことが起きている。  完全に殺したはずのネロが生きている。  殺したと思ったアルクェイドを交差点で見かけた時のような、いやそれ以上の恐慌 が俺を襲う。  ネロがいる。  俺の目の前に。  俺の部屋の中に。  俺が―――遠野志貴が日常を過ごす空間の中に。  ネロという非日常が。  殺したはずの吸血鬼がいるという非現実が。 「………」 「………」  声が出なくなる。  喉の神経が麻痺してしまったかのように、言葉が出ない。  例え出たとしても、どんな言葉を出したらいいのか判らなかったが。 「………」 「………」  ネロに長く見つめられている。  その感情の欠片もない目で俺を見つめている。  その魔眼に絡め取られてしまったのか、体が全く動かない。  いや、動かないのはずっと前からだ。  ―――な、なんで……。  その思いだけ頭の中をぐるぐると渦巻く。  これは悪い夢だ。  そうに決まっている。  けれども俺は―――  哀しいことに―――  悪い夢を見ることは珍しくなかった。 「………」 「うむ、仕方がない。落ち着くまで少し昔話にでも付き合ってもらおう。人間よ」  俺が何も言い出さないことをどう思ったのかわからないが、長い沈黙を経て、ネロ の方から俺に話しかけてきた。  表情も変わらず、感情というものが全くない声で口だけを動かし出した。 「………」 「人の身だった頃、私はフォアブロ・ロワインと言うその時代には有り触れたただの 市民だった」 「………」 「私には一人、妹がいた。その妹は生まれつき病弱でいつも寝てばかりいた」 「………」  …………………………………。  ……………………………。  ………………………。  …………………。  ……………。  ………。  …。 「そこで私は思ったのだ。私が妹のいるえいえんの世界に向かう為にはえいえんの魂 を得ることが必要なのではないかと」 「………」  俺は彼が何を言いたいのかわからない。  相変わらずその顔に感情というものはない。  淡々と本でも諳んじているように、話を続ける。  いや、俺はやつの話を聞いていなかった。  聞えていなかった。  俺の耳は、俺の全神経は全て  なぜ?  しか発していなかったから。  なぜネロが生きているのか  なぜネロはここにきたのか  なぜネロは俺を殺さないのか  ぐるぐるといくつもの「なぜ」が絡み合い、ぶつかりあって、ようやくひとつの「 なぜ」が固まった。 「あの……」 「なんだ」  話の腰を折った格好になったのだが、俺は気づかなかった。  やつも気にした素振りもない。 「い、いやその………」 「………」  じっと見つめる。  睨んでいるようにも見えない。  ただ、見ていた。 「………」  そのことに気づいて俺は、やっと大きく息を吐いた。  俺はまだ何もされていない。 「何しに、来たんだ?」  そして軽く息を整えてから、聞いた。 「………」  奴の表情は変わらない。 「何しにこんな時間、俺の部屋に来たんだ?」  決まっている。  俺を殺すためだ。  俺に殺された―――もしくは殺されかけた復讐をするためにやってきたのだろう。  けれどもすぐに殺さなかったところを見ると、すぐに殺せない事情か理由があるの だ。  それを聞かなくては。  ネロが落ち着いているせいか、俺も落ち着いてきていた。  化け物の冷静さに感化されて、冷静になれるというのも皮肉な話だ。  ヤツは瞬時に俺を殺せる。  俺は殺せない。  何もできずに殺されるだけだろう。  その絶対的な立場の差も、今は却って落ち着ける材料になっていた。  ジタバタしたところではじまらない。  軽く息を吸って吐く。  呼吸のリズムを少し変えるだけでいい。  これで幾分楽になれた。  よし、開き直ることができた。 「………」 「こんな時間はなかったな。オマエがマトモに活動できるのは夜だけだからな」  時計を見た。  三時過ぎ。  夜明けまではまだ遠い。  ああ、やっぱり絶望的だ。  それなのに笑いたくなるほど、落ち着けている。  安らぎを覚えられるほど。 「なんのつもりもない」 「なに?」  ネロが発した言葉に首を傾げる。 「吸血鬼が人間の部屋にやってくる理由なんて、一つしかないだろう」 「――っ!?」  俺はその言葉を聞いて蒼くなった。  そして慌てて首筋に手を当てた。  汗に濡れた掌からは、汗に濡れた首筋の肌触わりしか伝わってこなかった。  ドクンドクン  ドクンドクン  いや、首筋の血管が脈打っているのを感じ取ることができた。  しかし特にどういうものでもない。  興奮状態で幾分動悸が激しいだけで。  まだ、何もされてはいない。  まだ。 「そうだな。一つ、だけだな」  首筋を抑えたまま、俺はそう言ってネロを睨みつけた。  片膝を起こして動けるように身構える。  同時にどうにもならないことも判っていた。  奴の狙いが俺を下僕にすることであっても、俺はそれを防ぐ術がない。  だが俺は自分の口元に、自然と笑みが作られているのを自覚していた。  策があるわけじゃない。  何とかなるとも思っていない。  俺の中にあるのは達観と、やけくそだけだった。 「ああ。夜這いにきた」 「………」  気のせいか、変な言葉を聞いた気がした。  聞き違いか、それとも吸血鬼独特の隠喩か何かなのだろうか。  ネロは相変わらず無表情のままだった。  さっき口を動かしたのが錯覚だったのではないかと思えるほどに。 「何の冗談だ」 「冗談だと?」  俺はまだ口だけで笑っている。  それはそうだろう。  口元だけでも笑わなければこの緊張感の中、発狂してしまいそうだ。  だが、奴は相変わらず無表情だった。  そして再び口を開く。 「私は冗談など知らぬ」 「血を吸いにきたのだろう?」 「血だと?」  ここで初めて奴の表情が変化した。  顔をしかめているような、歪んだ表情になる。 「私は血など吸わぬ。それはオマエも知っていると思ったがな、人間よ」 「―――っ!」  そうだ。  目の前のコイツは己の体からこの世のあらゆる生き物を出して獲物を―――人間を 食べることで力を得ていた。  そんなことさえ忘れていた。  待て。  だとすると、一連の吸血鬼事件の犯人は―――。 「人間の趣味趣向は私には理解できぬ」  俺の考えを無視し、ネロは続けた。 「オマエの考えも理解したいとも思わん。だが、オマエが望んだことなのだから、仕 方があるまい」 「なに?」 「オマエが私を呼んだのだから、私が出てくるのが筋というものだろう」  この目の前の吸血鬼は、いやこの化け物は何を言っているのだ。 「よ、呼んだだと?」 「でなくば、完全に滅ぼされた私がオマエの前に出てこれるわけがない」  確かに。  納得だ。  いや、全然納得できない。 「そんな馬鹿な! 俺はお前なんか呼んだ憶えはない!」  思わず叫んでいた。  だが、ネロはその俺の大声にもピクリとも反応することはなかった。 「憶えがないはずはない。私が勝手に出てこられることはないのだ。オマエが私を使 役させるために呼んだのだから」 「使役だと? それは一体……」  俺はこんな化け物をどうしようというのだ。  どうしようもなにも、俺は一度だってネロに何かをさせようだとか考えたことはな い。  ネロのことを何か考えたことなどない。  ないはずだ。 「夜這いだ」 「だから夜這いって、一体なんだっていうんだ!」 「………」  意味がわからない。  何をこの化け物は言っているのだろう。  ナニヲイッテイルンダロウ。 「夜這いは夜這いだ。それが俺がオマエに呼ばれてきた唯一の理由だ」 「だからっ……」 「あんまり問答している暇はない。夜もそんなに長くはないのだからな。私は私の義 務を遂行するだけのことだ」  淡々としながらも、ネロの口調はやや早口になっているようだった。 「ま、待てっ」  死ぬ覚悟はできていたと思っていたけれど、わけのわからないあやふやな状態のま ま死ぬのはやはり怖かった。  いや、ずっと怖かったのだ。  意識して忘れていただけで。 「だけど―――」  違う気がした。  その怖いとは違う怖さを感じていた。  普通じゃない。  普通なんて最初からなかったかも知れないけれども、今かなり普通じゃない状況だ と感じていた。 「本来ならこのようなこと、屈辱に思うべきなのだろう。が、なぜか気にならない」 「………」  ネロの言葉が怖い。  淡々としているのがなお一層。 「魂まで屈服させられたというのは、今の私の状態を指すのかも知れんな。だから― ――」  そう言ってネロは自分のコートをまるでマントのように持ち上げる。  そのコートの中は泥のような闇。  輪郭だけが朧げにみえるだけだ。  そして俺はそこから何が飛び出してくるのか知っている。 「これも契約だ」 「うわぁっ!」  俺は情けない叫び声をあげて思わず両手をかざした。  勿論、こんなもので何も防げる筈はないと判っているのに。  そう、彼の身体からは幾多もの猛禽類を出すことが……… 「わぁぁぁぁぁぁぁぁ………あ? ひゃあっ!?」  最初に出てきたのは兎だった。  だた、その耳を生やしているのは獣ではなく、人間だった。  これは所謂―――バニーさんと呼ばれるものなのだろうか。  続いて出てきたのは尻尾からして狐らしかった。  犬や猫もいた。  黄色と黒の縞になっているのは虎のつもりなんだろうか。色違いは豹なのか。  いろいろな獣の装いをした者が彼のマントから飛び出してくる。  壮観だった。  同時に、蒼白になった。 「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ――――――――――――っ!!」  体に付けた擬似の耳や尻尾をつけていたのは、黒のビキニパンツ一枚に筋骨隆々の 男だった。  男達がいた。  禿もいた。  デブもいた。  胸毛もいた。  みな一様にテカっていた。  悪夢だ。  確かに彼は獣を出すことができる化け物だ。  だけども、こんなケダモノ達まで出せるとは思わなかった。  わけがわからない。  何故意識が飛ばないのだろう。  何故ネロはこんなことをするのだろう。  わからない。 「さすがにこの部屋の中ではあまり数を出すことはできない」  出さなくていい。一匹もださなくていい。  そう言いたかったが声が出なかった。  俺はケダモノ達に全身を押さえつけられていた。  前にネロと戦った時もこうだったが、あの時はこんな汗臭くなかった。 「案じるな。こいつらは押さえつけているだけだ」  全然嬉しくない言葉を聞く。 「なんにしろ我が肉体の一部ではあるのだから、変わらないと言えば変わらないのだ が」  狂いそうだった。  いや、もうとっくに狂ってしまったのだろう。  でなければこんなことがあるはずがない。  悪夢だ。 「……………夢だ」  質の悪すぎる夢を見ていると、頬をつねってみたかったが、全身押さえつけられて いて確かめることができない。 「でははじめるとしよう」 「な―――なにを」  本能的な、これ以上ない恐怖を感じた。  やつの言葉を思い出す。  絶望的な想いと共に。  夜這い―――。  カオスはマントを脱ぎ捨て、押さえつけられて動けない俺の寝間着に手をかけた。 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――――――――――― ――――――――――――――っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ っっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」  ――そして、最後はゆっくりと……… 「――さ―ま 志貴さま! 志貴さま!!」 「―――あ、え?」 「志貴さま」 「―――あ――さ」 「志貴さま」 「ひ、ひす……い?」 「はい」  目の前には翡翠がいた。  ぼんやりとしていた意識が目を覚ます。  窓からは陽射しが差し込んできていて、部屋は暖かな雰囲気に包まれている。 「ずいぶんとうなされておりましたが、お体の気分はいかがですか?」  その言葉で全てを思い出した。  同時にずきずきと身体の奥が痛み出したような気がした。  胸の古傷ではなくてもっと下。  今まで感じたことの無いような痛みが。 「…………………」  俺は。 「志貴さま?」 「ひ、ひすい……」  俺はもう。 「はい」 「俺はもう………駄目だ」  俺はもう……。 「は?」 「あはは――」 「志貴、さま?」 「あはははははははは、あは、あははははははは」 「志貴さまっ!?」 「あははははははははははははははははは、あはは、あはははは、あははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」 「し、志きさ………あ、あああ、あ、あき、秋葉さま―――――――っ!!」 ・ ・ ・ 「……アルクェイド。昨夜って、なに?」 「あれ? おっかしいなあ、ちゃんと夢魔を送っておいたんだけど」 「まった。なに、そのムマって」 「えーと、ようするにその本人が望むような夢を見せる使い魔のことよ。志貴は男性 だからサキュバスを送っていうたんだけど、いい夢見れたでしょ?」 「お―――――」  夢?  いい夢? 「あはは――」 「志貴?」 「あはははははははは、あは、あははははははは」 「どうしたの? 何か面白いことでもあった?」 「あははははははははははははははははは、あはは、あはははは、あははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」 「志貴、一体どうしたのよ?」 「ははははははは――――ははは、あはははは。アルクェイド、ちょっと顔貸せ」 「え、また内緒話?」 「……あのな、アルクェイド」 「うん、なに?」  アルク、再び十七分割の刑。                             <おしまい>