甘えたい年頃


 暗いと、思いました。
 気がつくといつも暗いままでした。
 何も見えず、何も聞こえず、何も感じない闇。
 でもそこは、かつての自分の世界でもありました。

 眩しい日差しが差し込むように設えられた部屋。
 豪奢な調度品に溢れたそこには、沢山の人がいます。
 大勢の人間がそれぞれに語り合い、時には笑い、時には怒り、時には悲しみの色を
見せながらもそれぞれ飲み食いをしながら場に興じています。
 それは賑やかであるべき場所で私が存在する必要のある処。
 特に興味もなく、関心も薄く、嫌々という感情すらなく淡々とそうすることをそう
する為だけに、華やかで騒がしいその場所へ居るためだけに私は向かいます。
 ですが、私が足を踏み入れた時には全てが止まるのです。
 絢爛な光り物は色を失い、人の笑い顔は消え、無人の野の如く静まり返ります。
 ですからそこは、多彩でありながら私には闇でしかなかったですし、私の周りに居
た人々もそう感じていたかもしれません。
 乾いた色。
 乾いた空気。
 乾いた世界。
 そこは、実に暗いところでした。


 霞掛かった思考の縺れた糸が解れていくと、体感が脳に伝達されていきます。
 ああ、自分は寝ていたのだとぼんやりと理解します。
 暗いのは当然です。
 目を閉じているのですから。
 さあ、今日も幕を開けましょう。
 かつてではない、自分の世界を見るために。
 彩られた世界を見るために。

「……」
 朝起きると、いつも私が一人じゃないことを確認します。
 自分の直ぐ側に、彼がいるということ。
 昔では信じられなかったことですが、今ではこのことが何よりも安らぎや安堵に繋
がっています。
 絶対の信頼感。
 自分と同一な存在。
 体の一部のようにそこにあるのが当たり前ということ。
 そのどれもが当て嵌まって、どれもが違う気がするのですが、上手い言葉が思い当
たりません。また、それを必要としているようにも思えません。

―――私と、シロウが共に在る事というものは。

 自分は寝起きは悪くない方だと思います。
 だからなのか寝惚けるという症状が、どうも良く理解できません。
 自分の知っている人間で考えてみても、あまり思い当たりません。
 かつての自分は他人の寝起きを知るようなところにはいませんでしたし、今の自分
でもそんなに他人とは接していません。
 大河はなかなか起きないのですが、起きればいつものあの調子になるので寝惚ける
というのは違うでしょう。
 結局、身近では凛だけが相当の寝起きの悪さだったように思います。
 彼女がこの家に寝泊りしていた頃は毎朝、低血圧だとかで物凄い顔をして辛そうに
過ごしているのが今でも思い出せます。素の自分を身内にすら極力見せたがらないタ
イプの彼女がああも繕えずに表情を歪めているのを見ると相当に辛いものなのだろう
とは推察できましたが、それだけです。
 シロウは夜更かしの翌朝など起きるのが遅くなることもあるけれども、大体は驚く
ぐらいに朝が早い。そんなところも、自分と似ています。
 コホン。
 そんなところで嬉しがるのはどうかしているのですが、少し嬉しいです。

 私と隣り合わせになって、シロウはまだ眠っています。
 深く寝入っているように見えます。昨晩随分と頑張ったからでしょうか。
 私も彼もかなり興奮しましたし、汗を流しましたし、散々うち震えました。
 互いの付着した体液を拭き取る余裕もなく、達した快感と押し寄せる疲労に促され
るがまま、共に眠りに落ちていました。
 布団にまで臭いが染み付くぐらいに分泌したものが付着してしまっているので、こ
れを綺麗にするのは大変でしょう。以前、シロウがそう言っていましたから。
 その彼は私の体に覆い被さっていた姿勢から崩れるようにして、今はうつ伏せで眠
っています。
 静かに、苦しげな素振りもなく、穏やかな寝顔を覗かせてくれています。
 そんな彼の顔を見るのはとても嬉しい。
 喜んでくれたり、楽しんでいるような顔をしている時以上に、今の私は彼がこんな
安らいだ表情を見せてくれる方がとても嬉しいのです。
 そしてきっと、その顔を私の側でだけ、私の前でだけ、私にだけ見せてくれること
が何よりも一番嬉しいに違いありません。
 以前なら私でなくても―――そう思えた筈の感情が今では違うものになってきてい
るのが自分でもわかりますから。
 凛あたりに知られたらきっと意地の悪い言葉で苛められそうです。
 でも、苛められても嬉しいことには変わりがないと思うのです。

 彼は深く眠っているようで、まだ起きる気配はありません。
 時間もいつもの起床時間よりは早いみたいです。
 私がいつも以上に早く起きてしまっただけのようです。
 まだ体の節々からは昨晩の余韻を引き摺っているようで、全身にどことなくだるい
ようなものが残っています。睡眠による休息が足りないのでしょう。
 それでも、このまま起きてしまえばきっといつもと変わりなく過ごせるという確信
は持てます。寧ろ、未練を残さないためにもこのまま起きるのが正解なのかも知れま
せん。
 それでも体を少し起こしただけで、まだ完全に起きる気にはなれませんでした。
 起き上がった拍子に掛け布団が、体から滑るようにずり落ちるのがわかります。
 幸いだいぶ暖かくなってきたせいで、外気に露出した肌が晒されてもそれほど寒さ
は感じません。
 それとは別に、布団の中の温かさは魅力ではありましたが。
 ですがこのままもう一度眠りたいという気にもなれず、この中途半端な状態のまま
で布団の上に座り込みました。
 それでも、寝ている彼にとっては急に布団を剥がされたようなものですので、寒く
感じるかも知れません。幾ら鍛えているとは言え、この世界で暮らし過ごしてきた彼
と私と同一に考えるのはおかしいでしょう。
 それに、私はこうして仮にも起きているのに、彼はまだ夢の中なのですから。

 さて。
 そんな誰にとっても意味のない掛け声と共に私はずり下がっていた布団を掴むと、
彼の体へと掛け―――ようとしましたが、そこでむあっとした独特の刺激臭が私の行
動を抑制しました。
「……っ」

 どうしたことでしょう。
                         くらくらする。
 慣れている筈なのに。
                         恥ずかしい。
 良い香りというわけでは決してないのに。
                         嫌じゃない。

「……」
 自分はどうかしている―――そう思ってもつい自分の中の欲求に負け、剥き出しに
なっている彼の体に顔を寄せ、発汗したまま乾いたシロウの体臭を嗅いでしまう。
「ん……ぁ……」
 何処となく頼りなさを持ち続けている彼なのに、臭いは男の逞しさを想像させるに
十分な香り。私の知っているどの男性よりも、体臭はキツくない。これは民族による
ものだろうか。人によっては悪臭以外何物でもないその臭いも、彼のものに関しては
気にならない。鼻に付かないわけではないその独特の臭いなのに関わらずだ。
 こう思うのは私が変なのだろうか。
 流石に感情の理由までは誰からも教えてもらったことはないのでわからない。
 逆にシロウはどうなのだろうか。
 私の体臭を嫌だと思っていたりしないのだろうか。
 臭いと内心では思っているのではないだろうか。
 何度体を重ねても、その不安は消えることはない。
 いくら体を洗っても、赤くなるまで肌を擦っても、こうした時はいつも体は汗と体
液に塗れてしまう。
 それが元々から私の臭いであっても、付着した彼の臭いであっても、私の体から発
する臭いとして彼が知覚する臭いである以上、彼が嗅ぐ私の体臭だ。
 私がシロウの臭いを嫌いでないように、彼も私の臭いを嫌っていないことを願うば
かりだった。
 こればかりは、努力でどうなるものでもないのだから。

「ふぅ……」
 軽く溜息をつく。
 空気がよどんでいる。
 換気を良くしたかったが、昨晩の余韻を少しでも残しておきたくて逡巡する。
 また心地よく眠っている彼を起こしたくもなかった。
 だからというわけでもないが、特に筋肉質ではないものの無駄の少ない均整の取れ
た肉付きをしたシロウの背中を指でなぞるように撫でる。
 彼はこの背中で多くの人を背負い、生きようとしていたのかと思うと切なくなる。
 過ぎ去っていった夢。
 捨てざるを得なかった誓い。
 それがどれだけ重いか自分は良く知っている。
 だからこそ、そのことを彼の前で口に出すことは許されない。
 もう少ししたら今よりもずっと広く大きく、この背中は厚くなっていくことだろう。
 自分だけがこの背中に護られ続けるのだということは、嬉しい以上に切なかった。
「し……」
 失礼します―――とは流石に口には出来なかった。
 私は急にその背中にしがみ付きたくなって両方の掌を乗せ、そのまま体を寄せて頭
を乗せていた。
 彼の体はあたたかかった。
 とても、あたたかい。
 夜な夜な求める温もり。
 縋りつく体。
 それはとてもあたたかいものだ。
 私は彼のあたたかさを求めていたのだろう。
 強く抱きしめたくなる衝動を堪えた。
 昨晩もあれだけ、いやもう数え切れないほど抱きしめているというのにまだ足りな
かった。
 この体を抱きしめて、このあたたかさを与えられ続けながらも欲することを止めな
い。
 欲深いにも程があるだろうに。
 どうしてこうも私はとことん身勝手になってしまったのだろう。

 離したくない。
 離れたくない。
 それは今まで思うこともせず、それが許されることも考えていなかったことだった。
 一度目の自分。王としての自分。
 二度目の自分。剣士としての自分。
 共にあってはならぬ思いが、この三度目の自分にだけ許されているというのはなん
と贅沢なことなのだろうと思う。
 これを堕落というのなら、私はもう堕ちている。
 彼という存在に。
 自分自身の欲望に。

 私という存在が、彼の生き方を変えさせたのであれば、その責任は果たさなければ
ならないと思う。
 私という人間が、彼の生き様に干渉できるのであれば、その意義を貫き通さねばな
らないと思う。
 この人は、自分を思いやれない人だから。
 この人は、人の言うことを聞いてくれない人だから。
 だから私はこの背中にしがみつく。
 離さぬよう、離れぬよう。
 私自身の為に、彼の未来の為に。
 勿論、私たち二人の為に。

「う〜」
 自分はどうかしてしまっている。
 こんな筈ではなかった。
 どうしてこうなってしまったのか。
 わかっている。
 全て理解している。
 紆余曲折を経て、気づこうともしなかったことにまで気づかされて、結局は望むべ
くしてこうなったのは承知している。
 それでも、言いたいのだ。

「―――シロウ。貴方の、せいですよ」
 貴方がそうしたのだ。
 第一、貴方が私に夢を見せたのだ。
 考えてもいなかった夢を。
 否応なく、無理矢理に。
 だからこうなったのは私のせいじゃないのです。
 ええ、そうですとも。
 そうに決まってます。
 どうしてくれるんですか、シロウ。
 責任を、

「責任を取ってください」
 声に出していた。
 小さな声。
 本当に小さく、ボソっと囁くような声。
 誰にも聞こえない、聞こえてはいけない声だ。
 それでも、急に顔が熱くなる。
 これは彼の背中の温かさが頬を通して私に伝わってくるから、です。
 だから赤くなってなんかいません。
 赤面なんかしていないのです。
 熱を出しているのはシロウの体からで、私からではありません。
 ええ、そうですとも。

「うぅ……」
 みっともない。
 情けないにも程があると言うものです。
 こんな私をあのご老体が見たら……うぅ、喜びそうで嫌です。
 ではあの私を憎んでいた彼女が知ったら……うぅ、笑われそうでやっぱり嫌です。
 やっぱりこの姿は誰にも知られたくありません。
 この気持ちを知られたくありません。
 シロウ、貴方はどうしてこう私を困らせるのですか。
 酷いです。
 酷過ぎます。

 頬擦りするには引っ掛かりの多い、傷だらけの背中。
 古い大きな傷もあれば、昨日の爪あとも残っているボロボロの背中。
 その背中に、圧し掛かるようにして自分の体を重ねます。
 こうすることでより一層、密着する部分を増やします。
 いいじゃないですか。
 そうしたいのですから。
 くっついていたいのです。
「む……」
 体勢的に、腕を回して抱きしめることはできないので、それは諦めます。
 そして改めて私と、彼の体の上に掛け布団を掛けるのです。
 眠くはありません。
 寝たいわけではありません。
 それでも、その、たまにはいいじゃないですかっ。
 シロウとこうできるのは、私だけなのですからっ。
 ですから―――



「ええと―――こんな時、俺はどうしたらいいんだ?」
「っ!?」



 返答は、咄嗟に振るったこの右拳。



                           <完>