『7月28日』


2000/08/03



 その日、緒方英二は理不尽だった。
 予定になかった歌のレッスンを強硬に午後、深夜いっぱいまで取ると言いだした。
 抗議をする弥生に対し、当の由綺は勿論、付き合わされる理奈までもが、英二のい
きなりの発言を受け入れるという、いつにない成り行きに弥生はかなり面食らった。
 弥生は珍しく、自分が大人げないみたいで嫌になった。

 七瀬彰は平凡だった。
 カウンター席に座ってこちらをじっと見つめる女子高生に、ドキマギしていた。
 そのうちの一人は、明らかに自分を見つめていた。
 そんな高揚感があったので、一時的に自分の買った荷物を預かって欲しいという常
連客の頼みにOKしてしまっていた。
 後で後悔してマスターに合わせる顔がなかったが、何故か冬弥からも感謝された。
 嬉しかったので女子高生のことを話したら「運が良かったな」と意味不明のことを
冬弥から言われて首を傾げた。

 澤倉美咲は、困惑していた。
 いつもはノートのコピーや、冬弥の動静、重要なスケジュールなどそんな事を頼む
由綺が今日に限って、ただケーキを焼いてくれと電話で頼んできたのだ。
 人の良い美咲は理由も聞かず、了承してくれた。
 そのせいで、美咲は午後の授業を休んだ。

 緒方理奈は、行動的だった。
 短い休憩時間を、普段からどうもぱっとしないマネージャーを振り切るようにして、
外に出ては戻るという行動を繰り返していた。
 それでも次の仕事に遅れる前に、きちんと戻っているという離れ業に由綺は大層感
心していた。
 後で聞いた話では、彼女が買った物は全て近所のエコーズに一時的に置いて貰った
のだそうだ。
 人使いの荒さと、やりくりの上手さは兄譲りだと弥生は感心した。

 観月マナは単純だった。
 エコーズのマスターが気になるという同級生に引きずられるようにして、放課後に
エコーズへと入った。
 洒落た二枚目か、ダンディな中年を予想していただけに、冴えない風貌の無口な中
年男に、失望感を声に出してその同級生に告げたが、聞こえていないようだった。
 面白くない気分のまま、店内を見渡していると、緒方理奈に似た女性が自分を子供
扱いした男に何やら頼み事をしているように話しているのを目撃した。
 益々不愉快になったマナは、店を出た時に出会った冬弥の臑を蹴飛ばした。

 河島はるかは、つまらなかった。
 珍しく授業を受けても、勝手に途中で抜けても、食堂に居座っても、公園まで自転
車で遊びに行っても、どうも気が乗らなかった。
 こんな時、死んだ兄だったどうするのかと急に思ってみた。
 そう途中で出会った冬弥に言ったら「ズル休みしないだろう、兄さんは」と笑われ
た。
 笑われながら、今日ようやくにして普段の娯楽の存在が現れたことにはるかは満足
していた。
 そう言われることを察したのか「俺、今日は忙しいから」とそのまま冬弥は逃げて
しまった。
 そんな冬弥の出席日数が気になったので、はるかは大学に戻った。

 森川由綺は演技が下手だった。
 弥生が何を話しても動揺し、何を言っても上の空のくせに、何を聞いても「なんで
もない」の一点張りだった。
 弥生は冬弥との関係が上手くいっていないことが原因かとも思ったが、途中で現れ
た冬弥の方へ逃げ込むように飛び込んでいったことでそうでないことを理解した。
 そして余所余所しいのが自分に対してだと理解すると、弥生はかなり落ち込んでし
まった。
 そんな風には見せないように取り繕っていたが。

 藤井冬弥は忙しかった。
 由綺に頼まれていた買い物をし、理奈に頼まれた物をエコーズから引き取り、英二
から頼まれたこともこなさねばならなかった。
 そのくせ、彰からはのろけられ、はるかにはからかわれ、マナには臑を蹴飛ばされ
てADの仕事の方がマシだと心底感じていた。
 由綺から更に美咲が焼いたケーキを引き取って来て欲しいと頼まれた時は流石に嫌
な顔をしたかったが、抱きつかれたことでふにゃけた顔にしかならなかった。
 少なくても弥生にはそんな顔をしているように見えた。

 篠塚弥生は無頓着だった。
 余所余所しい由綺とやたら出没する冬弥に振り回された弥生はそのまま休んでしま
いたかったが、約束通り英二のスタジオへ由綺を連れていった。

 先に英二と理奈が来ているはずなのに、スタジオは真っ暗だった。
 誰かの掛け声と共に、室内の灯りがつき、誕生日の歌が誰ともなく歌われ出した。

 成り行きに首を傾げる弥生に、由綺から花束が手渡された。
 英二が可笑しそうに冬弥と笑いあっていた。
 理奈が蝋燭を立てた美咲手作りのケーキを運んで来てくれた。

「あなたの笑顔が私にとって最高のプレゼントです」

 弥生はそう言って由綺を抱きしめたい欲情にかられたが、持ち前の自制心で何とか
踏み留まった。


 弥生は珍しく嬉しい気分になって、自分のマンションに戻った。

 弥生は理奈から貰ったリラックス効果があるというアロマテラピー用の檜のエキス
を一滴垂らし、由綺から貰った特大のくまの縫いぐるみを抱きしめるようにして眠っ
てみた。
 かなり幸せな気分になれた。

 英二から貰った由綺のデビュー時に作られたプロモーションビデオは取り敢えず神
棚に飾った。
 かなり嬉しい気分になれた。

 冬弥から貰ったPiaキャロットアイドルタイプの制服は、明日着ていこうと心に
決めた。
 かなり愉快な気分になれた。

 そして弥生が一番嬉しかったことは、ケーキに立てられた蝋燭が23本だった事だ
った。

 そんな彼女の7/28は人生でも最良の誕生日として過ごせた。



                           <おしまい>


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