休日日和


 さぁぁと、木立が風に揺れる音がする。


 薄着をしても肌寒さを感じない季節。
 目に付いた公園のベンチはあらかた占拠されていたこともあって、生い茂った草木の上に体を投げ出すようにして寝転がる。魔力か何かの影響なのか、十年放置された場所にしては草の生えは良くないが、寝転がるに不都合なほどではない。
 綺麗に晴れ渡った青空の中、風に流されるがままの雲の動きを眺めていた。
 風が気持ちいいなぁと思いつつ、その言葉は口にしない。
 無闇に独り言を言うのは、その人が淋しがり屋だからだと聞いたことがある。
 それを気にしたわけではないが、今はただ感じるだけで満足だった。
 自分の思いをわざわざ口に出して伝えたい相手はいない。
 遠く優しい日差しから暖かさを満喫しつつ、直射日光が目に入らないようにと目を細めた。もう少ししたら太陽の位置がここに来る。その時には場所を変えるか、眠ってしまうか、どちらかを選ばなくてなるまい。
「ふぅ……」
 今の心地よさが続くのであればどちらでも構わない。
 天気予報は今日一日は快晴と伝えていたし、そんなものに頼らなくてもここ数日は曇り空を心配する必要のない日々が続くことは容易に予想がつく。
 今はただ、与えられた無為を味わうだけで十分だった。

 事件や災厄が続いた晩冬の日々が過ぎ、その影響で少し遅めの春休みになった。
 テスト勉強もろくすっぽ出来なかったお陰で期末の結果はみんな散々だったが、それを悔やむ生徒はそういなかった。学校側も重視していなかったように思う。ただただやらなくてはいけないことをやることで、区切りをつけただけのことだった。変則的な日程が組まれた影響で卒業式と終業式が纏めて行われ、このまま学期が変わることで、季節が変わるように全てが変わることを誰もが望んでいた。
 新学期からは何事もなかったように、今まで通りの日常を。
 幾分の生徒の不足は卒業生と新入生の入れ替わりの中で有耶無耶になっていく。
 初めは引き摺る者が多くても、時間の経過と共にそれは数を減らし、ほとんど立ち消えに近くなる。誰もが一つの出来事に捕らわれ続けるほど、人生は短いものでも狭いものでもない。そしてそれは自分自身の未来が最優先されるのだ。
 このまま何事も起きなければ、人生の一時期の出来事以上のものではなくなる。
 そしてきっと、もう何事も起きない。
 この町に住む彼らの中では。

 俺自身というか身近な出来事といえば何故だか知らないが突然、家の土蔵が崩壊してしまった。
 土蔵だけあってそれなりに頑丈な作りだっただけに理由も分からず、驚いたものだが壊れてしまった物は仕方がない。まさかランサーに追い掛け回された時の影響が今更でたわけでもあるまい。幸い誰も居ない間の出来事だったらしいので、瓦礫を取り除き、土蔵の中に納められていた物の中から使えるものや切嗣 ( オヤジ ) の形見として取っておきたいものなどをより分けて他はみんな処分してしまった。嵩張るものは藤ねえの爺さんの家で預かってくれると言ってくれたのだが、幸い面倒をかけてまで残しておきたいものはなかったのであっさりとしたものだった。親父の形見も殆ど藤ねえに渡してしまっていたので、本当に小物程度しか残していない。それらも部屋のどこかに転がしてしまっていたので、別段大事なものではない。
 壊れたものを修復する場所として、魔術の修練場所としてずっと使い続けていたものだっただけに失ったことは寂しかったが、もしかしたら何かのきっかけなのかも知れないとあっさりと気持ちを切り替えることにした。物の修復も、魔術の修練もあそこでなければできないというものではない。修復の方は学校の備品は学校でやってしまえばいいし、もし何ならプレハブ倉庫でも置いて、そこに直すものを持ち込んでもいい。魔術の修練はあそこでなければ集中できないということはもうない。むしろ今は違う段階に進まなくてはいけないと思っていた。冬木教会の神父が何故か親身になって俺に構ってくることもあったし、他にもアテがあることからそっち方面の心配はしなくても大丈夫そうだった。
 だからというわけでもないが、庭に菜園を作ってみた。
 場所と、日差しの両方を遮る土蔵がなくなったことでちょっとやってみたくなって始めてみたのだが、存外面白いものだった。まだまだ始めたばかりで菜園としての成果が出るのはずっと先のことだが、自分では続けていけそうだと思う。これは俺の趣味となっていくのだろうか。
 前はあの家にずっと住み続けながらもどこか自分の居場所ではないような気分に陥ることが何度もあった。どうしてもあそこは切嗣 ( オヤジ ) との居場所であるという認識が抜けなかった。だからこそ家の中も外も弄ることはなかった。勿論、家が借家であるという前提もあったが、意識としては切嗣 ( オヤジ ) がいた時からそのまま変わることなく、過去の幻想の中に閉じ込め続けていた。そしてきっといつかは俺はここを出るときが来るのではないかと思い続けていた。それは確信というよりも誓いに近い。俺一人で歩みだす時、他の全てと一緒に捨て去る場所だと思っていたのかもしれない。それほど自覚はなかったが。
 だとすれば土蔵が消え、菜園ができたことは何か俺の中の変化が出来たということに繋がるのかもしれない。
 藤ねえが言うには俺さえ望むのなら、格安で譲ってくれるとのことだった。何なら持参金代わりになんていうお言葉も戴いたが、冗談だと思っておく。どちらにしろその頃は考えてもいなかったが、これからは少し考えてもいいかも知れない。それもまた多くの選択肢の一つだろう。
 そう俺には多くの選択肢がある。

 薄目を挙げると光る青空が飛び込んでくる。
 そこはどこまでも広がる大空。
 世界は無数で、俺もまた無数なのだと教えられた。
 無論、一度は自分が決めた道がある。
 けれどもう一度まっさらな気持ちになってその道を選びたいと思うようになった。
 誰に対してのことでもなく、何の出来事に対してでもなく、ただ自分はこうしたいと思うだけの理由が出来た時、何の言い訳も必要のない立場になって選び取りたい。
 気負わず背負わず追い込まず、ただそうしたいからそうするのだと笑いながら誰にでも言えるように。

「―――よっ」

 急に日差しが閉ざされる。
 俺の顔の前に誰かが立った。
 誰かなんて勿体つけた言い方をすることもないのだが、今はそうしたい気分だ。
「隣、いいか?」
「ああ」
 短く答えたが、その前に相手は隣に腰を下ろしていた。一応聞いただけだろう。
「衛宮は昼飯、もう食ったか?」
「―――いいや、まだだ」
 少し遅めの朝食だったこともあって、あまり昼のことは考えていなかった。
 もう少ししたら何かおやつ代わりに軽めのものでも腹に入れて、夕飯を多めにとればそれで十分と目論んでいる。
「ふーん」
 そう言いながらガサガサとビニール袋を漁る耳障りな音を立てる。
 近くにコンビニがあるからその袋だろうか、どちらにしても横になったこの姿勢のままだと隣の彼女が何をしているのかは見えなかった。それでも姿勢を正す気にはなれない。どうやら今日はこのまま横になり続けたい気分のようだった。
「こんなところで、何してるんだ?」
 寝てる―――そう答えようとしたが、流石に子供じみていると思ったので、
「散歩、かな」
 そんな曖昧な答えに留めておいた。嘘ではない。ただ何となくもう一度、十年前の俺の原点に戻ってみたくなっただけだった。既に用は果たしている。
 この公園―――野原となったこの地にかつての面影はない。
 もうここにきても自分の中で押し寄せるものはないだろう。捨てたわけでもなく、忘れたわけでもない。向き合え、消化できるようになっていた。それは大したことではない。今回の出来事を皆が自分の中で消化するのと同じように、流していくだけのことだ。それは妥協ではないと信じてる。
 あと断片的ではあるものの、衛宮士郎ではなかった頃の自分の記憶も幾つか思い出すようになっていた。きっと自分は自分を許し始めたに違いない。それで自分は自分を認めるようになったのだろう。奪ったものや預けたものが幾つか戻ってきた。それは大したものではないけれど、きっとこれから進んでいく自分にとっては必要になっていくに違いない。何となく、そんなことを思っている。
「あたしは―――そうだな。何か懐かしくなってな」
 そんなに昔のことではないのに、遥か昔のことを語るような声。
 きっと彼女の顔を覗きこめば、遠いものを見つめているような瞳を見ることができるのだろう。けれど、俺は顔をあげない。横になったままだ。
「そうか」
 だから、それだけを答えるに留まった。
 俺は目を瞑ることもせず、動くこともせずに空を眺め続けていた。
 まだ太陽が動くほどの時間は経っていない。
 隣は膝を立てて座ったまま昼食タイムとなっているようだ。おにぎりかサンドイッチにお茶というところだろう。相手が食べ終わるのを待つでもなく、ただぼーっとそこに居続けた。
「新学期ももうすぐか……」
「ああ、そうだな」
 俺に語りかけたのか、独り言なのかはわからなかったが、一応相槌を打った。
 言葉はやっぱり人に向けるものだ。受け取るものがいない言葉は、少し寂しい。
「ちょっとしたらもう最上級生……いやー、早いねぇ」
「……そうでもないだろ」
 一年一年が長かった。同じ日は一日だってなかった。そしてそれはこれからもそうだろう。二度と得られない瞬間を消費しながら生きていく。忘れたいような出来事も、記憶にも残らない出来事も、大事な一日と同じ価値と意味を持って流れていく。生き続けるというのはそれを体感するということだろう。
「結局……賭けはドローかぁ……まあ、あたしららしいわな」
「ふーん」
 その言葉の意味は分からなかったが、再び相槌を打っていた。割といい加減だ。
「―――そう言えば桜からはあれから連絡とかはあったのか?」
 そんな俺の態度にも気にした素振りもなく、彼女は尋ねてきた。
「え、ああ……こないだエアメールが届いた。ロンドンだってさ」
「はぁ……へぇ……」
 ロンドンへ留学ねえ、こりゃまた意外中の意外だわ―――かなり驚いたらしく、口の中で転がすように何度も繰り返すように彼女が呟くのをただ聞いていた。
 俺も桜の突然の引越し先が海外だったと知ったのはその手紙の中でだ。事情は全く知らないが、今は語学も含めて猛勉強中だと彼女にしては雄弁気味に語っていた。何にせよ元気らしいのでホッとした。そして彼女が自分で決めたことらしいその行動を応援する気持ちになっていた。またいつか会える時が必ず来るだろう。聞けることや聞きたいことはその時に、知れる限り知ればいい。向こうも話したいことがあるだろう。そしてその時は彼女が望んだお客さん扱いじゃなくて、家族として自然のままに迎え入れたいと思っている。これは俺の我侭だが、桜はどう感じ取ってくれるだろうか。預かっているものもその時に返そう。あれはやっぱり彼女のものだから。
「衛宮は……今日これから何か予定でもあるのか?」
「―――」
 それに対して俺は短く、けれどきっぱりと言い切った。
「そっか……」
 俺の言葉をどう聞いたのかはわからない。ここからは表情が伺えない。
 けれども、何となくどんな顔をして聞いているのか予想がつく。
「じゃ……」
 再び、目を閉じた。
 いつの間にか風向きが少し変わったらしく、丁度風が前髪を凪ぐ。
 意識が落ちるまでの僅かな時間、俺はただじっと耳をすませて風の音を聞く。
「――――」
 隣で呟いたその言葉も、風にかき消される。少し風が強くなってきたようだ。
 もう一度だけ薄目を開けて、すぐに閉じた。
 視界に入れたものを瞼の奥に残すように、思いながら。
 柔らかく、暖かい休日。



 雲は流れ、時は休むことなく刻まれていく。






...fin.