三匹の子豚



 眠りを悦びとしたことがない。
 心地よい眠りというものを知らないで育ったからだ。
 何の苦しみも悩みもないまま暖かい蒲団に包まって眠り、新しい一日を何の不安もなく迎えるということ。
 俺はそれを求めることも羨むこともない。
 誰かに奪われたわけではなく、自分で棄てたものだから。
 些細なものであっても、その幸せを受け取る資格など俺にはない。
 無欲なわけでも、諦めきったわけでもない。
 ただ、背を向けるだけ。
 俺が俺の道を求め、貫くために。

 目覚めると体に幾ばくかの張りと、重い靄が頭に残っている。
 それでも、熟睡してしまっていたようだ。
 快楽としての安眠ではなく、休養としての熟睡。
 今の俺に許された精一杯の、時間。
 これを安らぎと思ってしまうのは悪いことだろうか。
「―――別に誰が責めるわけではないけどな」
 許されないと思ってしまうのは自分。
 誤魔化そうとするのも自分。
 俺はまだ、自分がよくわからない。
 どうしたいのか。
 どうしたらいいのか。
 目指す道は一つきり。
 キレイなユメ。
 理想の具現。
 贖罪の道しるべ。
 セイギノミカタというその全てを選ぶことにした俺は、誰にも頼れない。縋れない。
 だからこそ自分が確りしなくてはいけない。
 いけないんだ。
「なのに……」
 心は隙あらば安易な安らぎを求めてしまう。
 俺は弱い人間だ。
 逃げ道があるとどうしてもそこに目を向けてしまうし、縋れそうなものがあると縋りたいと思ってしまう。
「セイバー」
 声に出して俺の新たに産み出された弱さを自覚する。
 そうセイバーだ。
 彼女の存在こそが俺を狂わし、俺を貶めようとする。
 既に他人を見殺しにして自分だけが救われてしまったという後悔という名の罪の奴隷である俺を更に深く、抉るように。

 肉の薄い小さな尻。
 語るのも哀しいほど乏しい乳。
 引き締まった張りのある太股。

 彼女の全てが俺を迷わせる。
 切嗣 ( オヤジ ) が知ったらきっと
「色を知る年齢か!」
 と踏み込んでくるだろうが仕方がない。
 あの人、グラマー好みだったからなぁ。
 この成長しないところがいいのに。そこだけは最後まで分かりあえない人だった。
 まあそのお蔭で初物GETとなったのだから文句などないのだが。
 そんな訳で未成熟の青い果実のまま育ってくれた素敵なプレゼントを貪り尽くすことで、俺は浅ましい生き物に成り果てていた。
「いや、全てをセイバーのせいにするのはどうかと思うぞ」
 慌てて首を振ることで自分の中で浮かんだ下卑た考えを否定した。
「いくらなぁ……」
 いくら求めてきたのが彼女からとは言え、受け入れたのは自分だ。万が一失敗していて身籠ったのであれば、十万円ぐらいは出さねばなるまい。物語の主役というちょっと大きいお友達の手本として甲斐性ある男を演じなければならないのは辛いところだ。

 俺達が「やらないか」「ウホッ、いいセイバー」という関係になったのは、堕落や挫折からくる傷の舐めあいや目先の享楽に溺れたわけではないのだ。
 聖杯戦争。
 この不興の折に見入りの乏しい宗教関係者あたりが、魔術協会というこれまた時代遅れの業界と組んででっち上げた怪しげなイベントだと決め付けていたが、そこから始まった出来事は、嘘偽りなく俺の運命を変えていった。
「ふぅ……」
 元々は巻き込まれた形で参入した聖杯戦争だったが、経験を積み重ねていくうちに女性から貧弱な坊やと言われていたこの俺が、いつしか誰からも逞しい男性として認めてくれるようになっていた。
 自己改革。そして増えていく人との絆。言葉で並べると新興宗教あたりが口にしそうなインチキ臭が漂うが、俺自身の経験は紛れもなく本物だった。友人の妹として慕ってくれた後輩の女の子から、子供の頃からの付き合いで家族同然だった姉代わりの女性、学校での高嶺の花、俺の妹を名乗る外国人幼女などそれまでの人生からすると信じられないぐらいにモテにモテまくったのだから。せいぜい食事を集られる程度で特別に金銭を要求されたこともなかったし、この変化を疑う理由などなかった。
 けれどもそれは勿論嬉しいことばかりじゃなかった。アイマスクで目を隠していた女性は俺を巡って他の女の子と争って星になってしまった。フードで顔を隠していたやや年嵩のお姉さんとはあと一歩のところで俺を嫉妬する下衆野郎に襲撃されて殺されてしまった。俺なんかの為にと思うと今でも胸が痛む。彼女たちの分まで俺は生き続けねばならない、幸せにならなければならないと強く誓い直した程だ。
 そんな中、俺が選んだのがセイバーだった。俺をマスターとして忠誠を誓ったちょっと変わった女の子。第一印象としては過去に存在した英雄だけど正体は言えないとか言うちょっとイタそうな前世女だったけれど、ただの電波では有り得ないそのひたむきで真っ直ぐな人間だった。彼女は刃が見えないとかいう柄だけの剣を振り回して俺のモテっぷりをやっかむ有象無象な連中に立ち向かってくれる反面、自分の感情にはとことん素直になれない不器用な娘で、行き場のない彼女を保護してその妄動に付き合ってあげていくうちに自然に惹かれ合っていた。決してライバルや敵対者を討ち果たしていく姿に怯んだわけではない。
 俺達は十数日の付き合いを経て、昨日遂にデートまでするようになったのだが、最後にまた邪魔が入ってしまった。忘れもしないフードで顔を隠していたやや年嵩のお姉さんことキャスターが俺へ告白しようとしていた時に割って入った全身金メッキ野郎。あの変質者が今度はセイバーに向かって十年前からどうだとか自らストーキングの告白をしながら俺の命を狙ってきた。だが何が幸いするか分からない。俺を庇って死んだキャスターの為にも殺されるわけにはいかないと奮闘し、セイバーの助けもあって九死に一生を得た俺と彼女はその襲撃の一件にて更に深い絆を確認し、強い繋がりを意識することになったのだ。
『―――やっと気づいた。シロウは、私の鞘だったのですね』
 普段の彼女にはありえないほどの積極的な抱擁。
 それは俺達が通じ合い結ばれる記念すべき第一歩になったとも言えよう。
 その時つい、鞘は君で剣は俺だろうとかおっさん臭いことを言わなくて本当に良かった。
 それでも自制したつもりになっただけで、浮かれ過ぎてしまっていたかも知れない。
 本来プラトニック・ラブを貫く俺が、目先の肉欲に溺れてしまったのだから。
 そのまま二人で家に帰り、皆が寝静まった頃にセイバーが枕を持って、
『眠れないのです、シロウ』
 と、普段の凛々しい姿からは想像できないぐらいの弱々しい瞳を向けて忍び込んできたとは言え、俺が毅然として真摯な態度さえとっていれば何の問題もなかった筈だ。
 けれども、だ。
 忍び込んできながらなかなか自分から言い出せずにいたセイバー。
『……貴方の気持ちには応えられません。ですが、シロウの提案には賛成です』
 あくまで受身であろうとする健気な態度。
『……宝具を、使いましたから。どのみち、シロウから精を貰わないと私は戦えません』
 あんな不器用過ぎる彼女の誘いに、どうして俺が抗えよう。
 何もしないというのは、罪だろう。彼女を侮辱し、人間の生物としての意義を否定するものだ。
 俺と彼女は繋がらなければならなかったのだ。
 彼女の気持ちに応える為にも。大宇宙の意志を尊重する意味でも。
 その時の俺はろくに声を出すことができなかった。
 吸い付くような目でセイバーを見ていた。
 彼女の全てを。
 晒け出しされたものを、余さないようにと。
 舐め取るように。
 頬張るように。
『……服を脱いでくださいシロウ。これから体を重ねるのですから、肌を晒してもらわねば感触が分からない』
 一方的に侵蝕されていることに気づいたのか、単に羞恥がそうさせたのかセイバーは更に一人、言葉を続けた。最後に、トビキリの爆薬を結びつけて。
『……それに、このままでは不公平だ。私も、貴方の裸体を見てみたい』

“貴方の裸体を見てみたい――――”

 どくん、と心臓が膨張する。
 その言葉だけで、胸が破裂するかと、思った。
「あ――――う」
 そんなの、反則だ。
 そんなふうに言われて、どうにかならないヤツなんていない。

―――だから、どうにかなってみたのだ。

「ぜ……」
「ぜ?」
「全アイテム入場ッッッ!」
「―――は?」
 パチクリと目を瞬かせるセイバーを無視して、俺の備え持った魔術を、俺だけが為しえるたった一つの奇跡を行使していた。
「シ、シロウ!」
 彼女の慌てた声に被せるようにして、俺は現れる奇跡の名を一つ一つ丁寧に告げていく。最大級の麗辞として。

「邪武殺しは生きていた! 更なる蚯蚓腫れを生み血瘤が出来上がった!
 女神公認お馬さんごっこ! 乗馬鞭だァ――――!

 媚薬調合はすでに我々が完成している!
 スモーキングドラッグお香だァ――――!

 衆目が集まりしだいスイッチ入れまくってやる!
 コードレスで遠隔操作 ローターパンツだァッ!

 セクシーランジェリーなら我々の歴史がものを言う!
 ブラジル水着の祖先、ダンシングコスティーム、チェーンサスペンダー!

 真の亀甲縛りを知らしめたい! 縄師が証、荒縄だァ!

 警察官なら被疑者逮捕だが、イメクラなら拉致監禁の代名詞だ!
 逃亡者プレイもOK、手錠だ!

 エイズ対策は完璧だ! 日本の技術は世界一 コンドーム!

 脱法ドラッグの主成分は私の中にある!
 合法ドラッグの神様が来たッ マジックマッシュルーム!

 ロリっ子なら絶対に外せん!
 幼児体型の素晴らしさ見せたる 平仮名名札 スクール水着だ!

 スパンキングサウンドならこいつが強い!
 痛み控えめの尻叩き 九尾ムチだ!

 旧日本軍から戦場の華が復活だ! 僕たちのメリーさん 羊!

 乳輪を鎖で引っ張りたいからクリップを付けたのだ!
 乳房専門の特殊器具を見せてやる! クリッピングチェーン!

 淫乱女をペットとはよく言ったもの!
 散歩のお供が今、野外プレイでバクハツする!
 ペットショップ御用達、首輪だ―――!

 いい年してのお漏らしこそが尊厳破壊の代名詞だ!
 まさかこんなものまで用意されているとはッッ 大人用紙おむつ!

 繋がりたいからここまでできたッ 男一切不要!
 女陰の架け橋 双頭バイブだ!

 オレたちは不細工顔が好きなのではない。美人顔だから不細工にし甲斐があるのだ!
 御存知豚鼻作成器、ノーズフック!

 疑似ペニスの本場は今やシリコンにある!
 二の腕サイズのビックボディのオレを超える本物はいないのか! ディルドだ!

 太オォォォォォいッ説明不要! 40cm! 50ml!
 プラスティック浣腸器だ!

 拘束具はベッドのない四畳半で使えてナンボのモン! お手軽拘束!
 SMショップからチェーン拘束具の登場だ!

 アナルはオレのもの 邪魔する肛門括約筋には思いきり捻り思いきり押し込むだけ!
 太い真珠の団子七兄弟 アナルパール!

 感触を試しに柔肌をくすぐったッ! エロアニメ捕虜拷問の基本 刷毛!

 口呼吸に更なる制約を重ね ”口枷”ボールギャグが帰ってきたァ!

 今の彼女に処女膜はないッッ! 膣拡張器具クスコ!

 大正十四年生まれの便秘薬が今ベールを脱ぐ!
 イチジ○製薬株式会社から、イ○ジク浣腸だ!

 独身男性の前でなら私はいつでも安全日よ!
 股間パーツ着脱可 ダッチワイフ 洗濯したてで登場だ!

 医療の役目はどーしたッ 打撲器の炎 未だ消えずッ!
 伸ばすも曲げるも思いのまま! ニードルハンマーだ!

 特に理由はないッ 勃起不全治療薬が効くのは当たりまえ!
 厚生省にはないしょだ! 中年男性希望の星!
 バイアグラがきてくれた―――!

 暗黒視界で磨いた敏感調教!
 声が頼りのナイト・メイキング アイマスクだ!

 アナルセックスならローションは欠かせない!
 大塚○薬 オ○ナインH軟膏だ!

 超ノーマルSMの超王道のSMプレイだ! 生で浴びて熱がりやがれッ
 白い肌に降り注ぐ赤い飛沫! 蝋燭!

 恥辱調教はこの器具が完成させた!
 処女オナニーの切り札! ピンクローターだ!

 伝説の拷問具が帰ってきたッ
 どこに消えていたンだッ 魔女裁判ッッ
 俺達は君を待っていたッッッ三角木馬の登場だ――――――――ッ」

 最後に一番大きな木製の調教器具を作り出すと、蒲団の直ぐ脇に固定した。
 元々物の殆どない俺の部屋がトコロ狭しと淫具で瞬く間に埋め尽くされていた。中にはちょっと違うようなものも混ざっているが、気にしない。
「シロウ……これは……」
 俺の両手から溢れ出続ける奇跡をセイバーはずっと眺め続けていた。
「……ッ どうやら新調教器具もう一つは固有結界からの通販が遅れているようですが、到着しだいセイバーに御紹介いたしますッ」
 導尿カテーテルも忘れちゃいけない。取りあえずはこんなものか。
「いや、ですから……」
 袖を引っ張るがまだ締めの一言を言い終えていない。無視して言い放った。
「以上33アイテムにて、性行為を行いますッ!」
「……シ、シロウっ!」
 腹の奥から張り上げる声。
 万感の思いを込めて、今、俺はセイバーと力の限り戦おうと誓った。正々堂々、持てる技術と知識を駆使して。

『アリガトォオオオ!』
『アリガトォ――――ッ!』
『サイコーだぁ―――!』
『アリガトオオッ!』
 目を閉じれば今も瞼の奥に大観衆からの声援が思い出される。
 まさしく運命の二人こと俺とセイバーにこそ必要だった儀式。
 後悔はしていない。
 むしろ大満足。

 その後色々あって、セイバーは俺の元に居る。
 理由などない。いるったらいるんだ。
 そして当たり前のように毎晩ハッスルハッスルとしゃれ込んでいる。
 この部屋一杯の全ての器具を使いこなすまでは、俺達の夜は終わらない。
 昨晩もまた信頼と愛情を込めた調教を行った後、肌同士触れ合いながら感じあいながら、心地よい疲労感に包まれて眠り、そして―――夜中一人目覚めて濡れたパンツを履き替えたというハーフタイムは記憶の隅に追いやって―――目覚めたのだ。でも何で隣にセイバーがいないんだろう。ばかばかセ○バーと意味もなく伏せ字にしてみたりしながら、隣の部屋に恐らく俺を思って一人濡らしながら寝ているだろうセイバーを起こすべく襖を開けた。
「セイバー、起きてるか?」
 いきなり開けたのはイベントフラグを期待していなかったとは言わない。戦士には報奨が、エロゲには着替えCGが必要なのだから。
 だが、
「あ、セイバーおは………」
 そこには、

「うぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」
「な、何よ?」
「一体どうしたんですか、先輩!」
 俺の絶叫を聞きつけ、階下にいたらしい二人が駆け上がってきた。
 それを考えると決して朝早い時間ではなかったようだが、勿論今の俺にそんなことを言い出す余裕はない。
「セイバーが……セイバーが……」
 震える指で目の前のものを指し示すしかできなかった。
「は?」
「え?」
 二人が動揺している俺の指差す先、セイバーの寝床の方を見る。
「ぶぅ」
 そこには一匹の子豚が蒲団の上で転がっていた。

「セイバーが豚になっちまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 そして衛宮家居間に場所を移す。
 二人が俺を引っ張って連れて行ったのか、自分で移動したのか記憶がない。
 あるのはこの腕の中のぬくもりだけ。
 それもあんまりな形で。
「ええと、その……」
「あああ、ああ、ああああああああああああああああああああああ」
 人に慣れているのかそういうものなのかわからないが、大人しく抱かれたままでいる子豚を見ながら絶望の呻きしか漏らせないでいた。
「士郎はその……ブタがセイバーちゃんだって言うのね?」
 俺の途切れ途切れの説明、というよりも悲痛の叫びを聞き取っていた藤ねえがそう聞いてくる。俺はその言葉に頷いたのだろうか。自分でもわからない。
「最近ちょっと色々なことがあったからねぇ……士郎も疲れているとは思ったけど」
 俺に対して身を乗り出すようにしていて藤ねえの体が遠ざかる気配がした。これで世界がまた俺とセイバーだけになる。
 そしてセイバーが豚になってしまったのだという現実だけが再び満ち潮のように、俺の心の中に押し寄せてきた。
 体が揺れている。どうやら俺は震えているようだった。
「先生」
「なぁに、桜ちゃん」
 桜の声。二人とも俺のすぐ近くに居るのだろうが、さっきの藤ねえのようにすぐ傍まで来てくれないと存在すら嘘臭く感じる。この手の温もりだけが確かなのだという錯覚が、恐怖と恫喝を伴って心を責め立てる。
 それが怖くなって、努めて二人の声に耳を傾ける。まるでTVを見ているように、遠い世界で語っている二人の言葉を理解しようと必死になっていた。
「藤村先生も言いたいことがあるでしょうけど、今日は早く出ないといけないんじゃないんですか」
 教師である藤ねえは元々俺達生徒よりも早く家を出なければいけないが、今日は職員会議が朝に入っているとのことでいつも以上に早く出ないといけない。確か昨晩の夕食の席でそんなことを言っていた。あの時はセイバーも食卓にいた。いつものように当たり前の顔をして何杯も御飯をお代わりしていた。あの出来事は嘘ではない。だからこそ間違っていない。俺とセイバーがいた世界と彼女たちが喋る世界は繋がっている。そんなわざわざ確認する必要もないことすら自分の中では崩れかかっていた。
「で、でも……」
「おにぎり握っておきましたから」
「そう? ありがとう桜ちゃん」
 桜の言葉に不満と戸惑いを含んだ藤ねえの声が一気に明るくなる。え? そんなあっさり? というか心配なのは飯のことだけ?
「いえ、先輩のことはわたしに任せて」
「うーん、でも」
 ドンと叩き甲斐のある胸を叩く桜だったが、流石に長年俺の姉代わりとして家族同然の付き合いをしていた藤ねえも俺を放っておくことは―――
「そっちのランチボックスにはお昼ご飯の他に、デザートにマンゴー切って入れておきましたから」
「じゃあ、後は任せるわね」
 コロッと表情を変えて藤ねえは気配を遠ざけ―――居間から出て行こうとしていた。
 思わず喉の奥から引っかかった声が漏れそうになるが、気づいてはくれなかったようだ。俺の存在ってそんなもん? 嘘だと言ってよ、藤ねえ。
「あんまり深刻だったら今日は学校休ませなさい。その辺は桜ちゃん」
「はい、お任せください」
 玄関先から聞こえてくる声は、距離以上に俺から遠く感じられた。
 裏切られたような気分になったのはおこがましいだろうか。
 一瞬だけ忘れていたセイバーのことを思い出し、抱きかかえなおしていた。彼女の温もりだけが俺の信じられる唯一のものなのだと改めて思い直しながら。
「せーんぱい♪」
 身準備して出て行った大河を見送っただろう桜が笑顔で戻ってくる。
 俺の腕の中で寝入ってしまったらしい子豚をチラリと見やってから、
「ところでセイバーさんって、先輩の隣の部屋で寝ていたんですね」
 明るい声を掛けてきた。
「……」
 目を伏せる。信じられるのは俺の腕のな―――
「……目ェ向けろや」
「あ、は、はいっ!」
 慌てて顔をあげるが、勿論さっき見たばかりの桜の笑顔が。
「今日のお夕飯は酢豚がいいと思うんですがどうでしょう、先輩」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 壁際まで後ずさり、腕に抱えた愛するものを手放すまいと体を丸めていた。
「くすくすくす、どうしたんですか先輩?」
「ど、ど、どうしたって……」
 そう言いながらも、震えが止まらない。
「でも良かった、先輩がちゃんとこっち向いてくれて」
「え?」
「あんまり憔悴しきってますから、どう声を掛けていいのかわからなかったんです」
「いやだからって……」
 言いかけてあることに気づいた。
「あっ、じゃ、じゃあ今のは」
 そうだ。あの優しい桜が急に変わるわけはない。こんな情けないままでいた俺のことを気遣って敢えて心を鬼にしての言動だったのだ。
「もちろんですよ、嫌です、先輩。わたしがそんな本気で……」
「すまんっ! てっきり目が笑ってなかったからほん―――」
「ブタってどうして生で食べられないんでしょうね残念です」
 一言余計だった。

「でもそんな、人がブタになるだなんて」
「そりゃあ、常識からすればそうなんだが……」
 桜の心優しい気遣いだと思う言動に縮み上がったもとい救われた俺は、落ち着きを取り戻してセイバーの身に起きたであろう不幸を説明する。
「心当たりはあるんですか?」
「いや、昨日の夜ちょっと」
「夜? ちょっと?」
 目が吊り上る。怖っ。
「そうだったんですね。ふーん、知りませんでした」
「あの桜……さん?」
「私や藤村先生が泊まる時はいつも下なのに、セイバーさんは違うんですね」
 笑顔は変わらない。けど、物凄くプレッシャーを感じる。
「ええと……その……」
 俺がどう対処していいのか分からないでいると、桜は再び視線を俺の腕の中に移す。
「わたしとしてはセイバーさんがそんな茹でるか煮るか焼くかで迷う程度の食材になったことよりも、その雌豚が先輩の隣の部屋で寝泊りしていたと言う事実の方が海よりも重く山よりも冷たい」
 言葉の意味はよく分からんがとにかくすごい怖さだ。
「でもそれを深く追求し続けると先輩が泣いちゃいそうですから、今は保留しておきますね」
「保留かよ……」
「甘えるな赤毛」
 どうしてこの娘はこんな風になってしまったのだろう。
 聖杯戦争の隠された被害者は彼女なのかも知れない。理由は不明だが。
「ほら、あまりにセイバーって健啖家だろ?」
「ふふ、藤村先生がガツガツなら、セイバーさんはムシャムシャでしたね」
 桜が自分は違いますと言わんばかりの嘘臭い笑みを作って相槌を打つ。
「あの体にあんなに入れてたら」
「確かに太ってしまわないか不安になりましたね」
「それでつい、セイバーのことをブタになっちゃうぞっ……」
「それ無理がありませんか?」
「どこが?」
 キラキラと目を輝かしてみる。が、桜の目は冷たい。
「……本当のところは?」
「昨晩のプレイはノーズフックだったからかなぁ」
 確かに俺の魔術で生み出した器具ではあるが、魔力とかはない筈なのに。
「先輩知ってますか、あれは鼻を高くする補正器具としてもかのクレオパトラも愛用されていたんですよ」
「嘘だろ?」
「はい勿論」
「………」
 すっげえ爽やかに答えたよ、この人。
「それはともかくとして、そんなことで人がブタになんて……」
 将来偉大な魔術師になる感じの俺と違って、魔術のことを知らない一般人の桜が信じられないのは無理はないだろう。
「魔法ならまだしも魔術程度でそんな芸当が出来るはずが……」
 は?
「桜、今……」
「え? あ、そのノーズフェンシングとかいうのでしたっけ? それって本当のところどうしてでしょう! 桜はさっぱりですっ!」
 何か色々全力で誤魔化そうとしているようにも思えるが気のせいだろう。
 桜が俺に隠し事なんて……やっぱり年頃だし、少しはするのかなぁ。パパ悲しい。
「誰がパパですか」
「いやその……だから使ってたのはただの器具だった筈だ。それに昨晩はそのままだったしそれがどうこうなる筈が……調教……はっ!」
 そうか、そうだったのか。
「何かわかったんですか?」
「キャスターの仕業だ!」
「……は? え?」
「いや、桜には心配や迷惑は掛けられないから詳しくは言えないんだが。柳洞寺に住んでいる女がきっとやったに違いない」
 死んだとばかり思っていたが、生きてやがったな。くたばり損いの年増め。
「よくわかりませんが、多分違うんじゃないかなぁ」
 ルートとか。などと、もごもご言っていたが聞こえない。
「いや、桜はあの魔女のことを知らないから」
「魔女、ですか」
「本人は否定したがってるようだがな。まあ魔法少女と呼ぶにはキツい年齢だ」
「多分、否定の部分が違うんじゃないかと」
 聖杯戦争を知らない筈の桜が何故か俺の言うことを盲従してくれない。
 反抗期かなぁ。お父さんは悲しい。
「だからお父さんって……」
「いいから迷惑を掛けられないから詳細を話すことのできない事情から邪魔者であるところの桜は黙っててくれ!」
「うわー、全然気を使って貰ってる感じがしないです先輩」
「当たり前だ! 巻き込んだらいけないと思って心を鬼にして」
「素が鬼のような気が最近しているんですけど」
「とにかく、あいつが悪いの! フード被って顔隠してる奴は悪役なんだから」
「無茶苦茶だと思いつつも、その思い込みと決め付けっぷりに桜はキュンときてしまいます」
「あ、そ」
 桜の心からの言葉と思われるような気がする言葉だが、俺はすげなく返した。
「先輩っ。あの誰にでも取り敢えず優しい先輩はどこへいってしまったんですかっ」
「振りまく優しさは本当の優しさではないんだ、桜。俺はもう、お前の父親にはなれないんだ」
「ですからっ、私はそんなの望んでません」
「聞き分けてくれ、桜。今の俺はセイバーのことでいっぱいいっぱいなんだ。悪いけど、日本の外交政策にまで考える余裕はない」
「今までの会話のどこにこの国の外交問題があったっていうんですかっ?」
「セイバーは外人だろ?」
「………」
「まあそんな些事はさておいて、俺は柳洞寺に行くっ キャスターを倒さねばっ」
 つむじ風舞う衛宮家の居間。狙うはお寺の行かず後家。
「待ってください、先輩」
「桜の頼みでもそれだけは聞けない。俺はもうこいつと一緒に富士山のトロフィーを抜いた永遠を誓いし間柄なんだ」
「いい加減にしてくださいっ」
「どうしてわかってくれないんだ。俺は正義を貫きたいだけなのにっ」
「正義関係ないですっ」
「セイバーを豚にしたっ! それはすなわち悪っ!」
 関東地方にしか放送されていない番組で、TVの向こうの神希望の少年に向かって言うように言って見る。
「あー、もー、この人はっ これだけは言うまいと思っていたんですがっ」
 そんなもったいぶった前フリから、桜は俺の両肩をがっちりと掴んだ。
 家事全般をこなしているからだろうか、意外と力がある。
 桜さんゴツイですねと言ったら殴られるのだろうか、やっぱり。
「いいですか、先輩っ。目を覚ましてください」
「何を言うんだ、桜。いくら君が優しい女の子だって、キャスターなんかを庇う必要はないんだぞ」


「ですからっ 先輩の言うセイバーさんは、□□□□るじゃないですかっっっ」


「え」
 今、桜は何を言ったのだろう。
「桜、お前何を言って……」
「遠坂先輩から出来るだけそっとしておくように言われましたけど。今日こそはもう言わせて貰いますっ 先輩、もうお願いですから―――」
 必死な形相で、涙を堪えるような顔をして、桜は何かを怒鳴るように喋り続けている。
 しかし俺の意識は桜からも、胸の中の温もりからも逃げ落ちて、遠い地平線の夜明けの景色に向かっていた。

『――――これで、終わったのですね』
『……ああ。これで終わりだ。もう、何も残ってない』
『そうですか。では私たちの契約もここまでですね。貴方の剣となり、敵を討ち、御身を守った。……この約束を、果たせて良かった』
『……そうだな。セイバーはよくやってくれた』

「え……」
 そんなコト―――。

『最後に、一つだけ伝えないと』
『……ああ、どんな?』

「だから……」
 わかっていた。最初から。
「もう」
 もう彼女はとっくの昔に……。

『シロウ――――貴方を、





「調教は部屋の中だけにしてくださいっっっ」
「むにゃむにゃ、朝食はまだですか?」
 桜の指差す先には先ほどからずっと欄間から垂らされた荒縄で吊られたままでいるセイバーがいた。
「……」
「……」
「ぶぅ」
 腕の中の子豚も目を覚ましたようだった。
「嫌味で用意したのに何の疑問も抱かないのには参りましたが」
「何が、だよ……」
 桜は顎の動きだけで俺の腕の中を指し示した。いや、そんな、嘘、だろ。
「それより確かにここは先輩の家ですし、私たちは同居人じゃないですけど、もう少し慎みとか、モラルをですね……先輩?」
「違う」
 有り得ない。
「このセイバーの姿を真似した偽者めっ」
「は?」
 ビシィと全裸で放置されたままだったセイバーらしき人物を指差す。
「騙されたりなんかしないぞ。俺とセイバーの絆を甘く見るなっ。昨日は荒縄の日じゃないっ」
 小声で啼く豚を抱えなおしながら、俺達の声で目を覚ましたらしいセイバー(偽者)をにらむ。
「あの、先輩。さっきの理解していましたか? ですからそのブタは私が間桐の家から……」
「シロウ、これは何の真似ですかっ! こ、この私にバイブを向けるなどと。それにその小脇に抱えた豚はなんですっ ああ、もうかかってきなさいっ 早く早くっ」
 ギシギシと体を揺らせて白い肌に荒縄を食い込ませながら、セイバー(偽者希望)は俺が瞬時に製造した電動バイブに目を潤ませていた。
「セイバーさんもそんなもの欲しげな目を向けないっ」
「ハァ。私が偽者かどうか、それで確かめて御覧なさいっ は、早くっ。ハァ。ブタだと言うのならそう罵るがいいっ。ハァ。啼いてみせようじゃないですかっ。ハァ」
「何を言う、この偽者め。俺の愛するセイバーが自らをそんな貶めるような言動をするはずがない。この正義の力で化けの皮を剥いでやるっ」
「望むところですっ 早く……早くしてくださいっ」
「いくぞ偽者―――愛液の濡れ具合は十分か」
 サンドバッグのように跳ねるセイバー(偽者かも知れない)に向けて、電動音逞しい一撃をその孔へ―――


 ブチン。


 太いロープが切れるような音。無論、セイバー(偽者ではない気もしないでもないけどもうどうでもいい)は宙吊りにされたままだ。昨晩パンツ洗いに行った際に暢気に隣で寝てるのにムカついて縛った荒縄は、グレイニプルの名を持つ代物だから切れる筈はない。だとすると、この音はなんだろう。
「……じゃあもう。どっちでもいいです」
 顔半分を闇色に染めた桜は笑っていた。やっぱり桜はそのどこか屈折したものを押し殺したような取り繕った笑顔が良く似合う。だが、その言葉は聞き逃せない。
「え?」
「ハァ……早く……」
 奥にいるセイバー(思い出したけど訂正は面倒だからいいや)は何かを期待するように吊るされたまま器用にくねっていた。それを煮え滾った油の中で揚がっていく活きの良い海老と見るか、死に損いのまま裁かれる寸前の鮟鱇と見るか、割と問題だ。
「みんな豚にしてしまえば無問題ですよ」
「えーと、桜?」
 桜のがいつの間にか戦闘服に。まだこんなに日も高いのに。
「幸い、古代中国漢王朝の呂皇后は人間を豚に変えるという偉大な魔法を私たちに教えてくれました」
 いやそれ魔法じゃないから。更に言うと別に教えてないから。
「一匹と言わず、三匹纏めて繋いで差し上げます」
「いや、その……桜っ 何か影から物凄いものがっ」
 イベントCGになりそうな勢いで。
「――――――――」
 空間が歪んでいる。
 それが自分だけの錯覚、極度の緊張からくる平衡感覚の乱れなのだと信じたい。
「触手プレイだと言うのですかっ 3Pに飽き足らず桜も何と言う卑劣な真似をっ 早くその、その黒いものを私のなかにっっ」
 信じたいのに、なんだかセイバー大興奮。
「……」
 桜の目が俺に向く。
 あー、うん。確かにちょっとやり過ぎたかな。今頃になって少し反省。
「カモンです! 桜っ!」
「黙れ、セイバーっ!」
 カモンじゃないからっ。ノーサンキュー。
「黙るのは先輩ですっっっ」
 その一言と共に影が伸びる。


 予兆もなく唐突に―――

 ざぱん、という音と、体を押し潰そうとする感覚。
 それは、たった一瞬の出来事。
 焼き切る様に意識が途絶えた。
 胸の中のぶぅという鳴き声と共に。




 そして、また音がした。
 古い、たてつけが悪くて蝶番も錆びて無闇に重い、土蔵の扉が開く音がした。
 暗かった土蔵に光が差し込んでくる。
「――――」
 意識が眠りから覚めていく。
「先輩、起きてますか?」
 近づいてくる足音が誰なのかは、確かめるまでもない。
 ―――ああ、もうそんな時間なのか。
 ほう、と息をついて目蓋を開けた。
「おはようございます先輩。そろそろ時間ですよ」
「………」
 本当に良く眠った。
 何もかも捨てて、何もかも忘れて、ただただ眠り続けることはこんなにも心地良い。
 今の俺は眠ることが悦びで、義務で、生き甲斐なのかもしれない。
 なんか、いいなと思う。
 考えることさえ放棄して、ただこうして―――いるだけのことが、とても。
「ええ、もう二匹も一緒に……餌の時間ですよ」
 だから今日もまた、ただ過ごそう。皆と共に。

「ぶぅ」
「ぶぅ」

 ぶぅ。




                          <おしまい>