ケ・セラ・セラ



「貴方は……」
「あ、気がついたんだ」
 セラが目を開くと、そこには気が優しそうな少年がホッとしたような表情で傍らに
控えているのに気づいた。
「貴方、は……」
 もう一度、彼女は口の中で繰り返す。
「どこか気分が悪かったりしない?」
「いいえ。そのようなことは……」
 ないと断言しようとして、言い損ねる。
 気分が悪いというわけではないが、具合は悪い。
 体調が良くないのだから当然だ。
 そしてその理由も明確にわかっている。
「お粥を用意したんだけど食べられるかな。それともまだ寝てた方がいい?」
「い、え」
 そのようなことは御気になさらず、そう続けたかったが口が思うように動かない。
 相当体が弱っているようだった。
 肌がかさつき、口の中まで強張っている。
「それじゃあ、ちょっと失礼して」
「あ」
 その少年はセラの背後に回ると、背中に腕を差し入れつつ肩を抱いて彼女の半身を
起き上がらせる。
「あ、の……」
「御免ね。悪いとは思ったんだけど、その……」
 今度は少年の方が口籠った。
 そこでセラは自分が見覚えのない寝巻き姿に着替えていることに気づいた。
 けれども、そのことについては大して気にはならない。
「このままで大丈夫? 苦しくない?」
「いいえ……」
「そっか」
 背中に枕を当て、肩にカーディガンを掛けて貰うと今度はさっき用意していたらし
いお粥を側に寄せる。
「あの……」
「ん?」
 何度目かの呼びかけかで、漸くこちらの話を聞いてくれる気になったらしい。
 溜息をつきたくなったが、それすらも億劫だった。
 体中が鈍くなっていて力が入らない。
「貴方は、何故私を……」
 自分と話しているのが何者か、思考がはっきりするにつれて彼女は理解していた。
 衛宮士郎。
 聖杯戦争での生き残りであり、嘗ての敵であり、彼女の主の今の保護者でもあった。
「それは逆にこっちが聞きたい。どうしてあんなところに居たんだ」
 彼の言うあんなところとは、アインツベルンの城のことである。
 セラはずっと城の彼女の部屋にいたのだ。
 ただ一人で。
「……」
「俺はイリヤが城に忘れ物したとかでちょっと取りに行ったんだ」
 そう言って、何かわからない小物を見せた。話し相手としてイリヤの側にいたリー
ゼリットならそれがどういうものか知っているかもしれないが、セラにはそれがわざ
わざ森深くの城にまで行かないといけないようなものには見えなかった。
 彼女の主であるイリヤスフィールは聖杯戦争終了後も、この日本に留まっている。
 帰国した所で彼女に居場所があるわけではなく、その選択は正しいとセラも考えて
いた。だからこそ異議を唱えることも無く、彼の保護者の藤村家に引っ越す為に城か
ら荷物を運び出した時も是認したのだ。
「まあいいや。ほら、少し熱いから気をつけて……持てるかな?」
 彼女の無言を言いにくいことなのかと解釈したらしく、士郎はそれ以上追求してこ
なかった。
「……」
 セラは差し出されたお粥の入ったお椀とスプーンを眺めたまま、動かない。
 食べたくない―――というよりも食べることに意味がない。
 だから反応する気になれない。
「折角ですが……」
「自分で食べられないかな。なら……」
「違います」
 スプーンで一匙掬って、口元に差し出す士郎をムッとした目で睨む。
「はい。口を開けて」
「じ、自分で食べられますっ」
 ここで初めて大きな声を出す。
 漸く声を出せたというところだろうか。
 同時に、彼女のお腹に絞るような痛みが走る。
「くっ……」
 お粥の匂いが彼女の鼻腔をくすぐる。
 今の彼女の状態は空腹であって、それ以外の何者でもない。
 飲まず食わずで、ずっと自分の部屋に留まっていたのだ。
 生きることを忘れてただ、そこに存在していただけの彼女にとって今更蘇生させら
れるような事態は困る。
「ほら」
「……っ!?」
 セラの躊躇をどう見たのか、士郎はスプーンを彼女の口に差し込んだ。
「ん、んぐっ……」
「見たところ食べてないだろ。よく判らないけど、遠慮なんかするなよ」
「違いますっ」
「はい、あーん」
「じ、自分でっ……」
 再びスプーンを差し出された時は流石にセラも動いて、そのスプーンを引ったくっ
た。
「じゃあ、どうぞ」
「……」
 士郎の視線を受け、セラは諦めて目を伏せたまま静かに粥を食べ始める。
 仕方なく食べている風を装いたかったが、胃が久方ぶりの食物に対して大歓迎をし
ていて、がっつくのを堪えるのが精一杯だった。
 その一方で彼から施しを受けているとか、哀れみを受けているとか考える気にもな
れなかった。
 ただ、その粥はとても美味しく感じられた。
「ご馳走様でした」
「うん。お粗末さまでした」
 セラが米一粒残さず綺麗に食べたのが嬉しかったのか、士郎はずっと笑顔のままで
お椀を受け取った。
「疲れているようだったらもう少し寝てるといいよ。夕飯の時には起こすから」
「いえ、大丈夫です」
「そう?」
「それよりも、貴方は私に聞きたいことがあるのではないですか?」
「……うん。いいかな」
「構いません」
 毅然としたセラに少し士郎は困ったような表情を浮かべつつ、
「じゃあちょっと待ってて」
 と食器を持って、一度台所へと引き返す。
「……」
 セラは自分の体温が急上昇するように熱気が膨らみ、栄養が行き届くかのように体
中に血が通いだすのを感じていた。
 そんな自分の体の反応を彼女は他人事のように感じ取りながら、今後のことを考え
ていた。

「着てたものは今、洗濯してるから」
「お手数をおかけします」
「そんな、こっちこそその……」
 顔を赤らめている士郎の真意がセラには掴めない。
「それでだけど、君はイリヤのメイド―――だよね」
「そう受け取ってもらって差し支えないと思われます」
「うん。良かった」
 荷物の受け取りの際に、二人は一度だけ会っている。
 特に会話を交わしたわけではないが、セラが彼の顔を知っているように向こうもこ
ちらの顔を知っている。衣装で覚えていただけということもあるだろうが。
「それで城にいたのは……他に行くところがなかったのかい?」
「いいえ」
「違うのか。でも何か倒れてたし……」
「それが役―――いえ」
「?」
 何か言いかけて急に止めたセラに士郎は目で尋ねる。
「あてはありますので、お気遣いは不要です」
「そう?」
「はい」
「ふうん……」
 セラの言葉をどう解釈したのか、士郎は腕を組んで黙り込んだ。
「ところで、イリヤ様は今どちらに」
 今度はセラの方から士郎に訊ねた。
「あ、藤村の爺さんと一緒に出かけてる。けど夕飯までには帰ってくるんじゃないか
な」
 やってくると言わないで帰ってくるという言い方で、セラはイリヤがここの家に入
り浸ることが当たり前の日常になっているのだと察した。そして彼女にとってそれだ
け判れば十分だった。
「でしたら、その前に私は……」
「あ、まだ起き上がるのは早いって!」
「申し訳ありませんが、私への関わりは遠慮願います」
「え? な、なんでさ」
 立ち上がろうとするセラの肩を抑えながら、士郎は気色ばむ。
「どう受け取っていただいても結構です。私はお嬢様の目に触れる前に出なくてはな
りません」
 セラは余計なことを言わずに、自分にとって必要なことだけを士郎に伝える。
「イリヤに会いたくないのか」
「どう受け取っていただいても結構です」
 ただ、それだけを繰り返す。
「……わかった。じゃあちょっと待ってろ」
 セラの目を見て、翻すのは無理だと悟ったのか士郎の方から折れる。
「申し訳ありません」
「いいって。何か事情があるみたいだし」
 事情は全く無い。
 ただそうした方がいいと判断したからそうしようとしているだけだった。
 無論、そんなことは口には出さない。


 どこか不満げな士郎の見送りを断って、日が落ちる前ぐらいの時間にセラは衛宮家
を後にした。
 力の入らない体を酷使しながらも、見た目からは気づかれないようにいつものよう
に背筋を伸ばして毅然と城までの道を歩いていく。
 行きはこの道を士郎が彼女を背負って延々と踏破したのだが、セラの頭にはそのこ
とはなかった。
 ただ、再び役目を終えるべく戻るだけである。
 その事を士郎に言わなかったのは彼女の判断だった。
 もしそれを漏らせば、あの少年はセラを放っておかないと感じたのだ。
 イリヤの世話を託したのだから、自分まで迷惑をかけられないというのもある。
 だがそれ以上に、自分はもう終わったのだから終わるべきだという考えがあった。
 聖杯としての失敗作であるセラ達は、廃棄される代わりにそれぞれがイリヤの補佐
としての役目を帯びることで延命されていた。
 だからどの道、イリヤが聖杯を手に入れても入れられなかったとしてもセラの役目
は聖杯戦争までである。
 その役目を終えた以上、彼女を存在させる理由がアインツベルンにはない。
 そして当の彼女も、唯一存在意義として気掛かりであったイリヤの身は士郎達が引
き取っていたことで全くこの世に残る理由がなかった。同じように作られたホムンク
ルスでありつつも聖杯になる為に体を弄られたイリヤに比べると彼女は寿命にまだ余
裕があるが、生きる意味がないのだからそれは無駄な寿命だった。
 聖杯戦争とイリヤの為に存在していたのだから、その二つが片付いた以上は自分が
存在する理由は無く、だからこそ予め定められた通りに粛々と死の床に就いたのだが、
運悪く城にやってきていた士郎に見つけられ、担いで運ばれて来たわけであった。
 別段毒物を使ったり刃物を用いたりするまでもなく、そのまま餓死する為に転がっ
ていたのが救われた理由だった。別に自害しろと命じられていたわけではないのだか
ら、仕方がない。他に何もすることが無いから終わるだけのことだからである。
「まさか、また探しに来たりはしないでしょうね」
 考えることを止めてしまうと、そこで倒れてしまう。
 そう察したセラは、思考をさっきの少年に向けた。

 今まで自分が接してきた人間とはまるで別種。
 十数年生きている人間として、あれほどまでに純粋な人間をセラは他に知らない。
 己の欲望の為だけに自分達という存在を作り出し、利用することしか考えていない
人間しか知らなかったのだからそれは当然と言えた。
 かといって別段士郎に対して戸惑うことはなかった。相手がそういう雰囲気の人間
だというのなら、そのつもりで対処すればよく、そうしたつもりだった。
 余計なことは語らず、気を回させず、失礼にならない程度に応対して立ち去る。
 人とは極力関わらないのがいい。
 セラは買い物を担当するリーゼリットとは違い、日本に来てからは一歩も城から出
たことがない。そうする必要も無く、したいとも思わなかった。
 自分が為すべき事だけをする。
 それが、セラという存在の意味であると自負していた。
 城が見えてきた。
 山道をどう登ったのかは覚えていないが、何とかなったようだ。
 先ほどの粥のお陰だろう。
 服が乾くまでの間の時間で洗ったばかりの体からは汗が出ない。
 この体は涙も流すことはない。
 擦れた草木の汁と軟らかい黒土が付着して、ただ汚れるのみの体だ。
 乾燥機で乾かしたばかりの服も大分汚れていた。
 帽子は途中で木の枝に引っかかったのか最初から被るのを忘れたのか頭には無く、
普段はヘアピンで止めていた銀色の髪がほつれて視界の邪魔をする。
 クローンなのに何故か癖がついていた髪。
 彼女を作った者が顔をしかめ、舌打ちしたその前髪の一部だけがところどころ好き
勝手に撥ねるウエーブへアは数多くの彼女の同型の一体たりともそんなことにはなら
なかった異種であった。
 セラは純粋なストレートではないその髪が初めは嫌いだったが、イリヤは面白いと
笑ってくれた。風呂上りの際、ドライヤーを貸してくれた士郎も綺麗だと誉めていた。
 その前髪が、彼女の目を遮る。
 手で払う気にもなれない。
 その撥ねっ毛がまだ、セラという個を主張しているように思える。
 息が切れる。
 考えるのが辛くなってきたところで、彼女はとうとう城に辿り着いた。


 手の平から伝わる冷たい城壁の石の感触が、心地良かった。
 体の奥は熱く、外は冷たかった。
 ぐらりと体のバランスが崩れるのが解る。
 視界も暗く、霞んできていた。
 まだ早い。
 ここは玄関だ。
 ここで倒れるにはまだ、早い。
 自分の部屋、もしくはせめて人目につかない場所までは倒れるわけにはいかない。
 だがもう足は動かない。
 城壁に寄りかかっているのがやっとで、それすらも困難になっていた。
 行かなくてはいけない。
 だから、ここでは倒れられない。
 行かなくては、いけない。
「あ……」
 ふと、脳裏に誰かの顔が過ぎった。

『本当に行くのか?』

 家の外までの見送りを拒否し、玄関で別れた時に掛けられた声。

『もし何かあったら、すぐに連絡するんだぞ』

 何も無い。
 何も無いから、問題は無い。

『迷惑だとか考えなくていいから、なっ』

 肩に軽い衝撃を感じた。
 寄りかかることも適わず、倒れたらしい。
 他人事のように頭の中で、今の自分を見下ろす。

『行くあてがあるって、せめて思ってくれ』

 伸ばされる手。
 抱きかかえられる体。


 私は、どこに行くのだろう。
 どこに行かなくては、ならなかったのだろう。
 わからない。
 ただひとつだけ、わかったことがある。
 それは、ずっと前からわかっていたことだ。
 でも、忘れそうになっていたことでもあった。



―――私は、まだ、生きている。



「ただいま」
「あ、お帰り、イリヤ。リーゼリット」
「お腹がすいた」
「いきなりかい」
「シロウ、タイガは?」
「あー、病院行ってる」
「タイガが病院!? ……誰かの見舞い?」
「見舞いというか、まあその内わかるよ」
「?」
「シロウ、台所でサクラが呼んでる」
「リ、リーゼリット、幾らなんでもまだお茶碗持つのは早いぞ」
「箸で鳴らすのが礼儀と―――」
「そんな礼儀は無い」
「あれ? タイガが良くやってるからそういうものだと」
「イリヤ、それにリーゼリットも覚えておけ。間違っても真似するなよ」
「うん、わかった」
「でも早く」
「はいはい。じゃ少し待っててくれ。今日は二人に話もあるし」
「え、何?」
「?」
 首を傾げる二人に、士郎は意味ありげに笑って見せた。


「藤ねえ達が、戻ってきたらな」



                           <完>